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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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ギョエテとは俺のことかと…

ギョエテとは俺のことかと…
1.
 表題は斎藤緑雨の有名な句で、ドイツの文豪ゲーテのカタカナ表記が数十種類あり、それを揶揄したものの由。
 シーザーとカエサル、ツァーリなどは元のラテン語は同じだが欧州語域内でも色んな綴りと発音に発展してきた訳だ。国名なども以前フランスでサッカーのワールドカップの中継を見ていたら「アルマーニ」というのでどこかとユニフォームを見たらドイツの事だった。モナコとミュンヘンなど、知らないと同じ語から変化したものとは分からない。
 閑話休題、去年の今頃、「シュリーマンが(横浜で)会ったのはグラヴァーか」という題で、当時の人的関係等から考えて、グラヴァーは長崎にいた可能性が強いことから、違うのではないかと疑問を持ち、色々調べたことがあった。
 というのも、シュリーマンが横浜に到着した1865年6月3日から7月4日にサンフランシスコに出発するまでの1カ月の間に、グラヴァーが横浜にいた、或いは長崎から来たという可能性が極めて低いからである。当時英国公使は有名なオールコックからパークスに代わる時期で、アレキサンダー・マッケイ著 平岡緑訳「トーマス・グラバー伝」(中央公論1997年)に依ると、
101頁;ここで、英国公使の交代があり、「1865年春、グラバーの支援を得て、海外渡航を希望する二名の長州藩士が長崎入りした。(中略)
 そのころになると、日本では、ラザフォード・オールコックの後任のイギリス公使として、手ごわいサ―・ハリ―・パークスが近々着任することが周知のこととなった。パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた。彼(グラバー)はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていたから長崎にいたトーマス・グラバーがその直前に往復2週間かかる横浜行きをしたという可能性は極めて低い。シュリーマンの江戸行きの手配をしたのが、「グラヴァー商会の友人たち」で、彼ではないと推定される。
そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とあるからである。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。

 その後、K先輩のお力を得て、フランス語の原版はGrauertという綴りであることが分かったので、Grauertの墓地のある横浜山手の外人墓地や横浜開港資料館などへご一緒して、Grauert氏に相違ないと確信した。(その後、最近の講談社学術文庫では以前のグラヴァー氏の記述や何枚かの写真、注なども、出版社の方で訂正されており)私の疑問は氷解したのだが。
2.
 最近、図書館でひょんなことから雄松堂書店の「新異国叢書」の第Ⅱ輯6を見る機会があり、昭和57年12月発行(1982年)で、訳者は上智大の史学専攻の藤川徹氏、原版は上智大の中井晶夫教授が1867年版の同書をパリの国立図書館からコピーを取り寄せたものを拝借した、と書かれている。題は「シュリーマン日本中国旅行記」として訳者は原題の順番を変えたと注記している。
 さっそく問題の個所をみると、
①73頁:グラヴァー商会の友人たちの厚意ある仲介によって(江戸へ行けることになった、略)
②111頁:(注4)としてトーマス・ブレイク・グラヴァーとフランシス・A・グル―ムが共同して設立、明治3年にグラヴァー商会は倒産した。(後略)
③117頁:ハノーヴァーのリンゲンうまれの高名な医師グラヴァー氏の息子であるグラヴァー氏がいた。
④120頁:(注)として、トーマス・ブレイク・グラヴァーThomas Blake Glover(1863-1991)スコットランドのアバディーン生まれの貿易商・技師。とあり、
父はトーマズ・ペリー・グラヴァーで造船業をしていた。本文に医師と書いているが、不明。(山口注:叢書の為、不明のまま印刷に回さねばならぬ時間的な制約があったのかもしれないが、Grauertという綴りをGloverという綴りにして注に入れたのは、何か違うなとの感触はあったので不明としたのであろう)
3.
 そこで、石井和子氏訳の以前の「講談社学術文庫版」1998年版(私家版は1990年12月発行)を見てみると、題は「シュリーマン旅行記清国・日本」で、1869年版の原版をやはりパリの国立図書館で、「古代への情熱」「シュリーマン伝」などを愛読して憧れを持っていた、(ご子)息の宏冶さんが「日本」の部分をコピーして、母に訳して欲しいと頼んできたものを訳すことになった、という経緯があとがきにある。それで、藤川訳との比較だが、
①A115頁:横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで…
②A163頁:(訳注)として、トマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。
③A171頁:そのなかに、若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァ―・リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで(後略)(山口注:若い友人の名前の前のMはKさんにフランス語を見てもらったら、ムッシューのMでしょう、とのことで、それまでのグラヴァー商会とかでは付けなかった個人名にMを付けたもので、突然ThomasがMというイニシャルで出てくるのは何か違うなと感じた)
4.
 さて、新たな疑問だが、石井さん或いは彼女の息子さんは藤川さんの訳本を見たことがあったであろうか?息子さんは「古代への情熱」「シュリーマン伝」などを愛読して憧れを持っていたことから、藤川氏の訳書を見ていた可能性はあると思われる。
 彼は、「夫を見送った後の整理もだいたい終わり」という状態にあった母親に(学生時代フランス語で育った)これを訳して欲しいと、彼女に「いきがい」をとの親孝行の気持ちもあったかも。
 本文の中には2つの翻訳に色々な言葉遣いの違いも多く、例えば108頁の江戸の人口では藤川訳では「皇帝家直属の」は石井訳では「将軍家に属する」とあり、これは将軍が正しいと思われる。藤川訳には「エタ・乞食及び切支丹の徒輩」とあるが石井訳では順番も違うが「その他クリスチャンなど」とあり、これはあの時代の使用禁止の問題が影響していよう。
 これ以外にもいくつかあるが、ここで問題は、石井訳ではMというイニシャル(実はムッシュ)が付いていてそのカタカナ表記にはM・グラヴァー氏とあり、これは重複するが、藤川訳ではMは無く、グラヴァー氏とある。
 想像しながらの推測だが、石井さんは本書の中で、藤川さんの訳書を参考にさせてもらったとは書いてないが、最初は私家版だったから、その点をあまり気にしなかったせいもあろうが、息子さんからこれも参考までに目を通しておいてと渡された可能性はあり、人名などの翻訳には参照されたかもしれない。
それで、冒頭に触れたように欧州語の中でGlover がGrauertに変化したかもしれないとの錯覚から、この問題が起こったのかもしれない。
 文章全体は大分違うが、人名の訳などについては、先輩たちの訳を参照させてもらう、というのは大いにありうることだし、況や1980年代にシュリーマンが幕末に日本に来ていたことを知っている日本人は少なく、彼が横浜で会ったのが、日本人がよく知っているグラヴァーであったなら、とても身近に感じただろうし、「商会」となればその前に来るのはグラヴァーと思ってしまうほど有名だから。
 ただ、藤川さんも注をつけながら、医師と造船、ハノーヴァーとスコットランドの違いの問題は、時間の都合でか、不明とするしかなかったのは残念だ。
 なおKさんによれば医師ではなく博士で神学者だった由。
    2016/05/07記

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