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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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今春の二つの感想

今春の二つの感想
    11月22日北平輔仁大学での講演
 先週北平に来たのですが、何か青年諸君へのお土産を持参すべきだったですが、バタバタしていて、また同時に何も帯同すべきものもありませんでした。
 最近は上海にいますが、上海は北平と違いまして、上海で感じることは北平では必ずしも感じないでしょう。今日は何も準備してきておりませんから自由にお話ししましょう。
 昨年の東北の事変の詳細は私も少しも知りません。思うに諸君は上海事変についてもそんなに詳しくないでしょう。同じ上海にいても彼と此は知らず、こちらでは命がけで逃れようとしておる一方、あちらでは相変わらず牌打ちは牌を打ち、ダンスするものはダンスしている。
 戦いが始まった時、私は戦火の中にいて、多くの中国青年が捕まるのに自ら遭遇した。捕まったものは、帰ってこなかった。生死も知らず、誰も問わず、そんな状態が久しく続き、中国で捕まった青年たちはどこへ行ったか知らない。東北の事が起こると、上海の多くの抗日団体は、団体ごとにバッジを作った。子のバッジは、日本軍に見つかると死を免れぬ。しかし中国の青年の記憶は良くないので、抗日十人団のように団員全員がバッジを持ち、必ず抗日というのではないが、それを袋に入れておいた。捕まった時には死の証拠とされた。更に学生軍たちがいて毎日訓練していたが、いつの間にか訓練しなくなったが、軍装の写真は残り、訓練者も家に写真を置いたまま忘れていた。日軍に探し出されたら、命を落とすのは必定だ。このような青年が殺されたので、皆は大変不平で、日軍はとても残酷だと思った。その実これは気性が全く違うためで、日人は大変まじめで、中国人は逆にふまじめなためだ。中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように只芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、彼等はきっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必定だ。
 中国は実に不まじめで、何でもすべて同じだ。文字で見られるように、常々ある新しい主義は、以前所謂民族主義の文字がたいへんにぎやかだったが、日本兵が来たらすぐ無くなってしまった。多分、芸術の為の芸術に変わったと思う。中国の政客も今日は財政を談じ、明日は写真について語り、明後日は交通を論じ、最後は忽然念仏を始める。外国は違う。以前欧州に所謂未来派芸術があった。未来派芸術とはよく分からぬものだ。が、見ても分からないのは必ずしも見る者の知識が浅すぎるからではなく、実際、根本的に分からないのだ。文章は本来二種あり:一つは分かるもの。もう一つは分からないもの。分からないと、自分を浅薄と恨むが、それは騙されているのだ。しかし、人は分かるか分からぬかに構わないで――未来派の如く分からぬものは分からぬ、のだが、作者は懸命になってそれを論じる。中国ではこういう例は見ることができぬ。
 もう一つ感じるのは、我々の視野を広くせねばならぬことだが、余り広げすぎても良くない。
 私はその時日本兵が戦をしないのを見て家に戻ったが、突然また緊張し始めた。後に聞いて分かったのは、それは中国の爆竹が引き起こしたとのことで、日本人の意識では、この様な時中国人はきっと全力で中国を救おうとするだろうと考え、中国人がはるか遠くのお月さんを救おうとしているなど、思いもよらぬことだった。
 我々の視野は常々ごくごく身近なところにしか向けず、或いは北極とか天上とか非常に遠い所へ向けて、両者の間の圏については全く注意せぬ。例えば、食べ物だと、最近の菜館は比較的清潔になったが、これは外国の影響で、以前はそうではなかった。某店のシュウマイは非常にうまい、バオズもうまいとか、うまいのは確かにうまいが、皿はひどく汚れていて、食べに来た人は皿を見ることはできず、只バオズとシュウマイを食べることに専念する。食べ物の外側の圏に目をやると、とても難儀な目に会う。
 中国でヒトとなるには、まさにこの様でなくてはならず、でないと生きてゆけぬ。個人主義を講じるとなると、はるか遠い宇宙哲学とか霊魂の死滅か否かを講じることは構わない。だが、社会問題を講じだすと問題が起こる。北平はまだましだが、上海で社会問題を講じると、問題なしでは済まされず、それに霊験あらたかな薬がでてきて、しばしば数え切れぬほどの青年が捕まり、失踪となる。
 文学でも同じで、私小説で苦痛や窮乏とか、女性を愛しているのだが、相手は自分を愛してくれないとかを書く。それはとても妥当なことで、何の乱も起こらない。しかし中国社会の事に話が及び、圧迫や被圧迫の話をすると大変なことになる。だが、遠くのパリロンドン、更には遥か彼方の月や天空のことなら危険は無い。ただ注意せねばならぬは、ロシアの事を口にしないことだ。
 上海の件はもう1年経ち、皆はとうに忘れたようで、牌打ちは打ち、ダンスするものはダンスだ。忘れるのは忘れるしかなく、すべてを覚えていては脳がいっぱいになってしまうだろう。もしこれらを覚えていたら、他のことを覚える暇もなくなろう。しかし一つ大綱は覚えておくことができる。「少しまじめに」「視野を広くしなければだめだが、広げすぎぬこと」だ。これは本来平常なことだ。但し私が明確にこの句を知ったのは、大変多くの命が失われた後だ。多くの歴史の教訓は、みな大きな犠牲と引き換えにもたらされた。物を食べるとしようか。ある種の物は毒があり食べられぬ。今我々は良くなれており問題ない。だがこれは必ず以前に多くの人が食べて死に、それで初めて知ったのだ。思うに初めてカニを食べた人をとても敬服する。勇士でなければ誰が食べようとするだろう?カニは人が食べる。クモもきっと食べた人がいただろう。だがうまくないから、後の人は食べなくなった。こういう人に我々は感謝すべきだ。
 私は一般の人が身辺や地球外の問題だけに注意してないで、社会の実際問題に少し注意するのが良いと思う。
    1932年11月号の「世界日報」に発表

訳者雑感:
 魯迅が指摘している看板をあげるともう成功したように考える。とい点は日本との対比でその通りだろうと思う。以下に原文を引用するが、AIIBとかインドネシアでの高速鉄道など、看板をあげて、サインしたらもう成功だと考える節がとても気になる。「楽観的」というか、その後のことはあまり考えないのだ。

『中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように只芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、彼等はきっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必定だ』
 辛亥革命でも黄興たちが「旗揚げ」して孫文が「孫大砲」をドカーンと打ち上げたら、それで成功したと思い、その後、袁世凱とか所謂皇帝になろうとするような「閥」の乱入を防げなかったのが敗因と思う。
 バッジで思い出すのは、毛沢東バッジだ。文化大革命のとき、これを付けていないとどうにもならず、皆は各地で競ってこれを作り、地域ごと、職場ごと、学校ごとに作りにつくって、1968年に3週間各地を訪問した私の手元にも何十個のバッジが残った。袋にいれて忘れていたのが最近出てきた。どうしよう。
捨てるしかないだろう。まさかこれを持っていて、中国の青年のように命を落とすことはないはずだが。
   2016/02/07記
    


 

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手助け文学と太鼓持ち文学

手助け文学と太鼓持ち文学
  11月22日 北京大学第二院で講演
 4-5年こちらに来ていないので、このあたりの状況は余り分かりません:私の上海での状況も、諸君は知らないでしょう。それで、今日は太鼓持ち文学と手助け文学について話しましょう。
 これはどのように話したらよいでしょうか?五四運動後、新文学家は小説をずいぶん提唱しました:その理由は、当時新文学を提唱する人は、西洋文学で小説の地位がとても高く、詩歌を彷彿させ:従って小説を読まぬ人は人でない、というようになった。但し、我々中国の古い眼からみると、小説はひまつぶしで、酒余茶後の用をつとめてきた。というのも、お腹いっぱい食べ、お茶を飲み終えると、閑になって実に無聊となり、この時代ダンスクラブもなく、明末清初の頃、ある人たちのところには必ず太鼓持ちがいた。書が読め、碁が打て、何枚かの絵を描くことができる人、これを太鼓持ちと呼ぶ。即ち取り巻きだ!だから太鼓持ち文学は取り巻き文学ともいう。小説は取り巻きをしながらする職務だ。漢武帝の時、司馬相如だけはそれを喜ばず、常々病を装って出仕せず、どんな仮病か私は知らない。彼が皇帝に反対したのはルーブルの為というのは、あり得ない。なぜなら当時ルーブルは無かったから。そもそも亡国せんとする時は、皇帝はする事もなく、臣は女のことか酒にあけくれ、六朝の南朝の如く、建国の時はそうした人は法令を出し、勅令・詔、宣言を出し、電報も作り――所謂堂々とした大文官だ。主が初代から二代目になると閑になり、それで臣は太鼓持ちとなる。だから太鼓持ち文学は手助け文学である。
 中国文学は私の見るところ二つに大分類できる:(一)宮廷文学。これは主の家の中に入り込み、主の忙を助けるのでなければ、主の閑のお伴をするもの:これと相対的なのが(二)山林文学。唐詩はすなわちこの二種。現代語で言うなら「在朝」と「下野」だ。後の一種は暫時手伝うべき忙も閑もないが、身は山林に在れども「心は朝廷に存している」忙を手伝えぬなら、閑も手伝えぬから、心は甚だ悲しい。
 中国は隠者と官僚がとても近い関係にある。その時招聘されたいという希望が強く、招聘されたらすぐ君のもとに征く、といい:質屋を開き、果実飴を売るのは征されたとは言わない。かつて世界文学史を作ろうとした人が、中国文学は官僚文学だと称した由。見るところ、実際その通りだ。ある面では固より文字が難しく、一般人でも教育を受けた人も少なく、文章もかけぬ。ただ他の面からみても、中国文学と官僚は実に近い関係だ。
 現在大体のところはこんな感じである。ただやり方は実に巧妙でついには、それを見いだせなくなっている。今日、文学の最も巧妙なのは、所謂芸術の為の芸術派だ。この一派は五四運動時代は確かに革命的で、というのも当時「文は以て道を載せる」ということに対して進撃せよと説いたから。が、今はその反抗性すら無くなった。反抗性がないだけでなく、新文学の誕生を制圧した。社会に対して敢えて批評せず、反抗もできず、反抗したら芸術にもし分けないという。それゆえに、手伝いプラス手助けだ。芸術の為の芸術派は、俗事には何も問わないが、俗事に対して人生の為の芸術を主張する人には反対し、現代評論派の如く、彼等は人を罵ることに反対するが、人が彼らを罵ると、彼等も罵ろうとする。彼等は人を罵る人を罵り、ちょうど殺人者を殺すのと同じで、――彼等は殺し屋なのだ。
 こういう手助けと太鼓持ちの状況は長く久しい。私はなにも人に対して即刻中国の文物をすべて放擲せよと勧めたりはしない。そういうものも見ないと、他に見るものが無くなってしまうから:手助けも太鼓持ちもしない文学は大変少ないが、今、物を書いているのは殆ど太鼓持ちか手助けの人だ。文学は大変高尚だという人がいるが、私はメシの問題とは関係ないとは信じない。私もまた文学とメシの問題は関係あって構わないと思う。ただ、できるだけ手助けも太鼓持ちをしないですむなら良いと思う。
     1832年12月「映画と文学」創刊号に発表

訳者雑感:
 孟浩然の「洞庭湖を望み…」という詩は「八月湖水平、涵虚混太清。
で始まり、気蒸雲夢澤、波撼岳陽城。という句は大変すばらしいと思う。
 しかし後半には、天子に呼ばれて出仕できぬのは残念云々とあり、素晴らしい詩も、天子の手助けをできにのをかこっているので、日本人的にはなんだか惜しい気がしたが、中国人にはこういう気持ちを詩にすることが当たり前のことであると言われたことがある。このあたりが中国人と日本人の違いでもあろうが、菅原道真の大宰府での梅の詩でも似たようなことを書いており、平安貴族の時代は共通点が多かったであろう。
 源氏物語や枕草子なども天皇や中宮への「太鼓持ち」文学だと言われればそうかも知れないとも思う。良い紙をもらって、そこに物語や随想を書いて中宮たちに読んでもらおうとしたのだから。というか、その当時それを読める人は限られた宮廷内の人だけだったから。
 では、その後の水滸伝などの講談本や戯曲はどうか?これらも最初は宮廷の舞台で演じられたものが、だんだん庶民にも分かるように発展してきたのだろう。これは手助け文学が進化・変化してきたものだろう。
   2016/02/03記
 

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「静かなるドン」後記

「静かなるドン」後記
 本書の作者は最近の有名な作家だが、27年にKogan教授の書いた「偉大な十年の文学」には彼の名は無く、彼の自伝も手に入らない。巻頭の事略は独語訳編の「新しいロシアの新小説家三十人集」の付録からの訳である。
 この「静かなるドン」の前三部はドイツでは去年Halpern訳で出された。当時の書報に小伝より詳細な紹介があり:
 「ショーロホフはあの一群の民間から直接出てきて、彼らの本源を保持しているロシア詩人のひとりだ。約2年前この若いコサックの名前が初めてロシア文芸界に現れ、現在はすでに新ロシアで最も天才的作家のひとり。14歳になる前に実際にロシア革命闘争に参加し、何回も負傷し反革命軍により郷里を追われた。
 彼の小説「静かなるドン」は1913年に始まり、炎のような南方の色彩で、コサック人(あの英雄的で叛逆的な奴隷たち、Pugachov、Stenka、Rasin、Bulagin、等の後裔で、これらの人たちの歴史的なその偉大さを)の生活を描いてくれた。だが、彼の描いたものとその地域を支配する西洋人が、ドン川のコサック人の想像する不真実のロマン主義に対して、共通する処はない。
 「戦前の家長制度下のコサック人の生活は、小説に非常に鮮やかに描かれている。叙述の中枢は、若いコサック人グレゴリーと隣人の妻、アカシンアで、この二人は強い熱情で溶接され、共に幸福と滅亡を味わう。そして彼ら二人を取り巻くのは、ロシアの郷村の息吹であり、仕事をし、歌い、話し、休息する。
 「ある日この平和な郷村に突如、驚愕の叫び声、戦争が起こる。最も強い男たちは皆出てゆき、このコサック人の村落も流血が起こった。しかし戦争中も、沈鬱な憎しみと恨みが増大してゆき、これが即ち目前に迫りくる革命の予兆…」
 出版後暫くして、Weiskopfも正当な批評を与えた。
『ショーロホフの「静かなるドン」は、私の見るところ、ある種の予約の様で、――その青年のロシア文学がファ氏の「潰滅」、バン氏の「貧農組合」及びバ氏とイ氏の小説と伝奇など、あの傾耳諦聴する西方の定めた所の予約の完成だ:これは言うならば、一種の原始の力に満ち溢れた新文学の生長であり、この種の文学、その広大さはロシアの大原野のようで、その清新さと束縛からの自由はソ連の新青年のようだ。凡そロシアの青年作家たちの作品は、一種の予示と胚胎(新視点、一つの完全な反日常的で新方面からの問題観察と新描写)は、ショーロホフのこの小説にも十分に発展している。この小説はその構想の偉大さや生活の多様さ、生き生きとした描写で人を動かし、トルストイの「戦争と平和」を思い起こさせる。我々は緊張して続巻の出現を待ち望む』
 ドイツ語訳の続巻は今秋にやっと出たが、多分どうも更に読み続けることになろう。原作はまだ完了していないから。この訳はHelpernのドイツ語訳の第一巻の前半だから「戦争持続と共に、沈痛な憎しみと恨み」が発生したことは、ここではまだ見られない。だが風物の優れていること、人情も異なるが、書き方も明朗簡潔で、まったく旧文人の頭角をなぞるようなく、抑揚を抑えるような悪習もなく、Weiskopfの言う「原始の力に満ちた新文学」の概要の輝きはすでに伺い見ることができる。将来、全訳が出たら、わが国の新作家を啓発する処がきっと更に増大しよう。だが実現できるかどうかはこの古い国の読書界の魄力次第だろう。
    1930年9月16日

訳者雑感:
 1930年の時点で「静かなるドン」をロシア語原本からではなく、ドイツ語訳から重訳しているのはなぜだろう。ロシア語の原本が入手できにくかったからか。或いはロシア語から翻訳する力を持った人がいなかったのか?
 ロシアの小説や物語は、あのロシア語で口から発せられる響きが一番大切にされる、と習った。ドイツ語訳からの重訳しかできなかったのは残念だが、それすら魯迅の古い国の読書界が続けて出版できるかどうかは、その魄力次第だという。そのころの訳文と21世紀の訳文にはどれほどの違いがあるのだろう。
    2016/02/01記

 

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文芸の大衆化

文芸の大衆化
 文芸はもともと少数の優秀な人だけが観賞できるというものではない。少数の先天的低能者だけが観賞できないものだ。
 作品が高級になるほど、知音者は少ないというなら推論すると、誰も理解できぬものが世界の絶品となる。
 但し、読者もそれなりの情感を持たねばならない。まず識字で、次は一般的な大まかな知識と思想と情感で、たいていは相当な水準を持たねばならない。そうでないと文芸とは関係が発生しない。文芸が何か手立てを講じて、おもねったりしたら、すぐ大衆迎合で媚びる方向に流れる。迎合と媚びは大衆に有益とはならない。――何が「有益」かについては本題の範囲外ゆえ今は論じない。
 従って、現今の教育不平等社会ではいろいろ難易の異なる文芸を持ち、それで色んなレベルの読者の求めに応じるべきだ。だが大衆のことを想定した作家が多くいて、できるだけ分かりやすい作品を書き、皆がよくわかり、読みたくなるようにさせ、それで一部の陳腐なものを排除すべきだ。但し、ことばのレベルは劇本のような程度が良い。
 現在は大衆に文芸観賞のできるような時代の準備の期間だから、私はただそれくらいしかできないと思う。
 今すべてを大衆化しようとするなら、それは空談にすぎない。大多数の人は文字を識らない:現在通用している口語文も皆よくわかるものでもない:言語が不統一だから、方言を使うと多くの字は書けないし、別の字で代用すると、一部の所でしかわからず、閲読の範囲は却って狭くなる。
 要するに、多く作品を出し、また一定程度大衆化した文芸を書くことはもとより現今の急務である。もし大規模な手立てを講じるなら、政治方面の協力が必須で、一本の足では道を作れない。多くの人をひきつけるものを書く、というのも文人の聊か以て自ら慰めるにすぎない。
     1930年3月の「大衆文芸」に掲載

訳者雑感:日本でも文芸の大衆化は1900年初頭の大きな問題で、漱石なども江戸時代の芝居や落語の話し言葉を、文章化していった。1930年ころの中国でも大衆化という点で、魯迅も「劇本」のレベルを想定しているが、これは漱石などの言葉が彼の頭に残っていたのだろう。
   2016/01/28記

 

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「近代木刻選集」序文

「近代木刻選集」序文
 中国の古人が発明、現在も使っている爆竹と風水を見るための火薬と羅針盤は欧州に伝わる、彼等は銃砲と航海に利用し、もとの師匠に大きな苦しみを与えた。更には小さなことだが、害を及ぼさぬため殆ど忘れられている物がある。それは木刻だ。
 十分な確証はないが、欧州の木刻は何人かの人が昔中国から学んだと言い、14世紀初頭、すなわち1320年頃だ。先駆者は多分きわめて粗い木版画を印刷した花札だ:この種の花札を我々は今田舎で目にすることができる。しかしこの博徒の道具は欧州大陸に入り、彼らの文明利器の印刷術の祖師となった。
 木版画は多分こうして伝わり:15世紀初めにはドイツにすでに木版聖母像があり、原画はなおベルギーのブリュッセルの博物館にあるが、これまでそれ以前の印本は見つかっていない。16世紀初め、木刻の大家Durer(uはウムラウト)とHolbeinが出た。Durerは特に有名で、後世殆どが彼を木版画の始祖としている。17-8世紀になると、皆彼らの波と流れに沿っていった。
 木版画の使われ方は単なる版画の他に、書籍の挿絵になった。その後、巧緻な銅版技術が起こり、突然衰退したのも正に必然の流れだった。只英国は銅板の輸入が少し遅れ、旧法を保存し、またそうすることを義務であり光栄と考えた。1771年、初めて木口彫刻(堅い面を使って精緻な作品を作れる)を用いだし、すなわち所謂「白線彫版法」として登場し、それはBewickだ。この新法は
欧州大陸に入り、木刻復興の動機となった。
 しかし精巧な彫刻は後に徐々に別の版式の模倣に偏り、水彩画やエッチング、スクリーンや写真を木面に写して繍彫し、技術はもとより大変精熟したが、復刻木版となった。19世紀中葉についに大きな変転が起き、創作的木刻が興った。
 所謂創作的木刻者は、模倣や復刻をせず、作者は小刀を手に木に向かい直接刻む――宋人で多分蘇軾と思うが(杜甫が正しい:出版社注)人に梅の画をと依頼する詩に言う:「私の手元に一匹の良い東絹がある。君、筆をとって直接描いてくれたまえ!」この小刀を手に直接彫るのは創作版画がしなければならぬことで、木で紙や布の代わりとする。中国の刻図は絵画と異なり、所謂「彩色」といえどもとうに足元にも及ばず、その精神は唯鉄筆で印章を刻すのがこれに近いようだ。
 創作のため、優雅な技巧は人により異なり、複製の木刻から離れて、純正な芸術となり、今の画家の大半は殆ど試作している。
 ここで紹介したのはすべて現在の作家の作品だが:これらの枚数だけでは色んな作風を見られないので、事情が許せば追って取り入れよう。木刻の帰国は他の2種のように元の師匠を苦しめることに至らないと思う。
     1929年1月20日 上海にて 魯迅記
訳者雑感:
 魯迅は欧州から(一部日本のも)木版画の導入に非常に熱心であった。彼自身も木版画とか挿絵を描くのと見るのが子供のころから大好きだった。
 火薬と羅針盤を発明した中国は爆竹と風水の占いに使ったが、銃砲とか航海には西洋のようには科学的に使わなかった。その結果、アヘン戦争以来銃砲と羅針盤の艦隊に苦しむことになった。
 一方、花札に使っていた木刻は欧州に渡って大きく発展した。これの帰国は魯迅にとって、中国にとって大変有意義で、2種のように中国を苦しめることはない、というのは面白い指摘だ。
     2016/01/27記
 


 

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「古い調子は歌い終わった」

「古い調子は歌い終わった」
   1927年2月19日香港青年会の講演
 今日お話しする題は「古い調子は歌い終わった」です:初めは変に聞こえますが、全くおかしなことではありません。
 凡そ、老と旧は皆終わったのです!当然そうなるべきなのです。この言葉は実際、一般の老先輩には申し訳ありませんが、他に言い方が無いのです。
 中国人はある種の矛盾した思想があります。すなわち:子孫を生存させようとしたら、自分も長生きしたいと思い、永遠に不死になりたいと思うのです:だがそんなことは考えられぬと気付き、死ななければならないが、自分の屍は永遠に腐らないのを望みます。しかし考えてみてください。人類が誕生してからこれまで誰も死ななければ、地上はとっくに人間でいっぱいで、現在我々はとうに容れられるべき土地はありません:人類誕生以来屍が腐らねば、地上の死体は魚屋の魚よりずっと多く、井戸を掘るのも、家を建てる余地も無いでしょう。だから凡そ老と旧は実際喜んで死んでゆくのが一番良いと思う。
 文学も同じで、凡そ老と旧は皆もう歌い終わったか終わろうとしています。最近の例ではロシアです。彼等は皇帝の専制時代、多くの作家が民衆に同情し、沢山の悲惨痛切な声で叫んだが、後に民衆にも欠点があることを知り、失望しだした。うまく歌えなくなり、革命後は文学で何ら大作を出せなくなった。只、旧文学家が国外に逃れ、数篇書いたが、良い作品は無かった。なぜなら、彼等はすでに以前の環境を失っていて、以前のような話をできなくなったからだ。
 この時、彼らの本国で新しい声が現れてくるべきだったが、我々はまだそれを聞いていない。彼等は将来きっと声を出すと思う。ロシアはいま活動しており暫時何の声もないが、畢竟、環境改善の能力は持っているから、将来きっと新しい声が現れるだろう。
 欧米の数カ国についても話そう。彼らの文芸はとうに老旧していた。世界大戦時にやっとある種の戦争文学が生まれた。戦争が終わり、環境も変わり、老調子はもはや歌うすべを失くしたがから、現在の文学は少しさびしい。将来はどうか?実際予測はできない。但し彼等はきっと新しい声を出すと信じている。中国の文章は最も変化がないし、調子も最も老で、中身の思想も最も旧だ。但大変奇怪なことは、ほかの国とは異なる点だ。それらの老調子は歌い終わっていないのだ。
 これはどうしてか?我々中国には「特殊な国情」があるからという人もいる。――中国人は本当にこのように「特別」かどうか、私は知らない。が、中国人はこうなのだというのを耳にする――それが本当なら、この特別な理由は2つあると思う。
 第一、中国人は記憶力が悪く、記憶が無いから、昨日聞いた話を今日は忘れ、明日また聞いても大変新鮮に感じる。物事をするのも同じで、昨日悪いことをしても、今日はそれを忘れ、明日またそれをやり、やはり「旧習慣通り」の老調子なのである。
 第2、個人の老調子が歌い終わらないのに、国はすでに何回も滅びた。なぜか?
凡そ老旧の調子はある時になると、皆歌い終わるべきだが、凡そ良心と覚悟のある人は、ある時になると、当然、老調子はもう歌うべきではないと悟り、それを抛棄する。だが一般に、自己を中心と考える人は、民衆を主と考えることを肯んじず、専ら自分の便利を図り、どういう訳か3回も4回も歌って、終わらないのだ。
 宋朝の読書人は道学を講じ理学を講じ孔子を尊び、千篇一律だった。王安石のような革新的な人も何人かいて、新法を行ったが、皆の賛同を得られず失敗した。この時から皆はまた老調子を歌い、社会と関係のない老調子で、宋朝が滅びるまでずっと同じだった。
 宋朝が歌い終わって、侵入してきて皇帝になったのは蒙古人――元朝。では宋朝の老調子は宋朝とともに終わったか?否、元朝人は、初めは中国人を見下していたが、後に我々の老調子も結構新奇に感じるようになり、徐々に羨ましく思うようになり、そのために元人も我々の老調子を一緒に歌いだし、元が滅びるまで続いた。
 この時起こったのが明太祖だ。元朝の老調子はこの時点で歌い終わるべきだったが、終わらなかった。明太祖もまたまだ意趣があると感じ、皆に歌い続けさせた。八股文とか道学とか、社会や民衆とは全く関係ないもので、只過去の旧路をひたすら明の滅ぶまで走り続けた。
 清朝もまた外国人だ。中国の老調子は新しい外国人の主の目にも新鮮に映り、また歌い続けた。やはり八股や試験、古文の作文、古書を読むことだった。しかし、清朝が完結してすでに16年経ったが、これは皆が知っている。彼等は後に少し覚醒して、かつて外国から少し新法を学んで補おうとしたが、もはや遅すぎて間に合わなかった。
 老調子は中国を歌い終わり、何回も歌い終わったが、依然として歌い続けられ、その結果小さな議論が起こった。ある人曰く:「中国の老調子は良いものだから、歌い続けて一向に構わない。元の蒙古人や清の満州人を見よ。皆我々に同化されたではないか?この事から見れば、将来どんな国がきてもこれと同様、同化させられる」元来我々中国は、伝染病の病人のように自分が病気になり、その病を人の体に伝染させたが、これは一種の特別な本領である、と。
 こういった意見が現在では大きな間違いであることを知らない。我々はどうして蒙古人と満州人を同化できたか?彼らの文化が我々よりずっと低かったからだ。他の文化が我々と匹敵或いは進んでいたら、結果は大きく異なっていただろう。彼らが我々より聡明なら、その時我々は彼らに同化するしかないだけでなく、彼らに我々の腐敗した文化を利用して、我々の腐敗した民族を統治させるようになる。彼等は中国人に対し、何の愛情もないから当然中国人を腐敗したままにさせる。現在、外国人で中国の旧文化を尊重する人が大変多いというが、一体どの点を本当に尊重しているだろうか。利用しようとしているに過ぎない。
 以前西洋にある国があった。国名は忘れたがアフリカで鉄道を敷こうとした。頑固なアフリカ人は大反対した。彼等は彼らの神話で彼らを騙して曰く:「君らの古代にある神仙がいて、地上から天に向かって橋を造った。今我々が敷こうとしている鉄道は正しく君らの古代聖人の考えと同じだ」アフリカ人は感服し喜んで鉄道をすぐ作りだした。――中国人はこれまで外人排斥をしてきたが、現在では徐々に彼らの所へ行って老調子を歌い、更に曰く:「孔子は言った<道が行われなければ、桴(いかだ)に乗って海に浮かぼう>それゆえ、外国人は良いのだ」と。外国人も言った:「君のところの聖人は全く正しい」と。
 こうやって行くと、中国の前途はどうなるだろう?他のところは知らぬ。只上海から類推するしかない。上海:権勢の一番大きいのは外国人たち、その圏に近いのは、中国商人と所謂読書人で、その圏外に多くの中国人の苦しんでいる人、すなわち下等の奴隷。将来もやはり老調子を歌い続けるなら上海の惨状は全国に拡大し、苦しむ人が増えるのです。今は元や清時代のように老調子を歌い続けられる状況ではないからです。我々は自分を歌い終わらせるしかないのです。これは今の外国人は蒙古満州人と違い、彼らの文化は我々の下ではないからです。
 ではどうすればよいか?唯一の方法はまず老調子を捨てることです。旧文章、旧思想は皆すでに現社会とは関係ないのです。以前孔子の時代は列国周遊時に、牛車に乗っていた。以前堯舜の時代は、泥碗で物を食べていた。今使っているのは何でしょう?だから、現在に生きるには、古書を大事にしても全く役に立ちません。
 しかし一部の読書人は言うでしょう。我々の読む一部の古書は中国に大きな害を及ぼすとは思わぬし、なぜそれを断固として捨てるのか?それはそうだ。しかし古いものの恐ろしさは正にここにある。我々が有害と思うなら、すぐに警戒できる。たいして有害だと思わないから、これが死に至る病だと感じないのだ。これは「軟刀子」だからだ。この「軟刀子」というのは私の発明ではない。明の読書人、賈鳧西のだ。鼓詞の中で紂王のことについて曰く:「何年も家の軟刀子で頭を切っても死んだ感じはせず、只太白旗が懸ってはじめて命がおかしいと分かる」我々の老調子は正にこの軟刀子なのである。
 中国人は鋼刀で切られたら痛いと感じ、何か方法はないか考える:軟刀子だと「切られても死んだ感じがなく」それでおしまいとなる。
 我々中国人は兵器で攻められたことは何回もある。たとえば蒙古人や満州人が弓矢で、更には他の外国人が銃砲で、それで何回も攻められた後に私は生まれたが、まだ若かった。当時皆はまだ余り痛苦を感じていないようだったと思う。抵抗しようとか改革しようと思わなかったようだ。銃砲で我々を攻めた時、我々は野蛮だったからだと聞いた:今あまり銃砲で攻められないのは、我々が文明的になったためだ。今もよく人々は言う。中国の文化はたいへん素晴らしいから、保存すべきだ、と。その証拠に外国人も常にこれを賛美するという。我々が自分の老調子で自分を歌って終わらせるのはもうすぐだと思う。
 中国の文化が実際どこにあるのか、私は知らない。所謂文化の類とは現在の民衆といかなる関係にあるのか、どんな有益な点があるのか?近来外国人も常に言う。中国の礼儀は良い。中国のごちそうもすばらしい、と。中国人もそれに付和しそうだそうだと言っている。
 しかし、そんなことは民衆と何の関係があるのか?車引きは先立つお金もないから礼服など作れぬし、南北の大多数の農民の最高の食べ物は雑穀だ。だから一体どんな関係があるのか?
 中国の文化は皆、主人に奉仕する文化で、たいへん多くの人の苦しみと交換されたものだ。中国人であれ外国人であれ、凡そ中国文化を称賛するのは皆、ただ自分を主だと思っている一部の人のみだ。
 以前外国人が書いた本の多くは、中国の腐敗を嘲罵していた:今は余り嘲罵しなくなった。逆に中国の文化を称賛している。彼らがこういうのを常に聞く:「中国にすむのはとても気分がいいよ!」これは正しく中国人が徐々に自身の幸福を外国人に享受させている証だ。だから彼らが賛美すればするほど、我々中国の将来の苦痛は深まるのだ!
 言うなれば、旧文化の保存は中国人を永遠に主に奉仕する材料となり、それで苦しみ続けることになるのだ。現在の金持ち・富翁、彼らの子孫といえども逃れることはできない。かつてひとつの雑感を書いたが、大意は;「凡そ中国の旧文化を称賛するのは、多くは租界に住むか、安穏な場所に住む金持ちで、彼等は金があるから、国内の戦争の苦痛を受けないから称賛するのだ。実際には彼らの子孫は将来、業を営むのに現在苦しんでいる人より更にひどい状態になり、鉱山を開発するのにも、現在苦しんでいる人より更に深いところまで掘ることになる」と。これは将来更に窮乏することになるが、少し遅くなるに過ぎぬ。だが先に苦しんでいる人は浅い鉱山を開くので、後の人は更に深いところを掘らねばならなくなる訳だ。私がこういうのを誰もほとんど注意しなかった。彼等はやはり老調子を歌い続け、租界で歌い、外国へ行って歌った。ただこの後は、元や清のように、他の人を終わらせることはできず、自分自身を歌い終わらせるのだ。
 ではどうすれば良いか?第一に、彼らに洋館や寝室書斎から外に出て、身辺がどうなっているのか、よく見てもらい、又社会が、世界がどうなっているかをよく見てもらうべきだと思う。それから自分でよく考えて、よい方法が思いついたら、やってみることだ。「部屋から外に出ると危険だ」と老調子を歌っている人たちは言う。しかし人たるには何らかの危険は付いて回り、部屋にばかりいたら確かに長寿で、白いひげの老先生は非常に多いはずだ:だが我々が目にするのはどれくらいいるだろう?彼等もやはり早死にし、危険がないとはいえ、阿呆みたいに死んでゆく。
 危険のない所というなら、とてもいい所を見つけた。それは:牢獄だ。人は牢に入れば再び騒ぎ、再犯の恐れなく:消火設備も完全で失火の心配もない。泥棒もいないし、牢の中で物を盗む強盗もいない。牢は実に一番安全な所だ。
 但し、牢には足りないものが一つある:自由だ。だから安穏はむさぼれるが、自由はなく、自由が欲しければ、どうしても危険を覚悟するのだ。この2本の道だけだ。どちらが良いかは明明白白。私が言うまでもない。
 本日は諸兄のご静聴、感謝します。
   1927年3月に広州の「国民新聞」に掲載。

訳者雑感:
魯迅の下記の文章は物事をずばり突いている。
『国人が以前は中国の腐敗を嘲罵していた:今は余り嘲罵しなくなった。逆に中国の文化を称賛している。彼らがこういうのを常に聞く:「中国にすむのはとても気分がいいよ!」これは正しく中国人が徐々に自身の幸福を外国人に享受させている証だ。だから彼らが賛美すればするほど、我々中国の将来の苦痛は深まるのだ!』
 今は中国国内の中国人と香港などの中国人が共産党幹部の腐敗を嘲罵しているが、罵られている何万人の汚職役人は逮捕されたが、逮捕される前に国外に大金を持ち出して逃亡している連中が「ごまん」といる。
 魯迅の言葉を借りて言えば、「ごまん」といる連中は、中国は金を貯めるのには最適の所だよ、だが住むには気分が良くない。いつ牢獄に入れられるかもしれない。PM2.5で空気も悪いし。やはり三十六計逃げるに如かず、と。
       2016/01/25記
 
 

 

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「何典」題記

「何典」題記
 「何典」が世に出てから、少なくとも47年経ち、光緒5年の「申報館書目続集」がそれを証明している。私がその名を知ったのは2-3年前で、これまで探したが手に入らなかった。今、半農が校点して私に見本を見せてくれたのは実にうれしいことであった。ただ小序を書かねばならぬので、まさに阿Qが筆で丸を描くのと同様、私の手はふるえを免れぬ。私はこの方面に長けていないから、朋友からの依頼を受け、うまく引き立てられるように、立派な文を書いて、本と店と人に少しでも役に立たねばと思う。見本を見て、校勘が時にやや迂遠とも感じ、伏せ字はいい気分ではないが、半農の士大夫気質が過多気味のようだ。本そのものは?というと、鬼物を語るのは正に人間のようで、新典を古典同様に用いる。三家村の達人が大衣の上半身裸で、大成至聖先師に拱手し、はなはだしきはトンボを打ち「子曰く店」の店主を驚かせて昏倒させた。ただ、直立した後はやはり長衫(長い上衣)の朋友だった。しかしこのトンボを打つにはやはり胆のある人の魄力がきわめて大きいと思われた。
 成語は死んだ古典とは違い、多くは現在の世相の神髄で、気の向くままに綴るが、当然文字は特段に精神的にさせ:また成語の中から別途思緒を引き出し:世相のタネの中から出すのだから、開くのも必ず世相の花だ。そこで作者は死んだ鬼画符と鬼打壁の中で死に、生きている人間の相を展示するか或いは、生きている人間相をすべて死んだ者の鬼画符と鬼打壁と看做すのだと言える。口から出まかせ、立て板に水のような所で会心させることができたように思わせるのは、困ったもので苦笑を禁じえぬ。
 もう十分だ。博士のような柄ではないので、どう書きはじめることができようか?旧友の顔をつぶさぬよう、手を動かすしかない。応酬は免れず、円滑にする方もあり、ただ短い文章で大過無きことを願うのみ。
        中華民国15年5月25日 魯迅謹撰

訳者雑感:出版社注によると、この本は蘇南方言で書かれた風刺と油滑を帯びた章回小説の由。それを読みやすいように校点を付したので、見本を持ってきて題記を頼まれたのだそうだ。魯迅という名前でお墨付きを付けて売ろうとしたのだが、魯迅は正直に伏せ字は良くないとか書いており、この種の件は博士号を持つ胡適などに依頼すべし、と書いているのも面白い。だが再版の時には伏せ字を無くして、読みやすくしたとある。最後に「謹撰」と付すのも面白い。

 

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孫中山先生逝去1周年

孫中山先生逝去1周年   (1926年)
 中山先生の逝去後、何年経とうが本来なんらそれを記念する文章は必要ない。かつて無かった中華民国が存在する限り、それが彼の不滅の碑で、彼の記念だからだ。
 民国国民となって、誰が民国を創造した戦士で第一人者を知らないだろうか。しかし我々の大多数の国民は特に沈静で、本当に喜怒哀楽を形や色に出さないし、彼らは熱力や熱情を吐露することはない!それゆえに、しっかり記念せねばならぬ:当時の革命が如何に艱難であったかを目の当たりにできるよう、もっとはっきりとこの記念の意義を増大するのだ。
 去年逝去後、まだ時間が経っていないのに、数人の論客は水を差すようなことを口にした。中華民国を憎悪しているのか、所謂「賢者を責める」のか、自分の聡明さをひけらかそうとするのか、私にはわけが分からぬ。しかし何であれ中山先生の一生の歴史ははっきりしており、立ち上がったことは、正しく革命で、失敗したのも革命だ。中華民国成立後も満足せず、安逸せず、依然として完全な革命に近づけるべく工作を続けた。臨終の直前彼は言った:革命なお未だ成功せず、同志一層努力すべし。
 当時新聞に連載あり、彼の生涯の革命事業に劣らず、私を非常に感動させたのは、西洋医になることにすでに手を束ねていた時のこと、ある人が漢方薬を服用するように主張したが、中山先生は賛成せず、中国の薬はもとより効力はあるが、診断の知識が欠如していると考えていたとの由。診断できなくてどのように薬を服用するか?服用すべきではない。人は瀕死の危険が迫っている時は、たいてい何でも試そうとするが、彼は自分の命に対し、このように明白な理智と堅い意志を持っていたという事を聞いた。
 彼は全人的に永遠の革命家だ。彼の行ったことは何であれすべて革命である。後の人が如何にアラ探しをし、粗末に扱おうとも、彼のすべてが革命なのだ。
なぜか?トロツキーはかつて革命芸術は何かを説明した。それは:たとえ主題が革命を論じていなくても、革命から発生する新事物が内蔵する意義が一貫しているものである:そうでなければ、たとえ革命が主題であっても革命芸術ではない。中山先生逝去後、すでに1年経ったが、「革命なお未だ成功せず」で僅かにこのような環境の中で記念するのみ。しかし、この記念で顕示されるのも、やはりついには永遠に新しい革命者と共に前進し、共に努力して完全な革命に近づける工作にまい進するのだ。
        3月10日
訳者雑感:孫文を記念するものは北京から南京、広東、日本の神戸まで世界にいくつあるだろう? 1911年の辛亥革命が起こってから彼は国外から中国に飛んで帰ってきた。何回もの失敗で国内に身を置けなくなり、亡命者的な立場から、国外の支援者の資金面・精神面の協力を勝ち取る工作を続けてきた。しかし革命で清朝は倒したが、その後死ぬまでの15年間、ほとんど袁世凱ほか皇帝になろうとする連中の手に政権の中枢を握られ、まさに「革命なお未だ成功せず」で生を終えた。
 彼のあだ名は「孫大砲」で、大きな音声で大切なことを叫んだが、魯迅の指摘するように「多くの沈静」な国民から熱情込めた支援も得られなかった。その後の政権闘争でも彼は「共産的思考」に偏っているとして、産業界商業界からの支持を得られなかったようだ。
 彼を記念する大規模な中山陵と多くの記念堂やは各地にあるが、現在の大陸に暮らす人々で孫文を尊敬すると公言する人はあまりいない。周恩来や鄧小平は尊敬するが、今や毛沢東の巨大な金色の座像も、それを作りたいと思っていた人たちが建てたものが、あっという間に撤去されたことが示唆するように、何千万もの人を死なせた彼を尊敬する人も急激に減少しているのが現実だろう。
 孫文の夫人だった宋慶玲が死去した時、彼女の意志で遺体は孫文の隣に埋葬しないで欲しい、とラジオで報じていたのが耳に残る。
     2016/01/12記

 
 

 

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詩歌の敵

詩歌の敵
 3日前、「詩孩」(孫氏のあだ名:詩の子)と十回目の面談中、私は「文学週刊」に何か寄稿できるといった。気持ちとしては文芸面で詩歌小説評論などの尊号でなければ、多少なりとも体裁ある尊号を装わねばならず、その尊号らしい形で、自由な雑感に近いものでいいと思い、それなら問題ないと考えて引き受けてしまった。その後2日経ったが、粟を食むのみで、今晩やっと机の前に座って字を書く準備をしたが、テーマすら思いつかず、筆を手に四顧し、右に書架あり、左に衣装箱、前は壁、いずれも私には何のインスピレーションも与えず、やっと悟った:大難は面前にあり、と。
 幸い「詩孩」の為に詩を連想することになったが、不幸にして私は詩について素人で、何か「義法」(詩の正しい作り方)などを講じるなどしたら、それは「魯般(木匠)の門前で大斧を掉さす」ことになる。以前留学生に会ったのを覚えているが、たいそう学問ある人ということだった。彼は我々に西洋の言葉で話すのが好きで、私には意味不明だったが、西洋人にはいつも中国語を話していた。この記憶が忽然啓示を与えてくれた。私は「文学週刊」に拳術の話を書こうと思った:では詩はどうするのか?それは拳術の師匠に会ってからのことにしよう。そんな躊躇をしているとき、より妥当なことを思い至り、かつて「学灯」――上海の「学灯」でなく――で見た春日一郎の題名で、彼の題をそのまま借りて:「詩歌の敵」とした。
 その文章の最初に、どんな時でもいつも「詩歌に反対する党」がいる。その党派を編成する分子は:一、凡そもっぱら想像力や芸術の魅力に訴えるのに、最も大切なものは、精神的に熾烈に拡大することで、彼らは完全に拡大不能な,固執的な智力主義者で:二、彼等自身は、かつて媚態で芸術の女神に奉献したが、うまくゆかず、そこで一変、詩人を攻撃して報復を図る著作者:三、詩歌を熱烈な感情のほとばしりで、以て社会的道徳と平和な宗教心を抱く人々に大きな危害を与える、と看做す。ただこれはもっぱら西洋について言えることだ。
 詩歌は哲学と智力から来る認識だけでは作れないから、感情がすでに凍りついてしまった思想家は、すなわち詩人に対して、往々にして誤った判断と、膜を隔てた揶揄をする。最も顕著な例は、ロック(英国の哲学者)で彼は試作を球蹴りと一緒だと考えた。科学で偉大な天才ぶりを発揮したパスカルは、詩の美しさは少しも分からず、かつて幾何学者の決断的な口ぶりで:「詩人に少しも安定した人はいない」凡そ科学的な人はこういう人はいない。というのも、彼等は精細に限られた視野の中で研究するから、博大な詩人の感じ得た全世界的なものとは一緒にならず、同時に天国の極楽と地獄の大きな苦悩の精神と相通ずるのだ。近来の科学者は文芸に対して少々重視するが、イタリアのLombroso(精神病学者)などのように、どうしても偉大な芸術に瘋狂を見つけようとし、オーストリアのフロイドのように専ら解剖メスで文芸を切り刻み、冷静に謎の世界に入り、知らぬ間に自身も過度の穿鑿付会者となるのも、やはりこれに属す。中国の一部の学者は、彼らが科学に対して、結局どの程度深く理解しているか、いい加減な推測はできぬが、彼等は現在の青年たちが被圧迫民族の文学を紹介しようとしているのを、訝しく感じていると思う。或いは新しい詩が楽観的か悲観的かを算盤ではじきだし、それで中国の将来の命運を決めようとするなら、まるでパスカルのような冷嘲ではないかと思わせる。というのも、この時彼の言葉を次のように言い換えられるから;「学者に少しでも安定したものはいない」と。
 但し、反詩歌党の大将はやはりプラトンとなる。彼は芸術否定論者で、悲劇や喜劇に対し、すべて攻撃を加え、それで我々の霊魂の中にある崇高な理性を消滅させるものと見做し、劣等な情緒を催させ、凡そ芸術を有するというのも、模倣の模倣であって「実在」とは3層ほど隔たっている:また同じ理由でホメロスを排斥している。彼の「理想国」の中に、詩歌は民心を鼓動させる嫌いがあるから、詩人は社会の危険人物と見、許可できるのは教育資料として供せる作品だけで、すなわち神明と英雄への頌歌のみだ。この点は我が中国の古今の道学者先生の意見と差はあまり無いようだ。しかしプラトン自身は一個の詩人で、著作には詩人の気持ちで叙述したものが常にあり:すなわち「理想国」も詩人の夢の書だ。彼は青年時、かつて芸術の苑の開拓をしようとしたが、無敵のホメロスには勝てぬと悟り、一転して攻撃を始め、詩歌を仇敵視した。だが、自私の偏見は容易には永続できぬようで、彼の高弟のアリストテレスは「詩学」を書き、奴(しもべ)とされた文芸を、師の手から奪い取り、自由独立の世界に放った。
第3種は中外古今の目に触れるものすべてだ。ローマ法王の宮殿の禁書目録を見ることができるなら、或いは旧ロシア教会内で呪詛された人名を知ることができれば、多くの思いもかけぬ事を発見できるだろう。しかし、私が今知っていることはすべて聞いた話だから、紙に書く勇気はない。要するに、普通の社会でこれまで、少なからぬ詩人を罵り殺してきたことは、文芸史実で証明できる。中国の小さなことも大げさに驚くことは、西洋の過去に劣ることはなく、あだ名のような悪名をつけたし、特に抒情詩人にはそれをつけた。中国の詩人も大変浅薄偏固なのを免れず、貴妃や宮女の墓を過ぎる時は「無題」一首を作り、樹木の叉を見ては「感あり」を賦した。これに相応し、道学先生も神経過敏となり:「無題」を一見しては心跳び、「感あり」を目にすると顔が発熱し、甚だしきに至っては、学者だと自任しており、将来彼を国史が文苑伝にいれるのを大変心配する。
 文学革命後、文学には転機ができたと言われるが、これが本当かどうか分からぬ。ただ戯曲もまだ芽を出しておらず、詩歌も気息奄奄で、数人が偶然呻吟しているが、厳寒の風にふるえる冬の花の如し。先輩の老先生や後輩の若いのに老成したような人たちは、近来とくに恋愛詩を嫌悪している:だがこれを言うのも変ではあるが、恋愛を詠嘆する詩歌は確かにあまり見ない。私のような素人からみると、詩歌は本来自分の熱情を発抒することで成り立ち:ただそれに共鳴する心の弦があるのを願うのだ。多少にかかわらず、それがあればそれで良いのだ:老先生の顰蹙に対しては、何も恥じることはない。たとえ少しばかり雑念を帯びていても、気持ちとしては愛する人をひきつけることにあり、或いは「かっこよく見せる」類で、人としての情にもとることはない。だから正しくいささかも怪しむには足りない。老先生の顰蹙に何の恐れることもない。意は人を愛すことにあり、先輩老先生とは全く関係ないのだ。彼らが頭を揺らし、急に筆を止め、彼らを喜ばせるのは逆に彼らに失敬となるのだ。
 我々が美しいものをめでる際に、倫理的な観点から動機を論じるなら、必ず「作為がない」ということを求めるが、それはまず先に生物と離絶しなければならない。柳陰の下で黄鸝の鳴くのを聞くと、我々は天地の間に春気が横溢してくるのを感じ、蛍が草むらに飛びかって明滅するのをみると、秋の心をふと懐く。鸝の歌うのと、蛍の照らすのは「何のため」か?あからさまに言えばそれはみな「不道徳」で、まさしく「目立ちたがろう」としており、配偶者を得んとしているのだ。すべての花はまぎれもなく植物の生殖器官だ。多くの美しい外衣をまとっているが、目的はもっぱら受精にあり、人が神聖な愛を語るより露骨である。たとえ梅や菊のような清高なのも例外ではない――憐れむべきか、陶潜や林逋(宋の詩人)はそれらの動機を知らなかった。
 ちょっと注意せぬと、話はまたはなはだ宜しくなくなる。急いで点検せぬと、本当に拳術の方に向かわざるを得なくなるのではと心配だ。しかし題から大分離れるのも、無理やりするのも容易でないから、再び近似の事に戻るしかなく、ここらで終わりとしよう。
 文士のパトロンになるのは、文芸を賛助するに似ているが、その実、敵でもある。宋玉、司馬相如たちはこのような待遇を受け、その後の権門の「清客」と同じで、みな声色狗馬の間に位置する玩物だ。(戯曲や女色、犬を愛玩し騎馬したりすることの間に入る)チャーリー9世の言動は、このことを更に十二分に透徹していることの証だ。彼は詩歌が好きで、いつも詩人に褒美を与えて良い詩を作らせ、時に言った:「詩人は競馬馬だから、うまいものを食べさせねばならぬ。だが、彼らを太らせてはいけない:太りすぎると役に立たなくなる」これは太っていて良い詩人になろうとする人には良くない話だが、幾分か真実である。ハンガリーの最高の抒情詩人、ペトフィにB. Sz夫人の肖像と題する詩があり、大旨は「貴女は貴女の夫をとても幸福にしたいと聞いたが、私はそうならぬよう望む。なぜならば、彼は苦悩する夜の鶯で、今幸福の中で沈黙している。彼を過酷に遇すれば、彼をいつも美しい声で鳴きださせることができるだろう」まさに同じ意味だ。だが誤解しないで欲しいが、私が青年に良い詩を作るように提唱しているのは、幸せな家庭で夫人と毎日喧嘩をしなければならぬと思わぬように。事情はいろいろあって尽きることがない。相反する例も少なくなく、最も顕著なのはボローニンと夫人だ。(英国詩人で夫人も詩人で、家族の反対を押し切って結婚、イタリアで長年過ごした)
     25年1月1日

訳者雑感:
花は植物の生殖器官とは彼が思いついたことか、誰かが述べているのを引用したものか?陶淵明の愛した菊の花は清らかで気高く、とても目立ちたがり屋で、受精を果たすために咲いているとは、陶淵明のころには思いもしなかっただろう、と記しているのも面白い。
2016/01/09記

 

 

 

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古よりこれあり。

古よりこれあり。
 魯迅の雑文を読んでいて、丁度「フランス人の幕末維新」(有隣新書)M.ド・モージュ他、の34ページに
面白い文章があったので下記する。
(それまで日本と中国の類似点を挙げた後)日本人は陽気な質で、頭が良く、ものを覚えることを渇望するのに、
中国人は己の国に固有でないものをすべて軽蔑する。(以下略)
 中国にはすべてのものが古よりこれあり、でそうでないものは良くないと軽蔑する。良いものなら古からこれあり、
だったはず、というのが中国人に信奉されてきたのだ。だから太陽暦が紹介されても、いまだに旧暦を大事にする。
三権分立が紹介されても、今も司法は政府の管下にあり、決してフランス式の制度が良いと考えていない。
革命で王政を廃止して共和制にしたことは珍しいことであったが、今は一党独裁という形で、反対党の台頭を許さない。
台湾のようになるのはどれくらい先だろうか?
   2015年12月31日

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