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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「大義」は返上します

去年、正人君子達の「孤桐先生」に睨まれて八方ふさがりとなり、北京脱出を余儀なくされた後、一言も発せずに1年余が経った。正人君子達はこの「学者ゴロ」をもう忘れたと思っていたが、なんとまだ覚えていた。
 インドにタゴールがいる。彼は中国に来て竺震旦と言う名にした。彼が「新月集」を書き、この震旦に新月社ができた。――経緯は知らぬが――現在又、
新月書店ができた。新月書店が「閑話」を出そうとし、次の広告を出した。
 「魯迅先生(語絲派の首領)の依って立つ大義、彼の戦略は『華蓋集』を読んだ人はきっと知っていると思う。但し、現代派の義旗と、その主将――西瀅先生の戦略は、まだ明らかにはされていない…」
 派や首領など、この種の謚(おくり)名の付け方は実に恐ろしいものがある。
すぐまた別の人がそれを取り消して罵る。甲は:見ろ!魯迅が突如首領と称しているぞ。天下にこんな首領があってたまるか。と言い。乙は:彼はもっぱら虚栄が好きなだけさ。人が彼を首領と呼び、彼もたいへん喜んでいるのをこの目で見た、と。
 しかしこれは何度も教わった教訓から、奇とも何とも思わない。だが今回、
新鮮で恐ろしいと感じたのは、突然、大切な「大義」を我が手に握らせ、大きな旗を持たせて、私に「現代派」の「主将」と対決させようとしていることだ。
私は先に書いたように、公理と正義は正人君子に奪われてしまったから、手元には何も無い。大義なるものも、それが円柱形か楕円かすら知らぬから、私にどのように対決させようとするのか。
 「主将」は当然「義旗」という体面を持っている。しかし私はそのような
「礼帽」を持っていない。派を作らないし、首領にもなっていないから「依って立つ大義」など持ったことも無い。また「戦略」も無いし、広告を見るまで、
西瀅先生が「現代派」の主将とは知らなかったので――これまでは彼のことは、
反動派の三下だと思っていた。
 私は自分について知っているのは以下の通りだ。
「孤桐先生」は今なおご健在で、「現代派」は私のことを「学者ゴロ」「学匪」と呼ばわっていたことをお忘れになったとは思わぬ。それがあろうことか今
突然「魯迅先生」は「大義」云々などを使いだしたのは、単に広告のために過ぎぬと思う。
 嗚呼、魯迅魯迅。どれだけの広告が汝の名を借りて為されたことよ!
    九月三日。
訳者雑感:
 沈黙を守って1年余。相手側が出版物販促の広告に、あれほど「学者ゴロ」とかのレッテルで誹謗してきた魯迅の名を出して、しかも「大義」を持っているかのごとくに書いて、自分たちの「主将」と対決させようとしている。
出版業界、(ジャーナリズムに携わる人間も含めて)その道で名を売って表舞台に躍り出ようとする輩は、今も昔も、著名な作家の名を使って、それに対決するような姿勢を取って、それを踏み石にしてのし上がろうとする。人間のやることは変わらない。
   2011/02/15

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