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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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1933年 夢の話を聞く


 夢は見る分には気ままなものだが、夢の話をするのはそうやさしくはない。夢を見るのは本当に見るのだが、夢の話をするのは嘘やごまかしを免れ難い。
 新年元旦に「東方雑誌」の新年特大号を見た。巻末に「新年の夢と題して「夢の中の未来の中国」と「個人生活」の問いに対して、140人余が答えている。編者の苦心は良く分かる。きっと言論が不自由なので夢を語るに如かずと考え、特に所謂本当の話という嘘は、夢の話の真実に如かずと考えたものだろう。楽しみにページを繰ったが編者氏の大失敗ということが分かった。
 この特大号を入手する前に、投稿者の一人に遭った。彼は私より先に本を見て、彼の回答が資本家の手で改ざんされたと言った。彼の語った夢は実は決して印刷されたようなものではないと。ここから資本家は人が夢をみるのを禁ずる手は無いが、口に出したら権力の及ぶ限り干渉し、自由にさせることは無い。この点は編者の大失敗だった。
 この夢の改ざんの件はしばらく置いておき、書かれた夢境を見てみると、誠に編者の言う通り、回答者はほとんどが知識分子だ。まず誰もが生活の不安定さを感じ、次に多くの人は将来の良い社会を夢見る。「各人その能力を尽くす」とか「大同世界」など、どうも
「脱線」気味である(末尾の3句は私が加えたもので、編者の言ではない)。
 然し彼は後にいささか「痴」(何かに憑かれたかのように)どこかから拾ってきた学説で、
百余の夢を大きく二つに分類し、良い社会を夢見るのは全て「道を載せる」夢で「異端」だとし、正宗の夢は「志を言う」べし、と硬直に「志」を空洞で空っぽなものにしている。
孔子曰く:「蓋しそれぞれがなぜ自分の志を言わぬのか」、そして曹点に賛成したのはその
「志」が孔子の「道」に合致したためだ。
 その実、編者のいう「道を載せる」夢も大変少ない。文は醒めてから書くので、問題も
「心理判定」に近く、ついには回答者が各自自分の目下の職業、地位、身分に適した夢を持ちださざるを得ず(既に改ざんされたのはこの例に非ずだが)たとえ見た目には如何にも「道を載せる」かのようでも、将来の良い社会を「宣伝」する意思は無い。だから「全員が食える」ようになることを夢見る人もおり、「無階級社会」を夢見る人もおり、「大同世界」を夢見る人もい、この様な社会を建設する前の階級闘争、白色テロ、爆撃、虐殺、鼻にカラシの液体注入、電気椅子…を夢見る人は少ない。もしそれらを夢で見なければ、良い社会が来ることは無いし、どんなに光明を書いてみても究極は単なる一個の夢で、空っぽの夢、言ってみれば人々をこの空虚な夢境に入りこませるのみだ。
 しかしこの「夢」境を実現ししようとする人たちがいて、彼らはそれを説くのではなく、
夢を実現しようとし、将来を夢見て、そういう将来を招来するために今現在努力している。
そういう事実があるからこそ、多くの知識分子は「道を載せる」ごとき夢を言わざるを得ぬのだが、実はそれは決して「道を載せる」のではなく、「道」に載せるもので、簡潔に言うなら、「道に載せる」である。
 どうして「道に載せる」ことができるか?曰く:現在と将来のメシの問題の為にのみだ。
 我々はまだ旧い思想の束縛を受けており、メシの問題を口にするのは卑俗な様に感じる。
だが我々の回答者諸公の考えを少しも軽視しようとするものではない。「東方雑誌」の編者は「読後感」でフロイドの考えを引き、「正宗の夢」は各人の心底の秘密を表しており、社会的作用は帯びていない」としている。だがフロイドは抑圧が夢の根底にあり――人はなぜ抑圧されるか?と考える。これは社会制度、習慣の類と連結しており、単に夢を見るのは構わないが、それで泣いたり、尋ねたり、分析したりし始めると穏当でなくなる。編者はこの段階まで考えが及ばず、この一撃で資本家の赤ペンにぶち当たった。が、「抑圧説」で解析すると、皆はもう逆らおうとは思わないだろう。
 フロイドは多分いくらかの金はあって、食べるのは困らなかったので、ただ性欲のみに注意した。多くの人は正に彼と同じ境遇ゆえ、どっと拍手をした。彼はこの様にも説いているのだが、女児の多くは父親を愛し、男児の多くは母親を愛すのは即ち異性の為だと。
然し、赤子は生まれてすぐ男女を問わず、口先をとがらせ、頭をくねらすのはまさか異性とキスしたい為だろうか?食べものを欲しがっている為だと誰もが知っている!食欲の根底にあるのは実に性欲よりずっと深く、今では口を開けば恋人よとか、口を閉じれば情書を書いても、何もいやらしいとは思わない世だから、メシのことを避けることもない。醒めている時に見る夢だから、本心でないことが混じるのは免れないし、テーマそのものが
「夢境」だし、編者のいう様に我々は「物質的需要が精神的追求より遥かに勝っている」
から、Censors(フロイドの言)の監督保護が解除されたらしいこの際に乗じ、一部公開しても良いようだ。その実「夢の中で標語を貼り、スローガンを叫ぶ」のも積極的でないだけで、ある者は却って表面的な「標語」とは正に相反しているかもしれぬ。
 時代はかくも変化し、メシにありつくのもかくも困難だから、現在と将来を思うと、ある人もただこの様な夢の話をするしかないが、同じプチブルとして(一部の人は私を「封建の残党」とか「土着の資産階級」というが、私自身は暫くこの階級に属すと定め)その点は互いによく理解できるし、何も秘すべきとか良くないというものでもない。
 この外、隠士とか漁師樵(きこり)になりたいと言う、本相は全く異なる名人たちも、
只メシの問題の脆さを予感しているだけで、メシの範囲を広げようとしているだけであり、
朝廷から園林まで、租界から山沢に及び、上記のそれらの志向より遠大なものにしようとしているのだが、ここではもうこの辺で止めておこう。
      1933年1月1日
訳者雑感:
 この当時の中国はまだ正月号の雑誌には「夢」を載せるだけの余裕があったようだ。それを書く人と読む人がいたわけだ。
 本当の事を書くとすぐ政府ににらまれて、監獄に放り込まれるから、夢に託して色々書こうとしたものか。
 「物質的需要が精神的追求より遥かに勝っている」というのがキーワードのようだ。
物質的需要とはつまるところメシの問題で、隠士とか漁師樵になりたいなどという夢を語るのは、まやかしで、彼らもほとんどは「メシの範囲」すなわち財産をたくさん蓄え、そのためにはありとあらゆる手管を使って、朝廷から園林まで、租界から山沢までも自分のものにせんとしているのだ。それが「発財」という元旦の中国人の口にする夢である。
    2012/01/08訳
      
 
 

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