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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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左翼作家連盟への提言

左翼作家連盟への提言
    3月2日、左翼作家連盟成立大会にての講演
 多くの事については、すでに詳しい話がなされたので、私から改めて話すことはありません。私は今「左翼」作家は、いとも簡単に「右翼」作家に変ってしまうと思っています。なぜでしょう?第一、実際の社会闘争に接してなければ、ガラス窓の部屋で文章を書いて問題を研究するだけなら、どんな過激な「左」にもなれますが、実際にぶつかると、すぐ砕け散ってしまう。部屋の中なら徹底的な主義を高談するのはとても容易だが、それはまた「右傾」するのも大変簡単なのです。
 西洋で「サロン社会主義者」と呼ぶのがこれです。「サロン」とは客間で、そこに座って社会主義を談じるのは高雅でスマートだが、実行など考えてもみない。この種の社会主義者はまったく頼りになりません。更に今、広義の社会主義思想を少しも持たない作家や芸術家、例えば、労働者農民大衆は奴隷であるべきとか、虐殺され、搾取されるべしと説くような作家や芸術家は、殆ど
いなくなった。ムッソリーニは例外。しかし彼は、文芸作品は書いていない。
(勿論こうした作家も、皆無とは言えない。中国の新月派の諸文学家と所謂ムッソリーニの寵愛するD’Annunzioがそうだ)
 第二、革命の実際状況を知らないと、簡単に「右翼」に変わる。革命は苦痛で、中には汚らわしいことや血が混入し、詩人の想像するような趣のある物ではない。その完美さは:革命といえども、特に現実の事となると、色いろ卑賎で煩わしい任務もあり、詩人の想像するようなロマンティックなものではない。革命は勿論破壊する。然る後、建設が必要で、破壊は痛快だが建設は煩わしい。だから革命にロマンティックな幻想を抱くものは、ひとたび革命が近づき、進行すると、すぐ失望してしまう。ロシアの詩人イエセーニンは、最初十月革命をとても歓迎し、「天上と地上の革命、万歳!」と叫んだ。「私はボリシェビキだ!」と言ったが、革命後には、実際の状況は彼の想像と全く違い、ついには失望して、頽廃した由。イエセーニンはその後自殺したが、この時の失望がその原因の一つ。またピリヤックやエレンブルグも同様だ。
 我が国の辛亥革命の時も同じで、多くの文人、例えば「南社」の人々は、初めは大抵革命的だった。一種の幻想を抱いていて満州人を追い出しさえすれば、
すべては「漢官威義」(漢代以来の礼儀制度)を回復でき、自分たちは長い袖の衣装を着て、冠をかぶり、帯をしめ、大股に通りを歩けると思っていた。それがどうか。満清皇帝を追い出した後、民国ができたが、状況は全く違うので、失望し、その後一部の人は新しい運動に対して、反動的となった。
 我々も革命の実際状況を知らないと、簡単に彼らと同じようになるだろう。
 また、詩人や文学家が全ての人より高い所にいて、彼の仕事は全ての仕事より高貴と考えているなら、間違っている。例えば、かつてハイネは詩人が最も
高貴だと考え、上帝は公平だから詩人は死後、上帝の所へ行き、上帝を囲んで座り、彼にお菓子を食べさせてくれる、と思っていた。今、上帝がお菓子をくれるなどの話を信ずる者はいない。だが、詩人や文学家が今も労働大衆の革命の為に活動し、将来革命が成功したら、労働者はきっと大変な報酬で特別な待遇をしてくれ特等車に乗せてくれ、特等の食事を用意し、或いは労働者がバター付きパンを捧げてくれ「我々の詩人よ、食べてください!」という:と考えるのも正しくない。実際にはけっしてそんな事はない。
多分今より更に苦しいだろう。バター付きパンなど無く、黒パンすら無いかもしれない。ロシア革命後の1-2年の状況はそうであった。こうした状況を知らぬと、容易に「右翼」に変じてしまう。事実労働大衆は、梁実秋氏のいうように「見込みのある者」でなければ、けっして知識階級を特に重視しないし、私の訳した「潰滅」のメティク(知識階級)のように、却っていつも鉱山労働者らから、あざ笑われるのだ。言うまでも無いが知識階級は、知識階級がしなければならない事があり、特にそれを軽視すべきではないが、労働階級は詩人や文学家を特別に例外的に優待する義務は無い。
 さあ、今後我々が注意すべき点を挙げてみよう。
 第一、旧社会旧勢力との闘争には、堅固な決意を以て持久戦で臨み、実力を重視すること。旧社会の根底はもともと非常に堅固であり、新たな運動はそれ以上の力が無ければ、何も動揺させられない。更に、旧社会は新勢力を妥協させるためんに有効な手段を持っているが、彼らはけっして妥協しない。中国にも新しい運動はたくさんあるが、いつも旧勢力にいいようにあしらわれて終ってきた。その原因は大抵新しい方が堅い決意に裏付けられた大きな目的意識を持たず、小さな要求がかなえられるとすぐ満足してしまうためだ。
 口語運動でも、旧社会は当初死ぬほど抵抗したが、暫くして口語の存在を許容し、少し哀れな地位を与え、新聞の片隅に口語文を載せた。しかしこれは旧社会からすれば、新しい物も何ということは無い。恐ろしくも無い。だから存在させてやってもいい、ということで、新しい方は満足し、口語文はこれで存在権を得たと思った。また、この1-2年来の無産文学運動もほぼ同じで、旧社会も無産文学を許容し、無産文学もさほどのことはないし、無産文学を玩んで、装飾として客間には骨董の磁器のほかに、無産者用の粗末な碗も置いて、別の趣とした:だが、無産文学者は文壇に小さな地位を得て、原稿も売れたので、もう闘争は不要で評論家も凱歌を歌い:「無産文学は勝利した!」とした。だが個人的な勝利以外、無産文学についていえば、つまるところそれほどの勝利といえるだろうか?況や無産文学は、無産階級解放闘争の一翼であり、無産階級社会の勢力の成長と足並みを揃え、成長するのであって、無産階級の社気的地位が非常に低い時、無産文学の文壇での地位が大変高い、というのなら、
それはただ無産文学者が無産階級から離れ、旧社会に戻ってしまったことを証するのみだ。
 第二、戦線は拡大すべきと思う。一昨年と昨年、文学面での良い戦いはあったが、範囲は実に狭かった。全ての旧文学旧思想について、新派の人々は注意を払わず、却って片隅で新文学者と、新文学者とが闘争をし、旧派の人々はのんびり傍観できるほどだった。
 第三、新しい戦士の群をつくるべし。今人手が実に少ない。我々は何種もの雑誌を出しているし単行本も多いが、書く人はいつも同じ数人。それで充実した内容は無い。一人ひとりが専門ではなく、これもやりあれもやる。翻訳も小説も、その上評論も書き、詩も書くなどで、どうしてうまくできようか?人が少なすぎるためで、人が多くなれば翻訳も専門、創作も専門、評論も専門にでき:敵との戦いも軍勢が多くなり勝利し易くなる。この点についていえば、一昨年創造社と太陽社が私を攻撃してきたとき、その力は実に薄っぺらで、私ですら後には、無聊に感じたし、反撃する気にもならぬほどだった。
私は後に、敵が「空城計」を執っているのを見破ったのです。あの頃、敵は専ら鳴り物を打ち鳴らすのみで、兵を募って将を練ろうとせず、私を攻撃する文は多かったけれど、ちょっと注意してみれば、すべて(同じ人の)変名で、
私を罵っている文句も同じ繰り返しだった。私はその時はマルクス主義の批評の論法を操れる人が私を狙撃するのを待っていたが、ついに現れなかった。
私は新しい青年戦士の養成に注力してきたし、幾つかの文学団体を作ったが、効果は小さかった。だが、我々は今後もこの点に注意すべきである。
 我々は急いで大量の新戦士をつくろうとしているが、同時に文学戦線上の人には「強靭さ」が必要だ。「強靭」とは清朝時代の様な八股文の「門を叩くレンガ」のようなやり方ではダメだという意味です。清の八股文は元々科挙に合格し官僚になるための道具で、ただ起承転結を巧みにし、「秀才挙人」(合格者)
になってしまえば、その八股はポイと棄ててしまい、生涯二度と使うことはないから「門を叩くレンガ」という。それで門を叩いて中に入ったら、棄ててしまい、身に帯びておくことも無い。このやり方を今でも多くの人が使っているのをしばしば目にする。一二冊の詩集や小説を出し、少しばかり名が売れたら、その後どこへ行ったのか、いなくなってしまう。教授か何かになって、功成り名を遂げたらもう詩や小説を書くことも無いから、永遠に現れない。
こうして中国には文学も科学もロクなものはない。然し我々はそれを必要としている。役に立つからである。(ルナチャルスキーはロシアの農民美術を大切にすべしと主張している。それを作れば外国人にも売れ、経済的な助けにもなるから、と。私はもし文学や科学で他の人々に見てもらえるようなものを作れたら、政治面でも帝国主義の圧迫から逃れる助けになると思う)。只文化面で
成績を残すには強靭さが無ければならない。
 最後に、連合戦線は共通の目的を持つのが必要な条件だと思う。こういう話を聞いたことがある。
「反動派は連合戦線をすでに持っているが、我々は団結すらしていない」彼らの目的は同じだから、行動は一致でき、連合戦線のように見える。一方の我々の戦線は統一できず、我々の目的が一致できぬ事を証明している。実は団体がそれぞれ小さく、または個人の為というのが実情だからで、もし目的が労働者農民大衆にあるとするなら、戦線ももちろんすぐ統一する。
 
訳者雑感:
 1930年3月に成立した「左翼作家連盟」は魯迅の最後の言葉のように目的が
「労働者農民大衆」のためという共通の目的があれば、戦線も統一する!と
の悲願であったが、国民党からの白色テロや共産党内の流派間の闘争の結果、
1935年末に解散する。翌36年に魯迅は死去。
 無産者文学とか階級闘争とかという旗印は、今日誰も見向きもしなくなった
ようだ。だが1930年代は中国のみならず、日本や欧米諸国で、無産階級解放の
運動は大きな潮流であった。世界恐慌など無産者がもっとも苦しい生活に追い
こめられていたからだ。
今の中国には無産者はいないだろうか。いてもそのひとたちのために文学を書こうという人はいまい。階級というのも有産と無産ではなく、党員と金持ち連中(往往にして党員だが)とそうでない一般人という区分けしかない。この
二つの間の争いは、あるかも知れぬが、マルクスの考えていたような階級闘争
とは大きな差がでてきた。
 階級闘争が不要になった時、大衆の目をどちらに向かわせるのか。民族闘争
で、目を国外に向かわせるか、あるいは…。
   2011/08/14訳
 

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張資平氏の「小説学」

張資平氏は「最も進歩的」な「無産階級作家」であって、諸兄がまだ「萌芽」や「拓荒」の状態にある時、既に収穫に入っていた由。これ即ち進歩で、長足で飛翔するが如くに疾走し、後塵すら拝めぬ程だった。しかしその後を追跡してみると、彼が(彼の経営する)「楽群書店」に走りこむのが見えた。
 彼はかつて三角関係が売りの小説家で、女の性欲は男より我慢できぬほどで、男を求めるとき、女はとても悩む。これは勿論無産階級の小説ではない。だが、作家は方向転換したら、道を見つけて、鶏犬も飛昇する如くで、況や神仙のぬけがらをや。「張資平全集」を読むべし、と。これが収穫だ、と。おわかり?
 まだある。「申報」の報告に今年の大夏の学生は「青年の崇拝する張資平先生」に「小説学」を学んだ。中国の旧例では英語の教師は、外国の歴史も教えられる。況や小説の教師は勿論腹の中は小説で一杯である。さもなければ、書けるわけがない。ホーマーには「史詩作法」が無いとか、シェークスピアに「戯劇学概論」が無いといえないだろう?
 嗚呼、講演を聞く門徒には福があろう。これから三角関係とは、恋愛とは何かを知ることができる。
女が欲しいなら、思いもよらなかっただろうが、女の性欲の衝動は君よりずっと強く、向こうから走りよってくるのだ。友よ!待っていなさい。だが可哀そうなは、上海に住んでいなくて遠くから「崇拝」するほか無く、その門に入ることのできない青年だ。彼らはこの偉大な「小説学」を恭しく拝聴することができない。今私は「張資平全集」と「小説学」の精華を下記のようにまとめ、遥か遠くにいるこれらの崇拝者に献じ「梅を望んで渇を止める」こととしよう。
  それは即ち―― △ 。    
                    2月22日
訳者雑感:張氏は出版社注には、日本政府の「興亜建国運動」の「文化委員会」
主席を務め、大量の三角恋愛小説を書いた由。最も進歩的な無産階級作家から
方向転換して、三角関係の小説を書きまくって、自分で書店も開いたという
発展家。中国の作家とか芸術家、演劇、美術などに携わる人たちは、政治家と
手を結ぶというか、自らも政治の世界に入り込んで、政治を動かしながら、文化活動をするという伝統があるようだ。
 唐の時代の詩人は、ほとんどが役人であり、政治の中枢にいたいと願い、中枢から追い出されたときも、早く中枢に戻りたいという念を棄てきれずに、その中からたくさんの名詩を残した。
 宋の時代も、明や清でも今日に伝わる詩詞のほとんどがその系譜に繋がる。
辛亥革命後も、魯迅が論戦をいどんだ相手の半分ほどは、政治に身を置きながら文芸活動をしている。というか文芸よりも政治が主であるようだ。
 爾来、名詩詞の多くは、中枢から追い出された政治家たちの筆になるものが
多いが、毛沢東にも多くの詞が残っていて、30年前までは、中国の公共の場所や、ホテルのロビーなどの壁に、彼の詞がたくさんあった。今はどうなっているのだろうか。大半は彼の像と共に撤去されたりしたが、農村の家などには、
彼の写真とともに彼の詞がまだ残っていることだろう。
 乾隆帝は各地に出かけて、たくさんの石碑を残している。毛沢東も岳陽楼とか、南方各地に彼の字を残しているが、どうなるだろう。
  2011/08/12訳

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革命的ではない急進革命論者


革命軍の戦士の意識はすべて、正しくて確固としたものでなければならない、それでこそ真の革命軍であり、そうでなければ何の価値も無い、というなら、一見まことに正しそうで徹底した意見に見えるが、できもしない難題で空虚な理想論にすぎず、革命を害する甘い処方薬だ。
 もし帝国主義の支配下で、大衆を訓練するのに、夫々が「人類愛」を持ち、然る後、笑顔で拱手して、「大同世界」をつくろうなどが実現できないのと同様、革命者が抵抗している情勢の下では、言論や行動で大多数の人々にすべて正確な意識を持たせるのは不可能なことだ。
従って、それぞれの部隊が蜂起する時、戦士は現状に反抗するという意思表示するのであって、大筋は同じでも最終目的は大きく違ってくる。
 ある者は社会の為、或いは小集団の為、または恋人のため、或いは自分の為、
更には自殺の為などいろいろだ。然し、革命軍はそれでも前進できる。進軍の途中、敵に対して個人主義者の弾丸と集団主義者の弾丸は同じように死命を制すことができるからだ。
 いかなる戦士も死傷に際し、軍中の戦闘力を減らそうとするから、どちらも互いに等しくなる。しかし最終目的が異なるから、行軍時にある者は落後、あ
る者は脱走、ある者は頽廃、ある者は叛逆するが、進行をさまたげない限り、後になるほどこの隊伍はより純粋で精鋭になる。
 以前、葉永蓁君の「短い十年」の序を書き、社会の為に尽力したと考えたのはこの意味だった。主人公は前線に出て哨兵になり(発砲の方法すら教えてもらえなかったが)只膝を抱えて哀歌するより、或いは嘆息して筆を執る文豪たちより、真に迫るものがある。もし現在の戦士はすべて正確で鋼鉄のような堅い意識を持たねばならぬとしたら、単にユートピア的空想というだけでなく、情理にもとる苛酷な要求にしかすぎない。
 但し後に「申報」に更に厳しく徹底的な批評がのり、物語の主人公は、従軍の動機が自分の為なので、不満はさらに強くなった。「申報」は平和を一番に考えてきて、革命を最も鼓吹しない新聞だから、始め見たときはどうもそぐわぬ感じがした。それで指摘したいのは、顔つきは徹底した革命者に似ているが、実は極め付きの不革命、革命を害する個人主義の論客と、そうした批評の魂と新聞の実体をあわせてみようというのだ。
 其の一は、頽廃者で、自分には確固とした理想も力も無いため、流亡して刹那の享楽を求め:ありきたりの享楽にはすぐ飽き、時には新たな刺激を求め、
その刺激も激しくないと物足りず、快感を味わえない。革命もその頽廃組の新たな刺激の一つで、美食家が御馳走に飽き、美味にも食傷し、胃もたれした時、
胡椒と辛子の類を食べて、額に汗を少し出してから、やっと茶碗半分ほど飯を
流しこむのと同じだ。革命文芸に対しては、徹底して完全なものを求めるが、
時代の欠陥が少しでもあると、眉を寄せて一顧にも値せぬという。事実から乖離しても爽快なら良しとする。フランスのボードレールは頽廃詩人で有名だ。
革命を歓迎したが、革命が彼の頽廃生活を妨害したとき、革命を憎んだ。だから革命前夜の紙上の革命家は、とりわけ極めて徹底して激烈な革命家は、いざ
革命に臨むと、それまでの仮面を――自覚の無い仮面を、いとも簡単に脱ぎ捨ててしまうことができる。この種の史例は、ほんの小さな釘にぶつかっただけ、
低い地位に就いたり(或いはお金をもらったら)すぐ、東は東京にこそこそと逃げ出し、西はパリに向かう成仿吾のごとき「革命文学家」に献上すべきだ。
 其の一つは、何と命名すれば良いか。要は無定見で世の中は一つも正しいことはなく、自分は一つも正しくないことは無いと思っている輩。つまり、やはり現状が最善という人々。彼らは今評論家として語る時、勝手気ままに、ある種のものを探し出してきて、相反する者を反駁する。互助説を論駁するときは、
生存競争説を引っ張り出し、生存競争説を論駁したいときは互助説を使う:
和平論に反対する時は階級闘争説を使い、闘争説に反対する時は人類愛を主張。
論敵が唯心論者なら自分の立場は唯物論で、唯物論者との議論が難しくなると、唯心論者になる。
 要するに、ヤードでロシア里を測ったり、法尺でメートルを測って、いずれも合致しないのを悟るようなもの。他のもので自分に合うものは一つも無く、自分ひとりだけが不偏不倚だと思い、永遠の自己満足を得る。こうした人たちの批評と指示に従っていると、完全でなく少しでも欠点があるとすぐダメになる。
 しかし、現在の人とものごとはどこに完全無欠のものがあろうか。万全を期そうとするとなにもできない。何もしないことこそ、却って大きな問題になる。
要するに、人の生きる道は非常に煩雑で難しいから、革命家になるということは、勿論さらに難しいこと言うまでも無い。
「申報」の評論家は「短い十年」に対して、徹底した革命的な主人公を求めているが、社会科学の翻訳に対しては毒々しい冷笑を浴びせているし、そうした魂は後者の流れで、いささか頽廃者の人生への無聊に飽きて、辛子を口にして、胃を開こうという気味を帯びている。 
 
訳者雑感:原題は「非革命的急進革命論者」で従来は「非革命的……」とそのまま日本語に使われて来た。今回「革命的ではない…」とした。その意図はと
いえば、「さあ急いで革命を成功させるのだ」と扇動するような言論を展開する急進革命論者たちは、けっして革命的ではない、と言いたかったからだ。扇動的な「急進的革命論者」の論法は、魯迅が引用しているように、論敵を論破することに力点が置かれ、完全無欠を求め、現実から乖離していても構わないという激烈なものだからである。
 今回の温州列車事故でも、何よりも建設の速度と高速列車の速度を速めるのを最優先させよ、と扇動的に指示してきた「急進論者」が道を誤まらせてしまったようだ。同じ鉄道省内にもシステムとか制御関係など総合的な基礎と並行して、地道に建設しよう、速度も始めはゆっくりと、という声が「大きな声」にかき消され、もみつぶされてしまったことによるのだ。いつの時代も、威勢のいい大きな掛け声に、正しい意見はもみ消されてしまうが、大きな声を出す
人たちが、本当に「革命的」ではないのと同様に、本当の「高速鉄道建設」に
適している人たちとは言えない。
   2011/08/11訳  

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習慣と改革


 体と精神が硬化した人民は、ごく小さな改革すら阻止しようとし、表面上、自分が不便になると心配しているようにみえるが、実は自分に不利になるのを恐れているので、反対の口実は往往にして、公正かつ堂々たるものに見える。
 今年の陰暦廃止問題は元々小さなことで、大きな問題ではないのだが、商人は連日たいへんだと騒ぐ。商人だけでなく、上海の無業の遊民、公司の雇員なども嘆息して言う。これは農民の農事に不便だとか、海で働く船員の潮待ちに不便とか並べる。唐突に自分とは関係の無い農夫や船子に同情する。まことに、
いかにも博愛のように見える。
 陰暦1223日には爆竹があちこちでパンパンと鳴った。ある店員に「今年は旧暦でやれるが、来年は新暦でやるのかい?」と訊いたら、「来年は来年さ」
「年が明けてからのことさ」と、彼は来年は絶対陽暦でなきゃだめだとは信じてない。だが日めくりには陰暦は消えてなくなり、節季だけが残っている。
然し新聞には「120年先までの陰陽合暦」の広告が出た。よし、彼らは曽孫、
玄孫の代までの陰暦を用意してくれた。120年先まで!
 梁実秋氏等は数を頼むのは嫌いというが、多勢の力は偉大で、大事なことで、
改革を志す人も民衆の心の奥を知らねば、あの手この手で利益誘導して改善し、ロマンや古典などどんなに高尚な議論をしても、彼らは関心なく、わずか数人が書斎で互いに褒めあって自己満足するに過ぎない。仮にほんとうに「良心的な政府」ができて、改革令を発布しても、彼らによってすぐ元の道に戻されてしまうのだ。
 真の革命者は自ら独自の見識を持ち、ウ氏(レーニンの意)のように、「風俗」「習慣」を「文化」の中に含み、こうしたものを改革するのは非常に難しいと考えていた。これらのことを改革せねば、革命も成功したことにはならないし、
砂上の楼閣に過ぎず、すぐ倒壊すると思う。中国の最初の排満革命は、饗応者も容易に得られたのは、「光復旧物」即ち「復古」をスローガンに掲げたからで、
保守的な人々の同意が容易に得られた。だが後に、歴史上例のない開国のはじめの盛時は、一本の辮髪をむだに失っただけで、人々はたいへん不満に感じた。
 それ以降の新たな改革はことごとく失敗し、一二の改革を実行したら、反動がその何倍にもなり、上記の日めくりに陰暦を禁じたら、逆に120年先までの
合同暦が出てきた。
 この種の合同暦を歓迎する人が大変多い。それは風俗と習慣が擁護するからで、風俗と習慣の裏打ちがあるからだ。他の事もこの通りで、深く民衆の中に入らねば、そして彼らの風俗習慣をよく研究解剖し、好悪を分別し、存廃の基準を決め、慎重に施行法を選ばねば、いかなる改革も習慣の岩石に圧砕されるか、短期間、表面に浮遊するに過ぎない。
 今はもう書店で本を手に、宗教法律文芸美術…などを議論している場合ではない。するとしても、まず習慣と風俗を知り、こうした暗い部分を正視する勇猛さと毅力が求められる。もしもしっかりとこうしたことを見定めぬなら、改革のしようがない。ただ未来の光明を大声で叫ぶのは怠慢な自分をあざむき、怠慢な聴衆をあざむくだけである。 「萌芽月刊」(193031.)
    (1929109日に国民党が陰暦禁止を発布した)
訳者雑感:
 今年の旧正月のころ、香港のテレビが、東アジアで陰暦禁止に成功したのは、日本だけだと報じていた。韓国台湾はもちろん、ベトナムやシンガポールなど、世界各国に散らばる華人はすべて陰暦の正月を一番大切にする。
 本文にある通り、1223日は正月の7日前としてもう爆竹を鳴らして祝う。
正月三が日はもちろん、小正月の15日まで大変なドンチャン騒ぎで新年を祝う。
すべての農事が陰暦に基づいて行われて来たから、当然のことといえば当然だ。
 香港のテレビは過去三回、中央政府が陰暦を禁止した、という。辛亥革命のとき、それからこの1929年、そして共産党政府になったとき。しかしいずれも
掛け声倒れでうまくゆかなかった。新暦の正月は何でもない只の休日である。
日めくり(中国では最近は写真のきれいなカレンダーも好んで壁に掛けるが基本はかつての日本もそうだったように日めくりで、その日に行うべき農事とか、格言的なものが印刷されているのを好む)には陰暦が印刷されている。最近は日めくりの代わりに一日ごとに四角枡で囲った中に旧暦とか関連記事の入った大型カレンダーが流行している。
 本編で魯迅が指摘しているように、中国では、数千年来陰暦で生活してきた。
司馬遷が史官として歴史書を残したが、彼は暦もつかさどっていて、太陰太陽暦の採用に関係している由で、これで二千年以上暮らしてきて何の不便もない、
それを新暦に換えると不便に感じるし、不利になるとさえ思う。それが3回発布され、三回とも反故になった背景だろう。
 日本人も我々の祖父のころ農事は旧暦の日めくりで作業をしながら、正月や盆は新暦で祝っていた。これは祝日というお上からの押し付けの「制度」によることが大きいと思う。年末帰省するにも盆で遠くの故郷に帰るのも一定の休みがなければできない。これを明治政府が西洋の暦に合わせるという大義を掲げ、実は公務員への給与支給を減らせるという一石二鳥を狙って、強行に
施行した結果であると言われている。それに従順に従い、旧暦をいとも簡単に放棄できたのは、日本民族が淡泊なせいか。隣の韓国が日本の植民地支配を受けた後も、いまだに棄てきれずにいるのは、風俗習慣的には、大きな違いがあると言えよう。頑固と革新とはどういう関係にあるのだろう。
       2011/08/08

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「文学の階級性」その6

6.
 私は冒頭で「硬を以て自居するが実際は綿のような軟弱が新月社の特色だ」と言ったが、ここで簡単に補足して本編を終える。
「新月」刊行後、「厳正な態度」を主張したが、人を罵る相手には反撃して罵り返し、謗るものには謗り返した。このやり方は間違ってはいないし、まさしく
「其の人の道で以て其の人の身を治す」である。一種の「報復」だが自分の為ではない。第二巻67号合冊の広告に「我々は皆‘容認’の態度を保持し
(‘不容認’の態度は我々が容認しかねる相手を除き)我々は穏健で理性にかなう学説を良しとする」という。この2句もその通りだ。「目には目を、歯には歯」
で最初から一貫している。しかしこの大道を歩んで行くときっと「暴力を以て
暴力に抗す」という問題にぶつかり、これと新月社諸君の好む「穏健」とは、
相いれない。
 今回、新月社の「言論の自由」が圧迫され、旧例なら圧迫者には、圧迫で
返すのだが、「新月」に顕れた反応は「言論の自由を圧迫する者に告ぐ」一篇
のみで、まず相手の党義を引用し、次に外国の法律を持ち出し、最後に東西の
史例を引いて、凡そ自由を圧迫する者は、往往にして滅亡に至るとして、相手の立場になって、これを相手への警告としている。
 従って、新月社の「厳正な態度」「目には目を」の方針は、つまるところ、力関係が拮抗または弱い相手に対して通用するのみで、もし力の強いものに目が腫れるほど殴られたら、例外を作って、両手で顔を抑えながら「自分の目に気を付けなよ」と遠吠えするのみである。    
 
訳者雑感:
 魯迅は「新月社」の諸君に阿Qの精神を見た。それは即ち殆どの中国人が持つものである。自分より力の強い相手には、目が腫れるほど殴られても、反撃できない。そのくせに厳正な態度で、目には目をでもの事ごとに対処する、と口では言う。自分の掲げる「言論の自由」を圧迫するお上に対しては、その党の綱領にうたわれている「党義」を引用し、外国の例とか古今東西の歴史に照らし、「言論の自由を圧迫」するものは滅びると警告するのみで済ます。
 今日、言論の自由を唱えられるのは、ブログとツイッターのみ。活字メディアなどは、すぐ編集長などが更迭されたり追放されてしまう。日本ではまだ、
鉄道事故の報道がされるが、中国では殆ど報道すらされなくなった。
       2011/08/07

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「硬訳」と「文学の階級性」その5

5.       
 ここまで書いたら、さあ今度は私の「硬訳」の話をしよう。推察するに、これに関連して起こる問題で、無産文学が宣伝を大切に考えるなら、宣伝は大勢の人が分かるものでなければならず、それならお前はなぜこんな「硬くて」分かりにくい理論ばかりの「天上の本」を訳したのか?そんなものは訳さないのと同じではないか?と詰問することだろう。
 私の答えは、はい:自分の為です。となる。数人の無産文学の評論家を自任している人たち、そして「爽快」を求めようとしていない人、艱難を恐れず、なんとかこうした理論を勉強しようとしている読者の為です、と。
 一昨年来、私個人への攻撃が極めて多くなり、どの雑誌にも大抵「魯迅」の
名が出ており、彼らの口吻は一見したところ、大抵は革命文学家のようだ。だが何篇か見ると、だんだんクダラヌ話ばかりが多いと感じた。
 メスも肌目をスパッと割けぬし、弾も致命傷にはならぬ。例えば、私の属する階級は、今も判定されていないが、突然プチブルとかブルジョアだと言いだしたり、時には封建の遺物に昇格されたり、ひどいのは「ヒヒ」と同じだという。(「創造月刊」の「東京通信」に郭沫若の言として;出版者注)ある時には、
歯の色まで文句を付けられた。このような社会では封建遺物が頭をもたげるのは十分ありうることだ。だが、封建遺物がヒヒであるとは、いかなる「唯物史観」にも説明は無いし、黄色い歯が無産階級革命に有害だという論拠も探しだせぬ。それで、参考としてこのような理論はとても少ないから、ひとはだいぶ
いいかげんだと思う。敵に対するには、相手を解剖し、かみくだき咀嚼することが大事である。一冊の解剖学と調理法の本があれば、その手順通りやれば、体の構造やその中身もさらにはっきりし、味もでてくる。人は往往、神話のプロメテウスを革命者に比し、火を盗んで人類に与えた者とし、天帝の虐待にも悔いることなく、その偉大で堅固な忍耐力はまさに同じだと考える。だが私が外国から火を盗んできた本意は、自分の肉を煮ることにあり、もし味が良くて、食べる人がメリットを感じられれば、肉体を無駄にしなかったことになる。
 初めは全くの個人主義で、且つまた小市民的な奢侈で、おもむろにメスを取り出し、逆に解剖者の心臓に切り込んで「報復する」にある。梁氏のいう「彼らは報復せんとしている!」というのは単に「彼ら」だけでなく、この様な人間も「封建遺物」の中に結構いるのだ。然るに、私もこの社会で役に立ちたいと願い、観客の目に入るものはやはり火と光である。かくしてまず手始めに
「文芸政策」を取り上げたのは、そこに各派の議論が含まれていたからだ。
 鄭伯奇氏は今本屋を開き、ハウプトマンとグレゴリー夫人の劇本を出した。当時彼はまだ革命文学家で、編集した「文芸生活」誌上で、私の翻訳を笑い、
没落したことに甘んじずにやっているが、残念ながら他の人に先鞭をつけられてしまった。一冊の本を訳したくらいで浮上できるものなら、革命文学家になるのはいとも容易だが、私はそうは思わぬ。ある小新聞に私が「芸術論」を訳したのは「投降」したことを意味すると言われた。(魯迅が「創造社」から批判されたのち、これを訳したことは投降を意味した、ということ:出版社注)
その通りだ。投降はこの世にはよくあることだ。但しその時、成仿吾元帥は
とっくに日本の温泉から出て、パリのホテル住まいを始めてしまったから、それでは誰に対して投降するのか。今年は言い方が変わり「拓荒者」と「現代小説」では私が「方向転換」したということになった。私が読む日本の雑誌にこの4文字が以前の新感覚派、片岡鉄兵に加えられ、いい名詞とみなされた。
 しかしこうしたもつれた名前は、ただ上辺だけの名目で、考えをめぐらすことすらしようとしない旧弊である。無産文学の本を一冊訳したくらいで、方向を証明することはできぬし、もし曲訳なら有害になってしまう。私の訳本は、そうした速断をする無産文学評論家にも献上しようと思う。彼らは「爽快」を貪ろうとはしないで、苦労しながらこうした理論を研究する義務があるからだ。
 しかし私は自ら信じるが、故意の曲訳はないが、私の尊敬せぬ評論家の傷口に打撃を与えられれば、うれしいと思う。私の傷口を撃たれた時は、その痛さを耐え忍ぶ。私はけっして勝手に足したり引いたりすることは肯んじないのも、
「硬訳」が多くなった原因の一つだ。世間には良い訳者もいて、曲がることも無く、硬訳も死訳もない文章に訳せる人も勿論いるから、その時は私の訳は、
自然淘汰される。私はこの「無有」の状態をうめる「まあまあ良い」空間に至ればよいとするものだ。
 世間には同人雑誌は大変多いが、各社の人員は少なく、志は大きいが力不足で、全ページをうめきらぬから、各社の責任者は敵を攻め、味方を助け、異分子を掃討する評論家は、他の人が雑誌に寄稿するのを見て、嘆息し、首をふりながら、切歯扼腕して悔しがる。上海の「申報」に、社会科学の本訳者は「犬猫なみ」と蔑視したのは、それほど憤慨した証拠だ。
「中国の新興文学での地位は、とうに読者諸氏の御存じ」の蒋光Z(慈だったが
大革命のとき、‘赤’を慈に改称した由)氏はかつて東京に病気療養に行き、
蔵原惟人に会い、話が日本には翻訳はたくさんあるが、とても程度が低いということに及び、全く原文より理解が難しい… 彼はそれで笑いだし「それじゃあ、中国の翻訳界はさらにでたらめなわけだ。近頃中国の書籍の多くは、日本語からの重訳で、日本人が欧州人のある国の作品を、誤訳や改削していたら、
それを中国語に訳したら、それは半分くらい違ったものになってしまうじゃないか…」(「拓荒者」参照)。というのも翻訳にたいへん不満で、特に重訳に不満を示したもの。梁氏は書名と欠点を挙げているだけだが、蒋氏はにこっと笑って、余すところなく一掃し、まったくとんでもない所にまで広がったものだ。
蔵原惟人はロシア語から多くの文芸理論と小説を直接翻訳しており、私個人としては、極めて有益である。中国にも一二名このような誠実なロシア語翻訳者が、次々に良書を訳してくれるといいのだが。ただ単に「でたらめだ」と罵るだけで、それでもう革命文学家の責任を果たしたなどと思わないで欲しい。
 しかし今ではこうしたものは、梁氏は訳さぬし、「犬や猫なみ」と人を蔑んだ偉人たちも訳さない。ロシア語を学んだ蒋氏は最適任だが、養病後、「一週間」
一冊出したきりである。日本ではもう2種の訳がでているのに。中国はかつて大いにダーウィンやニーチェを取り上げたが、第一次大戦時、彼らをひとまとめにして、大いに罵った。ただダーウィンの著作の翻訳は一種類のみだし、ニーチェは半分しかない状態で、英語独語を学んだ学者及び文豪は顧みることもしないし、価値を認めることもうっちゃっている。だから暫時多分人に笑われ
罵しられながらも、日本語から重訳し、或いは原文と日本語訳を照らし合わせながら、直訳するしかない。私もやはりそうしようと思う。また多くの人が、
こうやって空理空論だけの空虚さを徹底的にうめていって欲しいと思う。我々には蒋氏のように「面白がったり」梁氏にように「待ってみよう……」では
いられないから。
 
訳者雑感:
 魯迅は晩年にも翻訳を熱心に行い、55歳のときゴーゴリの「死せる魂」の
翻訳を出版し、翌年死ぬまでチェーホフの作品なども訳した。この文章からみると、彼は原文と日本語訳を照らし合わせながら訳したのだろうか。ロシア語でなくドイツ語訳との照らし合わせかもしれない。
 中国の書店には今、世界各国の所謂「名作集」の翻訳がたくさん並んでいる。
しかしその傾向をみると、子供向けの所謂教養的なものが圧倒的である。もっと端的に言えば、古典名作であって、同時代のものは比較的少ない。それは
子供向けのみならず、一般成人向けでも同じような傾向にある。
 30年前まで、書店には「毛沢東選集」などの思想的な本ばかりが並び、外国の翻訳本など探しても見つからなかったことからすれば、大きな変化ではある。
しかし、いずれにせよ日本との比較においては、欧米各国をはじめとする現代の作品の翻訳紹介はいまだしの感がある。
 中国には中国式の独自の文化文芸があって、それが自分たちには一番適してして、「爽快」なのである。閑があったら、古典の「章回小説」(講談師が語るような一回、一章ごとに分かれた物語)の挿絵を見ながら、縦書きの漢字の文章を首を揺らしながら読むのが、有産者になった中国人のもっとも幸せなひと時だといわんばかりだ。
 外国のもの、文芸、ましてや文芸の理論とか無産文学の理論など、なにが
悲しくて読まねばならんのだ。2010年の今、そうであるように、1930年頃の
中国は、政治的にはとんでもなくでたらめな状態であったが、文芸を鑑賞する
階級の人たちは、大半が古典的享楽、爽快を求めていたに違いない。面白くなければ、読む価値も無い。それが世界の仲間に伍してゆくことから脱落して
しまった背景だろう。その間約50年。今それを一気に追いつこう、追い越そうと、「スピード」を追求しているが、度が過ぎて脱線して、反省しなければならぬ時に、雷だとか自然災害だとか、言い逃れが先にでてくる悪弊から免れていない。
      2011/08/06
 
 
 

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松島へ

松島へ
1.
 7月30日と31日の両日、JR東日本のウイークエンドパスで、今回の大津波にも屈せず、しばらくしたら観光産業も復活した松島をたずねることにした。本来もっと早く出かけたかったのだが、気分的にも憂鬱な状態で整理がつかず、伸ばしのばしになってもいた。今回やっと実現に漕ぎつけた。
 30日7時過ぎに家を出、パスを買った。8,700円で東日本の半分以上の地域を乗り放題。しかも特急券を買えば新幹線にも乗れる。8時台のやまびこに乗り、2時間で仙台着。かねて何度も乗ったことのある仙石線のホームを目指す。遼東の豕さんのブログで2カ月以上前にも東塩釜まで通じているとの情報を得ていたが、今や本数は少ないが、松島海岸の一つ先の高城町まで伸びている。多賀城の高架工事も右車線は完成、左はまだ踏切のある路線を通る。
 本塩釜で下車。歩いてマリンゲート塩釜に向かう。まだ津波で陸に押しあげられた船がそのままになっている。大きな穴が空いているので、処分するしかないが、所有者が処理に来ないのだろう。道路も段差が残ったままで歩行も注意を要する。
 13時発の島めぐり芭蕉コースの切符を1,400円で買ってから周囲を見学した。
売店も半分ほどは閉鎖中であるが、おいしいパンとコーヒーにありつけた。
 遊覧船会社は2社がそれぞれ同じ時刻に大きな船を運航している。私が乗ったのは、丸文松島汽船のだが、下船してきた人の数は8人。乗船したのは5人だった。中に数名往復する人がいた。空気を運んでいるようなものだが、若い従業員はけなげに働いている。
 出航するとカモメの群れが船側に並行して舞う。2人連れが餌を投げると、争って近寄ってくる。しかし今日の乗客はその2人以外誰も餌を持っていないことを知って、数分したら大半は岸壁の方に去っていった。現金なものである。
 左に東北ドックの大きな修理用のクレーンが数本ある。今では新造は止めて、修理専門の由。右手の岸壁に処理済みのスクラップの山がいくつか船積みを待つかのように置かれている。20年以上も昔になるが、仙台新港にあった吾嬬製鋼(その後→JFE)の新鋭工場にアメリカからの3万トン級の船で、スクラップを納入していたことを思い出した。スクラップの中に銃弾が混入していて、大クレームを受けたことが頭をよぎった。今回の大津波の被害を受け、本社は工場閉鎖を発表した。震災前なら当然、その工場に運ばれていたはずのスクラップが、いまやこうして船に積まれてよそに向かうのだ。
 船内の放送で、両側に次々に現れる松を戴いた島々の名称といわれを聞く。
260もの島に名前がついているという。遊牧民族は動物たちの名をたくさん持っている。大切な家畜の名は、我々日本人の及びもつかないほどたくさんあるそうだ。ここ松島には、永い年月をかけて大切にしてきた人々が、伊達の殿様はじめいろいろな歴史上の人々との関係をつけながら、一つ一つの島を我が子のようにいとおしんで名付けたのだろう。その島々の御蔭で今回の災害は比較的小さく抑えられたという。
2.
 桂島という細長い島に400人ほどが住んでいて、一番高い所に学校の建物が見えた。水や電気は本土から海底のパイプで運んでいるが、今回の津波でも、
大きな損害は無かった由。中には過去の地震で一つの島が二つに割れてしまったのもあるそうだが、千数百年以上も住み続けていられるのは、ここが、島の自然の防波堤で保護されているからだろう。
 湾の右側にはカキの養殖場があり、左には海苔の養殖場があるという。右側には豊かな森の滋養を含んだ川の水が流れ込み、カキの稚貝が大量の海水を浄化しつつ、それらの滋養を取り入れて育つという。諫早干拓の問題を思い出していた。大連の黄海側沿岸に広がる広大な昆布の養殖は、三陸からもたらされたれた由。戦前は日本から輸入していた昆布は今や輸出に転じたという。大連市が懸命になって、禿げかけていた丘陵地帯に松を何万本、何十万本も植えたのはそういうことだったのか。
 50分で松島到着。歩いて五大堂に向かった。海岸沿いの道の防波堤の上部の石は何個かはぎ取られていたが、本体は大丈夫だ。五大堂の海側に面した灯篭は、無残にもなぎ倒されて、左側に積まれてあった。この程度で済んだというのは、僥倖であろう。本堂は無傷のように感じた。
 五大堂から瑞巌寺に向かう途中の観光名物売り場や食堂は、半分以上営業していたが、まだ手の付けられていない店の中は、ガラーンと放置されたまま。瑞巌寺の右側の洞の前に建てられた仏像の何個かは、台座から落ちたまま。
この洞の中で座禅を組んで修業した僧たちが早く戻せと訴えているようだが、
まだここまで手が回らないのだろう。本殿は今改築中で白いテントに覆われていた。昨年来た時に庫裏から右側の秘宝を見学に来たとき、こんなに海に近い御寺が、永い年月自然災害に破壊されることなく今日まであるのを、なんの不思議にも感じなかったが、古人はそうしたものに耐えられる場所を選んだのだろう。
参道の両側の巨木が一本も倒れているものが無いのは、不思議な気がした。大したことのない台風などでも根こそぎやられてしまうのだが、ここは海岸から30Mほどしかない土地なのに倒れていない。巨木はその丈の高さと同じだ
け深い根を、土中に張り巡らせているのだろう。冬の寒い地方では年輪がしっ
かり刻まれ、丈夫な根が地中深くまで伸びるのだろう。
3.
 そんなことに感心しながら、松島海岸駅に向かい、仙台に戻った。瓦屋根の多くは、雨洩り防止の青いビニールシートで覆われている。東北ドックの古い建屋はぺしゃんこに崩れたまま。そこまでまだ手が回らないのだ。
 瓦礫の処理がすんで、余裕ができたら屋根の張り替えに着手するだろう。今度は関東大震災後のようにきっとトタン屋根が増えることだろう。
 七夕祭りを来週に控えて、駅舎のすべてが大きな七夕飾りで満艦飾であった。
定宿のホテルに電話したら、「本日は満室になっております」との答。
ぎゃふんとして、その姉妹店などにあたってもらったが、すべて満室という。
手頃な値段なので、ヴォランティアの人たちが大勢予約しているようだ。仙台から少し足を延ばして郊外のホテルにあたったが全て満室。困り果てて、山形、米沢などにもあたったがダメ。途方にくれていっそ宇都宮まで戻ればなんとかなるだろうと、途方にくれて歩いていたら、観光旅館案内所の看板が目に入った。さっそく聞いてみたが、郊外の温泉地しか無いという。えい、仕方が無い1万円超えてもやむなしと決め、やっと泊る所が確保できた。これだけホテルが一杯ということなら、仙台はもうだいぶ回復しつつあって、駅前の繁華街は去年より活気に満ちているほどにも感じた。
 牛タンや海鮮料理、寿司店それに中華料理など満席で盛況であった。食は民の元気のもと。旅行者も結構多いには違いないが、地元の人が平日にちょくちょく利用しない限り、飲食店はもうからない。行列のできている店まであった。
よほどおいしい牛タンを出すのだろう。
4.
 翌朝、今回のもう一つの目的である東北大学の魯迅像を見に出かけた。
バスの案内所に聞いたが要領を得ないので2か所行くことにした。
最初は現在の医学部のキャンパス。正門を入って左側に「献体」の石碑があり、そのもうひとつ先に、山形伸藝の石碑がある。福井の人で明治34年(1902)に仙台医専の学長として多大の功績を称えられていた。藤野先生も福井の人だから、ひょっとしてこの学長に創立されたばかりの仙台医専に、招かれたのかもしれない。小雨降るキャンパスを歩きながらひとめぐりして、バスに乗り目指す片平キャンパスに向かった。
 以前東北大に来た時に果たせなかった魯迅像との対面のためである。正門の方から入って、資料室を目指したが、震災の影響で現在は閉館中とある。残念。だがその先に少し顎を上向きにした魯迅の横顔が見えてきた。ゆっくり、
おもむろに近づいた。北京や上海で見た像とはすこし趣が異なるように感じた。
作成された年代の差であろう。この像は東北大学の西澤潤一学長の題字で、中国美術協会の曹崇恩氏が作ったとある。碑文にはこの片平の地に1901-1912年の間、仙台医専があり、魯迅は1904年秋から1906年の春までこの地で学んだが、医学は中国人の精神変革の助けにならぬと考え文学に転じた、という言葉が彫られていた。この像は1992年10月19日に建てられている。いつ頃誰が発起人として提案したのだろう。天安門事件を経た中国との合作が実を結んだのは、やはり何といっても、西澤さんのしっかりした考えに周囲の人々が賛同したからに違いなかろう。




5.
 今回の旅行中、津波のことと中国温州で起きた衝突のことを考えていた。その余りにも性急な先頭車の破壊埋殺しから掘り出しまでのこと。救助停止後の2才の幼児発見のことなど。世界中から非難を浴びても、頼りない鉄道部の発言者の虚しい言葉を聞きながら、あいた口がふさがらなかった。原発保安院の発言者の頼りなさがダブって聞こえた。
 それでも1日半で復旧再開した列車に大勢の乗客が乗り込んで、事故の現場を見ながら通過してゆく。どういうことになっているのだろう彼らの精神は!
そんな疑問を抱きながら、鳳凰テレビの何亮亮氏のコメントが何がしかの疑問を解いてくれたような気になった。
 彼のコメントの要旨は:
 今回のとんでもない事故後の対応に対する世界各国からの非難、軽蔑、警鐘ならびに「ざまーみろ」的な批判などすべて真剣に受けとめ、事故の原因究明に努め、同じ事故が二度と起こらないようにすれば、中国は再び信用を取り戻せるだろう、とあくまで前向きであった。
 その楽観的見方の根拠として、75年前に死んだ魯迅は、(日清戦争で日本に負け、世界から見下され、とりわけ日露戦争で勝った日本に生活していて)彼は日本人が当時の中国人(清国人:チャンころと呼ばれていた)をどのように見ていたかを肌身で感じていた。今回日本のメディアには「幸災楽禍」(いい気味だ)という面も見られるが、そんなことは気にしなくてよい、時が経てば忘れ去ってしまうことだ。
彼は言う。(世界の中で、生き延びてゆくには)魯迅が言ったように、中国人の考え方を変革しなければならない。人に自分の失敗を許してもらおうとか、人から褒められようとか考えないで、自分で自分の国をしっかり変革して、事故の原因を徹底的に調べて、二度と起こさぬという方に意識を変えるのだ。
彼の気骨ある言葉が、その後の中国の変革に大きな影響を与え、新しい中国建国に繋がった、として引用している。
変革の為にあらがう。どんなにけなされ、さげすまれても、気にせず、自分を変革するためにひとつずつ変革してゆくしかない。
これは百年前に魯迅が吶喊したことである。あいまいなまま、いいかげんに
ものごとをすませてしまってきた中国人も、きっと変革できるのだ、というのが何亮亮氏の言葉だ。意識を変革しなければ、世界中から見下される、と。
 
6.
 仙台から横浜の自宅まで、在来線を乗りついで帰った。
途中、空港線に乗ってみたが、まだ修理未完で一つ前の駅でバス輸送であった。
車窓から緑濃い田んぼの稲を飽くことなく見続けた。福島県は在来線で通ると、南北にも結構距離があるのが分かる。横長い県だとばかり考えてきたが、伊達市から福島市、郡山市、須賀川市、白河市と大きな市が続き、今朝3時ごろの地震の影響で、快速が運休となり計3回乗り換えた。その間、東京方面からの貨物列車が、つぎつぎにすれ違う。地震で夜間から早朝の便が止まっていた影響だろうか。いずれにせよ、これだけの貨物列車が仙台方面に向かうということは、それだけ物流が回復してきた証拠でうれしいかぎりだ。
 途中に休耕田も散見したが、休耕田に大型ソーラーパネルを設置するというのは、いかがなものかと思う。一旦設置したら、撤去費も馬鹿にならぬし、いつ何時また他の作物を植えられるようになるかもしれぬ。
 ソーラーパネルは、鉄道の駅舎周辺の屋根から線路の上に設置してはどうであろうか。車窓からの景色を見えるようにトタンぶきの屋根のような格好で、
鉄道上に設置し、その電力で運行できるようにしてはどうか。送電線は従来の電車用の線と併用とか送電用の複線にする方がコストも安くなろうと考えた。
或いは、国が買い上げることになる原発周辺の土地に敷設するがよかろう。その発電で得られたお金は、移住を余儀なくされた人々への補償費に充てるべきだと思う。
    2011/08/04記 
 

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「文学の階級性」4


 梁氏は先に無産者文学理論の誤りは「階級と言う言葉で文学を束縛している
から」で、――資本家と労働者は違いもあるが、同じような面もあり、「彼らの
人間性に(この字に原文は圏点を付す)差は無い」共に喜怒哀楽を持ち、恋もし、(但しここでいう意味は、恋そのもので、恋の形式ではない)「文学はこうした最も基本的な人間性を表現する芸術だ」からと言う。これは矛盾しており、空虚な言葉である。文明が資産を基礎とし、貧乏人が懸命になって「金持ち」に這い上がろうとするなら、「這い上がる」ことが人生の要諦で、富翁になるのが人間としての至尊なら、文学も資産階級を表現しておればそれで十分で、それをなぜ「同情心を以て」「劣敗」の無産者と一緒にする必要があろうか?
 況や「人間性」「そのもの」はどのように表現するのか?たとえて言うなら、
元素と化合物は化学的性質として化合力があり、物理的性質は硬度があるが、
その化合力と硬度を表すには2種類の物質で表さねばならない。物質を使わずに、化合力と硬度をただ単に「そのもの」で表すという妙法は無い:しかし
一旦物質を使うということになると、その現象は、それぞれの物質により違ってくる。
 文学も人間を借りてこなければ、その「性」を表せない。もし人間を使うなら、それは階級社会においては、どうしても所属する階級性から逃れられない。
「束縛」で規制せずとも、実際は必然的にそうなる。勿論「喜怒哀楽は人の情
也」で、貧乏人は、商売で大損する悩みは無いし、石油王は北京の石炭ガラ拾いの老婆の辛酸を知るわけもなく、飢饉の罹災者は金持ちの旦那衆のように蘭の花を愛でようなど思いもしない。(紅楼夢の)賈府の(召使いの)焦大は、林家の令嬢を愛そうなど滅相も無いことである。
 「汽笛だ」「レーニン!」などは無産文学ではないし「あらゆるものよ!」「全人民よ!」「喜ぶべきことが起こった!人々は喜びにあふれた!」も、「人間性」の「本質」を表した文学ではない。もし最も普通の人間性を表した文学を至高とするなら、もっとも普遍的な動物性――栄養、呼吸、運動、生殖――の文学、或いは「運動」を除いた生物性を表現した文学が、きっとその上に有るだろう。もし我々は人間だから、人間性を表現する権限があるというなら、無産者は無産階級であるから、無産階級を書こうとするのだ。
 次に梁氏は作者の階級と作品は無関係という。トルストイは貴族出身で、貧民に同情したが階級闘争は主張せず:マルクスは無産階級の人間でもなく:生涯貧苦にあえいだジョンソン博士の志行言動は貴族以上のものだった。従って
文学評価は作品そのものを見るべきで、作者の階級や身分をからめるべきではない。これらの例も文学に階級性がないことを証明するには足りぬ。
 トルストイは貴族出身ではあるがゆえに、古い垢を洗いきれずに、ただ貧民に同情するのみで、階級闘争を主張しなかっただけである。マルクスは元々
無産階級の人間ではないし、文学作品も無いが、もし彼が何か書いたとしても、
それが型通りの恋愛ものでないとは言えぬ。ジョンソン博士については、生涯
貧苦にあえいだが、志行言動は王侯以上のものだったという点は、私は英国文学と彼の伝記を知らないので、その理由は分からない。多分彼は元々「苦労して勤勉に一生働けば、かならず相当の財産を築ける」と思い、再び貴族階級に這い上がろうとしたが、はからずも「劣敗」してしまい、相応の財産も築けず、見かけ倒しの「爽快」さに浸っているほか無かったのかもしれぬ。
 その次に梁氏は:「良い作品は永遠に少数者の独占物で、大多数は永遠に愚かで、文学とは永遠に無縁だ」と言い、観賞力の有無は階級とは関係ないという。
「文学観賞力も天生のある種の福」であるから、無産階級にも「天生のある種の福」を備えた人がいる。私の推論ではこの「福」さえあるなら、貧しくて教育を受けられず、目に一丁字も無かった人も、「新月」月刊を鑑賞できるから、
「人間性」と文芸「そのもの」には階級性が無い証拠にできる、と言う。
 但し梁氏も、天生この福のある無産者は多くないと知っているから、別途あるものを彼らに見させ「例えば、なにか通俗的戯劇、映画、探偵小説の類」を「一般の農民、労働者は娯楽に飢えているから、多分少しは芸術的な娯楽も
必要」だからだ。こう見て来ると、文学は確かに階級により違ってくるが、それは観賞力の高さが影響してくるので、この力の修養は経済とは関係なく、上帝の賜物「福」による。従って文学家は自由に創造し皇室や貴族の御雇になるべきではなく、無産階級の威嚇も受けるべきではなく、提灯持ちの文章を書くべきではない。これはその通りだ。我々の目にする無産文学の理論にもまだ、
誰か、或いはある階級の文学家が皇室貴族の御用文学を書くべきでなく、また、
無産階級の威嚇を受けて提灯持ちをすべきだなどと言う文章を見たことは無い。
ただ、文学には階級性があり、階級社会では文学家は自分では「自由」と考え、
階級を超越していると思っていても、無意識に当階級の階級意識に支配されており、そうした創作は決して別の階級の文化ではないというだけのことだ。
 例えば、梁氏の文章は元々文学上は階級性を打ち消して、真理を広めんとしたものだが、資産を文明の宗祖と考え、貧民を劣敗者のカスとみなしており、
一瞥しただけで、資産家の闘争の為の「武器」――いや「文章」だと分かる。
無産文学の理論家は「全人類」のための「階級を超越」した文学理論を主張することは、有産階級を助けるものと考えており、ここに極めて明確な例証を与えている。成仿吾の如く「彼らは必ず勝利するから、彼らを指導し慰めに行こう」と言い、「行こう」と言った後で、味方以外の「他の連中」を「追い払おう」というような無産文学家は、言うまでも無いが、梁氏と同様、無産文学理論に対して「自分の都合のいいように解釈する」という間違いを犯している。
 次に梁氏が最も痛恨するのは、無産文学の理論家が、文芸を闘争の武器、即
宣伝道具にすること。彼は「誰かが文学を別の目的を達成するために使うことに反対しない」が「宣伝の文言を文学と称するのは、認めない」という。
私はこの意見は、自分に寛容な話だと思う。私の見る限りのそれらの理論は、
凡そ文芸たるもの、すべからく宣伝であり、誰もただ単に宣伝的な文言を、即
文学だとは主張していない。一昨年来、中国にはまことに多くの詩歌小説に、
明らかにスローガンや標語をはめ込んで、無産文学だと考えてきたものがいる。
だが、ただそれは内容と形式のせいであり、無産の気配は微塵も無く、スローガンと標語を使わないと、それが「新興」なものだと示すことができなかったためで、実際は無産文学ではなかった。今年有名な「無産文学の評論家」である銭杏邨氏は「拓荒者」に、ルナチャルスキーの言葉を引用して、彼は大衆が
分かる文学を推進することが大切で、スローガン標語を使うのをむやみに咎めてはいないし、それでそうした「革命文学」を弁護していることが分かる。が、
それも梁氏同様、悪気なしに曲解していると思う。ルナチャルスキーの所謂
大衆が分かる言葉というのは、トルストイが農民の為に書いた小冊子のような
文体で、農民や労働者が、一度読めばすぐ分かる語法、歌調、諧謔を指しているのだ。Demian Bedniiがかつてその詩歌で赤旗賞をもらったが、彼の詩には、標語もスローガンも無かったということを見れば明らかだ。
 最後に梁氏は作品の出来を見ようとする。これは正しいし確かな方法だ:が、
たった2首の詩を引用して血祭りに上げるのは間違っている。「新月」に、「翻訳の難しさを論ず」を載せたことがあるが、なんと対象の翻訳は詩であった。
私の見た限りでいえば、ルナチャルスキーの「解放されたドン・キホーテ」
ファジェーエフの「潰滅」グラトコフの「セメント」は過去11年間、中国で
これに匹敵するような作品は無い。これは「新月社」流の資産文明のせいであり、且つまた衷心よりそれを擁護する作家を指して言っているのだ。無産作家と称する者の作品中に、相当の成績を上げた人を挙げることもできない。銭杏
邨氏も弁護し、新興階級は文学の領域でもまだ幼稚で単純だから、彼らに即刻良い作品を求めるのは「ブルジョア」の悪意だという。この言葉は農民と労働者にとっては確かにその通りだ。そんな無理な要求をするのは、永い間寒さに震え飢えさせておきながら、なぜ金持ちの旦那衆のように太れないのだ、と責めるようなものだ。しかし中国の作者は今、つい先ほど鋤や斧の柄から手を放した人でなく、大多数は学校でのインテリで、何人かは既に有名な人で、自分のプチブル階級意識を克服した後、それまでの文学の本領を失ってしまったのか。そんなことはない。ロシアの老作家アレクセ―・トルストイやベレサーエス、プリシ―ビンは、今も良い作品を書いている。中国ではスローガンはあるが、随同して実証する者のいないのは、その病根は「文芸を階級闘争の武器にする」ということには無く、「階級闘争を借りて文芸の武器にする」ことにあり、
「無産者文学」という旗の下に、突如とんぼ返りをする人たちを大勢集めたためで、去年の新本の広告には殆ど革命文学でないものは無いありさまで、評論家もただ弁護するのが「清算」だと考え、文学を「階級闘争」の援護の下に座らせ、文学自体には必ずしも注力せず、その結果文学と闘争の双方とも関係が薄らいでしまった。
 しかし中国の目下の一時的現象は、無産文学の新興の反証とするには足りない。梁氏もそれは御承知のようで、彼も最後に譲歩して、「無産階級革命家が、
彼の宣伝文学を無産文学と称すなら、それは一種の新興文学とみなし、文学の新しい収穫とみなすほかないが、資産的文学を打倒せよと声高に叫ぶことは無かろう。文学の領域はとても広いから、新しい物もその位置はどこかにあるから」と。但しこれはあたかも「中日親善、共存共栄」の説の如しで、まだ羽も
生えそろっていない無産者からすると、一種の欺瞞である。それを望む「無産文学者」は現在実際にいるだろうが、それは梁氏のいう「出世の見込みのある」
資産階級に這い上がろうとする「無産者」の類で、彼の作品は貧乏書生の(科挙試験の最優等生の)状元に合格できないとこぼす時のグチや不平であって、
初めっから這い上がるまで、およびそれ以後も決して無産文学ではない。無産者文学は、自分たちの力で自分たちの階級を解放すること、及び一切の階級闘争の一翼となることで、求めているのは全面的な地位で、単なる一角一隅の地位ではない。文芸評論界に比すなら「人間性」の「芸術の殿堂」(これは成仿
吾氏から暫時借用する)に、2脚の虎皮張りの豪華な椅子に、梁実秋・銭杏邨両氏に並んで(王様然と)南面して坐ってもらい、一人は右手に「新月」もう一人は左手に「太陽」を持ってもらえば、本当に「労資」競艶の壮観だろう。
 
訳者雑感:
 無産文学という言葉は、戦前の日本語ではプロレタリア文学と呼ばれていたものだろう。小林多喜二の「蟹工船」などがそれだが、戦後それらは主流になることは無かった。ところが最近はまた別の観点から読まれ始めている。背景は何だろうか。非正規派遣という言葉が暗示するのは無産者だからか。
 「無産」とか「無産者」「無産階級」というのは有産者(階級)に対する言葉で、それまでは有産者の物であった「文学」を無産者にも、というのが無産文学を主唱した人たちの考えであった。しかし、無産者たちの中には、一生懸命
勤勉に働いて、資産を持てるようになって、資産階級に這い上がろうとする人が結構いた、と魯迅も梁氏以上に認識している。
 1949年に共産党政権が成立したが、上海や天津などの租界のあった大都会は
もちろん、山西省などの田舎でも、戦前の「大金持ち」「民族資本家」などは、
一定の財産所有を許されていたし、彼らの協力無しには新中国の建設もなにも
はかどらなかったから、やむを得ぬ措置であった。
 それが20年経って、1960年代の後半になっても一向に改善されるどころか、
無産者の生活は飢饉などで悲惨な一方、有産者たちは裕福に暮らしていた。これを自己の復権を図る毛沢東とその取り巻きたちが、なんとかせねばならぬ、と考えた結果、発動したのが、「プロレタリア文化大革命」であった。
 当時はほんの「一握り」の実権派、すなわち有産者、を「資本主義の道」を
歩む「走資派」と呼んで、「ソ連の修正主義」と同様に、批判否定して叩き潰そうとしたのが、このプロレタリア文化大革命であった。
 私の知っている「資産」を戦前から受け継いで暮らしていた人々は、家を追い出され、牢に繋がれた。有産者はすべて無産者になった。これが、この文化大革命の最大の目的であり、成果だとも言えよう。
 しかし、10年ほど、そうした運動が続いたが、結局は政権を我がものにしようと企む人たちの間の、権力闘争に堕してしまったから、人々の暮らしは益々
困窮し、世界的にも最貧の状態、無産と化した。
 これではならじと「改革開放」に立ち上がったのが30数年前。人民公社は
廃止。農民にそれぞれの土地を分けて、請負制にした。地方政府に土地の使用権を分譲できるようにして、香港をはじめとする日欧米の外資を呼び込み、産業を復興させた。それによる雇用創出と税収増大で、豊かになり始めた。
 「無産階級」の為に発動したプロレタリア文化大革命の結果、まずは、沿岸の開発区をはじめとする大都市の「無産者」を「有産者」に変え、農村から
出稼ぎに都市に出てきた「無産者」をも「有産者」に変えつつあった。
 今、大都市に昔から住んでいた人々は、高層の豪華マンションを所有し、立派な家具付きの家で暮らす。大都市の半分以上は中流以上の「有産者」となって、マイカーが北京の路上を常時渋滞にするほどになった。
 ロッキード事件で退陣させられた田中角栄の受け取った賄賂は3億円であった。温州の大事故を起こした鉄道建設で前任の鉄道相たちが取った賄賂はなんと2千億円という。大変な資産階級を生みだしたものだ。
 21世紀の中国で「蟹工船」のような「無産文学」を読む人はいるだろうか。
            2011/07/27

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厳復と魯迅

天津の旧租界地が改革開放後に整理され、復旧保存されて観光名所的なスポットも
たくさん造られた。
そんな中で、厳復の旧居跡に彼の像が建てられていたので感心した。
福建出身の彼が14歳で父を失い、西洋の学問への道を歩みだしたのが、彼がその後
「天演論」など進化論を中国に紹介する踏み台となった。彼はその後天津の租界で暮らした。
紹興で生まれ、16歳の時、父の病死で南京の新しい学校に入った魯迅も、父親が存命だったら
多分そのまま科挙の勉強を続けて、医学や西洋の学問を学ぶことは無かったかもしれない。
彼はその晩年を上海の租界で暮らして一生を終えた。
清朝末期に福建や浙江という南方で青春を過ごした二人は、14-16歳という多感な時に
父を亡くして、旧来の儒教ー科挙の出世コースを歩むことを諦め、新しい学問に身を投じた。
時代がそうであったのと、家庭環境がそうしからしめた、という二つの要因が彼ら二人に
新しい選択をさせたと言えよう。
厳復の遺した言葉に、「尊民叛君、尊今叛古」という8字がある。民と今を尊び、王君や古くからの
ものに叛くのだ、との考えで、これは魯迅にもつながっている。

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「文学の階級性」3

3.今回の「天上の本より難しい」無産文学理論の翻訳は、梁氏に少なからぬ影響を与えた。内容は理解できぬが、影響は受けたというのは滑稽なようだが、ほんとのようだ。この評論家は「文学に階級性はあるか?」で:「私は今、所謂無産文学理論を批評しているが、ただ私の理解できる少しばかりの材料によるのみ」と言う。これはとりもなおさず、この理論に関する知識は極めて不完全だと言っているに等しい。 但し、この罪に対しては、我々(「天上の本」より難しい本の訳者すべてを含むので「我々」と称す)も責任の一端しか負えない。残りは作者自身の無知と怠慢によるものだ。「ルナチャルスキーとかプレハーノフ」の本は私も知らない。「ボゴダーノフの類」の三つの論文とトロツキーの「文学と革命」の部分訳なら英訳が出ている。英国には「魯迅氏」はいないから、訳もきっと非常に分かりやすいだろう。梁氏は偉大な無産文学の誕生を待ってみよう。待とう、と彼の忍耐と勇気を示しておきながら、今回理論に対しては、いささかも待てないのか?他の本を探してからというわけにはゆかぬのか。有るのを知らないで求めぬのを無知といい、知っていながら求めぬのを怠慢と言う。単に黙坐してるなら、それも「爽快」かもしれぬが、一旦口を開いたら冷気は喉にすぐ入ってくる。 例えばあの「文学に階級性はあるか?」という高名な文章の結論は階級性は無いというもの。階級性を抹殺しようとする点、もっとも徹底しているのは、呉稚暉氏の「何がマ(馬)ルクスや牛クスだ!」と、某氏の「世の中に階級というものは無い」という学説だと思う。本当にそうなら全ての議論は収まり、天下太平となる。しかし梁氏は、その「何がマルクスか」の毒にあたってしまい、まず多くのところで、資本制度が行われていて、その制度の下で無産者がいるということを認めている。しかしこの「無産者はもともと階級の自覚は無い。数名の同情心にあふれた、過激なリーダーたちがこの階級観念を彼らに授けたのだ」彼らに聯合をうながし、闘争の願望を抱かせた。その通りだが、伝授者は同情心からなどではなく、世界を改造しようと考えたからだと思う。況や「もともとそんな意識も無い」ものは自覚のしようもないし、激発のしようもない。自覚し激発できるのは、もともと有ったからである。 もともと有るものは、暫くは隠せても、ガリレーの地動説、ダ―ウィンの生物進化論のように、当初は宗教家に焼殺されたり、保守派から攻撃されたが、今の人々はこの両説を奇としなくなった。それは地球が自転しており、生物が確かに進化しているからだ。存在を認めておきながら、存在せぬと粉飾することは、神技でなければできぬことだ。 しかし、梁氏は自ら闘争をしなくてすむ方法を持っていて、ルソーの言うように:「資産は文明の基礎」で「資産制度を攻撃するのは文明に歯向かうもの」で、「一無産者が将来見込みがあるとすれば、一生苦労をいとわず、勤勉につとめれば、何名かは相当の資産を得ることができる。これこそ正当な生活闘争の手段である」ということを正しいと考えている点だ。 私が思うに、ルソーは150年前に亡くなっているが、過去と未来の文明が、全て資産を基礎としているとは考えていなかったろう。(但し、経済関係を基礎とするというなら、それは正しいが)ギリシャ・インドには文明があり、繁栄した時はどちらも資産社会ではなかったということは、彼も知っていたろう。知らないとしたら、それは彼の間違いだ。 無産者は苦労して有産階級に這い上がる「正当」な方法は、中国なら金持ちの旦那衆が気分の良い時、貧しい労働者に訓示を垂れるという例がある。実際今も「苦労して勤勉に」上級に這い上がろうとする「無産者」も大変多い。しかしそれはこの「階級観念を伝授する」人がいない場合である。伝授されたら、一人ひとりが這い上がろうとするのではなく、正に梁氏の言うように、「彼らは一つの階級であり、組織しようとし、集団となって常軌に従わず、一躍して、政権・財産権を奪取し、一躍支配階級になる。しかしそれでもなお「苦労して勤勉に働き、将来きっと相当な資産を持てる」と思う「無産者」も勿論いる。それはやはり、まだ金もうけできていない有産者である。梁氏の忠告は、無産者には嘔吐すべきものであって、ただ単に旦那衆と互いに御世辞をいいあっているに過ぎない。 それなら将来はどうなるのか?梁氏は心配無用という。「この種の革命の現象は長続きせず、自然進化を経て、優勝劣敗の法則が証明するし、利口で才能のある人が優越な地位を占め、無産者は相も変わらず無産者のままだ」という。 しかし無産者も多分わかっているように、「反文明の勢力は早晩文明勢力に征服される」から所謂「無産階級文化――そこには文芸・学術も含む――をうち立てようとするだろう。 さあこれから、やっと文芸批評の本題に入るとしよう。     訳者雑感: 魯迅自身、自分はどちらの階級に属していたかは明白に意識している。中国には、裸一貫で天秤棒を担いで1年365日休まず働いて、資産を蓄え、それを元手(資本)に商売を始め、店を構え、それを拡充して、旦那衆の仲間入りを果たす、という中国の夢が、かつてのアメリカンドリームと同じように、3千年以上続いてきた。東南アジアに渡って成功した移民たちは、殆どこの例に属す。魯迅の先祖も中国の内陸から紹興に移ってきて、成功した移民であった。 本文では、そうした中国夢の伝統に根ざした梁氏の「文学に階級性は無い」という説に対して、猛烈に反論を展開している。彼自身も文芸・文学は閑と銭のある人間しか書けないし、鑑賞もできないという考え方で育ってきたし、事実それを認めてもいる。しかしロシアでの「無産階級の文芸」論など懸命になって読み、理解しようとして、自分の影でもある梁氏に反論している。それはつい数年前までの自分が考え、感じていたことだからよく分かるのだ。 これまでの文芸は、中国の夢を叶えるために現状肯定派たち、既得権を手放したくない人々によって守られ育てられてきたものだ。それを一度こわして、無産者が集団となって、一躍支配者になるような仕組みを作ることが必要だ。そのための文芸は どういう方向を目指すのか。 さあ これから本題に入ろう。 というまえがきだと思う。  ここまで訳してきて、22日の日経新聞に「中国の都市化」が改革開放の結果 20数パーセントから40数パーセントに上昇したと報じていた。13億人の内、 2-3億人が農村から都市に移ってきた計算だ。しかし新聞に依ると、中国の都市にインドやインドネシアなどの様な農村から来た人たちのスラム街が無いのは、農村戸籍を都市戸籍に移させない政策に拠っているとしている。 現実には外国人記者には見えない所、見えない形での貧民屈はあるのだが、ボンベイやジャカルタのようなスラム街を形作っていないだけである。都市に流れ込んでくる(農)民工たちは、農村で小麦を植えているだけでは、生活してゆけないから出てきたのであって、政府は小麦の買い上げ価格を引き上げて、農民が都市に出稼ぎに来なくても生活できるように努力はしている。 しかし、全ての民工がそうだとは言えないが、その中には、梁氏の指摘したように、「苦労して勤勉に働いて」元手をためて上級に這い上がろうとする農民も多いのは確かだ。大連の街中でも、四川省や雲南省から来た人々が、リヤカー一台でチリンチリンと故物回収に回り、集めてきた瓶やペットボトルをなどを、4-5人の家族みんなでひとつひとつより分け、それぞれの買い手の所へ持ちこんで、生計を立てている。携帯電話を持ち、商売になりそうな物件の情報交換もしているが、日に焼けた顔には暗さは微塵もない。いつか元手をためて、三輪自動車を買い、更にはトラックを買おうと彼らの中国の夢は膨らむ。    2011/07/22訳

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