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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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予言に擬して 

1929年に起こる瑣事を書いてみる。
 市民甲某が各県に大学を設置し、同時に監獄2か所を併設するよう提案したが却下さる。(大学生のデモでの逮捕者が大勢でたことからか)
 市民乙某が共産主義者の財産を共有とし、女性の眷属を共有の妻とし、一罰百戒とするよう提案。半年間批准されず。乙は怒って反革命したが、親友に告発され租界に逃れた。(共産主義というのは、財産を共有するという考えから
出たわけだから、女性の家族を共有財産にせよと、本気で言うものも出たのか)
 大勢の名士学者および文芸家が外国から帰国。外国のすべての政治風俗学術
文芸について本国より造詣が深いことで学位を受けた。ただしその中でも最も
秀でた者も学校には入っていない。(外国の著名大学で学位を取ったという学者も実は入学すらしてもいないことを皮肉るものか)
 科学文芸軍事経済の連合戦線成立。(20年前の四つの現代化の先駆けか)
 正月元旦、上海に多くの新しい雑誌が出版される。規模の最も大きなものは
――文芸又復興。文芸真正老復興。宇宙。其大無外。至高無上。太太陽。光明之極。白熱以上。新新生命。新新新生命。同情。正義。義旗。刹那。飛獅。地震。阿呀。真真全日。…等々。
 同日、米国の富豪たちが連名で北京の石炭ガラ拾いの老婦等に年賀電報を出し、「同志」と呼びかけたが、受取人該当なく翌日返送。
 正月三日。哲学と小説が同時に滅亡。
「一我主義」提唱者がほとんど禁固されるところで、取り調べ結果、新たな異端でもないとして詮議の要なしとして放免さる。
 市民丙が「党を以て国を治めるべし」と言い。即批評家たちから「すでに久しい前からそうであるのに、何を今さら、大局をつかんでない馬鹿なうすのろ」
と痛罵さる。(21世紀の今日、まさに一党専制体制で以て国を治めている)
 青年男女41,926人失踪とのデマ。
 蒙古が赤いロシアに近づき、五族から出ることが公に決まり、在華白系ロシア人が補欠となり、「五族共和」を保ち、各界は提灯祝賀す。
「小説月報」が「世界文学に入った2周年記念」号出版。年間購読者に優待券一枚送り、定価も85%にした。
「古今史疑大全」出版さる。名士学者の書信封書の往来で批評頌辞(褒め言葉)
合計2,500通。編者の自伝が250余ページ。広告が「芸術界」に載り、切手代を計算に入れなくても、大変な金額となる。(論敵への揶揄か)
 米国で「玉堂春」の映画上映。バビット教授評して、決してルソーの及ぶところではない由。
 中国のファウストが同情から郭沫若を訪ねたが、郭のあまりの貧しさに失望して去る。(中国のファウストを自称した、かつての弟子への罵詈)
 与党の数名が下野し:在野の大勢が坑に下った。
 誘拐公司の株が3.5倍に上がった。(当時は身代金誘拐事件が頻発した、私の
知人の兄も戦前、天津で誘拐され身代金を払ったが、死体で帰ってきた)
 女子の世界で乳房が大きいと切られるおそれあり、元のように胸をきつく締めつけだしたので、良家の多くは洋銀50元の罰金を払わされ、国庫は潤沢。
 (当時ノーブラが提唱されたが、乳房を切られる事件が多発した)
 ある博士「経済学精義」を講じるに、ただ2句のみ。曰く:「銅銭は十銭に換え、十銭は大洋銀に換えろ」と。全世界敬服。(馬寅初が唱えたもの、彼は後に
毛沢東に人口抑制を勧めたが、却下され、12億に激増という結果となった)
 ある革命文学家がひと言でマルクスの学説を覆す。「何がマルクスか牛クスだ」全世界敬服。ユダヤ人は大いに恥ず。(マルクスの頭文字が馬なのを牛でもじって罵る。マルクスもウシクスもへったくれもあるかの意か)
 新詩「(葬式の)泣き女の嘆き」が流行。
 茶店、風呂屋、駄菓子屋などがみな「現代評論」の寄託販売開始。(今なら
  さしずめ、漫画喫茶、サウナやマックに寄託。場違いの感を皮肉るか)
 アカは完全に消滅。アナーキズムは498年後に実施予定。
(本文に日付なく、出版社注には28年1月発表)

訳者雑感:
 ここで魯迅は具体的な人名を推定できる予言をしている。人民文学出版の注に依れば、経済学者とは後の「人口問題」で有名な馬寅初(1882―1982百年)、
「古今史疑大全」は彼がアモイ、広州で争った顧頡剛の「古史弁」の由。
 私は彼の「中国史学入門」を精読して翻訳した。本ブログの2010年8月ころ
その一部に触れているが、彼の中国古代史を「疑って」見直すことと、魯迅の「世故」には共通するものを感じる。その一方で蘇州の名士として北京大学卒の学者、胡適との親交などは、紹興の没落家族(かつては名家)から日本留学、それも仙台医学学校中退で、所謂有名大学の学位とかとは縁のない魯迅。魯迅の(必要なことしか記さぬという)「日記」の1926年9月8日に、(アモイに着任後すぐのころ)顧頡剛より宋濂(れん)の「諸子弁」一冊贈らる。とある。アモイ大学に同じころに招かれていたので、先に来ていた顧が本を持って歓迎の挨拶に来たようだ。それが数カ月もせぬうちに、魯迅の言葉によれば、名士学者らに仲間外れにされてアモイを去ることになるほど険悪になってしまった。
 「文人相軽んず」というのも中国の伝統ある「世故」であり、蘇州と紹興と
いうのも呉越の古都であり、二千年以上の仇が20世紀にまで脈々と伝わっているかのようだ。
 ウマがあわない、とかそりがあわぬ、ということもあろう。しかし二人とも
古代を疑い、現在を疑うという点は共通しているように見受ける。
私は顧氏の自伝「古史弁自序」の毛筆手書き原稿の影印本を2回ほどペンで書き写した。中国語と習字の勉強に大いに役に立ったと思っている。孟姜女の
物語の中国各地への伝播、変化など大変興味深いものがある。
 2011/04/14訳




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いわゆる「内閣文書」について

「内閣文書」とは清朝の内閣に三百余年積み上げられ、孔子廟に十余年置かれたが、誰も一声も挙げなかった品物。歴史博物館が残余の文書を紙屋に売却、
紙屋が羅振玉に転売、羅振玉が日本人に再転売したもの。それであたかも国宝でも喪失したかのような大騒ぎ。国の命脈もこれと道を同じくするかのようであった。数年前、何人かの議論を読んだが、覚えているのは、金梁が「東方雑誌」に、そして羅振玉と王国維が随時感慨を発表したことだ。最近でた「北京半月談」の「文書の売却」は蒋彝(い)潜氏の書いたもの。
 彼らの議論はあまり正確とはいえない。金梁はもともと駐防旗人で早くから、
排漢を主張していたし、民国以後は遺老となり、凡そ民国のすることは、当然ながら全て憎むべきことと考えていた。羅振玉も遺老でかつては、国門を見ることはもうしないと誓いを立てていたが、後にはしばしば北京天津間を往来し、今の人は古いものを大事にしないと痛責し、いこじになって骨董を外人に売り、彼の書いた跋を見ただけで、その「宣伝臭」が鼻につき「何を言わんとするか」がすぐわかる。唯一王国維は既に入水(自殺)し遺老生活を終えており、まじめな人だが:彼の嘆息はいつも羅振玉と同じ鼻孔から出ているが、出てきた気に真贋の違いはある。彼のまじめさは、サンドイッチのハムのように、つねに広告のサンドイッチのパンに挟まれてしまった。蒋氏は例外で、遺老ではないがただ少し感傷的だから羅振玉等に騙されたのだ。考えてみれば、彼は日本人に売ろうとしたら、これは宝物ではないと言いますでしょうか。
 では果たして、価値がないものか?価値のないものなら、私も買おうとし、君も買おうとするだろうか?誰しもが疑問を持つことと思う。
 答えは:はいそうです。でも違いますだ。これはまさしく没落名家の紙くずで、価値があるとも言えるし、ないともいえる。紙くずだから無用だが:没落名家のものゆえ、価値あるものも混じっているかもしれぬ。ましてやここで所謂価値の有無はそれぞれの人の見かたで違うし、わが住まいの近くのゴミ箱の中は、住人が捨てた無用のものだが、朝いつも竹かごを背負った人が何人もそこからひとつひとつ、一個ずつ何かを拾ってゆく。まだ有用なのだ。いわんや現在皇帝はまだ尊ばれてもおり、仮に「大内裏」に何日か置いておくとか、
或いは「宮」の字をつければ、すぐまた別の目で見てもらえるのだ。これはそう言っても信じてもらえないかもしれないが、民国になった今としてもそうだ。
「内閣文書」なるものは「朝廷の典故」に詳しい遺老に依れば、彼が「朝廷」時に、内閣に積まれた乱紙で、多くの人は燃やして捨てようと主張したが、彼の努力の結果、保存されてきたもの。ただ彼の朝廷が退位し民国元年に私が北京に来た時には、それらは八千個の麻袋に入れられ、孔子廟の「敬一亭」に置かれた。確か亭の半分ほどを占めていた。その時、孔子廟に歴史博物館準備所が設けられ、所長は胡玉縉氏だった。「準備所」とはいえ、そこにはなんら
「歴史博物」の意味はなかった。
 私は教育部にいたため、麻袋と少し関わりができ、この目でそれらの昇沈と
隠顕を見た。腹の立つことやおかしなこともあったが、大抵は小さなことだった:後になって外部の議論によりいろんなことが起こり、何がしかを記して、私が目にしたことを叙したくなった。が、肝が小さいので、数名の権勢家に関連するため、筆をとれなかった。これも私の「世故」で、中国では民族や国家、
社会や団体…を罵るのはなんら問題ないが、個人名や姓を出してはダメだ。広州のある雑誌に、私はただ狆を打つだけで、軍閥を罵らない、という記事がのった。彼らは私が狆を罵っただけで、北京から逃げ出さねばならぬ羽目になったことをご存じないようだ。軍閥ならどんなに罵っても、誰が構うものか。軍閥は雑誌など見ない。狆に臭いを嗅がせ、狆の候補者に吠えさせる。あれ、又話があらぬ方向に行ってしまったから、ここらでやめにする。
 今、南方に寓居しおり、多分何か言っても構わぬし。これらのことは将来多分、他の人が言うとはかぎらぬ。ただし、関係者の面子もあり、本名は伏せ、ローマ字の頭文字で書く。欧化ではなく、「悪を隠し、善を掲げるのでもない。
只、害を身から防ぐため」これも我が「世故」で自分が南方にいて彼らが北方で或いは所在を知らぬから見くびっているとは思わないで欲しい。彼らは突然君の前に勢力を以て現れることあり、神出鬼没だから。そうなったら自分ながら何が何だかわけもわからないほど狼狽してしまうだろう。それゆえ穏当にしていなければならぬし、何も言わないのが最善。だが今「折衷」して、言わぬのでなく、言いつくさずにローマ字にする。それでも妥当でないというなら、
天命を待つほかない。上帝よ、わが魂を安んじられよ!
 これらの麻袋は敬一亭に置かれたとはいうものの、歴史博物館準備所の胡玉縉所長は日夜、用務員の放火を心配した。なぜか?この話をすると長くなる。
所謂「国学」の関係者は大抵知っていることだが、胡さんは南菁書院の優等生で、旧学を深く研究しているだけでなく、前朝の掌故についても博識で、清朝の武英殿に一式の銅活字があったのだが、後に宦官たちが彼も盗み俺も盗む、
盗むも「亦たのしからずや」となり、王爺たちが検査に来た時、放火したことを知っていた。もちろん武英殿も無くなったから、銅活字がどれだけ無くなったかなど問題にもならない。不幸にも敬一亭の麻袋も、しばしば減っているようで、用務員は国学者でもないから、中の宝物を地面に放り出して、麻袋だけを持ち出して銭にした。胡さんはこのことから、武英殿の失火の故事に思い至り、麻袋がたくさん無くなった後、敬一亭も例の如く焼かれてしまうのではと
大変心配し:教育部と、どこかへ移すか整理、廃棄の方法を相談に行った。
 本件の主管は社会教育司で司長は夏曾佑氏。「国学」関連の人はご存じの人。
彼の別の論文を見るまでもなく、彼の編集した「中国歴史教科書」さえみれば、彼が中国人をどのように見ていたか明解だ。彼は中国の一切のことは万に一も
「弁」じられぬ:即ちこの文書も、自然に放置すれば腐り、カビがはえ、虫が食い、盗まれるわ、放火されておしまいになる:もし手を加えてなにか「弁」ぜんとすると、世論沸騰し、手がつけられなくなる。その結果「弁」ぜんとした人は、衆矢の的となりデマ讒言誹謗などを受け、どんなに説明してもおさまりがつかなくなる。だから彼の主張は「これは絶対動かしてはならぬ」だった。
 この二人の掌故の達人の「弁じよう」と「弁ぜぬ」の老先生は、これによってそれぞれの気持ちを知り、話は続けながら、ハハハと笑って引き延ばしてしまった。それで麻袋は安穏に十余年、命長らえた。
 今回F先生が教育大臣となった。彼は蔵書と「考古」の名人。彼はきっと麻袋には価値ある宋版本――「海内孤本」があるという噂を聞いたのだろう。この種の噂はしょっちゅうある。私も以前から、妃のだれそれの刺繍の靴があるとか、何とか王の頭蓋骨もあるなどと聞いたことがある。ある日、彼は私とG主事に麻袋を見てくるよう命じた。即日20個の西花庁に運んで、我ら二人は塵と埃にまみれた宝物を見た。大半は賀表(祝賀文)、黄綾の封で、価値があるともいえるが、多すぎて何の珍奇さもない。奏文、小刑名の案件が多く、半分は満州文字、半分漢字で、特別なのは数件だけだが、とにかく多すぎていやになった。殿試の答案は一本もなく:他に何箱かあったが、もともと教育部にあり、
すべて二三甲の答案で、優秀なものは清朝のころに盗まれており、状元のものなどいうまでもない。宋版本はあるにはあったが、半ば破れ、腐り、何枚かは
破られていた。清朝の黄榜(ぼう)や実録の稿もあった。朝鮮の賀正表も一枚あったと記憶する。
 我々はその後また2日見たが、麻袋の数ははっきり覚えていない。奇怪なのはこの時欧米教育の考察で誉れ高いY次長、ほら吹きで有名なC参与が突然
考古家になった。彼らのF大臣はいずれも「読みて忘れぬ」ほどとなり、塵と埃の中で、故紙の周りから離れなかった。凡そ我々が検査した卓上のものは、彼らがかならず手にとって、ちょっと見せてごらん、とあいなった。返されたものは往往、元より減っていて、天にいます上帝よ、それは本当なのです。
 きっと数葉の宋版がそうさせたのだろう。F大臣も大挙して整理に乗り出してきて、部員数十人を別途派遣した。幸い私はその選に入らなかった。その時歴史博物館準備所は、午門に越していて、所長もとうにYT氏に代わっていた:
麻袋は午門の上で整理された。YTは旗人で北京語がとても流暢だったが、文書の方面は従来あまり語らなかったが、奇怪なことに彼もついに忽然考古家に変じた。この方面に大変興味を持つようになった。後に、宋版の「司馬法」何とかを珍蔵するまでになり、惜しいことに角が欠けていたので古い紙で補修した。
 当時の整理方法はもうあまり覚えていないが、要は「保存」と「放棄」に分け、「有用」と「無用」に二分した。それで数十人の部員が毎日塵埃と故紙の中に出没し、ようやく完了。何日間出没したか覚えていない。「保存」の分はその後大部分を北京大学に分けた。その他は博物館に残した。不要なものは当時、
午門の楼上に放置のまま。
 ではこれら不要のものは本来失火防止のために破棄すべきなのだが、それがそうならなかった。教科書編集をした「高等官僚」の指示で、そんないい加減に扱ってはならぬ。数十名の部員を派遣して処理すべし、となり、もし後になって禍が出たら、彼らに責任をとらせ、大臣には累が及ばないようにする。只
畢竟、一つの部であり、外部でいろいろ言いだすと、指摘したのは某部となり、某部の誰それではない、とかなんとかで、やかましくなった。只「部」ということになれば、大臣も無関係ではいられなくなるわけだ。
 そこで弁じだすとなると、各部から人を出させて、立会の下で再検査となる。
こうした公事は迅速で2週間もせずに各部から2-4名出してきた。その多くは最近外国から帰国した留学生で、斬新な洋服を着ていた。それが大勢であれこれ埃と廃紙の間に入り込んだ。しかし奇怪なことに何名もの斬新な留学生も又
忽然考古家に変じ、破れてぼろぼろになっていた紙や絹切れを洋服のポケットにねじ込んだ。――これは伝聞であって私が見たわけではないが。
 この種の儀式が済めば、万一後患が生じても、各部は連帯責任を負わねばならず、局外で無責任なことは言えぬこととなった。それから午門楼上の空気は
もう以前のような緊張はなくなり、山のような故紙だけが寂として地面にうち捨てられ、時に1-2名の用務員が長い棒でがさごそかき回して、黄綾の表籤
や彼らの欲しいものを拾っていった。
 それでこうした不要なものは失火防止のために破棄しても良いはずだが、答えはNo.で、F大臣は「高級官僚学」に詳しいから、万が一にも焼いてはならぬと知っていて、一度焼いてしまうと、すぐ宝物に変じてしまい、正に人が死ぬと、訃報にはすべて第一等の人物になるのと同じだ。いわんや彼の主義は本来、
火事を避けることではないから、これ以上なにも構わなくなり、続いて彼も
「下野」してしまった。
 これらの故紙はそれ以後誰も触れなくなり、歴史博物館が自ら売却した後、またぞろ神秘な風波が巻き起こった。
 私の話はもう煮詰まった感がする。どうやらこの残った故紙には何も宝物はないようだ。それでは外部でびっくり仰天するような唐画や蜀石経、宋版などは一体どこから出てきたのか?きっとそんな質問が出てくると思う。
 それはこういうことだと思う。残った故紙にも多分何がしかの物があったにちがいないが、蜀刻とか宋版があったとはいえない。それは皆で注意して捜索したのであるから。今価値ある品が次々出てくるのは、一つには先に権勢家が盗み出したもので、本来は人に見せられないものだが、今になって公表の機会を得たもの。二つには多くの贋の骨董が8千個の麻袋という看板をかけて、市に出回ったもの。
 又、蒋氏は国立図書館は「五六年来ずっと今まで、勝ったり負けたりの戦争のたびに持ち去られたり、壊されたものが多い」と考えているようだが、そうとも限らぬ。元年から十五年までの戦争で、図書館は被害に遭ってはいない。
袁世凱が帝を称した時、何日か皇室から攘奪されそうになったが、幸い難を免れた。その厄運は良書は権勢家に類似の書とすり替えられ、長い年月の間にすべてが取り換えられていたことによるが、もうここではこれ以上それに触れないでおこうと思う。
 中国の公共のものの保全は実に容易なことではない。当局者が門外漢ならなおざりにされるし、専門家なら全て偸みとられる。このことは単に書や骨董に留まらない。    1927.12.24.

翻訳雑感:教育部の役人として自ら関わった清朝の「内閣文書」をめぐる中国の権勢家とその周辺の取り巻きたちの行動が手に取るように分かる面白い話だ。
日本でも本来一つの巻物であった三十六歌仙の絵巻が、一つずつに切られて、
行方知れずになっていたり、正倉院の宝物の一部が、戦国前後の将軍に持ち去られていたりするから、これは世界共通のことではあるが、さすが歴史と伝統の厚さが違うと感心させられるのは、魯迅が最後のところでこれ以上触れないでおくという、全ての書が贋物にすり替えられていた、ということ。それが本物と見分けがつかぬほど巧みに模造されていたことだ。中国語の「造」という漢字はまさしく贋物をつくる意味で、中国に暮らしている時、曹操の墓が発見されたとか、いろいろな事件が報じられたが、私の知人は「あれらは大半が造で、それによってその場所を観光地として売り出すためさ」という。
 北京の瑠璃廠にはそうした「造」されたものと「本物」が入り混じっており、
上記の故紙ではないが、戦前、多くの日本人が本物と信じて高い金を払っていったと笑い物にされている話を何回も聞いたことだ。
 2011/04/13訳
 




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文芸と革命

文芸を擁護したい人は、革命地方で常に「文芸は革命の先駆者」というのを好むようだ。
 これは疑わしいと思う。外国ではそうかもしれぬが:中国の特別の国情からいえば、例外というべきだ。そうした国情を下記して同志に訊きたい。
1.革命軍。 まず先に軍があってはじめて革命ができる。すでに革命がなされた所は全て軍が先に来る:これが先駆者。将軍たちは少し遅れるかもしれぬが当然彼らも先駆者なのはいうまでもない。(その前に青年が潜入し宣伝し、或いは労働者が地下活動で支援したりするが、それらの人たちは大抵すでに死んでしまい、調べようもないので、ここでは論じないでおく。)
2.人民代表。 将軍たちが到ると、人民代表は駅に集まり歓迎し、国旗を手にスローガンを叫び「革命の気は大変濃厚になった」という。これが第二の先駆。
3.文学家。 そこで革命文学とか民衆文学、同情文学、飛翔文学、などが登場する。偉大で光明に満ちた期刊誌も出てきて、革命を指導する:これが――残念ながらそれでも構わぬ――第三の先駆。
 外国では革命軍が起こる前、迫害されて国外脱出したルソー、辺境に流されたコロレンコ…がいた。
 しいて楽観的に見たいというのならそれもいいかもしれぬ。というのも我々がいつも耳にするのは、所謂文学家が国を出るという記事を新聞で見るし、宣伝広告も目にする。詩や散文で見たりするから。まだ行動に移る前でも、「将来
学成り、帰国したら、大変素晴らしいことをしてくれるであろう」という予感を与えてくれるから。希望は誰しもが持ちたいものだ。
     12月24日夜0時1分5秒 (どういう意図で秒まで書いたのか?)

訳者雑感:
 魯迅は別のところで、革命軍の兵士として「起義」に参加して亡くなった無名の人たちの尊い命を弔う文章を書いたのちに、むやみやたらに行動を起こして犬死することのないように、との言葉を書いている。これは彼の文章を読むであろう文芸擁護者、文芸に携わる者へのメッセージであろう。
 しかし、また同時に文芸の役割は大変重要で、犠牲になった人たちの名は
忘れられても、文字で記録されたものは残る。文芸の役割はその意味で、第三の先駆にしか過ぎないが、それが無ければ、第一、第二の先駆の行動を誰もしることができないだろう。従軍記者、日露戦争などでの外国人記者などの文章や絵がなければ、「坂の上の雲」も書けなかったであろう。
2011/04/08訳

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文学と汗

上海の文学教授が、文学は永久不変の人間性を描かねば、永続しないという。
英国のシェークスピアやその他の一二名の人の作品に描かれた永久不変の人間性は、今日まで伝わっているが、他の作品のそうでないものは全て消滅した由。
 これは誠に、「貴方の話を聞く前は、まだ分かっていたつもりだったが、貴方の話を聞けば聞くほど分からなくなる」というものだ。英国の過去の文章で、伝わらなかったものはきっと多くあると思うが、永久不変の人間性を描かなかったために、消滅してしまったとは思えない。
 今、そうしたことがあったということが分かったとしても、それらが既に消滅したというのは解せないことだ。今現在、教授はどのようにしてそれを見たのか?そして突如それらの作品が永久不変の人間性を描いていないと断定できたのか?
 伝わってきたものが良い作品なら、消滅したのが悪い作品であれば:勝てば官軍、負ければ賊軍。中国式の歴史論には違いないが、これは中国人の文学論にも通じるものなのか?
 そして人間性は永久不変なりや否や?
 類人猿、類猿人、原人、古人、今人、未来人…、生物が本当に進化するなら、人間性も永久不変ではありえない。類猿人はさておき、原人の性格すら我々には推測もつかない。我々の性格も未来の人が理解できるとは限らぬ。永久不変の人間性を描こうとするのは、実に難しい。
 汗を例にとると、これは昔からあり、今もあるし将来も暫くはきっとあるから、比較的には「永久不変の人間性」と考えてよいと思う。だが、「風にも耐えぬ」娘の流す汗は香り高い汗で、「牛の如くむくつけき」労働者のは、臭い汗。
もし長く世間に残る文学を書こうとしたら、世間に長く留まる文学家でいたいなら、香り高い汗が良いか、臭い汗が良いか?この問題を解かないことには、将来の文学史上の位置は実に「岌岌(きゅうきゅう)として殆(あやうき)かな」となる。
 英国の小説はそもそも奥方や令嬢たちのために書かれたもので、香り高い汗が多いのは当然で、19世紀後半にロシア文学の影響で臭い汗がいくらか出てきたそうだ。どちらの命が長いか、今はまだ分からない。
 中国では道士が道を論じるのを聞き、批評家が文学の批評を聞くと、毛穴が痙攣をおこし、汗も出てこなくなる。しかしこれも多分中国の「永久不変の人間性」なのだろう。     
 27.12.23.

訳者雑感:永久不変という4字のついた人間性なるものはあり得ない、というのが本論の趣旨か。古典といわれる作品は、読む者に感動と喜びを与え続けてきたゆえに、古典なのであろう。
 先日の「ゆとり教育」からの変革で、中学の教科書に漱石鴎外の作品が復活することになった、と報じられていた。
 もちろん戦後の作品にも我々を感動させるものが多くあるが、まだ長い年月を経て、鑑賞に値するかいなかのリトマス試験を受けていない。それとの比較で、百年前の明治の作家たちが懸命になって書いた作品は、何回読んでも、都度新たな感動を呼び起してくれる。人間性をしっかり描いているからと思う。
それが永久不変とは決して思わないが、彼らの作品に描かれた主人公たちの人間性は、我々の心に何かを訴え続けている限り、消滅したりはしないだろう。
 だが、それらの作品が教科書からも消え、図書館からも消えて次世代の人々が手にすることが難しくなったら、消滅してしまうことだろう。
      2011/04/07訳

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ルソーと彼の説がお口に召すか

 「民約論」を書いたルソーは、死ぬ前から叱責と迫害を受けていたが、今なお非難ごうごうである。「民約」とは何の関係もない中華民国でも同様だ。
商務印書館の「エミール」の中文訳で「… 本書の第五編の女子教育で彼の主張は徹底していないだけでなく、女性の人格も認めていない。第四編までの
人間尊重と矛盾している。…従って今日からみると、彼の人間に対する正当な主張は半分だけに対してだと言える…」
 だが復旦大学の「復旦旬刊」創刊号の梁実秋教授の意見は「いささか異なる」
実は「いささか」などというものではなく、「ルソーの教育論」は正しい所は一つもなく、女子教育を論じた部分だけは精確で正しい」という。それは、「男女の性質と体格差に基づいているから」とする。近代生物学と心理学の研究結果、世の中に差異のない人間はいないことが証明されたから、という。
 人を見てどういう教育すべきかを考えるべきであるから、と梁氏は言う:

『私は“人”という字は根本的に字典から永久に削除すべしと思う。又は政府が永久に禁止すべきだ。“人”という字の意味はたいへん曖昧だから。真に聡明な人も人といい、牛のごとく愚鈍な人も人という。風にも倒れそうな女性を人といい、粗大で強い男も人という。人間の中の三流九等、一人として人でないものは無い。近代デモクラシーの思想や平等観念の起源は人間の差異を認めぬことから起こった。人格とは抽象名詞で一人の人間の心身両面の特徴の総和である。人の心身両面の特徴に差異があるから、人格も又差異がある。いわゆる
人格を侮辱するというのは、一人の特有な人格を認めぬということ。ルソーは女子には女子の人格を認めたから、彼は女子の人格を正しく尊重した。女子特有の特性を抹殺することこそ女子の人格を侮辱するものだ。』
 そして次のごとき結論を得る。
 『…正当な女子教育は女子を完全な女子にするべきだ』

 それならば、いわゆる正当な教育者は「風にも倒れそうな」者は完全に「風にも倒れそうな」者にさせ、「牛のごとく愚鈍な」者も完全に「牛のごとく愚鈍な」者にしてこそ、各人(この字はまだ字典から永久削除されていないし、政府が永久禁止するまで暫く使う)の人格を侮辱することから免れる。ルソーの
「エミール」前四編の主張はそうではない。その中に「一つとして是とするところは無い」というのは疑いないことだ。
 ただ、このいわゆる「一つとして是とするものはない」というのも「特に聡明な人」に対して言われることで、「牛のごとく愚鈍な人」に対しては「正当」な教育だ。それはこの議論を見れば彼を徐々に完全な「牛のごとく愚鈍」に近づけさせるからだ。これも彼の人格を尊重することだ。
 しかるにこの議論は完結しない。なぜか?一つにはたとえ「自然の不平等」を知っていても、真の「自然」と「徐々に蓄積された人為的で自然に似た」ものを区別するのは容易ではないからだ。二つ目は、凡そ学説なるものは往々にして「自分の口に合うものはこれを容れ、且つまたそれを宣伝するから」だ。
 上海の一隅で、2年前アーノルドが大いに論じられ、今年はバビットが論じられたが、多分それらも口に合ったがためだろう。
 多くの問題は「口」から生じ口の差が正に「人」の字と同じで、――実は
この2字も政府に「永久禁止令」を出してもらうべきだが、米国のUpton SinChairの文章を引いて、別の人の人格を尊重するとしよう―。
『ルソーを批評するものは誰であれ、まず解決せねばならぬ一つの問題に直面する。彼になぜ論争を挑むのか?彼の到達点たるあの自由平等協調のために、道を切り開けるか?ルソーの世界に発した新思想と新感情の激流を恐れるか?
父となる労をとった個人主義運動全体に対して懐疑を持ち、我々に対して、子女は父母に服従し、奴隷は主人に、妻は夫に、臣民は教皇または皇帝に服従し、大学生は疑問を一切抱かずに教授の講義に敬服するという善良な古代に戻るのが、君の目的なのか?
 「アイ―夫人曰く:“最後の一句はバビット教授への一矢の如し”」
 「奇怪なり」彼女の夫はいう。「この人もこの姓なり…」
 「それはきっと上帝の審判だろう」 』

 原文の趣旨と合致するかどうか分からぬ。日本語からの重訳だから。書名は「Mammonart」カリフォルニアのパサデナで作者が自費出版したもので、口に合いそうな人は一読ください。Mammonはギリシャ神話の財神、artはご存じの芸術、「財神芸術」と訳せる。日本語では「拝金芸術」でそれも可。この字は作者の造語で政府はまだそれを公布していないし、字典にも載っていないだろうから、ここに注釈を加えておく。 
(27年)12.21.

訳者雑感:
 この文章を読むと、臣は臣たれ、君は君たれ、という儒教の教えを思いださずにはおれない。また私たちの小学時代の道徳の教科書で昔の先生が、女の子は女らしく、男の子は男らしく振舞わねばならない。そのようにしつけるのが
学校での教育だ云々。そして中学時代には女子は家庭科で裁縫を学び、男子はその時間に木工とか金工という職業技能教育を受けたりした。
 ルソーに対する評価というのは、彼のその後の個人的な生き方にもかかわってくるが、かまびすしいものがある。    2011/04/06訳

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「塵影」への題辞

 私自身、今中国は大きな時代に向かいつつあると感じる。ただこの大きなというのは、必ずしもこれで生を得られることを指すのではなく、そしてまたこれで死ぬのでもない。
 愛に身を献じた者の多くがこれで亡くなった。その前に、意中のそして且つ意外な戯れを玩んで、愉快と満足、単に美しいとか派手さを、当事者でありながら、ただ傍観している人たちに贈った:と同時に何人かの人たちに重圧も与えた。
 この重圧が除去されてはじめて、死ではなく、生が得られる。これが大きな時代の意味である。
 異性に愛を見、百合花に天国を見、石炭ガラを拾う老婦の魂に拝金主義を見、世界が機関銃の庇護下の仁義で治められている今この時、この場所で、このようなニュースを耳にすると、実に気分が良い。美酒を飲むごとしである。
 しかし「塵影」がもたらしたのは重圧であった。
 今日の文芸は往々、人の気分を害すが、それもまた仕方がないことである。
でなければ、自ら文芸から逃げ出すしかない。または文芸から人生を推し出すしかない。
 誰がこれ以上に仁義と金のために実態を描き、三筋の「けがれた」血のために真に迫る描写をできようか?
「塵影」を読んでみた。その愉快さと重圧はいろいろな人たちの心に留まることであろう。
 しかし、結末で、「塵影」は私にうまい酒を飲ませてくれた。
 作者は(殺された熊履堂の子の幼稚園生)小宝を留まらせ、その後小宝が死を得たのか生を得たのか教えてくれない。作者は我々が受け止められぬほどの重圧を感じるのを願わない。それは良いことだ。我々は今中国が大きな時代に向かっていると感じているからだ。
      1927年12月7日 魯迅 上海にて
訳者雑感:
 「塵影」という黎錦明の作品を読まなければ、雑感すら持ちえないだろう。
出版社注のあらすじは蒋介石の国民党が「清党」を行った前後の、田舎の土豪劣紳と国民党軍官が結託して、革命勢力を襲撃しようとするのに敢然と立ち向かって殺された人たちの物語の由。父親が殺された小宝は幼稚園から、「打倒列強、軍閥排除!」という歌を歌いながら帰るのだが、結末はどうなったか教えてくれていない。しかし魯迅はこうした作品が出てきたこと、それに大きな時代に向かっていると感じて、題辞を書く気になったに相違ない。
         2011/04/04訳

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革命文学

今年南方で「革命」と皆が叫ぶのは、去年北京で「赤退治」と叫んだのと同じように盛大である。
 この「革命」が文芸界にも侵入してきた。
 最近広州の新聞に4人の文学家を師と仰ぐべきとの指示がでた:イタリアの
D’Annunzio,ドイツのHauptmann,スペインのIbanez,中国の呉稚暉。
二人は帝国主義者、一人は本国政府にとっては叛徒、一人は国民党救護の発起人。全員を革命文学の師と仰げというと、革命文学もおかしなことになる。それはとても至難の業であるから。
 世間は往々やむなく二種の文学を革命文学と誤解する:一つは一方の指揮刀の庇護のもと、敵を排斥罵るもの:もう一つは紙の上に「倒せ、撃て!」とか
「血でもって。血のなんとか」が一杯書かれているもの。
 これが「革命文学」なら「革命文学家」になるのは実に痛快で安全なことだ。
指揮刀の下で罵り、裁判の席で罵倒し、官営の新聞で罵るのはまことに偉大で、
一世の雄で、その妙の骨頂は、罵られたものは敢えて反論できない点にある。
 また有る人は言う。これに反論できないというのは何たる臆病ものよ。敵は
「殺身成仁」の勇もないのが第二の罪状だという。これで愈々革命文学家の英雄たるを明らかにすることができる。惜しいかな、この文学は決して強暴者に対する革命では無く、失敗者に対する革命に過ぎぬということだ。
 唐の人はこのようなことはとうに知っていて、うまいことを言っている。
貧乏書生が冨貴な詩を作ろうとすると「金」「玉」「錦」「綺」などの字を多用し、自分では豪華と思っているが、その実貧乏で愚だということを露見させているのを気づかない。真の富貴の景象をかける人は「笙歌は院落に帰し、灯火は楼台に下る」とし、まったくあのような字は使わぬ。「倒せ、撃て」「殺せ、殺せ」
などの字は聞いているとまことに英雄的だがただの団扇太鼓に過ぎぬ。たとえ
陣太鼓としても前方に敵軍もなく後方に自軍もなければ、何の張合いもない太鼓に過ぎぬ。
 根本問題は作者が「革命人」か否かであると思う。もしそうならどんなことを書いても、どんな材料を使ってもすべて「革命文学」である。噴水から出るのは水で、血管から出るのはすべて血である。
「革命の賦を作り、五言八句で」というのも盲目の試験官を騙すだけだ。
 ただ「革命人」はめったにいない。ロシア十月革命のときは確かに多くの文人が革命に尽力しようとしたが、事実の狂風に対して、結局手も足も出せなくなった。顕著な例は詩人エセーニンの自殺と小説家ソーボリで、彼の最後の言葉は「もう生きてゆけない!」だった。
 革命時代に大声で「生きてゆけぬ!」と叫ぶ勇気こそ革命文学を書くことができる。エセーニンとソーボリは結局革命文学家ではなかった。なぜか?
ロシアが本当の革命のもとにあったからだ。革命文学家が風のごとくに起こり、
雲のごとくに湧くところは実は革命のないところだ。 (27.10.21発表)

訳者雑感:
 中国の文学文芸は時の政権、政府の提灯持ちという面が、どうしてもぬぐいきれない。お上が「革命」といえばその先棒を担ぐようなものばかりが発表、出版され、いい気になっているが、一般庶民は見向きもしない。その一方で
反政府、お上に徹底的に反抗する反骨のものもあるが、それらは常に弾圧され
焚書とか発禁処分されてきた長い歴史がある。処分の徹底さたるや、前王朝の
ものが自分に都合が悪いとなると国中の書物をすべて集めさせ燃やしてしまう。
それゆえ、燃やされて一冊もない書物が、日本などの武家屋敷の蔵で発見され、
中国に持ち帰って復刻された例も多い。
 話を提灯文芸に戻すと、1949年の新中国建設以来、共産党宣伝部のお触れに
基づいて「労農兵のための文芸」を創作しようという掛け声がかかると、一斉にそれらをテーマにした文芸が現れるが、地に足がついてないから本当の労農兵たちに人気のない作品ばかりが大量に出回った。
 魯迅の末尾の言葉でそれを表現するなら、労農兵文学家が風のごとくに起こり、雲のごとくに湧くところは、実は労農兵が疲弊して文学を読むようおな余裕のないところだ。
  2011/04/02訳
 




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再び香港について

行くのさえ「怖い」と思っていた香港を通過するのは9月28日で3回目。
 一回目は荷物も少なかったから無事だった。2回目に身一つで往復した状況は前に書いた。今回は前2回より不安だった。というのも「創造月間」の王独清さんの通信に、英国に雇われた中国の同胞が上船して行う「検査」の怖さ、面罵するか殴る蹴る、或いは金を出せという。それなのに私は十数箱の書籍を三等船室に、六箱の書籍と服類を自分の船室に携行していたからだ。英国旗をつけた同胞のやり方を見るというのも経験だが、その代償は大変大きい、と思った。これだけの箱から引きずり出された物を、又整理再梱包するだけで半日かかる:ほんとに実地検分するなら一二個にしてもらうのが最善だ。しかし、ことここに至っては彼のする通りに従う他は無い。金を渡すか、一つずつ検査させるか?検査となると私一人でどう対応しようか?
 船は28日香港着。当日は何も無かった。翌日午後ボーイが怱々と走り来て、部屋の外から手招きして告げた:
「検査です!鍵を開けてください!」
 私は鍵を持って三等船室に入った。そこには二人の濃緑の制服を着た英属の同胞が、鉄の串棒を持って箱の傍らに立っていた。中身は古書だと言ったが、まるで通じないようで「開けろ!」というのみ。
「それもそうだ、誰が見ず知らずの私の言う事を信じてくるものか」と思った。
もちろん私は開けに来たので、二人のボーイの助けを借りて開けた。
 検査を始めると、香港と広州の違いが分かった。広州を出る時も検査されたが、広州の検査官は顔色もよく、私の言う事を聞いてくれた。包や本を取り出して見た後、元の場所にきちんと戻してくれた。確かにそれは検査であった。
だがこの「英人の楽園」たる香港は全く違った。検査官の顔は青いし、私の言う事が通じぬようだ。箱の中身をすっかり出して引っ繰り返してみる。紙包の紙を破る。本箱から本を引っ張り出して箱より六七寸高く積む。
「開けろ!」それから二箱目。
 そこでちょっと試しに「見ないで済ますわけには」と小声で聞いてみた。
「十元出せば」と小声で答え。意味は通じた。「二元でどう?」もう少し出しても良いと思ったが。この検査方法は実に厳しいから、十箱こんな具合にやられたら、少なくとも5時間かかる。しかし手元に一元札は二枚しかない。十元札は持っているが、その時は出したくなかった。
「開けろ!」
 二人のボーイが二箱目を甲板に担いできた。彼は法に照らして懲らしめる如く、一箱の本を一箱半にし、数個の紙包みも破った。「検査」の一方で交渉を始め、私は五元に上げ、彼は七元まで下げた。がそれ以上進展しなかった。その時はすでに五箱目にかかっており、周りは騒ぎを見に来た野次馬で一杯。
 箱は半分以上開けられ、いっそもう全部させようと思い、交渉はやめ、ただ
「開けろ!」に任せた。二人の同胞もどうやら飽きてきたのか、段々当初のように箱を引っ繰り返さなくなった。一箱から二三十冊取り出し、箱の上に置いて、検査済みの印をつけた。手紙の束が彼らの興味を頗る惹起させたようで、精神を奮い立たせて、四五封見たが、すぐ戻した。その後、もう一箱開けたが、
乱雑に積まれた本から離れてゆき:これで終了した。
 よく見ると八箱開けたが、残る二つはそのまま手つかず。この二つは、すべて伏園の本で彼に頼まれて上海に運ぶ物。自分の物は全てメチャクチャにされた。「吉運の人は天の恵みあり。伏園はほんとに幸運だ。私ときたら、華蓋の運(一般人には災難の運)がまだ消えずにとりついている。ああなんとしたことか」と思いつつ、しゃがんで乱れた本を収拾しだし、数冊収拾したところに、ボーイがキャビンの入り口から大きな声で「船室の検査です、鍵を開けに来てください!」と叫ぶ。
 本の整理は三等船室のボーイに託し、走って部屋に戻った。果たして二人の英属同胞がとうに来ていた。ベッドカバーはめくれ、乱雑に散らかされ丸椅子がシーツの上に放ってあった。中に入ると身体検査で財布を調べられた。名刺で名を見るのかと思った。だが名刺には見向きもせず、十元札が2枚あるのを見て返してくれ、しっかりしまっておけと言った。私が失くすのを心配しているかのようだ。
 次にトランクを開け、中は全て服で10枚ほどひろげてベッドに乱雑に放った。その次はバスケット、銀貨で7元を包にしたのを調べたが一言も言わぬ。底に10元の包があったが、発見されなかった。次に長椅子の上の布の包を見、中に銀貨の包が10元、バラで4-5元、銅銭数十枚があったが、見終わっても無言のまま。次は衣料箱。これは恐ろしかった。鍵を開けるのも少し手間取り、同胞は鉄串で錠前を壊しそうな勢いだったが、何とか開けることが間にあってセーフ。中は衣料でやはり例の通り乱雑に広げられ、少しも手を緩めない。
「十元出せば、検査はしないが」と同胞の一人が服を調べながら言った。
 私は布包みのバラの十銭銀貨を彼に渡したが、受け取らない。かぶりを振って「検査」に戻った。
作業は二手に分かれた。一人がトランクと衣裳箱、もう一人はバスケットを検査しはじめた。やり方は三等船室の時とは違った。あちらでは只ひっかきまわしただけだったが、今回は毀損に変わった。魚肝油の紙箱を破り、床に放り、鉄串で蒋径三君がくれたライチ―の香りの茶葉の缶に穴を開けた。穴をあけて
ためつ、すがめつし、卓上の小刀に目をやった。これは北京にいたとき、十数銭で白塔寺の(縁日)で勝った物を広州に持参して、今回楊桃を剥いたもの。
後で計ると柄を含めて華尺で5寸3分しかないのに犯罪だと言われた。
「凶器だからお前は罪を犯した」彼は小刀を手にして私を指して言った。
 私は答えなかった。そしたら彼は小刀を降ろして塩煮落花生の包装紙に指で穴を開けた。それから蚊取り線香を手にして、
「これは何だ」
「蚊取り線香です、箱に書いてあるでしょう」と答えた。
「いや、どうもあやしい」
 といって一本取り出して嗅いだ。
その後どうなったかは知らない。同胞はこの衣裳箱の検査を終えたため、私は二箱目を開けねばならなかった。その時大変困ったのは。その箱には服や書物ではなく細々した物:写真、ノート、自分の訳稿、人の原稿、新聞雑誌の切り抜き、研究資料……。壊され、ひっかき回されたら損害は甚大と心配した。すると同胞は忽然布包みの方に目を向けた。私は、はたと悟って、その中の十元分入った十銭銀貨の束を取り出し、彼に見せる決心をした。彼は頭をひねって入り口の方を見てから手を伸ばして受け取ってから、二箱目に済みの印しをつけ、もう一人の同胞の所へ行った。多分何かの暗号を伝えたのだろう。だが
彼は不思議なことに金は持って行かず、枕の下に置いて出て行ってしまった。
 この時もう一人の同胞はまさに彼の鉄串で憎々しげにビスケット類の入った瓶の封を切っていた。私は暗号を聞いたらすぐ止めて呉れると思っていた。ところがそうじゃなかった。相変わらず作業を続け、封を開け、蓋の板を床に投げて二枚に割って中からビスケットを取り出し、ひねってから又瓶に戻し、そこでやっと両の手を大きく振って去って行った。
 天下太平。塵煙の舞う中、めちゃくちゃにされた部屋に坐って、二人の同胞がひっかきまわした事が決して悪意ではないことを悟った。例え交渉が成立しても、何がしかはメチャクチャにして「人の目を欺くため」の凌乱が検査を済ませた証になる。
 王独清氏は言っていた。同胞のほかにまだ大きい鼻で白い肌の主人がいることを。金を受け取る時に、入り口の方を見たのは多分このためだ。
だが私はまだこの主人には会っていない。
 後半の毀損は少し悪意があった。だがその咎は私が十銭銀貨で済まそうとして、紙幣を渡そうとしなかった為だったのが悔やまれる。銀貨を制服のポケットに入れるとずしりと重くて主人に露見するリスクが高いから、暫く枕の下に置くしかない。きっと仕事が終わったら取りに来るだろうと思った。
 革靴の音がコツコツと近づいてきて、部屋の外で止まった。見ると白人でとても太っている。多分同胞の主人だろう。
「終りましたか?」笑みを浮かべて尋ねてきた。
確かに主人らしい口吻。一目瞭然なのに今更何を訊くのか。或いは私の部屋が特段にメチャクチャだから慰めんとするにや。はたまた嘲笑せるや。
 部屋の外の「大陸報」の付録の図面を拾って、もともと何かを包んでいたのだが、同胞が破って捨てたのを、壁にもたれて見た後、ゆっくりと去った。
 主人が去ったので「検査」は終了と思い、一番目の衣裳箱を整理梱包した。
だがまだダメで、別の同胞が来て、「開けろ!」と言い、検査するというので、
こんなやり取りになった。
「彼がもう調べたよ」と言うと、
「まだ見てない。まだ開けていない。開けろ!」
「今再梱包したばかりなのに」
「お前のいうことは信じない。開けろ!」
「検査済みの印しがあるでしょ」
「ということは、金を出したのだな。賄賂を使ったな…」
「……」
「いくら出した?」
「仲間に聞いてください」
 彼は去った。ほどなくして又あの男があわただしくやって来て、枕の下から金を取り出し、その後はもう誰も来なくなり、本当の天下太平となった。
 それでやっと荷物の収拾を始めた。卓上に色んな物、カミソリ、缶切り、木の柄の小刀などが集められていた。もし十元の銀貨を出さなければ、これらを「凶器」として、更には怪しい香りだとして私を脅かしに出たことだろう。だがあの香は卓上には無かった。
 船が動きだすと静かになった。ボーイと閑談していると、この検査の騒動は、
私に咎があると悟った。
「貴方はとても痩せているから、アヘン売人だと疑われたのさ」と言う。
実際それを聞いて愕然とした。正に人の寿命は限りがあるが、「世故」は窮まりなし。これまで他人と飯櫃を争って釘にぶつかったことは多かったが、飯櫃さえ争わねば妨害はされないと思ってきた。去年アモイで飯を食うのも難しいが、
食わないというのも又、とりわけ「学者」たちに文句を付けられ、分をわきまえぬ輩との批判を浴びた。ヒゲの形も国粋と欧式の別があり、勝手にできない。
有る人が新聞で私に警告したのだが、私のヒゲは灰色とか赤色にしてはいけないという。体もあまり痩せすぎてはいけないとは、香港に来て始めて悟った。
以前は夢にも思わなかった。
 確かに検査の同胞を監督していた西洋人は良く食べ、でっぷりと太っていた。
 香港は只一つの島とはいえ、中国の多くの地方の現在と将来の縮図を活写している:中央に何人かの西洋人の主人がいて、その手下はへいこらしてばかりの「高等華人」と一群の手先となった奴隷根性の同胞。このほかは即ち、すべて黙々と苦しみを舐める「土人」。それに耐えられるものは「租界」で死に、耐えられぬ者は深山に逃れる。苗族瑶族は我々の先輩だ。
   九月二十九日 海上にて。

訳者雑感:
2008年に重慶から中国の遊覧船に乗り、三峡下りをした。空港から乗船場まで高速道路で向かった。ネオンのまぶしいほどのキラキラの香港のような夜景を眺めながら、ケーブルカーで川面に降り8時ごろに上船した。三階の一等船室でベッドもカバーがかけられソファもまずまずで、不潔感は無かった。
 さてカバンからウイスキーを取り出して、夜景を肴に三峡下りを楽しもうかと思っていると、誰かがドアをノックする。ドアを開けるとボーイの格好をした男が入って来て、これから3日間の船旅を気分よく過ごしてもらうために、
部屋をきれいにして、花と茶菓子を準備したとかなんとか訳のわからないことを言い、ついてはチップとして百元出せとユスリのような態度。さもないと、3日間でいろいろ面倒なことになりそうな雲行きである。
 さてどうしたものかと思案。別に百元をケチるつもりはないが、どうも釈然としない。本当の部屋付きボーイなのかどうかも得体が知れぬ。船が岸壁を離れる前に出さないと面倒なことになるという。おかしいな、と感じて、十元なら出すが、百元もチップを出すつもりはない、というと、十元などはした金じゃ引きさがらぬという。すこし押し問答していたら、アナウンスで船が出るから、見送りの人たちは下船するようにと言っているようだ。
 ボーイの格好をしたくだんの男は、急にあわてだし、十元だせというところまで来た。これはなにか怪しいと睨んで、本当にお前がこの部屋のボーイかと
問い詰めたら、にやにやしながら部屋を出て行った。
 その後、本物の乗務員が切符を改めに来たので、さきほどのことを持ち出して聞いたところ、そうした事があったらすぐ私に連絡してくれという。とは言いながら、その手の連中が毎回こうしてチップをねだりに船室に入って来るのを防ごうとはしていないようだ。
 このあたりの阿吽の呼吸は、船と言う閉じられた空間で大陸中を旅する者と、
それを支える河川運行サービス業の長いながい、曰く言い難いならわしがあるのだろう。
「日本奥地紀行」で有名なイザベラ バードの「中国奥地紀行」に武漢から船で三峡上りをするシーンが描かれている。当時岸の断崖のようなところに造られた道に船を曳航する人夫が何組もの隊を組んで、どこどこからどこどこまで
船を流れに逆らって引っ張る難行が、何日も何日も繰り返され、揚句には力尽きて、岸に留め置かれるような事態になって、乗客はいらだつ。それで交渉が始まり、曳航費の値上げで決着する。足元をみるというか、道中ゴマのハエというか、これは何も中国に限ったことではないし、江戸時代の東海道でも私の祖父が小さい頃には、そうした人夫がそれで生計を立てていたと話してくれたことを思い出した。
 それにつけても魯迅のこの時代、1927年ころでも、同じ中国ながら広州から上海に向かうのに、英国人の主人が監督する船にしか乗れないというのは、どうしたものであろうか。中国籍の主人が監督する船の方がよりリスクが高かったのか、或いは香港経由の船は英系資本に牛耳られて、中国系は締め出されていたものか。
 香港が1997年に返還されるまで、特に1972年に日中国交回復するまでは、
多くの外国人は、というか殆どの外国人は香港経由でしか中国に入国できなかったし、台湾人も香港経由でした中国に入れなかった。1927年のころの中国は
北京、南京、広州とそれぞれが別の政府を持っていたような状況であったから、
香港経由で行くしかなかったのであろう。汽車での移動は、映画「上海特急」
で描かれていた如く、軍閥の争いに巻き込まれて、いつなんどき列車がハイジャックされないとも限らない。その点英国旗を掲げた船なら十元は取られても
身の安全は保たれたのだろう。この後魯迅は上海でも共同租界で身の安全を計りながら生を終えることになる。
     2011/04/01訳
 

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小雑感

 蜜蜂は針で一回刺すと死んでしまう。犬儒の針は使うことで自分の命を伸ばすことができる。
 両者はこんなにも違う。
 
 ジョン ミルは:専制政治は人間を冷嘲させるという。然し彼は共和が人を沈黙させることは知らなかった。

 戦場に行くなら軍医:革命なら後方:人を殺すなら殺し屋:英雄みたいでかつ自身は安全だ。

 有名な学者と話す際は、偶には分からぬ所があるふりをするがよい。余り分からないと軽んじられるし、分かりすぎると厭悪される。偶に分からぬ所があるというのが双方に具合が良い。

 世間は武士が指揮刀を振るう事は知っているが、文人も振るえるというのは知らない。

 次から次に講演録が出される。惜しいことに彼がどういう背景で先に話したことと、今回のことが大きく違っているかを明らかにしていない:そしてまた
講演時に自分が自分の話を本当に信じているか否かも明らかにしていない。
(清党以前と清党後の蒋介石たちの講演が聯ソから反ソ反共に転換したことについて:出版社注)

 権勢家の利口な人びとは色々あって昨日死んだようだが、貧しくて愚鈍な者は本当に昨日殺されてしまった。(蒋介石、汪精衛たちが昨日までの自分は死んで、新たに生き返ったように活動する云々という発言に対して:出版社注)

 かつて羽振りの良かった者は復古しようとし、今権勢のある者は現状保持に努めようとし、未だ権勢を手にしていない者は革命しようとする。
大抵はそうだ。大抵!
彼らの言う復古とは記憶に在るつい数年前に戻るのであって、虞夏商周へ戻るのではない。

 女の天性には母性と女児性はあるが、妻性はない。
 妻性とは逼られて成るもので、ただ母性と女児性の混合にすぎぬ。
 サギ防止。
 自称盗賊は防備の必要は無い。逆に良い人間である:自称正人君子は用心すべし。本当の盗賊なのだから。

 階下の男は病気で死にそうで、隣はレコードを聞いている。向かいでは子供と遊んでいる。階上の二人は笑い転げ、牌の音。河の船では亡くなった母を哭す女。
 人類の悲しみと歓びは通じ合えぬ。只騒いでいるだけだ。

 ボロ着の男が通ると狆はキャンキャン鳴くが、主人の意を受けたとかけしかけられたものとは限らぬ。狆は往往にして主よりも手厳しい。
 きっとまもなくボロを着るのを許さぬという日が来よう。守らないと共産党にされる。

 革命、反革命、不革命。
 革命者は反革命者に殺された。反革命者は革命者に殺された。不革命者或いは革命者になろうとした者は、反革命者に殺され、何もしようとしなくても、
革命者や反革命者に殺された。
 革命、革命を革し、革命を革したものを革し、革革革革…と(果てしない)。

 寂莫を感じた時、ひとは創作する:きれいさっぱり何も無くなったら創作も無いし、愛する者もひとつも無くなる。
創作はかならず愛に根ざす。

 楊子は文字を書いて残さなかった。
 創作は自分の心を叙すといえども、かならずひとが見るのを願う。
 創作は社会性を持つ。
 しかし時にはただ一人さえ見て呉れればそれで満足だ:親友、恋人の。
 (訳者雑感:魯迅は文を書くのは自分の弁護のためということを書いている
一方で、文を書くのは人の為とも言う。 「為我」を唱えた楊子は文を遺さなかった。文を残すのは人の為であって、「為我」と相いれないから、という。
禅宗に「不立文字」なる言葉がある。自己の悟りに精進するのが一番大切で、
後の人のために文字に書いて残すことはしない、と。インドでは歴史を文字に残すということを大事にしなかった。それでも実際に起こったこと、生きた人の行跡は語り継がれては来た。)

 人は往々にして和尚を憎み、尼を憎み、回教徒を憎み、キリスト教徒を憎むが、道士は憎まない。この理が分かれば中国のことは大抵分かる。
(訳者雑感:裏返せば、外国人には道教はなかなか理解困難で、中国のことは
大抵わからないことばかり、ということか?
中国人は外来の宗教の伝道者をしばしば憎むが、地の宗教である道教の道士は憎いと思わないのか?いい加減なごまかしで庶民を迷信させ、でたらめばかりするというのが、道士についての一般的常識としながらも憎まないのはなぜか)

 自殺しようとする人も大海原で死ぬのを怖がる。夏には死体が早く腐爛するのを怖れる。
 水の澄んだ池、涼爽な秋夜に自殺する。

 凡そ当局が「誅」した者はみな有「罪」である。
 劉邦は秦の苛政暴政を除き、「父老」と法三章を約した。
 後にやはり一族皆殺しも行われ、書物の私的所有も禁じ、秦の法律に戻った。
 法三章とは口だけだった。

 半袖を見ると白い二のうでを思い浮かべ、そこから全裸を連想し、そしてすぐ生殖器を思い浮かべ、性交、雑交、私生児を思い浮かべる。
 中国人の想像は惟この方面ではかくも飛躍進化する。
       九月二十四日。
   2011/03/23訳



 

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魏晋の気風(きっぷ)及び文章と薬&酒の関係

今日の話は黒板に書いたテーマについてです。
 中国文学史は本気で研究すると容易ではありません。古い物は材料が全く少ないし、新しいのは多すぎます。それでまとまった文学史はまだありません。これから話すのはその一部で材料も少なく、研究もとても困難なのです。
我々がある時代の文学を研究しようとするとき、最低作者の環境と経歴、著作を知る必要があります。
 漢末魏初の時代は大変重要で、文学でも重大な変化が起き、黄巾と董卓の大乱後、且つ党錮の争いの後です。この時曹操が現れました。――曹操と言うとすぐ「三国志演義」を連想し、舞台のあの隈取りの奸臣を思い浮かべますが、
それは曹操観察の正しい方法ではない。歴史を振り返ると、その記載と論断はときどき極めてあてにならない、信じられない点が大変多い。それは通常我々が知っているのは、長期間続いた王朝にはいい人が多く;短いのには大抵いい人間がいないことでわかります。なぜでしょう?長い王朝の歴史を書くのは本朝の人で、当然本朝の人を持ちあげるが、短いと別の王朝の人が書くので、自由に前の王朝の人を貶斥するからで、それで秦にいい人は一人もいない。曹操の時代は頗る短く、次の王朝の人に悪く言われる例から逃れられません。しかし曹操は良くやった人で、少なくとも英雄といえましょう。私は曹操の一党ではありませんが、何はともあれ、非常に敬服しています。
 当時の文学を研究するのは先人のお陰で少し楽になりました。文集としては清の厳可均の編輯した「全上古三代秦漢三国晋南北朝文」があります。その中で役立つのは、「全漢文」「全三国文」「全晋文」です。
 詩では丁福保の編輯した「全漢三国晋南北朝詩」――丁福保は医者で今も
健在です。
 この時代の文学評論を輯録したのは劉師培編の「中国中古文学史」で、これは北大の講義録で劉先生は亡くなられましたが北大が出版しました。
 上記三冊は研究にたいへん役に立ちます。この時代の文学が異彩を放っていることが明確に読み取れます。今日話すのは劉先生が著書に詳述されているところは簡略にし:劉先生が略されている所を詳しく話します。
 董卓後、曹操が権力を握った。彼の治下で一番の特色は刑名を大事にした事。
立法は大変厳格で、大乱の後のため、みなが皇帝になろうと反乱を企てたのでこうせざるを得なかった。彼自身かつて「もし私がいなければ何人の男が王や
帝を称したことか!」と言った。これはまんざら荒唐でもない。そのため文章にも影響があり、清峻な風格を成した。――即ち文章は簡約で厳明な意味を持たねばならぬ、と。
 このほかの特色は通脱を大事にした点。小事にこだわらぬ豪放さ。彼はなぜそうしたのか?当時の気風と大きな関係がある。党錮の禍以前、凡そ党内の人はみな、自ら清流を任じたが、「清」を前面に出しすぎ固執してしまったので、
漢末になると清流の挙動がとてもおかしなものになった。
 一例として、名士の処へ普通の人が訪問する際、まず何か話をし、それが気に入らないと傲慢な処遇を受け、屋外に坐らされ、会見そのものを拒否された。
 又ある人は姉の夫と気が合わないのだが、姉の家で食事をした後、金を払おうとする。姉は要らないというと、彼は門を出てからその金を道に捨て、払ったことにして帰る。
 個人的にこんなことをしても大したことにならぬが、天下を治める時にこんなことを執拗に行ってはたまったものではない。それでこうした弊害をよく知っていた曹操はこの気風に反対し、通脱を提唱した。通脱とは自由気ままの意。
この提唱は文壇に影響し、思ったまま、そのまま書いた文章が沢山生まれた。
 考え方も通脱の後、固執を排除し異端と外来の考え方も十分容れることができたので、儒教以外の考え方も次々に導入された。
 まとめると、漢末魏初の文は清峻で通脱と言える。曹操自ら文章改造の祖師でもあるが、残念ながら彼の文は余り伝わっていない。彼は大胆で、文も通脱で大変力強い。文を書くときは何の忌非も気にせず、思ったことを書いた。
それで曹操は人材を求める時もこう言った。不忠不孝の者も構わぬ。才覚さえあれば良い。これも他の人はとても言えないことだ。曹操の詩は「鄭康成は酒を飲み、地に伏せて気絶した」と言う表現で、つい直近のできごとを取り上げたが、これも他の人はとてもできない事。更に人が死ぬ時、遺言を書くが、それは名士にとって超モダ―ンなことで、当時の遺言は決まった格式があり、死後何処どこに埋葬すべしとか、或いは某名士の墓の傍らにというのが多かった:だが彼は違う。彼の遺言は格式張らぬだけでなく、内容も服と伎女をどう処置すべきかなども書いた。
 陸機は「世の謗りを後王に残す」と書いたが、私はなにはともあれ、聡明な男だと思う。文を書くだけでなく、それを実行する手段も持っており、天下の方術師、文士を統べて網羅してしまい、外に逃れて悪さをせぬようにした。
それで彼の帷幄には方術師文士がうじゃうじゃいた。
 孝文帝曹丕は長子で父業をつぎ、漢を簒奪して帝位に即いた。彼も文章が好きで、弟の曹植と明帝曹叡はみな文章を好んだ。その時、通脱の他に華麗が加わった。丕は「典論」を書き、現在完本は残ってないが、その中に「詩賦は麗を欲す」「文は気を以て主とす」とある。「典論」の細かい断片は唐宋の類書(検索用の断片を集めたもの)にあり:整った形の「論文」は「文選」にある。
 その後、一般の人は彼の意見を適切とは思わず、彼の言う詩賦は必ずしも教訓を寓する必要はないとか、詩賦は寓意を持つようにすべきということに反対するとの見解は、近代の文学の観点からすると、曹丕の時代は「文学の自覚時代」或いは近代でいう芸術の為の芸術(Arts for Arts Sake)の一派です。
だから、曹丕の詩賦はたいへん素晴らしく、更には「気」を主としたため、華麗の上に壮大さが加わりました。
要するに、漢末魏初の文章は「清峻、通脱、華麗、壮大」と言えます。文学的見地では曹丕と曹植は表面的には差があります。曹丕は、文章は名声を千載に留めることができる:だが曹植は、文章は小道で、論じるに足りぬという。
 私は曹植は、心にもないことを言ったと思う。二つの原因があり、第一に
植の文章はたいへん素晴らしく、人は大概自分のしたことに不満を感じ、他人を羨む者で、彼の文章はすでにたいへんうまいので、文章は敢えて小道と言った:第二、植の活動目標は政治に在り、その方面で志を得られなかったので、文章は無用とまで言ったのだと思う。
 曹操曹丕以外に更に次の七人がいる:孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨、みな文章の達人で後に建安七士と称された。七人の文は少ししか残っていず、我々にはなかなか判断できない:ただ大抵は「悲憤慷慨、華麗」な文で、
華麗は曹丕の主張したもので、慷慨は天下大乱に際し、親戚朋友が乱で死ぬ者が特に多く、文は悲涼と激昂と慷慨となるのを免れなかった。
 七士の中では特に孔融は曹操と悶着を起すのを好んだ。曹丕は「典論」で孔融を論じたため、彼も「建安七士」に列せられた。だがそれは正しくない。
全く別のものだ。だが当時彼の名声は非常に高く、孔融は文を作る時、好んで諷嘲の筆法を用いたので、曹操は大変不満だった。孔融の文章は今日、少ししか残っていないが、それらをすべて見ると、他の人は余り諷嘲しておらず、曹操だけに向けられている。曹操が袁氏兄弟を破った時、曹丕は袁煕の妻、甄氏を自分の物にしたことに対し、孔融は曹操に出状し、武王が当初、紂を征した時、妲妃を周公に与えたと説いた。曹操が出典はと問うと、現在を以て、古に比すと、大抵はこの通りだと説いた。また曹操が禁酒を命じ、酒は国を亡ぼすゆえ禁じねばならぬ、というと、孔融は反対し、女は国を亡ぼすとも言うが、なぜ婚姻を禁じないのか?と反問した。
 実は曹操も酒を飲んだ。彼が「何を以て憂いを解くや?ただ杜康(酒の意)のみ」という詩を見ればそれが分かる。どうして彼の行為と論議に矛盾が起きたのか?彼のせいではない。彼は政治の当事者だから、そうせざるを得ぬが、
孔融は傍観者ゆえ、好き勝手なことが言えたためだ。曹操は彼が何回も反抗するので、別のことにかこつけて殺してしまった。彼は次の二点を主張したため多分不孝の罪だったであろう。
 第一、孔融は母と子の関係は瓶の中の液体と同じ。瓶からそれを注いだら、
母子の関係は完了したとみなした。第二、天下に飢饉が起きた時、少し食糧があったら、父に食べてもらうかどうか?彼の答えは:もし父が良くない人間なら、他の人に与えるも可也でした。曹操は彼を殺そうと思い、こういう発言を彼の不孝の証として殺してしまった。曹操が生きていたら訊いてみたいものです。最初、人材を求める時、不忠不孝でも構わぬと言っていたのに、なぜ不孝の名で殺してしまったのか?しかし事実はもし彼が生き返っても誰も訊けまい。もし訊いたら、たちどころに殺されてしまうでしょう!
 孔融と同じく曹操に反対した者に、袮衡がいた。後に黄祖に殺された。袮衡の文も実にいい。彼と孔融は、当初「気を主として」文を書いた。だから漢代の文が壮大になったのは、時代が然らしめたのであって、曹操親子の功というだけではない。ただ華麗で見栄えが良いのは曹丕の提唱した功である。
 かくして明帝の時に文は大きく変化した。
 それは何晏が出たためである。
 何晏の名声は大変なもので、地位も大変高く「老子」「易経」の研究を好んだ。
彼がどんな人間だったか、真相は分からぬし調査も難しい。曹氏の一派だったため、司馬氏は彼を嫌った。だから彼らの何晏への記述は不満一杯で、そのため、多くの伝説を生み、彼は顔におしろいを塗っていたと言う人もおり、生まれつき白い顔でおしろいは塗っていないという人もいた。結局のところは私も良く判らない。
 だが次の二点はみな良く知っている。第一、空談を好み、空談の祖師。第二、
薬が好きで服薬の祖師と云われる。
 それ以外に名理を論じるのも好んだ。体が弱いので、薬は飲まざるを得ない。
それも尋常のものではなく、「五石散」という薬を飲んだ。
 これは一種の毒薬で、彼が初めて飲んだ。漢代、皆は怖がって飲まなかったが、何晏は少し処方を変えて飲んだ。五石散の基本は大抵五種の薬:石鍾乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂。このほか、別の薬も入っているかもしれない。但 今はその中身を細かく研究する必要も無い。皆さんも飲みたいとは思わんでしょう。
 本にはこの薬は大変な良薬で、飲めば弱い体も強くなる。それで彼は裕福だったから飲み始め:皆も倣って飲みだした。その当時、五石散の流す毒は清末のアヘンと同じで、服薬しているかどうかで、金持ちかどうかが分かった。今、
隋の巣元方の「諸病源候論」にその一部が見られる。これに依ると、この薬を飲むのは大変面倒なことが分かる。貧乏人はとても飲めない。たとえ飲めてもちょっと注意を怠ると毒死してしまう。飲んだ初めは何ともないが、後から薬が効いてくると大変なことになるので「散発」という。もし「散発」しないと、弊害が出て来て、なんの薬にもならない。そのため、飲んだ後休んでいてはだめで、歩かねばならない。歩いて始めて「散発」が可能となる。それで歩くことを「行散」という。六朝の詩にある:「城東に行散す」というのがそれです。
後世、詩を作る人がそれを知らず「行散」を歩行の意味と考え、服薬しなくても「行散」の2字を詩に書いたが、おかしな話である。
 歩行後、全身が発熱し、その後悪寒がする。普通悪寒には服を重ね着して熱い物を食べるが、服薬後の悪寒はそれとは逆に、服を脱いで、冷食し、冷水を浴びるのです。もし沢山着て熱い物を食べると死んでしまう。それゆえ五石散は一名、寒食散という。ただ一つだけ冷たくなくても良いのが酒です。
 この薬を飲んで、服を脱ぎ、冷水を浴び、冷食し熱燗を飲む。こうすると五石散を飲む人の多くは厚手の服を着る人が少なくなる。例えば広東でこれを提唱したら、1年後には洋服を着る人はいなくなるでしょう。肌から発熱するため、体にぴったりした服は着られない。皮膚が服と擦れて傷つかないようにゆったりした服でないとだめです。今日多くの人が晋の時代は軽やかな皮衣に緩やかな帯、寛いだ服を着ているから当時の人たちは高逸だと思っているが、実は彼らが服薬していたためだということは知らない。あるグループの人たちが服薬して寛いだ服を着ると、服薬しない名士たちも彼らに倣って寛いだ服を着始めた。
 又、服薬後皮膚が擦れて傷つきやすいので、靴は不便で靴下も穿かず、サンダルをはいた。だから晋人の画像や当時の文を見ると、寛衣で靴をはかずサンダル履きできっと気持ちがいいし、瓢逸だと思うが、実は心中は大変苦しいのです。
 そして皮膚が傷つきやすいので新品の服は着られず、古着の方が良いし、あまりこまめに洗うわけにはゆかず、洗えぬから虱が増える。それで彼らの文中での虱の地位は高く「虱をつぶしながら談ず」は当時、美事と伝えられた。もし私が講演中に虱を始めたら、みっともないと言われましょうが、当時は構わない。習慣の違いだからこれは正に清朝でアヘンを吸うのを提唱したのと同じで、我々は両の肩の聳えた人を見ても奇怪な男とは思わなかったのと同じです。
今日では通じませんが、多くの学生の肩が一の字のようになっていたらとても奇怪に思うでしょう。
 このほか、散を飲む時の状態や諸般のことが分かる本に葛洪の「抱朴子」がある。
 東晋になると偽物が増え、路傍で横になり、「散発して羽振りの良さ」を示した者も出た。丁度清の時代に読書を尊び、墨を唇に塗って、ついさっきまで字を書いていたと言わんばかりの格好と似ている。それで私は、ゆったりした服でサンダル履き、ザンバラ髪等は、後世の人が倣ったもので服薬しない者もまねたのであって、(彼らの)理論提唱とは無関係だと思います。
 また「散発」は空腹ではダメで、冷食を掻きこむように早く食べねばならず、間を置かず、一日何回かも決まっていなかった。そのため、晋の時代には
「喪中も礼を無くす」というようになった。――元来魏晋時代は父母への礼はたいへんやかましかった。例えば、人を訪問する時、その前に必ずその人の父母と祖父母の名を訊き、諱(いみな)を避けねばならない。さもないと一言でも口から発せられたら、もしその人の父母が亡くなっていたら、主人は大声で泣き出すし、――父母を思い出すから――大変なことになる。
 晋の礼は喪に在っては痩せて、食事も少なくし、酒も飲めないのだが、服薬後は命の為にそんなことも言っておられず、おおいに食らうしかない。だから、
喪に在っても礼をとやかくいわない、となる。
 喪に居る時にも酒食するのは、羽振りの良い名流が唱え万民もこれに従った。
それでこれらの人を名士派と尊称するようになった。
 散を飲むのは何晏が始めたが、彼と同志の王弼と夏侯玄の二人も彼と同じく服薬の祖師で三人が唱え、多くの人が真似た。彼ら三人は文章もうまく、夏侯玄の作品は余り残ってないが、王と何の二人の文は今も見ることができる。彼らは正始(年間)に生れたので、「正始の名士」という。
 但、この習慣の末流は服薬するのみ或いはしまいには飲んだふりをするだけで、文章は書けなかった。
 東晋以後、文を書かず清談に流れたのは「世説新語」に見られる。そこでは空論ばかりで文章は少なく、三人に比べると大きな違いがある。三人の内、王弼は二十余歳で若死にし、夏侯と何の二人は司馬懿に殺された。二人は曹操との関係から、死ぬ他なかった。それはちょうど曹操が孔融を殺した時と同様、不孝という罪名を着せられた。
 二人の死後、論者の多くは魏とのからみで罵っているのだが、何晏が罵られるに値するのは、服薬の発起人だからで、この風習は魏晋から隋唐まで続き、唐になって「解散方」というのまでできた。即ち五石散を解毒する処方で、まだ五石散を飲んでいた者がいた証だ。しかしだいぶ減ったであろう。唐代以降
誰も飲まなくなったが、その理由は未詳。多分弊害が多く、利が少ないためで
アヘンと同じか?
 晋の名士、皇甫謐は「高士伝」を書いた。彼はさぞかし高邁な人だと思われているが、服薬していて、自ら服薬の苦しみを書いている。薬が効きだすと少しでも注意を怠ると、命を落とす。少なくとも大変な苦しみを味わい、発狂しそうになり、聡明な人も痴呆になる。だからしっかりと薬性を知って、救助法を会得し、かつ家族もよくその薬性を知っておかねばならない。晋の人はカンシャク持ちが多く、高慢で発狂し、性質も火の如く荒っぽいのは多分服薬のせいで、ハエがうるさいと言って、剣を抜いて追いかけた:話をしても馬鹿げたのが良いとして、時には全く瘋癲に近い。だが晋代には痴を良しとするのまで
現れたが、これも多分服薬のせいだろう。
 魏末、何晏たちの外にもう一つのグループが現れた。「竹林名士」といい、
七人なので「竹林七賢」ともいう。正始の名士は服薬したが、竹林名士は飲酒。
竹林の代表は嵆康と阮籍。但し、竹林の名士は酒を飲むだけでなく、嵆康は服薬もした。阮籍は飲酒専門の代表。だが、嵆康も飲酒し、劉伶も同じ。彼ら七人はたいてい皆、旧礼教に反抗した。
 この七人の性癖はそれぞれ異なる。嵆康阮籍の両名の性癖は雄大で:阮籍は老年になって良い方に向かったが、嵆康は始終ひどかった。
 阮は若いころ、彼を尋ねて来る人に対して、青眼と白眼で区別した。白眼とは多分まったく瞳が見えぬ状態なのだが、長いこと練習してモノにしたのだろう。青眼なら私もできるが、白眼はうまくできぬ。
 後に阮籍は「人の良しあしを口にしない」境地に達したが、嵆康はまったく改めなかった。その結果、阮籍は天寿を全うしたが嵆康は司馬氏の手で殺された。孔融何晏などと同じく不幸にも殺害された。これも多分服薬と飲酒の差のせいか:服薬は仙(人)になれ、仙人は俗人を侮る:飲酒では仙人になれず、
いい加減のところでお茶をにごす。
 彼らのふるまいは、飲酒するときはたいてい衣服も冠も脱いでしまう。通常こんな状態だと我々は無礼だと思うが、彼らは違った。喪のときも慣例通りに泣くとは限らず、子は父の名を呼んではいけないが、竹林七賢たちは、子は父の名号を呼ぶことができた。今まで伝わって来た旧礼教では、竹林七賢を認めなかった。劉侯――彼は皆さんご存知の「酒徳頌」を書いたが、――世間で昔から定められてきた道徳を守らず、こんなこともありました。ある時客が面会に来た時、彼は服を着なかった。客が責問すると、答えて曰く:天地は我が家、
家は我が服、君たちはなぜ我が褌の中に入って来たのだ?と。
 阮籍などさらに大変で、上下関係も古今の違いも認めず、「大人先生伝」に、
「天地は解け、六合は開け、星辰は隕(落ち)日月は頽(たいす)、我、騰(ほん)して上に昇って何を懐かんか?」とあり、その意味は、天地神仙はみな無意味で、すべて不要だから世上の道理はもう争う必要も無く、神仙も信ずるに足りぬ。一切が虚無なのだから。酒を飲んで暮らすのが一番。それにもう一つの理由は、飲酒は単に彼の考えに依るだけでなく、大半は環境のせいである。
その当時、司馬氏が位を簒奪していたが阮籍の名声は大変高かったので、何か
発言しようとしても極めて困難だったから、酒を増やして発言を減らすほか無かった。万一ヘンな発言しても酒のせいにして許しを得た。一度司馬懿(出版社注には司馬昭が正しい、以下同じ)阮籍に縁談を申し入れたが、阮籍は二ケ月間ずっと酔い痴れて、申し込みをさせなかった、というので分かる。
 阮籍の文と詩は大変すばらしい。彼の詩文は慷慨激昂してはいるが、多くの意味を隠して顕わさぬ。宋の顔延之すら余り分からぬと言っているほどで、
我々は今日、当然ながら余り理解できない。詩に神仙を説くが、本心は信じていない。嵆康の文は阮籍より上で考えも新しく、多くは当時の旧説に反対している。孔子曰く:「学びて時に之を習う、亦説しからずや?」嵆康の「難自然、
好学論」は違っている。人は決して学びを好まず、もし何もしなくても飯が食えたら、自由に閑遊し、勉強など好きにならぬだろう。今日人が好学というのは、習慣からやむを得ずというだけだ、という。更に管叔蔡叔は、周公を疑い、
殷の民を率いて謀叛したから誅され、いままで悪人とされてきたが、嵆康の
「管蔡論」は従来の意見に反対し、この二人は忠臣で、周公を疑ったのは互いの場所が大変離れていて、消息が不正確なためだったとしている。
 しかし一番多くの人の注意を引き、命に危険をもたらしたのは「山巨源と絶交する書」の「非湯武而薄周孔」である。司馬懿はこの文章により嵆康を殺した。湯・武・周・孔を非薄(否定)するのは今日では大した問題ではないが、当時は大変なことであった。湯武は武力で天下を平定した:周公は成王を補佐し:孔子は堯舜を祖述し、堯舜は天下を禅譲した。嵆康はそれらをすべて良くないとした。そうすると司馬懿が位を簒奪するにはどうしたらよいのか?やりようがない。この一点で嵆康は司馬氏の為政に直接の影響が出てきて、死ぬ他無くなった。嵆康が殺されたのは友人の呂安の不孝が彼にも及んだためで、罪名は曹操が孔融を殺したのと同じ。魏晋は孝で天下を治めたから不孝は殺さねばならない。なぜ孝で天下を治めたか?天子の位を禅譲でうまいこと奪ってきたから、もし忠で天下を治めるとなると、彼らの立脚点が揺らぎ、こともうまく運ばなくなってしまい、立論できなくなる。従って孝で天下を治めねばならない。ただ単に不孝だけならたいしたことにはならないが、嵆康はそれを論じだしたのだ。阮籍は彼と異なり、倫理上のことはあまり触れず、それで彼の結末も異なった。
 とはいえ魏晋人もすべてゆったりした服を着て、飲酒ばかりしていたわけではない。反対の者も多い。文章では斐頠の「崇有論」があり、孫盛の「老子大賢に非ず論」がある。これらの書はすべて王・何たちに反対したものです。史実では何曾が司馬懿に阮籍を殺すよう何回も勧めたが、彼は聞き入れなかった。それは阮籍の酒のせいであって、時局との関わりは少なかったためだという。
 しかし後世の人は嵆康阮籍を罵り出した。人は次々に罵倒し続けて今日まで1,600年余。季札は:中国の君子は礼儀に明るいが、人心を知ることに暗い、という。これはその通りで、おおよそ礼儀に明るければ、必ず人心を知るのに暗いので、古来多くの人は冤罪を受けた。例えば:嵆康の罪名はこれまで礼教を損壊したとされてきた。だが、私の個人的な意見では、この判定は間違いだ。
魏晋時代、礼教崇拝は大変なものだったように見えるが、実際は礼教を壊してしまっており信じてはいなかった。表面上礼教を損壊した者が、礼教を認め、大変信じていた。魏晋の時代、所謂礼教を崇拝していたのは、自分たちの利益のためで、その崇拝も偶々崇拝したというに過ぎず、曹操が孔融を殺したことや、司馬懿が嵆康を殺したのも、すべて彼らは不孝と関わりあったためだが、実際には曹操も司馬懿もなんら著名な孝子でもないし、その名目で自分に反対した者を罰したのだ。そこでまじめに生きている人は彼らがこれを利用して、礼教を汚し(冒涜し)たと考え、それに不満を持ったものたちの極みは、他に
なすすべもなく、憤慨して礼教を論じなくなり、信じなくなり、ついには反対するまでになった。――だが実際にはポーズだけに過ぎず、本心は礼教を信じ、大事な宝として、曹操や司馬懿より迂遠なほどに固執していた。もっと分かりやすい比喩で言うと、ある軍閥が北方で――広東の人の北方と私のいつもいうのとは限界が少し違い、私の北方は山東山西直隷河南辺りですが――その軍閥は以前は国民党を弾圧していたのだが、後に北伐軍が勢力を持つと、青天白日旗を掲げて、自分もつとに三民主義を信じており、総理の信徒だと言う。
それでも不足だとして総理の記念週間を催す。このとき本当の三民主義の信徒は、それに参加するかどうか?参加しなければ、お前は三民主義に反対したから罰すると言って殺されます。しかし彼の勢力下ではほかに方法は無く、本当の総理の信徒は、三民主義を口にしなくなる。或いは人が嘘っぱちのことを言うと、眉をしかめるから、あたかも三民主義に反対しているような格好になる。
 従って、魏晋に礼教に反対したといわれている人の多くもこんな具合だったと思う。彼らは迂遠な人々で、礼教を宝のように大切にしていた。
 もう一つの実証は凡そ人々の言論思想行為は、もし自分が正しいと思えば、世の中の人も自分の友人も皆同じようにするように、と願うはずだ。但し嵆康
阮籍はそう思わず、自分を摸倣するのを願わなかった。竹林七賢に阮咸と云う者がいた。阮籍の甥で同じになってよく飲酒した。阮籍の子、阮渾も仲間に加わろうとした時、阮籍は加わる必要なしといい、一族にはすでに阿咸(阿は名の前に付ける称)がいるからそれで十分だ、と。もし阮籍が自分の行為が正しいと思うなら、子を拒否しないだろう。だが拒否したということから、阮籍は自分のやり方が良いとは考えていなかったことが分かる。
嵆康は彼の「絶交書」を見れば、態度の驕傲なことが分かる:一度など、家で鉄を打っていて、彼は鉄を打つのが好きで、鐘会が訪ねて来た時もただ打つのみで、彼に取りあわなかった。鐘会は面白くないから帰るほかなかった。その時嵆康は口を開いて、「何を聞いてきて、何を見て帰るや?」と訊ねた。鐘会応えて曰く「聞いてきたことを聞き、見るべきことを見て帰る」。これも嵆康が殺されることになった禍根の一つ。
しかし私は彼が子に見せるために書いた「家戒」――嵆康が殺された時、子はまだ十歳で、これを書いた時は十歳未満――を見ると、全く別人のように感じる。彼はその中で、子に成人になる為の注意として、一条一条と教訓を書いている。上司の所へはそう頻繁に行ってはならない。泊ってもいけない:上司が客を送り出す時、彼の後ろに居てはならぬ。将来彼が悪い人間を処分する時、
お前が蔭で密告したとの嫌疑を受けるから。もう一つは、宴席で口論が始まったら、すぐその場を去るように。(傍らで批評しなくてもすむように)両者の間で、きっとどちらが正しいかと云う事になり、批評をせねば納まりがつかず、
どうしても甲乙是非を付けねばならず、片方から怪しからんと恨まれないようにするため。又人が酒を勧めたら、飲みたくなくても決して断ってはならぬ。
必ず和気あいあい杯を挙げるべし。
 こうみてくると、実にとても奇異に感じる:嵆康はあれほど傲慢なのに、子に教える時はこんなに月並みである。ここから分かるのは、嵆康も自分の挙動に満足していなかったこと。だから一人の人間の言行を評するのは実にむつかしい。世間では父に似ぬ子を「不肖」と称し、悪いと考えるが、この世にまさに自分の子が父親に似るのを願わぬ人もいるとは知らなかった。阮籍嵆康をみるとまさにそれだ。これは彼らが乱世に生まれたため、やむを得ずこうなったので、彼らの正体ではない。
 ただ又ここから魏晋の礼教破壊者という人は、実は礼教を信じ固執した極みの結果であったことが分かる。
 しかし何晏王弼阮籍嵆康の流は、彼らが高名だったから、一般人が学ぼうとしても、学べるのは表面的なものに過ぎず、彼らの本当の内心は分からなかった。ただ彼らの表面だけ学んだから、世の中には大変沢山の意味も無い空談と飲酒が増えた。多くの人は端無くも空談と飲酒だけで、ものごとを成し遂げる力も無く、政治的にも何の影響もなく、「空城の計」を玩ぶのが関の山で、実際的なことは何もなかった。文学上も然りで、嵆康阮籍は酒を欲しいまま飲んでも、文をよくしたが、後に東晋になり空談と飲酒の遺風は残ったが、嵆康阮籍の書いたような万言の大文章も無くなった。
 劉勰は「嵆康は師心を以て論を遣り、阮籍は使気を以て詩を命ず」といった。
この「師心」と「使気」は魏末晋初の文の特色で、正始の名士と竹林の名士の精神が滅んでからは、もう「師心使気」で文を作る者はいなくなった。(思うままに、意気に感じて文をつくる意)
 東晋になって気風が変わった。社会の考え方もだいぶ静かに落ち着き、各処に仏教の考えが入った。また晋末になると乱にも慣れて来て、簒奪にも慣れ、文も穏やかなものになった。それを代表するのが陶潜。彼の生き方は気ままに酒を飲み、食を乞い、うれしい時は談論して文を作り、憂いも無く怨みもない。
だから今日人は「田園詩人」という。非常におだやかな田園詩人である。彼の、生き方を真似るのは容易ではない。たいへん貧乏していても心は平静で、家に米がなければ他人の家の門に立ち、乞い求める。貧している時に来客があり、靴も無いというのでその客は家人に持ってこさせて彼に与えたら、彼は足を伸ばして喜んではいたという。(お金がない時に手を伸ばすのと同じ)
 そんな状態でも少しも気にせず、相変わらず「菊を採る東籬の下、悠然と南山を見る」。このような自然のままの生き方は、並大抵では真似できません。
 貧して服もボロボロになっても東籬の下で菊を採り、偶々頭を挙げ悠然と南山を見るとは、なんと自然のままでしょう。今日の租界に住んで花匠を雇い、数十盆の菊を植えて詩を作り「秋日菊を賞で、陶潜に效ふ」といって、自分じゃ淵明の高い心意気に合致せりと思っているが、お話になりません。
 陶潜の晋末は孔融の漢末と嵆康の魏末に略同じで、王朝の改易が将に近づいた時です。ただ彼は慷慨のそぶりは些かも見せなかったので「田園詩人」の名を博しました。但し「陶集」の「述酒」篇は当時の政治に触れている。これを見ると彼も世事について決して遺忘したとか冷淡ではないことが分かる。只彼の生き方が嵆康阮籍よりずっと自然だったに過ぎず、人の注意を引かなかっただけだと知れる。
 もう一つの原因は前述の如く習慣の問題で、当時の飲酒の風習は受け継がれるに従い、何も奇怪に感じなくなり、且また漢魏晋と伝わって時代もたいした差は無いのに変遷が極めて頻繁で、見慣れてしまったらもうそんな感触もなくなり、陶潜が孔融嵆康より穏やかなのは当然のことでしょう。例えば、北朝の墓志には官位の昇進は往往詳細に書いてあり、仔細に見ると二三の王朝に出仕しているが、当時は特に奇とも思わなかった。
 私の考えでは、たとえ昔の人といえども、詩文がまったく政治を超越した、
所謂「田園詩人」「山林詩人」というのはいない、と思います。人間世界を完全に超越した人もいない。この世を超越したのなら、当然、詩文すらもない。
詩文は人の営みで、詩があるということから世事を忘れることができなかったことが分かります。
 墨子の兼愛、楊子の「為我」(利己)がいい例です。墨子は当然文を書くので
すが、楊子は本來、文を書くべきではありません。それこそが「為我」なので
す。もし本を書いて人に見せたらそれは「人の為」になってしまうからです。
 このことから陶潜は塵世を超えられず、朝政に気があったことが知られます。
「死」も忘れられず、それも彼の詩に出ています。別の見方から研究すると、
旧説と違う人物になりそうです。
 漢末から晋末の文章の一部の変化と薬と酒の関係は私の知る限り大概こんな
ところです。学識も浅く詳細な研究も無いのに、このような暑い雨の日に、
諸君の多くの時間を費やしてすみませんでした。この辺で終わりにします。
(本講演録は1927年8月に何回かに分けて「民国日報」副刊「現代青年」に
掲載された:出版社注)

訳者雑感:
 魯迅は「食人」の元祖である礼教を徹底的に批判し破壊することでしか、
腐敗した中国を変革できないと、いろいろな場面で書いている。
 それは礼教を道具として使い、「不孝」という罪名で人を殺す為政者への反抗であった。
 「魏晋の気風」と題した講演の中で、魏晋時代に礼教を損壊しようとした
嵆康阮籍たちは、実は本当は迂遠なまでの礼教信奉者であって、礼教を道具として人を殺して天下を簒奪した司馬氏などは、実際は「たいして礼教を信じていなかった」と喝破している。
 この講演を青年たちに話しかけている広州の魯迅は、本心は礼教を信じていたのだが、乱世の為政者たちが、手あかのついた「礼教」で人を殺し、人を食らうのを許しておけないという激しい気持ちであったのだろう。
 彼自身は子供のころから「礼教」で教育を受け、科挙の試験に合格するために礼教の書物を諳んじるように何度も何度も読んできて、礼教の教えが漢民族に骨の髄までしみとおっていることを本当に感じていた。
 30年以上の内乱の後、共産党が政権を執り、社会主義を標榜して国家建設を行ってきたが、30年前から、マルクスとは手を切り、独自の経済改革を実施し
沿岸地域では飛躍的な経済的発展を遂げた。だが腐敗と格差は日を追うごとに
深刻になってきている。それをなんとかしなければならない。
 3月中旬の温家宝首相の記者会見での「腐敗問題が大変大きな危険をもたらす
状態にある」からそれを人々が批判監督して正さねばならない、というのは切実な問題である。腐敗はどの国にもあるが、中国の地方政府の首長とその部下らの腐敗は実に眼を蓋いたくなるほどひどい。精神的な支柱を失った人々には、他により所がなく、自身の利を第一に追求するという腐敗しか残ってない。
温首相の切実なる願いは彼自身が「憂国不謀身」で国を憂い、自己の利を謀らない、という生き方を、全国の首長たちが学んでくれることだろう。
 21世紀の今日、礼教は再びそれを使って精神的支柱のよりどころにしようと
考える為政者によって、蘇生しつつあるようだ。
孔子の巨大な像が天安門前広場に建てられた。中国の新聞に「孔子再就職」と
見出しが大きく出た。元の職場に!
  2011/03/21訳

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