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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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私は人をだましたい

私は人をだましたい
 疲れて何もしたくない時は、この世を超越した作家を敬服しそのマネをしてみようと思う。が上手くゆかない。超然とした心は貝のような硬い殻を持っていなければならぬ。それにきれいな水も必要だ。浅間山辺りには旅館はあるだろうが、そこへ「象牙の塔」を作りに行く人はいないと思う。
 しばしの心の平安を得る為、窮余の策として、近頃別の方法をあみだした。それは人をだますことだ。
 去年の秋か冬、日本の水兵が(上海の)閘北で殺された。忽然、沢山の人が引っ越しして、自動車賃が数倍になった。引っ越したのは勿論中国人で、外国人は面白そうに路辺で眺めている。私もときどき見に行った。夜になると大変静かになり、食いもの売りもいなくなり、遠くで犬の吠える声がするだけ。しかし2-3日すると引っ越しは禁じられたようだ。警察は懸命になって荷物を運ぶ荷車の車夫と人力車夫を殴打し、日本の新聞と中国の新聞は異口同音に、引っ越す連中に「愚民」というレッテルを張った。その意味は、天下は実に泰平で、このような「愚民」がいるから、良好なこの世の中が滅茶苦茶になるのだ、というわけだ。
 私は初めから終わりまで動かなかったから、この「愚民」の中に加わらなかった。だがこれは聡明だからではなく、怠けたというだけだ。かつて5年前の正月の上海戦争―日本では「事変」と呼ぶのを好むようだが――の戦火の下で、自由はとうに奪われていたが、私の自由を奪った権力者もそれでもって空に飛んで行ってしまったから、どこへ行っても同じであった。中国人は疑い深い。どこの国の人もこれをおかしな癖・欠点だというが、疑うのは欠点ではない。いつも疑ってばかりいて、決断しないのこそ欠点だ。私は中国人だから、この秘密をよく知っている。その実、決断はしているのだが、この決断はすなわち:結局信用できぬということで。ただ、その後の事実は大抵この決断の的確さを証明している。中国人は自分が疑い深いことを疑っていない。従って、私は引っ越さなかったが、それは天下が泰平だと思っていたわけでなく、結局どこにいようが、同じく危険だというにすぎぬ。5年前の新聞を見てみると、子供の死屍(原文にはXXと伏せてあったが、2006年版には死屍とある)が多く、俘虜交換(俘虜もXX)した例も無く、今思い出してみると、大変悲痛である。
 引っ越した人を虐待し、車夫を殴打するなどごく小事だ。中国人は常に自分の血で権力者の手を洗い、そして彼はまた清潔な人間に変わり、今はただこんな形で事を終わらせて、まずはいい具合だとみなしている。
 だが皆が引っ越している時、私も一日中路傍で騒ぎを眺めていたのではないし、家で世界文学全集を読もうと言う気にもならなかった。少し遠出して映画館に憂さ晴らしに行った。そこは本当に天下泰平だった。こここそ、皆が引っ越てきて住もうとしているところだ。大門をくぐると、12.3歳の女の子につかまった。小学生で水害の募金集めで、寒さで鼻の先も赤かった。小銭が無いと言うと、彼女はとても失望した表情を眼に顕した。私はすまないと感じ、彼女を映画館の中に連れて行き、切符を買って1元を渡した。彼女は大変喜んで、私に「貴方は良い人だ」とほめ、領収書を書いてくれた。これを持っていれば、どこへ行ってももう出す必要は無い、と。それで私は所謂良い人になり、かるやかに入って行った。
 何を見たか?何も覚えていない。要するにイギリス人が祖国の為にインドの残忍な酋長を征伐したとか、アメリカ人がアフリカで大金持ちになったとか、絶世の美女と結婚したとかだろう。こうやって暫く時間を潰し、晩近くになって帰宅すると、また静かになっていた。遠くから犬の吠える声が聞こえる。女の子の満足げな表情の容貌が眼に浮かび、自分も良いことをしたと感じるが、気分はまたすぐ害されて、石鹸か何かを呑んだようになった。
 確か2-3年前、大変な水害があり、この洪水は日本と違って、数か月間か半年は全く水が退かぬ。だが私は知っているのだが、中国には「水利局」という役所が有って、毎年人民からの税金で仕事をしている。それでもこんな洪水が起こる。またある団体が義捐金募集のために公演をしたが、わずか20数元しか集まらず、役所は怒って受け取らなかった。水害を蒙った難民が群れを成して、安全な所へ向うと、治安に危害が及ぶとして、機関銃掃射したというのもよく聞く。きっとすでに皆死んでしまっただろう。しかし子供たちは知らないから、懸命になって死んでしまった人のための生活費を募っており、集らぬと失望し、集ると喜ぶ、その実、1元くらいでは水利局の爺さんの一日のタバコ代にもならぬ。私はそんなことは明々に知っているが、募金が本当に災民の手に届くと信じている如くに1元を渡した。実はこの天真爛漫な子の喜びを買ったに過ぎぬ。私は人が失望するのを見たくないから。
 80歳の私の母が、天国はほんとうにあるか、と訊いたら、私は何のためらいもなく、本当にある、と答えるだろう。
 しかしこの日のその後の気分は悪かった。子供は老人と同じではないから。彼女を騙すべきではないと思い、公開状を書いて、自分の本心を説明し、誤解を解こうとしたが、どこにも発表する所がないから止めた。もう12時であった。外へ出て辺りを見回した。
 すでに人影も無い。ただある家の軒下にワンタン売りが二人の巡査と話していた。普段あまり見たことが無い貧しい天秤担ぎで、食材が沢山売れ残っている事から商売はあがったりの様だ。2角で2碗買い、妻と2人で食べた。多少もうけさせようかと思った。
 荘子は言った:「干からびたわだちの中の鮒は、互いに唾沫で相湿らし、湿気を付ける」と。しかし彼は又言った:「だが江湖にいて互いに相手を忘れているに如かず」と。
 悲しいかな。我々は互いに忘れられぬ。そして私は愈々、恣意的に人を騙し始めた。人を騙す学問を卒業あるいは止められない時、(改造社の)山本社長に会ってしまった。何か書けと言うので、礼儀上「はい」と答えた。「はい」と答えたので書かねばならず、彼を失望させたくない。だが結局人を騙す文章になった。
 この様な文章を書いて、良い気持ちにはとてもなれない。言いたいことは山ほどあるが、「中日親善」が更に進む時を待たねばならない。もう少ししたら、その「親善」の程度はきっと我々中国で、排日は即、国賊と看做す――というのは共産党が排日のスローガンを使って、中国を滅亡させようとするためだということになり――到るところの断頭台に太陽の丸い輪(日の丸)がはためくことだろうが、たとえそういうふうになっても、やはり本当の心を披歴することにはならないだろう。
 私一人だけの杞憂かもしれぬが:互いに本当の気持ちをよくみて理解しなければ、筆や舌、あるいは宗教家の所謂、涙できれいに眼を洗い清めるというような便利な方法を使えるようなら、それは固より非常に素晴らしいことだが、そのような都合のよいことは、世界中さがしてもめったに見つからないだろう。これは悲しいことだ。一方で筋道のない漫文を書きながら、一方で熱心な読者にすまないと思う。
 終わりに臨んで、血で私個人の予感を添えて、お礼とします。
     2月23日

訳者雑感:
 女の子への手紙を書くのは止めたが、この改造社の山本社長からの依頼に答える形で、「私は人をだましたい」という文章を書いて、彼女のことに触れた。
 3.11の後、台湾の人達が2百億円もの義捐金を寄せてくれた。彼ら彼女等は、日本の役所は中国のようなことはしない、と信じてくれて寄せてくれたものだろう。しかし実際にどの様に一刻も早く支援を待つ災民の手に届いたのだろう。

 36年10月魯迅は死んだ。37年、盧溝橋事件から日中戦争が始まった。この文章はその予感を血でもって添えられたのだ。「排日」「抗日」が長く続いた。
日本と日本製品を排除・ボイコットし、日本軍に戦争で抵抗した。今「反日」という、これは日本にやり方に反対する、ということだが、これが「排日」になって、戦争で抗日でなく、制圧・征服ということになりはしないか心配だ。
      2014/09/19記
 

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末篇扉とケーテ版画

且介亭雑文末篇 
扉とケーテ版画
 本書の扉に作者の1936年の雑文35篇を収める。作者は生前編集を始めたが、後に(夫人)許広平がまとめ、1937年7月上海三閑書屋より初版とある。
目次に次いで1936年の本文が始まる。

 「ケーテ・コルウィツ版画選集」序と目録
 Kaethe  Schmidt(旧姓)は1867年7月8日東プロシアのKoeningsbergに生まれる。外祖父はJ.Ruppでその地の自由宗教協会の創立者。父は元々司法官候補だったが、宗教と政治上の見解のため、補欠の望みも無く、困窮した法律家は、ロシア人の説くように:「人民の中へ」と大工(実際は左官)となり、Ruppの死後、その教区の首領と教師になった。4人の子があり、大事に育てたが、当初、ケーテの芸術の才に気付かなかった。ケーテが学んだのはまず銅刻の手芸で、1885年冬に彼女の兄弟が文学を学んでいるベルリンに行き、S,Bern
に絵画を学んだ。後に故郷に戻り、Neidemに学んだが、「嫌になって」ミュンヘンのHerterichの所へ学びに赴いた。
 1891年彼女の兄弟の幼馴染のKarl Kollwitzと結婚。彼は開業医でケーテもベルリンの「小市民」の中で暮らし、絵画を止め版画を始めた。子たちの成長後、彫刻にも注力した。1878年、有名な「織工一揆」(計6枚)を作り、1844年の史実に取材し、以前に出されたHauptmannの劇本と同名だが:1899年に「格莱親」を刻し、1901年「断頭台の舞踏」を刻した:04年にパリに旅行し:04-08年の間「農民戦争」7枚を連作し有名になり、Villa-Romana賞金を受け、イタリアに遊学した。この時、女友達とフローレンスからローマに徒歩旅行したが、この旅行では彼女自身によると、彼女の芸術に大きな影響を与えなかったという。09年に「失業」を作り、10年に「捕えられて死んだ婦人」と「死」をテーマにした小さな絵を描いた。
 世界大戦が起こり、その間殆ど制作しなかった。1914年10月末、彼女のまだ若い長男が義勇兵としてFlandernで死んだ。(実は二男:出版社)18年11月プロシア芸術学院会員に選ばれ、これは婦人として初めてだった。19年以降彼女は大きな夢からはじめて醒めたように、版画にとりくみ、有名なのはこの一年のリープクネヒト記念の木刻と石刻で、22-23年の木刻連続画「戦争」、後に又3枚の「無産者」もあり、それも木刻の連続画だ。1927年彼女の60才記念で、ハウプトマンは当時も戦闘的作家で、彼女に書簡を出し:「貴女の無声の線描は、心髄にしみとおり、惨苦の叫びのように:ギリシャ・ローマ時代にはこのような叫びは聞いたことは無い」と。フランスのロマンロランは言った:「ケーテ・コルヴィッツの作品は現代ドイツの最も偉大な詩歌で、それは貧しい人と平民の困苦と悲痛を写しだした。この丈夫の気概を有する婦人は、陰鬱さと細やかでやさしい同情をもって、こうしたものを彼女の眼の中に入れ、彼女の慈母の腕(かいな)に抱いた。これは犠牲となった人々の沈黙の声だ」と。
しかし彼女は今、教えることも作画もできず、彼女の子供たちとベルリンに暮らして沈黙する以外なにもできない:彼女の子は父と同じく医者だ。
 女性の芸術家で、芸術界を振動させたのは、現代ではケーテ・コルヴィッツを超える人はいない――ある者は賛美し、ある者は攻撃、ある者は攻撃者に対し彼女を弁護する。真にAvenariusの言う如く:『新世紀の数年前、彼女が初めて作品の展覧会をした時、新聞は宣伝した。それ以来ある人は「彼女は偉大な版画家」だと言い:ある人はつまらない、ばかばかしいとし:「ケーテはある男の新派の版画家の仲間に属している」とか、他にも:「彼女は社会民主主義のプロパガンダだ」と言い。3番目は:「彼女は悲観的で困苦した画工」だという。4番目は「宗教的芸術家」だとも言った。要するに:人がどのように自分の感覚と思想でこの芸術を解釈しようとも、そこからどの様にある種の意義を見いだそうとも――ひとつの事は普遍的で:人は彼女を忘れない。誰も一度ケーテの名を聞くと、この芸術を見たように感じる。この芸術は陰鬱で、すべて堅固な動きの中に、強靭な力を集中し、この芸術は統一していて単純で、非常な感じで人に迫ってくる』
 だが、我々中国で紹介された例は少なく、すでに停刊した「現代」と「訳文」で夫々、一枚の木刻を見た記憶はあるが、原画は勿論とても少なく:4-5年前上海で何枚かの作品を展覧したが、注目した人は少なかった。彼女の本国での復製作品は、私が見た限り「ケーテ・コルヴィッツ画帳1927」が最も素晴らしかったが、その後の版で内容が変更され、深愁の作品が戦闘的な物より多くなった。印刷が精密ではないが、枚数が多いのは「ケーテ・1930」でこれを見ると、彼女が深淵な慈母の愛で、すべての侮辱され、害された者の悲哀に抗議し、憤慨し、戦っている事が分かる:取材したテーマは大抵、困苦、飢餓、流離、疾病、死亡だが、シュプレヒコールし、あらがっており、聯合して奮起するものもある。その後また新集(Das Neukeコルヴィッツ作品、1933)も出たが、多くは明朗な作品が多い。W.Hausensteinは彼女の中期の作品を評し、中には鼓動するような男性的版画、暴力的で恐ろしいものもあるが、根本的には生活と深く関わっている様相で、形式的にももめ事などに激しくからんでおり、従ってその形式は世事の形相をしっかりとらえている。永田一修は彼女の後の作品と併せて取り上げ、この批評は不足していると考え、ケーテの作品は、Max Liebermannとは異なり、テーマが面白いと感じて下層世界を描いたのではなく、周囲の悲惨な生活に動かされ、描かずにいられなかったもので、これは人類を搾取するものへの無窮の『憤怒』だとしている。『彼女は目の前の感覚に照らして、――永田一修は言う――黒土の大衆を描いた。彼女は様式で現象に枠をはめなかった。時に悲劇と見られ、英雄化とみられることも免れなかった。どれほど深愁といわれても、どんな悲哀に対しても、決して非革命的ではなかった。彼女は現在の社会が変革可能だと言うことを忘れなかった。そして老境に入るや、より悲劇的或いは英雄的陰暗な形式から脱却した』
 更に彼女は単に彼女のまわりの悲惨な生活の抗争の為だけでなく、中国に対しても、中国が彼女に冷淡なのにもかかわらず:31年1月に6人の青年作家が害された後、全世界の進歩的文芸家が連名で抗議を提出した時、彼女もその署名者の一人だった。今、中国式に作者の年齢を数えると70歳で、この本の出版は紙幅に限りがあるとはいえ、彼女へのささやかな記念と言える。
 選集には合計21枚の原版拓本を主に、復製の27年印刷の「画帳」で補った。以下、AvenariusとL.Dielの解説と私の意見を併せ、目録とする――
(1)<自画像>。石刻、制作年代未詳、「作品集」の順序によれば1910年頃:
(1919年が正しい:出版社)原拓本の原寸は34x30CM、これは作者が多くの版画の肖像から自分で中国向けに選んだ一枚。彼女の悲しみ憐憫、憤怒と慈愛がかそけく感じられる。
(2)<窮苦>。石刻、原寸15x15CM、原版拓本ではこの後の5枚も同じ。これは有名な「織工一揆」の第一枚で、1898年作。4年前ハウプトマンの劇本を「織匠」がベルリンのドイツ劇場で初演され、1844年のSchlesien麻布労働者の蜂起に取材し、作者も多分この作品の影響を受けているだろう。だが、これを深く論じる必要はない。それは劇本で、これは図画だから。我々はこれによって窮苦の人の(家が)氷の如く冷たく、ぼろぼろの家で、父親が子を抱いて、どうすることもできずに部屋の隅に坐り、母親は苦しみを愁い、両手で頭を支え、危篤の子供をじっと見つめ、糸紡車は音も無く彼女の傍らで止まっている。
(3)<死亡>。石刻、原寸22x18CM
 (この後、数行の解説と魯迅の意見が続くが21枚あり、実物の版画集を見ないでも解説だけでも内容はよく分かるが、この翻訳では割愛し、題名だけ記す)
4.相談 5.織工隊 6.突撃 7.結末 8.グレートヘン 9.断頭台の周囲の踊り 10.耕す人 11.凌辱 12.鎌を磨く13.ドーム内の武装 14.反抗 15.戦場 16.俘虜 17.失業 18.死んで捕まった婦人 19.母と子 20.パン 21.ドイツの子供たちは腹ペコだ!
     1936年1月28日 魯迅

訳者雑感:魯迅の版画に対する情熱,とりわけケーテ・コルヴィッツへの愛情がひしひしと伝わってくる文章である。割愛した作品の解説も次の機会に載せてみようと考えている。それだけの価値はきっとあると思う。
    2014/09/17記

 

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太炎先生から思い起こす二三のこと


(小活字で)題を書いてからいささか躊躇した。空話が多く俗語に言う「雷声大にして雨少なし」ではないかと危惧する。(これ以降は普通の活字に戻る)
「太炎先生に関する二三のこと」を書いてから、もう少し閑文を書けると思っていたが、もう根気が失せ止めるほか無かった。翌日目が覚めたら新聞がもう届いていて、読みだしたら覚えず頭を撫でながら驚いて声をあげた「双十節25周年!中華民国も1世紀の四分の一が過ぎた。快ならざるや!」但しこの快は迅速の意味だ。その後増刊をパラパラめくると、新人作家が老人の文を悪罵するのを偶見し、頭から半瓢の冷水をかけられたようだ。
私を例にとっても性情は日に日にひねくれてきて、25年しか経っていないのに一世紀の
四分の一と買いて喜び、形容が多く一体何を言いたいのか:且つまた頭を撫でるしぐさなど、実に時代遅れそのものだ。
 このしぐさは驚喜或いは感動した時に、もうすでに四分の一世紀やってきたが「辮髪は
やっと切り落とせた」というべきで、もとは勝利の表現だった。この気持ちは現在の青年には通じない。街で辮髪の男がいても、30前後の壮年と20歳前後の青年は珍しがるのみ。
 或いは面白いと感じるだけだと思うが、私は依然憎み怨み憤怒するのは、自分がかつて
これで大変な苦しみを味わったためで、辮髪切りは大問題だったためだ。私が中華民国を
唇を焦がし舌がただれるほど愛するは、これが衰微するのを心配するからだが、その実、
本当は辮髪を切り落とせた自由を得るためで、初めのころ古跡保存のために辮髪を切らずに残せというなら、私は多分決してこれほどまでに民国を愛しはしなかった。 張勛でも段祺瑞でも誰でも構わぬ。私は本当に愧かしいが、一部の士君子の大きな度量には及ばないのだ。
 子供のころ、当時の老人の話では:髪剃り職人の道具箱の旗竿には、三百年前には頭が
懸けられていた。満州人が入関し辮髪令が出され、髪切り人は通りで人を拉しては髪を切った。歯向かうものは頭を切り落とし旗竿に吊るし、他の人間を探しに行った。当時の髪切りはまず水をつけ、もんでからカミソリで剃ったが、実に気の塞ぐことだったが、頭を吊るしたという故事に対しては、怖いとは思わなかった。カミソリが嫌いだといっても、
もうその頃は髪剃り人は私の頭を切り落とすことも無いし、旗竿の枡の中から飴を取り出し、剃り終わったら上げるよと言い、懐柔策を取るようになっていたから。見慣れると誰も怪しく思わない。辮髪も醜いとは感じなくなり、スタイルも豊富になり、姿かたち論で言うと、ゆるく結ぶもの、きゅっとしたの、三つに分けたり、バラバラにしたり、周囲に前髪を垂らしたり(今の「劉海」)それも長短あり、長いのは二本の細い辮髪にしたり、
てっぺんで丸めたり、自分の姿を見て美男子だとうっとりしたり:作用論でいうと、ケンカの時は引っぱられるし、姦通したら切り落とされたし、戯劇を演じる時は鉄竿に縛り付けることもできた。父親として子女を鞭打つときに使ったり、変劇をやる時は、頭を揺らせば龍蛇の如く飛舞できた。昨日警官が道で人を捕え、片手で一人ずつ計二人を引っぱっていたが、これが辛亥革命前なら、辮髪を掴めば少なくとも十数人は可能で、治安の観点から言えば、至極便利だ。不幸にして所謂「海禁が廃され」士大夫が洋書を読み始め、比べるようになり、西洋人に「豚の尻尾」と言われなくても、すでに全て剃るのでもなく、全て残すのでもなく、ぐるりと剃って、一つまみだけ残し、尖った辮髪にし慈姑(くわい)の芽のようにしたが、もう無茶苦茶だったと思うが、何もそんなにする必要もないのだ。
 これは民国生まれの青年もきっと知っていると思うが、清の光緒の頃、康有為が変法をしたが成功せず、反動として義和団が起こり、八国聯軍が北京に入城した。この年代はとても覚えやすい。ちょうど1900年。19世紀の終わり。そこで満清政府の官民はまた維新をしようとし、維新には昔からの譜があり、例によって官吏を外国に考察に派遣し、学生を留学させた。私もその時、両江総督が日本へ派した人たちの一人。勿論排満の学説と辮髪の罪状及び文字の獄などの大略は早くから一部は知っていたが、まず初めに実に不便だと感じたのは辮髪だった。
 凡そ留学生は日本に着くと急いで求めたものは新知識で、日本語学習と専門の学校への進学準備のほか、会館に出かけ、書店を回り、集会に行って講演を聞く。最初の経験は、名前は失念したがある会場で頭を白い包帯で巻き、無錫なまりで排満をぶつ英勇的
青年で、覚えず粛然と敬意を持った。だが聞いてゆく内に「私がここであの婆あを罵ると、婆はきっとあちらでは呉稚暉を罵っている」と言う。皆はどっと笑ったが、何の面白いことも無く、留学生はにやけたあほ―に他ならぬと感じた。この「婆あ」は西太后を指す。
呉稚暉は東京で集会を開き、西太后を罵るのは目の前のことで、疑いもないが、その時
西太后は北京で会を開いて呉稚暉を罵るというのは信じられない。
 講演は固より嘲笑と罵りを挟むのは構わぬが、意味のない悪ふざけは無益なだけでなく、
有害である。だが呉先生はこの時まさに公使蔡鈞と闘争中で、名は学界に馳せ、白包帯の下に名誉の傷痕が蔵されていた。それからまもなく本国に送還されることになり、皇居外堀を通りかかった時、逃げ出したがすぐ捕まり、国に護送された。これが後に太炎先生と
彼が筆戦時の文中にある所謂「大池に身を投ぜず、陽溝に投身して、面目を露す」だが、日本のお堀は決して狭小なものではないが、警官護送時だから、たとえ面目が露れなくても必ず救い出されただろう。(留学生取締法で送還されることへの抗議の自殺未遂:訳者)
この筆戦は日ごとに激しくなり、ついには毒々しい罵詈雑言が混じるようになった。今年
呉先生は太炎先生が国民政府の優遇を受けたのを風刺し、この件を再提起し、30余年前の
古帳簿だが今も忘れず、怨みの毒がいかほどかが分かる。だが先生手ずからの「章氏叢書」にはこうした攻戦の文章は集録されてない。先生は務めて清虜を排したが、数名の清の儒者に対しては服膺し、殆ど古賢の後を追おうとしてこの様な文言で自身の著述を穢したくなかった――私は、その実それは大きな損失で、欺かれているのだと思う。この種の
醇風は正に物の本質を隠してしまうので、千古に禍を残すのだ。辮髪を切り落とすのは、
当時ほんとうに一大事だった。太炎先生は切った時「辮髪を解く」を書き、中に言う――
 『…共和2741年(1900年)秋9月、余33歳。時満州政府は非道にも朝士を殺傷虐待、
強い隣国をむやみに挑発し、使節を殺し商人を略し、四方と交戦す。東胡の無状(非礼)
を憤り、漢族の職を得られぬのを、落涙して曰く:余すでに而立するも、なお戎狄の服を被り、咫尺も違わぬに剪除できぬは余の罪なり。薦紳束髪(かつての漢族の服装)して以て近古に復さんとするも、日すでに給せず。衣もまた得られぬ。そこで曰く:昔祁班孫、
釈隠玄、皆、明の遺老を以て断髪し歿す。「春秋穀梁伝」に曰く:「呉祝発」「漢書」「厳助伝」に曰く:「越劗(きる)髪」と(晋灼曰く:劗は張揖、古くは剪の字也)余呉越の民のゆえに之を去るも亦猶古の道を行う也…』
 これは木刻初版と排印再版の「訄書」に見えるが、後に更定を経て「検論」と改名された時削除された。私が辮髪を切ったのは私が越人だからでなく、越人は古い昔「断髪文身」
したことから、今特にこれに倣い、先民の儀礼規則をまねたのみ。いささかも革命性は無い。要するに不便だからである:第一脱帽に不便、次に体操に不便、三番目は頭上に巻くのがとてもうっとうしいからだ。
 事実としては辮髪を切った者も帰国後はまた黙って伸ばし、二心の無い臣と化した者も多かった。黄興は東京で師範学校の学生だったとき、断髪はしなかったし、革命を大いに叫ぶこともなかった。彼の楚人としての反抗的蛮性を少し表したのは、日本の学生監督が
中国人学生の裸を禁じたのを、わざと上半身裸で、ホーローの洗面器を手に、浴室から中庭を通って、ゆうゆうと自修室に戻ったことだけだ。
 
訳者雑感:太炎先生とは章炳麟の字。彼が辛亥革命前後に書いた攻撃的な文章をその後の
「章氏叢書」で削除してしまったことを、大きな損失で欺かれているものだと指摘する。
青年時代、東京で師と仰いだ人の晩年になって清儒の仲間入りをして、後世に名を残そうとする人の行為を、大きな損失でそうすることは「古い儒教の呪縛」に欺かれているのだと断じている。言ってみれば章氏は「転向」したわけだ。革命派から古典的儒学派へ。
 最後の段で、魯迅本人は別段革命性があって辮髪を切ったわけじゃなく、ただ不便だから切ったまでだと書いている。しかし彼は帰国後、上海で2元のニセ辮髪を買っている。
その一方で、多くの革命を叫んで辮髪を切った連中も、帰国後は黙ってまた伸ばした、と。
二心の無いことを証明するために。そうなのだ、清朝政府に雇ってもらうためには辮髪無しでは不可能だったから。
 それにしても、末筆で突如黄興に触れて、辮髪も切らなかったし革命を叫びもしなかった。ただ監督の言うことに反発して裸で中庭を歩いただけ、というのは何を示唆するのか。
    2011/12/21訳
 
 
 
 

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太炎先生について二三のこと

 少し前、上海のお上と紳士たちが太炎先生の追悼会を開いたが、参加したのは百名に満たず、寂漠のなかで閉幕したので、一部の人は、青年たちは自国の学者に対して、外国のゴーリキーへのような熱い思いに及ばずと慨嘆した。これは実は当を得ていない。お上と紳士の集会にはこれまで小市民は参加しようとせず、それにゴーリキーは闘争の作家だが、
太炎先生は最初は革命家として活躍されたが、後に静かな学者になり、自らの手と人の助けを借りて壁を造り時代と隔絶してしまった。祈念したい人は当然いるが、多くからは忘れ去られた。
 先生の業績は革命史上に残るが、実際それは学術史上より大きいと思う。30余年前を回顧すると、木版の「訄書」(きゅうしょ:初期学術論著作)が出されて、懸命に読んだが、句読点すら付けられず、多分当時の青年の多くは皆同じだったろう。中国に太炎先生がいるのを知ったのは彼の経学と小学(文字関係)のためでなく、彼が康有為を駁斥し鄒容の
「革命軍」に序を書いたためで、そのために上海の西牢に監禁されたためだ。当時日本に留学中の浙江籍の学生は(雑誌)「浙江潮」を発行し、そこに先生が獄中で書いた詩を載せたが、その詩は難しくなかった。これが私を感動させ、今も忘れない。ここに二首を写す。
  獄中 鄒容に贈る                                                           
  鄒容 吾弟、有髪で瀛州に下り、快く剪刀で辮髪を除き、干した牛肉で餱(ほしい)を作る。英雄入獄するや 天地亦悲秋、 命に臨み手で支うべきは乾坤只両頭。
 
  獄中 沈禹希の殺さるを聞く
  久しく沈君を見ず、 江潮 隠に淪ずを知る(沈む)。
  粛々 壮士を悲しみ、今 易京の門に在り。
  魑魅(ちみ)は争焔を羞じ、 文章は総じて断魂。
  中陰 当(まさに)我を待ち、 南北は幾つもの新墳。
 1906年6月出獄、即日本に渡り東京に着くや暫くして「民報」を主持。私はこの「民報」
を愛読したが、先生の文筆の古奥のためでなく、解釈も難しく、或いは仏法を説き「倶分
進化」を講じ、保皇を主張する梁啓超との闘争、「XX」のXX闘争、「紅楼夢」を成仏への
要道」とするXXX闘争、まことに向かうところの草をなぎ倒し、読むものをはつらつとさせ、意気を旺盛にさせた。聴講したのもこの頃だったが、学者だからではなく、学問のある革命家だからであった。
 従って今でも先生の声形笑顔は目に浮かぶが、講義された「説文解字」は一句も覚えていない。
 民国革命後、先生の志は達せられ、大いに為す所あるはずだったが、志を得られずに終わってしまった。これもゴーリキーが生きて崇敬を受け、死して哀悼されたのとまったく異なる。二人の遭遇が異なる由縁の原因はやはりゴーリキーのそれまでの理想が後にすべて実現し、彼の一身は大衆と一体となり、喜怒哀楽すべて相通じたが:先生は排満の志は
大いに伸べられたが、最も緊要なことは「まず第一に宗教的信心を発起し、国民的道徳を増進すること:第二は国粋で民族性を激動させ、愛国の熱腸を増進させる」(「民報」第6)
にあり、僅かな高妙な幻想に止まったこと:暫くして袁世凱が国を奪い、私下から、更に
先生は実地を失い,空文を垂れるのみとなり、今となってはただ我々の「中華民国」の呼称は先生の「中華民国解」に源を発すのが(これも「民報」にあり)巨大な記念となるのみで、これを知る人ももう多くないだろう。
 民衆から離れ、だんだんすたれ去り、後に投壺(宴会の遊び)に参じ贈答品を受け、遂に論者の不満の対象となった。これも玉にきずに過ぎず、晩節を穢したわけではない。
 其の生涯を顧みるに、大勲章を扇の柄飾りとし、総統府の門に臨んで、袁世凱の悪企みを大いになじった第一人者で:七度捕まり、三回(実は二回:出版社)入獄させられたが、
不撓不屈な革命への志は彼に及ぶもの無し:これぞ先哲の精神で、後生の模範だ。近頃、
売文の輩が小新聞と結託し、先生を誹謗する文を得意になって載せているが、これは実に
「小人は人の美を成すを欲せず」で、「羽蟻が大樹を揺らそうとするが如き、身の程知らず、
笑止千万だ!」
 しかし革命後、先生は徐々に後世に示すために、自らその鋭い舌鋒を仕舞われた。浙江で印刷した「章氏叢書」は手ずから編されたが、敵の間違いを暴くとか、怒り罵倒した物は大抵、古(いにしえ)の儒風にたがうとして、多くの人から謗りを受けると思われたか、
以前の刊行物に載せられた闘争の文章の多くは落とされたし、上述の二首も「詩録」に無い。
 1933年の北京版「章氏叢書続編」は所収品も少なく、更に純粋謹厳でかつ旧作は取らず、
当然ながら闘争の作品も無く、先生はついに身に学術の華やかな衣をまとい、純粋の儒の大家となって、贅(ニエ)を執って弟子になりたいと思う者はとても多くなり、倉皇と
「同門録」まで作られた。最近の新聞に版権保護の広告が出、三つめの続叢書の記事があり、遺された著作の出版計画があることが判るが、以前の戦闘的文章を補すかどうかは、知るすべもない。戦闘的文章は先生の生涯で最大級かつ最も永久的業績で、もしそれを入れる備えが無いというのなら、私は一つ一つ集録印刷して先生と後生たちを相い印せしめ、
戦闘者の心に活かすべきと思う。然し今この時に際し、そう望んでも実現できぬかもしれぬ! 嗚呼!          
                    10月9日
 
訳者雑感:最後の段は、墓銘碑のように感じる。章家は魯迅に墓銘碑を書いてくれとは依頼しなかったろう。儒の大家として後世に名を残そうとしたのはどういう経緯からだろうか。排満には成功してもその後の袁世凱あたりまでは罵り続けてきたが、投壺という古代の宴会遊びや贈答品を受けるようになったのは、多くの文人学者が家族やその取り巻きからの「出世栄達、将来の子孫繁栄」のため、或いは「自分の今の心地良い生活」を維持するためだったかもしれない。軍閥政府とか日本の傀儡政府などで高官の職に就き、それで
なんとか自分一家と周囲に安寧な暮らしをさせながら、生きていこうと決めたのだろう。
魯迅の弟、周作人も同じく、日本人妻と共に傀儡政府の北京での「心地よい暮らし」を
棄てきれず、傀儡政府に出仕して協力し、戦後共産党政府から奸漢とされてしまった。
一方の魯迅は、軍閥政府からにらまれ、逮捕されそうにまでなった結果、北京を脱出せざるを得ず、南方に逃げて、罵る生活を続けた。そして罵った相手から罵り返されたが、それを雑文のネタにして生計を立てた。
      2011/12/17訳

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