先週、奈良の飛鳥で発掘された牽牛子塚(けんごし)から巨大な石室が発見され、多くの考古学者たちがこれは斉明天皇の陵に違いないと断定的なコメントを発表している。
一方宮内庁は、高取にある従来からの斉明天皇陵の見直しは不必要と発表し、被葬者を示す墓誌が出てこない限り、これを斉明天皇陵とは認めない由。
皇極天皇として皇位に就き、大化の改新の後、弟に譲位し、弟の死後、斉明天皇として重祚。朝鮮への出兵などに関与し、福岡まで出向いてそこで死去したという。遺体はどうやって奈良まで運ばれたのだろうか。秦の始皇帝も旅先で死に、遺体は死を隠すため匂いで露見しないように、魚の腐ったのを荷車に載せて、今の始皇帝陵の近くまで運ばれたという話を読んだ。
斉明天皇は天智天皇、天武天皇の母であり、彼女の死後、残った者たちが、彼女の徳を称え、高取の陵から牽牛子陵に改葬したことも十分考えられる。
欧州でも、聖者に祭り上げたい殉教者の遺体を墓地から掘り出して、聖堂内の墓地に埋葬しなおす。これによって後の人々によって、聖人として崇められ、
遺体の一部が各地に分けられ、遺体の昇格が行われてきた。
お釈迦様の白骨は中国でも近隣のアジア諸国にも塔に納められ、各所で崇められている。
朝日新聞の特派員として晩年ロシアに渡った二葉亭四迷は、病を得てペテルスブルグから日本に帰る途中、インド洋上で客死し、シンガポールの日本人墓地に埋葬された。私は彼の墓を二度ほど尋ねたことがある。唐ゆきさんたちの
苔むした墓石の近くにあった。その後、東京にも彼の墓があると知って、お参りにでかけた。染井墓地にあった古いものを、彼の卒業した学校の後輩たちが最近、立派な墓石に改めた。これも遺体の昇格と言えようか。
1936年に上海で死去した魯迅は、約六千人の上海市民の葬送で「民族魂」という旗の文字に包まれるようにして、上海郊外の「万国公墓」に顔写真入りの墓石の下に葬られた。葬儀委員には蔡元培などに並んで内山完造の名も見える。 死後20年、新中国建国7年目の1956年に、虹口公園に新しい墓が完成し、そこに改葬された。その棺を許広平夫人や茅盾らを先頭に葬送する写真が今も印象に残っている。死者はそれを喜んだかどうか、担ぎあげられることを潔しとしなかったと思うが、残された人々がそうしたいと思うなら、いたしかたないかと苦笑いしながら、許容しているかもしれない。
これも遺体の昇格である。
故人はもう何も言わない。預かり知らぬことだが、残された人々の故人への追慕と感謝の心が、遺体を昇格させたいという気持ちにさせるのだろう。死者の復活は、生き残ったものたちの心の選択である。
山東省の曲阜に孔子一族の墓群がある。当然のことながら孔子の墓石が一番立派で大きい。だが、儒教に対しては歴代の王朝にもいろいろ濃淡があり、
旺盛な勢力を誇った王朝時代に建てられた墓石はいずれも巨大なものが多いが、
弱小な王朝時代のものは、いずれも小さくて、それなりのものであった。
墓石とか皇帝の陵というのは、残されたひとびとの心が形に現れたものだと
言われるが、北京の西北に広がる明の十三陵は、皇帝が即位したらすぐ造陵を始めたという。これは歴代の皇帝が、自作自演のものだから有難みに欠けるのは,むべなるかなと思う。
最近は生きているうちに墓を造れという広告をよく見かけるようになった。
京都にいると天皇陵とか偉い坊さんだった人の墓がたくさんあるが、明の皇帝のように生前に造ったと記されたものは管見にして知らない。それほど日本人はずうずうしくないということか、あるいはそんなことに投ずる資財も無かったとも言える。木造の小さな家に住み、せいぜい庭園に贅を尽くすのみであった。
2010.9.12.
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