忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

「芸術論」訳序


一。
 Plekhanov(プレハーノフ、以下プ氏と略す)は1857年、タンボフ州の
貴族の家に生まれた。それから成年までの間は、ロシア革命運動史で丁度知識階級が提唱した民衆主義が隆盛から凋落に至る時であった。彼らは当初ロシア民衆即ち大多数の農民はすでに社会主義を理解していて、精神的自覚はしていないが社会主義者となっているから民衆主義の使命は只「民衆の中に入れ」
(フナロード)であり、彼らにその境遇を説明し、地主と官吏への憎悪をうまく誘引すれば、自からすぐにでも決起し、自由な自治制即ち無政府主義の社会組織を実現できる、と考えていた。
 但し、農民は民衆主義者の宣伝に殆ど耳を傾けず、逆にこうした進歩的貴族子弟に不満を持った。アレキサンダー二世の政府は彼らに厳しい刑罰で臨み、一部の人は目を農民から離し、西欧先進国に倣い、有産者の享有せる権利争奪の為に争った。それで「土地と自由党」は「民意党」に分裂し、政治闘争に入ったが、手段は一般的な社会運動ではなく、単独で政府と争い、全力を挙げてテロに奔った――暗殺である。
 青年プ氏もこうした社会思潮の下で革命運動を始めた。だが、分裂の際も尚
農民社会主義の根元的見解に固執し、テロリズムに反対し、政治的公民の自由獲得に反対し、別に「均田党」を組織し、唯ただ農民叛乱を嘱望した。すでに独自の意見を持ち、知識階級が単独で政府と争っても革命成功はおぼつかないと考え、農民はもとより、社会主義的傾向が強い労働者もたいへん重要だと考えるようになった。
「革命運動におけるロシア労働者」という本の中で、労働者は偶然都会に来ている工場の農民である。社会主義を農村に持ち込もうとすれば、こうした農民(出身の)労働者が最適の媒介者になる。農民は労働者のいうことを信用するから、知識階級よりいい、と述べている。
 事実は彼の予測通りだった。1881年テロリストがアレキサンダー二世を暗殺した時、民衆はまだ決起せず、公民も自由を得られず、有力な指導者は殺され、捕えられ「民意党」は殆ど消滅の危機に瀕した。党に属さず、労働者の社会主義に傾いていたプ氏なども、ついに政府に圧迫され、国外に逃亡した。
 彼はこの時、西欧の労働運動に近づき、マルクスの著作を研究し始めた。マルクスの名はロシアでは早くから知られ:「資本論」第一巻は他国より早く訳され:多くの「民意党」の人たちは彼と個人的に知り合い、連絡しあった。
 だが、彼らがたいへん尊敬しているマルクス思想は、彼らにとっては純粋な
「理論」に過ぎなかった。ロシアの現実には合わず、ロシア人とは無関係で、
ロシアには資本主義が無いからロシアの社会主義は工場には生まれず、農村に
生まれると考えていた。但、プ氏は当時のペテルブルグの労働運動を回想した際、農村への疑惑が生じ、原書でマルクス主義文献に精通していたから、この疑惑が増大した。そこで当時の全ての統計材料を集め、真のマルクス主義の方法で研究し、ついに資本主義が実際にロシアにも存在することを確信した。
 1884年「我々の対立」を発表した時の手紙で、民衆主義の誤りを指摘し、
マルクス主義が本当に正しいことを証明した。この本で大衆として農民に指示するのは、今や社会主義の支柱にはなれぬ、と書いた。ロシアでは当時都市の工業がまさに発達しつつあり、資本主義制度も形成されていた。必然的にこれに伴って興るのは、資本主義の敵、即ち資本主義を滅ぼそうとする無産者である。従ってロシアも西欧と同様、無産者は政治改造に対して、最も意味ある階級である。その境遇から言って、革命を堅持し組織するのは、他の階級より大きな力があり、将来のロシア革命の射撃兵として最も適切な階級だった。
 以来プ氏は自分自身が偉大な思想家となったのみならず、ロシアのマルクス主義の先駆けとなり、覚醒せる労働者の教師、指導者となった。
二。
 但、プ氏の無産階級に対する殊勲はせいぜい理論的な文章を発表したことだけで、彼自身の政治的意見は常に揺れ動いた。
 1889年社会主義者がパリで第一回国際会議を開いた時、プ氏は「ロシアの
革命はただ労働者の運動に依って初めて勝利でき、これ以外に解決の道は無い」と言った時、欧州の著名な多くの社会主義者たちは真っ向から反対した:しかし暫くして彼の業績は現れてきた。文章には「歴史上の一元的現象の発展」(略して「歴史的一元論」)が1895年に出版され、哲学の領域から民衆主義者との闘争、唯物論擁護でもってマルクス主義の全時代もこれに教えを受け、これで戦闘的唯物論の根源を理解した。後の学者は当然それを突いて論評した。しかしシベノフは「この注目すべき著作を、新時代の人々に説いて、うまく講釈すれば、これ以上すばらしいことはない」と言った。事実、翌年彼の弟子たちと民衆主義者との闘争の結果、紡績工場の労働者3万人の同盟ストがペテルブルグで起こり、ロシア史に新時代を画した。
ロシア無産階級革命の価値が初めて世間に認識され、当時ロンドンで開かれた社会主義者第4回国際会議でも、本件は大きな驚嘆と歓迎を受けた。
 然るにプ氏は畢竟理論家にすぎなかった。19世紀末にレーニンが活動を始めた時、レーニンは彼より若く、二人は当然何の相談をせずとも分業を行った。彼は理論面に長じ、敵に対しては哲学的論戦を挑んだ。レーニンは最初の著作以来、専ら社会政治問題と党と労働者の組織に取り組んだ。彼らはこの時、頬骨と顎の関係で、編集発行した新聞はIskra(火花)、撰者の中に不純分子もいたが、当時は労働者と革命者の為に重要な仕事をし、更には一歩進めて奮闘して民衆主義派の知識分子を揺さぶった。
 特に重要なのは文章と実際の活動であった。当時(1900-01年)革命家は自分の小宇宙に閉じこもり、全国展望を知らず、全国展望に依拠してこそ革命が達成できることを悟っていなかった。また正確な計算なしに、どれだけの勢力を使えば、どれだけの効果が得られるかに考えが及ばなかった。
この時代、中央集権党を試ろみ、全無産階級を統一した全国的政治組織の観念は新奇で異端とされ、実現困難だった。「火花」はただ単にこの観念を論説に発表するのみならず、「火花」という団体を組織し、当時の錚々たる革命家の百から百五十人の「火花」派が加入し、プ氏が新聞に発表した文章を使って運動を展開する計画を実行した。
 但、1903年に露国マルクス主義者がボリシェビキとメンシェビキに分裂し、
レーニンは前者の指導者となり、プ氏は後者だった。それから二人は時に離れ、時に合したが、1904年の日露戦争の時、ツアーリの戦敗を希望し、1907年から1909年の党の受難時代には、彼は常にレーニンと同心だった。特に後半の一時期は、ボ派の勢力の大部分は国外逃亡を余儀なくされ、各所で堕落し、至る所にスパイがいて、皆互いに監視しあい、恐れ猜疑した。文学では淫蕩文学が盛んとなり、「シャーニン」はこの時現れた。
 この情勢は全革命の内に侵入してきた。党員は四散し、それぞれ小団体となり、メンシェビキ派の中の取り消し派(機会主義派。白色テロ派)は、ボ派に挽歌を与えた。この時大声をあげて叱咤し、取り消し派主義を撃破すべしと、
訴え、ボ派をサポートしながら、身はメンシェビキ派の権威だったプ氏は、新聞各紙や国会で、勇敢に支援を続けた。それでメンシェビキ派の別派は「彼は
ボケてしまい、地下室の歌手になってしまった」と嘲笑した。
 革命復興を謀り、新組織の新聞は1910年からZvezda(星)を発行、プ氏と
レーニンは国外から投稿したから、勢い両派合作の機関紙は、明確な政治方針を示せなかった。但、新聞と政治運動の関係に緊張が高まると、提携の性格が徐々に失われ、プ派はついに完全に姿を消し、新聞はボ派の闘争機関となった。1912年、両派はまたPravda(真理)を共同発行し、事件が起こると、プ氏はまたあっという間にことごとく排除され、「星」の時と同じ道をたどった。
 欧州大戦が始まり、プ氏はドイツ帝国主義を欧州文明と労働階級の最も危険な仇敵とし、第二インターの指導者と同じく、愛国的立場から、最も憎むべきドイツと戦い、何のためらいも無く本国の資産階級及び政府と提携し妥協した。
1917年2月、革命後、本国に戻り、社会主義的愛国者団体を組織し「協同」と
名付けた。然るに露国無産階級の父、プ氏の革命感覚はこの時すでにロシアの労働者を動かす力を失っていて、ブレスタット講和後は殆ど全く労農ロシアに
忘れ去られ、1918年5月30日当時のドイツ占領下のフィンランドで孤独の内に死んだ。臨終の時、「労働者階級は私の活動をしっかり受け止めてくれているか?」とうわごとで問うた由。
三。
 彼の死後、Inprekol(第8年54号)に「G.V.Plekhanovと無産階級運動」という一篇が彼の生涯の功罪を簡括論評している――
 『…その実、プ氏は次のような疑問を抱くべきだった。何故だ?若い労働者階級は、彼の知っていることについて、愛国社会主義者として、メンシェビキ党員として、帝国主義の追随者として、革命的労働者だと主張する者として、ロシア資産階級の指導者ミィヤコフと妥協する人間になったのか?労働者階級の道とプ氏の道は余りにも隔たってしまったのだから。
 しかるに、我々は何の躊躇も無く、プ氏をロシア労働者階級、いや、国際労働者階級の最大の恩師の一人と考えている。
 なぜそうだと言えるのか?決定的な階級闘争の時、プ氏は防戦一方だったではないか?そうだ、確かにその通りだ。しかしこの決戦のずっと前から活動していて、彼の理論的著作はプ氏の遺産の中で、大変貴重なものである。
 ただ正しい階級的世界観の為に戦った闘争は階級間の争いの諸形態の中で、
最も重要なものの一つである。プ氏はその理論的著作で数世代にわたって、多くの労働者革命家たちを育てた。そして叉これにより、ロシア労働者階級の政治的自主の確立のため、出色の仕事をした。
 プ氏の偉大な功績はまず民意党に対し、前世紀の70年代、ロシアの発展を信じ、ある特別な、即ち非資本主義路線の知識階級の同志として、彼が闘争の道を歩んだことだ。
 あの70年代以降の数十年、ロシアの資本主義の大きな発展は、どれほど民意党の人たちの見解が誤りであり、プ氏の見解が正しかったかということを顕著に示した。
 1884年プ氏の編集した‘労働解放を目的とした’団体(労働者開放団)の
綱領はまさしくロシア労働者党の最初の宣言であり、また1878年から79年に
至る労働者の動揺に対する直接の解答である。
 彼は言う―――
 「できる限り迅速に労働党を作り、現今のロシア経済及び政治の全ての矛盾を解決するのが、唯一の手段だ」
 1889年プ氏はパリ国際社会主義党大会で言った――
「ロシア革命運動は、革命的労働者運動によってのみ勝利できる。これ以外に
解決の道は無い。またあり得もしない」
 これはプ氏の有名な言葉で、決して偶然出たのではない。プ氏はその偉大な天才的才能で市民の民衆主義の革命の中に無産階級の主権を擁護し、数十年の長きにわたった、それと同時に自由主義的有産者は帝制との闘争の中で、怯懦にもスパイとなり、日和見者たちの思想と化した、と発表した。
 プ氏はレーニンと共に「火花」の創立来のリーダーだった。ロシアに正当な組織を作るための闘争について「火花」が果たした偉大な組織的な仕事は、広く知られている。 
 1903年から17年のプ氏は何回もぶれたが、それは革命的マルクス主義に反し、メンシェビキの方へ歩んだためだ。彼を革命的マルクス主義の諸問題に背かせたのは、何だったのだろう?
 まず農民の革命の可能性に対する過小評価。プ氏は民意党人の有害な面に対する闘争の中で、農民のさまざまな革命的努力を見落としていた。
 次に、国家の問題。市民の民衆主義の本質への理解が欠如していた。即ち、
資産階級のものである国家機関を粉砕する必要についての理解が欠如していた。
 最後に資本主義の最後の段階としての帝国主義の問題及び帝国主義戦争の性質に関する問題への理解が欠如していた。
 要するに、――プ氏はレーニンの強い点に弱かった。彼は‘帝国主義と無産階級の革命時代のマルクス主義者’になれなかった。だから彼がマルクス主義者となったのも、全てが結末を迎えたときだった。プ氏はそれで、Rosa Luxemburgの言うように、徐々に「尊敬すべき化石」になっていった。
 露国のマルクス主義建設者プ氏は、単にマルクスとエンゲルスの経済学、歴史学及び哲学の媒介者ではない。それら全領域にわたり、出色で独自の労作を残して貢献した。露国の労働者とインテリ階級にマルクス主義は人類の思索の全史的に最高の科学の完成だと明確に理解させることに関して、プ氏は力を発揮した。
 プ氏のいろいろな理論上の研究は、彼の観念形態の遺産の中で、疑いなく最も貴重なものである。レーニンはかつて純心な青年たちに、プ氏の著作を研究するよう、しばしば勧めた。――「もし、これ(プ氏の哲学的著述)を研究しなければ、誰も意識的に、真の共産主義者にはなれない。これは国際的な全てのマルクス主義文献中で、最も傑出した作品である」(レーニンの言)
四。
 プ氏はマルクス主義の芸術理論にも基礎を築いた。彼の芸術論はまだ厳然とした一つの体系を成してはいないが、彼の遺した方法と成果を含む著作は、単に後人の研究対象のみならず、マルクス主義芸術理論を打ち立てたと称しても
はじないだけの社会学的美学の古典的文献である。
 この中の三篇の手紙形式の論文は、彼のこの種の著作の片鱗に過ぎない。
 第一篇「芸術論」はまず「芸術とは何か」を提起し、トルストイの定義を補正し、芸術の特質を感情と思想の具体的形象の表現と断定。そこから更に進んで、芸術も社会現象だということを明確にし、従って観察の際も必ず唯物史観の立場をとり、そしてこれと異なる唯心史観(St.Simon,Comte,Hegel)に批判を加え、これと相対的に生物の美的趣味のダーウィンの唯物論的見解を紹介した。彼はここで、反対者の主張が生物学から来る審美感の起源の提議を仮に設定し、ダーウィン本人の言葉を引用し、「美的概念…は種々の人類種族の中で、
非常にいろいろあり、同一人種の各国民の中にさえも同じではないことがある」と説いた。この意味は、「文明人の中で、このような感覚は各種複雑な観念及び、思想と連鎖結合したもの」だ、と。
 それで、「生物学から社会学へ向かわねばならず、ダーウィンの領域のあの
人類を「種」と考える研究はこの種の歴史的運命を研究すべきだ、とした。
もし、唯芸術のみを言うなら、人類の美的感情の存在の可能性(種の概念)は、
それが現実の条件(歴史的概念)が高めた方向に移って行く。
 しかしプ氏はここで、この重要な芸術生産の問題として、生産力と生産関係の矛盾及び、階級間の矛盾を解明し、どういう形で芸術面に影響を及ぼすか:
当該生産関係に立った社会的芸術は叉、どのように個々の形をとるか、他の社会の芸術とははっきりと異なっている、とした。
 このダーウィンの「対立する根源的影響」という言葉は、ひろく例を引き、
社会的条件の美的感情の形との関係を説明し:並びに社会的生産技術と韻律、
階調、均整法則との相関を説明している。
 且つまた、近代フランス芸術論の発展(Stael,Guizot,Taine)を批判している。
 生産技術と生活方法が最も密接に芸術現象に反映するのは原始民族に関してだ。プ氏はこうした原始民族の芸術を解明することで、マルクス主義芸術論の
難題に取り組んだ。第二編「原始民族の芸術」は、まず人類学者旅行家などの
実見談に基づき、ブッシュマン、Vedda,インディアン、及び他の民族の生活を、
狩猟、農耕、財貨分配などの事例を引き、原始狩猟民族の実際上の共産主義的結合を証し、かつブッチャ―(ドイツ人)の説はあてにならぬ、とした。
 第三篇「原始民族の芸術を再び論ず」は、遊びの本能は、労働以前にあるという人々の誤りを批判し、豊富な実証と厳正な論理を使って、有用な対象の生産(労働)が芸術生産に先んじていたというこの唯物史観の根本命題を究明した。詳しく言うと、プ氏の究明は社会的人間の事物と現象を見ることは、最初、
功利的観点からだったが、後にやっと審美的観点に移ったという点だ。全人類が美しいと思うものは、有用であり――生存の為と自然及び他の社会人の人生に闘争上有意義なものである。効用は理性から認識されるが、美は直感的能力で認識される。美を享楽する時、殆ど効用は考えないが、科学的分析により、発見される。従って、美的享楽の特殊性は即ちその直接性にあり、而して、美的愉楽の根底に、もし効用がその下に伏せっていなければ、それは必ずしも
美しくはない。人は美の為に存在するのではなく、美は人の為に存在するのだ。
――この結論は唯心史観者がプ氏を深く憎み、拒絶するもので、社会、種族、
階級の功利主義的見解を芸術に持ち込んでしまった。
 第三篇の結末でプ氏はこれを引き続いて討論するよう準備し、人種学上の旧式分類が完全に合致するか否かだ。だが、それは結局果たせずに終わり、これで終わりとするほかなかった。
五。
 本書の底本は日本の外村史郎の訳だ。既に、林柏修氏の訳があり、本来は
再訳の要も無いのだが、叢書の目録に早くから決まっていて、やはりこの様な
徒労に近い仕事をする仕儀となった。
 翻訳の際は常に林氏の訳を参考し、日本語より更に適切な名詞を採用し、時に、文章の構成も大筋で影響を受けたし、前車を鑑とし、私が何回も誤訳するところを救ってくれたので、心から感謝せねばならぬ。
 序言の4節は、第3節以外は全て訳出したほか、それ以外はシべノフの
「ロシア社会民主労働党史」山中封介の「ロシア革命運動史」と「プロレタリア芸術教程」の余禄の「プ氏と芸術」などを参照した。臨時に急いで取り組んだゆえ、誤訳も多いだろうが、あらけずりな踏み台的導入部とさせてもらう。
 一番重要な芸術全般について触れなかったのは、先にワレフソンの「プ氏と芸術問題」が出版されており、「ソビエトロシアの文芸理論」(「未明叢刊」の一)の後、レシネフの「文芸批評論」とヤコブレフの「プ氏論」(共に本叢書の一)が出版され、簡明で広範ゆえ、訳者はその万分の一もできそうにもないから、触れずに如かず。読者は自分で彼らの文章を研究されんことを願う。
末尾の一篇は蔵原惟人訳「階級社会の芸術」を訳したもので、「春潮月刊」に
載せたもの。その中でプ氏の文芸についての見解を自序した文章があり、本書の第一篇と対比できるので巻末に載せた。
 但し、訳文を自省すると今回のもやはり「硬訳」であり、これしか能力がなく、読者はやはり指で線をたどり、地図を見る如くに読まねばならぬ:実に非常に申し訳ないことだ。  
  1930年5月8日夜、魯迅 校訂終了後 上海閘北寓廬にて
 
訳者雑感:
 名前くらいしか知らないプレハーノフの「芸術論」の翻訳の序を訳しながら、
プレハーノフのことを少し皮相的にかじってみた。もはや日本の図書館でもあまり彼の著作を置いているところはない。伝記では彼もユダヤ人だったとある。マルクスを本格的にロシアに紹介した人間だが、メンシェビキ(少数派)だったから、ボリシェビキのレーニンたちによって、少数派という立場に追い込まれ、最後はフィンランドで死んだ。
 メンシェビキ(少数派)という名称というのは後の実権を握った多数派の人たちがつけたのだろう。仏教でも我々は大乗仏教として、南進した仏教を小乗仏教と呼んでいるが、彼らはそれを見下した意味があるとして受け入れない。
 プレハーノフは、魯迅の序文によれば、農民に頼っていては革命できない。
都市の工場労働者を組織しなければロシアは革命できない、と説いた由。
 農民の力を過小評価していた、という点は後の中国の農村から都市を包囲する、という中国共産党にとって反面教師的でもある。
 その後のコミンテルンはやはり国民党を支援していて、延安で農村から都市を包囲しようとしていた中国共産党とは一線を画していた。逆にスノーとか
スメドレーなどのアメリカのジャーナリストたちの方が、延安をサポートし、
世界に彼らのことを紹介し続けたのも、歴史の皮肉であろう。
 組織としてのコミンテルンは官僚化し、硬直化していて、個人として自由な
立場で行動していた米国などのジャーナリストや文芸家の方が、目が確かだったようだ。彼らは蒋介石率いる国民党政府がどれほど腐敗し大衆から見放されていたかを明確に認識していた。
     2011/08/30訳
 
 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R