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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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本日秋風が吹いたから 「熱風」

「熱風」 随感録三十五  1918年 
 清末から今日まで、多くの人々が「国粋保存」と口にするのをしばしば聞いてきた。
 清末にこれを説く人は二グループで、一つは愛国志士、もう一つは外遊から帰国した大官。彼らの唱えるお題目の背後にはそれぞれ別の意味合いがあった。志士のいう国粋保存は、明朝の古い時代を光復せよ、との意味で、大官は、留学生に辮髪を切るなと言う意。
 今、民国が誕生したから、上述の二つの問題は完全に消滅した。だから今これを言う人の背後にどういう意味があるのか知り得べくもない。そして国粋保存の表向きの意味すらわからない。何を「国粋」と呼ぶのか?字面からすると、一国独自の他国は無い事物だろう。言いかえれば、特別なものだ。しかし特別なものが良いとは限らないから、なぜ保存せねばならないのか?
 例えば、ある人の顔にこぶができたり、額におできができたとする。たしかに他人とは違い、彼の独自なものだから彼の「粋」と言えよう。だが私は、この「粋」は取ってしまう方が良く、他人と同じになる方が良いと思う。
 もし中国の国粋は特別なもので、良いものだというのなら、なんで今これほどまでに無茶苦茶になってしまったのか。新派も首を振り、旧派も嘆息する。
 もし、それは国粋保存ができなくなったのは「海禁」をやめたせいだからというのなら、
「海禁」をやめる前までは、国中はすべて「国粋」だったのだから、当然良かったというのなら:なぜ春秋戦国、五胡十六国時代には戦乱が止まなかったのか?古人も嘆息する。
 もし、それは成湯や文王武王周公を学ばなかったせいだと言うのなら:なぜ成湯や文王武王周公の時代の前に、桀紂の暴虐があり、その後に殷の後裔たちが乱を起し、しまいには、相も変わらず春秋戦国、五胡十六国のような戦乱の止まぬ状態になってしまったのか。
古人もみな嘆息する。
 吾友人がいいことを言った:「我々に国粋を保存せよと言うなら、国粋も我々を保存してくれなきゃ困る」
我々を保存する。たしかにこれが第一だ。それが我々を保存する力があるかどうかが、大事なことで、国粋かどうかは構わない。
                     2010/09/09 訳
 
訳者雑感:
国学と国粋、最近の中国の書店には、国学関係の本がたくさん並んでいる。百年前に書かれたような本が、いろいろな古典作品の絵入り、写真入りで手に取って見るだけでも、確かに美しい装丁で、「国粋」を保存してきた伝統が蘇ったような気がする。
国学とは国の伝統的なものを学び究めること。国粋とは自国文化に対する保守的、或いは極端に言えば、盲目的崇拝。国粋を保存すれば、国粋は自国民を保護、保存してくれるか?魯迅の時代は、国粋が国民を保護してくれるどころか、その逆で、国粋の保存を主唱する手合いが、国をめちゃめちゃにしてしまった時代であった。それが80年経った今、
民族を保護保存してくれるものは何か、いろいろ探してみて、やはり国粋に行きついたようだ。だが、それもまだ少数派で、多数派にはなっていない。
デモクラシーを守ったら、デモクラシーは国民を守ってくれるか?
答えはイエス、と大きな声ではまだ言い切れないのが現実。中華人民共和国には、他の国のように名ばかりとは言え、民主主義という名を冠した国とは違う成りたちがある。
国粋を守っても、国粋は国民を守ってくれるかどうか。国粋は博物館や標本室に保存しておいて、時折見に出かけるのは良い。生活の中にまで国粋があふれかえると、息苦しくなることだろう。しかし、このところの国学の復興は、何を物語っているのだろう。
 
 
 
 

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