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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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18年間日本を愛したパークス公使

18年間日本を愛したパークス公使
1.
 シュリーマンが日本でグラバーと会ったかどうかを調べていて、シュリーマンが日本にいた1865年6月の1ヶ月間に、グラバーが長崎から往復2週間かかる横浜まで来ていたかを調べていた。オールコックの後任として、中国からイギリス極東艦隊旗艦プリンセス・ローヤル号に乗って6月27日、長崎に到着したパークス公使の船上でのパーティに出席する為、長崎にいたことを「グラバー伝」(アレキサンダー・マッケイ著平岡緑訳)で知った。その前にも、長州藩の武士が彼を訪ねてきて、新任のパークスに手紙をパークスに渡して欲しい、との委託を受けていたので、グラバーが長崎を留守にした可能性は極めて低いと思った。
 同書には、「パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた」
そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とある。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。

2. 
さて、当時のパークスとグラバーの意見の違いはどこからきたのであろうか?イギリスの公使として将軍に力添えをしなければならないというのは条約を結んだ政権に力添えして、それを盛りたててゆくことがイギリスの国益につながる、との政策であることは間違いないだろう。
一方のグラバーは、薩摩や長州の若い武士たちのイギリスへの留学を支援し、薩摩や長州など西南諸藩に大量の武器弾薬を販売して利益を稼ごうとしていたから、「日本の将来は彼らの双肩にかかっているのです」とパークスに進言しているが、「パークスは同意しなかった」とグラバー自身が記している。そして、パークスの仲介などもあり、江戸幕府は退陣し、グラバーの死の商人としての目論みは潰え、倒産の憂き目にあうのだ。

時は経ち、西南戦争が終わった翌1878年5月イザベラ・バードが日本に来て、12月までの半年余の間に妹にあてた手紙を、1880年に2冊の本にして出版した。その後、その普及版として1885年に1冊にして「Unbeaten Tracks in Japan」として出版したら、とても好評で今日まで長い間読み継がれてきた。「この英語を訳すとすれば、「日本の未踏の道」ということになるが、「日本奥地紀行」という名前が今日まで通用している。日本人の通訳を伴ってとはいえ、西洋人の女性が一人で、これまで西洋人が足を踏み入れていないという道を通って、目にしたもの、耳にしたものを彼女自身の言葉と大変魅力のあるスケッチを残してくれたことに感謝する。
 この題名を考えたのはバードではなく、パークスの発案だった、というのが、
楠家重敏他訳「バード日本紀行」雄松堂出版2,002年の359頁にある。その本に彼女の79年5月30日の手紙で、日本の旅で最も楽しかったのは、「蝦夷より伊勢神宮への旅立った」と紹介している。
 彼女の本心は文明化した「古い日本」が好きなのだが、女性旅行家としてのバードに書かせて一般読者に知らせて「商品」にしたかったのは、未開で素朴な人々だった。アイヌはうってつけの素材だった、という訳者のコメントが続いている。
3.
 当時普通の外国人(男性が主だが)に対しては日本政府の発行する目的地の地名付きの査証が無いとそう自由にどこにも旅行することができなかったが、パークスの手配により、彼女は殆どどこにでも行ける査証を得ていたのだ。
 今日我々が大変好感と興味を持って読むことのできる、新潟から山形を抜けて蝦夷にまでの東北紀行は、訳者の解説(365頁)によると、
『第五便の続伸の文末には注目すべき記事がある。「蝦夷行きの蒸気船がこの先一か月は出ないと分かったので」海路で新潟から函館に行く計画をあきらめ、陸路で東北を寄稿することになった。当初のバードの計画では、東北地方はルートになかったのである』
本文の77頁に『蝦夷行きの蒸気船がこの先一か月は出ないと分かったので、残りの夏の計画は決まったようなものである。陸路を行くと四五○マイルほどになるし、知りたい情報が何も手にはいらない。後略 』とあり、通常の査証ではこんな変更はかなわなかっただろう。この辺りにすでに旅行家として有名なバードに日本案内の興味深い「旅行記」を出させたいとするパークスの思惑が見える。日本に18年もいるというのは、並大抵のことではない。嫌にならないどころか、最近日本に帰化したドナルド・キーンさんのような気持ちもあったのであろう。パークスを極東通にしたのはアヘン戦争であり、戊辰戦争、キーンさんを日本通にしたのは日米戦争だというのも不思議な縁だ。戦争がなければ二人とも東アジアに来ることも無く、普通の暮らしをしていたことだろう。
4.
彼は若いころ両親を失くし、従姉を頼って1841年にマカオに来て、アヘン戦争もまじかに体験したそうで、その後広東の領事館で働きながら、オールコックに認められて上海領事になり、1865年彼の後任として日本に着任し、1883年に清国の領事として日本を離れるまで、なんと18年も日本公使を務めた。現在では考えられないことだが、その頃の大英帝国は7つの海に広大な植民地を持っていたから、極東の日本公使にそんな「なり手」がなかったのだろうか。また、外交官のキャリア―としては欧州が主で、植民地などのポストで「財産」をしこたま蓄えて、本国に帰国して大邸宅を構えて老後を楽しむ。それが英国紳士の目論みだったのだろうが。植民地でもない極東の国への赴任は3-4流と見られていたという。その後、パークスは清国公使になって85年に病死している。(北京でマラリアというのと、リューマチでと両説あり)

 バードが新潟で色々な仕事をし、見聞を広めた後、1カ月蒸気船が出ないと
知って、諦めて陸路を取ったというのは大変興味深い結果をもたらしてくれたが、彼女は文中で、蒸気船なら得られる情報が何も手に入らないと心配しているのは、当時の蒸気船にはなにがしかの通信手段があったのだろう。
 何はともあれ、「日本奥地紀行」の山形以北の東北部分が我々の目に触れることができるようになったのは、題名まで発案したパークスのおかげで、彼は一般の外交官が4年前後で任地を離れて帰国するのに、18年もの長い間日本にいたのは、彼が日本をこよなく愛した証だろう。彼女が新潟から蒸気船で函館まで直行していたら、JR東の宣伝文句にある、東北大陸の魅力を伝えることなく、この紀行文も興味がだいぶ薄くなってしまったことだろう。
 パークスはオールコックのような「本」を残さなかったし、時には粗暴とも思われる言動で、日本人を恫喝などし余り評判は芳しくないが、15才くらいから死ぬまで、東アジアで清国人・日本人を見つめ、彼らにどう対応するのが最善かを肌で感じて行動したわけで、灰皿を投げ付けてまでして役者を育てた蜷川の愛と通じるものを感じさせる。
   2016年5月16日記

 

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