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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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文人比較学

文人比較学
「国聞週報」12巻43号に「国学珍本叢書」の中の引用記号の誤用と句読点の間違いを指摘した文章があり:46号で「主編」の施蟄存氏がそれに答えて認めたのは「自分の生計の為にした」もので、「子孫の福の為」ではなく、認めるべきは認め、弁解すべきは弁解した態度は磊落であった。最後に総弁解で:
 『失敗して面目ないことだが、大罪を犯したとは言えぬ。軽率な本を出しただけで「自分の生計の為」で、他の一部の文人の様に人の魂や血肉を売った訳ではない』

 中国の文人には2種類の人がおり、一つは「軽率な本を出しただけの人」で、もう一つは「他の人の魂や血肉を売って、自己の生計に当てる人」で、我々は只「他の一部の文人」のことを思えば、施氏は「大罪を犯した」とは言えぬだけであるが、その実「子孫の福」を謀ったと言える。
 だが別の面でも「租界の悪ガキ」の顔付きを生々しく描きだした訳で――これも「他の一部の文人の様に」、「何も大罪を犯したのではない」

訳者雑感:
 11月22日の報道で、やしきたかじん氏の長女(41歳)が彼の事を取り上げた「殉愛」という本の著者百田尚樹氏に対して、彼女の父親への思いと名誉が傷つけられたとして出版差し止めと千百万円の損害賠償を提訴した。
 再婚した33歳の妻の話として長女がお金を無心に来たとか、それを他の親族に確認しなかった云々ということだそうである。
 これは彼が「自己の生計」の為に謀ったことで、「大罪を犯した」わけではない、と弁解するのだろうか?
 安倍首相のアドヴァイザー的な役割を担いながら、こんな内容の本を25万部も刷ったそうだが、この文人は魯迅のいう2種類の文人のいずれに相当するだろうか。それ以下の分類は無いのかな。
    2014/11/22記

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曹靖華訳「ソ連作家七人集」序

曹靖華訳「ソ連作家七人集」序
 かつてこういう時代があった。数名の名士が「資本論」を訳すと宣伝し、無論原文からだが、その中の一人は英仏日露の訳文も参照するといった。それから満6年経つが、一章も発表されず、こう言う事業の難しさが分かる。ソ連の文学作品も、当時は大変熱心で、英訳の短編小説集が上海に着くと、羊の肩肉を狼の群れに投げたように食いちぎられ、「空飛ぶアシプ」とか「飛ぶオセプ」とかに訳され:2冊目の「蔚藍城」の英訳が輸入された時、志士たちはもう熱心さが薄れ、ある人たちはとうに「イワン」「ピョートル」は「イ―ピン」とか「ハッソー」(麻雀用語)より面白いとは感じなくなった。
 しかしその頃一緒に騒がなかった人たちは、当時は後れていたようだが、一緒に騒がなかったので、後に中堅となった。靖華はそのころ一声も発せず、丹念に翻訳した一人だった。20年来ロシア語を勉強し黙々と「三姉妹」や「白茶」「煙袋」「四十一」「鉄の流れ」など少なからざる短編の単行本を出した。だが宣伝を余りしなかったので、これまで名声も聞こえず、押しのけられてきて、2か所で封鎖された。が、彼は丹念に以前の訳を改訂し、彼の翻訳は読者の心に生きている。これは無論、自称「革命作家」たちのいい加減なせいでもあるが、堅実な人はついに大きな成果を挙げ、その多くは中国の読書界に畢竟の進歩をもたらした。読者は自ら確かな批判精神を持ち、二度とうわべだけの連中に騙されることはなくなった。
靖華は未名社の一員で:未名社はこれまで北京で設立されて活動してきた、落ち着いた小さな団体だが、やはり理由も無く禍に遭い、それもとてもおかしな事でだが、一度閉鎖され、理由は山東督軍張宗昌の電報で、問題を起こしたのは同行の文人だった由で:後に何もないと判明し再開できた。他者に譲渡後は靖華訳の2つの小説は台静農家に積まれていたが、「新式爆弾」と一緒に没収され、後にこの「新式爆弾」は単なる化粧品製造器にすぎぬと証明されたが、やはり本は発行できぬままで、この2つは世間の珍本となった。私の「吶喊」が天津図書館で焚毀されたため、梁実秋教授は青島大学の図書館を管掌していた時、私の訳書を駆除し、未名社もとばっちりを受けた。私はその時、北方の役人のやり方は南方より厳しいと感じ、元朝が奴隷を四等に分け、北人を南人の上に置いたのは故なきに非ずだと思った。後に梁教授は北にいるが実は南人と知り、また靖華の小説も南方(上海)で出版しようとしたが、長い間止めおかれたので、私の結論も正しくないことが分かった。これも所謂「学問に終わりは無い」譬えだ。
閑話休題、だが、現在すでに出版の機会を得たのは当然の結果だ。本題に戻すと:この本は2つの短編小説集を合冊したもので、2篇を外し、3篇を加えたので篇数は増減あり。題材は多くが20年前の物なので、水閘の建設や集団農場は無い。だがソ連に置いては全て生命を保っている作品で、我々中国人からみても、みな味わい深い文章である。訳者の原語の学力の充実さと訳文の信頼性は読書界で早くから定評あり、私が付け加えることは何も無い。
靖華は私を嫌う事無く、出版に際し、序を求めてきた。私は久しく患っていたので、体力も衰え疲れ、余り上手く書けぬが、以上を以て責めを塞ぐこととする。然し、靖華の翻訳は序など付ける必要はない。今後また以前の様に黙々と中国の読者に有益なものとなるのは疑いない。私はこの機会を得て、文章を書けたのは幸いで、快事であった。
 1936年10月16日 魯迅 上海且介亭の東南角にて記す。
 
訳者雑感:この序を書いた3日後に魯迅は亡くなった。靖華が魯迅を嫌うことなく、序を書いて欲しいと頼んできた。これに対してこういう文章を書けたことが幸いで、快事であった、と記したのが印象に残る。
 中国の翻訳作品は、なべていうとやや杜撰なものが多く、促成栽培で書店の販売目的に沿って、余り推敲もされずに出版されたものが多かった。逆にこの作品のように、長年積んだままにされていたのが、合冊して改めて出版されることになった。このことに対して死の3日前に序を書けたことが幸いであった。
心よりうれしく愉快に感じたのだろう。
      2014/11/21記

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「吶喊」チェコ翻訳本の序言

「吶喊」チェコ翻訳本の序言
 世界大戦後、新興国家が沢山出現した時、我々は非常に喜んだのを覚えている。我々も同じように圧迫され、それにあらがってきた人民だからだ。チェコが興り、当然我々は大いに喜んだ:しかし不思議な事だが、我々はとても疎遠で、私など一人のチェコ人も知らないし、チェコの本も見たことが無く、数年前上海の店でチェコのボヘミアガラスを見たきりだ。
 我々は互いに相手の事を余り知っていないようだ。しかし現在の一般状況からみると、決して悪いことではない。現在各国が互いに忘れがたいというのは、必ずしも交情がとても素晴らしいからとは限らぬからだ。無論、人類は一番良いのは、互いに隔たりが無く、互いに関心を持つことである。最も平らで正しい道はといえば、文芸で通じ合う事だが、残念ながらこの道を歩む人は少ない。
 思いがけぬ事に、訳者は最初にこの任務を試そうという光栄を得、私の物も加えられた。私の作品はこれによってチェコの読者の目の前に展開され、私にとって、実に他の広範な言語に訳されるより更にうれしいことである。思うに、我々両国は、民族は異なり、遠く離れており、往来も少ないが、互いに理解し合うことができ、接近できる。我々はかつて苦難の道を歩んで来、今もまだ歩んでいる――光明を探しもとめて。
    1936年7月21日 魯迅

訳者雑感:魯迅は東欧の被圧迫民族の作品を多く翻訳している。それは彼らが清国末の中国人と同じように列強から圧迫され苦難の道を歩んでいたからだ。それをどのように文芸作品にして自国民に伝えるか、それが彼の出発点であった。今1936年、彼の死の数か月前に、チェコ語に翻訳されると聞いて、彼はとても喜んだことだろう。英仏などの言葉には早くに翻訳されていたが、チェコ語にも翻訳されるということが、それにもまして彼をうれしがらせたのだ。
今、上海か北京の魯迅館に各国語の翻訳本が展示されている。しかし、新華書店のコーナーには魯迅の作品の占めるスペースは段々狭くなっている。
      2014/10/30記
    

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「出関」の“関”

「出関」の“関”
 私の歴史小品「出関」が「海燕」に発表されると多くの批評が出たが、大抵は「読後感」と謙遜していた。それである人が:「これは作者の名声のせいだ」と言った。その通りだろう。今多くの新しい作家が努力して書いた物は、こうした評論家には注目されず、偶々読者が見つけて1-2千部売れると「名利共に得た」とか「そんな早く帰ってくるべきではなかった」とか「ぶつ草」言われ、群がって叩き、まだ元気があるのを怖れ、今後は一声も発せられぬ程叩いて、天下太平、文壇万歳と思っている。が、別の面では慷慨激昂の士も現れ、指を突き出して大声で叫ぶ:「我々の中国に、半個のトルストイでもいるのか?」「半個のゲーテでもいるのか?」残念ながら、存在しない。だがそんな激昂する必要もない。地殻が凝固してから、徐々に生物が生まれ、現在に至るまで、ロシアとドイツには只一人しかトルストイやゲーテはでていないのだから。
 我々はそうした打撃や恫喝に遭わなかったのは幸いだった。しかし今回これまで評論家に対してとって来た緘黙の旧例を破り、少し意見を言いたい。これも他意は無い。只評論家は作品から作者を批判する権利を持っているし、作者も批評から評論家を批判する権利があり、それを言うのは構わないと思うから。
 全て批評には2種類あるとみる。私のもともと小さな作品を更に矮小化し、封じ込めようとしているもの。
 一種は「出関」は某氏を攻撃していると考えている。この種の話は友だちと閑談する時、勝手気ままな笑い話をする時には問題無いが、文字にして読者に示し、自分ではそれがこの作品の胆だと考えているとなると、それは井戸端の上さんたちのようになるのを免れぬ。彼女たちはひとのゴシップを知ったり聞いたりするのが好きなだけだから。不幸にして私のあの「出関」はこの種の人の口には合わぬから、タブレット紙に:「これは傅東華を風刺したようだが、そうではないかもしれぬ」と評された。「そうではないかも」であれば、「傅東華を風刺」したのではないこととなり、これは他の点から見るべきではなかろうか?しかしそれでは何の意味もなくなり、実際「傅東華を風刺」してこそ意味があるのだ。
 こう言う見方をする人は多く、「阿Q正伝」を書いている時の頃、小物政客や下っ端役人が怒り狂って、自分の事を風刺していると騒ぎだしたが、阿Qのモデルが他の小さな町で賃仕事の米つきをしているのを何も知らないのだ。小説では実際に甲某とか乙某はいないだろうか?いや実はそんなことはない。もしいなければ小説にならない。たとえ妖怪を書こうが、孫悟空が一度トンボを切れば、十万八千里を飛び、猪八戒が高老荘に婿入りでも、人間社会の中に誰か彼らと精神的に似ている者がいないわけではない。誰かが似ていて、無意識の内にそれを取り出してモデルとしているのだが、無意識だから誰かが本の中の誰かに似ていると言うだけの事だ。古人は早くから小説を書くのにモデルを使う事をおぼえ、ノートにメモし、施耐庵なら――とりあえずここでは彼が実在したとして――画家に108人の梁山泊の好漢を描いてもらい、壁に貼って各人の顔付き、感情を考え出し、「水滸」を完成させる。が、この作者は文人だから文人の技両には詳しいが、画家の能力は知らぬから、彼は空(くう)から創造できると考え、モデルを手本にするには及ばぬと思っている。
 作家がモデルを使うのは2つの方法がある。一つは専ら一人で、言行挙動は言うまでも無く、微細なクセ、服装のスタイルまで変えない。これは割合簡単だが、作品中で憎むべきとか滑稽な人物だと、今の中国では大抵、作者の個人的な怨みを晴らしているのだと看做され――「個人主義」とされ「聯合戦線」を壊すという罪を着せられ、それ以降は身を持すのも難しくなる。二つ目は色んな人を合成し、作者と関係がありそうな人を探そうとしても、ぴったりとして人は発券できぬ。が、「色んな人を合成する」のでどこかが似ている人は更に増え、より広範な人から怨みを招くことになる。私はこれまで、後者をとったが、当初はある人を怒らす事は無いと思っていたが、後になって何人かを怒らすということが分かり「後悔先に立たず」だったが、先に立たず故、悔まなかった。況やこの方法は中国人の慣習に会い、画家が人物画を描く時、静かに黙して観察し、心に何かが熟してくると精神を集中して一気に描き、これまで一人のモデルを使うことは無かった。
 しかし私はここで、傅東華氏がモデルにならないと言っているのではなく、彼は小説の中に入れば、ある種の人物を代表する資格はあり:この資格について些かも軽視するつもりは無い。というのも、世間には小説の人物になれぬ人は沢山いるから。然したとえ誰かがそっくりそのまま小説の中に入ったとしても、作者の手腕が高く、長く伝わるようなら、読者の目にする人は只作中の人で、実際にいる人とは関係は無い。例えば「紅楼夢」の賈宝玉のモデルは作者自身の曹霑で、「儒林外史」の馬二氏のモデルは馮執中で、今我々が思いだすのは賈宝玉と馬二氏だけだが、専門の学者、例えば胡適氏あたりは、曹霑と馮執中を忘れずにいて:これ即ち、人生は短しされど芸術は長し、であろう。
 もう一つ「出関」は作者自身を比しているという見方で、作者自身を比すというならどうしても身を上位に置くから、私が老子だとなる。最もひどいのは、邱韻鐸氏(創造社の主任)で――
 「…読了後、脳に残った影は、心身ともに孤独に浸かりきった老人だった。読者はこれで作者と共に孤独と悲哀に落ち込むのではと痛感した。そうであれば、この小説の意義は形も無く弱まり、魯迅氏と彼のような作家たちの本意はここには無いと信じているが…」(「毎週文学」の「海燕読後記」)
 こうなるとただ事ではない。多くの人が皆「孤独と悲哀に落ち込む」し、前面の老子と黒牛の尻の後の作者、更に「魯迅氏と同じような作家たち、そして多くの読者まで、邱韻鐸氏を含め、蜂の巣をつついたように「出関」してしまう。が、もしそうであれば、老子は「心身とも孤独感にさいなまされた老人の影」ではなくなる。彼はもう出関しないで、上海に戻って我々にご馳走してくれ、題を出して文章を募集し、道徳(経)の5百万言を作ると思う。
 だから今私は関の入口に立って、老子の黒牛の尻の後から「魯迅氏と同じような作家たち」と多くの読者、邱韻鐸氏を含め、皆を引きとどめたいと思う。まず「孤独と悲哀に落ち込」まないようにし、「本意はそこにはない」のだから、邱氏もとうにご存知だが、そこでは触れてないので、多分そこでは目にみえないからだ。もし前者なら真に「この小説の意義は知らぬ間に弱まってしまう」もし後者なら私の文章がへたで、明確に「本意」を伝えられなかった為だ。今少し略述して、2か月前の「脳に残った影」を除去させてもらおう――
 老子が函谷関を西に出たのは、孔子から言われた言葉のせいだと言うのは、私の発見とか創造ではなく、30年前東京で、(章)太炎氏から聞いた物で、後に彼は「諸子学略説」に書いているが、私もそれが確かな事実とは信じていない。孔子と老子の争いについては、孔が勝ち、老が負けたというのは私の意見だが:
老は柔を尚び:「儒者は柔也」で孔も柔を尚ぶ。だが孔は柔を以て進取するが、老は柔を以て退歩する。この鍵は孔子は「そのなすべからざるを知って、これをなす」で、事の大小にかかわらず、均しく放置しない実行者で、老はすなわち「無為にしてなさざるなし」で何もしない。いたずらに大言を発した空談家だ。なさざるところなしなら、なす所、何も無し、で行くほかない。なす所が一つでもあるなら、限界ができ「なさざる無し」とは言えぬからである。私は関尹子(老子の弟子で関の役人)の嘲笑に同意する:彼は女房すら持てなかったから。それで漫画化し、彼を関から送り出したのは、何も惜しくないが、図らずも邱氏にこんなひどい批判をされてしまったが、思うにこれはきっと私の漫画化が不十分なためで、もし彼の鼻に(道化役者のように)白粉を塗ったりすると、只単に「この小説の意義が知らぬ間に弱まってしまう」だけではすまなくなるから、こうするしかなかったわけだ。
 再び邱韻鐸氏の独白を引くと――
「…更に彼らはきっと引き続いて心力と筆力を運用し、社会変革に有利なように傾注し、凡そ有利な力はすべて結集強化させ、同時に凡そ有利となる可能性のある力を有利な力に転じ、連携して以て巨大無比な力を結成すると信じる」
 一つは為して「巨大無比な力となす」とし、わずかに「無為にして為さざるなし」に一等次ぐのみ。私「たち」にはこの種の玄妙な本領は無いが、私「たち」と邱氏の違いはここにあり、私「たち」は孤独と悲哀に落ち込まないが、邱氏は「本当に読者は孤独と悲哀に落ち込む」と感じる鍵はここにある。彼は老子に有利な気持ちを抱き、「巨大無比」な抽象的なもので封印するを禁じ得ず、私の老子には利のない具象的な作品を封じ込めたのだ。だが私は疑わしく思う:
邱韻鐸氏及び邱韻鐸氏のような作家たちの本意は多分ただここにあるに過ぎぬ。
      4月30日

訳者雑感:これは「出関」という老子の行為の意味とその後の各時代の解釈を十分研究しないと理解できない問題だ。
一つ言えることは、儒教とか礼教を起こした儒学の徒が尊崇する孔子を、魯迅はこれまで批判否定してきた面が強かったが、老子との対比では、進取であったとして、退歩の老子より優れているとしている点だ。
        2014/10/28記

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三月の租界

三月の租界
 今年一月、田軍が小品を発表した。題は「大連丸にて」で、1年余り前、彼ら夫婦がどのようにして棘の地であった大連から逃れてきたかであった――
「翌日我々はまず青島の緑なす山嶺を見て、我々の心は初めて凍りついた状態からうごめき始めた。
「おおー祖国よ!」
「夢ではないかと叫んだ!」
 彼らの「祖国」への帰国は、随員なら誰も話せない。剿匪なら勿論誰も話せない、が彼らはやっと「八月の郷村」を出版しただけだ。これで文壇と関係が生じた。それでは「凍りついた状態からうごめき始め」ることとしよう。
三月に「ある人」が上海の租界で冷淡に発言した――
「田軍はこんな早々と東北から戻るべきではなかった!」
誰が言ったのか?即ち「ある人」だ。なぜ?この「八月の郷村」は「少し真実でない面があるから」だ。然し私に伝わって来たのは「真実」だった。「大晩報」副刊「火炬」の奇怪で小さい光、「週刊文壇」の狄克氏の文章が証だ――
「八月の郷村」は全体が史詩だが、一部に真実でない点があり、人民革命軍が郷村に進攻した後の状況は真実と言えない。ある人は私にこう語った:「田軍は早々と東北から帰るべきではなかった。田軍がもっと長い間いて学ぶ必要があると感じ、自らを更に豊富にすることができれば、この作品は更に良くなっただろう。技巧的、内容的にも種々問題あり誰もなぜ指摘しないのか?」と。
 こう言う事は勿論間違いとは言えない。「ある人」がゴーリキーが早々に波止場人夫を辞めるべきではなかった:でなければもっと良いものになった、と言ったら、或いはKisch(チェコの報告文学家)は早々に国外に逃亡すべきではなかった。ヒットラーの集中キャンプに入れられていたら、彼の将来の報告文学は更に希望が持てた。誰かこんなことを論争したら、それは低能児だ。然るに三月の租界は幾つか付け加える必要があり、というのも我々はまだ十分に「自己を豊富にして」いないからである。低能児にならないですむ幸福な時だから。
 こういう時、人はすぐ性急になる。例えば、田軍が早く小説を書き出したら「真実らしくなく」狄克氏は「ある人」の話しを聞いたらすぐ同意し、他の人が「種々の問題」を指摘せぬのを責め、「自己を豊富にして後」まで待てないし、再び「正確な批評」をするだろう。が私はこれは間違いと思うし、我々は投槍があれば投げるし、必ずしも出来たばかりの戦車、或いは正に造ろうとしている戦車と焼夷弾を待つ必要は無い。残念ながらこうなると田軍も「早々に東北から帰るべきではなかった」の問題も無くなる。立論も穏当にというのも容易なことではない。
 況や、狄克氏の文章では、「真実」を知ろうとするも、どうやら久しく東北に留まるべきでもなさそうで、この「ある人」と狄克氏は多分租界に居て、田軍より晩く来たのではなく、東北で学んで、彼らは真実かどうか知っている。それで更に作家を進歩させようとするなら「正確」な批評に頼る必要は無い。何となれば、誰も「八月の郷村」の技巧的、内容的な「種々の問題」を指摘する前に、狄克氏もすでに断言し:「私は現在ある人が書いており、或いは<八月の郷村>より良い作品を書く準備をしていると信じている。読者が求めているから!」と。
 ここで戦車が正に来たとしていても、或いは来ようとしていたとしても、その前に投槍を折るのは構わない。
 ここで狄克氏の文の題を補記すべきで、それは:「我々は自己批判しよう」だ。
 題は力強い。作者はそれが「自己批判」とは言っていないが「八月の郷村」を抹殺した「自己批判」の任務を実行し、彼が希望している正式な「自己批判」を発表した時、始めてその任務を解除し「八月の郷村」もきっと活気が出て来るだろう。この種の曖昧に首を振るのは、十大罪状を列挙するより相手に有害で、更に条款を列挙する曖昧な指摘は、涯のない悪を思わせる。
 当然、狄克氏の「自己批判しよう」というのはよかれとの気持ちからで「そういう作家は我々のもの」だからである。だが同時に「我々」以外の「彼ら」を忘れてはならず、専ら「我々」の内なる「彼ら」に対してというのはダメだ。批判するなら互いに批判し、長所短所を併せて指摘すべきだ。もし「我々」と「彼ら」の文壇で、単に「正確さ」や公平さを顕かにするよう自ら求めるなら、実際は「彼ら」にこびたり、投降するものだ。
   4月16日

訳者雑感:三月の租界の文壇の「新人作家」たる田軍への批判に対する反駁だと思うが、魯迅は自分が支援・育成したいと思う新人を大切に、大切に考えた。そういう新人を手ひどく批判し、抹殺しようという古参連中に辛辣な反論を加えている。もっと東北(旧満州)に残って、より力強い作品を出せ、というような「ない物ねだり」をやめ、現在出来ることをやるべし、と。
       2014/10/19記

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深夜に記す続の続

深夜に記す続の続
4.もう一つの童話
 その朝から21日後、拘留所で尋問開始。陰暗な小部屋の上手に2人の役人が東西に坐っている。東のは馬褂(清朝時代の服装)で西のは洋服。世の中に人を喰うことなど信じない楽天派で、口述を記録す。警官は怒鳴りながら汚れた服で青白い顔の18才の学生を引っぱってきて下手に立たせた。馬褂は名前年齢本籍を訊いた後、また尋ねた。
「お前は木刻研究会の会員か?」
「はい」
「会長は誰だ?」
「Ch…が正で、H…が副です」
「彼らは今どこだ?」
「彼らは退学させられたので知らない」
「学校でなぜ騒ぎを起こしたのか?」
「えー!」青年は驚いて叫んだ。
「ふん!」馬褂は手元の木刻肖像を出して、「これはお前が彫ったのか?」
「はい」
「誰を彫ったのだ?」
「文学者です」
「何て名だ?」
「ルナチャルスキー」
「文学者?――どこの国の?」
「知りません!」青年は命が惜しいので嘘をついた。
「知らないだと。嘘だ!ロシア人じゃないか?ロシアの赤軍の将校じゃないか?ロシア革命史で彼の写真をこの目で見た!貴さま、しらを切る気か!」
「そんな……」青年は頭に鉄鎚を一撃された様に絶望的に叫んだ。
「当たり前だ。お前はプロレタリア芸術家で、彫ったのは赤軍の将校にちがいあるまい」
「そんな馬鹿な、全く違います…」
「強弁するな、お前は‘頑迷で非を悟らぬ’!」お前が拘留所で苦しんでいるのを知っている。お前がほんとの事を言って、裁判所で判決を出して貰えるようにするのだ、――監獄はここより楽だぞ」
青年は何も答えなかった――言っても言わなくても同じなのを知っていた。
「答えろ」馬褂は冷笑して「お前はCPかCYか?」(共産党と共産青年)
「どちらでもない。そんなこと何も知らない!」
「赤軍の将校は彫れるのに、CP、CYを知らぬだと?」若造のくせにこれほどしたたかとは!失せろ!」そこで手をひと振りすると、物分かりの良い警官が慣れた手つきで青年を引っぱって行った。
 ここまで書いてきて、童話の様ではなくなってしまい申し訳ない。だが童話と言わねば何と言うべきか?特別なのは私が話しているのは1932年のことだ。
    
5.真実の手紙
 「敬愛する先生:
 私が拘留所を出た後の事をお尋ねですので、大略下記します――
 その年の最期の月の最終日、三人はXX省政府により高等法院に送られた。着くとすぐ検査が始まった。この検察官の尋問は変わっていて、3つ訊くだけ。
「名は?」――第一句:
「年齢は?」――第2句:
「本籍は?」――第3句:
 この特別な裁判が終わると、軍の監獄へ送られました。もし支配者の芸術的な手口を知りたいなら、軍の監獄へ行きさえすれば分かります。自分と意見の会わぬ者を虐殺し、民の屠殺の手口は残酷でなければすっきりしないのです。時局が険しくなってくると、所謂重大政治犯をひとまとめにして銃殺します。刑期も何もありません。例えば南昌が危急に陥った時、45分間に22人殺し:福建人民政府が成立した時もたくさん銃殺されました。刑場は獄内の5ム―の菜園で、囚人の死体は菜園の土に埋められ、上に野草を植え、肥料としました。
 2ヶ月半もせぬうちに起訴状がきました。法官は3つ尋問しただけで、どうやって起訴状を作ったのでしょうか?できるのです!原文は手元に無いですけれど思いだせます。法律の第何条かは忘れましたが――
「…Ch,…H…の組織する木刻研究会は共産党の指導を受け、プロレタリア芸術を研究する団体也。被告等は皆当該会員で…その彫った物はみな赤軍の将校と労働飢餓者の情景で、以て階級闘争を鼓舞し、プロレタリア階級専政に日が必ず来ると示唆し。…」
 この後すぐ法廷が開かれ、5人の役人が厳めしく一列に坐っていた。我々は何もうろたえませんでした。その時私の脳裏に一枚の絵が浮かんだ。それはDaumier(フランスの画家)の「法官」で、まさに驚きました!
開廷8日目に判決が出、その罪状は起訴状と同じだが、後半は下記の通り―「その所為は正に民国緊急治罪法第X条に危害を及ぼし、刑法第X百X十条第X款により、各々懲役5年とす。…然し被告らは皆若く無知で岐途を誤ったので、それを情状酌量、XX法第X千X百X十条第X款により2年半に減ず。判決書送付後10日内に不服なら控訴を得…」云々。
 私は「控訴」などできるだろうか?「服役するがよい!これは奴らの法律だから」
 要するに、逮捕から釈放まで3か所、人民を虐殺する屠場を遊歴した。今は彼らが私の首を刎ね無かったことに感謝するほか、更に感謝するのは、私の知らなかった沢山の知識を増やしてくれたこと。刑罰面だけでも中国では今:
1.藤の鞭打ち 2.拷問椅子などでこれらは軽い方 3.棒踏み、犯人を跪つかせ、鉄の太い棒を膝の間に入れ、両端に大男を乗らせ、最初2人、段々増やして8人とする 4.火に焼けた鎖に跪つかす。これは真っ赤に焼けた鉄の鎖を地上に置き、犯人に跪つかす 5.「喰らわす」といわれるもの。鼻から唐がらし水を注ぎ、灯油、酢、焼酎を入れる…6.更には犯人を後ろ手にし、細い麻縄で2本の親指を縛り、高所から吊るして殴る。この名前は知らない。
 最も悲惨なのは、拘留所で同房だった若い農民だ。役人は彼を赤軍の軍長だと言ったが、彼はガンとして認めなかった。それでとうとう、彼らは針を爪の間に刺し、金づちで叩きこんだ。一本叩きこんで認めぬと、2本目、まだ認めぬと3本目。…4本、…ついに十本全部に叩きこんだ。今でもその青年の真っさおになった顔、くぼんだ目、血だらけの両手が常に目に浮かび、忘れられず、私を苦しめます!…
 だが、投獄された理由は出所後初めて分かりました。禍根は我々学生の学校に対する不満にあり、特に訓育主任に対してでしたが、彼は省の党政治情報員で、全学生の不満を鎮圧する為、僅かに残っていた3人の木刻研究会員を逮捕して、示威のための犠牲にしたのです。そしてあのルナチャルスキーをむりやり赤軍将校としたのです。馬褂の役人も彼の義兄で何と都合よく仕組んだものです。
 大略を書き終え頭をあげ、窓の外を見ると青白い月が出ていて、ゾクっとしました。私はそれほど臆病にならぬだけの自信はあったが、私の心は氷のようにゾクっと凍りつきました。…
 ご健康を祈ります!
    人凡。4月4日後半夜
(付記:「一つの童話」の後半から本編末まですべて人凡君の手紙と「獄中記」から引用した。4月7日)

訳者雑感:深夜に記す、というのは当時の暗黒を後世に伝える為に、止むにやまれず書いたものだ。拘留所での自白強要の拷問など、20世紀でも中国の各所で行われていたと…。
     2014/10/15記

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深夜に記す(続)

深夜に記す(続)
3.一つの童話
 2月17日の「DZZ」(ソ連で印刷されたドイツ語新聞)に、ハイネ歿後80年記念で、Bredel作「一つの童話」を見て気にいったのでこの題で書いてみる。
 ある時、こんな国があった。権力者は人民を抑圧していたが、彼らを手強いと感じていた。彼らの表音文字は機関銃のようだし、木版画は戦車のようで:土地は取り上げたけれど、決めた駅で下車できません。地上も歩けず、常に空を飛ばねばなりません。皮膚の抵抗力も弱って来て、緊要なことが起こるとすぐ風邪をひき、大臣たちに伝染し、一斉に発病してしまう。
 何種類かの大きな字典を出したが、実用に適さず、本当の事を知りたいなら、これまで印刷されてこなかった字典を引かねばならない。とても新奇な解釈があり、「解放」は「銃殺」:「トルストイ主義」は「逃亡」:「官」の注には:「大官の親戚友人と奴才」:「城」の注は「学生の出入りを防ぐために築いた高くて堅固なレンガの壁」:「道徳」の注には「女子の腕の露出を禁ず」:「革命」の注は「田地に大洪水を起こし、飛行機で<匪賊>の頭に爆弾を落とす」
 分厚い法律全書を出し、学者を各国に派遣して、現行の法律を調べ、精華を摘出して編纂したから、こんなに完全で精密な法律はどこにもない。だが巻頭は一枚の白紙で、まだ印字されるまえの字典を見た人しかこれを見ることはできません。最初に計3条あり:1.或いは寛大に処し、2.或いは厳格に処し、3.或いは時に全て適用せぬ。
 無論法廷はあるが、白紙に印された字を見たことのある犯人は、開廷時に決して抗弁できません。それというのも、抗弁が好きなのは悪人で、一度弁じれば「厳格に処す」を免れないから。勿論高等法院もあるが、白紙の字を見た人は、決して控訴しません。控訴すれば即「厳格に処」されるからです。
 ある朝、大勢の軍と警官が美術学校を包囲した。校内を洋服と中国服を着た人間が飛びまわり、あちこち探し回り、彼らの後にはピストルを手にした警官がついていた。暫くして、洋服の男が寄宿舎で18才の学生の首をつかんだ。
 「政府の命令により君たちを検査する。ちょっと調べるぞ」
「どうぞ!」青年はベッドの下から行李を引きだした。ここの青年達は長年の経験あり、とても利口で、何も持っていなかった。だが、その学生は18才で引きだしの中から手紙を数件探し出された。きっとその手紙には彼の母親の苦しんで死んだことが書かれていて、焼くに忍びなかった為だろう。洋服の男は丁寧に一字一字読み「…この世は人を喰う筵席で、君の母親は喰われ、世の中の多くの母親も喰われてしまった…」という段で、眉を挙げ、鉛筆でそこに曲線を引き、訊ねた:
 「これは何を言おうとしているのだ?」
 「……」
 「誰がお前の母親を喰ったのだ?世の中、人が人を喰うなんてことがあるのか?我々がお前の母親を喰ったとでも言うのか?よし」彼は眼玉をむき出しにして、まるでそれを鉄砲の弾のように撃ち込もうとしているようでした。
 「そんなこと!そんなことじゃない。それは」
青年はあわてた。
 だが彼は眼玉を飛びだしはせず、手紙を折ってポケットにしまい:その学生の木版と木刻、拓片をとり、「鉄の流れ」「静かなドン」新聞の切り抜きをひとまとめにし、警官に指示した:
 「これらを君に渡す!」
 「こんな物が何か問題あるのですか?持って行くなんて」青年はこれは具合が悪いということを知った。
 だが洋服の男は一瞥しただけで、指を振って他の警官に命じた:
 「こやつを君に渡す」
 警官は虎のように跳ねて、青年の服の背中をつかみ、寄宿舎の門の所まで引っぱって行った。門の外には年恰好の同じくらいの学生が2人いて、背中を大きな手で掴まれていた。周りは大勢の教員と学生がとり囲んでいた。


  訳者雑感:香港には「城」が築かれていないから、学生が自由に中心部を占拠できた。大陸では各所に「城」が築かれ、学生たちが自由に出入りできないようにしている。1930年代に魯迅が引用した「権力者」の字典は今も通用するようだ。不変というか、進歩が無い。嗚呼。
 1国2制度の香港の首長選挙は、どうなるのだろう?今のところ警官とヤクザだけだが、軍が出動してきたら…。天安門事件の再発となるだろうか?世界中が注視している中で、よもや発砲・マル焦げの死体が歩道橋から吊り下げられることはないと思うが。
      2014/10/10記

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深夜に記す

深夜に記す
一。ケーテ・コルヴィッツ教授の版画、中国に入ること。
 地面に紙銭の焼けた灰が山のようにあり、古壁には幾つかの絵が描かれ、通る人がそれに目を向けるとは限らぬが、それはそれぞれある意味が蔵されていて、愛であり、悲哀であり、憤怒、……そしてそれらは往々、叫び声より猛烈である。数人はこの意味が分かるのだ。
 1931年――何月かは忘れたが――創刊後すぐ発禁された「北斗」の第一号に木版画があり、母親が悲しげに眼を閉じ、彼女の子を差し出している。これがケーテ・コルヴィッツの木版連続画「戦争」の一枚目で、題は「犠牲」で彼女の版画が中国に紹介された最初の作品だ。
 この木版は私が寄せたもので、柔石が害された記念であった。彼は私の学生であり、共に外国文芸を紹介し、特に木版が好きで、かつて3冊の欧米作家の作品を編集した。印刷はあまりうまくいかなかったけれど。だがどうした訳か突然逮捕され(上海の刑場)龍華で他の5人の青年作家と共に銃殺された。当時の新聞は一切これを報じず、多分そうする勇気も無く、何も記載されなかったが、多くの人は彼がもうこの世にいないと知っていた。それはよくあることだったから。彼の両眼盲した母だけは、愛する息子はきっと上海で翻訳校正をしていると思っていただろう。偶然ドイツ書店でこの「犠牲」を見、「北斗」に送って私の無言の記念とした。然し後に一部の人が含意に気付いていたと知ったが、彼らは大抵記念しているのは犠牲者全員と思っていた。
 この時、ケーテ・コルヴィッツ教授の版画集はちょうど欧州から中国への途上だったが、上海に着いた時、熱心な紹介者はとうに土中に眠っていて、私はその場所さえ知らない。それならやむなし、私一人で見よう。そこには困窮、疾病、飢餓、死亡…勿論あらがいと闘争もあるが、比較的少ない:これは正しく作者の自画像のように、顔には憎悪を憤怒があるが、それ以上に慈愛と悲しみ、憐憫のあるのと同じだ。これらすべては「辱められ、虐げられた」母の心の図象だ。このような母親は、中国の爪を赤く染めていない田舎にもよくいる。人は往々、彼女を嘲笑って、役立たずの息子を愛すという。彼女たちは役立たずの息子も愛すが、すでに強くたくましい力があれば安心し、「辱められ虐げられている」子供の方に注意を向けるのだ。
 今彼女の作品の復製21枚が証明しており:又中国の芸術を学ぶ青年に次の様なメリットを与えてくれている。
1.この5年来、木刻は大変盛んになった。時に迫害されたが、他の版画は比較的まとまったものとしては、A.Zornに関する物だけだった。今紹介されているのは全て銅刻と石刻で、版画の中にこんな作品があり、油絵の類より普遍的で、なお且つZornとは明確に異なった技法と内容なのが分かる。
2.外国へ行ったことの無い人は、往々白人はすべてキリスト教を説くとか、貿易会社を作り、きれいな服を着、うまい物を食べ、気に障るとすぐ革靴で蹴る連中だと思っている。が、この画集を見れば、世界には実は多くの場所で「辱められ、虐げられている」人がいるのが分かり、我々と同じ仲間で、これらの人々の悲哀のために叫び戦っている芸術家もいることが分かる。
3.今中国の新聞には、大きく口を開いて叫ぶヒットラーの像を好んで載せるのが多いが、それは短い時間に過ぎず、写真で見ると永遠にこの姿勢だと、見る方が疲れてしまう。今、ドイツの芸術家の画集には他の人もいて、見れば見るほど美しいと思わせるものがある。
4.今年は柔石が害されて丸5年。作者の木刻が中国に紹介されて5年目:作者は中国式では70歳。丁度良い記念とすることができる。作者は現在、只沈黙を余儀なくされているが、彼女の作品はさらに多くのものが極東世界に紹介された。そうなのだ。人類の為の芸術は、他の力で阻止することはできない。

二。 誰にも知られず死ぬことについて
 この数日で悟ったのだが、誰にも知られずに死ぬことは人間にとって極めて惨苦なことだ。
 中国では革命前、死刑囚は刑に臨んで、見せしめでまず大通りを引き回され、彼は冤罪だと叫び、役人を罵り、自らの英雄的行為を自慢し、死など怖れないと声に出した。それが悲壮になると見物人は大声で喝采し、その後、人々の口で伝わって広まる。私が若い頃、こうしたことをよく聞き、そういうやり方は野蛮で残酷だと思った。
    最近、林語堂博士編集の「宇宙風」で銖堂氏の文章を見たら、違った見解を述べていた。彼はこのような死刑囚への喝采は、失敗せる英雄への崇拝で、弱きを助け「理想としては嵩高でないとは言えぬが、人々を組織していく上で、止むを得ない。強きを抑え、弱きを助く、とうのは永遠に強者を望まぬという事で、失敗せる英雄を崇拝するのは、成功せる英雄を認めないという事だ」だから「凡そ、古来成功した帝王は、数百年も威力を保持することを欲するが、何万何十万の無辜の民を残害して、一時の服従を得たかもしれぬ」
    何万何十万人を残害して、やっと「一時の服従」を得て「成功した帝王」になるとの考えは実に悲しむべきだが:それより良い方法は無いのだろう。だが私は彼らの為に別に良い方法が無いかなど考えようとは思わない。この事から悟ったのは、死刑囚が処刑の前に群衆に話す事が出来るのは「成功した帝王」の恩恵だという事で、彼がまだ力があると自信を持っている証拠だ。だから彼は豪胆に死刑囚にもしゃべらせ、死に臨んで、自分の誇りをしゃべって陶酔を得させ、皆も彼の最期を知ることができる。私が以前「残酷」だと思っていたのは、的確な判断ではなく、そこには些かの恩恵を含んでいたのだ。友人や学生の死に際して、その日時・場所・処刑の方法を知らないのは、それを知っているより更に悲しく心が動顛する。ここからもう一つ推想すると、密室内で数人の屠夫の手で命を終えるのは、群衆の前で死ぬよりきっと寂莫だと思う。
 然し、「成功した帝王」は秘密裏に人を殺したりしない。彼の秘密は:妻妾との戯れだけだ。だが失敗しそうになると、次の秘密が増える:彼の財産目録と隠し場所だ:更に旗色が悪くなると、第3の秘密に到る:秘密裏に人を殺すのだ。この時彼も銖堂氏と同様、民衆は彼ら自身の好き嫌いがあり、成功・失敗などどうでもいいほど、激しくなるからだ。
 従って、第3の秘密法はだとえ策士の献策が無くとも、いつかは採用しようとし、多分ある所ではすでに採用されている。この時、町内は治まり、民衆は静かになるが、我々は試みに死者の気持ちを推測すると、きっと公開された死よりも惨苦なものとなろう。私は以前ダンテの「神曲」の「地獄」篇まで読んで、作者の想定した残酷さに驚いたが、これまで更に読んでみて、彼はまだ仁に厚いと分かった。彼は現在すでに平常の惨苦となっている誰にも知られずに、殺されると言う地獄を思いつかなかったから。

訳者雑感:文化大革命のころ、北京の大通りをトラックに乗せられ、三角帽子を被らされた「反革命・右派」の人々が「みせしめ」にされていた。あの頃はまだ「力」に自信があって、大衆の前に引き回して処刑したのだろう。最近でも凄まじい汚職事件を起こした首長の処刑がテレビで放映された。こうして公開で処刑される方が、誰も知らない所で秘密裏に処刑されるより「仁」があるというのだろう。魯迅の多くの友人・学生が「力」に「自信の無くなった」政権によって秘密裏に殺された暗黒の時代。嗚呼。
     2014/10/08記

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続記(白莾の詩集序の)

続記(白莾の詩集序の)
 これは3月10日のこと。漢口から知らぬ人の手紙を受け取った。中に白莾と同済学校の同級で、彼の「孩児塔」の遺稿があり、出版しようと思うが、出版社から:私に序を書いてもらうように:との要請あり:原稿はバラバラなので、送らないが、もしご覧になりたいなら別送できる、と。実は白莾の「孩児塔」の原稿は同じ時に受難した数名の人の幾つかの遺稿と共に、すべて私の手元にあり、中には彼親筆の挿絵もあるが、彼の友人の手元に別の初稿もありうる:出版社が序をというのも良くある話だ。
 この2年来、遺著を出版する気風も広まり、雑誌でも死者と生者の合作がよくあるが、これは以前あった所謂「骸骨の片想い」でなく、生者が死者の余光によって「死せる孔明、生ける仲達を走ら」そうとしているのだ。私はこうした生者を余り尊敬しないが、今回は感動した。というのは、ある人が受難、或いは冤罪に問われると、所謂昔からの友人は、何も言わぬのは固よりだが、急いで石をぶつけ、それで自分が勝利者の側にいるのを表明するのも結構多い。だが、遺文を抱いて守り、何年かのちに出版し、亡友への交誼を尽くそうとする者は、寡聞にしてあまり知らない。大病がやっと癒え、起座できるようになり、夜雨がしとしとと降り、愴然と懐うところあり、さっと短文を書きあげ、翌日郵送し、印刷者に累が及ばぬよう、彼の姓名を記さなかった:数日後、又「文学叢報」にも送った。出版が妨害されぬように詩の題名も伏せた。
 数日後、「社会日報」にペテン師の史済行が今度は斉涵之と名を変えたとあった。それで初めてこれは騙されたのだと悟った。漢口からの発信者は正しく斉
涵之だったのだ。今もって原稿をだまし取る古い手を使い、「孩児塔」は出版されないだけでなく、多分初稿もあるとは限らぬ。彼は私が白莾と「孩児塔」の詩集名を知っているというに過ぎない。
 私と史済行の交信はとても古く、8-9年前で私が「語絲」の編集をしていて、創造社と太陽社が連合して私を包囲攻撃してきた時、彼は芸術専門学校生と自称し、手紙を寄こした。投稿の幾つかは当時の所謂革命文学のゴシップで、手紙にはこうした原稿を絶えず送ることができるとある。「語絲」に「ゴシップ覧」は無く、私もこの種の「作家」と往来したくなかったので即座に拒絶した。
 その後、また「彳〒」の変名で私のデマを捏造して雑誌に出し、また「天行」の名で(「語絲」にも同名があるが別人)または「史岩」の名で辞を低くして私の原稿を求めてきたが、相手にしなかった。今回彼が漢口にいるとは聞いていたが、史済行がいるからといって、漢口からの手紙すべてを卑劣者の手口と看做せず、疑い深いのは忠厚な長者から批難されるとはいえ、こんな人にも疑いをかけるまでには至らなかった。はからずも、相手はしたたかで、偶々疑慮せず、友情にほだされたのは私の弱みとなってしまった。
 今日また「漢口」の「人間世」第2号を見たら、巻末に「主編史天行」とあり、次号の予告になんと私の<「孩児塔」序>があった。但しそこには次号から「西北風」に改名するとの知らせあり、となると私の序文は「西北風」第1号に載るはずだ。第2号の第一篇は私の文章で<日訳「中国小説史略」序>だ。 これは元々私が日本語で書いた物で、誰が訳したのか、僅か1頁の短文だが、間違いだらけで通じない。だが前面に一行あり:『本編は元来私が日本語訳「支那小説史」の為に書いた巻頭語で…」と私の語気に似せて、私が自ら訳したようにみせかけている。自分で書いた日本語を訳して間違いだらけとは、とても不思議なことではないか?
 中国はもともと「人を人と見ぬ」ところで、たとえ根拠なく人を誣告し、降参したとか、転向したとか、国賊漢奸だというが、それを世間はおかしいと思っていない。だから史済行のペテンも大したことではないとされる。私がとりわけ言いたいのは、私の序を読んだ「孩児塔」を出版する人は、その望みを撤回できることだ。私が先に欺かれたが、一転私が読者を欺くことになるからだ。
 最後に数句「疑い深い」ことから出した結論を添えます:たとえ本当に漢口から「孩児塔」が出てもその詩は疑わしいこと。従来私は史済行の大事業に何か言うつもりはなかったが、今回すでに序を書き、また発表したから私は現在或いはその時になって、真偽を明らかにする義務と権利がある。
  4月11日

訳者雑感:魯迅の頃には復写機も無かったと思う。それでも彼は自分の書いたものを複数の人に出しており、また原文も手元に置いて、後に出版するための控としたのだろう。官憲の検査もあり、またこの手の原稿詐欺が横行していたのだから、原文を手元に置いておかぬととんでもない冤罪に陥れられる。それにしても、知らぬ他人からの「序」の要請を受けて書いて送ったのは、いかに彼が白莾のことを大切に思っていたかの証である。まるで昨今の息子を語った「おれおれ詐欺」に騙された母親のようだ。
     2014/09/27記

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白莾(モウ)作「孩児塔」の序

白莾(モウ)作「孩児塔」の序

春も半ばを過ぎたがまだ寒い:それに終日の雨がしとしとと降り、深夜一人で坐していると、雨音に凄涼さがつのる。午後遠方から手紙が届き、白莾の遺詩に序文を書いてくれとあり:冒頭に:「我が亡友白莾のことは、貴方もご存じでしょう。……」――これが私をいっそう悲しくさせた。

 白莾なら――間違いなく、知っている。4年前、私は「忘却の為の記念」を書いて彼らを忘れようとした。彼らは義に就いて、もう5年経ち、私の記憶では又多くの新たな血が流された:このことに触れると、彼の若い風貌が目の前に現れ、生きているようで、暑い日に大きな綿入れを着て、顔中脂汗で笑いながら私に言った:「3回目ですが、今回は自分で出てきました。前2回は兄が保釈で出してくれ、出たらすぐ干渉するので、今回は彼に知らせなかった。…」私は前回の文章で誤測したが、この兄こそ徐培根で、航空署長で、道は異なってもつまるところは兄弟であった:彼は徐白といい、普通は殷夫の筆名を使った。

 一人の人間として友情があるなら、そして亡友の遺文は一つの火を灯す如く、なんとかしてそれを流布しようと思う。この気持ちは良く分かり、序文を書く義務があると思う。私が悲しいのは、詩が分からぬ事で、詩人の友だちもいないことだ。いたならばいろいろ話したりしたろうが、白莾とも話したことはない、それは彼の死が早すぎたせいだろう。今、彼の詩についてなにも言えない――できないのだ。

 この「孩児塔」が世に出るのは、現在の他の詩人と一日の長を争うものではなく、別の意義があり。これは東方の微光で、林の中の鏑矢で、冬末の萌芽弟、進軍の第一歩、先駆者の愛の儀仗旗で、踏みにじられた者の憎しみの立派な碑である。全ての所謂円熟・簡潔・静穆・幽遠な作品は、これと比す必要は無い。この詩は新しい世界に属しているから。

 その世界に沢山沢山の人がおり、白莾も彼らの亡友だ。この点だけでも本集の存在を保証するに足り、私の序文など何の必要もない。

       1936311日夜 魯迅 上海且介亭に記す。

 

訳者雑感:詩集の名は白莾の故郷の義塚で、もっぱら死んだ子供を葬る墳墓だという。塔というのは元来、土中に死者を葬った上に立てたもの。義塚は辞書によると、無主の屍骨を葬る墓で、家族や親戚によって葬られるのではなく、その地の誰かが葬るもので、義に就いて殺された白莾たちは国民党政府によって、まさにこの「孩児塔」の中に投げ入れられ、いつどこに葬られたかすら分からない。そんな悲しい事を「忘却する為に」魯迅は文章を書いたのだ。いつどこで葬られたのかすら誰にも告げられずに、投げ入れられた者は……。

     2014/09/23

 

     

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