忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

 隔膜 (隔ての膜)

 隔膜 (隔ての膜)
 清朝初年の文字の獄は、清末になってやっと改めて提起された。最も精力的だったのは「南社」の数名で、被害者の為に遺文を集め印刷した:又留学生の一部は競って日本から文献証拠を持ち運んだ。孟森の「心史叢刊」が出て、我々は比較的詳細な状況を始めて知った。これまで多くの意見は、文字の禍というのは、清朝を罵り嘲笑したから起こったと思っていた。実はそれだけではないのだ。
 この1-2年、故宮博物院の(内部から盗み売却するなど:出版社)話しは芳しくないが、「清代文字獄案件集」という良い本を出し、去年すでに8刷りとなった。その案件は実にいろいろなものがあり、最も興趣あるのは、乾隆48年2月の「馮起炎、易詩二経を注解し献呈する」だ。
馮起炎は山西臨汾県の生員(科挙の一次合格者)で、乾隆の泰陵(雍正帝の陵)参詣を聞き、その著作を懐にして、路上を徘徊し、献呈せんとしたが、はからずも「形跡不審」で逮捕された。その著作は「易」を以て「詩」を解し、とするが、実はでまかせで、ここには抄録しないが、結末に「自伝」もどきの長文があり、これがとても風変わりである。
『さて臣の参上致しましたは、何か請願するとか、求めるということではありません。只一つ未決の事があり、陛下にその由縁を叙したく。臣、名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣張三の姨の家に行き、一人の娘をみそめ、娶りたいと考えましたが、財力及ばず、果たせませんでした』(この後、別の娘を云々と続き、要するに乾隆帝に仲人を頼みたいという内容の手紙だが、ここでは翻訳を省略する)

この文章にどれ程の悪意があるというのだろうか?その頃流行していた才子佳人の小説に夢中になり、なんとかそれで名を成そうとし、天子に媒酌してもらって、いとこの女を娶ろうとしたにすぎぬ。はからずも、事態は結局よくない方に展開した。直隷総督袁守侗が上奏しようとした罪名は「その上程した文書を検閲したら、大胆にも聖主の御前にて、経書をデタラメに講じようとし、その末尾の措辞に至っては、狂妄そのものである。その罪状を諮るに、儀仗に衝突するよりも重いと判定します。馮起炎への罰として、黒竜江等へ流し、軍隊の奴隷にすべく、本庁からの返あり次第、慣例に照らして、刺青をした後、本部に送り届けたく」と。この才子は多分、一人(山海)関を出て、奴隷になっただろう。
この外の案件は、これほどの風雅は無いが、反逆的でないものも結構少なくない。ある者は無鉄砲というだけ:或いは気違い:或いは田舎の迂遠な儒者で、それが本当に忌に触れることすら知らず:或いは田舎の愚民で、本当に皇室に親愛な気持を抱いていただけ。
だが彼らの運命は大抵非常に悲惨で、凌遅(手足を切断し、ゆっくりなぶり殺す)でなければ、一族皆殺しか、その場で首切り或いは「収監して判決待ち」だが、生きて出獄することは無かった。
凡そこれらの事は、粗略に目を通しただけで、清朝の凶暴さと死者の憐れさを感じさせる。だが、もう少し考えると、ことはそんな簡単なものじゃないことがわかる。
こうした惨案の由来はすべて「隔膜」によるためだ。
 満州人自身、厳格に主と奴隷を分けようとし、大臣が上奏する時必ず「奴才」と自称させたが、漢人に対しては、「臣」と称すれば良いとした。これはなにも「炎黄帝の子孫」だから特に優遇し、嘉名を賜ったというのではない。実は、満州人の「奴才」と区別する所以(ゆえん)は、その地位は「奴才」より数等下とするためだ。奴隷はただ命ぜられた通り行うことができるだけで、発言は許されず、議論は固よりダメ。妄に自ら持ち上げるのもいけない。これ即ち「思ったことをその位の範囲外に出してはならぬ」ということだ。例えば:ご主人様、お召しものの角が少しほころびています。このままでは破れますから、繕いましょう、と進言する。彼は自分では忠を尽くしたと思うが、実は罪を犯したことになり、それはそういう類のことを発言するのを許した者がおり、誰でもそれを言えるわけではないから、妄りに言うと「余計なことをして」で当然罪を得る。自分ではそれを「忠を尽くしたのに、咎めを獲た」と考えるのは自分を糊塗しているにすぎない。
但し、清朝建国の君は、大変聡明で、彼らはこうした主意を定めながら、口ではその通りには言わず、中国の古訓を使い:「民を愛すは子の如し」とか「一視同仁」と言った。
一部の大臣と士大夫はこの奥義を理解していたが、信じることはなかった。だが、単純で愚かな人達は真に受けて、「陛下」は自分の親と思い、熱心に甘えてご機嫌とりに励んだ。
だが、彼はどうしてこの被征服者を自分の子にするだろうか?それで殺してしまった。暫くして子供たちは驚いてもう何も言わなくなり、計画はうまく行った。
光緒帝の時、康有為たちが建白書を提出し始めて「祖宗の成法」が破られた。しかしこの奥義は今なお誰も説明しきれないようだ。
 施蟄存氏が「文芸風景」の創刊号に、「忠なのに咎を獲た」者の為に大いに不満を述べているが、「隔膜」からまだ免れていないためだ。これは「顔氏家訓」や「荘子」「文選」等には無いことである。     6月10日

訳者雑感:
 最近の中国のテレビでは清朝の故事を放映するのが減ってきているようだ。以前は現在の所謂「抗日映画」よりずっと多かった。丁度日本の時代劇のように有名な将軍や武将が登場する連続映画で、勧善懲悪あり、才子佳人の恋物語ありだった。
 その中で、「奴才」と自称するのが満州人の首相大臣だった。漢族の大臣は「臣」だった。
なぜ満州人が「奴才」(奴隷と同義語)というのか、余り深刻に考えたことは無かった。
本文を読んではじめて、これは満州人と漢人を数等の距離で疎隔するための「方法」「隔膜」だと知った。
モンゴル人が元を建てた時、やはりモンゴル人が一番上にいて、その下に色目人と言われた西域人を置き、次が最初に降った華北の漢人、一番下が南人で、こうした「隔膜」を設けて漢人を支配した。だが百年もたなかった。満州人はそれ以上にうまく運営したから三百年もった。アヘン戦争と太平天国で満州人だけではどうにも行かなくなって、漢人の首相・大臣を多く登用せねばやってゆけなくなった。それだけ満州人に有能な政治家がいなくなったのは、「奴才」と卑下ばかりさせられてきたからか。満州八旗といわれた旗下の武士達も経済的に困窮して、優秀な子孫を養成できなくなってきていた。それが辛亥革命への導火線となった。
     2013/08/22記

拍手[1回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R