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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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シュリーマンの友人グラヴァーはドイツ人ではなかったか?

シュリーマンの友人グラヴァーはドイツ人ではなかったか?

 石井和子訳「シュリーマン旅行記 清国・日本」1991年初版本、新潮社制作、エス・ケイ・アイ社発行を見て、講談社からの文庫本と対比しながら考えたこと。
1.
108頁に『江戸に行きたいが、それにはポートマン氏の招待状がなければならなかった。強国の代理公使から招待状を手に入れることは日本でも、他の国と同様に一介の外国人にはたいへんむずかしかった。(中略)それでも敬愛する友人たち、横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで、6月24日江戸の代理公使ポートマン氏を訪問するようにという、横浜のアメリカ合衆国総領事フィッシャー氏からの招待状が領事館員のバンクスを通じて届けられた』
とある点で、この時点では横浜のグラヴァー商会の友人たちとだけ記していて、グラヴァー氏本人か、そのパートナーか仲間の誰かは分からない。この時点ではシュリーマンは直接会っていない可能性が高い。

2.
153-154頁にアメリカの総領事ポートマン氏の話を引用して、『外国人は
 横浜に 約200人
 長崎に 約100人
 函館に   15人
 総計  約315人 である。
 (江戸に住んでいるのはポートマン氏のみで瞬間的にシュリーマンを含め2人だと記すが)
 外国人たちは、横浜の限られた居留地に住んでいる。彼らの家はガラス窓のある2階建てで、1回はベランダが、2階は廻廊(ギャラリー)がめぐらされている。どの家も花や木が植えられた美しい庭の真ん中に建っている。とりわけ私の若い友人のグラヴァー氏★の庭は、多くの棕梠、椿、針葉樹(松・杉・樅)
等があつめられていて、際立っている。また彼の家具調度を見れば、主人の才能と趣味のよさ、そして彼が雇った日本人大工の腕前のほどが見てとれる。大工はグラヴァー氏の設計図どおりに作り上げたのだろう。というのも、日本には同じような家具が存在しないからである』

 そして次ページの155頁全面を使って、翻訳者の注として
『★印の訳注――トーマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。幕末の日本において彼は、諸藩のために鉄砲、火薬、船舶等の輸入にあたり、また伊藤俊輔(のちの博文)井上聞多(中略)
らのイギリス留学の手助けをし(中略)と彼の略歴を記して、その後に出典として(ブライアン・バークガフニ「人間と文化」<三愛新書>による)』
と記して、その頁の上半分に 長崎・グラヴァー邸の庭。(「甦る幕末」より)の西洋人が5名ほど映った庭の写真を載せている。(建物は無いが遠方に長崎の対岸の山並みが見えるからこれは確かに長崎のもので、横浜の写真では無い:山口注)

3.162-163頁に
『ヨーロッパにおける絹、茶、木綿の暴落と、幕府が次から次へと持ち出す――大名たちの憎悪がつくりだす――障害のためで、交易はこの一年まったく不振で、採算のとれている商人はほとんどいない。実際利益をあげている商人は三人もいるかいないかだ。そのなかに若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで好取引をつづけ、にわかに莫大な富を築きつつある』
 と記している。

4.
 この頁のグラヴァーの説明はハノーヴァー、リンゲンの医師の息子で、イニシャルはMであると記しているが、前の154頁にはイニシャルは無く、155頁の訳者注で、トーマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。幕末の日本において彼は云々と続けて、その出典として、
(ブライアン・バークガフニ「人間と文化」<三愛新書>による)と記して、その頁の上半分に 長崎・グラヴァー邸の庭。(「甦る幕末」より)の西洋人が5名ほど映った庭の写真を載せている。(建物は無いが遠方に長崎の対岸の山並みが見えるのは上述の通りでこれが読者に誤解を与える可能性がある:山口注)
 トーマス・グラヴァーは1859年にジャーディンの上海支店に入り、59年9月19日(旧暦8月23日)に長崎に移り、2年後の61年にジャーディン商会の長崎代理人となった。その後長崎でグラヴァー商会を設立した。
 その一方でジャーディン社の上海にいたジャーディンの姉の子ウイリアム・ケヅイックは59年に横浜に来てジャーディン横浜支店を設立した。63年にケヅイックは長州五傑のイギリス留学支援をしたとされている。
 長州五傑をイギリスに送ったのは横浜にいたケヅイックと長崎か横浜にいたグラヴァーが長州とロンドン本社の間を連絡取りあって、協力したものと思われる。

5.そこで疑問が起こる。
 シュリーマンが横浜の限られた居留地に自分で設計図を作り、日本の大工に家具調度を作らせたグラヴァー氏は、トーマス・グラヴァ―だったかどうか?
 シュリーマンは最初はイニシャル無しでグラヴァーと書き、10ページほど後にハノーヴァー、リンゲンの医師に士息としてMというイニシャルを付けて紹介しているのは不思議だ。シュリーマン自身も北ドイツのノイブコーの牧師の子として生まれ育ったから、同じ北ドイツのハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息、と記述しているのは、記憶違いから来るとは考え難い。況や、彼は江戸に行く時に招待状を作ってもらったり、横浜の居留地の立派な家に招待されている相手の名前、出身地を混同するだろうか?

1865年6月3日に富士山を見るまで、彼は上海から種子島の東を抜けて、長崎には寄らぬ航路で来日しており、6月10日前後に将軍家茂の京都への行列を見、6月18-20日に横浜から八王子に出向き、6月24-29日は江戸に滞在し、7月4日に横浜から(蒸気船が無かったので)英国の小さな帆船エイボン号に乗って、2か月もかかって9月2日にサンフランシスコに着いている。日本滞在は6月3日から7月4日出発までの1か月で、長崎に行ったとも記してないから、横浜でその当時横浜にいたトーマス・グラヴァーに会ったのなら、シュリーマンはジャーディン商会かグラヴァー商会のことに触れるだろうが、横浜の居留地の立派な家具調度の家に招かれたシュリーマンはM・グラヴァーと記しているのは不思議である。他の人の名前にはミドルネームもいれたりしており、フランス語で書かれたこの旅行記に数回グラヴァーと書いておるが、最後の段階でMというイニシャルを付けて、出身地を記しているのも不思議だ。

 山口の推論:
シュリーマンが会ったグラヴァーはドイツ人ではなかったか?
ハノーヴァー、リンゲンにグラヴァーという有名な医師がいたかどうか?
ただ、シュリーマンはこの原稿を横浜からサンフランシスコへ向かう船で書いており、富士山の高さとかいろいろ記憶違いかメモの書きなおしの際に誤記したものかもしれないが。
      2015/03/09記
 

 

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