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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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韋素園君を憶う

韋素園墓記
韋君素園之墓
君は1902年6月18日生まれ、1932年8月1日卒す。
嗚呼、才宏く、志遠きも、短年に厄す。文苑は英を失し、明者を永遠に悼む。
弟叢蕪、友静農、霽野 表を立つ。魯迅書

韋素園君を憶う
 記憶はあるのだが、だいぶ抜け落ちてしまった。我が記憶は庖丁でそがれた鱗のように、一部は残っているが、一部は水に落ちてしまい、かき混ぜると何枚かは浮き上がり、きらきらするが、中には血の筋も混じり、私自身も見る人の目を汚しはせぬかと危惧する。
 今数名の友人が、韋素園君を記念しようとしており、私も何か言わねばならぬ。確かに私には義務がある。私の体の外の水をかきまわせば、何が浮かび上がるか見るしかない。
 十余年前、私が北京大学で講師をしていた頃、ある日、教員控室で髪も髭もとても長い青年に会ったが、それが李霽野だった。素園君とは多分霽野の紹介で知り合ったのだが、その時のことは忘れた。今記憶にあるのは、彼がすでに客舎の小さな部屋で、出版を計画している時だった。
 この部屋が未名社だった。
 当時、私は2つの小叢書を編印していて、一つは「烏合叢書」で創作専門。もう一つが「未名叢刊」で翻訳專門。いずれも北新書局から出版していた。出版社と読者が翻訳を評価しないのは、当時も今と同じだから「未名叢刊」は特に冷遇されていた。たまたま素園たちが外国文学を紹介したいと考えていて、李小峰と相談し「未名叢刊」から出て、数人の同人が自分たちで発行しようとした。小峰は即了解した。そこでこの叢書は北新書局から離脱した。原稿は自分たちのものゆえ、別途印刷費を集めて始めた。この叢書の名から社名も「未名」とした。――だが「名無し」ではなく、「まだ名の無い」意味で、丁度子供を「未成年」というに似ている。
 未名社の同人には実は何も大それた雄志とか大志がある訳ではないが、一歩ずつ着実にやって行く願望は一致していた。その骨幹が素園だった。
 それで彼は小部屋の未名社で活動していたが、半ばは、病気で学校に行けなかったので、自然彼が砦を守る役になったからだ。
 私の最初の記憶は、みすぼらしい砦で素園に会ったことだ。痩せて小柄だが、テキパキとしていて、真面目な青年で、窓前の数列の擦り切れた古い外国の本は、貧しいが文学に取り組んでいることを証明していた。しかし、私は同時に悪い印象も持った。笑顔が少ないから、彼とは上手くやって行けないのではと感じた。「笑顔が少ない」のは元々未名社の同人の特色で、素園はそれが特に顕著でひと目見て、そう感じさせた。だが後になって、それは私のかん違いだと分かった。彼とのつきあいは難しくなかった。彼が笑わないのは、多分年齢の差から来るので、私には特別な態度で接したのだろう。残念ながら私は青年になって、被我の差を忘れさせることはできないとの確証を得た。この辺について霽野たちはみな知っていた。
 だが私が誤解だと分かって後、又も彼の致命傷を発見した:真剣になり過ぎるという:沈着冷静のようで実は激烈だった。真剣さは致命傷となるのか?少なくともその時から現在まで、そうだった。一旦真剣に取り組むと、すぐ激烈になり、発揚すると自己の生命を落とし、沈静にしていると、自分の心を咬み砕いてしまう。
 ちいさな例だが、――我々には小さな例しかないが。
当時、段祺瑞総理と彼の取り巻き連中の弾圧で、私はアモイに逃れたが、北京で虎の威を借る狐たちは、まさになんでもかんでもやった。段派の女子師範大学校長林素園は軍隊を出動させ、学校を接収し、武力行使後、数人の教員を「共産党」と指定した。この名詞はこれまで一部の人が「何かやる」際に便宜を与え、その手法もある種の古くからの手口で、もともと珍しくも無かった。但、素園は却って激烈になったようで、その後、私宛の手紙に「素園」の2字を憎んで使わなくなって、「漱園」と改めた。同時に、社内にも衝突が起き、高長虹は上海から手紙を寄こして、素園が向培良の原稿を握りつぶしたから、私に何か言ってくれと書いてきた。私は何の反応もしなかった。そしたら、「狂飆」で罵り始め、先ず素園を罵り、その後私を罵った。素園は北京で培良の原稿を握りつぶし、上海の高長虹から反感を持たれ、アモイの私に判断を求めて来たのだが、私はとても滑稽に感じ、一つの団体、それも小さな文学団体なのに、状況が難しくなるたびに、内部で一部の人が引っかき回すのも珍しくも無いことだ。だが素園は大変真剣で、私に手紙で詳細に書いてきただけでなく、一文を雑誌に載せ、内実を弁明した。「天才」たちの法庭で、他の人がどうして明解に弁明できようか?――私は長い溜息を禁じえず、彼は只一個の文人で、病を抱えながら、こんなに真剣に内憂外患に応対していたら、どれだけ持ちこたえることができるだろうか?もちろんこれは小さなことだが、真剣かつ激烈な人にとっては、相当大きな問題だった。
 暫くして、未名社は封鎖され、数名が逮捕された。素園はすでに喀血して入院していて、その中には入っていなかったようだ。その後、逮捕者が釈放され未名社も封鎖を解かれたが、また突然封鎖されたり解かれたりし、今なお一体どうしてなのか私は知らない。

 私が広州に来たのは翌1927年の初秋で、その後も彼からの手紙は受け取ったが、西山病院(北京のサナトリウム)の枕に伏して書いたもので、医者から坐るのを禁じられていたためだ。彼の文章は益々明晰になり、思想も明確で、さらに大きく広がりをみせてきたが、私はそれが更に彼の病を心配させた。ある日突然本を受け取ったが、布で装丁した素園の翻訳「外套」だった。見たとたんぞくっとした:それは明らかに私への記念品(かたみ)で、彼は余命いくばくもないことを自覚しているのではないかと思った。
 この本をもう一度読み返すのは忍びない。だが私にはどうすることもできなかった。
 このことから、私は昔のことを思い出した。素園の親友も喀血し、ある日彼の目の前出吐いたので、彼は驚いてしまったが、やさしく心配した声で、「もうこれ以上吐いちゃいけないよ」と言った、と。その時、私はイプセンの「ブラント」を思い出していた。彼は死んだ者に、さあ立ちあがれと命じたが、そんな神通力も無く、自ら雪崩の下に埋もれてしまったのではなかったか?…。
 私は空中にブラントと素園を見たが、何も語りかけることはできなかった。
 1929年5月末、私は西山病院に行き、素園と話す事が出来たのを最も僥倖に想う。日光浴のため、真っ黒に日焼けし、精神も少しも衰えていなかった。我々数名の友と大変喜んだ。が、うれしさの中に時として悲哀を感じ、忽然彼の恋人のことを思い出し、彼の同意のもと、他の人と婚約した:ふと又彼が外国文学を中国に紹介するという志さえも達成できなくなったと思い到り:彼はここで静かに臥しているが、自分では全快を待っているのか、滅亡を待っているのか知らず:なぜ彼は精装本の「外套」を送って来たのか?…
 壁にはもう一枚のドストエフスキーの大きな画像があった。私はかれを尊敬し、敬服するが、彼の残酷で冷酷な文章を憎む。彼は精神的な苦刑を配し、一人ひとり不幸な人を引っぱりだし、拷問して見せる。今彼は沈鬱な目で、素園と彼のベッドを凝視し、私に告げているかのようだ:これも作品に入れられる不幸な人だ、と。
 むろんこれは小さな不幸にすぎぬが、素園にとっては大変大きな不幸だ。
 1932年8月1日朝5時半、素園はとうとう北平同仁医院で病没し、一切の計画、一切の希望とともに尽きてしまった。私がとても残念なのは、禍を避けるため、彼の手紙を焼いてしまったことだ。「外套」一冊が唯一の形見で、永遠に私の身辺に置いておく。
 素園歿後、瞬く間に2年が過ぎ、その間、文壇は誰も彼の事を口にしなかった。これも亦まれなこととは言えぬ。彼は天才でも豪傑でもなく、生きている時も、黙々と生きて来たに過ぎず、死後も当然黙々と消え去る他ない。だが我々にとっては記念に値する青年で、彼は黙々と未名社を支えてくれたのだ。
 未名社は今ほとんど消滅したし、活動期間も長くはなかった。が、素園が始めてから、ゴーゴリ、ドストエフスキー、アンドレーエフを紹介し、Eedenや Ehrenburgの「煙袋」と Lavrenevの「41」を紹介した。「未名新集」も出し、その中に、叢蕪の「君山」静農の「地の子」と「建塔者」私の「朝華夕拾」を出したが、当時としてはいずれも読むに値する作品だったと言える。
事実としては、軽薄陰険な小人たちの注目は得られず、数年後にはすべて煙のように消え、火は滅したが、未名社の翻訳は文苑の中で今なお枯死してはいない。
 確かに、素園は天才でも豪傑でもなく、むろん高楼の尖頂や名園の美花でもなく、楼下の一塊の石材、園中の一撮みの泥土だが、中国は彼の様な人が増えるのを最も欲している。彼は鑑賞する人の目に入らぬが、建築者と造園者は彼をほっておくことはない。
 文人の不幸は、生前に攻撃されたり冷落することではなく、一瞑後、言行ふたつながら亡び、無頼の徒が妄りに友人であったと言いふらし、群がって来て、見せびらかすことで金を稼ぎ、死屍すらも彼らの売名獲利の具とされるのは、悲しく哀れむべきことである。
今私はこの数千字を以て、私が良く知っていた素園を記念するが、それで私利を得るようなことのないように願うのみで、他に話す事は何もない。
 この先彼を記念することがあるかどうか分からない。もし今回で終わるなら、素園よ、
これでお別れだ!
      1934年7月16之夜、魯迅記。
訳者雑感:
 これを訳していた時、「風立ちぬ」の映画を見た。小説とはストーリーが違うが、主人公は恋人の喀血の報を受け、名古屋の飛行機製作所から東京の彼女の家に急ぐ。彼女は病気を治したいとの強い願望を持って軽井沢の結核療養所に入る。1930年代の青年男女が結核を患い、短い人生を終えた。けがれなき面影を残った人達に残しつつ。
魯迅は段祺瑞政府の弾圧下、北京を逃れ、アモイ・広州へ行き、そして上海に居を移す。この時期に書いた「朝華夕拾」の十篇も、彼の父親はじめ多くの亡くなった人への挽歌だ。
この「朝華夕拾」については、奥野信太郎の「芸文おりおり草」(平凡社・117頁)に、「魯迅の文章について」―「朝華夕拾」を中心として――として下記がよく的を射ている。

『魯迅の「「朝華夕拾」諸編は、回想記の形式を借りた自己表現でありながら、純抒情的按甘美の陶酔を強くおしのけていることは前述のとおりであるが、しかしそれにもかかわらず、きわめて善意にみちたものである。意地のわるさ、冷酷、揶揄、そういうものとは、およそ裏腹な精神によって一貫されている』

 奥野は「朝華夕拾」は魯迅が1926―27年の彼にとってもっとも暗澹たる時代の作品であることを思うとき、…と書いているが、それを彼に書かせ発行したのは素園の真剣で激烈な熱情の慫慂だったのだろう。
 魯迅の文章の多くは「批判」「否定」「罵倒」に満ちているが、この文章と「朝華夕拾」の十篇は奥野の言う通り、「きわめて善意にみちたものである」と思う。
   2013/09/09記

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