魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
2.中国の王道について
一昨年、中里介山氏の大作「支那と支那国民への手紙」を読んだ。その中で周漢はいずれも侵略者の資質があったと言う点だけ覚えている。そして支那人は皆彼らを謳歌して歓迎した。朔北の元と清に対してすら謳歌した。その侵略が国の力を安定させ,民生の実をほごしさえすれば、それは支那人民の渇望する王道で、そこで支那人が頑迷でそれを悟らない点に対してたいへん憤慨している。
この「手紙」は満州で発行された雑誌に掲載されたが、中国に輸入はされないから、其れに対する返信的なものはこれまで一篇も目にしていない。ただ去年、上海の新聞に載った胡適博士の談話に云う:「只一つ中国を征服する方法があり、それは侵略を完全に停止し、逆に中国民族の心を征服することである」というのだが、言うまでも無くこれは偶然に過ぎぬが、些かこの手紙への返答の様に感じさせる。
中国民族の心を征服せよ、これは胡適博士が所謂王道に与えた定義だが、思うに彼自身多分必ずしも自分の言葉を信じていないであろう。中国では実は本当に徹底した王道があったことは無いし「また歴史癖と考証癖」の胡適博士がそれを知らぬはずが無い。
確かに中国にももともと元と清を謳歌した人もいたが、それは火神を崇める類で、心まですべて征服された証拠にはならぬ。暗示を与えて、もし謳歌しないなら、もっとひどく虐待するぞと脅かせば、ある程度の虐待をしても、人々を謳歌させることができる。
4-5年前私は自由を求める団体に入ったことがあったが、当時の上海教育局長陳徳征氏刃勃然大いに怒って、三民主義の統治下でまだ不満なのか、と言った。そんなことをいうなら、今与えている自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げた。その後、以前より不自由になったと感じるたびに、陳氏が王道の学説に精通していると敬服し、一面では本当に三民主義を謳歌すべきと思わずにはいられなかった。しかし、今やもう遅すぎる。
中国の王道は一見、覇道と対立する様だが、実は兄弟で、この前と後ろに必ず覇道がやってくる。人民の謳歌するのは覇道の軽減を望み、或いはさらに強化されないことを望むためである。
漢の高祖は歴史家の説では龍の種だが、実は無頼の徒で、侵略者というのは些か間違いだろう。周の武王は征服者の名を以て中国に入り、さらに殷とは民族も異なるから、現代的な言葉で言えば侵略者と言える。だが当時の民衆の声は今やもう残っていない。孔子と孟子は確かに大いにその王道を宣伝したが、先生たちはただ単に周朝の臣民ではなかっただけでなく、暦国を周遊し、活動したのだが、きっと官(官僚)になろうと思ったかも知れぬ。もう少し耳触りのよい言葉でいえば、「道を行」おうとするためであって、官になる為には、周朝を称賛するのが都合良かったからだ。しかし他の記載を見ると、かの王道の祖師であり且つ専家(プロ)の周朝は討伐の当初、伯夷と叔斉が馬を叩いて諌めて引きとめようとしたが;紂の軍隊にも反抗が加わり、彼らの血を流さざるを得なくなった。次いで殷民はまた造反したが、これらを特に「頑固な民」と称し、王道の天下の人民から除外したが、要するに結局は何か破綻をしたようだ。すばらしい王道もただ一個の頑固な民を消してはじめてその根拠を根こそぎにするのだ。
儒士と方士(方術を使うもの)は中国特産の名物だ。方士の最高の理想は仙道で、儒士のは王道だ。残念ながらこの二つは中国ではとうとう無くなってしまった。長久の歴史的な事実が証明するのは、もしかつて真の王道があったと言えば、それは妄言であり、今まだあるというのは新薬だ。孟子は周末に生まれたから、覇道を談じるのを羞じとしたが、もし彼が今日に生まれていたら、人類の知識範囲の展開により、王道を談じるのを羞じることだろう。
訳者雑感:
孔子も孟子も官に就くために諸国を周遊し、周の王道の素晴らしさを説いて、春秋戦国の乱れた社会を「元に戻そう」とした。耳障りのよい言葉で言いかえれば、「道を行う」ために自分を官に採用して、世直しをしようじゃないか、と。
孔子と孟子の弟子たちの更に孫弟子たちが、漢代にようやく採用されて、比較的ましな社会になったことは、それまでのひどい戦国時代より「ましな社会」になったと言えよう。
今また強大な国力をバックに覇道を唱え始めたのではないかと周辺から危惧されている。
孟子が今日に生まれていたら何というだろうか?
2013/07/29記
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
P R