魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
従来中国で小説は文学とみなされなかった。軽視され、18世紀末の「紅楼夢」以後は、比較的偉大な作品も生まれなかった。小説家が文壇に入りこんだのは、「文学革命」運動が始まった1917年以降である。もちろん一つは社会の要請からであり、更には西洋文学の影響を受けたからだ。
だがこの新しい小説が生き残れるかどうかは、常に不断の闘争の中にある。当初、文学革命者の要求は、人間性の解放で、彼らは既存の古いものを掃蕩すれば、残った物は本来の人間、良い社会だと考えたが、そのために保守派の人達から圧迫され阻害された。
10年ほど後になって階級意識が目覚めてきて、進歩的作家がみな革命文学者となり、迫害は一層厳しくなり、出版禁止、書籍焼却、作家は殺戮され、多くの青年は暗黒の中で、彼らの仕事のために殉難した。
本社はこの15年来の「文学革命」後の短編小説選集だ。我々はまだ新たな試みを始めたばかりで、幼稚さは免れぬが、それは巨大な石の下の植物のように、余り繁茂はしていないが、折れ曲がりながら成長中である。
これまで西洋人が中国の作品を語るのは、中国人が自分の物を語ることより多かった。だがそれはどうしても西洋人の見方を免れず、中国の古諺の「肺腑がものを語れるなら、医師の顔は土の如し」で、肺腑が本当にしゃべれても、信頼できるとは限らないが、医師の診断の及ばぬ所もあり、意外に実は本当のこともあるかもしれない。
1934年3月23日 魯迅 上海にて記す
訳者雑感:これは魯迅がアメリカ人の求めに応じて、茅盾とともに選んだものをアメリカ人(伊羅生)が訳した選集のまえがきだが、実際には出版されず、1974年にMITから内容が大幅に変更されて出版された:出版社注。
西洋人が自分で選んだものは結構あっただろうが、魯迅や茅盾たちが自分で選んだものをアメリカ人に訳してもらう。それを世界に紹介し、世界の人に中国のことを理解してもらう。それが最終的には中国を変えることに繋がると信じていたのであろう。結局は戦争前に出版されず残念であったが、肺腑がものを語れるなら、医師は云々という諺は、正に中国人自らがものを語れるようになれば、医者の診断で見落としてきたことも発見できるではないか、と期待している。
2013/08/03記
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