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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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有恒さんに答えて


有恒様:
今日「北新」で貴方の文拝見。私に対する希望と好意あふれるご意見に感謝します、それは貴方の文章からよくわかります。今ここで簡略に私の考えを述べ、貴方と同じ意見を持つ諸兄にも併せお答えします。
今、時間はたっぷりあり、字を書く暇も無いということはありません。だが、議論しなくなってだいぶ経ちました。沈黙の予定は2年間、と昨夏に決めたのですが、それはたいして重要でもなく、児戯のようなものです。今、沈黙している理由は、以前の理由と違います。アモイを離れる時、考えが変わったためです。
この変化の経緯は説明しだすと厄介ですから暫く置いておきます。将来或いは発表できればと思います。単に直近のことを言えば、大きな理由は私の「恐れ」から出ています。この恐れは従来経験したことの無い物です。
 今もまだこの恐れを十分に分析していません。明らかになったことを少し書くと:
1.
ある妄想が崩壊したためです。今まではある楽観を持っていたのです。
青年を圧迫し殺すのは老人だと思っていました。この老人が死んでゆけば中国はきっと生気が出てくると。今、そうではないと悟った。青年を殺すのは大抵青年のようで、しかも再生不能の命と青春に対して何の顧慮もせず、気にもしないのです。もし動物に対してならば、「天の与えた物を、好き勝手に殺戮する」ことになります。特に勝者が得意になって「斧で首を切り落とす」やら「銃剣でめったやたらに刺し殺す」など… 見るだに恐ろしい。私は急進的改革論者ではありませんし、死刑に反対したこともありません。しかし、凌遅(手足等を一つひとつ切断して殺す)と滅族(九族全滅)に対して本当に憎悪と悲痛を表明し、20世紀の人類に有ってはならない事だと思う。斧で首を切り落とすとか、銃剣で殺すことは凌遅とは言えないが、なぜ一粒の銃弾を後頭に撃つわけにゆかないのか?結果は同じ、相手は死にます。しかし事実は事実です。
血の遊戯はすでに始まり、その役を演じるのは青年で、且つ得意満面なのです。この一場の劇がどういう風に終焉するのか、私には分かりません。
2.
 私は自分が一個の……ということが分かりました。それは何か?今すぐには名状しがたい。かつて言ったように、中国は歴来、人間を食う宴をひろげて来、
ある者は食い、ある者は食われます。食われるものもかつては食ったことがあり、今食っている者もまたそのうちに食われます。今分かったのは、自分もその宴に加担していること。貴方は私の作品をご覧になっているから、お尋ねします:読後、貴方の感覚はマヒしましたか、鋭敏になりましたか?昏迷しましたか、活発になりましたか?もし、後者なら私が自分に下した判断は大半事実だということを証明したことになります。中国の宴席に「酔蝦」(酒につけて酔わせた蝦)という料理があり、蝦は生きがいいほどうまいし、気分も愉快になるという。私はこの酔蝦を作る手助けをし、真面目で不幸な青年の脳を醒まし、感覚を鋭敏にさせて、災難に会うと、苦痛を倍加し、彼を憎む人びとにこの敏感な苦痛を賞翫させ、格別の享楽を得させているのです。私は思うのですが、赤軍でも革命軍でも、それらを討伐するさい、もし敵党の学生のような知識分子を捕えた時は、刑罰を特に重くし、労働者や知識の無い者たちより厳しくします。
なぜか? それはより敏感でこまやかな苦痛の表情を見ることで、格段に気分が高まるのです。もし私の考えが間違ってないなら、私の自分に下した判定は、完全に実証されたことになります。
 従って、ついにもう何も言えなくなってしまうのです。
 
 陳源教授流の連中と冗談を言い合う程度なら簡単で、昨日も少し書いたが、実にくだらぬ。彼らは何の問題も無い。彼らはせいぜい半匹の蝦を食べたくらいか、酔蝦の酢を数口飲んだに過ぎません。まして彼らは既に最も敬服する「孤桐先生」の下を離れ、青天白日旗の下へ革命に来たのです。思うに、青天白日旗をもっと遠くにも立てたら、「孤桐先生」も革命に参じるかも知れぬ。
話になりません。次から次へ、みな革命をやろうというのです。
 
 問題は私の落伍です。それともう一点。即ち私の昔の法廷書記の(犯した)罰も取り下げられたようなのです。牡丹を植えて花を得、ハマ菱を植えてトゲを得るのは当然のことで、何の怨恨もない。だが不満はこの罰が重すぎることで、更に悲哀を感じるのは、同僚と学生を巻き添えにしている点です。
 彼らに何の罪があるというのか。ただ私と常に往来していること、私のことを悪く言わないため、今や「魯迅党」や「語絲派」と呼ばれています。これは「研究派」と「現代派」の宣伝が奏効したためです。だからこの一年来、魯迅は原則として「流罪遠島」です。知らぬとは言いません。アモイにいた時、後から周りに誰もいない大きな洋館に住まわされ、私の周囲はただ本だけ。深夜、階下から野獣が「ウオーウオー」と叫ぶのが聞こえました。しかし私は寂しくは感じませんでした。学生も話に来ました。しかし2番目の打撃は:3つあった椅子の内、2つを持ち去ろうとされたことで、なんでも何とか先生の子供が来たので、そちらに使いたいとの由。その時私は怒りました。もし彼の孫が来たら、私は床に坐らねばならないのか、ダメだ、と言ったら諦めたが、3つ目がやってきて、某教授がほほ笑みながら、「又名士気どり」していると言い、アモイでは名士のみが余分の椅子を置いておくことができるような言い方です。
「又」は私が常々名士気どりをしているということを指す「春秋」の筆法で、
貴方も大概おわかり頂けるでしょう。さらに4番目があり、アモイを去ろうとしたら、ある人は、私が去るのは酒が無いのと、他の人の家族が来て気分を害したためだ、という。これもあの「名士気どり」に発している。
 これは思いついたまま書きとめた小事に過ぎぬ。但しこれ一つとっても私が
恐ろしくなって口も開かなくなった事情を御理解いただけると思います。貴方は私が酔蝦になるのを望まぬと思います。私が更に戦うと、多分「心身ともに病」になります。そうなったらまた人に笑われます。勿論そんなことはどうでも良いが、好き好んで酔蝦になどなりません。
 しかし今回私は僥倖にも共産党にされずにすんだ。かつてある青年が陳独秀の「新青年」に私が寄稿したのを以て、共産党の証とした。但し、それは別の青年に覆された。その当時陳独秀はまだ共産のことなど言い出していなかった。
一歩譲って、「親共派」というのもついにはうまく行かなかった。もし私が中山大学、即ち広州を離れたら、そう言われると思う。だが私は離れない。だから新聞に「逃走した」とか「漢口に逃げた」と騒がれたが何も起こらなかった。天下はまだ光明があり、誰も私が「分身法」を持っているとは言わない。今は何のレッテルも貼られず、ただ「現代派」に依れば私は「語絲派の首領」の由。
これは命に何の別状もないし、第2弾が飛んでこなければ大した問題では無い。
もし主役の唐有壬のように「モスコーの指令」などと言い出すとまたややこしくなるが。
 筆があらぬ方に滑ったので、急いで「落伍」に戻ると、貴方はご存知だと思いますが、私はかつて中国には勇気をふるって叛徒を撫哭する弔問客がいないと嘆きました。いまはどうであろうか?この半年、私が一言でも言ったことがありますか。講堂では私の考えを発表しましたが、印刷して文章を発表する場がなかったのです。私はとうに話すらもしなくなりましたが、何の弁解にもなりません。要するにもしあの頃のような何の変哲もない「子供を救え」というような議論をしたら、私自身が聞いても非常に虚しく聞こえます。
 また、以前社会を攻撃したのも実はつまらぬこと。社会は私が攻撃しているのをまったく気にもしていないし、もしそうだとしても、私の身はとっくの昔に殺され、野ざらしにされています。試しに攻撃対象の社会の一分子たる陳源の類は、どう見ているか?況や4億人の人々はどうか?私がまだ生を偸んでいられるのは、彼らの大部分が字を読めないから知らぬので、且また私の文章に効力が無く、大海に一本の矢を放つ如し。さもなくば、雑感数篇が命取りになるでしょう。民衆の悪を征伐せんとする気持ちは、学者や軍閥の比では無い。近来悟ったのは、少しでも革命的な主張は、もし社会に何のさしさわりがなければ、「たわごと」として扱われるが、もし真に影響があれば、提唱者は大概苦しめられ、殺されるでしょう。古今内外、その揆は同じです。目の前の事でも、
呉稚暉先生もある種の主義(空想的無政府主義)を持っていませんでしたか?しかし彼は世の中の人から憤慨されず、積極的に「…(共産党)を徹底的に打倒せよ!」と叫んだりしました。赤党が共産主義を20年以内に実現しようとしているが、彼の主義は数百年後に実現しようとしているに過ぎないから、これはたわごとに近い。人はそんな十余代も先の遠い孫子の代のことなどにかまっていられましょうか?
 長くなったのでここらで終ります。貴方の冷笑と悪意の微塵もない態度に感銘し、誠実にお答えします。もちろん一半はこれにことよせて愚痴をこぼしたのですが、上記は何の謙遜でもなく、私は己を知っており、己を解剖するのは、人を解剖するより情け容赦はしないこと、付言しておかなければなりません。
悪意のかたまりのような批評家がどんなに捜索しても私の真の症候はつかめないから、今回少し書きましたが、それはほんの一部で、まだ多くの事が隠されています。
 私は多分今後何も言いたいとは思わぬし、恐れが去って後、何が後に来るか、
それは知らぬ。多分良い物とは言えぬでしょう。だが私も己を助ける古い方法:一つはマヒ、二つめは忘却を使います。一方であらがいつつ、これから話そうとする「淡い血痕の中に」何かを見つけ、紙に書きます。
       魯迅 九。四。
 
訳者雑感:有恒さんへの返事の中で、彼は攻撃対象の社会は、何の影響も受けず、魯迅の発した言葉は「たわごと」とみなされているか、或いは4億人の民衆の殆どは文字も読めないから、なんの効力も無い。ただ真面目に何とか社会を改善しようと思っている青年の脳を目覚めさせ、敏感にさせて、それが軍閥政権の餌食として、まるで「酔蝦」のように政府の役人たちの「宴席」で珍重され彼らの口に放り込まれてしまう。
その手助けをしているのは彼の書いたものだから、魯迅は恐ろしく感じて、もう書くのは、やめにしよう、社会を攻撃する文章を書いても意味が無い、とまで思いつめている。さあこの後、どう展開してゆくか。続きを訳そう。2011.2.15.訳
 
 

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通信 小峰兄:

小峰兄:
「語絲」数号分拝受。「広東の魯迅」の広告に私の言論の全てがここに収録、とあるのを見ました。それから別の所には‘魯迅著’となっています。これはよくないと思います。
 中山大学に来た目的は、本来教えるためだけでしたが、一部の青年が歓迎会を開催しました。それは具合が悪いと思い、まず初めに私は‘戦士’や‘革命家’じゃないと声明を出しました。もしそうなら、北京やアモイで奮闘しておるべきで:「革命の後方」である広州に身を避けているのだから‘戦士’でない証拠だ、と。
 ところが(開催者の)主席の某氏――その時は委員――が続いて演壇に立ち、
私の話は大変な謙遜で、過去の事実からして確かに戦闘者、革命者だと発言すると、講堂中、一斉に拍手が響き、私は「戦士」と決まってしまい、拍手の後、皆は散会したので、誰に対してそれを辞すことができましょうか。ただ歯をくいしばって「戦士」の看板を背に部屋に戻りました。同郷の秋瑾嬢もこのように拍手を受けて、拍手の中で死んだことに思い到り、私もどうやら「戦死」せざるを得ぬはめになったのかと思いました。
しかたがない。暫く成り行きに任せよう。そうしたらそれから苦しくなったのです。訪問者や研究者、文学の話、思想を探ろうとする者、序を頼む人、署名、演説を依頼する人、大変な騒ぎで亦楽しからずや。一番ニガテは演説で時間が決められ、延期はできない。飛びこみでやって来る青年たちが、勧めつつ迫りきて、引っ張りだそうとします。そして話すのも大概テーマが決まっている。
命題作文は最もニガテです。さもなければ清朝時代、とうに(科挙の)秀才に合格している筈。だがやむなく、ただ起承転結を考え壇上でしゃべる。しかし定例として長くて十分以内としています。でも気持ちは良くない。事前も事後も、親しい人に対して嘆息して、よもや「革命の策源地」に来て、洋式八股文を作ることになろうとは、とこぼしております。
 もうひとつ凡そ何か発表する時は、講義でも演説でもまず自分で目を通さねばいけません。しかし、その時は忙しすぎて、原稿を見ないばかりか、ゲラも見ていません。今回製本され、今日はじめて知ったのだが、一体どうしてこんなことになったのか。中身がどんなものか知らなかった。今私は変な難癖をつけて、ものごとをぶち壊そうとは思いませんが、我々の長年の友情でもって、次の三つを実行するのを許して下さい。
一。書中の私の演説、文章等は全て削除。
二。広告の著者の署名を改正。
三。この手紙を「語絲」に発表。
 こうすれば私は安心できます。他の人が編集した別の人の文は残り、私は安心でき、何の文句もありません。が、もう一つ「広東の魯迅」を見ても魯迅が広東にいることを理解することはできないと思います。表題の後は数十ページの白紙にしたら、「魯迅は広東にいる」と称せるでしょう。
 この一年の境遇を回想すると、実に味わいものを感じます。アモイでは着いたばかりの頃は静かに大人しくしていたが、後に大騒動となり、広東では着いた時は大騒ぎで、それから静かになり、真中が大きくて両端の尖ったオリーブのようです。もし何か作品を書けばこの題が最適だが、郭沫若先生に使われてしまったし、私にはそんな作品も無い。
 当時、私に関する文は多かったでしょう。毎回出るたびに、某教授は魂消んばかりに、「また褒めていますよ。ご覧になりました?」私はうなずいて「見ました」と答えたのを覚えています。次いで彼は「西洋じゃ文学は女が読むだけ」というので「多分その通りです」と答え、心の中では戦士と革命者の虚名はもうじき剥がされることになるだろうと思った。
 当時の情勢から見れば、私がかぶっているのは「紙を糊づけした偽の冠」だと証明した才子(高氏を指す;出版社)たちを怒らせるに十分だった。だがあの状況には別の原因もあるのですが、急ぐことも無いので暫くその話は置いておきます。今申し上げたいのは、新聞にでたいっときの情勢で:今やとうに偽の冠は無くなったのに、新聞ではそれに触れていません。しかし私こと広東にいる魯迅自身は十分知っていますから、次のように書いて、私を憎む先生がたを安心させてやりましょう。
1.‘戦闘’と‘革命’は、以前は殆ど「撹乱」と称されるほどの勢だったが今
やそれから免れ、古い肩書はどうやら剥がれたようだ。
2.序を依頼された本は、すでに(著者の手に)取り戻された。刊行物の私の
署名も取り替えられた。
3.新聞に私は既に逃亡し或いは漢口に到着と言う。手紙で修正を求めたが無
しのつぶて。
4.ある新聞にできるだけ‘魯迅’の二字を出さぬようにしている由。これは
二紙の同一記事を比較して分かった。
5.某紙に私の別の肩書:雑感家が定められ、評して曰く:「その筆法尖鋭なる
こと特に秀で、それ以外他に無い」そして彼は我々と「現代評論」の協力を望
んでいる。何故か?「両派の文章思想をつぶさに見ると、初めから大差は無い」
(今分かったのだが、これは上海の「学灯」からの転載。道理でさもあらん。
閣筆後追伸)
6.ある学者(顧頡剛氏:出版社注)が私の文章が彼に損害を与えたとして訴
訟するから「暫く広州を離れずに開廷を待て」と命じている。
ああ、仁さん、一体どうしたら良いでしょうね。(北京を支配していた軍閥の)
五色旗の「鉄の格子窓と斧と鉞で殺されそうな所から逃げ出して、(国民党の)
青天白日の下でもまた「黒縄で縛られる憂い」に会うとは。「孔子曰く:それは
その者の罪ではない。よって娘を彼に妻(めあ)わす」などという僥倖はめっ
たに起こらないでしょう。嗚呼!
 しかしそんなことはたいしたことでもなく、以上のことは正に「小さな病を
大げさに呻吟」せるのみ。私の言いたいのは、皆さんに私が高い壇上で「思想
革命」を指揮しているなどと誤解しないでもらいたいだけです。特に一部の青
年がなぜ私が発言しないのかを理解できないことです。また何か言ったら永久
に「広州を離れるな、開廷を待て」となりましょう。昔の言葉に「是非をとや
かく言われるのは口出しするのが多いせいで、悩みの増えるのも何にでも首を
突っ込むからだ」と。
私の遭遇したことは社会の常だから、どうってことも無いが、悲哀を感じる
のは私と一緒に来た学生が今でも入学できずに苦労していることです。補足すると、彼らは全て共産党では無いし、親共産でもない。苦しさの原因は私を知っていることにある。一人などは同郷の人から「今後二度と魯迅の学生だと言うな」と忠告された。某大学は特にひどい。「語絲」を読んでいると「語絲派」、私を知っていれば「魯迅派」とされるのです。
こんなことはもううんざりです。正人君子たちを安堵させるのに十分です。もうひとつ付け加えると、これは一部の人々の私に対する状況で、これ以外
私を忘れた者、或いは今も私と往莱する者、または文章を頼みに来たり、講演してくれと言う人もまだいます。
「語絲」は昔通り、読むのが楽しく寂しさを吹き飛ばしてくれます。が私の意
見として南方に関する議論には少し隔たりを感じます。例えば正人君子の南下
をとても奇としていたようだが、「現代」はここでは良く売れているのを御存じ
ないようだ。遠く離れているから無理も無いが。アモイの頃はただ共産党という総称だけを知っていたが、こちらではCP,CYの区別を知りました。近頃は非共産党も何何Y、何とかYと称すのが一つや二つではききません。一団体が正統と自認し、人の思想を監督しているように感じます。どうやら私もその列に入れられたようで、時に詰問式の訪問者が来ます。彼らがそういう連中ではないかと思う。確かなことは分からない。もしそうだとしても、名前も分からない。聞いたことも無いような名前なのです。
 以上いろいろ書きましたが愚痴です。正人君子は今回私を尋問し、「どうだ、苦しさが分かったか。悔い改めるか?」と多分彼らだけでなく、私に好意を持ってくれている人も訊くだろう。私の仁大兄、貴方もその一人かも知れぬから、即回答します:「全く苦しくも無いし、悔やんでいません。それどころか面白いと思っている」と。
 七面鳥の鶏冠のように色がころころ変わり、「開廷まで待つ」間、気の向くままに見てみたら実に面白い。正人君子の一群は「孤桐先生を敬服する陳源教授即西瀯まで、公理と正義の蔵である東吉祥胡同を棄てて、青天白日旗の下で任務に当たろうとし始めた。先日見た「民報」の広告に、私の名の前に「権威」の二字を付けたので、当時陳源教授のけなしようはすごかった。今回「閑話」の出版広告に「文芸批評界の権威を知ろうとするなら、何を置いても「閑話」を読まざるべからず!」これはほんとに私をいい気持ちにさせ、それまで、もともと「君はこんなところへ入らないように」と言っていたところに自らはまり込んだのです。
 だが、その広告にはかつては「学者ゴロ」とされていた魯迅を今回はどうしたはずみか「先生」と尊称し、突然この「文芸批評界の権威」として宣伝された。二つの権威のうち一つはニセで、もうひとつが本物。ひとつは「権威」にけなされた「権威」と「権威」をけなした「権威」です。嗚呼!
お休み。私は元気にやっています。 魯迅 9.3.
 
訳者雑感:
 魯迅が3.18事件以来、徹底抗戦している章士釗は、段祺瑞政権の内閣で大臣を務めた如く、学者であるとともに政治家であった。中国では胡適もそうだし、
文人学者が政治世界で活動することこそ、本領だと考えているような節がある。
 章は1949年以降も中国に留まり、今年の2月の春節の香港鳳凰テレビによると、1962年の春節の宴席に毛沢東が招いた客の中に、溥儀と共に章士釗の名がある。彼がその後、自ら考えを革めて、共産党政権に参加したもののようだ。
どういう背景があるのか、調べてみよう。
  2010.2.9.訳
 
 
 
 
 

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読書について

 716日 広州知用高校にて
 本校の先生方の要請を受け、本日皆さんとお会いすることができました。
特に話すこともなくどうしようか悩んでいました。学校というのは勉強する所だと思い到り、勉強――読書について話してみることにしました。
 個人的な意見ですが諸君の参考にして下さい。大した話にはなりませんが。
 読書というと本を読むことというのは当たりまえのことですが、簡単なことではありません。少なくとも2種類あり:一つは職業としての読書、もう一つは趣味としてので。職業としての読書:勉強は学生の進級のため、教員の授業の為で、勉強せねば危ういことになる。諸君の中にもきっと経験があると思うが、数学が嫌いで、または生物が嫌いだけど勉強せざるを得ない。さもないと卒業できない。進級できないと将来の生計に響く。私自身もそうで、教員だからしたくもないものも勉強する。しないと飯を食いはぐれる恐れ有り。我々は習慣的に読書を高尚なように思うが、この種の読書は大工が斧を研ぐのや、お針子が糸と針を整えるのと同じで、なんら高尚なことも無い。時に苦痛で憐れである。好きなことはさせてくれず、したくないことをせねばならず、これは職業と趣味が一致しないために起きるのです。もし誰もが好きなことをして飯が食えたらどんなに幸せでしょう。が、今の社会ではそうはできないから、勉強する人の大部分はたいてい無理やり苦痛を感じながら、職業のために勉強するのです。
 ここでもう一度趣味の読書の話をすると、それは自分の願望で、強制でなく、
利害関係も無く、趣味の読書はマージャン好きと同じで、毎日毎晩やり、続けてやる。警察に捕まっても出てきたら又やる。注意しときますが、ジャン士の目的は金儲けではなく、趣味なのです。バクチにどんな趣味があるか、門外漢であまり詳しくないが、賭博の好きな人の話では、その妙は一枚一枚の自摸
(つも)にあり、永遠に変化きわまり無いところだそうです。凡そ趣味の読書の、本を手放さない理由はここいらにありましょう。一ページごとに深い趣を感じる。もちろん精神を大きくし、知識を増大させますが、これは計算できないことで、計算したら金目当ての博徒と同じで、それは博徒の間では、下等とされます。
 が、私は、諸君が退学して好きな本を読めと言っているわけではありません。
そういう時はまだ来てない:ひょっとして永遠に来ないかもしれない。うまくいって、将来なんとかして人としてやらねばならぬことに対して、できるだけ多くの興味を持てるようにするくらいかと。
本の好きな青年は本分以外の本を、即ち課外の本を大いに読むよう勧めます。
課内の本だけに囚われぬように。誤解しないようにしてほしいが、例えば国語の授業中に引き出しに隠した「紅楼夢」を盗み読めとは言っておりません。
やるべき授業を終えた後、余暇にそうした本を読んでもよい。本業と関係の無い物もひろく読めということです。理科を学ぶ人は文学書も読み、文学を学ぶ人も科学書も読む、他の人がそこで研究しているのはどんな事なのかを見てみる。こうして他の人、別のこともより深く理解できる。今の中国に大きな欠点があります。自分の学んだものが面白くて一番良い、大切な学問だと考えて;
他のはすべて無用で取るに足らぬ。それをやっている人は将来餓死すべしとまで考えている。だが世界はそんな単純じゃないし、学問は夫々用途があり、何が一番かを決めるのは大変難しい。幸い色んな人がいる。もし世界中すべてが文学家でどこへ行っても「文学の分類」や「詩の構造」の講義では、何ともつまらぬことになる。
 以上のことは付随的効果で、好きな勉強は本人もそんな計算はしないし、公園で遊ぶ如く気ままに読み、気の向くままにやるから苦労とも思わないし、苦にしないから面白くてたまらない。一冊の本を手に「さあ読むぞ!学習するぞ!」などと考えたらすぐ疲れ、興味もなくなるし苦しみに変わるでしょう。 
 今の青年は興味から読書している人もおり、色々な質問を受けます。それで私の考えを説明しますが、他のことは知りませんから、文学の面のみです。
 第一、文学と文章をはっきり区別しないのをよく見かけます。評論を書こうとしている人すらこれがあります。実はごく大まかに言っても簡単に区別できます。文章の歴史や理論を研究するのが文学家で学者です:詩や戯曲、小説を書くのは文章を書く人で、古い時代の所謂文人で、今日の所謂創作家です。
創作家は文学史や理論を少しも知らなくても構わない。文学家は一篇の詩を作れなくても可です。だが、中国社会には誤解が多く、何篇かの小説を書いたら、小説理論を知っているとみなし、新詩を幾つか作ったら詩の原理を話せという。
これまで小説を書こうとする青年が、先ず小説作法と文学史を買ってきて読んでいるのを見ました。それらの本をどんなに熟読しても創作とは何の関係も無いと思います。
 事実として今文章を書く人は教授もしているのは確かです。これは中国では創作がお金にならないためで、生活できぬからです。アメリカの少し売れた作家の中編小説は2千ドル:中国は他の人は知りませんが、私の短編は大手出版社に寄稿しても一篇20元です。当然他のことをせねばなりません。教師や文学の講義をする。研究は冷静さと理智が要りますが、創作には情感が必須です。
少なくとも情熱を発しなければできないし、そこで冷静になったり熱くなったりすると、頭がくらくらしてきます。これが職業と趣味を一致できない苦しい所です。苦しんでも結果として二つとも良くないことです。その証拠に世界の文学史をみれば、その中には殆ど教授を兼ねている人はいません。
 もう一つ良くないのは、教員だとどうしても何か配慮しなければならない:
教授なら教授という肩書があり、言いたいことも言えない。これには反論する人もいて:そんな遠慮などせず言いたいことをどしどし言えば良いという。
しかしそれは事件の起きる前の話で、事件が起こってからは、知らぬ間に大衆の間にまぎれて攻撃してくるのです。教授自身もどんなにこだわらないと思っても、無意識にこの肩書から逃れられないのです。だから外国には「教授の小説」というのがありますが、大抵の人は良くいわないのです。どうしても煩瑣なてらいを感じざるを得ないのです。従って文学研究は一つの分野で、文章を書くのは別のものだと思うのです。
 第二はよく聞かれますが、文学を学ぶにはどんな本を読むべきか?です。これはとても難しい。かつて何人かの先生が目録を出した。しかしそれは役に立たぬと思う。それは目録を書いた先生が、自分が読もうとしているか、或いは
必ずしも読みたいと思っていないものだからです。もし古い本ならまず張之洞
の「書目答問」から入門すれば良い。新しい文学研究なら自分で各種の小冊子、例えば本間久雄「新文学概論」厨川白村「苦悶の象徴」ボロンスキー「ソビエト ロシア文芸論戦」の類を読むと良い。その後で、また考えながら博覧するのが良いでしょう。文学理論は数学のように2X2=4ではないし、議論もいろいろ分かれます。例えば第3のロシアの両派の論戦について付言すると、近来ロシアの小説は余り読まれなくなったそうだが、どうやらロシアと聞いただけで
ビックリするようだが、ロシアの新しい作品は紹介はされているがまだ翻訳されていないので、全て革命前のもので、その作者はあちらでは既に反革命とみなされています。
 もし文芸作品を読みたいなら、まず何人かの著名な作家のアンソロジーを見て、自分の好みに会うと思ったら作者の選集を読み、文学史上でどんな位置にあるかをみる:より詳しく知りたければ、その人の伝記を12冊みれば大略は理解できます。人に教えを請うだけでは各人の趣味も違うし、やはり人夫々でしょう。
 第三に批評について:いま出版物が多すぎて、実際どういうことかと言うと、
読者はあまりの乱雑さに批評を渇望し、批評家がそれに応じたのです。批評というのは少なくともその批評家と趣味の近い読者にとっては有用です。だが、今の中国はどうも違うと言わねばならないようです。往々、人は批評家が創作に対して生殺与奪の権を握っていて、文壇の最高位を占めたものが、忽然と評論家になったと誤認しています:彼の霊魂には刀が掛っている、と。しかし彼は、自分の立論が周到でないかと心配しながら主観を持ち出し、また時には自分の観察が人から軽んじられるのを怖れて、客観を持ち出す:時には自分の文章の根底がすべて同情に基づくと言い、時には校正者を一文の値打ちも無いと罵る。凡そ中国の批評は見れば見るほど出鱈目でいい加減と思う。もし彼らの言う事が本当なら、歩むべき道すら無くなって仕舞います。インド人はこのことを以前から知っており極一般的な比喩で説明します。(イソップ?出版社注)
 老人と子供がロバに荷を載せて売りに出かけた。売り終えて、子供がロバに乗り、老人は歩いて帰った。道行く人が老人を歩かせるとは!と非難。それで交代した。暫く行くと別の人が老人を酷だと非難。老人は子供を抱えて鞍に乗せた。それをまた別の人が残酷だというので二人とも降りた。それからまた次のひとが、空のロバに乗らずに歩くとは間抜けなことと笑った。二人はため息をして、こうなったら残るは一つ、二人でロバをかついで帰った。
 読むにしろ書くにしろ、人の言う事をすべて聞いていては、ロバを担ぐことになりかねません。
 しかし私は批評を見ないと言う訳ではありません。見た後、やはりその本を読んでみて、自分で考え観察するのです。ただ本を読み、博識だが世情に疎い人間になり、自分で面白いと思っても、その趣味はすでにだんだん硬化し、死んでゆくのです。私は先に青年が研究室にこもるのに反対したのもこの意味からですが、学者の一部の人は今もそれを私の罪状に数えています。
 イギリスのバーナードショーはこう言っています。世の中で最もダメなのは読書する者。彼はただ他人の考えや芸術を鑑賞するだけで、自分を用いないから。これはショーペンハウエルの言うところの脳の中に人の馬を走らせるのと同じです。それよりは思索するのが大切だとしています。自分の生きた活力を用いることができるからだが、これとてそれも空想から逃れられません。より良いのは、自分の目で世間という生き生きとした本を読むことです。
 これは確かなことです。実際の経験は読んだり聞いたり、空想よりも常に確かです。依然ライチーを食べました。缶詰めでしたが、それで新鮮な物を想像していました。今回食べたら、考えていたものと違っていました。広東にこなければ永遠に分からなかったでしょう。私はショーの説に一点補足したい。彼はアイルランド人で、立論には偏った、激した所が少なくない点です。広東の田舎の余り経験の無い人を、上海か北京あるいは他のどこかへ連れて行き、観察したことを訊いても、多分非常に限られたものに過ぎないでしょう。観察力を培ってないからです。だから観察するなら、まずは思索と読書を経ねばなりません。
 要約すると、私の意見は簡単で:自分から読もうとすること、即ち趣味としての読書は、他人に教えを請うても役にたちません。ただ、まず広く読み、然る後、自分の好きな一つか幾つかの専門的な分野を択び:そして只本をよむだけではダメで、必ず実社会に接して、読んだ本を生かすことです。
 
訳者雑感:
 魯迅は文部省の役人の給与(月3百元、但し遅配、無支給多発)をベースに
北京大学や女子師範の教師も兼任しながら、創作していた。講義の中身は後に
「中国小説史略」などになったが、これは彼の分類では「冷静さと理智の要る」
文学家の仕事。その一方で情熱を発しなければ書けない創作をするのだから、
頭がくらくらするのを、実感したであろう。
 世界文学史に残る作品は、ほとんど兼任教授はいない、というのはどうだろうか。森鴎外は軍医のトップや帝国博物館長などしながら、沢山の著作を残した。軍医のトップとかは冷静さが要求される役職だろう。だが正式にどこかの教授をしたとは知らない。初期の創作と、役職が上になってからの所謂「歴史もの」には「情熱の発露」と「冷静さと理智」の夫々の面が見てとれる。彼の作風は魯迅のように同時に冷やしたり熱くしたりで頭がくらくらするようなことはなかったろう。時間軸がだいぶ離れていたようだ。
 夏目漱石も大学で英文学を講じながら多くの作品を書いたが、晩年は東大教授という社会的地位を棄てて、朝日新聞の小説のための社員となることを選んだ。収入の面も大きな問題のひとつだったとも伝えられている。
勿論朝日の社員として書いた「こころ」などの作品の深遠さは、教師だったころの作品とは比較できぬが、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」の方が、多くの一般的日本人にはよく読まれていた。(最近はどうか)
 魯迅も勿論晩年の上海時代の雑文などの影響は深遠なものがあるが、文学史的にみれば、兼任教師だったころに「頭を冷したり熱くなったり」もがきながら書いた「阿Q正伝」や「狂人日記」「故郷」などが代表作として挙げられよう。
 いずれにせよ、文学者イコール文章家ではないということは確かだが、魯迅と漱石に限っていえば、文学者でもあり文章家であったことは間違いない。そして二人とも大学教授を辞めて文筆に専念したが、十年前後で病死した。惜しいことだが、その間に成し遂げたことが彼らの本領だったと思う。
   2011/02/04
 

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「労働問題」への前書き

昨夏北京にいた頃、張我権君(権→軍:出版社)に会った時、こんなことを言われたことを思い出した:「中国人はみな台湾を忘れてしまったようだ。
誰も提起すらしなくなった」と。彼は台湾の青年である。
 私はその時、グサッと痛みを受け苦しんだが、口から出たのは「いや、そんなことはない。本国がメチャクチャで、内憂外患にさらされ自らさえ顧みる暇も無いから、台湾のことにしばらく手が回らない……」
だが、今まさに困苦の中にいる台湾青年は、中国の事はしばしといえども放っておけない。中国の革命が成功することを望み、中国の改革を支援し、なんとか力を尽くして、中国の現在と未来に役に立ちたい。たとえ学生の身分でも。
 張秀哲君には広州で始めて会った。数回話して、彼が「労働問題」を中国語に訳したことを知り、私に簡単な前書きを頼んできた。私は前書きを書くのがへただし、そういうことをするのも賛成しない:まして、労働問題には疎いから、口を挟む資格も無い。ただ言えるのは張君が中日両国語に極めて精通していて、訳も信用が置けるという一点だ。
 ただ、私はできるなら何句かこの翻訳書の前に書きたいと思う。労働問題は詳しくないが、訳者が遊学中に民衆の為に力を尽くしたいという努力と誠意を感ずるためである。
 私は以上の言葉で、私個人の感激を表すのみ。だが、この努力と誠意はきっと読者も感じると信ずる。
これは事実どんな前書きより有力だ。
    19274.11 魯迅 広州中山大学にて
訳者雑感:日清戦争で日本に割譲されて30年後の台湾からの留学生に、北京や広州で魯迅は会っている。彼らが本国人が台湾のことを忘れてしまった、と嘆きつつ、一方で自分たちの祖国がメチャクチャになっているのを放って置けない。そんな努力と誠意に報いたのがこの前書きだ。
 日本が日清戦争までの2千年近い中国からの片貿易的な文化輸入から、膨大なものを取り込み、自分の血肉としてきた。1895年以降、清国及び中華民国の大量の青年が、日本から片貿易的に膨大な数の文物を取り入れ、日本語から大量に翻訳して本国に紹介した。それは一刻も早くメチャクチャの状態から立ちあがるための「努力と誠意」であった。この4文字はそのまま魯迅にもあてはまるものだ。仕事に倦むと藤野先生の写真を見ながら、次の執筆に向かう姿。
    2011/02/01

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革命時代の文学 


 48日 黄埔軍官学校にて(講演)
 今日の話は「革命時代の文学」です。
本校から何回もお招きを受けましたが、いつも何とか理由をつけ延ばしてきました。何故か?諸君が私を呼ぶのは多分私が小説を書く文学家だから、私の文学の話を聞きたいからだと思ったためです。しかし私は文学家じゃない。何も知らぬのです。最初正式に学んだのは鉱業で石炭採掘なら文学よりうまく話せます。勿論嗜好として文学書はよく見ていますが心得はありません。諸君の役に立つようなことは話せません。かてて加えて、ここ数年の北京での経験から、これまで知っている先人たちの文学論議全てに懐疑を持ちました。それは(3.18事件の)学生を銃殺した時です。文字の禁も非常に厳しくなり、文学、文学というが、実はもっとも役に立たぬもの、力の無い人間のいうことで:力のある人間は口を開かずに人を殺し、圧迫された人は何か口に出し、何か文字を書くが、すぐ殺され:殺されなくとも、一日中吶喊して苦しみを訴え、不満を訴えても、力のある人はやはり圧迫、虐待し、殺戮するのです。彼らに抵抗する手立ても無く、こんな文学は人間のために何の役に立つのかと思いました。
 自然界も同様、鷹が雀を捕える時、一声も出さぬは鷹。チュッチュと鳴くのは雀:猫が鼠を捕える時も、音を立てぬは猫。チュー チューと叫ぶのは鼠:結果、口を開く者が開かぬものに食われる。文学家はなにかうまいこと書いて何冊か作品を出し、その時は称賛され何年かは虚名を博すが、たとえば烈士の追悼会の後、烈士のことはとうに話題に上らず、みんなして誰の挽聯(死者を悼む対句)がうまいかということに話が向かう。これは実に安気なビジネスなのでしょう。
 この革命(震源地)の文学家はおそらく文学と革命は大いに関係があると言うでしょう。例えば革命を宣伝、鼓吹、扇動すれば革命を成就できるという。
だが私はそんなものは無力だと思う。良い文芸作品の多くは、これまで命令を受けたり、利害を考えたりせず、自発的に心から流れ出たもので、もし先にテーマを掲げて文章を書くなら、八股文と何の違いがあろうか。文学として無価値で人を感動させる云々など言うに及ばぬ。革命の為には「革命人」が要るが「革命文学」は急いても仕方のないことで、革命人が書いたものこそ革命文学だから、革命はむしろ文章に関わりがあると思うのです。革命時代の文学と平時の文学は違います。革命が来たら文学は色彩を変える。但し大革命は色彩を変えられるが、小革命はできません。大した革命でないときは文学の色彩まで変えられません。当地では「革命」というのはよく耳にしますが、江浙では革命と聞いただけでたいそう恐がるし、口にしたら大変危険です。「革命」は決して珍しくもないが、ただそれが現れて始めて社会は改革され、人類は進歩でき、アメ―バーから人類に、野蛮から文明になれたのも一刻として革命で無い時はありません。生物学者は、「人類と猿は大した差はなく、人と猿は遠い親戚」という。ただ人類がなぜ人になり、猿はいつまでも猿か?それは変化を肯んじなかったため――四本足歩行に執着したため。多分あるとき一匹の猿が立ち始め、二本足で歩こうとしたが、多くの猿が「我々の先祖はこれまで這って来た。お前が立ち上がるのを許さん!と咬み殺した。彼らは立ち始めるのを肯んじないだけでなく、話すのも肯んじなかった。守旧のためです。
 人類は違う。立ち上がり始め、話し始めた結果、勝った。だがまだ完了していない。従って革命は決して珍奇なものではない。凡そ今日まで滅亡せずに
きた民族は、日夜革命に努めている。往々にして小革命に過ぎないけれど。
 大革命は文学にどんな影響を与えるか。大きく次の3段階に分けられる。
 
1。大革命の前、全ての文学は大抵いろいろな社会状況の不満を訴え、苦痛を感じ苦しみを叫ぶ。世界文学の中でこの類のものは大変多い。だがこうした苦しみや不満を叫ぶ文学は革命に何の影響も無い。苦しみや不満を訴えるのは何の力も無い。圧迫者は何も構わない。鼠がいくら鳴いても、たとえどんな素晴らしい文学を書いても、猫は何の遠慮も無く食べてしまう。だから只苦痛不満を訴える文学しかないとき、その民族は希望が無い。只苦痛不満を叫ぶにとどまるから。訴訟を例にとれば、負けた方が冤罪の判決を受けると、相手側はもはや彼には再訴訟の力が無いと知り、これにて終了となる。だから苦痛や不満を訴える文学は冤罪だと叫ぶに等しい。圧迫者は却って安心する。ある民族は苦痛を叫ぶのも無用だとしてそれもしないで、沈黙の民となり、だんだん衰退する。エジプト、アラブ、ペルシャ、インドは声なき民だ!
 反抗心の旺盛な、力を蓄えた民族は、苦しみを叫んでも無用と悟り、覚悟を決めて哀しい音調から怒りの怒号に変わる。怒号の文学が出現すると、反抗はまもなく始まる:彼らはすでにとんでもなく憤慨しており、従って革命爆発時代が近づいた文学は、常に憤怒の声を帯びており、反抗に立ちあがり仇を討とうとする。ソビエトロシア革命が起こらんとする時、こうした文学が出た。だが例外もあり、ポーランドは早くから仇を討つ文学があったが、再興したのは欧州大戦によってだった。
 
2。大革命が来ると文学は無くなる。声すらでない。
全員が革命の潮流の疾風怒濤のなかで、叫びから行動に移り、革命に忙しく、
文学空談の閑無し。それにそうなると民生もたいへんで、ひたすらパンを求めるが、入手できないから文学を語る気にもなれない。守旧の人は革命潮流の打撃でボー然自失、所謂彼らの文学を再び歌うこともできない。
 文学は窮乏に苦しむ時にできるという人もいるが、必ずしもさにあらず。
窮乏に苦しむときに文学作品はできない:私が北京にいたとき窮乏し、いろいろなところにお金を借りに行かねばならず、一字たりとも書けなかった。
給料が出てやっと坐って文章を書けるようになった。大革命時代はとても忙しく、同時に大変窮乏するので、こちらの勢力と相手側とが闘争し、まず現在の社会状況を変換せねばならず、文章を書く時間もそんな気持ちもない:大革命時代の文学はしばらく低迷する。
 
3。大革命成功後は社会の状況は落ち着き、人々の生活に余裕が出ると文学が生まれる。この時の文学は二つあり:一つは革命称賛謳歌する物。進歩的文学家は社会の変革前進を願い、旧社会の破壊と新社会の建設に意義を見いだす。一面で旧制度の崩壊を喜び、もう一面で新建設を謳歌する。
 もう一つは旧社会の滅亡を悼む――挽歌で、革命後も残るもので、これを
「反革命文学」とみなす人もいるが、そんな大罪を着せる必要は無いと思う。
革命は進行中だが、社会に旧人間はまだ沢山いて、決してすぐに新人間には変われない。彼らの頭脳は旧思想、古い物が一杯で、環境が徐々に変わり影響が彼ら全体に及びだしたとき、旧時の心地よかったことを回想し、旧社会を懐かしみ、恋しがる。古いことを話し出し、こうした文学を作る。この種の文学はみな悲哀に満ち、彼らの気持ちの淋しさを表現する。一面では新しい建設の勝利を見、一面では旧制度の滅亡を目の当たりにするから挽歌を唄い出す。
只懐旧、挽歌は既に革命がなされたということを示す。もし革命が成らなければ、旧い人物は勢いを盛り返し、挽歌など唄わない。
 
 だが今の中国はこの二つとも、即ち旧制度への挽歌も新制度への謳歌も無い。中国の革命はいまだ成っておらず、正に交錯状態で革命に忙しいためである。しかし旧文学は依然として多く、新聞の文章は殆どすべて旧式だ。これは中国の革命が社会に対して大きな変革を与えていないし、守旧の人も大して影響を受けていないから、旧人も依然として世俗の外に悠然としていられるのだと思う。広東の新聞に載る文学は全て旧式で新しいのは大変少ない。これは広東の社会が革命の影響を受けていないことの証明:新しいものへの謳歌も、
古い物への挽歌も無く広東は十年前の広東のままだ。そればかりか、苦しみも叫ばず、不満も訴えていない:ただ組合のデモに参加するのを見るだけ:だがこれは政府の許可したもので圧迫への反抗じゃなく革命奉賛にすぎない。中国社会が変わっていないから懐旧の哀詞も斬新な行進曲も無い。ただソビエトロシアにはこの二種の文学が生まれた。彼らの旧文学者は国外逃亡し、滅亡せしものを悼み、旧きを挽歌する哀しいことばを書いた。新文学は今まさに前進せんとしているが、偉大な作品はまだ無いが、新作はたくさんあり、彼らはすでに怒号の時代を過ぎ、謳歌の時期に入ろうとしている。建設を賛美するのは、
革命が進行した後の影響で、今後どうなるか今は分からぬが、推測するに多分平民の文学だろう。平民の世界というのが革命の結果である。
 今の中国には勿論平民の文学は無いし、世界にもない。全ての文学、歌や詩は大抵、上等人に見せるもの:彼らはお腹がいっぱいになりソファーに横になって読むのだ。才子が佳人に会い、二人が愛し合い、才子でない男がひっかきまわし間違いが起こるが、ついにはめでたく団円で終る。こうしたものを読むのはなんと心地よいことか。あるいは、上等人がどれほどすばらしく、快楽か、下等人がどれほどおかしいかを説く。数年前「新青年」に数篇の小説が出た。罪人が寒冷地で暮らす描写を見て、大学教授はなにも面白くも無い、と言った。こんな下等人を見たくも無いからである。もし詩歌が好きな車夫を描いたら下流の詩歌になり:戯曲の中に犯罪人が出たら下流の戯曲になる。劇の配役もただ才子と佳人のみ。かつ才子は状元(科挙の再優秀合格者)で、佳人は一品夫人に封ぜられ、才子佳人の当人はたいそう喜び、観客もそれをみて喜ぶ。下等人は如何ともしがたい。只彼らと一緒に喜ぶしかない。今、平民
――労働者農民――を材料に小説や詩を書く人がいれば、これを平民文学と称すが、実はそれはまだない。平民はまだ口を開いていないからだ。これは他の人が平民の生活を見て平民の口吻に仮託して書いたものだ。眼前の文人は窮乏してはいるが、労働者農民より豊かで、それだから金を払って本も読み、文も書ける:ちょっと見た限りでは平民が話しているように見えるが、そうではない:これは本当の平民小説ではない。平民の歌う山歌や野の曲は、ある人たちが書いたものを、大衆のみんなが歌っているから平民の音だという。だが彼らは間接的に古い書物の影響を受けており、郷紳が三千畝(ム―)もの田畑を有すのを、とっても敬服しており、郷紳の考えを自分の考えとしてしまっており、
彼らの吟じ憧れているのは五言詩、七言詩だから、彼らの歌う山歌、野の曲も大半は五言か七言だ。これ即ち格律に従ってつくり、構造(しくみ)から意味を取ろうとする、とても陳腐なもので、真の平民文学とは言えない。
 現在、中国の小説と詩は外国に比べるほどのものは無い。如何ともしがたく、
只文学と称すのみ:革命時代の文学はおろか、平民文学などと口はばったいことは言えぬ。現在の文学家はみな読書人で、もし労働者農民が解放されず、労働者農民の考えが読書人と同じなら、労働者農民が本当の解放を得た後、はじめて真の平民文学ができる。一部の人は「中国にはすでに平民文学がある」というが、実際には無い。
 諸君は実際の戦闘者であり、革命の戦士ですから、当分は文学を敬服せぬ方がよろしい。文学を学ぶことは戦争には何の益もない。よくてせいぜい戦歌をつくるに過ぎない。もし上手く書ければ、戦いの合間に、休憩のときに読むのは良いだろう。少し格好よく言うなら、柳を植え成長したら枝が木陰をつくり、
農夫が昼まで耕作した後、木陰で昼飯を食べ休む。中国の今の社会情勢は実際の革命戦争あるのみで、一首の詩で(北洋軍閥の)孫伝芳を脅かすことはできぬが、一発の砲弾は孫を駆逐できる。もちろん文学は革命に対して偉大な力がある、と考える人もいるが、私個人としては懐疑的である。文学はどうしても余裕の産物で、民族の文化を表すというのが本当のところだ。
 人間は大概自分の今やっていることに不満で、これまで何篇かの文章を書くことができただけで、やっていていやになるが、鉄砲をにぎる諸君は文学の話を聞きたがる。私は当然、大砲の音を聞きたいし、大砲の音は文学のそれより、
気分が良いように感じるからかも知れない。
 以上、最後まで聞いてくれて諸君に感謝します!
 
訳者雑感:これを訳している時、エジプトの民衆がムバラク打倒に立ちあがった。魯迅がここで声なき民の筆頭に挙げているのがエジプトだ。かつて世界でも最も華やかな文明国だった国。魯迅が指摘するように今まさに30年のただ苦しみを叫び、不満を訴えていただけでは何の革命も起きない、と認識して怒号に代え、実力行動に移りつつある。だが小革命に過ぎぬ。大革命はこうした各地の小革命が積み重なって、ムバラク政権を打倒し、彼を国外に追い出し、新しい指導者が出現することだ。誰がムバラク後のエジプトを統治できるか?
パーレビ後のイランのような宗教的カリスマが出なければ、エルバラダイ氏には任が重いようだ。
 中国の戯曲は悲劇も多いが、観客が繰り返し観劇にくるのはやはり魯迅が述べているように、才子が佳人に出会い、大団円で幕が下り、その幕がまた上がり、主演者がお辞儀し、ヒロインや主要な役者をつぎつぎ招き入れて観客の拍手を受け、スタンディング オベーションで余韻が続くというのが通例だ。
 欧州のオペラも、中らずといえども遠からず。文学も戯曲も余裕の産物であり、パンにありつけない時はだれもそんな余裕はない。見るのもやはりお金を出して自分の大切な時間を費消するのだから、見たあとの余韻がいつまでも残る名作を見に行くのが一番安心である。 安気なビジネスが一番安全である。
しかし魯迅の作品に、そういう戯曲になりそうなものは無い。深刻な物が多い。
   2011/01/31
 

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中国人の顔について

人は見慣れぬものを見た時、大抵おかしな物と思う。始めて西洋人を見た時、顔はとても白いし、頭髪は黄色で目の色は淡く、鼻は高いと感じた。
なんの理由も無いが、要するに人間の顔はこんなんでは良くないと思った。
中国人の顔には何の異議もない:譬え美醜の差はあれ、みなまずまずである。
 どうも我古代人は自分たちの顔に安心できかったようだ。周の孟軻は目を見
て相手の心の正邪を判断し、漢代には「相人(人相)」24巻あり、後にこれ
らのことを扱うのが盛んになり、分派ができ、両派に分かれ:一つは顔から当
人の智愚賢不肖を見:もう一つは当人の過去現在未来の栄枯を見る。それで天
下はこれ以降すこぶる多事になり、多くの人が戦々兢々と自分の顔を研究する
ようになった。鏡の発明もこうした人たちと娘たちにとって大変功労があった。
 だが、前の一派は最近あまり研究する人がなくなり、北京上海で人騒がせな
トリックを使うのは、後の一派のみである。
 これまで西洋人の顔を注意して見てきた結果、彼らの皮膚が粗いのと産毛が白いのも良くないと思った。皮膚に赤い斑点があるのも白すぎるせいで、我々のような黄色に如かず。とりわけ赤鼻はよろしくない。時にはまったく溶けそうなローソクのようで、ポトンと落ちそうで、見るからに危ういし、黄色人の方が比較的安定して安全に見える。要するに顔はあんな風ではよろしくない。
 その後西洋人が描いた中国人を見て、彼らが我々の顔に対しとても不敬なのが分かった。それは「千一夜物語」や「アンデルセン童話」の挿し絵のようではっきりとは覚えてないが、頭に花飾りの赤い紐つきの帽子を被り、辮髪を空に飛揚させ、礼装用の白い底のとても厚い靴をはき、化粧も濃い。だがこれらはすべて満州人が我々に強制したものだが、両の目は歪っていて、口を開けば歯がこぼれるのは我々本来の顔である。その時思ったのだが、実際はこんなひどくは無い、外国人が我々を辛辣に見下して、極端に描写したのだと思った。
 しかしその後、中国の一部の人の顔に対してだんだん不満を感じだした。それは見たことの無いものや、美人を見るときに、また心酔するような話を聞くときに、下あごが、でれーっと下がり、口をあけるのだ。実にみっともない。
何か精神的なパーツが欠けたようだ。人体研究の学者に依れば上あごと下あごについている「咬筋」は大変な力を持っていて、子供の頃クルミを食べたい時、まず戸の隙間でカラを砕くが、歯の良い成人なら咬筋を収縮すればクルミは砕ける由。そんな怪力の筋も時にたいして重くも無い下あごを支えられずボーっと見とれているのだろうか。分からぬでもないが、みっともないと思う。
 日本の長谷川如是閑は風刺が上手い。去年彼の随筆集「猫、犬、人」を見た。
中国人の顔についての一篇に、大意は初めて中国人を見た時、日本人や西洋人に比べて何か欠けているように感じた。永らく見慣れて来るとそれはそれなりに十分で何も欠けてなどいない。逆に西洋人の顔に一点多いのを感じる。この多いのは何か。彼は耳触りの悪い言葉:獣性と呼んだ。中国人の顔にはこれが無い。人にこれを足すと次式になる。
       人 + 獣性 = 西洋人
 彼は中国人称賛に名を借りて、西洋人を貶め、日本人を風刺する目的を達成したが、言うまでも無くこの獣性が中国人の顔に見られぬのは、もともと無かったのか、最近になって消えたものか。もし後になって消えたのなら徐々にきれいに無くなって、人間性だけ残ったのか。やはり徐々に馴らされたものか。野牛が家牛に、野猪が豚に、狼が犬になった如く、野性が消え、牧人を満足させるのみで、本体には何の良い点もない。人は人に過ぎぬし、他の夾雑物が無いのが一番良い。だがやむをえないなら、獣性を帯びるに如かずと思う。もし次のような式になると実に面白くない。
     人 + 家畜性 = 某種の人
 中国人の顔に獣性の印しがあるかどうかは暫く置く。近頃中国人の理想とする古人と今の人の顔には二つの余分なものがある。広州に来ると私の前いたアモイより映画館がずっと多い。大半は国産の時代劇と現代劇で、映画は「芸術」だから芸術家は二つの余分なものを付け加えるのだ。
 時代劇も面白い。それは舞台で見るより面白い。少なくとも鉦や太鼓で耳をつんざくようなことが無いだけでも良い。「銀幕」にはいつの時代か不明な衣裳の人物がゆったりと動く。顔はまさしく古人とまったく同じだが、活発にみせるために旧戯曲のように、間の抜けた余分なものを付ける他ないのだ。
 現代劇の顔は清朝光緒年間の上海の呉友如の「画報」のと、非常に似ていると思う。「画報」のは大抵がヤクザのユスリか妓女のヤキモチで、みなずるそうな顔だ。この考えは今も変わらず、国産映画の人物は作者が善人英傑と考えていようが、眉宇の間には、いつも上海租界的なずるそうな相をしている。
これでは善人英傑にはなりえない。
 国産映画の多い理由は華僑が喜ぶため収益が増え、新作が来ると老人は子供を連れ、ほら見てごらん、祖国の人はこうなんだよ、という由。広州でも人気があり昼夜4回上映されるが、私が行くといつも満員。
 広州は上海と同じで、まさにかくして自分たちの趣味を広げている。
惜しいかな、開演と同時に電灯が消えるので、下あごを見ることができない。
     46
訳者雑感:
 長谷川如是閑は当時の日本人が西洋人に追い付き追い越せとばかりに獣性を顔に加えつつあるのを風刺したものであろう。日露戦争当時のイギリス人の描いたパンチに形相厳しい日本人とロシア人が朝鮮半島を挟んで睨みあい、それを獣性の乏しい清国人が傍観している図があった。
 満州人に強制された風俗を古来からのもののごとくにすっかりなじんでしまった漢族は、長谷川の指摘する通り獣性を召し上げられ、家畜化されつつあったと言えよう。
 魯迅の指摘する時代劇の登場人物と現代劇の人間に加えられた余分なものとは、何であろうか? 間の抜けた扮装といかにもずるそうか顔付きか?
「芸術家」の映画監督も中国の伝統に従って、従来の「形」に縛られているのだろう。それで魯迅は国産映画より、ワイズミューラーのターザンなど輸入映画をたくさん見に出かけている。同じものを何回も、面白いのは家族をも連れて行っている。そしてそのことを日記などに書いているのが面白い。
 2011/01/27

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而已集  1927年  黄花節の雑感

黄花節が近づいたから何か書かねばと思うが、この題については昔の科挙の試験における「空論」になってしまう。自分でも恥ずかしいが、黄花節の意味することは知っているが、黄花岡で死んだ戦士たちについては、名前も人数も知らない。
 これを書くため、材料を探したが、ただ「辞源」を引くほかない。そこには、
「黄花岡。地名、広東省城北門外の白雲山麓にあり、清宣統帝3329日、
革命党数十人が督署を襲撃したが成功せず、死亡しここに葬らる」、とさらりとした記述で私の知識と大差なく裨益なし。
 17年前の329日の状況を知ろうとしたが、目撃したり耳にしたことのある古老は探し当てられなかった。北京、南京或いは我故郷のような他地区の例から推測するに、当時多分何人かは痛惜し、数名は快哉し、若干名は何の意見もなく、何名かは酒後や茶のみ話のタネにしたことだろう。そして忘却された。久しく圧制を受けた人は、圧制を受けている時は只耐えしのぶのみで、幸いに解放されれば只楽しむのみで、悲壮劇は長くは記憶に留まらぬ。
 だが329日の事は特別で、その時は失敗したが10月には武昌起義があり、
翌年中華民国が出現した。それで彼ら失敗せし戦士たちは革命成功の先駆者となり、悲壮劇もまさに終らんとする時、団円劇の結末に添えたのだ。これは大変喜ばしいことで、黄花節の記念日にそれが見られると思っていた。
 これまで長い間北にいたので、自ら黄花節の記念に遭遇したことは無い。が、
(孫)中山先生の記念日には、学校で夕方演劇を見に来るものがたくさんいて、
長椅子がいくつか壊れるほどとてもにぎやかだった。それで黄花節もきっとにぎやかだろうと思った。
 (孫文逝去記念の)312日の晩、にぎやかな会場で革命家の偉大さをしみじみと感じた。恋が成就した後、片方が死んでしまったら残された者に悲哀を与えるだけである。だが革命が成功した後、革命家が死んだら生き残ったものが毎年にぎやかに大騒ぎする。ただ革命家だけが生死に関わらず皆を幸福にする。同じ愛なのに、結果はかくも違う。正に現在の青年たちが恋愛と革命の衝突に苦悶するのも怪しむに足りない。
 以上「革命の成功」は暫しの間だけのことで、実際は「革命いまだ成らず」なのだ。革命は止境が無いし、この世界に本当になんとかという「至善の極み」
があるとしたら、この世の中は瞬時に凝固してしまうだろう。だが中国は多くの戦士の精神と血肉に培われ、確かにかつてなかったような幸福な花と果実が
芽を出しつつある。だんだん成長する希望も出てきた。もし、そうでなければ
それを受け継いで培う人が少ないためで、賞翫してその花を折り、果実を摘んで食べてしまう人が多すぎるせいだ。
 といってもけっして、皆さんが毎日痛哭し、涙を流して先烈の「天にまします霊魂」を弔えと言うつもりは無い。一年に一回彼らを思い出すだけでいいのだ。しかし広東の今日から見ると、この記念日を少し改良した方が良いと思う。黄花節はとてもにぎやかだし、一日にぎやかに過ごすのももちろん結構だ。
騒いで疲れたら帰ってよく眠るが良い。だが翌日元気が戻ったら、自分のなすべき仕事を更に力を入れるべきだ。これは勿論辛くて苦しいことだが、銃弾が飛び交い命を落とすような所に行くことに比べたらずっと良い。
況やこれもあとに続くもののために幸福の花と果実を培うのであれば。
      324日夜
 
訳者雑感:
 文化大革命が終息する前、広州交易会の参加者は、週末に中国側の手配したバスに乗り、いろいろな革命記念の場所に案内された。広州は革命といっても
1949年の革命より1911年の辛亥革命前夜の方が当然ながら見るべきものが多い。それで訳者も黄花岡の烈士の碑に案内された。魯迅がこれを書いた時点では、「革命党数十名云々」とあるだけで、最近の案内版のように「孫文が指導したとか、百名以上の烈士が死んだが、72名の遺骨だけが確認された云々」
という記述は無い。歴史評価のよく変わる国だから、時代時代で記述も違ってくるのは、やむをえないことだ。
 魯迅の引用した「辞源」のさらりとした記述からは、その時に孫文を持ち出すことが憚られるような政治情勢だったのだろう。1911年に辛亥革命が成功するまで、中国各地で大小さまざまな「革命」が試みられ、何十人もの烈士が
処刑されたことであろう。「薬」の中の秋瑾、徐錫麟などは魯迅に深刻な負い目を感じさせたがゆえに、作品となって残された。
 この黄花岡の墓に葬られたのは百名以上といわれる革命党戦士の中から身元が判明した72名のみだ。それ以外の烈士は阿Qと同様、名も本籍も不明だから
埋葬されても名が刻まれることはなかったのだろう。といって無名戦士の墓というのは、「革命烈士」といっしょに埋葬されることはない。
 「革命」という漢語の持つ意味は、天命を革める。天から賦与された統治権をでたらめに使い、世の中を混乱させた天子の首を取って、自分がそれに代わるということと理解する。革命党に入るということは、その代わりになる者の
同志として、天子の任命を受けて各地を統べている役人の首を取り、彼らの富を分捕ることである。阿Qたちがやろうとしたことは、地方の役所に押し入って、役人のボスを締め上げ、その権力と財産を没収することだ。役所がむつかしいなら役所の手下として大きな邸宅で贅沢三昧している、役人の私宅を襲って彼らの首を取り、彼らの財産、女を奪うことだった。これは、革命党に入りたいと思う阿Qたちの「ホンネ」だった。実に分かりやすい動機である。
 このDNA40年前の文化大革命の混乱時にも各地で起こった。1949年の
新中国建国後といえども、戦前からの資産家は大変な財宝や文化財を持っていたのを、資本主義の道を歩む一握りの連中を打倒する「運動」という掛け声のもとに、「紅衛兵」と(偽)称して、彼らの家に押し入り、「抄家」(捜索押集)という名分で、証拠書類とともに財産を奪いかすめた。それゆえ文革は10年の大災難というが、革命党の起した大災難だと言う点では、1911年前後となんら変わりは無い。
1911年前後の「革命」「革命党」というのは、日本人の幕末明治維新の勤王佐幕両派の争いなどとは比較にならない。革命党を名乗るてあいは五万といた。
 しいて言えば、応仁の乱以降の戦国時代の、下剋上の世界での相手の首を取って、その財産、領地を自分のものにするということに近いと思う。主義も主張もない。民国革命とか共産革命とかいうのは、革命がなされた後に為政者が
つけたものだ。明治維新といい明治革命とは言わないのは、天命を革めるというと、自己矛盾を起すからだろう。その点、中国では前王朝の首が残ることは無かった。だが、辛亥革命は、最後の皇帝の首を取らなかった。それが後の
満州国に化けたのが、民国の致命傷となった。
ちなみに黄花とは菊を指す。烈士への花向け。
  2011/01/25訳 
 
 
 

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