偶成 葦索
治国平天下の上手な人は、実に随所でその手法を見いだすことができるようで、
四川でまさにさる人が、長い着物は布の浪費だとして,
隊を派遣して通行人の長い布を切らせた。
上海もまたお上が茶館を整頓しようとし、その結果、大略は3つ。
1つは衛生に注意:
2つ目は時間を制限:3つ目は教育を施行する。
1は当然とても良いこと:2は登館、下館時にいちいち鈴を鳴らし、学校の始業みたく、
面倒だが、茶を飲むためやむを得ない。悪いとも言えぬ。
もっとも難しいのは3番目。「愚民」が茶館に来るのは、ニュースゴシップを聞いて、
思っていることをしゃべったりする他に、「包公案」の類(判事物)を聞くためだ。
遠い昔のことは真偽も不明で、あちらの妄言をこちらで妄聴するわけだから、
安気なものだ。
今「某公案」に改めたりしたら、信じられないことだし、聞きたくも無い:
敵の秘史や暗い内幕ばかりを語っても、ここで言うところの敵は、
必ずしも聴衆の敵では
ないから、聞いてもさほど興奮しない。
その結果、茶館の亭主はえらい災難で商売はあがったりだ。
清の光緒初年、我が故郷の劇団に「群玉班」というのがあり、
名実符合せず、芝居が下手で、誰も見に来ない。田舎の人の技両も文豪に劣らず、
一座に歌を贈って:
「(舞)台の上には群玉班、
台の下の(客)は皆去った。
急いで廟門を閉めたが、
両側の壁に登ってくずれ、
あわてて引きとめたが、
残ったのはワンタン担ぎだけ」
観客の取捨は強制できぬから、見たくないのに引きとめても無益だ。
例えばある雑誌は、金も勢力もあり、本来天下を風靡できる筈だが、読者が少なく、
寄稿者も減って、隔月刊となってしまう。
風刺はすでに前世紀の老人のたわごととなり、風刺でない良い文芸は、
後の世紀の青年が生み出すもののようである。
6月15日
訳者雑感:偶然これを書いたのだが、治国平天下のうまい人たちが、
小民の本音をつかめてもいないのに、只整頓したり、教育しようとしても、
小民という観客は自分の好みにあわぬものを受け入れはしない。
下手な芝居ばかり見せたがる「お上」には飽き飽き
するから、逃げ出してしまう。
迎合ではなく、観客が見たがる芝居を演じなければだめだ。
読者が少なく、寄稿者も減ってしまう雑誌は、隔月刊となり停刊となる。
そうならない雑誌を作らねばという気持ちか。 2012/05/19訳
[0回]
PR