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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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柔石小伝


 柔石、本名趙平復、1901年浙江省台州寧海県市門頭の生まれ。数世代は読書階級だったが、父の代に家景を支えきれず、小さな商売を始めた。彼は十歳で小学校に入学。19年に杭州に出、第一師範学校入学:杭州晨光社の一員として働きつつ、新文学運動に従事。卒業後、慈渓などで小学教師となり、創作開始。寧波書店から出した短編小説集「瘋人」が処女出版。23年北京に出、北京大学の聴講生となる。
故郷後の25年春、鎮海中学校務主任となり、北洋軍閥の圧迫に抵抗。秋、
喀血したが、寧海の青年を支援して寧海中学を創設せんと、翌年創設費を募集、
校舎建設:叉、教育局長に任命され、全県の教育改革に尽くした。
 28年4月、村に暴動発生。失敗後、新しい事物はすべて壊され、寧海中学も解散。柔石も単身で出奔、上海に寓居。文学研究に励んだ。12月「語絲」編集のため、友人と朝華社を設立。創作のほか、外国文芸紹介に努め、とりわけ、北欧東欧の文学と版画に注力した。「朝華」月刊20期、旬刊12期及び、「芸苑
朝華」5号を出版した。後、販売店の代金不払いで支えきれず中断した。
 30年春、自由運動大同盟を発動し、柔石は発起人の一人:暫くして左翼作家連盟成立、彼は基本メンバーの一人として、プロレタリア文学運動に尽力した。執行委員に選ばれ、次いで常務委員編集部主任となり:5ヶ月間、左聯代表として、全国ソビエト区代表大会に参加し、終了後「一つの偉大な印象」を書いた。
 31年1月17日逮捕され、巡捕房から特別法廷を経て、(上海の)龍華警備司令部に移され、2月7日夜、秘密裏に銃殺に決せられ、十発の銃弾を受けた。
 子供は二男子一女子、皆幼い。文学上の功績は創作に詩劇「人間の喜劇」(未印)、小説は「旧時代の死」「三姉妹」「二月」「希望」、翻訳はルナチャルスキー「フシットと城」ゴルキ―「アルタイモノフの事業」と「デンマーク短編小説集」などあり。
                                                                                                 
訳者雑感:
 魯迅の作品には、公衆の前で処刑される場面がとても多い。
阿Qは台車に乗せられ市中引き回しの上、刑場の露と消えるのだが、観衆はその時に彼の威勢の無さにがっかりする場面まで後日譚として描いている。
「薬」では、その筋のプロに大金を払って、その心臓を温かいうちに取り出して、結核の息子にマンジュ―として食べさせるべく、早朝に刑場に受け取りに行く父親の心理描写に迫力がある。
 「吶喊自序」の文学に転じるきっかけとして、中国人がロシアのスパイとして、同胞たちが面白そうに見物する中で、日本兵に処刑される場面。
 「掃共大観」で「長沙通信」という現地の新聞に載った若い女性を含む、
多くの共産党員の処刑を、市内の老若男女が北と南の2か所の刑場をまるで祭りの縁日に出かけるような雰囲気で描いているのを引用している。
 そんなことを思い浮かべていたら、8月29日の「Japan Times」に紙面の四分の一程の大きな写真が私の目をくぎ付けにした。内容は、1936年8月米国最後の「Hanging」大衆の前での公開絞首刑の写真で、26歳の黒人青年が70歳の白人の資産家未亡人の部屋に押し入り、Rape後、窒息死させ云々という。紙面一杯に千人近い観衆、パナマ帽を被ったの、後頭部が禿げている者、老若男女が子供まで連れて、その周囲にはポップコーンとホットドッグにドリンクを売る店が出たという。
広場の中央に盆踊り広場で見るような仮設舞台のようなものが作られ、その中心は底が抜けていて、黒い袋をかぶせられた男が落ちるようになっている。周りには樹木の上に登って見物する者たちの姿もある。
この記事は75周年としてAPが報じたものだ。今から75年前までアメリカでも各地で行われていたのだが、KentuckyのOwensboroが最後であった、と。
ProfessionalのHangmanの助けを借りて、女性のSherriffが執行した由。
右下には、処刑当日の最後のMealを食べる死刑囚Betheaの端正な顔写真があり、遺品を家族にと手紙に「So Good by and paray that we will meet agin」
と書かれていた。(綴りはそのまま)
 その後は余りに残酷だとして、公開処刑は廃され、刑務所内の電気椅子で
Private Executionになった、と書いてある。このPrivateというのは魯迅の
いう「秘密裏」にとは実態が違うが、公衆には知らせず、見せず闇の中に葬るというか、世間には知られることなく処刑されるのである。
魯迅の作品に描かれた情景は、人権擁護のアメリカでも魯迅と同じ時代には行われていたことが分かる。ジョンウエインなどの西部劇映画では、私刑として樹の枝にロープで繋がれた男が馬に乗せられ、銃声一発、馬が駆け出して、一巻の終わりとなるシーンがあった。
 
 話しを本題に戻す。魯迅は本篇で、弟のように可愛がってきた柔石の死を
悼み、小伝を書いている。墓銘碑のようなものと考えられる。
 この小伝の中で、彼がもっとも嘆き悲しんでいるのは「秘密裏」に殺されたことである。人間、死に際して、何か話すことは無いか、と執行人に問われる。
生きてきた証として、死ぬ時は誰でも良い、誰かに見られながら死んでゆきたいと願うのが、それまでの人間が、自分が死ぬ前まで見聞きしてきた慣習だ。
それが、暗黒の刑場で誰にも知られず秘密裏に殺されてゆく。これほど辛く切なく残酷非道なことは無い、というのが魯迅のテーマである。
 「示衆」という中国語は大衆に見せしめにして、彼らに対して、こうならぬ
ように注意しろよ!と警告しているのだが、同時に、殺されてゆく一人の人間が生きてきたことを記念せよとも告げているのだ。
 そうした儀式のようなこともなく、秘密裏に殺されてしまうのは、本人もその友人家族もたまらないだろう。遺品も無く、埋葬地も分からない。
 赤穂義士は大きな大名屋敷の庭で、おおぜいの人の見守る中で、切腹した。
義を果たしたが、お上の掟を破ったことには相違ない。彼らを秘密裏に処刑などしたら、日本中が大騒ぎになったことだろう。
人間は罪(を犯したと判定されて)死刑にされる。近年、日本では執行されていない。千葉氏が処刑場を公開したのは、秘密裏に処刑されている今の状態を、せめて場所の様子だけでも大衆に知らしめようとするためなのだろうか。
 「秘密裏」と「非公開」とは意図するところは異なるが、処刑される側にとっては同じことかもしれない。
     2011/09/05訳
 
 

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