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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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毛沢東のプロレタリア文化大革命~三つの「打倒せよ!」~

 現在では日本を抜いて世界経済第2位の大国になった中国にも、今の北朝鮮と同じように、扇動され、あるいは動員された大衆が、「アメリカ帝国主義を打倒せよ!」「ソ連修正主義を打倒せよ!」「中国のフルシチョフ(劉少奇)を打倒せよ!」と声高に叫んでいた時代があった。所謂、プロレタリア文化大革命の時代である。
 
 これらが叫ばれていたのは、私も含む日本人学生約200名が、北京、上海、井岡山、韶山(毛沢東の故郷で、湖南省)などを訪問した1968年8月頃である。
 
 その頃は文革が始まってちょうど2年が経過したころで、天安門広場や上海人民広場に立てられた肖像画の毛沢東とその親密な戦友である林彪の二人の顔が、全国から集まってきた紅衛兵や労働者たちをにこやかに迎えていた。
 
 上述のスローガンは革命歌の中に採り入れられ、革命歌は、小型の歌集まとめられて、林彪が人民解放軍のために編集させた毛語録とともに、全国から集まった彼らに配られ、全国的にも愛唱された。ちょうど、その頃の日本の歌声喫茶のポケット版歌集の如くに……
 
 訪中したわれわれ日本人の一行も、中国側の世話人に教わって、移動中のマイクロバスの中や、井岡山の革命記念館や毛沢東の旧居前で大声で唱ったものである。あの時から、50年たった今日でも、その光景は、脳裏に焼き付いており、私の忘れがたい思い出となっている。当時は我ながら純真だったんだな、と時折苦笑もする。
 
 ちなみに、現在の中国の都会では、円く輪になって当時の紅歌を唱う中年グループが各所に散見される。これを「紅歌会」という。
 
【中国のフルチショフを打倒せよ!】
 
 さて、これら3つのスローガンで、毛沢東が最初に実現できたのが、「中国のフルチショフを打倒せよ!」である。
 
 毛沢東は、文革中、中国のフルシチョフ(劉少奇)とその一派は、共産党員でありながら、大きな邸宅に住み、蓄財に励む実権派(資本主義の道を歩む実権派)であり、修正主義者である、と指弾した。毛とその取り巻きである四人組は、紅衛兵たちをたきつけて、彼らを徹底的にたたきのめし、大邸宅から彼らを追い出した後、財産を持たぬプロレタリアート(無産階級)の共産党員に分配し、開放し、自派を増やしていった。
 
 一方、時が経つにつれ、林彪の謀反、四人組の跋扈、殺し合い、経済(生産)的機能の停止、密告、人間不信など様々な要因が交錯し、文革の負の側面が拡大し、文革における人民大衆の災禍は想像を絶するものとなった。文革における死亡者数は詳らかでないが、1000万人から4000万人とも言われる。
 
 三角帽を被せられ、背中に「腐敗分子」の看板を負わされ、両手を後ろに縛られながらトラックに乗せられて、市中を引き回され、挙げ句の果てに投獄や下放させられ、多くの者が落命した。ちなみに、私は、北京や上海でそういう場面を何度も見ている。
 
【ソ連修正主義を打倒せよ!】
 
 毛沢東が次に意図したのが、ソ連の侵攻に備えての中米国交回復であった。
 
 1950年代の後半からの、ソ連のフルシチョフ首相によるスターリン批判の後、中ソ間の関係は徐々に悪化し、1968年夏には極東ウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)をめぐる国境紛争でなどで、中ソ間の対立が鮮明となった。
 
 危機感を抱いた毛沢東は、事態を打開すべく米中国交回復を決意した。当時、米国との国交回復は、東西冷戦でソ連と対立していたアメリカのニクソン大統領の外交政策とも合致していた。アメリカとの国交樹立で、ソ連からの脅威はなくなり、毛の意図は実現した。
 
 一方、ソ連では、フルシチョフを引退に追い込んだブレジネフ体制下、官僚主義の跋扈、アフガン介入の失敗、経済の低迷などによって社会は沈滞し、徐々に自壊して行った。今やソ連という国はない。
 
【アメリカ帝国主義を打倒せよ!】
 
 毛沢東の中国はアメリカに、台湾は中国の不可分の領土であると認めさせ、中韓台における駐留アメリカ軍の脅威の一つを減らすとともに、台湾の国民党政府がアメリカと共同して福建省などに侵攻してくるリスクをなくした。
 
 一方、ベトナム戦争で北を支援した中国は、アメリカ帝国主義を1974年4月サイゴンから追い出し、朝鮮戦争に次いでアメリカを東アジアから追い出すことに成功した。
 
 日本や世界各国でも、「ベ平連」のような反戦運動や社会運動が盛り上がり、アメリカにはもはや帝国主義は通用しないと悟らせることとなった。
 
 毛沢東と周恩来は、ニクソン、キッシンジャーとのギリギリの外交交渉を通じて水際でアメリカと手を握ることによって、自分たちの生前にアメリカが中国に攻めてくるのをなくすことに成功し、ほっとして二人で冥土に旅立ったのである。
 
2018.02.01
2018.02.20

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犬もイヌ、猫もイヌ

 1980年代に北京に駐在していた頃、駐在仲間と酒を飲みながら、北京版イロハカルタのパロディーを作ったことがあった。「犬も歩けば棒にあたる」の句に対しては「犬もイヌ、猫もイヌ」が秀作と認められた。


 1958年から1962年にかけて数千万人の犠牲者を出した大飢饉時には、犬はほとんど食べ尽くされ、いなくなってしまった。また、猫も同じ運命にあったという。


 本社を大阪に置くキャットアイ社が、広東省の仏山市で自転車の後輪部につける赤い反射板を製造していたが、その会社と取引関係をもつフランスの輸入会社の社長夫婦が中国に来た折に、商談のために対応を命じられた。


 その折、社長夫人から、中国では犬や猫やスズメなどをどこでも見かけないが、一体どうしたかと尋ねられた。彼女は、広東人はゲテモノ食いで犬を食べるということを知っていたが、まさか猫までも食べるとは思いもよらなかったという。


 それで、中国滞在の長い私にその背景を尋ねてきたわけだが、私も猫がどうしていなくなったのか分からなかったので、その時は説明できなかった。


 犬の肉は美味しいから食べてしまったのは分かる気がする。しかし、毛沢東時代に農業と人体に対して四害ありといわれたスズメ、ネズミ、ハエやカを大量に退治してしまった結果、スズメがエサとして食べていた虫が大量発生し、逆に困ったという話を聞いたことがある。ちなみに、広東料理屋で、龍といえばヘビで、トラが猫のことである。竜虎ともに食すというのが広東人らしいが……


 さて、習主席が第一期就任後推しすすめた自画自賛の「トラを退治し、ハエを叩く」運動では、中国共産党員9,000万人のうち、150万人以上が退治されたという。スズメやネズミ退治によって害虫が大量発生したように、党員や役人退治によって何か食物連鎖が起こりはしないだろうか? そしてその食物連鎖によってどんな社会が到来するのだろうか? はなはだ興味深い。


2017.10.29作成
2017.11.14投稿

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香港返還20周年

 今から20年前の1997年7月1日、英国最後の香港総督パッテンが、香港島の英国海軍基地から小艇に乗り込んで、沖合に待つ英国王室差し回しの大型ヨット客船ブリタニア号に乗船する姿が全世界に報じられた。その光景は、香港の英国支配の終焉を告げる象徴的ものとして、今でもくっきりと私の脳裏に刻まれている。
 返還後、北京政府は、「港人治港(香港人によって香港を治める)」というスローガンを掲げつつ、大陸と香港は「一国二制度」だと唱えてきた。が、実際は香港の行政上の首長はいずれも北京政府が指名した、あやつり人形のような人物ばかりである。
 これに対し、去年、雨傘運動という民主化要求運動が激化するとともに、香港の首長には香港人が選挙で選んだ人物を認めるべし、という要求が強まり、北京政府もこれには大いに手こずり、押さえ込むことはできなかった。
 先日テレビが、香港の若者の間で、大学受験の苦しさを訴え、自殺するものが増えている、と報じていた。その背景には、香港とは比べものにならないくらい厳しい受験競争に揉まれた大陸の若者が、大挙して香港にやって来て、香港大学等のエリート校に多数合格するので、香港の受験生には大学が非常に狭き門になっている状況がある、とのことであった。
 一流大学に入学し、卒業後は一流企業や香港行政府の上級役人となって香港のエリートを目指す若者が、将来に不安を感じ、悲嘆して自殺するのは、分かる気がする。
 しかし、この現象を別の角度から考えてみると、こういうことが言えないだろうか。つまり、これは、北京政府が一見「一国二制度」を遵守しているように見せながら、その実この制度をうまく活用して、できるだけ多くの大陸出身の受験生にエリート校へ入学させ、卒業後は彼らを企業や官界での幹部に就け、徐々に香港を大陸色に染めていこうとするものではないか。
 私は、ラマ僧や若者を中心とするデモ暴動後の2008年4月、ラサを訪問した。その時に現地の漢族の人に聞いた話を思い出す。チベット行政府や国有企業の管理職には、内地の職位より月4000から5000元も高いチベット僻地手当が支給されており、それを目当てに内地から優秀な漢族の若者が大量にラサに移り住んでいる、という。これは、つまり、漢族による実質的なチベット支配といえるだろう。香港もチベットも構図としては同じなのだ。
 これから30年後の香港返還50周年までには、大陸出身者のエリートが行政府の高官や企業のトップに就き、彼らが新香港人となって香港社会を牛耳り、「港人治港」が実現できた、と北京政府は自賛するのではなかろうか。
 雨傘運動の影響が、内地の大都会に飛び火して、民主化要求や反政府の運動の熱波が押し寄せさせないようにするのが、北京政府の第一目的である。
2017.07.09作成
2017.07.15投稿

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孫文夫人・宋慶齢の死

 北京の中南海のやや北、北海および什刹海という湖の西側地区には、中国政府要人の住居が多い。ここはやや古びた大きな別荘地のようで静かな雰囲気に包まれている。1981年頃から外国人にも開放されだした。ある日その辺りを歩いていたら、「宋慶齢故居」という案内が偶然に目に入ってきたので、見学したことがある。
 その後しばらくして、ラジオを聞きながら散歩していたら、イヤホンから、宋慶齢の死を告げるニュースが流れてきた。そのコメントでは、遺骨は孫文の墓とは別の場所に埋葬されるということだった。不思議に感じたので、その訳を親しい中国の友人に尋ねたら、彼女は、1925年(民国14年)の孫文の死去の後、他の男性と一緒に暮らしてきたから……ということだった。
 中華民国の建国の父、国父たる孫文の正夫人だったのだから、もし国民党の政権が続いていたら、彼女は国父の正夫人として「国母」と呼ばれていただろう。だが国民党政府は、毛沢東を中心とする中国共産党との戦いに敗れ、台湾への逃亡を余儀なくされた。
 彼女は、孫文死去後の1930年代以降、魯迅たちの左翼文芸戦線に近づき、共産党に近い立場で活動していた。魯迅の作品にも、彼女がアグネス・スメドレーと一緒に写っている写真が記載されている。

      魯迅の葬儀の様子
 1936年の魯迅の葬儀に際して、彼女は葬儀委員として、作家の茅盾や内山完造らとともに名を連ね、彼らとともに「民族魂」と大書された白い棺掛け布に包まれた魯迅の棺を取り囲ながら、何万人もの上海市民と一緒に万国公墓へ向かっている。
 その後も彼女は、国民党とは一定の距離をとりつつ、非共産党員でありながら共産党に協力している。新中国建国後も政治協商会議の重要メンバーとして共産党政権を支えていった。その彼女にしてみれば、自分の死後、孫文の墓に埋葬されるのは、思想的にも夫婦感情的にも受け入れられないことだったのだろうか?
2017.6.12作成
2017.6.16投稿
2017.6.19改訂

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毛沢東の周恩来への送り火

 1976年1月8日、長い間病床にあった周恩来が満77歳で死去した。翌朝、毛の住む中南海の一角から何発もの花火が上がった。この花火は、毛が彼の地位を脅かす恐れのある唯一の政治家、周恩来が自分よりも先に往生したことに大いに安堵し、それを喜んで打ち上げたのだ、と解説する人もいる。
 それから約30年後の2007年春、筆者は大連開発区のアカシアビラという集合住宅に移り住んだ。道ひとつ隔てた一角の広大な敷地に「開発区病院」という病院があり、ある日午前6時頃、その敷地で何発もの花火が打ち上げられ、目を覚まされた。それがどういう意味か分からなかったので、さっそく大連の中国人の友人に、その理由を尋ねてみた。彼の答えは以下のようなものであった。
 大病を患って開発区病院に入院していた故郷の親が、治療も甲斐なく亡くなってしまった。親孝行の末に大病院で昇天したことを喜び、花火であの世へ送り出し、それを周囲の人に知らせるのだ、と。
 ところで、周の死去に対する毛の気持ちはどうだったのだろう? 周は、毛を中心とする共産主義専制政治の中枢にいて、実務を取り仕切り、毛に対しては一度も叛くことなく、忠実に仕え、一度も失脚しなかった故に、不倒翁と呼ばれていた。
 文革期間には、劉少奇から林彪まで、いわゆる毛の後継者といわれたNo.2を悉く追いつめ、あるいは失脚させてきた毛にしてみれば、自分の存命中にいつ叛かれやしまいかと心配してきたその周が、毛自らの手を汚すこともなく、自分より先に死んでくれたのだ。これは、2人にとって大変喜ぶべきことだから、花火を打ち上げて、天下の人々に知ってもらうが良い。友人の話から推測すれば、それが毛の気持ちだったのかもしれない。
 文革末期、四人組は「批林批孔」運動を繰り広げた。この運動で、彼らは周を孔子になぞらえて、林とともに葬り去ろうとしたのである。
 周は批判の対象となったまま失意のうちに死去した。1976年4月5日、文革に苦しめられ、四人組を憎んでいた民衆は、彼の死を悼み、天安門で花輪を捧げた。この花輪は北京市当局によって撤去された。この撤去をめぐって抗議する民衆と当局が衝突、これが四五天安門事件(第一次天安門事件)である。ちなみに、この年から15年後の1989年に起こった天安門事件は、六四天安門事件(第二次天安門事件)という。
2017.5.24 作成
2017.5.27 投稿

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18年間日本を愛したパークス公使

18年間日本を愛したパークス公使
1.
 シュリーマンが日本でグラバーと会ったかどうかを調べていて、シュリーマンが日本にいた1865年6月の1ヶ月間に、グラバーが長崎から往復2週間かかる横浜まで来ていたかを調べていた。オールコックの後任として、中国からイギリス極東艦隊旗艦プリンセス・ローヤル号に乗って6月27日、長崎に到着したパークス公使の船上でのパーティに出席する為、長崎にいたことを「グラバー伝」(アレキサンダー・マッケイ著平岡緑訳)で知った。その前にも、長州藩の武士が彼を訪ねてきて、新任のパークスに手紙をパークスに渡して欲しい、との委託を受けていたので、グラバーが長崎を留守にした可能性は極めて低いと思った。
 同書には、「パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた」
そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とある。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。

2. 
さて、当時のパークスとグラバーの意見の違いはどこからきたのであろうか?イギリスの公使として将軍に力添えをしなければならないというのは条約を結んだ政権に力添えして、それを盛りたててゆくことがイギリスの国益につながる、との政策であることは間違いないだろう。
一方のグラバーは、薩摩や長州の若い武士たちのイギリスへの留学を支援し、薩摩や長州など西南諸藩に大量の武器弾薬を販売して利益を稼ごうとしていたから、「日本の将来は彼らの双肩にかかっているのです」とパークスに進言しているが、「パークスは同意しなかった」とグラバー自身が記している。そして、パークスの仲介などもあり、江戸幕府は退陣し、グラバーの死の商人としての目論みは潰え、倒産の憂き目にあうのだ。

時は経ち、西南戦争が終わった翌1878年5月イザベラ・バードが日本に来て、12月までの半年余の間に妹にあてた手紙を、1880年に2冊の本にして出版した。その後、その普及版として1885年に1冊にして「Unbeaten Tracks in Japan」として出版したら、とても好評で今日まで長い間読み継がれてきた。「この英語を訳すとすれば、「日本の未踏の道」ということになるが、「日本奥地紀行」という名前が今日まで通用している。日本人の通訳を伴ってとはいえ、西洋人の女性が一人で、これまで西洋人が足を踏み入れていないという道を通って、目にしたもの、耳にしたものを彼女自身の言葉と大変魅力のあるスケッチを残してくれたことに感謝する。
 この題名を考えたのはバードではなく、パークスの発案だった、というのが、
楠家重敏他訳「バード日本紀行」雄松堂出版2,002年の359頁にある。その本に彼女の79年5月30日の手紙で、日本の旅で最も楽しかったのは、「蝦夷より伊勢神宮への旅立った」と紹介している。
 彼女の本心は文明化した「古い日本」が好きなのだが、女性旅行家としてのバードに書かせて一般読者に知らせて「商品」にしたかったのは、未開で素朴な人々だった。アイヌはうってつけの素材だった、という訳者のコメントが続いている。
3.
 当時普通の外国人(男性が主だが)に対しては日本政府の発行する目的地の地名付きの査証が無いとそう自由にどこにも旅行することができなかったが、パークスの手配により、彼女は殆どどこにでも行ける査証を得ていたのだ。
 今日我々が大変好感と興味を持って読むことのできる、新潟から山形を抜けて蝦夷にまでの東北紀行は、訳者の解説(365頁)によると、
『第五便の続伸の文末には注目すべき記事がある。「蝦夷行きの蒸気船がこの先一か月は出ないと分かったので」海路で新潟から函館に行く計画をあきらめ、陸路で東北を寄稿することになった。当初のバードの計画では、東北地方はルートになかったのである』
本文の77頁に『蝦夷行きの蒸気船がこの先一か月は出ないと分かったので、残りの夏の計画は決まったようなものである。陸路を行くと四五○マイルほどになるし、知りたい情報が何も手にはいらない。後略 』とあり、通常の査証ではこんな変更はかなわなかっただろう。この辺りにすでに旅行家として有名なバードに日本案内の興味深い「旅行記」を出させたいとするパークスの思惑が見える。日本に18年もいるというのは、並大抵のことではない。嫌にならないどころか、最近日本に帰化したドナルド・キーンさんのような気持ちもあったのであろう。パークスを極東通にしたのはアヘン戦争であり、戊辰戦争、キーンさんを日本通にしたのは日米戦争だというのも不思議な縁だ。戦争がなければ二人とも東アジアに来ることも無く、普通の暮らしをしていたことだろう。
4.
彼は若いころ両親を失くし、従姉を頼って1841年にマカオに来て、アヘン戦争もまじかに体験したそうで、その後広東の領事館で働きながら、オールコックに認められて上海領事になり、1865年彼の後任として日本に着任し、1883年に清国の領事として日本を離れるまで、なんと18年も日本公使を務めた。現在では考えられないことだが、その頃の大英帝国は7つの海に広大な植民地を持っていたから、極東の日本公使にそんな「なり手」がなかったのだろうか。また、外交官のキャリア―としては欧州が主で、植民地などのポストで「財産」をしこたま蓄えて、本国に帰国して大邸宅を構えて老後を楽しむ。それが英国紳士の目論みだったのだろうが。植民地でもない極東の国への赴任は3-4流と見られていたという。その後、パークスは清国公使になって85年に病死している。(北京でマラリアというのと、リューマチでと両説あり)

 バードが新潟で色々な仕事をし、見聞を広めた後、1カ月蒸気船が出ないと
知って、諦めて陸路を取ったというのは大変興味深い結果をもたらしてくれたが、彼女は文中で、蒸気船なら得られる情報が何も手に入らないと心配しているのは、当時の蒸気船にはなにがしかの通信手段があったのだろう。
 何はともあれ、「日本奥地紀行」の山形以北の東北部分が我々の目に触れることができるようになったのは、題名まで発案したパークスのおかげで、彼は一般の外交官が4年前後で任地を離れて帰国するのに、18年もの長い間日本にいたのは、彼が日本をこよなく愛した証だろう。彼女が新潟から蒸気船で函館まで直行していたら、JR東の宣伝文句にある、東北大陸の魅力を伝えることなく、この紀行文も興味がだいぶ薄くなってしまったことだろう。
 パークスはオールコックのような「本」を残さなかったし、時には粗暴とも思われる言動で、日本人を恫喝などし余り評判は芳しくないが、15才くらいから死ぬまで、東アジアで清国人・日本人を見つめ、彼らにどう対応するのが最善かを肌で感じて行動したわけで、灰皿を投げ付けてまでして役者を育てた蜷川の愛と通じるものを感じさせる。
   2016年5月16日記

 

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ギョエテとは俺のことかと…

ギョエテとは俺のことかと…
1.
 表題は斎藤緑雨の有名な句で、ドイツの文豪ゲーテのカタカナ表記が数十種類あり、それを揶揄したものの由。
 シーザーとカエサル、ツァーリなどは元のラテン語は同じだが欧州語域内でも色んな綴りと発音に発展してきた訳だ。国名なども以前フランスでサッカーのワールドカップの中継を見ていたら「アルマーニ」というのでどこかとユニフォームを見たらドイツの事だった。モナコとミュンヘンなど、知らないと同じ語から変化したものとは分からない。
 閑話休題、去年の今頃、「シュリーマンが(横浜で)会ったのはグラヴァーか」という題で、当時の人的関係等から考えて、グラヴァーは長崎にいた可能性が強いことから、違うのではないかと疑問を持ち、色々調べたことがあった。
 というのも、シュリーマンが横浜に到着した1865年6月3日から7月4日にサンフランシスコに出発するまでの1カ月の間に、グラヴァーが横浜にいた、或いは長崎から来たという可能性が極めて低いからである。当時英国公使は有名なオールコックからパークスに代わる時期で、アレキサンダー・マッケイ著 平岡緑訳「トーマス・グラバー伝」(中央公論1997年)に依ると、
101頁;ここで、英国公使の交代があり、「1865年春、グラバーの支援を得て、海外渡航を希望する二名の長州藩士が長崎入りした。(中略)
 そのころになると、日本では、ラザフォード・オールコックの後任のイギリス公使として、手ごわいサ―・ハリ―・パークスが近々着任することが周知のこととなった。パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた。彼(グラバー)はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていたから長崎にいたトーマス・グラバーがその直前に往復2週間かかる横浜行きをしたという可能性は極めて低い。シュリーマンの江戸行きの手配をしたのが、「グラヴァー商会の友人たち」で、彼ではないと推定される。
そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とあるからである。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。

 その後、K先輩のお力を得て、フランス語の原版はGrauertという綴りであることが分かったので、Grauertの墓地のある横浜山手の外人墓地や横浜開港資料館などへご一緒して、Grauert氏に相違ないと確信した。(その後、最近の講談社学術文庫では以前のグラヴァー氏の記述や何枚かの写真、注なども、出版社の方で訂正されており)私の疑問は氷解したのだが。
2.
 最近、図書館でひょんなことから雄松堂書店の「新異国叢書」の第Ⅱ輯6を見る機会があり、昭和57年12月発行(1982年)で、訳者は上智大の史学専攻の藤川徹氏、原版は上智大の中井晶夫教授が1867年版の同書をパリの国立図書館からコピーを取り寄せたものを拝借した、と書かれている。題は「シュリーマン日本中国旅行記」として訳者は原題の順番を変えたと注記している。
 さっそく問題の個所をみると、
①73頁:グラヴァー商会の友人たちの厚意ある仲介によって(江戸へ行けることになった、略)
②111頁:(注4)としてトーマス・ブレイク・グラヴァーとフランシス・A・グル―ムが共同して設立、明治3年にグラヴァー商会は倒産した。(後略)
③117頁:ハノーヴァーのリンゲンうまれの高名な医師グラヴァー氏の息子であるグラヴァー氏がいた。
④120頁:(注)として、トーマス・ブレイク・グラヴァーThomas Blake Glover(1863-1991)スコットランドのアバディーン生まれの貿易商・技師。とあり、
父はトーマズ・ペリー・グラヴァーで造船業をしていた。本文に医師と書いているが、不明。(山口注:叢書の為、不明のまま印刷に回さねばならぬ時間的な制約があったのかもしれないが、Grauertという綴りをGloverという綴りにして注に入れたのは、何か違うなとの感触はあったので不明としたのであろう)
3.
 そこで、石井和子氏訳の以前の「講談社学術文庫版」1998年版(私家版は1990年12月発行)を見てみると、題は「シュリーマン旅行記清国・日本」で、1869年版の原版をやはりパリの国立図書館で、「古代への情熱」「シュリーマン伝」などを愛読して憧れを持っていた、(ご子)息の宏冶さんが「日本」の部分をコピーして、母に訳して欲しいと頼んできたものを訳すことになった、という経緯があとがきにある。それで、藤川訳との比較だが、
①A115頁:横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで…
②A163頁:(訳注)として、トマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。
③A171頁:そのなかに、若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァ―・リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで(後略)(山口注:若い友人の名前の前のMはKさんにフランス語を見てもらったら、ムッシューのMでしょう、とのことで、それまでのグラヴァー商会とかでは付けなかった個人名にMを付けたもので、突然ThomasがMというイニシャルで出てくるのは何か違うなと感じた)
4.
 さて、新たな疑問だが、石井さん或いは彼女の息子さんは藤川さんの訳本を見たことがあったであろうか?息子さんは「古代への情熱」「シュリーマン伝」などを愛読して憧れを持っていたことから、藤川氏の訳書を見ていた可能性はあると思われる。
 彼は、「夫を見送った後の整理もだいたい終わり」という状態にあった母親に(学生時代フランス語で育った)これを訳して欲しいと、彼女に「いきがい」をとの親孝行の気持ちもあったかも。
 本文の中には2つの翻訳に色々な言葉遣いの違いも多く、例えば108頁の江戸の人口では藤川訳では「皇帝家直属の」は石井訳では「将軍家に属する」とあり、これは将軍が正しいと思われる。藤川訳には「エタ・乞食及び切支丹の徒輩」とあるが石井訳では順番も違うが「その他クリスチャンなど」とあり、これはあの時代の使用禁止の問題が影響していよう。
 これ以外にもいくつかあるが、ここで問題は、石井訳ではMというイニシャル(実はムッシュ)が付いていてそのカタカナ表記にはM・グラヴァー氏とあり、これは重複するが、藤川訳ではMは無く、グラヴァー氏とある。
 想像しながらの推測だが、石井さんは本書の中で、藤川さんの訳書を参考にさせてもらったとは書いてないが、最初は私家版だったから、その点をあまり気にしなかったせいもあろうが、息子さんからこれも参考までに目を通しておいてと渡された可能性はあり、人名などの翻訳には参照されたかもしれない。
それで、冒頭に触れたように欧州語の中でGlover がGrauertに変化したかもしれないとの錯覚から、この問題が起こったのかもしれない。
 文章全体は大分違うが、人名の訳などについては、先輩たちの訳を参照させてもらう、というのは大いにありうることだし、況や1980年代にシュリーマンが幕末に日本に来ていたことを知っている日本人は少なく、彼が横浜で会ったのが、日本人がよく知っているグラヴァーであったなら、とても身近に感じただろうし、「商会」となればその前に来るのはグラヴァーと思ってしまうほど有名だから。
 ただ、藤川さんも注をつけながら、医師と造船、ハノーヴァーとスコットランドの違いの問題は、時間の都合でか、不明とするしかなかったのは残念だ。
 なおKさんによれば医師ではなく博士で神学者だった由。
    2016/05/07記

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賃上げと設備投資要請

賃上げと設備投資要請
 最近政府は経済界に対し、賃上げと設備投資を要請している。経団連も各産業界に賃上げに協力を呼び掛けている。何か順序が逆の感じがする。
 1970年代までは、労働組合が毎年春闘で賃上げを要請しストを打った。国鉄がスト予告すると一部の職員は会社に貸蒲団を持ち込んで泊った。独身寮生は貸し切りバスで出勤した。
 バブルがはじけて以来、労働組合が賃上げを要求しても、無い袖は振れぬという状態が何年も続き、賃上げ要求のストもなくなった。正規社員が減り、派遣社員とか非正規社員が増え、ストを打つ組合員が減少したことも背景にある。正社員は賃上げ要求できるような状況にない、もし正社員の賃上げを強硬に要求すると、正社員はどんどん減らされ、非正規社員に代替されるという心配がそうさせているのだろう。私鉄・JRでもかつては正社員が改札ホームの警備、清掃までやってきたが、改札は無人化され、ホームの警備は警備専門の子会社の社員となり、保線関係とか一部の業務を除き、ほとんどが別の下請け業務的な形態となった。
 こういう状態では、賃上げを要求する社員が減ってしまい、経営者は賃上げの要求・ストというかつての労使交渉という「場」から解放された。それで何とか2%の経済成長を掲げる政府が経済界に賃上げを要請するという不思議な状況が生まれた。と同時に、本来は企業が将来の競争力強化のために、自身で緻密なF/Sを行って、設備投資をするか否かを決断してきたのを、政府が「余剰利益」を内部留保せずに投資にまわせと、これまたへんてこな状況になってきた。何かおかしい。順序が逆だ。
 リチャード・ベッセル著「ナチスの戦争」(中公新書)の72頁に下記の文言がある。
 「ナチス時代の経済は、資本家が制御していない資本主義経済で(中略)
ナチ経済の目的は金を儲けることではなく、戦争をすることにあった」
 「資本家が制御していない」ということは恐ろしいことである。
 最近の中国の経済も30数年前の鄧小平が言った「黒猫も白猫もネズミを捕るのは良い猫」「国民の生活向上のための経済発展」を目指した社会主義市場経済から、最近は共産党の政権基盤強化のために「国・地方政府の経営する企業」が民間資本家の経営する企業を圧倒的に抑え込んで、「国家資本主義」の状況にある。
最近の日本は国が旗を振って、賃上げ設備投資を要請し、資本家が制御するのではなく、政府が制御する資本主義にしようとしているようだ。
                       2015/11/27記

 

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シュリーマンの友人グラヴァーはドイツ人ではなかったか?

シュリーマンの友人グラヴァーはドイツ人ではなかったか?

 石井和子訳「シュリーマン旅行記 清国・日本」1991年初版本、新潮社制作、エス・ケイ・アイ社発行を見て、講談社からの文庫本と対比しながら考えたこと。
1.
108頁に『江戸に行きたいが、それにはポートマン氏の招待状がなければならなかった。強国の代理公使から招待状を手に入れることは日本でも、他の国と同様に一介の外国人にはたいへんむずかしかった。(中略)それでも敬愛する友人たち、横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで、6月24日江戸の代理公使ポートマン氏を訪問するようにという、横浜のアメリカ合衆国総領事フィッシャー氏からの招待状が領事館員のバンクスを通じて届けられた』
とある点で、この時点では横浜のグラヴァー商会の友人たちとだけ記していて、グラヴァー氏本人か、そのパートナーか仲間の誰かは分からない。この時点ではシュリーマンは直接会っていない可能性が高い。

2.
153-154頁にアメリカの総領事ポートマン氏の話を引用して、『外国人は
 横浜に 約200人
 長崎に 約100人
 函館に   15人
 総計  約315人 である。
 (江戸に住んでいるのはポートマン氏のみで瞬間的にシュリーマンを含め2人だと記すが)
 外国人たちは、横浜の限られた居留地に住んでいる。彼らの家はガラス窓のある2階建てで、1回はベランダが、2階は廻廊(ギャラリー)がめぐらされている。どの家も花や木が植えられた美しい庭の真ん中に建っている。とりわけ私の若い友人のグラヴァー氏★の庭は、多くの棕梠、椿、針葉樹(松・杉・樅)
等があつめられていて、際立っている。また彼の家具調度を見れば、主人の才能と趣味のよさ、そして彼が雇った日本人大工の腕前のほどが見てとれる。大工はグラヴァー氏の設計図どおりに作り上げたのだろう。というのも、日本には同じような家具が存在しないからである』

 そして次ページの155頁全面を使って、翻訳者の注として
『★印の訳注――トーマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。幕末の日本において彼は、諸藩のために鉄砲、火薬、船舶等の輸入にあたり、また伊藤俊輔(のちの博文)井上聞多(中略)
らのイギリス留学の手助けをし(中略)と彼の略歴を記して、その後に出典として(ブライアン・バークガフニ「人間と文化」<三愛新書>による)』
と記して、その頁の上半分に 長崎・グラヴァー邸の庭。(「甦る幕末」より)の西洋人が5名ほど映った庭の写真を載せている。(建物は無いが遠方に長崎の対岸の山並みが見えるからこれは確かに長崎のもので、横浜の写真では無い:山口注)

3.162-163頁に
『ヨーロッパにおける絹、茶、木綿の暴落と、幕府が次から次へと持ち出す――大名たちの憎悪がつくりだす――障害のためで、交易はこの一年まったく不振で、採算のとれている商人はほとんどいない。実際利益をあげている商人は三人もいるかいないかだ。そのなかに若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで好取引をつづけ、にわかに莫大な富を築きつつある』
 と記している。

4.
 この頁のグラヴァーの説明はハノーヴァー、リンゲンの医師の息子で、イニシャルはMであると記しているが、前の154頁にはイニシャルは無く、155頁の訳者注で、トーマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。幕末の日本において彼は云々と続けて、その出典として、
(ブライアン・バークガフニ「人間と文化」<三愛新書>による)と記して、その頁の上半分に 長崎・グラヴァー邸の庭。(「甦る幕末」より)の西洋人が5名ほど映った庭の写真を載せている。(建物は無いが遠方に長崎の対岸の山並みが見えるのは上述の通りでこれが読者に誤解を与える可能性がある:山口注)
 トーマス・グラヴァーは1859年にジャーディンの上海支店に入り、59年9月19日(旧暦8月23日)に長崎に移り、2年後の61年にジャーディン商会の長崎代理人となった。その後長崎でグラヴァー商会を設立した。
 その一方でジャーディン社の上海にいたジャーディンの姉の子ウイリアム・ケヅイックは59年に横浜に来てジャーディン横浜支店を設立した。63年にケヅイックは長州五傑のイギリス留学支援をしたとされている。
 長州五傑をイギリスに送ったのは横浜にいたケヅイックと長崎か横浜にいたグラヴァーが長州とロンドン本社の間を連絡取りあって、協力したものと思われる。

5.そこで疑問が起こる。
 シュリーマンが横浜の限られた居留地に自分で設計図を作り、日本の大工に家具調度を作らせたグラヴァー氏は、トーマス・グラヴァ―だったかどうか?
 シュリーマンは最初はイニシャル無しでグラヴァーと書き、10ページほど後にハノーヴァー、リンゲンの医師に士息としてMというイニシャルを付けて紹介しているのは不思議だ。シュリーマン自身も北ドイツのノイブコーの牧師の子として生まれ育ったから、同じ北ドイツのハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息、と記述しているのは、記憶違いから来るとは考え難い。況や、彼は江戸に行く時に招待状を作ってもらったり、横浜の居留地の立派な家に招待されている相手の名前、出身地を混同するだろうか?

1865年6月3日に富士山を見るまで、彼は上海から種子島の東を抜けて、長崎には寄らぬ航路で来日しており、6月10日前後に将軍家茂の京都への行列を見、6月18-20日に横浜から八王子に出向き、6月24-29日は江戸に滞在し、7月4日に横浜から(蒸気船が無かったので)英国の小さな帆船エイボン号に乗って、2か月もかかって9月2日にサンフランシスコに着いている。日本滞在は6月3日から7月4日出発までの1か月で、長崎に行ったとも記してないから、横浜でその当時横浜にいたトーマス・グラヴァーに会ったのなら、シュリーマンはジャーディン商会かグラヴァー商会のことに触れるだろうが、横浜の居留地の立派な家具調度の家に招かれたシュリーマンはM・グラヴァーと記しているのは不思議である。他の人の名前にはミドルネームもいれたりしており、フランス語で書かれたこの旅行記に数回グラヴァーと書いておるが、最後の段階でMというイニシャルを付けて、出身地を記しているのも不思議だ。

 山口の推論:
シュリーマンが会ったグラヴァーはドイツ人ではなかったか?
ハノーヴァー、リンゲンにグラヴァーという有名な医師がいたかどうか?
ただ、シュリーマンはこの原稿を横浜からサンフランシスコへ向かう船で書いており、富士山の高さとかいろいろ記憶違いかメモの書きなおしの際に誤記したものかもしれないが。
      2015/03/09記
 

 

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シュリーマンはトーマス・グラバーとは会っていないのではないか。

シュリーマンはトーマス・グラバーとは会っていないのではないか。
「トーマス・グラバー伝」を読んで

 以前、シュリーマンの「清国・日本旅行記」の中に、シュリーマンが触れている横浜のグラヴァー商会の友人たちのおかげで江戸行きの旅行証を入手したことと「ハノーヴァーの若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで好取引をつづけ、にわかに莫大な富を築きつつある』と記しているので、どうしてこう言う表現になったか、疑問であった。
彼は1865年の6月3日から7月4日までの1か月の間、6月10日には将軍家茂の京都行きの行列を見ているし、18-20日は八王子へ出かけ、24-29日に江戸に出かけている。その外はほぼ横浜周辺にいて長崎には行っていない。
ただ、彼は横浜でグラヴァー氏の庭をみて『私の若い友人のグラヴァー氏★の庭は、多くの棕梠、椿、針葉樹(松・杉・樅)等があつめられていて、際立っている。また彼の家具調度を見れば、主人の才能と趣味のよさ、そして彼が雇った日本人大工の腕前のほどが見てとれる。大工はグラヴァー氏の設計図どおりに作り上げたのだろう。というのも、日本には同じような家具が存在しないからである』と記し、訳者は★印の注にトーマス・グラヴァーの紹介をしており、長崎の有名なグラヴァー邸のできる前の庭の写真を添付している。
さて、アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳、中央公論社の「トーマス・グラバー伝」1997年版を読んで、幾つか気になった点を下記する。

1.23頁:「清国に在留していた英国人の中にグラバー一族の者が二名いた。
 広東にいた英帝国税関長ジョ―ジ・B・グラバーと、当時福州に繋留されていたジャーディン・マセソン商会の船長T・グラバーである。グラバー姓を名乗る二人のどちらかが、或いは両方がアバディーンのグラバー一家と何らかの形で親戚関係にあったと思われる。となるとトーマスの就職を決めた推薦状は、当時清国にいた一族の一員からか、それともおそらくジャーディン・マセソン商会に雇われていた人物からでたものではなかったろうか」とあり、日本に来る途中で、シュリーマンが彼等の内の関係者から日本にグラバーがいることを紹介されていた可能性はある。その紹介で横浜のグラヴァー商会の友人たちから江戸行きの旅行の手配を依頼したのであろう。この時点でグラバー本人に会っている可能性は(表現からの推定だが)低いといえる。
2.江戸行きの手配は24日以前にしてもらった訳だから、グラバーの立派な庭と家具調度のある家は、その手配の前で、八王子へ行った18-20日を除いた、
6月3日から7月4日の出発までの間に訪問したのだろう。その間に、トーマス・グラバーは横浜にいたかどうか、シュリーマンと会っていたかどうか?
3.101頁;ここで、英国公使の交代があり、「1865年春、グラバーの支援を得て、海外渡航を希望する二名の長州藩士が長崎入りした。(中略)
 そのころになると、日本では、ラザフォード・オールコックの後任のイギリス公使として、手ごわいサ―・ハリ―・パークスが近々着任することが周知のこととなった。パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
4.103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた」彼はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていたから、長崎にいたトーマス・グラバーがその直前に往復2週間かかる横浜行きをしたという可能性は極めて低い。シュリーマンの江戸行きの手配をしたのが、「グラヴァー商会の友人たち」で、彼ではないと推定されるから。

そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とあるからである。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。
5.結論:シュリーマンは横浜でトーマス・グラバーに会ってはいないと推定される。横浜で家具調度品を整えさせることのできた、M.グラヴァーが存在していた可能性が高い。ドイツ人のシュリーマンがハノーヴァーのリンゲン出自の男と会話したのは果たして何語だったのだろう?ドイツ語か英語か?記憶間違いするだろうか?
   2015/04/09記

 

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