魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
「言葉にできない」
観客は舞台下でけなし、客は料理屋で威張るが、役者と料理人は何も口答えできず、自分の本領が無いのをあやしむ。しかし観客が唄い、客が料理をつくるとなると、これはむつかしい。
だから、被評家は一番平穏なのは、創作を兼ねぬのが良いと思う。城を屠ふるような文筆で、文壇のすべての野草を一掃するのは勿論気持ちが良い。だが、一掃後、天下に詩が無くなったと思い、創作するとこんなのを免れぬ。
宇宙の広大さは言葉にできない:
父母の恩は言葉にできない:
恋人の愛は言葉にできない。
ああああ、私は言葉にできない!
こういう詩は、もちろん良いが、――もしこれが被評家の創作と言う事で言えばだが。老子の「道徳」五千言、初めは「道の道というべきは常の道に非ず」で確かにこれも「言葉にできぬ」この3文字(説不出)も五千言に替り得る。
ああ、「王者の跡、熄(き)え、而して<詩>滅び:<詩>滅び、しかる後、「春秋」が作らる。「予あによく弁ずや?予止むを得ぬなり!」
訳者雑感:出版社注では1924年の作で、当時多くの作家が「詩集」を出したがいずれも「不佳」であった由。魯迅も母に手紙を書こうとして、なかなか言葉が出てこなかったことなどを述べている。
人が演じる芝居や造った料理には文句を付けることは容易だが、自分で演じたり料理を作るとなるとこれは難しい。
芭蕉ですら、沢山の素晴らしい句を作って来たが、松島を目にしたが、「口を閉じて眠らんとしていねられず」と句作を断念している。
2015/02/24記
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