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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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新時代の金の貸し方

もう一つ新しい「世故」の話。
以前私は金貸しは金持ちと思っていた。近頃はそうでもないと悟った。「新時代」には精神的な資本家がいることを知った。
 もし君が中国は沙漠のようだと言ったら、この資本家はやって来て、私は泉だという。世間は冷たいと言うと私は発熱体という。暗いと言えば太陽という。
 ああ!この世の立派な看板はみな持って行かれてしまった。
それだけではない。彼は君を潤し、暖め、照らしてくれるという。
彼は泉であり発熱体で、また太陽であるから。
 これは恩典である。それだけじゃない。君が小さな財産を持っていたら、それは彼が君に与えてくれたものだ。なぜか?もし彼が共産を提唱したら、君の財産は公に供せねばならぬが、提唱しないから、君の今の財産があるのであって、それは当然のことながら彼が君に与えて呉れたことになる。
 君に恋人がいるならそれも彼が与えて呉れたものだ。なぜなら彼は天才で革命家だから、多くの女性が渇仰して身を投じる程で、彼がひと声「おいで」と言えば、みなとんでゆく。君の恋人もその中にいる。だが彼は「おいで」と言わないから、君の今の恋人がいるわけだ。それで当然のことながら彼が君に与えて呉れたのだ。これも一恩典だ。
 それだけじゃない!彼が君の所へ来る時は毎回一担の「思いやり」を持って来る!百回だと百担。もしそれを知らないなら、それは君が心の目をもっていないからだ。一年経ったら利子に利子がつき二三百担…。
 ああ!これもまた大変な恩典だ。
 そこで計算してみると大変なものだ。こんな大きな資本を貸してやって、一人の魂も買えぬというのか?革命家は遠慮深いから、君に対して何もお礼は要らぬから自由に使ってくれという。――実際は使う所まではゆかず、「手伝う」だけに過ぎぬが。
 もし君が命令通り「手伝」わねば、その罪は大変重い。忘恩負義の罪として天下に布告される。それだけには留まらず、更にもっと沢山の罪をエンマ帳に載せ、一旦革命が成功したら君はもう「身は敗れ名は裂け」てしまう。
そうなりたくなければ、一筋の道しかない。急いで「手伝って」贖罪するのだ。
 私は不幸にも「新時代の新青年」の身辺にこうしたエンマ帳が沢山隠されているのを見てしまった。そして彼らも「身は敗れ名は裂け」ることにたいへんな脅威を抱いていることも知った。
 それでまた新たな「世故」を得た:門を閉ざし、酒瓶の栓をしっかりしめ、
札入れをしっかり握って離さない。こうすれば私は潤いと光と熱をしっかり保持できる。私は物質的なものしかみない。 
      九。十四。

訳者雑感:
 この段は比喩に富んで、理解するのが難しい。最後の物質的なものしかみない、というのが鍵だ。
 一旦は魯迅に師事してきた青年たちが、矛先を変えて攻撃に転じた。青年たちのエンマ帳には魯迅を攻撃する罪状がいっぱい書かれている。
 物質的な金貸しは、金さえ返せばそれで精算できる。魯迅は父の病のために
質屋に通って、金を工面した。多分質草は取り出すことは無かったろうが。
しかし、この段で触れている精神的な金貸しは、泉や熱や太陽という看板を掲げて、それに「思いやり」までくっつけて、彼らの仕事を手伝えと命じる。
手伝わなければ、忘恩負義の罪状を天下に布告する。それが「新しい青年」たちの「金貸し」の手法であった。そんな「青年」たちへの「決別状」とみる。
    2011/03/10訳


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想定外

 有恒氏の「北進週報」での、なぜ私が近頃発言しないのかとの質問に対しては、すでにお答えしたが、もう一つのことにはお答えしていない。
答えないということ、これも新しい「世故」だろうか。
 私の雑感は「罵り」にあふれている。だが今年発見したのは、私の罵りは、罵られた人にとっては、どうやらとても有利になるということだ。
 罵られたと宣伝すると、よりはっきりと分かりやすい事は言うまでも無い。それに
1.世の中には私を憎いと思っている人が多いので、罵られた人は、私を憎んでいる人と連合し、私の雑感を見せれば、彼らの義兄弟の契りとなり、「相見て笑い、心に逆らうことなし」となる。「おお!我々は仲間だ」と。
2.ある人がある事業をやって、うまくゆかぬとする。それに私が何か言えば、私に罪をかぶせられる。例えば、学校を作ったが、教師が集まらぬ時;魯迅が悪口を言ったせいだ:学生が騒ぎを起したら、魯迅が悪口を言ったせいだ。
と云う具合である。彼は清廉潔白で責任は無い。
 私はキリスト教を学んだこともないから、誰がすき好んで彼に替わって十字架を背負うことなどしてやるものか。
 しかし「江山は改めやすいが、人の本性は改め難い」というから多分そのうち、何か発言するだろう。しかし「新法」を定めた。かつて名を出した「主将」たち以外の新しい人に対しては、本名は伏せ「ある人」「某学者」「某教授」「某君」とする。こうすれば彼は私を(逆)宣伝に使う時、何か説明をしなければ使えないだろう。
一般的には「罵る」というのは良いことではないと思う人が多いが、ある人にとっては有利に働く。人間は究極的には非常に恐ろしい生き物である。
例えば人を咬み殺す毒蛇でも、商人はそれを酒に漬けて「三蛇酒」「五蛇酒」という名を付けて金儲けをする。(魯迅を毒蛇として利用する意)
 実際彼らのやり方は、(文章で)「交戦」するよりずっと厳しいものだから、雑感を書こうという気を喪失させる。
 しかし、気を取り直して、書く気になれないという雑感を書いてみるか。

訳者雑感:
 論敵は魯迅に罵られたことを逆手にとって、彼ら同士で手を握り、魯迅を
毒蛇に仕立て上げ、さらには思いもよらぬことだが、それを彼らの雑誌や本の中で宣伝して酒に漬けた文章にして売って儲ける。
 それで魯迅は本名を出して罵ることをやめた。相手が利用できないように。
河川や山は土木工事で姿を変えるのは容易いが、人の本性は改め難い。彼は
死ぬまで本性を改めることはなかった。
想定外だった敵のやり方も「世故に長けて」敵の本名を伏せて魯迅の名を使えないようにした。
  2011/03/09訳

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憎たらしいという罪

 これも新しい「世故」だろうか。
 法律上、多くの罪名はもっともらしい名が付いているが、一言で言えば:
憎たらしいという罪であり、ある人物をそう思ったら、少し懲らしめてやろうとする所から法ができた。もし広州で「清党」(蒋介石の共産党及び国民党左派鎮圧運動を指す)前なら、蔭で彼は無政府主義者だと言いふらせば良い。すると共産青年は彼を「反革命」とし有罪となる。「清党」後なら彼はCPとかCY
(いずれも共産主義者)とすれば良い。確証がなければ「親共派」という。すると、清党委員会は彼を「反革命」で有罪にする。やむを得ない時は他の事由にかこつけて法に訴える。だがそれはやはり少し面倒だ。
 以前人は有罪だから銃殺され、投獄させられると私は思っていた。今やっと分かった。多くの場合、まず人から憎たらしい奴だと思われ、ついには罪を犯したことにされるのである。
 多くの罪人は本来「憎たらしい奴」と改称されるべきだ。
     9.14.

訳者雑感:
1920年代の混乱した社会情勢で、自分が気に入らない、憎たらしいと思った相手を投獄したり銃殺するには、「反革命」というレッテルを貼りさえすれば事足りた。この方法は文化大革命の時も踏襲された。最初は一握りの
資本主義の道を歩む「走資派」を投獄の対象にしてやり玉にあげていたが、その後、内部分裂で2派に分かれ、武器を使って相手の組織に殴り込みをかけて、
「械闘」という名の殺し合いを始めた。数千万人の犠牲者が出た。
 自分に都合の悪い、自分に反対する相手、憎たらしいと思ったらすぐ反革命とか何かの罪状をつけて投獄するのが、当時と文革時の共通のやりかただった。
今はどうなっているのであろうか?
  2011/03/09訳

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「公理」の在りか

 広州の某“学者”が“魯迅の文章はもう終わりだ、「語絲」も読む必要無い”と言った。その通りだ。私の文章はすでに終わっており、去年書いたものは今年もそのまま使えるし、多分来年も使えるだろう。だが私はそれが10年20年後もそのまま使われることがないよう心から望む。もしそうなら、中国もおしまいだ。私にとって、それは自慢できることかもしれないが。
 公理と正義はみな“正人君子”に持って行かれたので、私の手元には何も無い。これは去年書いたことだが、今年もそのままである。だが手元に何も無いとはいえ、それをなんとか探し出そうと一生懸命やっている。ちょうど無一文のひとりもんが、いつも銭のことばかり考えているのと同じだ。
 私の話は終わってはいない。今年、公理の在りかを発見したのだ。発見とは言えないとしても、それが実際はどこに在るかを証明した、と言える。北京の中央公園に白い石碑があり大きな字で“公理戦勝”と彫ってある。――Yes. 
それだ。(第一次大戦で中国も公理を持つ側として参戦して勝ったの意)
 この四字の意味するところは“公理を持つ者が勝った”即“勝ったのは公理”だというわけ。
 段(祺瑞)執政は衛兵を持ち、“孤桐先生”は教育相として、請願に来た学生に発砲して勝った。それで(支持者の)東吉祥胡同に住む“正人君子”たちの“公理”がふつふつと興隆してきた。ところが段執政が隠退し“孤桐先生”も下野した。嗚呼、それで公理もそこから霊落した。どこに行ったのか?
(国民党)の銃砲が(古典的武芸の)投壺をしていた(旧政権)に勝った。
阿! (公理が)あった。南方にあったのだ。彼らはぞくぞく南下した。
 正人君子たちも久しぶりに“公理”に会えた。
私は「現代評論」の一千元補助金にこれまで口出ししてこなかったが、“主将”が私を引きずり込んで乱罵した――多分私を“首領”とみなしてだろう。何を言っても罵られ、言わなくても罵られる。それで返盃して自称“現代派”の君たちに問いたい。
今年突然計画を変更し、別の運動を起して、新しい勝利者から補助金を受け取ったのではありませんか?と。 
そしてもう一つ、“公理”の値段は一斤何元?と。
(1927年10月22日の「語絲」に掲載)

訳者雑感:
26年夏からアモイ広州にいた間、魯迅はそれまでのような切り口の文章を書かなかった。それで読者からはなぜ書かないかと問われるし、論敵からは魯迅の文章はもう終わった、と罵られた。魯迅のこの時期に書いた文章が、1年経っても2年経っても、そのまま通用してしまうほど、社会は何も変わっていない。よけい混乱するばかり。魯迅は自分の書いたものが、20年30年経ってもそのまま使えるようでは中国もおしまいだと慨嘆している。
「公理」はその時の執政府に存しており、学者風を吹かす正人君子たちは、
その公理を持っている政権にすり寄って、ポストと権力を得ようとする。
それは21世紀の今日も変わっていない。
それから100年経ってもなお使える文章を、使わせないようにしている点も似ている。
 「勝てば官軍」中国の学者文人は政治と関わって生きてこそ、その実用性が認められたと考える「俗物臭」の強いのと、そこに嫌気がさして隠居するものと大きく二分される。朱前首相は学者であり大学の行政にも携わっていたが、
首相になり、10年全力を尽くして経済改革に貢献したが、任期終了と同時に
政治の世界からあっさりと身を引いた。上記の二分の中に入らない例外である。
2011/03/05訳

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「語絲」拘留

以下は「語絲」147号の「随感録」28を見て感じたこと。
この半年、購読している刊行物は「北新」以外、完全に届いた物は無い:「莾原」
「新生」「沈鐘」、日本の「斯文」は、内容は全て漢学で末尾の「西遊記伝奇」
があり、演義と比較しようと思っていたのだが、2冊目は欠け、4冊目以降は
杳として行方不明。「語絲」は6期分が未着で、後に書店で補充したが126号と143号は買えなかったので、内容については何も知らない。
 入手不能の刊行物は、遺失せしや?没収されしや?両方だろう。没収は北京、天津か上海、広州か?各地で発生したと思う。何故か?理由は知る由もない。
 確かなのは以下の点。「莾原」も一期拘留されたが、それには訳があって、ロシアの作品の翻訳が載っていたため。当時はロシアの露の字だけで十分魂消、動揺し、とうぜん時代や内容にまで顧慮が及ぶ暇はなかった。但し、韋叢蕪の「君山」(長詩集)も拘留された。この詩書は“赤”とも“白”とも言えぬ、まさに作者の年齢と同じ“青”なのだが、郵便局に拘留された。
黎錦明さんからの手紙に、「烈火集」送付と書いてあり、書店に頼んだが、
彼らが忘れるのではと心配で、別に一冊郵送してくれた由。半年経ったがどちらも届かぬ。十中八九没収か。火の色は“赤”だし、況や“烈”をや。通る筈がない。
「語絲」132号が届いたのは発行後6週後で、封筒に緑の大きな字で「拘留」の二字。検査機関の印と封印紙が貼ってあった。開封すると「猓猓人の創世紀」
「無題」「寂莫礼記」「撤園荽」「蘇曼珠とその友人」などすべて禁を犯しそうなものではない。「来函照登」(投稿者欄)を見たが、“情死”“情殺”等があるが、たいしたことはない。今どきそんなことはお構いなしだ。ただ「閑話拾遺」は、この号には特に少なく、二件しかない。一つは日本のことで、多分禁を犯しているようなものはない。もう一つは“清党”の残虐さを訴える手紙が来たが、
「語絲」としてもこれを載せたくなかった由で、そのせいか?だが載せなかったということを書いて、どうしてそれでダメになったのか?さっぱり分からない。それに拘留しておいてから、今になってなぜ放免したのか、何が何だか訳が分からない。
 その訳の分からぬ根源は検査員にあると思う。
中国では、一旦、事があるとまず郵便電報を検査する。この検査に当たる長は
(師団の)団長や(軍区の)区長であるケースが多く、彼らとは漢文詩歌の話は余りできない。だが、たとえ読書人だといっても、その実態は、特に所謂
革命の土地では、何を言ってもラチがあかない。直截で痛快な革命訓練に慣れ、
全てに革命精神を持ち出し、油が水面を蓋ったように、水面下の栄養を取ろうとしない。だからまず刊行物の封筒に労働者の姿を描き、手にスコップかハンマーを握らせ、“革命!革命!”“打倒!打倒!”と印刷しておけば、たいていは合格となる。今は青年軍人が馬上に旗を掲げる絵に、“厳格に取締まれ”と
描いておけば、大抵放免される。“風刺”“ユーモア”“反語”“閑話”などになると、理解が難しくて困ったことになる。理解できないから、訳が分からなくなり、その結果、さんざんな目に遭う。
 更に悪いことには、一日中検査で頭はボーっとなり、目も疲れて嫌気がさし、怒りっぽくなり、大抵の刊行物は悪い――特に理解できないようなものは厳重に取締まるべし、となる。それに関連するが、ページの縁を切らないのは、私もそれを始めた者だが、当時、別に悪意があった訳ではない。後に方伝宗さんの通信(「語絲」129号参照)で、縁を切らない装丁の提唱者を憎むべしとあり、少し立腹したが、方さんは図書館員だそうで、つまらぬ縁切りをするのは、怒りたくもなろうし、切らない党を罵るのも、むべなるかなと思ったことである。
 検査員も同じで、長くやると怒りっぽくなり、初めは細かく注意して見たが、のちには「烈火集」も怖くなり(著者の)君山も疑わしくなり、一番穏当な道:
拘留を択ぶことになる。
 2か月前の新聞に、某郵便局は拘留刊行物が多すぎて、置き場に困り、一律焼却した由。それを見て心が傷んだ。私の分が何冊かその中にありそうだ。嗚呼、
可哀そうに!吾が「烈火集」よ!吾が「西遊記伝奇」よ!吾が…!
 ついでにページを切らない件の愚痴をいうと、北京で出版に関係していた頃、
自分としては暗黙の中で、三つの緊要ともいえない小改革をしようとした。
1.首頁の書名と著者名は非対称とする:2.各篇の第一行の前に数行の余白:
3.即ち頁の縁を切らない。
これまでの結果は、1は既に香炉燭台型に戻った。2はどんなに頼んでも印刷時に職人が一行目の字を端に移してしまい、「馬耳東風」:3は最も早い反撃に遭い、ほどなく私も条件付き降伏。李社長と約束し:他は構わぬが私の著書は、切らないでくれと頼んだ。だがそれが今では、社長から送られてくる5部或いは10部は切ってないが、書店にはそんなのは一冊も置いてない。縁を切り取った「彷徨」の類が並ぶ。要するに彼らの勝ち。だからいうのじゃないが、私が社会改革とか、それに関連したことをやろうしていると思うのは、まったくの冤罪に過ぎない。さっきから頭はボーっとしてきたので板のベッドに横になり、“彩鳳牌”の紙巻き煙草を吸った。
 本題に戻ると、刊行物が暫時釘にぶつかるのは、検査員に遭遇するからだけでなく、多分本を読む青年たちも同じだと思う。先に述べた如く、革命地域の文字は直截痛快に「革命!革命!」ということで、これこそ「革命文学」だと考えている。 かつてある刊行物で見たのだが、あとがきで、作者が本編は革命のことに触れていないので、読者にすまない、申し訳ないと書いていた。しかし「清党」以後、この「直截痛快」の他に神経過敏が加わった。「命」は当然革しなければならないが、余りに甚だしい革命は宜しくない。度を越した「革」は過激に近いし、過激は共産党に近く「反革命」に変じるのだ。だから現在の「革命文学」はこの種の反革命の固執と、共産党のこの種の反革命の中間にある。
 それで問題が起こり、「革命文学」はこの両方の危険物の間にあり、如何にその純正――正宗を保つかだ。この勢いは赤化の思想と文章及び将来、赤化に走る懸念のある思想と文章を防がねばならぬことになる。例えば、礼教(儒教)
と白話(口語文)への攻撃は即赤化の心配がある。共産派は一切の古い物を無視し、口語文は「新青年」から始まり「新青年」は即ち(陳)独秀が始めたものだから。
今北京教育部の口語文禁止の通達を見て、「語絲」はきっと何らかの感慨を出すと予想するが、実は私は何も動じなかった。思想的文章すら至る所で窒息している状況下、白話だの黒話だのもはや関係ない。
 ならば、風月を談じ、女のことなどどうであろう。それもダメ。それは「不革命」である。「不革命」は罪は無いが正しくない。
 現在南では「革命文学」という一本の丸太橋しかないから、外から来る多くの刊行物は渡ることができず、ドボンドボンとみな川に落ちる。ただこの
直截痛快で神経過敏の状態の大半は実は指揮者の刀に従って変転するので、今
切先の鋭い指揮刀の方向が定まっていない。方向が定まれば良くなるだろう。
しかしそれもいくらかは、という程度だ。中の骨子が多分窒息から出られぬのは、先天性遺伝のためだ。
 少し前たまたま新聞で郁達夫氏を罵倒している記事を見た。彼の「洪水」の文章は良心のかけらもなく、漢口(政府)におもねっている、という。買って読んでみたが旧式の英雄崇拝でもはや現代の潮流に合わないというだけで、別に悪意は見られなかった。これは眼力の鋭鈍の差の証であり、私と現在の青年文学家との間にはもう大きな溝がある。だから「語絲」の不思議な失踪も我々自身、訳が分からないだけで、上記の検査員云々は、仮定の話にすぎぬ。
 145号以降は全部届いた。多分上海の分のみが拘留されたのだろう。もし本当に拘留されたのなら、それは呉(稚暉)老先生とは関係ないと思う。
 “打倒!打倒! 厳格に、厳格に!”というのはもとより老先生の手になるので、責任は免れぬが、多くのことは彼が手ずから下したものではない。中国では凡そ猛人(広州方言で有名且つ有能、そして何事にも顔の効くという三種を
兼ね備えた権勢家、ここでは呉氏を指す)は常にこの種の運命にある。
 どんな人も猛人になると、“猛”の大小を問わず彼の身辺には取り巻きが水も漏らさぬよう取り囲む。その結果、内部的には当の猛人は徐徐に凡庸になり、勢いデクに近い状態になる。対外的には他の人に猛人の真の姿を見させず、取り巻きの曲折を経て、幻を示現させる。幻の姿はというと取り巻きのプリズムか凸レンズか凹レンズかで異なる。偶々、猛人の身辺に近寄る機会があって、
取り巻き達の顔と言葉づかいを見ると、他の人たちとの応対とどれほど違うかが良く判る。外部から、猛人の親しく信用している人間の顔を見ると、デタラメかつ傲慢放縦な点は、その猛人が重用しているのはこんな人物かと思う。殊に、彼はそれがとんでもない大まちがいとは知らぬことだ。猛人の目には彼が
物腰の柔らかな実直で重用に値する人物で、話もとつとつとして顔を赤らめたりする。一言で言うなら、“世故に長けた老人”も時に、はたで見ていて決して悪くは思えないほどだ。
 しかし同時にこのデタラメな取り次ぎと度を越したへつらいが起こり、運の悪い人、刊行物、植物、鉱物はみな災難にあう。だが猛人は大抵何も知らぬ。
北京の故事を知っている人なら、袁世凱が皇帝になろうとした時のことを覚えているだろう。朝刊を見るのでも、取り巻きは、民意は彼を擁戴し、世論は一致して賛成という新聞を別途印刷して見せた。蔡松坡が雲南で起義をした段になって、「あれー!」のひと声。続けざまにマントウ20個を口に入れたのも気づかぬ有様。だがこの劇もすぐ幕が下り、袁公も龍に乗せられお陀仏となった。
 取り巻きはこの倒れた大樹からすぐ離れ、新たな猛人を探し求めた。
かつて「取り巻き新論」を書こうと思った。まず取り巻きの方法を述べ、次に中国は永遠にこの道をたどることを論じ、原因は即ち取り巻きにあり、猛人はいつでも出て来ては倒れるという興亡を繰り返すが、取り巻きは相も変わらずこのようなてあい。次に猛人が取り巻きから離脱できれば、中国は5割がた救われると論じ、結末は取り巻き離脱法。――しかし最終的には良い方策が見つからず、この新論はまだ手がつけられていない。
 愛国志士と革命青年よ、私の計画倒れで目録だけで文章が無いと責めないで欲しい。考えてはいるのだが、かつて二つの方法を思いついたが、もう一度
考え直したら、役に立たないことが判明した。
一。猛人が外部の状況を見に行く時、前もって下見とか露払いをさせるなと言うとする。露払いなぞなくても、人は猛人に会うと大抵まずは本来の状況を変えてしまうので、真相はつかみようがない。
二。いろいろな人と広範に接し、特定の一部の人に取り巻かれることの無いようにすること。だが、これも久しくするとどうしても一つの群れが勝利を収め、この最後の勝利者の包囲力は最も強大で、要するに古くからあるそのままの
運命で、龍に乗ってお陀仏となる。
 世の中の事はくるくると螺旋のようだ。「語絲」は今年南方では特に釘にぶつかるケースが多く、新しい境地に入ったようだ。どうしてだろう。これは私は容易に答えられる。
「革命いまだ成らず」は当地で常に目にする。だが私はこれはどうやらすでに
謙遜語になっており、後方の大部分の人の心は「革命はすでに成功」或いは
「革命はまもなく成る」のようである。すでに成功、或いはまもなく成るというなら、自分たちも革命家で、中国の主人公だから、全てのことを管掌する権利と義務がある、と思っている。
 刊行物は一小事とはいえ、やはり管理監督の対象で、赤化の恐れのあるものは勿論、けしからぬ事を書くのは、「反革命」に近い気持ちがあり、少なくとも人を不快にする、そして「語絲」はいつも物事を冗談ではすませないという悪い癖が抜けず、時に失踪を免れない。蓋し、なおそんな事は小事に過ぎぬが。
                   九月十五日

訳者雑感:
 広州という革命の策源地に来た魯迅は、広州の人々がもう「革命は成功」したと天狗になって、中国の主人公として、全てを管理監督し、全国に号令する
という思い上がりを、雑誌拘留という一小事に例をとって分析している。
 広州政府の取り巻き達は、北京の発行する雑誌すらも「反革命」とみなして
それらを差し押さえ拘留する。その時の方法は今と何と似ていることよ。
赤化を怖れて「火」「烈」などの言葉が入っているのは検閲の結果、中身がなんであれ、拘留となる。
 インターネットの現代の拘留方法は、天安門、チベットなどの文字がある書き込みは全て削除されたし、テレビも真っ黒な画面に変じた。最近ではエジプトという国名が入っているのも削除された。
 魯迅の指摘するように、検査官は四六時中検査ばかりで目も疲れ、頭もボーっとなって、中身まで検査する気もなくなり、単語だけで拘留するのが手っ取り早いということ。
 袁世凱の取り巻きが最後まで民意が彼が皇帝になるのを賛成していたという物語は、有名な話だが、上海の新聞でそれに反対する記事がでたとき、その部分を刷り直して彼に見せたというのは、まさに「裸の王様」だ。歴代王朝の末路はこのような取り巻きによって、滅亡の運命をたどった。
 ムバラクやカダフィなどの周囲でも似たようなことが起こっているのだろう。
    2011/03/04訳

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「過激」談義

本や雑誌を携えて「香江」を渡ると、「危険文書」所持の嫌疑で、「鉄格子に入れられ、斧やマサカリの味をなめさせられる」危険性について、「香港略談」で触れた。しかしどんなものが「危険文書」なのか知らぬので、これまで気になっていた。何故か?上海保安会の言う「中国の元気が損なわれる」為ではなく、自分の為である。香港に行く時、注意せねばならぬからだ。
 今年は青年がいとも簡単に殺される年だ。「千里、風同じからず、百里、俗
同じからず」という。ここで平常と考えていても、あちらでは過激となり、煮えたぎった油に手を入れて火傷してしまう。今日正しいことが明日犯罪になり、藤のムチで尻叩きにあう。田舎から出てきた若者は、きっと訳も分からないだろう。今行われているのはこういう制度だと思うしかない。私は一昨年45才で「心身ともに病」んでしまったから、この大切な命を心配する必要はないといわれた。しかしそれは他人の意見であって、自分としては何も好き好んで苦しい目に会いたくは無い。「新時代の青年」の御賢察を賜れば幸い也。(上記を書いた者への皮肉)
 それゆえに念には念を入れるべきだ。そう思っていた矢先「天は自ら助くる者を助く」で今日の「循環日報」に参考となる資料が出た。広州執信学校の学生が香港行! 「尖沙嘴埠頭で157号の華人巡査に行李を検査され、中に過激な文書7冊が見つかった。その7冊は:執信学校発行の「宣伝大綱」6冊と「侵略奪略の中国史」1冊。この種過激文書は中国人署管の翻訳員の選訳が完了し、昨日昼、解由連司の訊問後、過激文書保持の容疑で控訴…」引用するのも煩わしいので、大意は「選訳」している間、五百元の保証金を積まされた上に、後に被告が、友人に頼まれたものと供述せるため、「25元に減刑され、本は没収後焚書」と。
 執信学校は広州の普通の学校で、すでに「清党」後だから、「宣伝大綱」は
三民主義に他ならないが、尖沙嘴に行くと「過激」となる。恐るべし。ただ、
友邦(イギリス)に対して「侵略略奪」の文字はやや「過激」を免れぬ。というのも彼らはまさしく、我々に替わって「国粋保存」してくれている恩故があるからだ。但し「侵略略奪」の前に何か別の文字があったのを、記者は記述を憚ったのかも知れない。
 以前、元朝時代について触れたことがあるが、今夜考えてみると、余り正確ではなかった。元の漢籍への対応は、それまでこんなにも神経を使ったことはないほどであった。それが清朝へのモデルとなった。彼らは何回も「文字の獄」を行っただけでなく、叛徒を大量に殺し、且また宋代の「過激文書」も細心の注意を払って改刪した。同胞が「復古」に熱心なのと、友邦の「復古」賛助者は、
これを師の法と奉じて大切にしているようだ。
 私は清代の人が、宋代書物の改竄について「茅亭客話」に触れた。がこの本は「琳琅秘室叢書」の中にあり、時価40元もするので金持ちでないと買えない。
近頃別に商務印書館から「鶏肋編」が出た。宋の荘季裕著で一冊5元と安い。清朝の文瀾閣(四庫文書)本と元の抄本がどう改竄されたか下記す。
 
 『 「燕の地の… 女子…冬にトウカラスウリを顔に塗り…春暖かくなりて、
洗浄。久しく風に当たらなかった故、玉の如き白さ。今中国の婦女はことごとく殊に俗に汚れ、漢唐和親の計は蓋し未だ屈せざる也」(清朝は“今の中国”以下の22字を“それは南方とはこのように異なる”の7字に改作)
「古くより兵乱時には郡邑が焼き尽くされ、盗賊は残虐だったが、家屋は必ず大事にして生存者も残した。靖康の後、金虜が中国を侵略凌辱し、露天に住んで俗を異にし、通過せしところ、ことごとく焼き尽くされた。
曲阜の先聖(孔子)の旧宅は、魯共王の後より、増築を重ねてきて、莽卓巣温の徒も儒を崇め、これを犯そうとはしなかった。金、寇ずるや終に煙土に変ず。
その像を指し謗って曰く:これは夷狄の君子。中原の禍、甲骨文字以来、未だ見たことの無い事也」(清の改作は大きな違いで、「孔子宅は現在故魯の城の帰徳門内の城壁の中に遷った。… 漢中の微に遭い、盗賊が奔突し、西京から未央建章之殿まで、ことごとく崩され壊され、霊光のみ毅然と存す。今その遺址を見ることはできない。先聖の旧宅は近日また兵火の厄に遭い嘆かわしい) 』
 
 引用も面倒ゆえもう止める。ただ第2条で上海保安会の切望する「規則遵守」
の道を悟ることができた。即ち:原文が憤慨しているのは「過激」であり、改作は嘆かわしい事に過ぎないのは「規則遵守」をしているからだ。何故か?
憤激は竿を掲げて始めることができるが、「嘆ずべし」というだけなら、ただ
呆然としているだけで、たとえ全国がこぞって嘆息しても、結果は嘆息に過ぎず、「治安」に対して何の妨害にもならない。
 ただ、青年に警告したいのは:我々は只「嘆ずべき」云々の文なら安全だと考えないで欲しい。新例はまだ見てないが、清朝の古い例をみると、嘆息を許すのは、古人への優待で、今の人には適用されぬ。奴隷はただ嘆息するだけだから大きな害も無いはずだが、主人は気分を害する。
 バートランド ラッセルの称賛した杭州の籠かきのように、常にニコニコ笑っていなければならない。(1920年訪中したラッセルが、杭州の籠かきたちが、
休憩時になんの憂いも無い如く四六時中ニコニコ世間話をしている、と「中国問題」に書いたことを指す:出版社)
 だがこれに私の解釈を加えると:“ニコニコ笑う”のは、けなしているように響くが、決して「階級闘争」を鼓吹するつもりはない。それはこの文章を杭州の籠かきが目にすることは無い事を知っているからだ。況や、「赤狩り」の諸君はニコニコ笑って籠をかこうとはしなだろうし、籠かきを苦しい労働とし、「乱党」くらいにしか思わぬ。況や私の議論も実際は「嘆ずべし」に過ぎぬから。
 今、書籍が往々にして「過激」といわれるが、古人の書籍も禁忌に触れたのが多々あった。ならば中国の為に「国粋を保存する」にはどうすべきか。
よく解らぬ。今マカオで「征詩」を行っており、全部で7,856冊が「江霞公太史(孔殷)の評閲」後、二百名を収録した。第一名の詩は:
 南中多楽日高会・・・ 良時厚意願得常・・・
 陵松万章発文彩・・・ 百年貴寿斉輝光・・・
これは香港の新聞からの引用だが、一連が三圏、原本もこの通り。多分秘密の圏(策略)と思われる。この詩は多分「嵌字格」の如き「格」であり、門外漢はこれ以上の詮索はやめるが、これから私が得た物は、ふと将来の「国粋」を
悟ったことである。それは詩詞駢文が正宗だということ。史学などは必ずしも発達しない。研究するなら、先ず老師や大先生の手を借りて、改定をしてもらわねばならない。ただ詩詞駢文なら、弊害が少なくてすみそうだ。故に駢文の神様と言われた饒漢祥の死は日本人も慨嘆し、「狂徒」はまた罵られた。
 日本人は北京で駢文を拝服し、香港の「金制軍」「国故整理」は中国を愛護し、
その滅ぶのを怖れるのは、その最たるものと言うべし。
しかるに物品通過税廃止に皆が賛成しないのは何ゆえか?通過税は国粋で、(輸入)関税は国粋ではないゆえ也。(当時国内取引には通過税徴収が横行していたが、これを廃止しようとした動きに誰も賛成しなかったことが背景にある)
「これまた嘆ずべきか」
 
 今日は仲秋、璧のごとき月は澄み、嘆息は既に完了せるも、眠りに就こうとは思わぬ。重ねて「征詩」を吟じ、わけもわからぬ。原稿用紙は余白あり。よりて「江霞公太史(孔殷)の評閲」を録し、読者にその良いところを供す。
但し、圏点は僭越にも私が付けた――
 『啓に謝すと題して、わずか28字。古詩19首中の字、復嵌し、すべて内字に限定。首二句は賦、三句は興、末句は興と比。歩みは整然、挙重も軽き若し、絶対頑張らない。虚室に白を生じ、吉祥止止。洵属巧中に巧を生ずるも、難の上に難を加う。その胎息(道家の修練術、胎児の如く、口と鼻を使わずに呼吸すること)の高尚古雅、意義の純粋、格調の渋さ、漢魏の古詩、寝食を忘れ長年学ばずば、この境地に至るは易からず』
      九月十一日、広州
訳者雑感:
 官憲から「過激」とみなされたら、監獄に入れられ、親族から保釈金を積ませて出獄できたが、所持していた本は没収の上、焼却となった。警官側の金儲けという面も否定できない。牢に入れられた若者を金で救い出すのは親の務めであった。過激文書保持は格好の標的だった。
元代、清代の「文字の獄」を引き合いに出して、金の悪口が一杯書いてある
歴史書はモンゴル人には何ともなかったが、金と同じ女真族の満州人によって、
徹底的に改竄された、云々というのが面白い。そう書きなおさなかった頑固な歴史家たちは「文字の獄」に繋がれた。それでもその遺志は子に引き継がれた。
 いずれにせよ、新しい政権が発足して、暫くして「文字を読み書きする」人たちが、政権批判を始めると、それを厳重に取りしまるのが歴代王朝の、特に
異民族の征服王朝が神経を使ったところだ。中国の半分くらいは異民族統治だと言われている。
今の政権は、別に異民族の征服政権でもないから、清朝のように神経を尖らして「文字の獄」を行う必要はないと思われるのだが、天安門事件とかエジプト
とかの文字があると、その文書が削除されるという伝統は、変わっていないようだ。インターネットの時代でも昔と変わらない。
 一方で、ラッセルの指摘するように、休憩時間中に仲間同士でニコニコ笑いながら、世間話をしてなんの屈託もないように見える籠かきたちの楽天。これも今も変わっていない。九割がたこれだ。
 「過激」について、後半の「嵌め字の詩」の解釈はてこずった。誤訳多々ありと思うので、将来訂正したい。
  2011/02/24

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「首領」は辞退します

この2年、北京で「正人君子」にやられて海辺に逃れ、その後またもや「学者」流にやられて別の海辺に逃れ、そこでも又「学者」流にやられて、西日の晒す楼上に逃れ、満身あせもでライチ―のようになり、恐れ謹慎してひと声もあげねば、罪過から免れると思っていたが。ああ、それでも駄目であった。
 某学者が9月に広州に来て、授業のかたわら私を提訴し、私に対してここから離れること相ならぬ、「開廷を待て」と告げてきた。
 (軍閥の)五色旗も(国民党の)青天白日旗の下でも(不運な)華蓋が身に降りかかり、気も腐ってしまったが、それもまだ終わってはいなかったのだ。
どうしたことか、知らず識らずに、「文芸界」で高い位置に昇格させられた。
 信じられないが、陳源教授即西瀅の「閑話」の広告が証拠で、部分引用は意趣が伝わらないから、コピペする(原文;切って貼る)。
 『徐丹甫先生が「学灯」で:「北京は新文学の策源地となり、根もしっかりして、隠然と全国文芸界を牛耳っている。さて何を北京文芸界というか?正しく、
一二年前の北京文芸界は現代派と語絲派の交戦場で、魯迅先生(語絲派の首領)
の依って立つ大義、彼の戦略は「華蓋集」を読んだ人はご存知と思う。但、現代派の義旗とその主将――西瀅先生の戦略は明らかでは無い。今我々は特別に    
西瀅先生と相談し「閑話」から択んで出版し、文芸界の事に関心ある向きは、
必ずや我先に読みたいと思うことだろう。
 しかし、単に「閑話」だけを故事とみなすのは誤りで、西瀅先生の文筆を欣賞し西瀅先生の思想を研究し、文芸界の権威をもっと知りたいと思う人は――
とりもなおさずこの「閑話」を読まざるべからず!』
 
 これは「詩哲」徐志摩先生のどこか「詩哲」流の「文筆」に大変似ていて、かくも飄々然としているから私まで1冊買いたくなってしまいそうだ。しかし
自分の事に思い到ると逡巡してしまう。足掛け2-3年、大して長くもないが、
「正人君子」から「学匪」と呼ばれ、豺虎に食わせるべき悪人扱いされたことを覚えている。雑感を書いてこの西瀅先生に触れることもあった。それらを「詩哲」は見向きもせず、西瀅先生は即刻それを放るべき所(ごみ箱の意)に放ってしまったのも覚えている。後に「華蓋集」として出したのが実態である。
だが私は「北京文芸界」なるものの存在も知らず、私が「語絲派の首領」で「大義」によって、この「文芸界」で「現代派主将」と交戦したのも知らぬ。
「北京文芸界」は徐丹甫先生が「学灯」で示したように隠然と揺るぎない由だが、私は自分がれっきとした戦績があると言われることに対し、訳も分からず、狐の精に騙されたようだ。
 現代派の文芸はこれまで注意してこなかったから、「華蓋集」のどこで提起したものやら。ただ某女士が「琵亜詞侶」の絵を窃取したとき、「語絲」で(或いは「京報副刊」でか)誰かが書いたものが、その後の「現代派」の口吻からすると、私が書いたと思っていたようだ。ここで丁重に言明するが、それは私ではない。楊蔭楡女士に負かされて以来、全て女士に憎まれるようなことはせぬよう心がけている。女士に憎まれると、すぐ「男士」の義侠心を引き起こし、
「指名手配」される恐れ有り、二度と口を開かぬ事とした。だから現代派とは何の関わりも無かった。
 それがついに幸運が現れ、「首領」に昇格、次いでかつて現代派の「主将」と
「北京文芸界」で交戦した云々。大したものである。本来部屋の中で喜色を浮かべ、にんまりして辞退したりなどせねば、いい気持ちだろうに。しかし近頃、
人に勝手に抑揚されるため、忽然「権威」になるや、すぐまた「権威」から引きずり落とされ、ただ「先駆」だけを許されたりした:そしてまた唐突に「青年指導者」に改称され:甲は「青年叛徒の領袖」と呼び、乙はふふんと冷笑。
自分としては身動きもならず、故に依然として姓名は何回も昇沈と冷暖を繰り返している。人は勝手なことを言い、私をネタにするのもやむを得ないが、最も恐ろしいのは広告のお世辞と嘲罵。まるで膏薬売り場に架けられた死んだ蛇の皮の如し。だから今回現代派より追封を蒙ったとはいえ、この「首領」なる栄名は、改めてここで公に辞退するほかない。
 だがいつもこんなことばかり書いてはおられぬ。そんなものに付き合っている暇などないのだから。
 背中に「義旗」を差した「主将」の出馬には当然ながら敵はしかるべき武将でなければならぬ。何とか演義の劇でいつも目にするのは「名を名乗れ!我宝刀は、無名の士を斬ることはない」の通り、主将が交戦するとなると私の「首領」への昇格は「やむを得ぬ」次第となる。但し私は決してそうではないし、そんなハッタリをすることはない。(主人のごきげんとりの)狆がキャンキャン鳴こうと、臭いトイレであろうと、なんであれ何回でもつばを吐くのだ。背に五本の尖角のついた(義)旗を差した「主将」が出てこなければ、私が「刀筆」を動かさぬということは無い。もし私が便所を攻撃する文字を見て、それをも私の強敵と考えるようなら、我ながら、吾が心がけが未だ分明ならざるを恨むし、もう一度その臭いをかごうとしても、その責任は負えない。人はこの広告を真に受ける恐れがあるから、ここに声明を発表し、累が及ばぬようにしたい。
西瀅先生の「文筆」「思想」「文芸評論界の権威」については当然「欣賞」し、
研究して「認識」すべし。ただ惜しむらくは、それらを「欣賞」するにも今現在、「閑話」一冊しかない。しかし皆の「主将」のすべての「文芸」の中で、一番は「晨報副刊」の志摩先生宛ての大半は魯迅を痛罵したあの手紙だ。あれは、
かっかして書いたから、紳士のタキシードを脱ぎ捨てた真相が躍如している。更に「閑話」に比べ、まるで別の態度で、二者の内、一方は虚偽であることを証明している。これも西瀅先生の「文筆」などを研究するに格好の材料だ。
 しかしあの手紙にも明確に区別せねばならぬものがある。「志摩、…前方は遥遥茫茫とした薄霧の中に目的地がある」の類。私の見るところ、実際はこのような目的地は無く、もしあるなら何も遥遥茫茫ではない。これは熱がまだ十分高くなっていないせいで、もし(華氏)90度前後に上がったら、こうした遥遥茫茫すらも一掃され純粋に近くなるだろうと思う。
     九月九日、広州。
 
訳者雑感:
 現代派が敵の「首領」と持ち上げたのを、そんなものは願い下げだと反論している。相手は自分たちの「主将」を攻撃してきた魯迅を「首領」と呼ばないと、つり合いがとれないというのだ。
 それに対して、魯迅は何も相手が「主将」でなければ「刀筆」を動かさないということはない。その証拠に、飼い主のご機嫌とるのが上手いとされている
狆や、改革に逆行するような議論ばかりする臭い便所には、何回でもつばを吐きつける、と相手を狆や便所に比している。翻訳していて最初これは何を意味するのか理解できなかった。私の理解は間違っているかもしれない。
 2011/02/20
 

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天乳(ノーブラ)を憂う

「順天時報」(日本人が北京で発行していた中国語新聞:出版社注)が、北京の
辟才胡同女子附属高校主任欧陽暁瀾女士が、断髪した女学生の受験を認めぬと報じていた。断髪した女学生は大変落胆している由。やはり情勢がここまで来ると、彼女もそうせざるを得ぬようだ。但し纏足をしていない女学生は受験できるのはまだ助かる。しかし余りにも「新しもの」拒否の嫌いがある。
 男も女も前世からの冤罪である髪の苦労を嘗めさせられるとは。明末以来の記録を見れば分かる。私は清末に辮髪を切った為、大変な苦しみを味わったから、女学生の断髪には賛成しない。北京の辮髪は袁世凱の命令で切られたが、ことはそう単純ではなく、背後には「刀」があったのだ。さもなくば、今でも街中に辮髪がはびこっているだろう。女子も同様で、皇帝(或いは別の名も可)
が命令して初めて断髪が実施されよう。勿論そうなっても、多くの人は面白くないと思うだろうが、切らざるを得まい。一年、半年も経つともうその理由も忘れ:二年後には髪を伸ばすべきじゃないと思うようになる。そうなると長髪の女学生は「大変落胆」せざるを得ぬ。一部の人が色んな理屈をつけて改変しようと試みても、歴来成功したためしは無い。
 現在の有力者の中にも女子の断髪を主張する人がおるが、残念ながらその立場は堅固ではない。一つの地域に、甲が来て乙が追い出され、丙が来て甲が追い出される。甲は断髪といい、丙は長髪という。長い髪は切られるが、短いのは首を切られる。ここ数年青年は災難続きで、特に女性は大変。新聞に有るところでは断髪を鼓吹したが、後に軍が攻め入り、断髪の女子を見つけると、一本一本髪を抜き、両の乳房を割去までし……。この刑は男子の短髪はすでに全国に公認されているが、女子には許さないとの証だ。両の乳房を取るのは、男のようにすることにより、男のやり方をいたづらに真似させぬようにするためだ。これに比べたら、欧陽暁瀾女士のやり方はそれほど厳しいとは言えないかもしれない。
 今年広州で女学生のブラジャー(旧時は金太郎の前だれ状の布で締め付けた)
着用を禁じ、違反者に50洋銀の罰金を科した。報道では「天乳(ノーブラ)運動」と称した。(清末の)樊増祥のような名文の法令でないのは遺憾だとするものもいた。公文書には「鶏頭肉(水生植物の名で乳首を指す:出版社)などといった洒落た文字は無い。蓋し文人学士たちは飽き足らぬようだ。それ以外には、冷やかしや滑稽な論のみ。こんなことばかりでは、いつまでもこのままらちがあかぬと思う。
 私もかつて「杞憂」したことがある。将来中国の学校出の女性は哺乳能力を失い、乳母を雇わねばならぬ、と。しかし今、ブラだけを責めるのは片手落ちだ。第一に社会思想改良。乳房に対しておおらかになること:第二に衣裳改良。
上衣をスカートの中に入れるようにすること。旗袍と中国の短上衣は乳房の解放には適さない。胸部の下がふくれてしまって不便で、見た目もよくない。
 それに大きな問題は、乳房が大きいことが犯罪とみなされ、受験できなくなることだ。我中国は民国成立前、「(士農工商)の四民の列に入らぬ者」のみが受験できなかった。(賎民とされた者以外は誰でも受験可:出版社注)理屈から言えば、女子の断髪は男女の別を失い、有罪である。ならばノーブラは男女の別を付けることに功があるということになる。しかし世の中の多くは、口舌の争いをしていても方は付かない。要は上諭(皇帝の命令)とか、実際には刀でもって、命じねば誰も言う事を聞かないのである。
 さもなくば、既に「短髪犯」ができた上に、「ノーブラ犯」も増え、或いは
「天足犯(纏足しない)」も出て来よう。嗚呼、女性の身に起こる問題は、特別多いから、人生もこのために苦労が尽きない。
 我々が革新とか進化などの問題とはしないで、もっぱら身の安全だけを考えれば、女学生は長髪で胸を締め、半纏足(纏足した足を途中から自然に戻す;
当時は一名文明足と呼ばれた)が良いと思う。それは私が北から南まで通過した所では、看板や旗幟などはことごとく違っていたが、ことこのような女性に対して、悪口や敵視するようなことは聞かなかったから。
     九月四日。
訳者雑感;
 魯迅の辮髪に対する思いは鬱屈したものがあるようだ。自分は東京で日本式の学生服に断髪の写真を撮り、友人に贈った。しかしその一方で阿Qについては、初めは滑稽な作品として書き出しながら、だんだん書き進む内に社会情勢を映しだす深刻な文章に変じて行った。訳者も不明を恥じるのだが、譚璐美さんの説に依ると、阿QQは英語のQueuekju:)から来ていて、辮髪の意。
Qの字は象形文字で教育された中国人から見ると正に辮髪を後ろから描いたものに見える。
 阿Qが革命に参加しようとした1911年前後は殆どの中国人漢民族が後生大事に辮髪を守っており、魯迅が指摘するように断髪した者は蔑視された。それが無くなったのは、袁世凱が政権を握った後だというから数年は辮髪が街中にあふれていたことだろう。
 本文が書かれた1927年当時は、女子の解放が叫ばれ、纏足禁止(天足運動)
と並んで、四角い金太郎の前だれ状の布で乳房を締めつけるのを廃止(天乳)
しようとの動きがあった。しかし魯迅は、自ら舐めた苦渋にかんがみ、民間からの運動や一部の提唱者の口舌だけで、断髪したりノーブラにするのは、賛成しないと言っている。袁世凱や皇帝が命令を出して、従わなければ「殺す」と
言わなければ、この国の人びとは改変しないのだ、と。それが発令されるまでに新しい動きをとるのは、受験資格を失うし、別の軍閥が来たら、髪の毛を
一本一本抜かれ、乳房を取られてしまうことまであると引用している。           
 
 香港の鳳凰テレビの春節特番で、東アジアで春節廃止に成功したのは日本だけだと報じていた。中国韓国ベトナムは廃止を試みたが成功しなかったという。中国は辛亥革命の後と文革の時に二度廃止したが、数年経って民衆の強い要求により元に戻してしまった。春節で一家が団欒できる休暇でなくなったことが最大の不満であった由。その点、唯一日本だけが廃止できたのは、不思議だという何か東方文化を棄てた国という響きであった。だが、と同時にそれは
日本が異質なのだというニュアンスでもあった。西洋人の価値観から来たと言われる夜の一番短い冬至の後をクリスマスとし、それから1週間後に新年という発想と、それを一年の始めとは認めないという牢とした信念は、明治までの日本を含めた東アジアの生活パターン、農事中心に暮らしてきた東アジアの気候風土に根差したものなのだろう。こればかりは袁世凱が刀で以て命令しても、
毛沢東が破旧立新を命じても、暫くは面従しているが、腹の中で背いたものが
わだかまっていて、時が来たら元に戻すのが一番と心得ているようだ。
 マルクスが唱えた主義も、何十年かは従ってきたが、やはりそれは東方にはそぐわないとして、放擲してしまった。孔子に戻るのは春節に戻ったこととどこか似ている。
   2011/02/18
 

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反「漫談」 


 これまで「語絲」にお世辞など言ったことはない。だが今日は一言いわずに
いられない:確かに愛すべき、と。正に「語絲」の「語絲」たる由縁だ。
 私のような「世故に長けた老人」はもうだめで、思い切ったことも言えず、言いたくなくなったり、何か言うのをためらったり、そこまで言う必要も無いと思って仕舞う。そんな暇があれば、菓子でも食べていた方がましだ、と。
 しかし「語絲」にも迂遠な議論をする人がいる。「教育漫談」がそれだ。教育当局と教育談義をするなど、その一例也。
 「与に語るべきでない者と与に語る」即ち「その不可なるを知りつつ之を為す」きっとこの種の人がいるから世界は寂莫にはならないのだ。この点、私は敬服する。但し、多分「世故」のゆえだろうか、敬服の中にも誹謗の気持ちが混じるのはどうした訳だろう。そしてまた惨めさを悼む気にもなる。
 徐先生はよく知っている人だから、十分熟慮した上で、ついにいささか意見を述べることにした。この意見は私自ら十余年の役人暮らしをして、一ダース以上の教育大臣をこの目で見てきて、一つひとつ体得したものゆえ、本来そう軽々しく公言したくは無いのだが。
「教育当局」と教育を談じる根本的な間違いは、この4字の力点の置き方の誤りに有る:そこが「教育」を行う所と思うのが間違いの元。実際はたいてい
「当局」(大臣、高級幹部、実権掌握者)になろうとするのが目的だからだ。
これは過去の事実で証明できる。重点が「当局」にあるから
1.学校の会計担当が教育大臣をやるも可。
2.教育大臣は瞬時にして内務大臣に転じることも可。
3.司法大臣、海軍大臣も教育大臣を兼任可。
 かつて有る大臣は彼が大臣になれたのは、某公司設立法案の議決の際に、もう一人賛成者を増やすために再就任した、と発言。しかしそれでも人は彼に、
教育について相談に来たという。私は痛感するのだが、このような実直な人は、
全員即刻家に帰って、奥方のお相手でお茶を楽しむように命ずべしと思う。
 従って、教育当局の十人中九人は「当局」になることに意があるのだが、
一部には「当局」になろうとすることすら意中に無い者もいる。
 こう言うと、それなら彼は何のために策動するのか?と訊く人がいる。私は顔色が変わる程怒って:彼は「当局」になるため、露骨に言えば「大官」になるためだ! さもなくば何ゆえ「官になる、官をする」というのか?
 この奥妙な学説を体得したのはなまやさしい事では無かった。やや学者的高慢さを免れぬが、徐先生、お許しください。以下に私がこの学説を得た歴史を
略述します。――
 私が目の当たりにした一ダース以上の大臣の内、2人は部下の条陳(意見を箇条書きにした提案報告書)を見るのが好きであった。それで部下は次から次に報告し、長い間続けたが、全て大海に沈む石の如し。当時私もそんな賢くなかったし、心の中ではそんなに沢山の報告書を出しても、一つとして採用すべきものがなかったのか、それとも読む暇がないのかといぶかった。今ふり返ってみると、私も上司の所に伺った時、いつも彼が背をビンと伸ばして報告書を読んでいる姿を目にした:話している間にも、「報告書を読まねばならぬ」とか「昨晩報告書を読んだ」などの話をよく聞いた。あれはいったい何だったのか?
 ある日彼の報告書が置かれている机の傍らを通って外に出た。そのときどうしたはずみか、忽然聖霊の啓示があり、恍然と悟った。――
 おおー! 彼の「大官へ昇進する過程」上に、「報告書を読む」という一項があるのだ。「読」みたいから「報告書」がないといけないのだ。なんのために
「報告書」を読みたいか?それはとりもなおさず、「大官になる」ための一部分だからだ。ただそれだけなのだ。私がそれ以上の余計な望みを持ったのは、自分自身が愚かであったに過ぎぬ。
「一条の光が射し込んだ」それ以降は我ながら物事がよく分かるようになったと感じ、老官僚に近くなった。その後、「孤桐先生」に解雇されたがそれはまた別のことだ。
「報告書を読む」ことと「教育を弁ずる」ことは同じ例で、字面に照らして理解すべきで、もしそれ以上に或いは更に大きな希望と要求をするのは、読書ボケでなければ、分に安んじない人間のすることだ。
 もうひとつ警告すると:もしもっとスマートな当局にあったら「漫談を読む」事も彼の「官になる」――名付けて曰く「教育に留意する」ことになる――
但しそれは「教育」とはまったく何の関係も無いのだ。
                 九月四日。
訳者雑感:
 出版注に依ると、魯迅が教育省に勤務した19122月から267月までの14年間に教育大臣或いは代理大臣は27人も変わった由。トップもどこかの国のようにころころ変わったのだが、それにしても乱世のなせる技ではある。
 魯迅がここで知人の徐さんが「教育当局」と教育を漫談したのを取り上げて、
反「漫談」を展開している。教育に力点の無い、「大官になる野心」だけの高級幹部と漫談して、何の足しになるのか? 教育部に身を置くのは、青少年の教育を弁ずるためではなく、自身の立身出世、大官に昇進するための踏み台としか考えていない役人を相手に漫談しても、百害あって一利なしだ、と徹底批判し、彼の14年で体得した事実を歴史的に記す。提案報告書ばかりがやたらに提出されて、それが大海に沈む石の如しで、何ひとつ具現しない。
訳者が北京駐在していた1980年当時、中国共産党の政府組織は大変巨大なもので、紡績から鉄鋼、化学品など商品ごとに一つの省が設けられ、例えば石炭省とか冶金工業省など大変な数の「当局」が全ての産業を国有企業の傘の下に置いていた。そして驚くべきことに、それぞれの省に十数人の副大臣がいて、まるで一昔前のアメリカの会社のVice Presidentの様相を呈していた。それが
中国で「党員」になり、「官」になって、「立身出世」し「名を上げる」ことが
共産党員の本分と考えられてもいた。国の為より自己の出世が大事であった。
 このことは80年前のみでなく、何百年もの間に築かれて伝わった伝統であり
それが何億の民の上に胡坐をかいていた。胡坐をかけるようになるために、
出世競争に勝利するために、「報告書を読み」「上司や周囲にうまく説明し、取りいることが上手になるよう」研鑽を積んだものだ。
 その後、沢山いた副大臣は大幅に削減され、省自体も大幅に減って、所謂
現業を統治管理する省は廃止された。だが、全国各地の地方政府ではかつての中央のやり方を真似て、したい放題のことができる「当局の長」が五万といる。
そしてその多くが腐敗して、規律委員会で解職されている。つい数日前の鉄道省の劉大臣の辿った道である。低学歴ながら、江沢民前主席へとりいることが巧みであったと報じられている。
2011/02/16
 

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「大義」は返上します

去年、正人君子達の「孤桐先生」に睨まれて八方ふさがりとなり、北京脱出を余儀なくされた後、一言も発せずに1年余が経った。正人君子達はこの「学者ゴロ」をもう忘れたと思っていたが、なんとまだ覚えていた。
 インドにタゴールがいる。彼は中国に来て竺震旦と言う名にした。彼が「新月集」を書き、この震旦に新月社ができた。――経緯は知らぬが――現在又、
新月書店ができた。新月書店が「閑話」を出そうとし、次の広告を出した。
 「魯迅先生(語絲派の首領)の依って立つ大義、彼の戦略は『華蓋集』を読んだ人はきっと知っていると思う。但し、現代派の義旗と、その主将――西瀅先生の戦略は、まだ明らかにはされていない…」
 派や首領など、この種の謚(おくり)名の付け方は実に恐ろしいものがある。
すぐまた別の人がそれを取り消して罵る。甲は:見ろ!魯迅が突如首領と称しているぞ。天下にこんな首領があってたまるか。と言い。乙は:彼はもっぱら虚栄が好きなだけさ。人が彼を首領と呼び、彼もたいへん喜んでいるのをこの目で見た、と。
 しかしこれは何度も教わった教訓から、奇とも何とも思わない。だが今回、
新鮮で恐ろしいと感じたのは、突然、大切な「大義」を我が手に握らせ、大きな旗を持たせて、私に「現代派」の「主将」と対決させようとしていることだ。
私は先に書いたように、公理と正義は正人君子に奪われてしまったから、手元には何も無い。大義なるものも、それが円柱形か楕円かすら知らぬから、私にどのように対決させようとするのか。
 「主将」は当然「義旗」という体面を持っている。しかし私はそのような
「礼帽」を持っていない。派を作らないし、首領にもなっていないから「依って立つ大義」など持ったことも無い。また「戦略」も無いし、広告を見るまで、
西瀅先生が「現代派」の主将とは知らなかったので――これまでは彼のことは、
反動派の三下だと思っていた。
 私は自分について知っているのは以下の通りだ。
「孤桐先生」は今なおご健在で、「現代派」は私のことを「学者ゴロ」「学匪」と呼ばわっていたことをお忘れになったとは思わぬ。それがあろうことか今
突然「魯迅先生」は「大義」云々などを使いだしたのは、単に広告のために過ぎぬと思う。
 嗚呼、魯迅魯迅。どれだけの広告が汝の名を借りて為されたことよ!
    九月三日。
訳者雑感:
 沈黙を守って1年余。相手側が出版物販促の広告に、あれほど「学者ゴロ」とかのレッテルで誹謗してきた魯迅の名を出して、しかも「大義」を持っているかのごとくに書いて、自分たちの「主将」と対決させようとしている。
出版業界、(ジャーナリズムに携わる人間も含めて)その道で名を売って表舞台に躍り出ようとする輩は、今も昔も、著名な作家の名を使って、それに対決するような姿勢を取って、それを踏み石にしてのし上がろうとする。人間のやることは変わらない。
   2011/02/15

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