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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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予言に擬して 

1929年に起こる瑣事を書いてみる。
 市民甲某が各県に大学を設置し、同時に監獄2か所を併設するよう提案したが却下さる。(大学生のデモでの逮捕者が大勢でたことからか)
 市民乙某が共産主義者の財産を共有とし、女性の眷属を共有の妻とし、一罰百戒とするよう提案。半年間批准されず。乙は怒って反革命したが、親友に告発され租界に逃れた。(共産主義というのは、財産を共有するという考えから
出たわけだから、女性の家族を共有財産にせよと、本気で言うものも出たのか)
 大勢の名士学者および文芸家が外国から帰国。外国のすべての政治風俗学術
文芸について本国より造詣が深いことで学位を受けた。ただしその中でも最も
秀でた者も学校には入っていない。(外国の著名大学で学位を取ったという学者も実は入学すらしてもいないことを皮肉るものか)
 科学文芸軍事経済の連合戦線成立。(20年前の四つの現代化の先駆けか)
 正月元旦、上海に多くの新しい雑誌が出版される。規模の最も大きなものは
――文芸又復興。文芸真正老復興。宇宙。其大無外。至高無上。太太陽。光明之極。白熱以上。新新生命。新新新生命。同情。正義。義旗。刹那。飛獅。地震。阿呀。真真全日。…等々。
 同日、米国の富豪たちが連名で北京の石炭ガラ拾いの老婦等に年賀電報を出し、「同志」と呼びかけたが、受取人該当なく翌日返送。
 正月三日。哲学と小説が同時に滅亡。
「一我主義」提唱者がほとんど禁固されるところで、取り調べ結果、新たな異端でもないとして詮議の要なしとして放免さる。
 市民丙が「党を以て国を治めるべし」と言い。即批評家たちから「すでに久しい前からそうであるのに、何を今さら、大局をつかんでない馬鹿なうすのろ」
と痛罵さる。(21世紀の今日、まさに一党専制体制で以て国を治めている)
 青年男女41,926人失踪とのデマ。
 蒙古が赤いロシアに近づき、五族から出ることが公に決まり、在華白系ロシア人が補欠となり、「五族共和」を保ち、各界は提灯祝賀す。
「小説月報」が「世界文学に入った2周年記念」号出版。年間購読者に優待券一枚送り、定価も85%にした。
「古今史疑大全」出版さる。名士学者の書信封書の往来で批評頌辞(褒め言葉)
合計2,500通。編者の自伝が250余ページ。広告が「芸術界」に載り、切手代を計算に入れなくても、大変な金額となる。(論敵への揶揄か)
 米国で「玉堂春」の映画上映。バビット教授評して、決してルソーの及ぶところではない由。
 中国のファウストが同情から郭沫若を訪ねたが、郭のあまりの貧しさに失望して去る。(中国のファウストを自称した、かつての弟子への罵詈)
 与党の数名が下野し:在野の大勢が坑に下った。
 誘拐公司の株が3.5倍に上がった。(当時は身代金誘拐事件が頻発した、私の
知人の兄も戦前、天津で誘拐され身代金を払ったが、死体で帰ってきた)
 女子の世界で乳房が大きいと切られるおそれあり、元のように胸をきつく締めつけだしたので、良家の多くは洋銀50元の罰金を払わされ、国庫は潤沢。
 (当時ノーブラが提唱されたが、乳房を切られる事件が多発した)
 ある博士「経済学精義」を講じるに、ただ2句のみ。曰く:「銅銭は十銭に換え、十銭は大洋銀に換えろ」と。全世界敬服。(馬寅初が唱えたもの、彼は後に
毛沢東に人口抑制を勧めたが、却下され、12億に激増という結果となった)
 ある革命文学家がひと言でマルクスの学説を覆す。「何がマルクスか牛クスだ」全世界敬服。ユダヤ人は大いに恥ず。(マルクスの頭文字が馬なのを牛でもじって罵る。マルクスもウシクスもへったくれもあるかの意か)
 新詩「(葬式の)泣き女の嘆き」が流行。
 茶店、風呂屋、駄菓子屋などがみな「現代評論」の寄託販売開始。(今なら
  さしずめ、漫画喫茶、サウナやマックに寄託。場違いの感を皮肉るか)
 アカは完全に消滅。アナーキズムは498年後に実施予定。
(本文に日付なく、出版社注には28年1月発表)

訳者雑感:
 ここで魯迅は具体的な人名を推定できる予言をしている。人民文学出版の注に依れば、経済学者とは後の「人口問題」で有名な馬寅初(1882―1982百年)、
「古今史疑大全」は彼がアモイ、広州で争った顧頡剛の「古史弁」の由。
 私は彼の「中国史学入門」を精読して翻訳した。本ブログの2010年8月ころ
その一部に触れているが、彼の中国古代史を「疑って」見直すことと、魯迅の「世故」には共通するものを感じる。その一方で蘇州の名士として北京大学卒の学者、胡適との親交などは、紹興の没落家族(かつては名家)から日本留学、それも仙台医学学校中退で、所謂有名大学の学位とかとは縁のない魯迅。魯迅の(必要なことしか記さぬという)「日記」の1926年9月8日に、(アモイに着任後すぐのころ)顧頡剛より宋濂(れん)の「諸子弁」一冊贈らる。とある。アモイ大学に同じころに招かれていたので、先に来ていた顧が本を持って歓迎の挨拶に来たようだ。それが数カ月もせぬうちに、魯迅の言葉によれば、名士学者らに仲間外れにされてアモイを去ることになるほど険悪になってしまった。
 「文人相軽んず」というのも中国の伝統ある「世故」であり、蘇州と紹興と
いうのも呉越の古都であり、二千年以上の仇が20世紀にまで脈々と伝わっているかのようだ。
 ウマがあわない、とかそりがあわぬ、ということもあろう。しかし二人とも
古代を疑い、現在を疑うという点は共通しているように見受ける。
私は顧氏の自伝「古史弁自序」の毛筆手書き原稿の影印本を2回ほどペンで書き写した。中国語と習字の勉強に大いに役に立ったと思っている。孟姜女の
物語の中国各地への伝播、変化など大変興味深いものがある。
 2011/04/14訳




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