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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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柔石小伝


 柔石、本名趙平復、1901年浙江省台州寧海県市門頭の生まれ。数世代は読書階級だったが、父の代に家景を支えきれず、小さな商売を始めた。彼は十歳で小学校に入学。19年に杭州に出、第一師範学校入学:杭州晨光社の一員として働きつつ、新文学運動に従事。卒業後、慈渓などで小学教師となり、創作開始。寧波書店から出した短編小説集「瘋人」が処女出版。23年北京に出、北京大学の聴講生となる。
故郷後の25年春、鎮海中学校務主任となり、北洋軍閥の圧迫に抵抗。秋、
喀血したが、寧海の青年を支援して寧海中学を創設せんと、翌年創設費を募集、
校舎建設:叉、教育局長に任命され、全県の教育改革に尽くした。
 28年4月、村に暴動発生。失敗後、新しい事物はすべて壊され、寧海中学も解散。柔石も単身で出奔、上海に寓居。文学研究に励んだ。12月「語絲」編集のため、友人と朝華社を設立。創作のほか、外国文芸紹介に努め、とりわけ、北欧東欧の文学と版画に注力した。「朝華」月刊20期、旬刊12期及び、「芸苑
朝華」5号を出版した。後、販売店の代金不払いで支えきれず中断した。
 30年春、自由運動大同盟を発動し、柔石は発起人の一人:暫くして左翼作家連盟成立、彼は基本メンバーの一人として、プロレタリア文学運動に尽力した。執行委員に選ばれ、次いで常務委員編集部主任となり:5ヶ月間、左聯代表として、全国ソビエト区代表大会に参加し、終了後「一つの偉大な印象」を書いた。
 31年1月17日逮捕され、巡捕房から特別法廷を経て、(上海の)龍華警備司令部に移され、2月7日夜、秘密裏に銃殺に決せられ、十発の銃弾を受けた。
 子供は二男子一女子、皆幼い。文学上の功績は創作に詩劇「人間の喜劇」(未印)、小説は「旧時代の死」「三姉妹」「二月」「希望」、翻訳はルナチャルスキー「フシットと城」ゴルキ―「アルタイモノフの事業」と「デンマーク短編小説集」などあり。
                                                                                                 
訳者雑感:
 魯迅の作品には、公衆の前で処刑される場面がとても多い。
阿Qは台車に乗せられ市中引き回しの上、刑場の露と消えるのだが、観衆はその時に彼の威勢の無さにがっかりする場面まで後日譚として描いている。
「薬」では、その筋のプロに大金を払って、その心臓を温かいうちに取り出して、結核の息子にマンジュ―として食べさせるべく、早朝に刑場に受け取りに行く父親の心理描写に迫力がある。
 「吶喊自序」の文学に転じるきっかけとして、中国人がロシアのスパイとして、同胞たちが面白そうに見物する中で、日本兵に処刑される場面。
 「掃共大観」で「長沙通信」という現地の新聞に載った若い女性を含む、
多くの共産党員の処刑を、市内の老若男女が北と南の2か所の刑場をまるで祭りの縁日に出かけるような雰囲気で描いているのを引用している。
 そんなことを思い浮かべていたら、8月29日の「Japan Times」に紙面の四分の一程の大きな写真が私の目をくぎ付けにした。内容は、1936年8月米国最後の「Hanging」大衆の前での公開絞首刑の写真で、26歳の黒人青年が70歳の白人の資産家未亡人の部屋に押し入り、Rape後、窒息死させ云々という。紙面一杯に千人近い観衆、パナマ帽を被ったの、後頭部が禿げている者、老若男女が子供まで連れて、その周囲にはポップコーンとホットドッグにドリンクを売る店が出たという。
広場の中央に盆踊り広場で見るような仮設舞台のようなものが作られ、その中心は底が抜けていて、黒い袋をかぶせられた男が落ちるようになっている。周りには樹木の上に登って見物する者たちの姿もある。
この記事は75周年としてAPが報じたものだ。今から75年前までアメリカでも各地で行われていたのだが、KentuckyのOwensboroが最後であった、と。
ProfessionalのHangmanの助けを借りて、女性のSherriffが執行した由。
右下には、処刑当日の最後のMealを食べる死刑囚Betheaの端正な顔写真があり、遺品を家族にと手紙に「So Good by and paray that we will meet agin」
と書かれていた。(綴りはそのまま)
 その後は余りに残酷だとして、公開処刑は廃され、刑務所内の電気椅子で
Private Executionになった、と書いてある。このPrivateというのは魯迅の
いう「秘密裏」にとは実態が違うが、公衆には知らせず、見せず闇の中に葬るというか、世間には知られることなく処刑されるのである。
魯迅の作品に描かれた情景は、人権擁護のアメリカでも魯迅と同じ時代には行われていたことが分かる。ジョンウエインなどの西部劇映画では、私刑として樹の枝にロープで繋がれた男が馬に乗せられ、銃声一発、馬が駆け出して、一巻の終わりとなるシーンがあった。
 
 話しを本題に戻す。魯迅は本篇で、弟のように可愛がってきた柔石の死を
悼み、小伝を書いている。墓銘碑のようなものと考えられる。
 この小伝の中で、彼がもっとも嘆き悲しんでいるのは「秘密裏」に殺されたことである。人間、死に際して、何か話すことは無いか、と執行人に問われる。
生きてきた証として、死ぬ時は誰でも良い、誰かに見られながら死んでゆきたいと願うのが、それまでの人間が、自分が死ぬ前まで見聞きしてきた慣習だ。
それが、暗黒の刑場で誰にも知られず秘密裏に殺されてゆく。これほど辛く切なく残酷非道なことは無い、というのが魯迅のテーマである。
 「示衆」という中国語は大衆に見せしめにして、彼らに対して、こうならぬ
ように注意しろよ!と警告しているのだが、同時に、殺されてゆく一人の人間が生きてきたことを記念せよとも告げているのだ。
 そうした儀式のようなこともなく、秘密裏に殺されてしまうのは、本人もその友人家族もたまらないだろう。遺品も無く、埋葬地も分からない。
 赤穂義士は大きな大名屋敷の庭で、おおぜいの人の見守る中で、切腹した。
義を果たしたが、お上の掟を破ったことには相違ない。彼らを秘密裏に処刑などしたら、日本中が大騒ぎになったことだろう。
人間は罪(を犯したと判定されて)死刑にされる。近年、日本では執行されていない。千葉氏が処刑場を公開したのは、秘密裏に処刑されている今の状態を、せめて場所の様子だけでも大衆に知らしめようとするためなのだろうか。
 「秘密裏」と「非公開」とは意図するところは異なるが、処刑される側にとっては同じことかもしれない。
     2011/09/05訳
 
 

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「唐三蔵取経詩話」

1931年  「唐三蔵取経詩話」の版本について
  ――開明書店中学生雑誌社へ――
編集者殿:
 本信を「中学生」誌に載せてもらえませんか?
事情は下記の通り――
「中学生」新年号に、鄭振鐸氏の大作「宋人話本」の中の「唐三蔵取経詩話」
について次のような話が載っており:
『この話本の時代は分からないが、王国維氏が巻末に:‘中瓦子張家印’という
数文字に依って、宋版と断定していて、頗る信頼に足る。ゆえにこの話本はきっと宋代のものだが、ある人は疑っている。しかし我々が元代の呉昌齢の「西遊記」雑劇を読むと、これはもともと、取経の故事誕生はきっと遥か昔で、呉氏の「西遊記」雑劇の前に違いない。言い換えれば、きっと元代の前の宋代に違いない。そして‘中瓦子’の数文字はそれが南宋臨安城中で生まれたものと証明しており、なんの疑いも無い』
 
 私は以前「中国小説史略」を書いた時、この本を元版だと疑い、収蔵者の
徳富蘇峰氏のご不満を頂戴した。だが誤りを退けるべく答弁し、後に雑感集に載せた。だから鄭振鐸氏の大作に「ある人」というのは「魯迅」を指し、唾棄しながら、相も変わらず何とかして恥をかかせまいとする好意に対し、私はきわめて恐れ入る次第だ。
 しかし私は、考証は固より荒唐ではならず、墨守も良くないと思う。世の中の多くのことは、常識を引き合いにだして結果を了然とする。蔵書家は所蔵する本の古いのを欲するが、史家はそうではない。ゆえに古書は欠筆で時代を決めてはダメだ。それは遺老がいまだに儀の字の末筆を欠いている例で分かる。
現在は確かにもう中華民国なのだから。
 また専ら地名で時代を判断してもダメだ。私は紹興に生まれたが、南宋人ではない。多くの地名は朝代ごとに改名されてはいないのだから。そして文章の
華やかさ、素朴さ、巧拙などで時代を判断してもいけない。作者が文人か市井人か、また作品に依って大きな違いがあるのだから。
 従って、積極的な確証が無ければ「唐三蔵取経詩話」はどうやら元版だという疑いがある。即ち鄭氏が根拠とする同じもう一人の「王国維氏」の例でも、
彼は他にも「両浙古刊本考」二巻を出しており、民国11年の序が遺書第二集にある。その上巻に「杭州府刊版」の「辛、元雑本」の項に次の二種があり――
 「京本通俗小説」
 「唐三蔵取経詩話」三巻
 ただ単に「取経詩話」を元版と断定しているのみならず、「通俗小説」も、
元版としているからだ。
 「両浙古刊本考」は決して稀覯本ではないが、中学生諸君は文学史を専攻しているわけでもないから、それを渉猟する暇もないだろう。それで貴刊に投稿し、載せてもらい、一つにはいろいろな意見を聞くこと、二つには一方だけでは証拠が薄弱で、ある種の史実を「その通りだ」と断定するのは難しく、「何らかの疑義」は常にあることを知ってもらいたい為である。
 取敢えず、用件のみ申し上げ、御健勝を祈ります。
     魯迅啓上。1月19日夜。
 
訳者雑感:
 「唐三蔵」といえば、日本では女性が扮するケースが多く、なおやかな印象が強いが、本場中国ではごつい感じの大丈夫である。それが西遊記になるとどうして女性的なイメージになったのだろうか。菩薩のイメージから来るものか。
 魯迅は世に出る前のうっ屈した暮らしの中で、毎日「古書」を書き写して過ごしたと自ら書いている。古書を手書きすることが、幼いころからの習い性となっていて、何の苦痛にも感じず、ここにもあるように元版や宋版の古書を、
せっせと書き写して夜を過ごしたのだろう。
 フェイクというのは何も中国の専門特許ではないが、元代になってもあたかも宋代に造られたものだ、ということにするために、宋の時代にしかなかった
書店の印をわざわざこしらえて押しておく。それが高く売れるのは、いつの世も同じだろう。それを疑って、否定したことに対して、名指しはしないが良く読めば、魯迅がそれに疑義をはさんでいると、非難している鄭氏への反論として、鄭氏の拠り所とする王国維すら元版だと断定している、と反駁している。
 このあたりは魯迅の潔癖過ぎるともいえるほどの頑固さである。
徳富蘇峰ならずとも、自分が大枚をはたいて購った宋版のお宝が、元版とされると、心穏やかではない、というのが文人所蔵家の本音だろう。
 司馬遼太郎は、そうした品を購うことをしないできたが、あるとき洛中洛外図の本物を見せられて、つい手が出てしまった由。持ち帰って仔細に眺めている内に、安土桃山時代には無かった遊郭をひやかす男たちが描かれているのを
発見して、すごく落胆し、それ以後骨董には手を出さなくなった、という。
 三角縁の銅鏡なども、その製作年が本当かどうか、疑わしい点が多い。
   2011/09/03訳
 

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古文のうまい書き方と良い人になるコツ

過去1年半、我々に対する論評で、とても気に障るけれど面白かったのは、 常燕氏の月刊誌「長夜」のさも公平そうな顔つきで、 私の作品は少なくともあと十年は命が持つだろう、という句だ。 数年前「狂飆」(つむじ風)が停刊した時、常燕氏は長文を載せた。 大意は「狂飆」が魯迅を攻撃したら、最近出版社は出版しなくなった。 魯迅が出版社の社長にネジこんだのではないか? そして、北洋軍閥の方が、よほど度量が大きいと付け加えていた。 今回、公平そうな顔はしてはいるが、練った文章で、人を刺すのが隠然と分かる。 一面では、陳源教授の論法を思い起こさせる。 まず美点を挙げ、公平さを装いながら、然る後、多くの罪を列挙し、 ――公平なハカリではかった結果として大罪を下す。 功で以て罪をさし引くとしても最終的には「学匪」(学者ゴロ)と断罪するのである。 道理からいえば、「正人君子」の旗の下で、さらし首にし、 公衆の見せしめにするのが筋だ、と。 従って私の経験では: けなされるのは構わないが、褒められるのは恐ろしいことで、 時には極めて汲々乎として殆うき哉、である。 況や、常燕氏の全身は(古い体制の)五色旗の気味があり、 本心から私の作品が不滅だと考えていたとしても、私には宣統帝が忽然、 大層お喜びになり、私の死後「文忠」(褒める意味)の謚(送り名)をくれるようなものだ。 そこでハラワタがねじれるほど滑稽の余り、やはりただ畏れおののいて、 特段のこととして脱帽し、最敬礼し、過分なお褒めに感謝申し上げる次第。  ただ同じ「長夜」の別の号には、劉大傑氏の文があり、 ――これらの文章は「中国の文芸論戦」にはまだ載っていない―― 私はそれを大変感激して読み終えたが、或いはこれはまさに作者の言うように、 私とは面識も無く、私的恩怨も無いようだ。 然し特に有益だと感じたのは、私がこの様に四方八方から攻撃を受けている時は、 暫く筆を置いて外国に行けば良いと勧めてくれたことで: 忠告として、一人の人間が生きてゆく上で、何枚か白紙を残すのも決して悪くはない。 たかだか一人の生活史で、何枚かの白紙があっても、或いは全てが白紙、または全てが黒く塗られても、地球がそのために炸裂しない、ということぐらいはとうに知っている。  今回、意外な結果として会得できた有益な点は、30年来おぼろげに悟ってはいたが、 やはり簡明で要を得た綱領として表せなかった、 古文をうまく書くコツと、良い人間になる秘訣を、これによって忽然とその糸口がつかめたことだ。  そのコツとは:うまく古文を書き、良い人になるためには、ひと通りやってみて、 白紙同然になるようにすべきだ、ということだ。  かつて作文を教えてくれた先生は「馬氏文通」「文章作法」等を伝授してはくれなかった。朝から晩まで、ただ読み書きするだけで:良くないと叉読まされ、書かされた。 だが、どこが悪いか何も言わないし、どのように書けと教えてもくれなかった。 暗い路地を手探りで歩かされ、うまく通り抜けられるかどうか、天命を聞くのみ。 たまたま何のはずみか、「偶然」且つ「どうしてだか分からないが」提出した答案が、 急に添削が減り始め、残った文にも二重丸が増えだした。 それでうれしくなり、このように書いてゆけば――本当に我ながら妙なことだが、 「この様に」書いて行くのだが、年月が経つにつれ、先生も文章に手を入れなくなり、 末尾に「冗長でなく、読解力もすぐれ、筆力あり」などの批評がついて、「合格」となった。 勿論高等評論家の梁実秋氏は多分まだ「合格」じゃない、というかもしれぬが、 私は世俗一般について言っており、とりあえずは俗に従っておく。  この種の文章は当然、意図を明確にせねばならぬが、 それがどんな意見かは二の次の問題だ。 例えば「任務を成し遂げようとするなら、まず其の器を利(さとく)せよ論」を書くなら、 正面から「其の器が利でなければ、任務もうまく成し遂げられぬ」、 と書いても固より良いが、反対に、「任務を果たすには技両が先で、技が純でなければ、器がいかに利でも事はうまくゆかぬ」と書いても悪くはない。  皇帝に対しても「天皇は聖明であらせられ、臣の罪はまさに誅に値します」、 と書くのも固より可だが、仮に「皇帝がダメだとおぼしめされたら一刀のもとに我を殺されよ」と書くのも不可ではない。 我々の孟夫子は言う: 「ただ一夫子たる紂を誅せりと聞けり、未だ君を弑すとは聞かず也」  今我々の聖人の徒も正にこの意見と同じだ。  要するに、頭から仕舞いまでひとつ一つ説いて行き、色々なことを明確にし、 天皇はやはり聖明で、一刀のもとに殺すのか、或いはいずれも賛成しかねるなら、 最後に声明を出すが良い: 「淫虐の威を極めるといえども、やはり君臣の別あり、君子は軌を逸せぬものゆえ、 密かにこれを辺地に放逐するが可也」と。  この方法は多分劉氏もダメとは言うまい。 「中庸」は我々の古い聖賢の教訓でもあるのだから。  だが、以上は清末の話で、清初なら誰かが密告したら「一族皆殺し」になるかもしれぬ。「辺地に放逐」もダメで、そうなると彼は君と孟子孔子のことは、誰とも話せない。 今は革命が成ったばかりだから、状況は多分清朝建国の初めに似ているだろう。 (未完)   これは「夜記」の5の前半部分だ。 「夜記」は1927年からたまたま思い到ったことを灯下で書き、まとめて2篇発表した。 上海に来てテロの殺戮の凶事に感じるものあり、「虐殺」と題して1篇半書いて、 まず日本の幕府がキリシタンを磔にしたことと、ロシア皇帝が革命党を残酷に扱ったことを書いた。 だが暫くしたら、人道主義を罵る風潮になり、そのために怠けてしまい、続けて書かなくなってしまい、原稿もどこかへいってしまった。  一昨年、柔石が出版社に入り、雑誌の編集を始め、私に何か頭の余り痛くならないものを書けという。 その夜「夜記」を書いたのを思い出し、そんなテーマにした。 大意は中国で文章をうまく書く事と良い人になる秘訣は、古くからあるが、 全てを丸写しにするのはダメで、東から少し、西からも少し、縫い目が分からぬように、 張りつけて上々の首尾となる。 従って、一通りやってみても、やらなかったのと変わりはない。 評論家は良い文章を書く人を良い人だと言う。 この社会の全てが何も進歩しない病根はここにあるのだ。  その夜は完成せずに寝てしまった。 翌日柔石がきたので、書いたものを見せたら、眉をよせ、なにか難しそうだ、 と言いたげで、且つ紙幅が多すぎそうだった。  それで彼には別途短い翻訳を渡す約束をし、これは放っておいた。 柔石が難に遭って1年余が過ぎた。 偶然反故の中からこの原稿を見つけ、悲痛に耐えぬ。 全文を完成させようと試みたが、ついに果たせなかった。 書こうとしたが、すぐ他の事が浮かんできてしまった。 世に言う「人琴倶亡」とはきっとこうした状態を言うのだろう。  今半分をここに載せ、柔石の記念とする。                    1932年4月26日夜記す。 訳者雑感:「人琴倶亡」とは「世説新語」の「傷逝」の言葉で、仲の良い二人が共に病気になり、琴のうまい一人が先に亡くなってしまった。 それを聞いた時それほど悲痛にはくれなかったが、暫くして友の家に行き、好きだった琴をひいてみたが、昔の様な音が出ない。 そこで発せられたのが「人も琴も倶に亡くなってしまった」 慟哭の余りその後ひと月余で彼も亡くなったという故事を背景にしている。  魯迅がどれほど柔石の死を悼んだかが分かる。  この書きかけの雑文を載せる気になったのは、彼を記念とするとともに、 中国で古文をうまく書くのが良い人になることと同じとされ、 その古文をうまく書くコツというのが、今日でいう「コピペ」であり、 いかに多くの古典を読破し、それを縫い目の分からぬようにうまくつなげるか、であった。 これが、中国の社会が少しも進歩しない病根だと喝破している。 科挙の八股とはまさに過去の膨大な古典の海から、いかにうまくその文章にふさわしい典故を取り出して、つなぎ合わせるかであり、そこに安定と不変こそが肝要で、 進歩を拒んできた病根がある。 というのが彼の悟ったことであるが、「人琴倶亡」などという四字からなる含蓄ある言葉は、これを博覧の中から、取り出してきてぴったりとした場所で使えるのは、 科挙の勉強に幼年時代から取り組まされてきた魯迅だからできたことで、 その詰め込み的な学習を強制されなくなった現代人は、この4字の存在もしらぬだろう。  中国でもパソコンでの作文しかしないので、手書きの文字がとても見ぐるしくなって、 というか判読できないほどなので、毛筆による書法の時間を週に一回設けることにしたそうだ。 学校で強制的にでも書法を教えないと、文字だけでなく、文をうまく書くこともできなくなってしまう。 その結果 「良い人」になる秘訣も会得できなくなると悟ったようだ。 現教育部も。       2011/09/01訳

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「芸術論」訳序


一。
 Plekhanov(プレハーノフ、以下プ氏と略す)は1857年、タンボフ州の
貴族の家に生まれた。それから成年までの間は、ロシア革命運動史で丁度知識階級が提唱した民衆主義が隆盛から凋落に至る時であった。彼らは当初ロシア民衆即ち大多数の農民はすでに社会主義を理解していて、精神的自覚はしていないが社会主義者となっているから民衆主義の使命は只「民衆の中に入れ」
(フナロード)であり、彼らにその境遇を説明し、地主と官吏への憎悪をうまく誘引すれば、自からすぐにでも決起し、自由な自治制即ち無政府主義の社会組織を実現できる、と考えていた。
 但し、農民は民衆主義者の宣伝に殆ど耳を傾けず、逆にこうした進歩的貴族子弟に不満を持った。アレキサンダー二世の政府は彼らに厳しい刑罰で臨み、一部の人は目を農民から離し、西欧先進国に倣い、有産者の享有せる権利争奪の為に争った。それで「土地と自由党」は「民意党」に分裂し、政治闘争に入ったが、手段は一般的な社会運動ではなく、単独で政府と争い、全力を挙げてテロに奔った――暗殺である。
 青年プ氏もこうした社会思潮の下で革命運動を始めた。だが、分裂の際も尚
農民社会主義の根元的見解に固執し、テロリズムに反対し、政治的公民の自由獲得に反対し、別に「均田党」を組織し、唯ただ農民叛乱を嘱望した。すでに独自の意見を持ち、知識階級が単独で政府と争っても革命成功はおぼつかないと考え、農民はもとより、社会主義的傾向が強い労働者もたいへん重要だと考えるようになった。
「革命運動におけるロシア労働者」という本の中で、労働者は偶然都会に来ている工場の農民である。社会主義を農村に持ち込もうとすれば、こうした農民(出身の)労働者が最適の媒介者になる。農民は労働者のいうことを信用するから、知識階級よりいい、と述べている。
 事実は彼の予測通りだった。1881年テロリストがアレキサンダー二世を暗殺した時、民衆はまだ決起せず、公民も自由を得られず、有力な指導者は殺され、捕えられ「民意党」は殆ど消滅の危機に瀕した。党に属さず、労働者の社会主義に傾いていたプ氏なども、ついに政府に圧迫され、国外に逃亡した。
 彼はこの時、西欧の労働運動に近づき、マルクスの著作を研究し始めた。マルクスの名はロシアでは早くから知られ:「資本論」第一巻は他国より早く訳され:多くの「民意党」の人たちは彼と個人的に知り合い、連絡しあった。
 だが、彼らがたいへん尊敬しているマルクス思想は、彼らにとっては純粋な
「理論」に過ぎなかった。ロシアの現実には合わず、ロシア人とは無関係で、
ロシアには資本主義が無いからロシアの社会主義は工場には生まれず、農村に
生まれると考えていた。但、プ氏は当時のペテルブルグの労働運動を回想した際、農村への疑惑が生じ、原書でマルクス主義文献に精通していたから、この疑惑が増大した。そこで当時の全ての統計材料を集め、真のマルクス主義の方法で研究し、ついに資本主義が実際にロシアにも存在することを確信した。
 1884年「我々の対立」を発表した時の手紙で、民衆主義の誤りを指摘し、
マルクス主義が本当に正しいことを証明した。この本で大衆として農民に指示するのは、今や社会主義の支柱にはなれぬ、と書いた。ロシアでは当時都市の工業がまさに発達しつつあり、資本主義制度も形成されていた。必然的にこれに伴って興るのは、資本主義の敵、即ち資本主義を滅ぼそうとする無産者である。従ってロシアも西欧と同様、無産者は政治改造に対して、最も意味ある階級である。その境遇から言って、革命を堅持し組織するのは、他の階級より大きな力があり、将来のロシア革命の射撃兵として最も適切な階級だった。
 以来プ氏は自分自身が偉大な思想家となったのみならず、ロシアのマルクス主義の先駆けとなり、覚醒せる労働者の教師、指導者となった。
二。
 但、プ氏の無産階級に対する殊勲はせいぜい理論的な文章を発表したことだけで、彼自身の政治的意見は常に揺れ動いた。
 1889年社会主義者がパリで第一回国際会議を開いた時、プ氏は「ロシアの
革命はただ労働者の運動に依って初めて勝利でき、これ以外に解決の道は無い」と言った時、欧州の著名な多くの社会主義者たちは真っ向から反対した:しかし暫くして彼の業績は現れてきた。文章には「歴史上の一元的現象の発展」(略して「歴史的一元論」)が1895年に出版され、哲学の領域から民衆主義者との闘争、唯物論擁護でもってマルクス主義の全時代もこれに教えを受け、これで戦闘的唯物論の根源を理解した。後の学者は当然それを突いて論評した。しかしシベノフは「この注目すべき著作を、新時代の人々に説いて、うまく講釈すれば、これ以上すばらしいことはない」と言った。事実、翌年彼の弟子たちと民衆主義者との闘争の結果、紡績工場の労働者3万人の同盟ストがペテルブルグで起こり、ロシア史に新時代を画した。
ロシア無産階級革命の価値が初めて世間に認識され、当時ロンドンで開かれた社会主義者第4回国際会議でも、本件は大きな驚嘆と歓迎を受けた。
 然るにプ氏は畢竟理論家にすぎなかった。19世紀末にレーニンが活動を始めた時、レーニンは彼より若く、二人は当然何の相談をせずとも分業を行った。彼は理論面に長じ、敵に対しては哲学的論戦を挑んだ。レーニンは最初の著作以来、専ら社会政治問題と党と労働者の組織に取り組んだ。彼らはこの時、頬骨と顎の関係で、編集発行した新聞はIskra(火花)、撰者の中に不純分子もいたが、当時は労働者と革命者の為に重要な仕事をし、更には一歩進めて奮闘して民衆主義派の知識分子を揺さぶった。
 特に重要なのは文章と実際の活動であった。当時(1900-01年)革命家は自分の小宇宙に閉じこもり、全国展望を知らず、全国展望に依拠してこそ革命が達成できることを悟っていなかった。また正確な計算なしに、どれだけの勢力を使えば、どれだけの効果が得られるかに考えが及ばなかった。
この時代、中央集権党を試ろみ、全無産階級を統一した全国的政治組織の観念は新奇で異端とされ、実現困難だった。「火花」はただ単にこの観念を論説に発表するのみならず、「火花」という団体を組織し、当時の錚々たる革命家の百から百五十人の「火花」派が加入し、プ氏が新聞に発表した文章を使って運動を展開する計画を実行した。
 但、1903年に露国マルクス主義者がボリシェビキとメンシェビキに分裂し、
レーニンは前者の指導者となり、プ氏は後者だった。それから二人は時に離れ、時に合したが、1904年の日露戦争の時、ツアーリの戦敗を希望し、1907年から1909年の党の受難時代には、彼は常にレーニンと同心だった。特に後半の一時期は、ボ派の勢力の大部分は国外逃亡を余儀なくされ、各所で堕落し、至る所にスパイがいて、皆互いに監視しあい、恐れ猜疑した。文学では淫蕩文学が盛んとなり、「シャーニン」はこの時現れた。
 この情勢は全革命の内に侵入してきた。党員は四散し、それぞれ小団体となり、メンシェビキ派の中の取り消し派(機会主義派。白色テロ派)は、ボ派に挽歌を与えた。この時大声をあげて叱咤し、取り消し派主義を撃破すべしと、
訴え、ボ派をサポートしながら、身はメンシェビキ派の権威だったプ氏は、新聞各紙や国会で、勇敢に支援を続けた。それでメンシェビキ派の別派は「彼は
ボケてしまい、地下室の歌手になってしまった」と嘲笑した。
 革命復興を謀り、新組織の新聞は1910年からZvezda(星)を発行、プ氏と
レーニンは国外から投稿したから、勢い両派合作の機関紙は、明確な政治方針を示せなかった。但、新聞と政治運動の関係に緊張が高まると、提携の性格が徐々に失われ、プ派はついに完全に姿を消し、新聞はボ派の闘争機関となった。1912年、両派はまたPravda(真理)を共同発行し、事件が起こると、プ氏はまたあっという間にことごとく排除され、「星」の時と同じ道をたどった。
 欧州大戦が始まり、プ氏はドイツ帝国主義を欧州文明と労働階級の最も危険な仇敵とし、第二インターの指導者と同じく、愛国的立場から、最も憎むべきドイツと戦い、何のためらいも無く本国の資産階級及び政府と提携し妥協した。
1917年2月、革命後、本国に戻り、社会主義的愛国者団体を組織し「協同」と
名付けた。然るに露国無産階級の父、プ氏の革命感覚はこの時すでにロシアの労働者を動かす力を失っていて、ブレスタット講和後は殆ど全く労農ロシアに
忘れ去られ、1918年5月30日当時のドイツ占領下のフィンランドで孤独の内に死んだ。臨終の時、「労働者階級は私の活動をしっかり受け止めてくれているか?」とうわごとで問うた由。
三。
 彼の死後、Inprekol(第8年54号)に「G.V.Plekhanovと無産階級運動」という一篇が彼の生涯の功罪を簡括論評している――
 『…その実、プ氏は次のような疑問を抱くべきだった。何故だ?若い労働者階級は、彼の知っていることについて、愛国社会主義者として、メンシェビキ党員として、帝国主義の追随者として、革命的労働者だと主張する者として、ロシア資産階級の指導者ミィヤコフと妥協する人間になったのか?労働者階級の道とプ氏の道は余りにも隔たってしまったのだから。
 しかるに、我々は何の躊躇も無く、プ氏をロシア労働者階級、いや、国際労働者階級の最大の恩師の一人と考えている。
 なぜそうだと言えるのか?決定的な階級闘争の時、プ氏は防戦一方だったではないか?そうだ、確かにその通りだ。しかしこの決戦のずっと前から活動していて、彼の理論的著作はプ氏の遺産の中で、大変貴重なものである。
 ただ正しい階級的世界観の為に戦った闘争は階級間の争いの諸形態の中で、
最も重要なものの一つである。プ氏はその理論的著作で数世代にわたって、多くの労働者革命家たちを育てた。そして叉これにより、ロシア労働者階級の政治的自主の確立のため、出色の仕事をした。
 プ氏の偉大な功績はまず民意党に対し、前世紀の70年代、ロシアの発展を信じ、ある特別な、即ち非資本主義路線の知識階級の同志として、彼が闘争の道を歩んだことだ。
 あの70年代以降の数十年、ロシアの資本主義の大きな発展は、どれほど民意党の人たちの見解が誤りであり、プ氏の見解が正しかったかということを顕著に示した。
 1884年プ氏の編集した‘労働解放を目的とした’団体(労働者開放団)の
綱領はまさしくロシア労働者党の最初の宣言であり、また1878年から79年に
至る労働者の動揺に対する直接の解答である。
 彼は言う―――
 「できる限り迅速に労働党を作り、現今のロシア経済及び政治の全ての矛盾を解決するのが、唯一の手段だ」
 1889年プ氏はパリ国際社会主義党大会で言った――
「ロシア革命運動は、革命的労働者運動によってのみ勝利できる。これ以外に
解決の道は無い。またあり得もしない」
 これはプ氏の有名な言葉で、決して偶然出たのではない。プ氏はその偉大な天才的才能で市民の民衆主義の革命の中に無産階級の主権を擁護し、数十年の長きにわたった、それと同時に自由主義的有産者は帝制との闘争の中で、怯懦にもスパイとなり、日和見者たちの思想と化した、と発表した。
 プ氏はレーニンと共に「火花」の創立来のリーダーだった。ロシアに正当な組織を作るための闘争について「火花」が果たした偉大な組織的な仕事は、広く知られている。 
 1903年から17年のプ氏は何回もぶれたが、それは革命的マルクス主義に反し、メンシェビキの方へ歩んだためだ。彼を革命的マルクス主義の諸問題に背かせたのは、何だったのだろう?
 まず農民の革命の可能性に対する過小評価。プ氏は民意党人の有害な面に対する闘争の中で、農民のさまざまな革命的努力を見落としていた。
 次に、国家の問題。市民の民衆主義の本質への理解が欠如していた。即ち、
資産階級のものである国家機関を粉砕する必要についての理解が欠如していた。
 最後に資本主義の最後の段階としての帝国主義の問題及び帝国主義戦争の性質に関する問題への理解が欠如していた。
 要するに、――プ氏はレーニンの強い点に弱かった。彼は‘帝国主義と無産階級の革命時代のマルクス主義者’になれなかった。だから彼がマルクス主義者となったのも、全てが結末を迎えたときだった。プ氏はそれで、Rosa Luxemburgの言うように、徐々に「尊敬すべき化石」になっていった。
 露国のマルクス主義建設者プ氏は、単にマルクスとエンゲルスの経済学、歴史学及び哲学の媒介者ではない。それら全領域にわたり、出色で独自の労作を残して貢献した。露国の労働者とインテリ階級にマルクス主義は人類の思索の全史的に最高の科学の完成だと明確に理解させることに関して、プ氏は力を発揮した。
 プ氏のいろいろな理論上の研究は、彼の観念形態の遺産の中で、疑いなく最も貴重なものである。レーニンはかつて純心な青年たちに、プ氏の著作を研究するよう、しばしば勧めた。――「もし、これ(プ氏の哲学的著述)を研究しなければ、誰も意識的に、真の共産主義者にはなれない。これは国際的な全てのマルクス主義文献中で、最も傑出した作品である」(レーニンの言)
四。
 プ氏はマルクス主義の芸術理論にも基礎を築いた。彼の芸術論はまだ厳然とした一つの体系を成してはいないが、彼の遺した方法と成果を含む著作は、単に後人の研究対象のみならず、マルクス主義芸術理論を打ち立てたと称しても
はじないだけの社会学的美学の古典的文献である。
 この中の三篇の手紙形式の論文は、彼のこの種の著作の片鱗に過ぎない。
 第一篇「芸術論」はまず「芸術とは何か」を提起し、トルストイの定義を補正し、芸術の特質を感情と思想の具体的形象の表現と断定。そこから更に進んで、芸術も社会現象だということを明確にし、従って観察の際も必ず唯物史観の立場をとり、そしてこれと異なる唯心史観(St.Simon,Comte,Hegel)に批判を加え、これと相対的に生物の美的趣味のダーウィンの唯物論的見解を紹介した。彼はここで、反対者の主張が生物学から来る審美感の起源の提議を仮に設定し、ダーウィン本人の言葉を引用し、「美的概念…は種々の人類種族の中で、
非常にいろいろあり、同一人種の各国民の中にさえも同じではないことがある」と説いた。この意味は、「文明人の中で、このような感覚は各種複雑な観念及び、思想と連鎖結合したもの」だ、と。
 それで、「生物学から社会学へ向かわねばならず、ダーウィンの領域のあの
人類を「種」と考える研究はこの種の歴史的運命を研究すべきだ、とした。
もし、唯芸術のみを言うなら、人類の美的感情の存在の可能性(種の概念)は、
それが現実の条件(歴史的概念)が高めた方向に移って行く。
 しかしプ氏はここで、この重要な芸術生産の問題として、生産力と生産関係の矛盾及び、階級間の矛盾を解明し、どういう形で芸術面に影響を及ぼすか:
当該生産関係に立った社会的芸術は叉、どのように個々の形をとるか、他の社会の芸術とははっきりと異なっている、とした。
 このダーウィンの「対立する根源的影響」という言葉は、ひろく例を引き、
社会的条件の美的感情の形との関係を説明し:並びに社会的生産技術と韻律、
階調、均整法則との相関を説明している。
 且つまた、近代フランス芸術論の発展(Stael,Guizot,Taine)を批判している。
 生産技術と生活方法が最も密接に芸術現象に反映するのは原始民族に関してだ。プ氏はこうした原始民族の芸術を解明することで、マルクス主義芸術論の
難題に取り組んだ。第二編「原始民族の芸術」は、まず人類学者旅行家などの
実見談に基づき、ブッシュマン、Vedda,インディアン、及び他の民族の生活を、
狩猟、農耕、財貨分配などの事例を引き、原始狩猟民族の実際上の共産主義的結合を証し、かつブッチャ―(ドイツ人)の説はあてにならぬ、とした。
 第三篇「原始民族の芸術を再び論ず」は、遊びの本能は、労働以前にあるという人々の誤りを批判し、豊富な実証と厳正な論理を使って、有用な対象の生産(労働)が芸術生産に先んじていたというこの唯物史観の根本命題を究明した。詳しく言うと、プ氏の究明は社会的人間の事物と現象を見ることは、最初、
功利的観点からだったが、後にやっと審美的観点に移ったという点だ。全人類が美しいと思うものは、有用であり――生存の為と自然及び他の社会人の人生に闘争上有意義なものである。効用は理性から認識されるが、美は直感的能力で認識される。美を享楽する時、殆ど効用は考えないが、科学的分析により、発見される。従って、美的享楽の特殊性は即ちその直接性にあり、而して、美的愉楽の根底に、もし効用がその下に伏せっていなければ、それは必ずしも
美しくはない。人は美の為に存在するのではなく、美は人の為に存在するのだ。
――この結論は唯心史観者がプ氏を深く憎み、拒絶するもので、社会、種族、
階級の功利主義的見解を芸術に持ち込んでしまった。
 第三篇の結末でプ氏はこれを引き続いて討論するよう準備し、人種学上の旧式分類が完全に合致するか否かだ。だが、それは結局果たせずに終わり、これで終わりとするほかなかった。
五。
 本書の底本は日本の外村史郎の訳だ。既に、林柏修氏の訳があり、本来は
再訳の要も無いのだが、叢書の目録に早くから決まっていて、やはりこの様な
徒労に近い仕事をする仕儀となった。
 翻訳の際は常に林氏の訳を参考し、日本語より更に適切な名詞を採用し、時に、文章の構成も大筋で影響を受けたし、前車を鑑とし、私が何回も誤訳するところを救ってくれたので、心から感謝せねばならぬ。
 序言の4節は、第3節以外は全て訳出したほか、それ以外はシべノフの
「ロシア社会民主労働党史」山中封介の「ロシア革命運動史」と「プロレタリア芸術教程」の余禄の「プ氏と芸術」などを参照した。臨時に急いで取り組んだゆえ、誤訳も多いだろうが、あらけずりな踏み台的導入部とさせてもらう。
 一番重要な芸術全般について触れなかったのは、先にワレフソンの「プ氏と芸術問題」が出版されており、「ソビエトロシアの文芸理論」(「未明叢刊」の一)の後、レシネフの「文芸批評論」とヤコブレフの「プ氏論」(共に本叢書の一)が出版され、簡明で広範ゆえ、訳者はその万分の一もできそうにもないから、触れずに如かず。読者は自分で彼らの文章を研究されんことを願う。
末尾の一篇は蔵原惟人訳「階級社会の芸術」を訳したもので、「春潮月刊」に
載せたもの。その中でプ氏の文芸についての見解を自序した文章があり、本書の第一篇と対比できるので巻末に載せた。
 但し、訳文を自省すると今回のもやはり「硬訳」であり、これしか能力がなく、読者はやはり指で線をたどり、地図を見る如くに読まねばならぬ:実に非常に申し訳ないことだ。  
  1930年5月8日夜、魯迅 校訂終了後 上海閘北寓廬にて
 
訳者雑感:
 名前くらいしか知らないプレハーノフの「芸術論」の翻訳の序を訳しながら、
プレハーノフのことを少し皮相的にかじってみた。もはや日本の図書館でもあまり彼の著作を置いているところはない。伝記では彼もユダヤ人だったとある。マルクスを本格的にロシアに紹介した人間だが、メンシェビキ(少数派)だったから、ボリシェビキのレーニンたちによって、少数派という立場に追い込まれ、最後はフィンランドで死んだ。
 メンシェビキ(少数派)という名称というのは後の実権を握った多数派の人たちがつけたのだろう。仏教でも我々は大乗仏教として、南進した仏教を小乗仏教と呼んでいるが、彼らはそれを見下した意味があるとして受け入れない。
 プレハーノフは、魯迅の序文によれば、農民に頼っていては革命できない。
都市の工場労働者を組織しなければロシアは革命できない、と説いた由。
 農民の力を過小評価していた、という点は後の中国の農村から都市を包囲する、という中国共産党にとって反面教師的でもある。
 その後のコミンテルンはやはり国民党を支援していて、延安で農村から都市を包囲しようとしていた中国共産党とは一線を画していた。逆にスノーとか
スメドレーなどのアメリカのジャーナリストたちの方が、延安をサポートし、
世界に彼らのことを紹介し続けたのも、歴史の皮肉であろう。
 組織としてのコミンテルンは官僚化し、硬直化していて、個人として自由な
立場で行動していた米国などのジャーナリストや文芸家の方が、目が確かだったようだ。彼らは蒋介石率いる国民党政府がどれほど腐敗し大衆から見放されていたかを明確に認識していた。
     2011/08/30訳
 
 

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現代日本の阿Q的精神 勝利法

今日菅首相が退陣する。
23日の参院の委員会で中山氏の質問に答えて彼は言った。
「何か間違ったことをやったから、責任を取るということではない」
とあくまで失政とか歴代首相のような失言とか政治とカネの問題等
間違ったことをしたわけではない、と言いたいらしい。
それではなぜ辞めるのか。
現実の政治では国民の信頼を失い、見放されて敗北していることを
認識しながらも、脱原発とか打ち上げたことでは国民は自分を支持
してくれていると、自分なりの解釈で、自分の敗北を認めようと
しない。自分で自分を騙す。自己欺瞞である。阿Qは自分の手で、
自分の頬を殴って、殴った手は自分で、殴られた頬は敵のだと言い聞かせて、得意になって家に帰る。これを阿Qの精神勝利法という。
これから5冊の軽い本を読んで、四国巡礼に向かうらしい。
なんとも存在の軽い男を1年以上に亘って首相にしたものよ。
ところで誰がなるのやら。だれがなっても同じでは困る。

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「進化」と「退化」まえがき

 これは十年来訳者が翻訳した百篇近い文章から、余り専門的ではない物を選び、読みやすく一冊にまとめ、広範な読者に伝わるようにしたものである。
1.これを読めば最近の進化学説の状況と 2.中国人の将来の運命が分かる。
 進化論が中国に入って来たのは頗る早く、遠くは厳復がハックスレーの「天演論」を訳述したが、空しい名詞をただよわせただけだった。第一次大戦時代、論客たちにたいへん誤解され、今や名目すら気息奄々の状態。その間学説は数次の変遷をへて、De Vriesの突然変異説が興り、またすたれ、ラマルクの
環境説は廃されて叉復興し、我々は自然に生息しているが、自然の大法則の研究は、大抵がまだ意を尽くし切れていない。本書の首尾は、各2編で、新ラマルク主義の立論で概略を窺い知ることができ、欠けたところをほぼ補う。
 但し、最も大切なのは巻末の2編で、砂漠が南進しつつあることや、栄養を保持することが難しくなっていることは、中国人にとって特に重要で、極めて切実な問題であり、解決できぬと結果は滅亡を意味する。中国古史の探索の難しさを解くことができるし、中国人が(世界で)一番耐久力がある、という
謬説を打破できるのは、副次的な収穫に過ぎぬ。森林を伐採し尽くし、水沢は
枯渇し、将来一滴の水が血液と等価となる。これを現在と将来の青年に記憶してもらえるならこの本の収穫は非常に大きい。
 然し、自然科学の範疇はここまでで、与えられた解答も只只治水造林だ。これは一見とても簡単容易なようだが、事はけっしてそれだけでは済まない。私はスメドレー女史の「中国の農村生活断片」の二つの話を引用してその証としよう。―――
 『彼女は明日(北京の昔からの皇帝の狩場)南苑に行き、獄吏に頼んで、彼女の親属を釈放してもらう、と言った。其の人は60人のそれぞれ個別の村人で、男も女もいて、3か月前に捕えられ収監された。そこでは、食べるものがすべて無くなってしまったから、木の枝を切り、樹皮を剥いだ。彼らがこうするしかないのは、反乱の為ではなく、只木材を売って食糧を手に入れるためだ。』
 『… 南苑の人々は収穫が無く食料も無く仕事も無い。この2畝(ム―)の田んぼも何の役に立つものか。… ちいさな擾乱でも、千人もの人が災民となってしまう。…南苑は当時(北京を軍閥が戦場としていた結果)樹木のほか、何も無くなり、農民が樹木に手をつけた時、警察は彼らを捕えて収監した』
     (「萌芽月刊」5期177頁)
 こうした樹木保護法の結果、樹皮を剥ぐことが増え、草の根を掘る人が増え、砂漠化を速めてしまった。但し本書は自然科学を範疇とするため、こうした点には触れていない。
 この自然科学を論じることに次いで、更に一歩進め、解決を見いだせれば、
社会科学が生まれる。
             1930年5月5日
訳者雑感:
 食べるもの(中国語の原文は「生活手段」)が本当に何も無くなったとき、
戦前の中国人はどうやってしのいだか。我が子を他人の子と換え、食らった、という話を何回か読んだ。それほどになる前は、木の皮、草の根を食べたという展示を何か所かで見た。その結果、その地域一帯は禿げ山になり砂漠化した。
 改革開放が進む中国では、もうこういうことを展示する所は無くなってしまったようだ。30年前までは、各地で戦前の農民が地主の搾取と自然の災害で、
食べるものが全くなくなってしまい、樹皮や草の根を食べたという実物大の
農民たちの像がたくさん展示されていた。いずれも昔の、食うや食わずの苦しい生活から今日のように何とか食べられるようになったのは、共産党の御蔭だ、
だから共産党に感謝して、農業生産を高めて、豊かになろう! であった。
 だが現実は人民公社の仕組みでは、だれも懸命になって働こうとせず、生産高も増えず、農民の生活は豊かになることはなかった。
 改革開放政策下、請負制を導入して、各戸に配分したら途端に生産意欲が向上し、農村に活気が生まれ、郷鎮企業なる村営企業が生活手段を広げて行き、
天災も比較的少なかったから、一気に右肩上がりに成長を始めた。
 しかし、長年小麦などの買い上げ価格を(都市住民の生活防御のため)引き上げなかった咎めが出て、膨大な数の農民が農作だけでは食べてゆけず、都市への出稼ぎ工(農民工)となって、小麦畑は放置される所が出てきた。
 耕作されない農地が増え、農村が荒廃したので、数年前から小麦の買い上げ価格を引き上げ、農民に生産意欲を持たせるようにしたが、出稼ぎの状態は
改善されず、都市には多くの農民工とその子供たちが何の保護もなく暮らしている。日本でも冬季の出稼ぎが状態であった時代があった。今の中国はあの頃の日本なのだろうか。あと何年或いは何十年すれば農民工が無くなるだろうか。
そのときが来たら、中国の成長も緩やかになり、成熟した社会になるだろうか。
     2011/08/22訳
 
 
 これは十年来訳者が翻訳した百篇近い文章から、余り専門的ではない物を選び、読みやすく一冊にまとめ、広範な読者に伝わるようにしたものである。
1.これを読めば最近の進化学説の状況と 2.中国人の将来の運命が分かる。
 進化論が中国に入って来たのは頗る早く、遠くは厳復がハックスレーの「天演論」を訳述したが、空しい名詞をただよわせただけだった。第一次大戦時代、論客たちにたいへん誤解され、今や名目すら気息奄々の状態。その間学説は数次の変遷をへて、De Vriesの突然変異説が興り、またすたれ、ラマルクの
環境説は廃されて叉復興し、我々は自然に生息しているが、自然の大法則の研究は、大抵がまだ意を尽くし切れていない。本書の首尾は、各2編で、新ラマルク主義の立論で概略を窺い知ることができ、欠けたところをほぼ補う。
 但し、最も大切なのは巻末の2編で、砂漠が南進しつつあることや、栄養を保持することが難しくなっていることは、中国人にとって特に重要で、極めて切実な問題であり、解決できぬと結果は滅亡を意味する。中国古史の探索の難しさを解くことができるし、中国人が(世界で)一番耐久力がある、という
謬説を打破できるのは、副次的な収穫に過ぎぬ。森林を伐採し尽くし、水沢は
枯渇し、将来一滴の水が血液と等価となる。これを現在と将来の青年に記憶してもらえるならこの本の収穫は非常に大きい。
 然し、自然科学の範疇はここまでで、与えられた解答も只只治水造林だ。これは一見とても簡単容易なようだが、事はけっしてそれだけでは済まない。私はスメドレー女史の「中国の農村生活断片」の二つの話を引用してその証としよう。―――
 『彼女は明日(北京の昔からの皇帝の狩場)南苑に行き、獄吏に頼んで、彼女の親属を釈放してもらう、と言った。其の人は60人のそれぞれ個別の村人で、男も女もいて、3か月前に捕えられ収監された。そこでは、食べるものがすべて無くなってしまったから、木の枝を切り、樹皮を剥いだ。彼らがこうするしかないのは、反乱の為ではなく、只木材を売って食糧を手に入れるためだ。』
 『… 南苑の人々は収穫が無く食料も無く仕事も無い。この2畝(ム―)の田んぼも何の役に立つものか。… ちいさな擾乱でも、千人もの人が災民となってしまう。…南苑は当時(北京を軍閥が戦場としていた結果)樹木のほか、何も無くなり、農民が樹木に手をつけた時、警察は彼らを捕えて収監した』
     (「萌芽月刊」5期177頁)
 こうした樹木保護法の結果、樹皮を剥ぐことが増え、草の根を掘る人が増え、砂漠化を速めてしまった。但し本書は自然科学を範疇とするため、こうした点には触れていない。
 この自然科学を論じることに次いで、更に一歩進め、解決を見いだせれば、
社会科学が生まれる。
             1930年5月5日
訳者雑感:
 食べるもの(中国語の原文は「生活手段」)が本当に何も無くなったとき、
戦前の中国人はどうやってしのいだか。我が子を他人の子と換え、食らった、という話を何回か読んだ。それほどになる前は、木の皮、草の根を食べたという展示を何か所かで見た。その結果、その地域一帯は禿げ山になり砂漠化した。
 改革開放が進む中国では、もうこういうことを展示する所は無くなってしまったようだ。30年前までは、各地で戦前の農民が地主の搾取と自然の災害で、
食べるものが全くなくなってしまい、樹皮や草の根を食べたという実物大の
農民たちの像がたくさん展示されていた。いずれも昔の、食うや食わずの苦しい生活から今日のように何とか食べられるようになったのは、共産党の御蔭だ、
だから共産党に感謝して、農業生産を高めて、豊かになろう! であった。
 だが現実は人民公社の仕組みでは、だれも懸命になって働こうとせず、生産高も増えず、農民の生活は豊かになることはなかった。
 改革開放政策下、請負制を導入して、各戸に配分したら途端に生産意欲が向上し、農村に活気が生まれ、郷鎮企業なる村営企業が生活手段を広げて行き、
天災も比較的少なかったから、一気に右肩上がりに成長を始めた。
 しかし、長年小麦などの買い上げ価格を(都市住民の生活防御のため)引き上げなかった咎めが出て、膨大な数の農民が農作だけでは食べてゆけず、都市への出稼ぎ工(農民工)となって、小麦畑は放置される所が出てきた。
 耕作されない農地が増え、農村が荒廃したので、数年前から小麦の買い上げ価格を引き上げ、農民に生産意欲を持たせるようにしたが、出稼ぎの状態は
改善されず、都市には多くの農民工とその子供たちが何の保護もなく暮らしている。日本でも冬季の出稼ぎが状態であった時代があった。今の中国はあの頃の日本なのだろうか。あと何年或いは何十年すれば農民工が無くなるだろうか。
そのときが来たら、中国の成長も緩やかになり、成熟した社会になるだろうか。
     2011/08/22訳
 
 

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「主を失った」「資本家の益体も無い走狗」

梁実秋氏は「拓荒者」で自らを「資本家の走狗」と称し、自分としては「私は怒らない」と書いている。以前の「拓荒者」第二期672頁の定義に依ると、
「私自身はどちらかと言えば無産階級の一人のように感じていたが」の後で、
次いで、走狗の定義は「凡そ走狗になるのは、すべて主人の歓心を得て、恩恵に預かろうとする」為であり、そこで疑問として
 『「拓荒者」は私を資本家の走狗というが、それはある特定の資本家か、或いは全ての資本家か?私の主人が誰なのか知らない。もし知っていたら、きっと
何冊かの雑誌を持参し、主人に奉じて、論功してもらおうとするだろうし、
或いは、英国ポンドかルーブルの賞金を賜ろうとするだろう。…ただまじめに働いていれば、何がしかの収入は得られ、生計は維持できる。
どのようにすれば、走狗になれるのか、どうすれば資本家の帳場に行きポンド金貨を拝受できるのか、どうすればXX党へ行ってルーブルをもらえるのか。こうした本領を、私はどうして知りえようか?』
 これはまさしく「資本家の走狗」の生きた肖像だ。凡そ、走狗は特定の資本家の庇護を受けているとしても、実は全ての資本家に属し、従って全ての金持ちには従順で、全ての貧乏人には吠えたてる。誰が自分の主人か知らぬというのは、正しく全ての金持ちに従順なためで、全ての資本家に属する証なり。誰にも庇護されず、飢えて痩せこけ、野良犬に変じても、全ての金持ちに尻尾を振り、貧乏人には吠える。だが其の時には誰が主人かよけい分からなくなっているに過ぎぬ。
 梁氏は自分がどんなに辛い目にあっているかと書き、「無産階級」(即ち梁氏がかつて言ったところの「劣敗者」)のようで、「主人は誰か」も知らないというのは、後ろの組に属するのであり、より正確には何文字かを加えて、「主を失った」「資本家の走狗」と称すべしだ。
 然しこの名にもまだ欠点があり、梁氏は智誠のある教授であるから、一般人とは異なる。彼はもう「文学に階級性があるのか?」と言わなくなったが、
「魯迅氏に答える」の中で、大変巧妙に電柱に書かれた「武装してソ連を守れ」
という句を挿入し、新聞社のガラスの文句を混ぜ合わせ、上記の文章に「XX党へ行ってルーブルをもらえ」という箇所を引用している。故意に伏せたX二つは、誰でも「共産」の2字だと分かる。「文学に階級性がある」と主張した者は、梁氏を怒らせ「ソ連擁護」や「ルーブルをもらう」という罠は、段祺瑞の
衛兵が学生を銃殺し「晨報」に、学生は数ルーブルの為に命を落としたとか、自由大同盟に私の名が出たら、「革命日報」の「通信欄」に「金ぴかのルーブルで買収された」などと書くのは、いずれも同じ手法だ。梁氏も多分主人の為に、匪類(学匪の意)を嗅ぎつけ、ある種の批評を出しているが、この職業は
「ヤクザの手先」に比べても更に下賤である。
 国共合作時代、文書や演説でソ連を賞賛するのが大流行したが、今や全く違うし、新聞や電柱のビラに載る「XX党」は警察の取り締まりが厳しくなっている。そういう状況で、敵を「ソ連擁護」「XX党」と名指しするのはまさに時流にのっており、多分主人から「何がしかの恩恵」を得られるだろう。
但し、梁氏の意が「恩恵」や「ポンド金貨」にあるというのは、濡れ衣であって、決してそんなことはない。だがこの助けを借りて、「文芸批評」の窮状を救わんとするくらいだろう。
それだから文芸批評の面から言えば、「走狗」の前に「益体も無い」という一字を追加せねばならない。
       1930、4,19.
訳者雑感:
 原文の「資本家の走狗」というのは、お金のために資本家に尻尾を振る犬であり、この犬は金の無いものには見向きもせず、やたら吠えたてる。魯迅はここで、梁氏がただ単に金のために文をものする教授ではなくて、文芸批評の窮状をなんとかしようと懸命に書いているのでしょう、と皮肉たっぷりである。
 しかし、梁氏の文章は迫力に欠け、使う手法も段祺瑞がやった「陳情の学生らを射殺した」時に使った同じ手口「ルーブルをもらっている」という句を、
魯迅攻撃にも使うという陳腐なものであった。それで、犬の前に「乏」という字を付けくわえた。辞書には:へこたれた、力の無い、役に立たない、とあるので、「益体も無い」とした。文芸批評、資本家のいずれにも役に立たない、と。
 さて日本でもかつて左翼を攻撃する時、モスコーから金をもらっている連中
というのが常套句であった。実際にソ連の貿易公団との取引で、通常では考えられぬほどの収益を上げられるのは、その一部又は大半をそういう方面に転用せよとの暗黙の指示であった。
 中国もそれに倣ったのか、友好商社経由でした貿易を許さず、台湾との取引を重視する会社は「周四原則」でこれを排除し、親中国派を育て、そこに貿易で得られる収益が落ちるようにした。右翼はそれを攻撃するに「中共の手先」と呼んだ。それに対する反撃は「資本家の犬」であった。やはり益体も無い犬が殆どであった。
                 2011/08/21訳

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良い政府主義

 梁実秋氏は今回「新月」の「零星」(細々した事)でも、「現状不満」に賛成しているが、「今知識のある人(特に<先駆者><権威><先進>の称号の
ある人)たちの責任は、冷笑したり嘲って「現状不満」の雑感を発表するだけでなく、一歩進んで、誠実かつ積極的に‘現状’をなおす‘処方’を探し求めるべきと考えている。
 どうしてか?病気ならすぐ薬を飲むべきで、「三民主義は薬だし――梁氏は言う――共産主義も、国家主義も、無政府主義、良い政府主義も皆そうだ」と。
 今「すべての処方が一文にも値しない、とけなし、苦しんでも治る見込みはない…、というのは一体どんな心理なのか?」
 こういう心理は実にけしからぬことで非難すべきだが、実際はまだそういう雑感を見たことも無いし、例えば同じ作者が三民主義は英米の自由に背いているとか、国家主義は大変狭量だとか、無政府主義もまた空虚だ…と考えている。だから、梁氏の「零星」は彼が見た雑感の罪を誇張している。
 その実、ある主義の理由を咎める欠点、或いはそれに伴って生ずる弊害は、その主義者一人のせいではなく、元々不可とすべきものは無いのだ。
 例えば、圧搾されて痛ければ大声で叫ぶが、元来、よりすぐれた主義を考え出すまでは、じっと歯をくいしばってなければならぬとは限らぬ。だが勿論、
よりすぐれた意見を出せれば、それに越したことはない。
 しかし梁氏が遠慮して最後に置いた「良い政府主義」というのは、更に遠慮して例外とすべきで、三民主義から無政府主義までその性質の「寒暖」が如何なるものであれ、処方箋に書かれた薬名であり、石膏、肉桂の類、――服用後の利害は別として、単に「良い政府主義」という「一服の薬」は、処方上、薬の名ではなく、「良い薬材」という三文字で、偉そうな講釈をする名医の格好をした「主張」だ。それで、誰も病を治すに悪い薬材を飲むべきとは言えぬ。だが、この処方を書くのは医者でないとダメとは限らぬ。誰でも彼を一文の値打ちも無い(褒の字は賞賛の意で、ここでは通じないし、この字を知らない証になるが、ここでは、梁氏の原文通り、そのままとする)とすることも可である。
 名医が恥をかいて怒って「私の良い薬材主義を嘲笑するのか。それならお前の処方を示せ!」と怒鳴るなら、更にまた大いに笑うべき「現状」の一つだ。
 どんな主義に基づいてなくても、雑感は出てくるものだ。雑感の無窮無尽なること、実にかような「現状」が多すぎるからである。
      1930.4.17.
 訳者雑感:
「良い政府」というのは「賢人が政治を行い」、ものごとの分からない愚人を
統治するのが良いという古くからの中華の伝統だ。
孫文ですら人民を「阿斗」(秦の始皇帝の息子=愚か)と呼んでいた。
政治は彼らのために代行してやるものだ、と。立派な「正人君子」が訓政を
執るのが辛亥革命後の最初の段階だと唱えた。
 この体制では庶民は現状に不満を抱かず、政治は賢人の良い政府に任せなさい、ということであり、政治を行う賢い政府と愚かな人民という構図である。
 賢い政治家たちが行った8年間の対日抗戦期間の国民党政府は、腐敗に堕落を重ね、賄賂の公行(横行などというものではなく、おおやけに公然と)により、人民の支持を失い、それをしなかった、するポジションにいなかった共産党政府によって、台湾に追い出された。英語の「I’m not in a position」という表現があるが、実権あるポジションにいなかったことが、中国共産党の清潔さを生み出したものだ。それが1949年に権力を掌握すると途端に国民党と同じことをし始めた。 それが1968年に「資本主義の道を歩む実権派」を叩き潰せというスローガンで始まったプロレタリア文化大革命であった、と言える。
 政府は賢人が一人占めするような「良い政府」では困るのだ。
   2011/08/18訳

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福佳PX問題

この問題は 地方政府と不動産とのからみが背景にあると思われます。
1.福佳集団の老板は 王義政という御仁で、2000年ころは消火器の販売に
 携わっていて、その後 (地区の政治家と組み)白雲新村の不動産開発を
 手がけ、これで財を成し、大連市内にもいくつかのマンション建設販売。
 それが、大連染料工場の廃液垂れ流しで 7色の海であったところを
 埋め立てさせて、そこに福佳マンション群を建設販売中。染料工場は閉鎖。
2.不動産で財を成した老板が 大連化学コンビナートのそばに工場を建設。
  アモイの市民が猛反対したPXという品目をやる、ということが、
 2年ほど前にも問題視され、工場から車で15分くらいの開発区の高層マンション群に住む住民たちが騒いだが、もみ消されています。
3.大窯湾工業地帯の大孤山半島の突端には、従来、重慶原油積み出しバースがあったが、石油の輸入に転じたため、VLCC用のジェティが作られ、トタールとの精油合弁工場太平洋石油が操業中。また国家石油備蓄基地の巨大タンクヤードが作られ、更にはLNGの輸入基地ができ、巨大な石油コンビナートとなっている。
 昨年は重油が流出して 海岸が真っ黒になり いまだに臭いが消えていない。重油でなくて万一、PXが流出したらだれもてがつけられない、というのが大連人の恐れるところです。

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出でよ! 評論家。

 正確な統計は無いが、ざっくり言って昨年来、「革命」を掲げた小説を読む人はかなり減ってきて、出版界の趨勢は社会科学に移っている。これは良いことと言わねばならぬ。最初に青年読者は宣伝色の濃厚な評論的呪文に迷い、「革命的」創作を読むことで出路を得られ、自分も社会も救いが得られると思ったので、手当たりしだい大口で飲み込んだところ、なんとその大半は、滋養はなく、新しい袋に入れたばかりの酸っぱい酒や、(肉を包むための)紅い包装紙に包まれた腐った肉だったから、胸やけし、嘔吐しそうになった。
 この苦い経験を経て、根本から治すようになり、適切な社会科学を求めたのは、本当の前進である。
 然るに、大部分はマーケットの需要により、社会科学の翻訳は雲の涌くごとくに出てきたが、まずまずの物と、とんでも無いのが書棚に雑多に陳列され、
正しい知識を探し求める読者は困惑している。しかし新しい評論家は口を開かず、評論家の顔をした連中が勢いに乗じて、「犬や猫なみ」と切り捨てている。
 これに対して我々が求めるのは、何名かの堅実で、分かりやすく、社会科学と文芸理論を本当に分かっている評論家だ。
 中国で評論家の生まれたのは久しい以前だが、それぞれの文学団体には、
それぞれひとそろいの人がいる。少なくとも詩人、小説家、更には当団体の
栄光と功績を懸命に宣伝する評論家がいる。これらの団体は改革を志す、と
の明言して、古い城壁に攻勢をかける。だが、途中で古い城壁の手前で、彼ら同志で取っ組み合いをするので、疲れてしまい、手をゆるめてしまう。ただ、
取っ組みあったに過ぎないから、大傷はなく、わずかに息が切れ呼吸が乱れる程度で終わる。息を切らしながらも自分が勝ったと思い凱歌を歌う。
 古い城壁の方は、守備兵も不要で高みの見物。こうした新しい敵が自分で唱(しょう)する喜劇を観ていればよく、黙っているが勝利は彼らのもの。
 この2年特に出色の創作はないが、私の見たところ、単行本では李守章の
「跋渉する人々(山川を歩き廻る)」台静農の「(大)地の子」葉永蓁の「短い
十年」の前篇、柔石の「二月」と「旧時代の死」魏金枝の「七通の手紙の自伝」
劉一夢の「失業以後」など、いずれも秀作だ。しかし我々の名の通った評論家、
梁実秋氏は陳源氏と呼応していることは、ここでは触れないが、成仿吾氏は
創造社の過去の栄光を懐かしむ余り、変身して「石厚生」と名を換え、その後流星の如く消え去った:銭杏邨氏は近頃ただ「拓荒者」のみ、蔵原惟人一点張りで、茅盾とつぎつぎに掴みあいの論戦をしている。各文学団体以外の作品は、
このようなドタバタした、或いは閑散とした戦場で、適当にあしらわれるか、
蹂躙されている。
 今回読書界が社会科学に向かった事は良いことで、本当の転機だが、ただ他の面にも有益であるだけでなく、文芸にもその方向を正しくさせ前進を促している。
 しかしながら、発表された作品の乱雑さと傍観者的な冷笑の中で、いとも簡単に枯れしおれてゆく。だから今真っ先に必要なのは、やはり――堅実で、明解で、真に社会科学とその文芸理論を理解している評論家の登場である。
 
訳者雑感:
 学生時代、中国人教師から中国のことわざを一日一句勉強した。その中で今もいくつか覚えているが、「文章是自己的好」というのがある。この後に続くのは「老婆是人家的好」という対で、文章は自分のが、女房は人のが一番だ、と。
中国の文芸界に良い意味での評論家がなかなか育たなかったのは何故だろう。
魯迅の指摘するように、各文学団体(社を形成)はそれぞれ内部の人間が、自分の雑誌社や団体の作品の宣伝のために「評論」的なものを書くが、広く世界を見渡して、ものごとや文芸理論をしっかり理解している評論家が少ないのは、
いずれも「文章は自分及び自分たちの仲間の物が一番」と考えているからか。
 その反動というか、魯迅をはじめ、相手を罵ったり、批判、非難、無視するのは目に余るほどである。魯迅の作品の載った雑誌は(目もくれずに)「しかるべきところへ放り込む(ゴミ箱行き)」とか、上述の通り、「犬猫なみ」として
人間扱いすらしない。新しい旗印を掲げて、旧勢力にぶつかって行く、と景気のいいことを言いながら、旧勢力と戦う前に、別の新勢力との戦いにエネルギーを消耗してしまう。このあたりは日本の様なぬるま湯の文芸界とは格段の差があるのだろう。相手をこっぴどく叩かないと、自分がやられてしまうという、
おかしな偏狭さが、余裕のある文芸を育てることを困難にしているのだ。焚書坑儒とか禁書などの歴史がそれを物語っている。墨子の書いたものは、その後儒家の政治によって、消されてしまい何も残っていなかったが、2千年経て日の目を見たといわれる。それほど徹底的に消さないと、すぐ反撃されてしまう
という恐れが強烈に残っていたからだろう。焚書坑儒の書とはとりもなおさず、
儒家の書であったわけだから。
 今日の中国に魯迅の期待したような評論家がいるであろうか。御用評論家は
存在できても、政府に反抗するような評論家は出国を余儀なくされるだけだ。
    2011/08/16訳
 
 
 

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