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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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記録として残す7

記録として残す7
 最近の朝刊は「特集」が付き、医薬、文芸、舞踊をなどを講じ:また「大学生特集」「高校生特集」もあり、勿論「小学生」「児童」のもあり:「幼稚園生」や「嬰児」のものは見たことが無い。
 9月27日、偶然「申報」で「児童特集」を見、中に「子供を救え!」と言う記事があり、「児童作品」というのもあtり、子供たちに無用な本を読まず、時間があったら「役に立つ児童雑誌」か日曜の「申報」が出す「児童特集」を見れば、児童の知識を増やす事が出来る、とあった。
 手元にこの「児童特集」があり、第一篇を見た。果たして、捨て去るに忍びない時事に応じた名文を発見した:

 小学生が持つべき認識     夢蘇
 この一カ月で、四川の成都、広東の北海、湖北の漢口および上海の共同租界で、不幸な事件が続いた。日本の僑民が殺され、両国関係に非常に深刻な不安をもたらした。
 君たちはこの不幸な事件にどんな感想を持ちましたか?
 これが我が民族に対する影響はたいへん大きいです。
国際交渉は非常時に、国民として敵に抗して、侮りを御すという精神を持たなければなりません:だが、国交が今なお常態にある時に、外僑(外国人)を殺傷するような軌をはずす行為は絶対してはいけません。個人の私怨で外僑を殺すのは、自国民を殺すより罪が重いのです。殺されたのは絶対数は少ないが、他国の誤解を引き起こし、自国の外交上の困難を増加させるからです:思ってもいなかった紛糾を起こすようになっては、全民族の復興運動の歩みを乱します。この種、少数の人の無意識のうちに軌をはずした行為は、実に国法の罪人で、民族の敗者です。我々はこれを大きな戒めとしなければなりません。このような行為は戦士が戦時に敵を殺し、成果を挙げるのと功罪は全く相反しています。
 小学生の皆さん! 考えてください、我々が外国に住んでいる僑民で他国の人に無法に殺されたら、我々には兵隊や軍艦が無いので、そこに上陸して保護することはできませんし、小さなことで大騒ぎはできません:我々の政府は厳しい要求も出せず、公平で道理にかなった保障も何も得られません:しかし我々の同情と憤慨を禁じることはできません。
 我々は他国の人が我々の華僑を敬視するのを望み、我々も当然、如何なる外国の僑民も敬視すべきです:外僑を殺傷する非法行為は二度と起こさぬようにしなければいけません。これが大国民の風度です。
 
この「大国民の風度」は非常にすばらしい。そして禁じえない「同情と憤慨」はやや過激の嫌いはあるが、全体としては、外交面での敦睦に対して有益だ。しかし、我々は中国人の立場から、やはり我々は自分に対し、この「大国民の風度」を持つことを望み、自国の民の生命の価値を外僑の半分しか認めず、「罪一等を加える」ようなことをせずにしてもらいたい。
 主人が奴隷を殺しても無罪で、奴隷が主人を殺すと厳しく罰するという刑法は、民国以来(嗚呼、25年経ったが!)とうに廃止されたのではないのか?
 まことに「子供を救う」べしだ。これは我が民族の前途に極めて大きな関係がある!
 そしてこれは我々の子孫に関しても同じだ。大人たちよ!我々は人間として生まれてきたからには、人間の言葉を話すように努力しようじゃないか。
              9月27日

訳者雑感:
イスラム国を称する集団が日本人2人を残酷な方法で殺してそれを映像で世界中に流した。
 今のあの地域の状態は、義和団の事件の頃から魯迅のこの時代まで続いてきた中国の各地で起こった外国人の暗殺、特に外国人のそれへの報復として戦争(事変・虐殺)とそれへの対抗として「暗殺」が続いた時代を彷彿とさせる。
 アヘン戦争から太平天国第2次アヘン戦争など、外国人を襲撃して、それが戦争への引き金となったのは枚挙に暇がない。
 日本の幕末も、生麦事件で英国人を殺して、英国軍艦が薩摩を砲撃して、賠償金を要求したり、池田屋事件など藩内党争での暗殺・殺戮、4か国の下関砲撃とか、政治の混乱時にはこうした「暗殺」「虐殺」が避けて通れないものか。
 今のイラク・シリア両国に根拠地を持つイスラム国は、1930年代の中国各地に根拠地を持つ「反政府的な軍閥」及び「馬賊的な集団」「青幇」などの流れ者或いはヤクザ的集団が、それぞれに跋扈していて、それぞれが勢力拡大の為に外国人の殺害や財産を盗んだりした。身代金稼ぎのための誘拐事件は多発した。
 中国はそうした混乱の百年を経て、共産党という「解放軍」を党の軍とする強力な一党独裁政府として、途中文化大革命という大変な災難にも遭いながら、
それを乗り越えて、今日世界第2の国になったと誇っている。
 しかし、それも一枚岩ではなく、薄熙来裁判で明らかになったように、そしてそれ以後周永康失脚など「腐敗退治」という「スローガン」を掲げて、権力の基盤固めに大わらわである。これがいいかどうかは、数十年後の歴史家が判断するだろうが、すくなくとも、フセイン独裁体制を倒した結果の今の中東情勢の悲惨さを見ると、独裁体制(中国では専制というが)を断乎として続けるという共産党政権の方が、彼の国には当分ふさわしいのかもしれない。
もし、民主と自由を我にと言って独裁体制を壊すと、中東の二の舞になる怖れはある。香港のあの坐り込みが、中国各地で呼応したら、手がつけられなくなったであろう。
      2015/02/05記

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記録として残す6

記録として残す6
 嵩禎8年(1635)正月、張献忠の部下が、安徽省の巣県を陥落させ、秀水人の沈国元は彼の地で切られたが死なずに名を常と改め、字を存仲とし「再生紀異録」を書いた。今春、上虞羅震常が再版し、「流寇陥巣記」と改名したが、余計な改名は販売への影響を心配したのか。中に次の文章あり:
 『小正月の宵、月光は冴え、昼の如く皎皎としていた。邑(街の中心地区)前の居民は神前に火を灯し、厳大尹はこれを拝して滅し:居民に火を灯すのを警戒するようにさせた。暫くして友人の薛希珍と楊子喬と街を歩いたが、夫々憂色あり、蓋し、賊の鋒(ほこ)甚だしき鋭さを以ており、これを防ぐ手立てなく、城も守れぬ。街の話しは賊のことばかりで、「来た」の2字で皆が恐怖した。賊到るに及び、果たして一斉に「来た、来た」と叫び:「市の御託宣の兆しではないか? 』
「熱風」の中に「来た」があるが、憶測のみであったが、これは実に具体的な描写だ:そして賊自ら「来た」と叫ぶ。これは「熱風」の作者の思いもよらぬことだ。この理屈は分かりやすい:「賊」と聞くと、逃げるのと追うのでは違い、叫ぶ言葉は同じで:場所が違っても皆同じだ。
 又云う:
 『22日、…余は…金を後ろに隠して、すると相携えてきた者の躓くあり、苦しくてうめく者あり、子を背負って来る者、賊来たりと聞き、逃げ込む所も無く、真に人生の絶境なり。賊がおもむろに前に歩いて来て、僅か一人で刀をあげ、切るぞと威嚇するのみ:猛犬がこれを追うと、怖れて逃げ去った… 』    
宋元明三朝の圧迫、殺戮、麻痺を経なければ、こんなことにはならなかった。民は4年前の春に(1932年の1.28上海戦争)醒め、宋元明清の教養もまた醒めた。

訳者雑感:賊が来た!というのは、中国の各地で財産を持った町人たちが非常に怖れたことだ。財産の無い人達は首が切られることの無い限り、失うものは無い。賊は「来た」の一声で町人が逃げ出すのを見て、残った空の家から金目のものをかっさらってゆく。しかし猛犬がこれを追うと逃げ去って行くのもいた。民は1932年の上海戦争で賊と戦うこと、抗戦することに目覚めた。これは宋元明清時代の「教養」(儒教の統治思想)から目覚めたということだ。
     2015/02/04記

 

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記録として残す5

記録として残す5
 「社会日報」はこのところ「芸人のゴシップ」を載せていないが、上海の「大公報」の「本埠増刊」は「文人のゴシップ」を載せ始めた。「文」と「ゴシップ」の両者の音の差は大きく、内容もすべて「ゴシップ」とは限らず、これは正に「一代ごとに悪くなる」ものと言える。だがしばしば意外な趣のある物もある。
9月15日の「女学生の心の中の張資平」に次ぎのようなのがある:
 『恋愛小説家だが、とても聡明で品行方正な人だ。小説化のあのロマンチックな熱情からくる無責任な気風は無く、彼の聡明さと有能な点は、作家の中で彼の二番目を探すのは難しいだろう。太り気味で、背も低く、似あわない洋服を着て、丸くて黒い顔して、手にはいつも大きなカバンを持ち、貿易会社の部長の風貌だが、彼の大きなカバンの中には小切手帳でなく、恋愛小説の原稿と大学の講義のみしか入っていない』
原意は大略、彼の「聡明で品行方正」な点を書いているのだが、正しく楽群書店を開いてお金を稼いでいた頃の張資平老板(社長)の顔を描いている。最も面白いのは「手にいつも大きなカバンを持つ」が、中には「恋愛小説の原稿と大学の講義のみ」で:すべて金もうけの為の商品で、「小切手帳はない」に至っては、彼は記帳することも小切手を書く用も無いことを活写している。だから書店を閉じるとき、老板は相変わらず「丸くて黒い顔」していて、原稿を売りに来た人や印税を取りに来た作者は、カリカリしながらさえない顔なのだ。

訳者雑感:出版社の注では、張氏は作家で創造社の社員で、大量の三角恋愛小説を書いた。抗日戦争時、偽の「興亜建国運動」「文化委員会主席」となり、汪精衛偽政府の農鉱部の技正をした、云々とあり、まさに「漢奸」の典型で、それをこうして記録に残しておこうとしたのだろう。
    2015/02/01記


 

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記録に残す4

記録に残す4
 近年の雑誌に「越風」があり、選者は全員越人とは限らぬし、談じるのも全て越の事じゃない故、命名の由縁は分からない。勿論今年は弐臣(二君に仕えた臣)と漢奸を痛罵せねばならぬ状況だから、17号に高越天氏の「弐臣漢奸の丑(醜い)史と悪い結末」があり、第一節末に云う:
 『明朝は節操を頗る崇敬したので、亡国の際、忠臣義烈、節に殉じた不屈の人は枚挙にいとまがないが、実に我が漢族の栄光となった。が同時に漢奸弐臣も多く、最大の漢奸は呉三桂、弐臣は洪承畴で、この二人の破廉恥漢は今なお其の名を聞くと鼻をつままねばならぬ。その実彼等はその時は良心を殺し、清廷に取り入ろうと努めたが、結果はやはり「鳥尽き弓は蔵され、兎死して狗烹らる」となり正に愚の骨頂、大漢奸の末路はかくの如しで、多くの二等の漢奸の結末は惨憺たるもので……』
 その後又「雪庵絮墨」には、清朝は建国の功臣に対しては皆祖廟に祀ったが、漢人の耿精忠、尚可喜、呉三桂、洪承畴の4名は無く、洪且は乾隆が「弐臣伝」の首に列し、誡(いましめ)て曰く:
 『このような恥じ知らずの事は泉下で怒りを含む洪経略すらも大仰天すると思うのだが、凡そ恩を仇で返し、銃口を内に向ける狼鼠の輩は、これを読んで、まさに然りと悟るべし』
 この訓戒に反問はできない。もし時務を知らぬ者が訊ねて:『その時「鳥尽き弓は蔵され、兎死して狗烹らる」ようなことではなかったら、漢人も又祖廟に祀られ、洪承畴も「弐臣伝」に列せられなかったら、どうなったでしょう?』私は唇と舌の浪費だと感じた。
 国を防衛することと、商売とは全く別のものだから、それに値するか否かなどはけっして第一着になることはない。(暁角の名で1936年5月に「中流」に掲載:出版社注)
訳者雑感:
 明末に明朝に仕えて、清の建国後に清廷に取り入って清朝の役人・臣となった者は、建国後清朝の政府が安定してきたら「鳥尽き弓は蔵され、兎死して狗烹らる」で、棄てられたのみでなく、「弐臣伝」に名を残して訓戒された。
 明治維新後も徳川の重臣だった勝海舟を福沢諭吉が厳しく批判している。日本では同じ民族でも徳川と薩長政府に仕えるというのは潔くなしとして野に下った人が多かった。野に下っても是非新政府を支援してくれと頼まれて、産業振興に大いに尽力した渋沢栄一は例外中の例外だろう。しかし異民族に征服された漢族では事情は違う。国を防衛することと商売とは別物である。だが、弐臣たちはビジネスをするように身を翻したのだ、と罵っている。そういう手合いがこの当時沢山いたのだ。     2015/01/24記

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記録として残す(3)

記録として残す(3)    暁角
 何不自由無い白人は、閑潰しの娯楽に飽きて、アフリカの食人蛮俗と野獣の映画に見あきたので、我々黄色人の鼻の低い中国人が銀幕に登場させられた。それで所謂「中華を辱める映画」事件となり、我々の愛国者は段々義憤を勃発し始めた。
 5-6年前の「月宮殿の宝盗賊」ではFairbanks(米国俳優)と大騒ぎし、気まずい状態で別れた。だがどうやらこの映画は蒙古の王子の物語で、我々双方には無関係だということに思い到らなかった:実はこの物語は「千一夜物語」の(バグダッドの盗賊)で、俳優だったFairbanksを責められない。
しかし私はここで彼の弁護をするつもりは無い。
今年提起された「上海特急」は「盗賊」よりずっと問題だ。私は「引用専門」にはなりたくないが、事件と文章がとても面白いので、余り削除すると面白くなくなるから、まず9月20日の上海「大公報」の「大公クラブ」に載った蕭運氏の「Von Sternburg上海来訪再記」を引用する。
「ここ数日、上海の映画界はアメリカからの来賓接待に大わらわで、それはパラマウント映画の名監督、V.J.Sternburgで、人々が熱烈歓迎をしている頃、多くの人が彼を攻撃した。彼が「上海特急」で中国を侮蔑した監督だからで、彼は我国を非常に侮辱したからだ。忘れてはならない一大事だ!
「上海特急」は5年前のことで、上海は正に1.28戦争(日本では上海事変)の後で、一般人の敵愾心は大変なもので、それゆえにこの事実を歪曲したハリウッド映画は上海に来たが、2-3日上映されただけであっという間に永久に我国の人々の前から消えた。5年後の今日もこの映画の監督は与論の譴責を免れない。この教訓を経て、Sternburgは理由も無く他人を侮蔑するのは値打も何も無い事を理解できたかどうか知らない。
 「上海特急」を撮影した時、Sternburgは中国について何のイメージもなかったし、中国がどの様な状況にあるか全く知らなかったと言える。だから彼は中国を侮辱することになったのは彼の本意ではないと自分を弁明できた。だが彼が再び「上海特急」のような作品を出したらとても許すわけにゆかない。彼は上海で、中国の印象は大変良いと語っており、彼のこの発言は本当であって欲しい」(下略)
 しかし、結局はどうか?不幸なのはこの日の「大公報」の「戯劇と映画」に、棄揚氏の「芸能人訪問記」があり:

 『「上海特急」で中国人の注意を引き起こした監督Sternburg氏は、今回の訪中後、疑いなく彼の第2作目の所謂中国を侮辱する題材を得たことだろう。
 『<中国人は「上海特急」が描写したものを自分は知らないが、今回の訪問でますます私に多くの証拠を与えてくれた…>、普通一般の訪問者とは異なり、中国に着くとすぐ元来の論調を改め:Sternburg氏は確かにすぐれた芸術家の気風があり、これは確かに敬服に値する』(中略)
 真正面から「上海特急」に抗議せず、只彼の在米時と来華後の中国と日本についての感想を求めたら:
 『すぐには答えず、おもむろに莞然として答えた:
 『<アメリカにいる時と来華後に何の違いも無い。東方の風味は確かに二様であり、日本の風景は美しいし、中国の北平も又よいところだし、上海は繁華な所で、蘇州は大変古く神秘的な情緒が確かにある。多くの取材者がみな「上海特急」の件を聞くが、実際おおい隠すような必要も無いのも事実だ。現在更に真に切実な印象を持った。…私は映写機を持ってこなかったが、目で見た物は忘れることは無いだろう> 数年前南京中山路でのことを思いださせた。外国からの来賓を招く為に、掘立小屋を撤去したことを。……』
 もともと彼は悔い改めないどころか、更にその考えを強め、考えた通りに発言し、真にゲルマン人の良い面である厳格なやり方であり、私は記者の説に同意する:
 『我々の敬服に値する』
 我々は「自ら知る」の明を持つべきであり、人を知る明も持たねばならぬ:我々は彼が決して中国の「与論の譴責」をきになどしてないことを知らねばならぬし、中国の与論が畢竟どれだけの権威があるかを知らねばならぬ。
 「だが、現在彼は中国に来て、中国を見た」「彼は上海にいる時、中国の印象は大変良いと言った」、「訪問記」によれば、確かに「本当のコメント」だ。だが彼は「良い」のは「北平」であり、場所であって中国人ではなく、中国の土地であって、彼の眼からすると人々は殆ど関係が無い。
 況や、我々は実は、人間的によい物を何も彼に見せていない。私はSternburgについての文章を見たが、それを見る一日前、19日の新聞にも何ら体面の良い記事は無く、ここに2本の電報を引用する:
 『(北平18日中央社電)平9・18記念日、官憲の警戒が厳しい中、朝6時より保安偵察の両隊が全出動、各学校や公共の場、要衝の街区など一切を処置し、監視強化、全軍警察は休日を一日取りやめた。全市の空気は緊張が走ったが、無事に終了した』
 『(天津18日午後11時特電)本日夕刻、豊台の日本軍が突然29軍の駐防地区の馮治安部を包囲、武器を差し出せと勅令し、夜になっても尚対峙中。日軍はすでに北平より増兵し、豊台に向うか詳細不明。今月来日軍はくりかえし宋哲元部に馮部撤退を要求してきたが、宋は応じていない』
 翌20日の新聞に出た電報は:
 『(豊台19日同盟社電)18日の豊台事件は19日午前9時半に円満解決、同時に日本軍は包囲を解除し、駅前大広場に集合、中国軍も同じくそこに整列し、双方の誤解を解いた』
 翌々日21日の新聞に載った電報は:
『(北平20日中央社電)豊台中日軍の誤解解決後、双方の当局は今後同様の事件の再発を避けるため、詳細な協議を経て、両軍はずっと遠く離れた所へ移動し、故に我が軍の原豊台駐屯の二営五聯隊はすでに豊台迤(ななめ)南の趙家村へ移動。豊台駐屯の日軍付近に我が軍の跡無し』

 今Sternburgがどこにいるか知らぬが、中国に居るのなら、きっと今年は「誤解年」で18日は「学生の反日記念日」だと思う事だろう。
 その実、中国人は「自ら知る」明を持っていないわけではない。欠点は一部の人達が「自ら欺き」そして「人を欺く」だけである。例を言えば、病人がむくみを患っているが、その疾病を忌み、医者にも診て貰わず、他人がデタラメ言って、太っていると誤認するのを願っている。妄想が久しくなると、自分も時には太っているだけでむくんではいないと感じる:むくみでも良性のもので他のとは違う、と。もし人が正面切って指摘する:これは太ってるのじゃなく、むくみだ、と。且つ又「良性」なんかじゃない、病気だ」という。それで彼は失望し、恥じ、怒りだし、指摘した相手にデタラメ言うなと罵る。そして彼を脅し騙そうとし、彼が主人の憤怒と罵詈を怖れ、びくびくしてもう一度診て、詳細に良いところを探し、改めて確かに太っているのだと言いだす。そこで彼はほっとしてうれしくなり、むくみ続ける。
 「中国を侮辱する映画」を見ないのは自分にも益がないからだが、自分は見ないで、目を閉じてむくんでいるに過ぎぬ。
 但し、見て反省せぬのも無益だ。私は今も誰かがスミス(米国宣教師、中国に50年滞在)の「支那人の気質」を翻訳してくれるのを望む。これを見て反省し、分析し、彼の言っている事のどこがその通りかを理解し、変革し、あらがって自ら工夫をこらし、他の人の了承や称賛など求めず、究極的にどのような状況に中国人があるかを証明するのだ。

訳者雑感:
「上海特急」は淀川氏の解説付きのビデオで十数年前に見た。確か北京の狭いごちゃごちゃした商店街の通りを上海行きの列車ががたごと進む第一印象が残っている。後で解説によるとハリウッドのセットで作ったものだそうで、監督は中国の一角を跨張して、私の印象ではインドのアッサムへ行く鉄道のイメージをだぶらせているようだ。セットの列車にはマレ―ネ・デートリッヒ扮する上海リリーが乗っている(中略)、クーデターらしきものが発生し乗客が監禁され・誘拐され・身代金の請求云々という「お決まり」のパターンだが、実際にそのような事件がしばしば起こったのがヒントになっているのだろう。
 これは日本人の目からは「中国を侮辱した」とは感じられないが、1932年当時の中国では事件となり、2日で上映禁止となった由。魯迅はこれを禁止して見ないというのは、体のむくみを太っていると自ら欺き人も欺くようなものである、しっかり見て、真正面から抗議するべきだという。それをしないでいい加減に済ませて来たのが中国の一番の欠点だと指摘する。
 Sernburgが日本と中国の印象を訊かれて『彼は「良い」のは「北平」であり、場所であって中国人ではなく、中国の土地であって、彼の眼からすると人々は殆ど関係が無い。況や、我々は実は人間的によい物を何も彼に見せていない』というコメントは彼のアイロニーを示している。中国に長く住んでいた外国人の誰かが言っている:中国人が住んでいなければこんな素晴らしい所は無いと。
 豊台からの電報の引用部分は正にその翌年の1937年7月7日の盧溝橋事変へとつながるものだ。今尖閣で日中双方が1936-7年と同じようなことを繰り返さないために、この部分は両国国民がしっかり受け止めねばならない。一旦は誤解を解いた云々といえども、戦争をしたがる一部の人間が事件をつくりだすことができぬようにしておかねば、いつ衝突が起こるかも知れないのだ。
   2015/01/23記


 

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首吊り女の亡霊 

首吊り女の亡霊 (原題は「女吊」で3回目から使う:訳者)
 明末の王思任の言だと思うが:「会稽は仇打ちと恥じを雪ぐ郷で、垢や汚れを留めぬ地だ!」というのは我々紹興人にはとても光栄なことで、私もこの言葉が好きで、よく引用する。だが実はそうでもないこともあり:これはどちらにも使えるのだ。
 しかし一般の紹興人は、上海の「前進作家」のように報復を憎むのも事実である。文芸に限っても、劇には仇打ちには他の一切の亡霊よりも美しく強い亡霊を創造する。それが「首つり女の亡霊」だ。紹興には2つの特色ある亡霊がいると思う。一つは死に対してはどうしようもないのを表わし、かつ気分次第な「無常」で、私は「朝花夕拾」(小説集)で全国の読者に紹介の光栄を得たが、今回は別の物だ。
 「女吊」は方言だろう。標準語にすれば「首つり女の亡霊」となる。普通は「首つりの亡霊」と言えば「女」の意味で、首つり自殺は婦女の例が最も多かったからだ。蜘蛛が一筋の糸で自分の体を吊るし、空中に架かるが、「爾雅」(中国の古い辞書)にそれを「蜆(ケン)、縊女」とあり、周朝や漢朝にもうこれがある。自死したのは大抵女だから、当時男の「縊夫」や中性の「縊者」とは言わなかった。だが「大戯」(本格的な戯曲)や「目連戯」を演じる時、観客の口から「女吊」の声が聞こえる。また「吊神」とも言われる。横死した亡霊は「神」の尊号を得るが、私はこれ以外に2番目のものを見たことが無い。ということはそれが民衆に如何に愛されているか想像がつく。だがなぜこの時に彼女を只「女吊」というのか?それははっきりしている:舞台には「男の首つり」も出て来るからだ。
 私の知っているのは40年前の紹興で、当時は大官や高官はいなかったから、彼等の為に催す専門の劇は聞いたことが無い。凡そ劇をやるというのは奉納劇の色彩を帯び、神に奉納するもので、観劇の主体は神様で、民衆はそのおこぼれをいただくに過ぎない。但し「大戯」や「目連戯」が招き寄せる観客の範囲は非常に広範で、勿論本当に鬼(亡霊)を招くし、とりわけ横死の鬼も来る。従って儀式は非常に緊迫し、厳粛になる。鬼を招くとなると、儀式は格別に張りつめ、厳粛になる道理はとても面白いと思った。
 以前、書いたことがあると思うが、「大戯」と「目連戯」は同じ神に奉納し、人も鬼もそれを観るのだが、両者は大きな違いがある。違うのは:一つは前者はプロの役者が演じ、後者は臨時に集められたAmateur――農民と労働者だ:もう一つは脚本で前者は何種もあるが、後者はどれも「目連母を救う記」だ。開演は「起殤」で、途中亡霊がしばしば登場し、終わりは善人は昇天し、悪人は地獄に落ちるのは両者同じだ。
 開演前から、これが普通一般の奉納劇ではないのを見ることができる。舞台の両側にすでに紙の帽子がたくさん掛けてあり、すなわち高長虹(彼が魯迅を批判した時に使った張り子の虎:出版社)の所謂「紙と糊で作った偽物の冠」で、神様と亡霊がかぶる物だ。それ故、玄人筋はゆっくり夕食を済ませ、お茶を飲んで、閑閑とでかけて、掛っている帽子を見れば、どんな神様がもう出演したかが分かる。この劇は比較的早くから始まり、「起殤」はお日さまが落ちてしまう頃だから、食後に出かけると大抵終わっており、精彩ある場面じゃない。「起殤」を紹興人は「喪」と誤解し、鬼を招くと思っているが、実は横死者に限られている。「九歌」(屈原の楚辞の一部)の「国殤」に云う:「身はすでに死すが、神は霊を以て、魂魄は毅く、鬼の雄たらん」と。勿論戦死者も入る。明が滅びかけた時、越の人は義勇軍に立ちあがり、多くの人が戦死した。清になって逆賊とされた。我々はこうして彼等の英霊を招魂するようになった。薄暮の頃、十数匹の馬が舞台の下に立ち:役者が鬼の王に扮し、藍面の鱗紋で、鋼の叉(さすまた)を手にし、それに十数名の鬼卒がいるので、一般の子供も皆応募できた。私が十数歳の頃、この義勇鬼になったことがある。台に上がり、志願すると、彼等は顔に何色かの色を塗り、鋼叉を一本呉れる。十数人になると乗馬し、野外の沢山の無主の墓の方に疾駆し、三回回って下馬して叫び鋼叉を次々に墳墓に投げて刺し、その後また抜き取って戻る。舞台に上がり一同大声で叫び、鋼叉を放り、舞台の板に付きたてた。我々の役目はこれで終わり、顔を洗って台から下がって帰宅した。が、父母に見つかったら最後、竹の鞭で叩かれた(これが紹興の一般的な子供へのおしおき)が、一つは以てその鬼気を罰し、二つは以てその横死せぬを賀すためで、幸い私は見つからなかったが、きっと悪鬼の助けを得たお陰かもしれぬ。
 この儀式は言うなれば、さまざまな孤独の魂と悪鬼が鬼王と鬼卒と共にやってきて、我々と一緒に劇を観ているが、人々は心配などせず、彼等は道理を知っており、この夜はけっして悪さはしないのだ。そこで戯曲も次々に演じられ、ゆっくりと進行し、人間と一緒に鬼も登場する:焼死鬼、溺死鬼、科挙落第鬼、虎に食われた鬼……。子供たちは自由に扮することができるが、この種のダメな鬼に進んでなる者はおらず、観客もそれに見向きもしない。それが「首吊りする」時になると――この「する」は動詞で、意味は「面をつける」のと同じだが、情景の緊迫度は大変違ってくる。台上では悲しげなラッパが吹かれ、中央の横梁にもともとあった一団の布が下ろされ、長さは舞台の高さの約五分の二だ。観客達は息をひそめ、台上には衣服を身につけていない、褌だけの男が
飛び出してきて、顔に色が塗られており、彼が「男の首吊り」だ。 出て来ると、まっすぐ吊り下がった布に走り寄り、蜘蛛が糸を死守する様に、蜘蛛の巣を張るようにしてもぐり込む。彼は布で各所を吊り、腰、腋、股下、肘、膝、ボンのくぼ…合計7x7=49個所。最後に首だが、本当に入れるのではなく、両手で布を引きよせ、首を伸ばしてすぐ跳び去る。この「男の首吊り」の役は一番難しく、目連を演じる時、この役だけは専門の役者を頼むしかない。当時年寄りの言うには、このシーンが一番危険で、本当に「男の首吊り」が出来するから、という。だから舞台の後ろに必ず王霊官(宋代の方士)に扮した者が片手に訣を握り、もう一方の手に鞭を持って、前を照らす鏡をしっかり見ている。鏡の中に二つの像が映れば、一つは本当の鬼で、彼はすぐ跳び出てきて、鞭で偽の鬼を打ち落とす。偽鬼は落ちたら、河に向って逃げ込み、粉墨を洗い落とし、人ごみのなかに紛れ込んで劇を観たあとおもむろに家に帰る。もし打つのが遅れると、彼は台上で吊り死し、洗うのが遅れると、本物の鬼に認知され、彼を追いかけて来る。人ごみの中に紛れ込んで、劇を観ているのは、正しく(政治家などの)要人が下野して仏門に入る如く、或いは外遊する如く、実に欠くべからざる過渡の儀式である。
 この後が「女吊」の出番だ。先に悲涼なラッパの音がし:しばらくして幕が上がって彼女が出て来る。大きな赤い着物に長めの黒いチョッキ、ざんばらの長い髪、首から2本の紙銭を吊るし、頭を垂れ、手もだらりとしたかっこうで舞台中を回る。玄人筋は:「心」の字を書くように回っているのだという。なぜ「心」の字なのか?私は知らない。只彼女はなぜ赤い着物を着ているのか知っている。王充の「論衡」に、漢朝の鬼の顔は赤いとあるが、その後の文章や図には必ずしも赤と決まってはいないようだ。劇本には赤を着るのは「吊神」だけとある。意味ははっきりしており:彼女が首を吊ったのは荒鬼となって仇を討つ為で、赤は陽気で、生きている人間に近づきやすい……。紹興の女は今でも白粉を塗り、赤い着物を着て首を吊るのが偶にいる。無論自殺するのは卑怯な行為で、鬼魂が復讐するというは科学的には合致しないが、そうする人達は愚かな婦女で、字も読めない。「前進」的な文学家と「戦闘」的勇士たちは彼女たちを責めないでほしい。私は諸兄が馬鹿なことを言うのではと心配している。
 彼女は長い髪を後に振ると、顔がはっきりと見え:石灰のような白い丸顔で、黒くて濃い眉、真っ黒な瞼、真紅の唇だ。浙東の幾つかの城府の劇では、吊神は長さ数寸の作り物の舌を垂らすそうだが、紹興には無い。故郷びいきをするじゃないが、私は無い方がいいと思う:そして、現在の瞼を淡い灰色にしたものに比べても、より愛すべきだと言える。だが、下唇の端は上にあげ、口は三角形になるようにすべきだ:それも醜いものではない。夜半過ぎに、薄暗がりの彼方に、ひっそりと立つこのような白粉を塗った朱の唇の女がいたら、今の私もきっと見に行くかもしれぬが、もちろん誘惑されて首を吊るとは限らない。彼女は両の肩を少し上げ、四周を見わたし、耳を傾け、愕いたように、喜ぶように、怒るようにし、ついに悲哀な声で、ゆっくりうたい出す:
 「私は、元は楊家の娘、
 こんな辛い目にあうなんて、お天道様!… 」
 その次ぎの歌詞は知らない。この句もついさっき(弟の)克士から聞いたものだ。だが大筋は、その後、幼いころに(将来嫁になるとして)養女になり、虐待されて遂に首を吊ることになった。うたい終わると、彼方で泣き声がし、これも女の泣き声で、怨みを抱いて泣き悲しんで自殺しようとしている。彼女は大変喜んで、「身代わり」を頼むが、不意に「男の首吊り」が出てきて、彼が身代わりを頼むのだと言いだす。彼等は口論してケンカになるが、女は当然ながらかなわぬが、幸い王霊官は顔つきは悪いが、熱烈なフェミニストで、危急の時に現れ、一鞭で男の首吊りを打ち殺し、女を放して、一人で行動できるようにさせた。年寄りの話しでは:昔は男も女も同じように自殺したが、王霊官が男の首吊りを殺してから、男の首吊りは減ったそうだ:それに昔は体に7x749ケ所も吊って自殺できる個所があったが、王霊官が男の首吊りを殺してからは、致命的な所は首だけになったそうだ。中国の鬼は奇妙で、鬼になってからも又死のうとする者がおり、その時の名を紹興では「鬼中の鬼」という。が、男の首吊りはとうに王霊官が殺してしまっているのに、なぜ今も「吊るのか」さらに本物を引きだそうとしているのか?私には分からない。年寄りに訊いてみたが、彼も分からぬという。
 中国の鬼にはもう一つ悪い癖があり「身代わり探し」でこれは全く利己主義で:でなければ普通に彼等と一緒にいられるのだが、習俗は同じだし、女吊りするのは免れぬにせよ、彼女は「身代わりを探し」ただけで、復讐を忘れる。紹興で飯を炊くのは鉄鍋が多いが、燃やすのは柴や草で、煤が厚くなると火の通りが悪くなる:我々は地面に煤の落としカスを見る。だが決まって散乱しており、村の娘や田舎の婦人は、労を惜しまず、鍋を伏せてトントンと叩き、煤を落とす。それが黒い丸を作る。これは首吊り神が人を誘い込む丸だから煤がそれを作る訳だ。煤を散乱させるのは消極的な抵抗で、「身代わりを頼まれる」のに対するもので、彼女が復讐を怖れてではない。圧迫されて来た人は復讐しようと硬く思ってもいず、復讐される恐れもなくても、陰に陽に吸血・食肉の凶手か或いはその手先が来て「犯されても抵抗するなかれ」(論語)とか「旧悪(昔の憎しみ)を念ずるなかれ」などの格言を唱える――私は今年になって愈々こういう人面をした連中の秘密を見つけることが出来た。
   9月19-20日

訳者雑感:これは病後の体力の衰えもあって2日かけて書いたと記しているのか、或いは何かを調べて2日掛ったと記したのだろうか。
女の首吊りは、彼の故郷で何回も観た奉納劇「目連」に登場するもので、他の作品にも書いているが、彼の子供のころに馬に乗って明末に清朝に抵抗した人達の墳墓への弔いの場面がとても印象的だ。3百年経ても逆賊の汚名を着せられた人達の墓を守り、こうした儀式を含んだ奉納劇を続けてきた。紹興とか杭州のある越の国・浙江省は金とか清という北方の征服王朝へ服従せぬ事で彼等の生きがいを見いだしてきたのだろう。
  2015/01/17記


 

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   死
 K.コルヴィッツの版画選集を出す時、アグネス・スメドレー女史に序を頼んだ。それが非常に適切と思った。彼女達は互いに大変熟知の間柄だったから。間もなく送られて来たので、茅盾さんに訳してもらい、今選集に載っている。その中に次の文があり:
 『長年来、K.コルヴィッツは――彼女はこれまで一度も与えられた称号を使ったことは無い――膨大な量のデッサンを描き、クロッキー、鉛筆とペンでのスケッチと木刻と銅刻を作った。これらをよく見ると2つの主題が関わっていることが分かる。若い頃の主題は反抗で晩年のは母の愛、母性の保護、救済と死である。彼女の全作品をおおっているのは受難、悲劇及び被圧迫者を守る深くて切なる熱情の意識である。
 『ある時彼女に尋ねた:「以前は反抗を主題としていたが、今は死という観念を捨てきれぬようにみえる。なぜなの?」深い苦しみに満ちた音調で答え「多分私が日一日と老いているからでしょうね」……』
 私はそのころここまで読んで色々考えた:彼女が「死」を画材にした時は、1910年頃で:43-44才に過ぎぬ。今年私がこれを「考えた」のは私の年と関係がある。だが十余年前を思いだすと、死に対してこれほど痛切に感じてはいなかった。私たちの生死はきっと長い間、人々によって随分いい加減にされてきたので、自分でも気楽に考えていて、欧州人の様に真剣に受け止めてこなかった。外国人は中国人が死をもっとも怖れる人間だというがそうでもない――、もちろんいい加減に死んでしまうのもいるにはいるが。
 皆が信じている死後の状態は、死を更にいい加減なものにするのを助長している。知っての通り、我々中国人は鬼(幽霊の意:今後、鬼と表現する、訳者)の存在を信じており、(最近は「霊魂」とも言うが)鬼がいるなら死後、もう人間でなくなったとしても、鬼になることはなれるのだから、何にも無くなるということにはならない。だが考えているような鬼にすぐなれるか否かは、その人の生前の貧富によって異なる。貧乏人は大抵死んだらすぐ輪廻すると考えるが、その源は仏教から来ている。仏教の輪廻は手続きが大変で、そんなに容易ではないが貧乏人は往々無学だからそれが分からない。それが死刑囚が刑場に連れられて行く時、大きな声で「20年後には又男一匹」と叫ばせることになり、何の恐れも見せぬ理由だ。況や鬼の着物は死んだ時と同じで、貧乏人に良い着物は無く、鬼になっても体面が悪く、できれば胎内に戻って赤裸の嬰児になるのがましである。これまでどこかの家で胎内の赤子が乞食や水着を着て出て来たのを見たことがあるだろうか?無い。それで良い。新規巻きなおしだ。だがある人は訊ねるかもしれない。輪廻を信じるなら来世はもっと苦境に陥るかもしれない、又は畜生にされるともっと恐ろしい、と。が我々はそうは考えない。
彼等は畜生にされるような罪は犯していないと信じている。彼等はこれまで畜生に落とされるような地位権勢を持ったことが無いから。
 然し地位権勢を持っている人も畜生に成るとは思っていない:彼等は居士になり、成仏する準備をし、それで読経し復古して聖賢になると言っている。彼等は生きている間は、人理を超越しているのと同様、死後も輪廻を超えられると思っている。少し金を貯めれば輪廻を受けるなどとも思わず、この他に雄才の大略もなく、安心して鬼になる準備をするだけである。それで50歳前後になると墓地を探し、棺を作り、紙錠を焼いてあの世に備蓄をし、子孫を残し毎年羹の飯を食べられるようにしておく。これは実に人間として生きているより幸せ也。私がすでに鬼になっていて、あの世で良い子孫がいたら、こまごました原稿を売る必要も無く、北新書局(原稿料不払い:出版社)に勘定請求せずとも、閑適に樟や陰沈木の棺に横たわり、毎年節季には盛大なお供えと山のような紙幣が目の前に並べられ、あに快ならんや!である。
大まかに言って、極めて富貴な人間であの世の法に無関係なもの以外、大抵の貧乏人は即刻、胎内に戻り生まれ変わるのが良く、小康な者は長く鬼でいるのが得だ。小康な者が鬼でいるのに甘んじているのは鬼の生活(この字は語弊があるが、適当な名詞が浮かばない)が、彼がこの世の生活が続くのをいやがっていないからだ。あの世も主宰者がおり、且つまた極めて厳格で公平だが、彼に対してはとても融通無碍で、謝礼も受け取るし、正に娑婆の役人と同じだ。
 一部の人達は随分いいかげんで、臨終の事は余り気にしないが、私もこれまでその仲間の一人だった。30年前医学を学んだ頃、霊魂の存在の有無を研究した。結果は分からないで:また死亡は苦痛か否かも研究した。結果は一律ではないということだったが、その後研究しなくなり忘れてしまった。この十年、時に友人の死に対して文章を書いたが、自分の事は考えなかった。この2年、病気が特に多くなり、一度病気になると長引き、年をとったなと感じ、勿論、何人かの作者の筆による好意も受けたが、一方では悪意もたえず示された。
 去年から病後の休養のたびに、藤椅子に身を横たえると、体力回復後にやらねばならぬ事を思いだし:どんな文を書くか、どんな本を訳し出版しようか。考えが決まると、こう口にする:そうだそうしよう、だが早くやらねば、と。この「早くやらねば」という思いは、以前は無かった。知らず知らずの内に、自分の年を考えていた。これまで直接「死」を考えたことは無かった。
 今年大病してはじめて死の予感がでてきた。以前はやはり毎度の病気と同様、日本のS医師の診断治療に任せていた。彼は肺病の専門じゃないが、年もとっているし、経験も豊富で医学の勉強をした時も私より先輩で、良く知っており、いろいろ話してくれた。勿論医者は病人に対してどんなによく知っていても、話しには限度がある。が、彼は少なくとも2-3回は警告してくれたが、私はそのつもりはなく、他の人にも何も言わなかった。だが実際に病気が長引き、病状も大変深刻なため、数人の友人が内密に相談し、米国のD医師に診察を頼んだ。彼は上海で唯一のヨーロッパ人の肺病専門医だった。打診聴診の後で、私のことを最も疾病に対する抵抗力のある典型的な中国人だと誉めながら、私はすぐにも死亡すると宣告し:またもし欧州人なら5年前に死んでいた、と言った。この診断は感じやすい私の友人たちに涙を流させた。しかし私は彼に処方を頼まなかった。思うに、彼の医学は欧州で学んだのだから、5年前に死んでしまっている病人に対する処方を学んだことはないだろう、と。然しD医師の診断は極めて正確で、後にX線の胸部写真を見たら、所見の状況は殆ど彼の診断通りだった。
 私は彼の宣告を余り気にしなかったが、影響は受け、日夜横になったままで、話す力も読書の気力も無くなった。新聞も手にせぬようになったが、「心は古井戸の如く」と言うほどには鍛錬していなかったので、考えるしか無く、それからは時おり「死」を考えるようになった。が、考えたのは「20年後は男一匹」ではなく、またどのようにして樟の棺に入ろうかの類でもなく、臨終の前の瑣事だった。この時はじめて確信したのは、やはり人は死んでも鬼にはならぬということで、遺書を書くことも考えたが、私が(当時遺産相続問題で訴訟になっていた大買弁の盛宣懐のように)宮保(清朝大官の称号)の如き金持ちで、千万の富があったら、息子や婿及びその他の親族が、とうに遺書を書くように迫っただろうが、今もって誰も提起しない。しかし私も一枚残そうとした。当時いささかそう考え、親族向けに書いた。その内容は:
一、葬儀の為に如何なる人からも一文も受けてはならぬ。但し古い友人は除く。
二、すぐ棺に入れて埋葬し、片づけること。
三、如何なる記念行事もしないこと。
四、私を忘れ、自分の生活に専念の子と――さもないのは大バカ者だ。
五、子が大きくなって、才能が無いようなら、小さな仕事を見つけて暮らすように。万一にも頭の空っぽな文学家や芸術家になってはいけない。
六、他人が何か呉れるといってもあてにしてはならぬ。
七、人の歯と目を損いながら、報復に反対し、寛容を唱える人に近づいてはならぬ。
 この他にもまだあったが忘れた。只、熱が出た時、欧州人が死に臨んで往々、儀式を行い、人の許しを請い、自分も人を許すことを請うことを思いだした。私の怨敵は多いと言うべきで、新式の人が私にそれを訊ねたらどう答えるか?考えた結果の結論は:彼らには怨ませておけ。私も一人たりとも許しはしない。
 だがこの儀式もまだ行っておらず、遺書も書いていない。黙々と横になっているだけで、時に切迫した考えが起き:もともとこのように死んでゆくのだが、たいして苦痛も無く:だが臨終の刹那はきっとこんなではないだろう:然し、人の一生は只一度だけで、無論どうであれそれを受け入れるしかない…。後に転機が来てよくなった。現在まで、私はこうしたことは多分、本当に死ぬ前の状況ではなく、本当に死にそうになったら、こうした考えすら出来るとは限らないだろう。結局どうなるかは私も分からない。
       9月5日 (10月19日永眠した:訳者注)

訳者雑感:
 松本重治の「上海時代」(中)の284頁に「魯迅と長与善郎との出会い」があり、内山の斡旋で四馬路の「老半斉」で会食したことに触れている。魯迅が仕立ておろしの濃紺の綿服で、その香りに引きたてられたのか、魯迅さんの威厳には一段と重みがあったように感ぜられた、とある。
 言論弾圧で書きたいことも書けず、「作家はみな生活ができないので苦しんでいます」というような魯迅の発言の後、「ここへ来る道で、いま、樟の立派な棺を見たら、急に入りたくなってしまった」と半ば独語(ひとりごと)のように言った。「一座は笑わんと欲して笑えず、妙に白けてしまった」とある。(これは、昭和十年(1935年)6月のことを長与が7月の「経済往来」誌に載せたものを松本が引用しているのだが、会食後の帰り道で、魯迅が暗いとして長与は「厭世作家魯迅」と彼の上記の文章にかいている。
それに対して、魯迅はそれを引用した文章を友人が送って来たのを読んだ後、8月1日増田渉宛ての手紙に『長与氏の書いた「棺に這り(ママ)たかった」云々などは実に僕の云うことの一部分で、その時僕は支那にはよく極よい材料を無駄に使ってしまうと云う事について話していた。その例として(黒檀や陰沈木などで棺を作り云々とあり)上海の大通りのガラス窓の中にも陳列しており、蝋でみがいてつやを出し、実(ママ)美しく拵えて居る。僕が通ってみたら実にその見事なやり方に驚かされて這りたくなって仕舞う」というようなことを話した。併しその時長与氏は他人と話していたか、或いは他の事を居たか知らんが僕の仕舞の言葉丈取って「くらいくらい」と断定した。若しだしぬけそんなことを言うなら実は間が抜けているので「険しい、くらい」ばかりの処ではない。兎角僕と長与氏の会見は相互に不快であった』と書いている。
松本も長与に対して、魯迅がそんなに暗くて陰惨な感じの人ではなかったのだがなあ、と話している。
批判精神を持ってユーモア小説も書く作家との印象もあった魯迅が「棺に入りたくなった」という最後の言葉だけを取って「くらいくらい」と言われ魯迅は長与氏との会見は相互に不快だった、と書いているが、本文の中にそれが多少影響しているのだろうか。棺に入ってこの世の厭なことを忘れ閑適に過ごす、云々と原稿料不払いでもめている北新書局とのことなど冗談を交え書いている。
5年前に死んでいると宣告する医者に処方箋を頼んでも無駄だろうとも書いて、死ぬ直前までユーモアを交えることを忘れなかったようだ。
2015/01/09記

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「これを記録として残す」2

「これを記録として残す」
              暁角

2.
 「申報」8月9日号に当地の人、盛阿大に養女有り、名を杏珍16歳、6日に突然失踪し、盛は部屋の衣服を点検し、杏珍の文箱から恋文を発見、それには:
「光陰矢のごとし、あれから6ヶ月半、ここで悶々と過ごしているが、考えてみれば無窮の快楽が目の前にあり、時日を数えればまもなく我々の時が到来するから、万事秘密が肝要で、何か良い物があって機会があれば持ってきてください。お金は大事にしてください。まもなく我々にはお金が必要になるから、くれぐれも無駄遣いしないで、体も大切にしてください。私は今ベッドで君を思い、朝はバルコニーで君の開門を待ち、君の姿を見ると元気になります。どうぞ余り思い悩まず、また会いましょう。健康で、本も読んでくださいね」
 盛はこれを警察に渡し、ほどなく誘拐者を捕えた。
 この種の事件は教訓とするには足りない。が、その手紙は申し分の無い語録体の情書で、「宇宙風」に載せたら佳作とされようが、惜しいかな林語堂博士は米国へ講演に赴かれ、もう中国の文学風習を顧みることはなくなってしまった。
 今ここに録すは、以て他日「中国語録体文学史」を作る時に採択されるのに備えしもの。その作者は「申報」によれば、フランス租界の蒲石路479号にある協盛果物店員で無錫の項三宝なり。

訳者雑感:この時代の中国は身代金目当ての誘拐事件が多発した。私が天津でテニスを通じて親しくなった梁さんの長兄も誘拐され、多額の身代金を払ったが、遺体となって帰って来た、と「天津の十大買弁」という本にある。
 魯迅がここで揶揄しながら記録に残そうとしているのも、林語堂たちへの強烈な批判である。アメリカに去ってしまった相手にさえ、こうして罵ることを辞さない、林も辟易したに違いない。彼は戦時を逃れ米国で中国関係の文章を書いて発表している。それが米国人には中国理解の良書として受け入れられたようだ。
   2015/01/01記
 

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「これを記録として残す」

「これを記録として残す」
              暁角
1.上海の「大公報」の「大公園地」に「非庵漫話」の8月25日付に「太学生受験」と題して云う:
「今回、太学生の受験で、国文の題は文科では:「士は第一に人物識見で、その後に文芸」で、理科は「南粤王に擬して、漢文帝への復書」並びに漢文帝より南粤王趙佗に遣した書の原文も題の後に付すであった。この試験問題は現在の異動に対して、目の前の情景に感慨を催すに違いない。だが太学生はこの2つの策論式命題に対して、多くの人が頭をなでずにはいられなかった。ある太学生は、答案用紙に大書し:「漢文帝の三文字は故事の常識のようだが、漢高祖の何代目か知らぬ。南粤王趙他については素より知らず、何も書けぬ。且つ帰って勉強して来年また会いましょう」と。某試験官はこの学生が佗を他と誤記しているのを取り上げ、批判して云う:「漢高文帝爸、趙佗は他ではない:今年は不合格だが来年また来なさい」またある受験生は「士は第一に人物識見で、その後に文芸」の題の後に答案を書かず、只「もし美人を見れば甘んじて拝し、凡そそれを聞けば頭を回らすを失せず」の聯を書いて筆を放り出して去った。某試験官はこれを批して云う:「鼓鼙(小鼓)を聞いて将師を思う、臣は試験に臨んで、美を愛する興を動もし、幸いなるかなこの受験生は崖に懸かり馬を勅す、さもなくば竹打ち40回で場外に追放すべし」
わずか300余字だが、学生は旧学問の空疎さと試験官の態度の浮薄さを表し、
読む人に「歇後の鄭五は宰相となり、天下の事を知る」者也、とは誠に古の人の及ぶべからざるもの也。
 だが国文も亦難しい所あり:漢に趙他が無ければ、中華民国も亦あに「太学生」がいるだろうか。

訳者雑感:
 太学と言う言葉は旧時の最高学府と辞書にあるが、太学生は無い。そこで学んだ者を指すのか?いずれにせよ、20世紀の試験問題で、漢代の故事に関して答案を書けという試験官の空疎さと、受験生の対応、それを大公報という新聞に載せるという「やくたいもない」ことを日中戦争が始まろうとしている時に、新聞ネタにするというのは、中国が如何に広大で、日本軍が攻めてきている事に無関心な層がどれほどいたかが分かろうと言う物だ。
 今の反日、日本の侵略に備えよというか、攻められる前に攻めよ云々と声高に呼びかけているのは、古くから異民族に攻め入られても我関せずとしてきた、民族への警鐘を鳴らすのだろう。一般の人はそれも気にしないのだが。
    2014/12/31記

 

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「これも生活」…

「これも生活」…
 これも病中のこと。
 ある種の事は、健康な人も病人も何も気にならず、きっと遭遇することも無く、とても細かなことだ。大病からはじめて癒えた時の経験で:私には疲れ切ってしまう怖さと、休息の気持ちよさは二つの良い例だ。以前はく自負していたのだが所謂、疲労を感じたことはなかった。机の前の丸椅子で物を書いたり、注意して読書するのは仕事で:傍らの藤椅子にもたれて世間話をしたり、気ままに新聞を読むのは休息で:両者に大きな違いは無いと感じ、それを自負していた。今はじめてそれが違うのが分かった。従って、違いは余り無いから大して疲れないというのは、精魂こめて仕事をしてこなかったというわけだ。
 親類の子は高校卒業後、やむなく靴下工場へ養成生として働きに出るしかなく、気分としてはとても悪く、仕事もきつくて殆ど年中休み無しだった。理想が高く、さぼるのがいやで一年頑張った。が、ある日突然、へたと倒れくずれ兄に「全身、もうまったく力がでない」と言った。
 それ以来立ちあがることもできず、家に送られ横に寝かされた、食欲も無く、体を動かしたり、話す気力も失せた。耶蘇教の医者に診てもらったら、これと言った病はないが、非常に疲れている、との診断だった。何の治療法も無い。当然ながら続いてきたのは静かな死だ。私もかつて2日ほどそんな情況になったが、原因は違って、彼は仕事に疲れたのだが、私は病気疲れだ。私も確かに何の欲望も無くなり、一切が自分と関係無いようで、全ての挙動が余分なものに感じた。死を思ったことはないが、生をも感じなかった:所謂「欲望の無い状態」で死の第一歩だ。私を愛してくれた人の中に、これを密かに悲しんで涙を流してくれた:だが私は転機を迎え、少しスープを飲みたくなり、周囲の物を眺め、壁、ハエの類で、その後やや疲れを感じ休みたくなった。
気分のままに横になって、四肢を伸ばし、大きく欠伸をした。全身を適当に横にして、一切の力を緩めた。これはとても気持ちが良かった。これまで言葉にしたことのないほどだ。強壮で福のある人がこれまで享受してきたことの無い物だと感じた。
 一昨年も病後に「病後雑談」5章を「文学」に寄稿したと記憶しているが、後の4章は発表できず、出せたのは最初の1章だけだった。文章の最初ははっきりと「一」とあるが、「二」「三」は無く、注意すればおかしな感じだが、読者に求めたり、批評家に理解を望むことはできない。ある人はそれで私を断じて:
「魯迅の病気になるのを賛成している」と言った。今も多分こういう災難を免れぬが、私はやはりここで:「私の文章はこれで終わりではない」と声明を出しておきたい。
 転機から4-5日後の夜、目が覚めて、(妻の)広平を起こした。「水を一杯頼む。電灯を付けて見させてくれ」と言った。
「どうしたの」彼女の声は焦っていた。多分私がうわごとを言っていると心配していたのだろう。
「生きていたいから。きっとこれも生活だ。いろいろ見てみたいんだ」
「おおー…」彼女は起きて茶を飲ませてくれた。すこし歩いて又すぐ横になり、電灯はつけてくれなかった。
 彼女が私の言葉を理解できないのが分かった。
 街灯の光が窓から射すので部屋はほの明るく、私はぐるっと見回した。なじみのある壁、壁の稜線、見慣れた本の山、まだ装丁してない画集、更けゆく夜,無窮の彼方、無数の人々、全てが私に関係がある。私は存在し、生活しており,生きてゆこうとしている自分を切実に感じ始めた。動こうと思ったが、暫くしてすぐ又眠った。
 翌朝早く、日光の下で見たら、なじみの壁、見慣れた本の山…など、平時はいつも目にするが、実は一種の休息だった。だが私たちはこれまでこういう物を軽視してきて、たとえそれが生活の断片としても、お茶を飲んだり、かゆいのを掻いたりすることより下にみて、なんとも感じなかった。私たちが気にとめるのは特別な精華で、枝葉ではない。名士の伝記を書くのも大抵その特長を誇張し、李白が如何にして詩を作ったか、どれほど気がふれていたか、ナポレオンは如何に戦い、どれほど睡眠をとらなかったかなどで、彼らが大して気もふれなかったとか、どれくらい眠ったかではない。だが終生もっぱら気がふれて、眠らずにいたら生きては行けない。時に気がふれ、眠らないのは、時々は気もふれず、眠ったからだろう。しかし人はそうした平凡なことはすべて生活のおりだとして見向きもしない。
 それで目にした人や物は盲人が象を模すごとく、足を模せば柱の様だと思う。中国の古人は常にその「全き」を欲し、婦人用の「烏鶏白鳳丸」を作るのにも鶏一匹丸ごと毛も血もすべて丸薬に入れる。そのやり方は実に滑稽だが、主趣は間違ってはいない。
 枝葉を取り除く人が、花果を得ることはけっして無い。
 私に電灯をつけてくれぬので、広平にとても不満で、顔を見て不満をぶつけ:自分で動けるようになると彼女の読んでいる雑誌を見たら、果たせるかな、私の病中にも全てこれ精華の雑誌がたくさん出ていた。ある雑誌は後ろに「美容妙法」「古木発光」或いは「尼姑の秘密」などあったが、巻頭はやはり激昂慷慨の文章だった。文を書くのにもすでに「一番中心的な主題」があり:義和団の頃ドイツの将軍Walderseeと一時枕を共にした(清末の妓女)賽金花さえ、すでに九天護国娘娘(女神)になっていた。
 尤も驚いたのは、以前「御香縹緲録」(西太后の故事)で、清朝宮廷を面白く書いていた「申報」の「春秋」も時の経過と共に変化してきて、終には「点滴」の中に入れられ、西瓜を食べる時に、我々の土地は西瓜のように瓜分されたのを思い出させたという記事だ。無論これはいついかなる時でも、何が起ころうとも国を愛さずにはいられない、ということでそれは議論の余地は無い。だが、もしそれをこう考えながら、西瓜を食べろと言われたら、きっと飲みこめないに違いない。懸命に飲みこもうとしてもうまく消化できず、腹の中でごろごろするだろう。これも病後の神経衰弱のせいとも言えぬ。西瓜を例に国恥を語りながら、その後でおいしそうに西瓜を食べ、血肉の栄養にできる人は多分何かが麻痺しているのだろう。彼に何を言っても意味は無い。
 私は義勇軍に参加したことが無いので、確かなことは言えぬが、自ら問うに:戦士が西瓜を食べる時、食べながら他の事を考えるか?そうとも限るまい。只喉が渇いたから食べたくなり、うまいなら他に聞こえのよい立派な道理も考えないだろう。西瓜を食べて元気になって戦うと、喉が渇いて舌がひりひりした頃とは違ってくる。だから西瓜を食べて抗戦するのは確かに関係があるが、それと上海をどの様に設定すべきかの戦略とは関係ない。こんな風に終日泣きっ面をして飲食していた日には、暫くしたら胃を壊し、敵と戦う事もできない。
 然し人は往々、珍しくへんてこなことを喜び、西瓜さえ普通に食おうと言わない。だが実は、戦士の日常生活はすべて歌ったり泣いたりするものではないが、歌ったり泣いたりすべきことと関連が無いわけではなく、それこそが実際の戦士である。   8月23日

訳者雑感:
 魯迅が死の2-3か月前に大病し、癒えた時の感想だ。所謂「欲望の無い状態」で死の第一歩だ。というのが彼の言葉だが、ある時目覚めてスープを飲みたいと所望する。そして見慣れた壁や本を目にして、生きて行こうとする。激しい性格の魯迅が死を前にし、そこから蘇生したときの文章だ。それでも文章を書こうとし、死ぬまでそれを続けようとしたわけだ。
   2014/12/29記

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