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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「蜜蜂」と「蜜」

陳思様:
 「涛声」の「蜜蜂」の批評拝読。感じた事を二点下記し、専門家の判断を仰ぎたく。
但し私はここで議論をする考えはありません。というのも「涛声」は訴訟する場ではないと思いますから。
 村民が、蜜蜂の群れを焼いたのは別の理由があったからで、階級闘争の為ではないと思います。だが、蜜蜂は虫媒花にとって有害か堂か、又風媒花にとって有害か堂か、私はこれが問題だろうと思います。
 昆虫は虫媒花の受精に役立ち、無害のみならず有益だと、簡単な生物学でもそう説いていて、確かにその通りです。但しこれは常態の場合です。蜂が多すぎて花が少ないと、
状況は異なり、蜜蜂は花粉を採り、飢えを凌ぐために一つの花に数匹ないし十数匹が一挙に入って争うため、花弁を傷つけ、飢えの為、花芯も咬んでしまい、日本の果樹園もこの種の傷害に遭ったそうです。それが風媒花にも向かったのは飢餓の為です。そうなると蜜を採るのは二の次で、花粉を食べてしまうことになる。
だから花がどれくらい咲いたかを見て、蜜蜂の需要を満たすようにすれば、天下太平です。そうしないと「反動」が起こってしまう。蟻はアリマキを養い護っているが、同じ場所に閉じ込めて、他に餌を与えぬと、これを食べてしまう:人間も米麦を主食とするが、飢饉には、草根樹皮をも食べるのです。
 中国ではこれまでずっと養蜂してきて、なぜこのような弊害が無かったか?答えは極めて簡単:少なかったからだ。最近養蜂という商売が増え、これに従事するものが増えた。然し中国の蜜は欧米より遥かに安価なので、蜜を売るより蜜蜂を売る方が儲かると、新聞で鼓吹したため、養蜂で稼ごうとする者が輩出し、その結果、蜜蜂を買う者が蜜を買う者より多くなった。このため、養蜂者の目的は採蜜より繁殖に向かった。だが果樹栽培の方が足並みをそろえて発展していないため、遂には成蜂が多く、花が少ないという現象が起こり、上述のような混乱が発生した。
 要するに、手立てを講じて、蜂蜜の用途を広げ、同時に果樹園農場などを増やさずにおいたまま、蜂の子を売って目先の利益だけを挙げようとすれば、養蜂業はすぐにも道を断たれるだろう。この手紙は是非雑誌に発表して下さい。心ある人びとの注意を喚起したい。
取り急ぎ用件のみ。お元気で!  
 羅憮(ペンネーム) 6月11日
 
 訳者雑感:出版社注では、これは無錫で起こった事件を題材にした小説「蜜場」についての魯迅の別名での手紙である。養蜂業者が大量の蜜蜂を放ったため、被害を受けた農民たちが一斉に火をつけて蜜蜂の群れを焼いたもの。
1933年も2011年も「目先の利益」を求めると言うことは余り変わりが無いようだ。日本
にも「隣百姓」といって、隣が植えた作物をみて、同じものを植えておけば間違いない、
という安易な考えだ。ある作物が高値で売れるとなると、一斉に同じものを植える。
その結果、実る頃には暴落して、畑に棄てたままとなる。昨年中国でも河南省かどこかの
農民ができすぎて暴落した作物を、畑で腐らせてしまうのはもったいないとして、ネット
か何かで、採りに来てくれたら「無料提供」すると発表したら、近郊から車で予想以上の
人が集まって来た。遅れてやってきた群衆は、畑には一つも残っていないので、近くの他
の作物をあさりだし、根こそぎ持って行ってしまった、と報じていた。泣くにも泣けない
と善意から申し出た農婦は「泣き面に蜂」であった。
1933年の蜜蜂は農民の育ててきた作物の花をめちゃくちゃにしたので、農民が立ちあがって、養蜂業者の蜂の群れに火をつけて燃やしたが、今回の群衆は、蜂蜜より凄まじい。
それにしても、蜜が安価のままなのに、蜂の子が飛ぶように売れるというのもおかしな話ではある。大連ではアカシアの花の蜜からおいしい蜂蜜を堪能した。本来蜜蜂は北方の寒い所で養蜂すると、花の咲く短い期間にせっせと蜜を貯めるので採算がとれるそうだ。逆に年中花の咲いている南方では、蜜蜂はあまり蜜を貯めようとしないそうで、無錫辺りは
養蜂に適さないのかもしれぬ。
   2012/02/20訳

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又「第三種人」を論ず

 戴望舒氏が遥かフランスから通信を寄せ、仏A.E.A.R.(革命文芸家協会)がジードの参加を得て3月21日に大会を招集:独ファシストへの強烈な抗議とジードの演説を紹介して「現代」6月号に発表した由。仏の文芸家協会がこの様に義に基づいて声明を出すのはいつもの事で:かなり昔だが、ゾラがドレフェスの為に告訴した如く、アナトール・フランスがゾラの改葬時に講演した等:最近もロマン・ロランの戦争反対表明がある。ただ、今回実に歓欣にたえないのは、目下直面している問題であり、私もまたファシストを憎む一人のためだ。だが、戴氏はこの事実の報告といっしょに、中国左翼作家の「愚蒙」を軍閥と同様に、横暴だとしている。私はこれについて少し意見を述べたいが、誤解しないでもらいたいが、弁解するとか、中国も所謂「第三種人」から、独の被圧迫者と同じように声援を得たいとかいう気は一切ないのである。中国が本や新聞を焚書、発禁或いは出版社を封鎖閉鎖し、作家を囚殺しているのは、実は独の白色テロよりずっと前からあったことであり、且つまた世界の革命的文芸家からの抗議も得ている。今言いたいのはその通信の中身について指摘せねばならぬ数点にすぎぬ。
 その通信はジードの抵抗運動への加入を述べた後に言う――「仏文壇ではジードは
『第三種人』と呼べる。…彼は1891年から今まで終始芸術に忠実な人だった。然し、自己の芸術に忠実な作家が資産階級の『幇間』とは限らぬ。仏の革命作家はこの種の愚蒙な見解は持たず(或いは精明な策略というべきか)、その為に熱烈な歓迎を受け、ジードは群衆の中で発言した」
 これは「自己の芸術に忠実な作家」であり且つ「第三種人」であって、中国の革命作家は「愚蒙」で、この種の人を全て「資産階級の幇間」としているが、今すでにジードに
よって「そうとも限らぬ」ことが証明された。
 ここに二つ、答えなければならぬ問題がある。
第一、中国左翼理論家は真に「自己の芸術に忠実な作家」を全て「資産階級の幇間」としているか堂か。私の知る限り決してそんなことはない。左翼理論家が如何に「愚蒙」でも、
「芸術の為の芸術」が出てきた時、それは一種の社会のルールに対する革命ではあるが、
新興の戦闘的芸術の出現を待って、なおこの古い看板を掲げ、蔭に日向にその発展を阻害する。それこそが反動であり、単なる「資産階級の幇間」にすぎぬ事を知らぬ訳ではない。「自己の芸術に忠実な作家」については決して一律に考えていない。どの階級に属するかを問わず、作家はすべて一個の「自己」があり、この「自己」が彼の元々の階級の一分子で、彼自身の芸術に忠実な人であり、彼の元もとの階級に忠実な作家でもあり、資産階級もそうであり、無産階級もそうである。これは火を見るより明らかで、左翼理論家も分からぬはずは無い。だが、この戴氏は「自己の芸術に忠実」と「芸術の為の芸術」をすり替えて、真に左翼理論家の「愚蒙」を暴こうとしている。
 第二、ジードは本当に中国の所謂「第三種人」か?ジードの本は読んでないので、作品を批評する資格は無いが、私は信じている:創作と演説は、形式は異なるが包含する思想が違うということはない。戴氏の紹介する演説から二段引用できる――
『ある人が私に「ソ連もいっしょだ」と言うかもしれない。その可能性もありうる:但し、目的は全く異なる。新社会建設の為に、それまで圧迫されて来た者たち、発言権の無かった人たちの為にするのであるが、やむを得ず、やり過ぎという面は免れぬ。――』
『私はなぜ且つ如何にしてここで私があの本(ソビエト紀行)の中で、反対したことに賛成するのか?それは独の恐怖政策に対して、最も嘆かわしく憎むべき過去が再演されているためであり、ソ連の社会創設には将来の無限の約束を見たからである』
 これは非常に明白である。手段は同じだが目的が違うとして賛成か反対かを分けている。ソ連十月革命後、芸術を重視する「セラピオン兄弟」という団体は「同伴者」とも称されたが、かれらはそれほど積極的ではなかった。中国の「第三種人」という言葉は今年専門の本が現れ、それで調べることができるが、凡そ「第三種人」と自称する人の発言に、これに似た意見が少しでもあったろうか?無いのなら敢えて断定的に「ジードは『第三種人』
といってはいけない」と言おう。
 然るに正に私の言うようにジードは中国の「第三種人」とは違うのに、戴望舒氏も中国左翼作家と仏の大変な賢愚の差を感じている。大会に参加して、独の左翼芸術家の為に
義憤を発した後、中国左翼作家の愚蠢で横暴な行為を思い起こし、最後に望んで感慨を止められず――
『我が国が独ファシストの暴行に如何なる意見表明したかは知らぬ。正に我々の軍閥同様、
我が文芸者も勇ましく内戦中だ。仏の革命作家とジードが手を携えた時、我が左翼作家は
まだ所謂「第三種人」を唯一の敵とみなしている』
 これに対しては答えるまでも無いのは、事実が具体的にあり:我々はここでも些か意見を発表したことがある。但し仏とは状況が異なり:雑誌ももう久しく「所謂『第三種人』を唯一の敵とみなす」的な文言を見ていないし、もう内戦もしていないし、軍閥の気味は全く無い。戴氏の予測は当たっていない。
 然るに、中国左翼作家は戴氏の意中の仏左翼作家と同じように賢明か?決してそうは思わぬし、そうなれるものでもない。すべての発言が削除されない時なら、「第三種人」に関する討論を新たに提起し、展開する必要が大いにある。戴氏の見いだした仏革命作家たちの隠れた心は、この危急の時に「第三種人」と提携するのも「精明な策略」だろう。だが、単に「策略」に依るだけでは何の役にも立たぬと思う。適切な見解があってはじめて、
精明な行為を出て来るもので、ただジードの講演を読めば、彼は決して政治に超然としていて、軽々に「第三種人」と称せぬことが分かる。歓迎すべきは必ずしも隠れた心を備えることでもない。だが中国の所謂「第三種人」はもっと複雑だ。
 所謂「第三種人」は、元は甲と乙の対立或いは相争う外側に立つ人を指した。実際には、
それはあり得ない。人は太っているのと痩せているのがいる。理論上は太っても痩せてもいない第三種人がありそうだが事実上いない。ちょっと比べてみれば、太めとか細めになる。文芸上の「第三種人」も同じで、たとえ不偏不倚の様でもきっとどこか偏っているし、平時は意識的或いは無意識に蔽っていても、切羽詰まると明らかになる。ジードも左傾したのは明らかで;他の人も数句の内に明らかにそうなっている。だからこの混乱の群中に、ある者は革命と共に前進し共鳴し:ある者はこの機に乗じて革命を中傷曲解しようとする。
左翼理論家はこれを分析する任務がある。もしそれが「軍閥」の内戦と同じなら、左翼理論家は必ずその内戦を続けるべきであり、陣営を明確に分け、背後からの毒矢を抜き取らねばならぬ。           6月4日
 
訳者雑感:この時代に使われた「第三種人」という概念を魯迅は最後のところで説明している。この世の中に太ってもいず痩せてもいないという「第三種人」は存在しない、と。
だが、右でも左でもない、資産階級の為でもなく、無産階級の為でもないという甲乙の外側に立って、文章を書くことができるかどうか?これは戦時中の日本でも同様であって、ドイツと同様な弾圧がおこなわれたとき、ファシズムに賛同して戦争賛美の文章を書く作家とそれに抗議する文章を書いて投獄される作家。その外側にいることは「無言」を通すしかない。
    2012/02/18訳
 

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金聖嘆を談ず

 清の文字の獄について語る際、金聖嘆を持ちだす人がいるが、それは適切ではない。彼の「哭廟」(廟に哭す)は近年の事に譬えれば、前年の「新月」に三民主義に依って自ら弁じたのと何も違わない。単に教授職を得られなかっただけでなく、首を切られるに至ったのは、彼がとっくに官紳たちから悪者をみなされたためだ。事実に即して論じても、冤罪にされる。
 清の中期以降の彼の名声にもいささか冤罪がある。彼が小説伝奇を「左伝」「杜詩」と、
並列させたのは、実は袁宏道輩の唾液の余を拾ったに過ぎないが:彼の批判を経て、原作の誠実な点は往々にして笑い話になり、構成と文章も無理やり八股の作法にのせられた。
この余蔭はたとへ何人かの人たちが「紅楼夢」の類に堕ち、常に伏線を捜し求め、破綻した泥池をさらってほじくりだした。
 古い書物を入手したと自称し、みだりに「西廂」の字句を改めた件はさておき、単に
「水滸」の後半の一部を切り取り、勝手に「稽叔夜」を登場させ、宋江達を皆殺しにすると夢想するのを咎めぬことも可能だ。流寇(流れ者の盗賊)を強く憎んだとはいえ、彼はやはり官紳に近く、民衆の流寇に対する憎しみの一半すら思い到らず:その憎しみは「寇」(奪う)より「流」(他所から襲撃してくる)にあることを。
 民衆はもとより「流寇」を怖れるが「流官」もとても怖がる。民元革命後、私は故郷にいたが、なぜか県知事がしょっちゅう交替した。替るたびに農民は愁苦して「どうしよう」と互いに語った。「また腹ペコの鴨がやって来た!」と。彼らは今でも「欲望に限りは無い」という古訓は知らぬが、「勝てば官軍、負ければ賊」の成語は知っており、賊とは流れ者の王、王とは流れぬ賊也。簡潔に言うと即ち「居座っている寇」だ。中国の民はこれまで、
「蟻民」と自称してきたが、譬えるに便利なように今しばらく牛に昇格させると、鉄騎が
一過すると、毛の生えたまま食われ血も吸われ、蹄から骨までめちゃくちゃにされる。もし避けることができるなら、勿論何としても避けたいと思う。彼らが勝手に野草を食べ、いっときの余命を保ち、乳を搾りとられて「坐寇」に腹いっぱい飲ませ、その後はもうそれ以上鯨飲馬食しなくなると、彼らは天の恵みと思うようになる。
 その違いは只「流」と「坐」にあり「寇」と「王」にはない。試みに明末の野史をひもとけば、北京の民心がよく分かる。李自成が入城した時は彼が出て行った時の凄まじさに及ばぬ、と。
 宋江は山塞を根拠に民家を破壊し、富者から奪い、貧を救ったが、金聖嘆は童貫高俅輩の爪牙の前で、一人ひとり首を俯させて受縛させたが、彼らにはさっぱり訳が分からなかったろう。だから「水滸伝」はたとえ尻切れトンボでも田舎の人たちには「武松が独りで
方臘を生け捕る」のような劇を見たがるものだ。
 これは過去のことで、今は新たな展開があるようだ。四川に民謡がある由で、大意は
「賊は櫛の如く来、兵は篦(へら、すきくし)の如し、官は剃刀の如く来る」のようだ。
自動車や飛行機は大型のカゴや馬車よりずっと高いし、租界と外国銀行は開国以来、新たに添えられたもので、単に毛髪を剃り尽くすだけでなく、筋肉を削り尽くしてもそれだけで満足せぬ。まさしく民衆が「坐寇」の恐ろしさを「流寇」の上に置くのも無理からぬ事。
 事実はこうしたことを教えてくれるが、僅かに残された道は勿論彼らが自分の力に思い到ることである。 
               5月31日
訳者雑感:辛亥革命後、故郷で教職にあった魯迅は県知事がしょっちゅう交替したのを見た。勝てば官軍で、革命軍に(後から)入った連中がポストを求めて次々に各地の知事に就き、しこたま稼いでは別の所に移って行った。郡県制で中央から派遣される知事が各地の県庁所在地などで「行政」「治安」に携わるというより「荒稼ぎ」に専念するという昔からの弊害が起こった。
 過去6年毎年首相が替る国の民として、あまり辛亥革命のころを批判なぞできない。彼らの目的は「荒稼ぎ」だった。この国の首相の目的は何だったのだろう。「行政」に専念して、「良い国にする」というよりは、自分が「首相」という地位に就きたい為だけのように
思われて仕方が無い。
 
 四川の民謡は大変示唆に富む。数年前に中央から派遣されて来たトップとその右腕が、四川の重慶に巣くう「やくざ、ごろつき、黒社会」を一網打尽にしたと大々的に報じられてきた。だが今年に入って、その右腕が汚職の罪でお役御免となり、当人は米国領事館に
亡命を計って果たせず、今北京で取り調べ中の由。
 重慶という昔の香港、戦前の上海に擬せられる「魔都」でのできごとは21世紀も19世紀、戦前と余り変わりが無いことが分かる。旧社会がそのまま残っている。
       2012/02/15訳
 

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「守常全集」題記(李大釗)

守常先生に初見したのは、(陳)独秀先生から呼ばれて「新青年」をどうするかの相談の会の時で、この様にして知り合ったといえようか。その時に既に共産党員だったか堂か知らぬ。要は私の印象は大変良いもので:誠実、謙虚、温和、口数の少ない印象。「新青年」の同人には、暗闘や公開での争いをして、自分の精力を増やそうとするのが好きな者もいたが、彼はずっと後まで絶対そういうことはしなかった。
 彼をどう形容していいか難しい。いささか儒雅の風があり、そしていささか質朴で凡俗さもある。文士の様でもあり、官吏の様でもあり、また商人の様でもあった。このような商人は南方では見たことは無いが、北京にはいて、古書店や文具店の老板をしている。
26年3月18日、段祺瑞たちが、徒手請願の学生を銃殺した時、彼も群衆の中にいて兵隊に捕まり、何をしているかと尋問され、「商売だ」と答えた。兵隊は「じゃ、何をしにここへ来た。失せろ!」と押し出したので命拾いして逃げた。
 教員だと言ったらその時に死んでいたろう。
 然るに、翌年ついに張作霖たちに害された。
 段将軍の殺戮で42人死に、内数人は私の学生で実に心が痛んだ:張将軍の殺戮では十数人のようだが、手元に記録が無いので分からない。が、私が知っているのは守常先生只一人。アモイで聞いた後、楕円形の顔、細い目とひげ、藍色木綿の上衣、黒の馬褂(コート)
がしばしば眼前に現れ、その間に絞首台がちらりと見えた。痛恨はあったが、以前よりは淡かった。私の暦来の偏見で:同輩の死は青年の死ほどの悲惨さは感じない。
 このたび、北平で公然と彼の葬式が挙行された由。数えれば、害されてから七年経った。
極めて当然のことだ。彼は将軍たちによってどんな罪を着せられたのか知らぬ――大抵、
「民国に危害を及ぼした」に違いなかろう。然るにこの短い七年間の事実は、民国は四つの省(旧満州)をむざむざと放棄したのは、李大釗のせいなどではなく、彼を殺した将軍だということは、鉄の証拠で証された。
 公然と埋葬する寛大な計らいは理の当然である。だが、報道によると北平当局は路辺の祭りを禁じ、葬送者を拿捕したという。どういう理由か知らぬが、今回は「治安妨害」を
怖れたのだろう。もしそれが理由なら、鉄のような反証が実際に更に神速にやって来た:
北平の治安を妨害したのは日本軍か、人民かをよく看よ!
 だが革命先駆者の血は今では何の珍しさも無い。私自身についても七年前何名かの為に
激昻した空論を数多く発したが、その後、電気椅子、銃殺、斬殺、暗殺などに慣れてしまい、神経も段々麻痺し、少しも驚かなくなり、無言となった。これは新聞に「黒山の人だかり」が見せしめのための梟首を見物にでかけるという記事も、多分燈篭祭りを見に行く時より興奮しなくなったせいかも知れぬ。余りに多くの血が流されすぎた。
 しかし熱血の他に、守常先生には遺文がある。不幸にして遺文については何の話もできそうにない。彼と私とは「新青年」時代に携わった事が異なり、彼と同一戦線にいた仲間だが、彼の文章には当時まだ留意していなくて、譬えて言うなら、騎兵は必ずしも橋梁敷設に注意する必要は無く、砲兵は騎馬に神経を分散させる必要の無いように、当時自分は間違っていないと考えていた。従って今言えるのは:一、彼の理論は今から見れば必ずしも精確で適切とは限らず:二、そうではあるが、彼の遺文は永遠のものとなろうし、これは先駆者の遺産で革命史上の立派な碑である。
 一切の死んでしまった、或いは生きているペテン師たちの文集はすでに崩落してしまい、
書店も「損覚悟」して7-8割引きで安売りするしかない状態ではないか?それは過去と現在の鉄のような事実から未来を見れば、火を見るより明らかなことだ。
 本編はT氏の求めで書いたが、全集は彼と関係のあるG書局で出版予定だった為、断り切れず書くことになった。暫く後「涛声」に載せた。だが後に、遺集原稿の版権所有者が、
別のC書局に託し、今に至るも出版されず、当面出版の見込みは無い。私はみだりに題記を書いた軽率さを後悔したが、自分の文集には入れて一つの公案として記録する。
       12月31日 附記
 
訳者雑感:2009年の秋、北京大学の構内で李大釗の銅像を見た。通りかかった学生に頼んで写真を撮ってもらった。学生はみるからに外国人の私が彼に関心を持っているのがいぶかしそうだった。今の学生たちにとって李はどんな存在なのだろうかと聞いてみたい衝動に駆られたが、尋ねるのをやめた。
 私たちが学生だった頃、彼の「庶民の勝利」とか「労働者は神聖」という短文は安保条約反対デモとかベトナム戦争反対運動をする学生たちにとって、魂に触れる文章だった。
 それから40年の歳月が過ぎ、社会にいろんな問題が起こっても、デモや反対集会に参加するのは大抵が老年を中心にした30-40代以降の人たちで、20代の学生がそうした運動に首を突っ込むことは少なくなってしまった。これは中国でもそうだし、エリート校たる北京大学の学生も、李のことをもうほとんど知らなくなっていることをとやかく言ってみてもせんないことである。
 今手元の李大釗選集を取り出して、彼の肖像画が魯迅の記述の通りだと感じいっている。
李とか宋教仁とか若くして凶弾に倒れた先駆者を悼む心は大切にせねばならない。
 明治維新前後でも吉田松陰とか坂本竜馬とかある確固とした考えの持ち主は若くして、
投獄されたり暗殺されたりしている。その遺志を継いで維新が為されたことを今では余り
大切にしなくなった。萩や高知以外で、彼らを顕彰するものは希薄である。
魯迅が本文で李の当時の言論が必ずしも精確ではなかったと指摘している。確かにロシア革命の同時代の彼の極めて熱っぽい論調はモスクワの現実とはある程度の距離があったろうし、中国革命の志士たちの疾風怒濤の言論には行き過ぎの面があったことも否定できない。それにしても、その熱は大変なものであった。核エネルギーの如くに。
       2012/02/14訳
 
北京大学の李大釗の像

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ほんとのドンキホーテと贋者

 西洋騎士道の没落がドンキホーテのようないっこく者を産んだ。彼はほんとは真面目な本の虫である。暗い夜に宝剣を掲げ、風車に挑むのを見れば、確かに掬すべき間抜け面で、
おかしさに憐れを覚える。
 然しこれがほんとうのキホーテだ。中国の江湖派と無頼の輩は、キホーテのような真面目な男を愚弄しながら、その一方でドンキホーテの恰好を演じて見せる。「儒林外史」の中の何人かの公子は、任侠剣仙たちを慕い、その結果この種のニセキホーテに数百両を騙し盗られ、その代わりに血の滴る豚の頭を受け取る。――その豚の頭は侠客の「君父の仇」
というわけだ。
 ほんとのキホーテの間抜け面は本人の愚鈍のためだが、ニセのは故意に間抜け面をして、他の人の愚鈍さにつけいって剥ぎ取ろうとする。
 だが中国の民衆はそれを看破れぬ程愚鈍とは限らぬ。
 中国の現在のニセキホーテたちは、大刀では救国できぬことなど知らぬはずもないが、
彼らはひたすら舞を舞って見せ、毎日「幾百幾千の敵を殺せ」とみだりに叫び、更には
「特製の鋼刀九十九本を敵前の将士に贈った」という者もいる。
 しかし豚を殺す為には叉飛行機義捐金(を集めることも)も忘れられず、そこで「武器が精鋭でない」との宣伝をし、一方では少しずつ退却或いは「敵を奥地に誘い込む」として、その一方でこれをネタに豚を殺す費用をかき集めようとする。残念ながら前に西太后あり、後に袁世凱ありで――清末の海軍興復金で頤和園を造り、民国4年の「反日」愛国
準備金で当時の革命軍討伐の軍需費を増大したが、でなければ今度は新たな手法を発明したと言えよう。
 彼らは「国産品愛用」などで民族産業を振興できぬことを知らぬはずもなく、国際的な
資本家が中国の喉元を押さえ、息もできぬほどなのに「国産品愛用」などと騒いでも、資本家の掌から跳びだせぬ。しかし「国産品年」は宣言され「国産品市場」も成立し、もっともらしくまるで抗日救国は、仮面をかぶった買弁がもっと沢山稼ごうとするかの如し。
その金もやはり豚犬牛馬からはぎ取って来たもの。「生産力拡大」「労資協調で国難に向か
え」の呼び声が聞こえぬか?
 元来が、細民を人とみなさずに来ておいて、細民を豚犬牛馬として「救国の責務」を負えとでも言うのか!結果、豚肉をニセのキホーテに食べさせ、豚頭は切って吊るし「後方で攪乱する」者への戒めとした。
 彼らが「中国の固有文化」が帝国主義を呪い殺せぬことを知らぬわけがない。何千万回
「不仁不義」或いは金光明呪を唱えても、日本に地震を起こさせ、大海に沈没などさせられぬことなど知らぬはずもない。
然し故意に大声で「民族精神」回復を叫ぶのは、何やら祖伝の秘訣を得たごとくだ。その
意思は明白で細民に懸命になって精神修養に励み、修身の教科書をたくさん読ませようとの趣旨だ。これが固有文化なのは本来疑いも無い:岳飛式の不抵抗を奉じる忠であり、国際連盟の旦那たちの命令を聞き、豚の頭を切り、豚肉を食べ、また庖厨を遠ざける仁義は、
身売り契約の信義を遵守し「敵を奥地へ誘い込む」式の和平だ。更に「固有文化」の他に
「学術救国」を提唱し、西哲Fihteの言葉などを引用する了見は、まさしくこれだけに止まらぬ。
 ニセのキホーテのこうした間抜け面はまさに哭き笑わざるを得ず:ニセのアホ、ニセの間抜けをほんとうのアホ、間抜けとみなすとなると、もうこれは本当に笑うべき憐れむべきことで、手の施しようの無い馬鹿である。   
               4月11日
 
訳者雑感:これは日本軍がどんどん侵略攻撃を仕掛けてくるのに、時の政府は「不抵抗」
「奥地に誘い込む」などの方針で、その一方「日貨不買運動」などで自国産業振興を唱えていた時代の文章だ。細民と訳した原語は「小百姓」で、政府の中にいるニセのキホーテたちに豚のように食い物にされる人たちだ。その頭は処刑後に吊るされ「攪乱」をはかる者への戒めとされた。
 3.11の時、一方で日本の公序良俗のすごさをほめたたえたブログも沢山あったが、一方では「いい気味だ」式の「これまで日本にめちゃくちゃにされてきた戦争中」とこの4-5年の反日感情がにょっと鎌首をもたげた者も散見された。
 1933年日本が中国侵略中にも中国内には日本に大地震が起こって、大海の中に沈没しないかとの呪文を唱えていた者がいたことが分かる。元寇のときの日本が元の侵略軍が神風で船ごと沈没するように加持祈祷していたものがいたとの「話」と似通ったものがある。
         2012/02/12訳
 
 
 

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女について

 国難の折り、女性も大変受難しているようだ。一部の正人君子は女性が奢侈を好み、国産品を愛用せぬと非難する。ダンスや肉感など凡そ女性にまつわるものを罪となす。まるで男はすべて苦行僧になり、女もみな修道院に入れば、国難を救えるかの如し。
 だがそれは女性の罪ではなく、正に彼女の可憐な点で、今の社会制度は彼女を各種各様の奴隷に追い込み、更に色んな罪名を彼女の頭上にかぶせる。前漢末、女性の「堕馬髷」
(鞍から堕ちたような髷)「愁眉啼の化粧」(細い眉)が亡国の兆しと言われた。
 だが漢の亡国が女性のせいなものか!ただ人々が女性の装束を見て嘆息するのを見れば、当時の支配階級の状況が、大抵具合が悪くなっていることが分かる。奢侈と淫靡は社会崩壊腐敗現象の一つに過ぎず、けっして原因ではない。私有制社会は元来女性を私有財産とし、商品とみなしてきた。あらゆる国で宗教は多くの奇妙な規則を作り、女性を不吉な動物とし、彼女を威嚇し奴隷の如く服従させ:同時に高等階級の玩具とした。正しく今の正人君子の如く、彼らは女性が奢侈だと罵り、しかつめらしく良風を維持せんとし、と同時にこっそりと肉感的な大腿文化を享受している。
 アラブの昔の詩人は:「地上の天国は聖賢の経書にあり、馬の背にあり、女性の胸にある」
と言ったが正にその通りだ。
 もちろん色々な売淫は決まって女が役割を持つ。然しながら売買は双方のこと。買淫する客がいなければ売淫する娼婦もいない。だから問題は買淫する社会の根源にある。この
根源がある限り、即ち主動的に買う者がいる限り、所謂女性の淫靡と奢侈は消滅しない。
男が私有制の主であると、女は男の所有物に過ぎぬ。多分そのせいだろう。彼女の家財に対する愛惜の気持ちが少し劣るのは。彼女は往往、「敗家の精」(家を台無しにする妖精)になってしまう。況や現在、買淫の機会があれほど多いとなると、家庭の女性も直感的に自分の地位の危険を感じるのである。民国初年に聞いた話では、上海の流行は上級下級の
娼婦から妾に伝わり、妾から奥方・若夫人・娘へと伝わった。これらの「家人」たちも多くは無自覚の内に娼婦と競って――当然ながら彼女等は精いっぱい自分の体を飾ろうとし、男の気をひきつける物すべてを身に飾ろうとした。この飾りの代価は大変高いし、日に日に値上がりし、それは単に物質に止まらず、精神的なものに波及した。
 米国の百万長者は:「我々は共匪(原文には匪の字は無いが、謹んで改訳する)など怖れぬ。我々の妻女が我々を破産させるから、労働者が没収に来ても、間にあわぬ」という。中国も多分、労働者が「間にあう」ことになっては大変だとばかり、高等華人の男女はこの様に急いで。せっせと浪費、享用し、気分よくなりたいため、国産か否か等お構いなし。良俗とかへったくれもない。然るに口では良俗を維持し、節約を提唱しなければという。
         4月11日
 
訳者注:出版社の注には、本編を含む12篇の雑文は1933年に瞿秋白が上海で書いたもの。
その中には魯迅の意見に基づいたものや魯迅と相談して書いたもの。魯迅は字句を訂正し
たものを、別の人に清書してもらった上で、自分の使っていた(別の)ペンネームで雑誌に載せたもので、それを後に自分の文集に入れた、という。
 当時の出版事情というか政府の厳しい検閲などからこうした手法がとられたものか。原稿料はきっと本人に渡して、生計に充てさせていたものだと思う。それらの事を講じても、
瞿秋白は官検に捕まり、殺されてしまった。彼が編集した「魯迅雑文集」は当時の青年たちに、魯迅のエッセンスを伝えて、魯迅の評価を高めたと言われている。
 
 それにしても、中国の女性の奢侈と淫靡さの根源がこうした社会の仕組み、即ち、高等華人たちがたくさんの妾(これは家の外で)、及び第一第二第三夫人(これは家の中で)というものを持ち、なおかつ外で高級娼婦を買っていたから、「家人」たちもそれらと競うために、「家を敗する」ほど奢侈贅沢に走り、物質面のみならず、精神的にも頽廃していったと喝破するのは、魯迅一人ではなく、瞿秋白が発想したものであろう。
     2012/02/10訳
           

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旅順の桜

旅順の桜
旅順の龍王塘に桜を見に出かけた。26日から桜祭りなのだが、今年は例年より早く咲き始め、初日にはもう一部で葉桜になっていた。
数年前にも来たのだが、その時の印象に比べて、大連の人たちが家族づれや、恋人同士、或は仲間とともに、春の楽しみ方のひとつとして花見が定着しつつあるように見受けた。日本の花見と異なるのは、酒を飲んで歌を歌ったりするのではなく、4-5人でトランプをしたり、羽けりをしたりして、健康的な春風浴をしている点だ。
1920年に造り始めて4年で完成した龍王塘ダムの石造りの見事な景観は、今日、見るものに畏敬の念を抱かせる。堤の中央に記念碑があり、長さや費用や貯水量などが記されている。もうひとつの碑には
それに従事した人たちの名が連なる。それらの碑を眺めながら、満々と水を蓄えた湖面から渡ってくる風が心地よかった。6年前は旱害で湖水は干上がり、地肌をむき出しにしていた。が昨年は雨が多く、岸の木立が、水面下に沈んでいた。
技師の一人の名は山田亀之助とあり、通り過ぎる大連の人たちが、彼の名前だけ、声に出して面白そうに相手に向かって笑っている。何組かが、同じように彼の名だけを声に出すので、なぜだろうと考えた。
山田という姓は田中と同様、日本人とすぐ分かる姓で、このダムを作ったのは、その名の示すとおり、亀の助けを得て完成したのだとの、
寓意をおかしがっているのかと思ったことだ。干天の慈雨は天の助け、中国の歴史的建造物の基礎には、亀が据えられている。ダムの建造には間違いなく、亀の助けが欠かせないのだ。
88年前に彼の後輩たちが植えた桜の古木が花を咲かせ、辛夷や銀杏などの古木に銘板が付けられていた。
周恩来や朱徳たちもこの桜の花を見たと書いてある。
戦後の混乱や、文革などの路線闘争などで多くの日本人の名の刻まれた碑は削られたり、倒されたりしただろうが、旅順の市民に水を供給してくれるこのダムを造った人たちの名はこうして元のまま残されている。彼らが日本から持ち来たった古木とともに。
只、変電所の正面にあった昔の印は剥ぎ取られた形跡があった。
       2008年4月
 
 

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私はどうして小説を書くようになったか

私はどうして小説を書くようになったか?この由来は「吶喊」序文に略説した。ここで
少し補うべきは、文学に心を砕いていた頃の状況は今と非常に違っていたこと:中国では
小説は文学とはみなされず、小説家も文学家とはけっして称せず、従ってこの道で世に出ようとは誰も思わず、私も小説を「文苑」に担ぎあげようと言う気も無く、その力を使って社会を改良しようと思ったに過ぎぬ。
 だが自ら創作しようとは思わず、紹介の方に力を注ぎ、翻訳、取り分け短編を重視し、特に被圧迫民族の作者の作品に注力した。当時は正に排満論が盛んで、青年達はあの叫喚
と反抗の作者に同調し、引き入れた。だから「小説作法」の類は一冊も読まなかったが、
短編小説はたくさん読んだ。一半は自分が好きだったからだが、大半は紹介の材料捜しだ。
また文学史と評論も読み、これも作者の人となりと思想を知りたいと考えた為で、中国に紹介すべきかどうか判断の為。学問の類とはまったく無関係だ。
 求める作品が叫喚と反抗の為、勢いどうしても東欧に傾き、ロシア・ポーランド及びバルカン緒小国の作家の物を特に多く読んだ。かつてインド・エジプトの物も熱心に捜したが得られなかった。当時一番好きだったのはロシアのGogolとポーランドのShienkiewitz
日本は、夏目漱石と森鴎外。
 帰国後、すぐ学校に勤めたので小説を読む暇が無く、そうこうして5-6年経た。なぜまた
始めたか?――これも「吶喊」自序に書いたから言うまでも無い。但し、私が小説を書くようになったのは、自分が小説を書く才能があると思ったわけではない。当時北京の会館(紹興会館)に住んでいたので、論文を書くにも参考書も無く、翻訳するにも底本が無く、やむなく小説らしきものを書いて責めをふせごうとしたに過ぎぬ。それが「狂人日記」だ。
参考にしたのは以前読んだ百篇ほどの外国作品と少しばかりの医学上の知識で、それ以外の準備は何もしなかった。
 ただ「新青年」の編者が何回も催促に来、何回も催促されてやっと一つ書けた。ここで是非とも陳独秀氏(当時の編集長)を記念せねばならぬ。彼が私に小説を書くように催促した最右翼の一人だから。
 当然ながら小説を書き出すとどうしても自分に何らかの主見が無くてはならぬ。例えば、
「なぜ」小説を書くのかというと、やはり十余年前の「啓蒙主義」を懐いており、必ず
「人生の為」且つこの人生を改良しようとするものでなくてはならない。私は以前小説を「閑書」と称し、「芸術の為の芸術」として、「消閑」の新式別称とみなすのを深く憎んだ。
従って、私の教材は、多くは病態社会の不幸な人々から採り、意図として病苦を取り出し、
治療救助の注意を喚起することであった。だから私は努めて文章のまどろこしさを避け、
意思が他の人に十分に伝わる様にできるかぎり、他の尾ひれの様なものを一切つけないようにした。中国の旧劇には背景が無い。新年に子供に与える年画にも主要な数人のみである(今や多くの背景が描かれるが)。私の目的の為にはこの方法が適宜だと強く信じているから、私は風月は描写せず、対話もむやみに長くはしなかった。
 書き終えたら二回は読み返し、すっきりしないと感じたら、何文字か増削し、必ずすらすら読めるようにした:適切な口語が無い時は古語を用い、きっと誰かわかってくれる人がいることを望み、独りよがりや、自分すら分からぬことばはめったに使わなかった。この点については多くの評論家の中で、只一人それを見つけ、私のことをStylistと称した。
 書いたことは、たいてい少しは見たり聞いたりしたことだが、それを全て使った訳ではない。一端を採って改造し、派生させ、殆ど完全に私の意思を発表するのに足りるところまでとした。人物のモデルも同じで、一人の人を専らにせず、往往、口は浙江、顔は北京、
服は山西といろいろ脚色した。私のあの一篇は誰それを罵っており、叉別の一篇は誰をと
とりざたする人がいるが、まったく根拠のないことだ。
 しかしこの書き方には困難も伴い、途中で筆を置くことができない。一気に書き始めるとこの人物は生き生きと動き始め任務を全うする。だが、何か他の事情で、だいぶ時間が経ってから叉書き出すと、性格も変わり情景も先に想定したものと違ってしまう。例えば、
「不周山」は元は性の発動と創造から衰亡を書こうとしたのだが、途中新聞を見、道学者の評論家が情詩を攻撃する文章を読んで、とてもおかしなことだと感じ、そこで小説には、
小人物が女媧の股ぐらに入りこませることになった。が、これは余計なことのみならず、構成の宏大さをぶち壊してしまった。こうした箇所は自分以外は誰も気づかず、我々の大評論家成仿吾氏はこれが最も出色だと言っている。
 専ら一人のモデルを骨幹とすればこうした弊害は無いが、試したことは無い。
 誰が言ったか忘れたが、要は最も手間をかけずに人の特徴を描くに最適なのは、目を描くことだ。これは実にその通りだと思う。丹念に髪の毛を描いてみても例えそれが細密で、
迫真だろうと、何の意味も無い。私はこの描き方を学ぼうとしたが、うまく学べなかった。
 省ける所はできるだけ省き、無理に付け加えたりせず、書けぬ時は無理して書かなかったが、当時は別の収入が有り、売文に頼らず生活できたからで、通例にはならぬ。
 もう一つ、書く時は各種の批評を一律無視した。当時中国の創作界は固より幼稚で、評論界は更に幼稚で、天上に持ちあげるのでなければ、地中に埋めるので、そんな物を眼中に入れたら、たとえ自分で非凡と任じていても、自殺せねば天下にすまぬという事になる。
評論は悪い点は悪いと言い、良い点は良いと言うべきで、それでこそ作者に有益となる。
 だが、私が何時も見る外国の評論文は、彼が私に対して何ら恩怨嫉妬恨みも無い為、評したものが他の人の作品でも大いに参考にできる。しかし勿論私も常にその評論家の派別に留意を怠らぬ。
 以上は十年前のことで、その後何も書いておらず、大きな進歩も無い。編者が何かこの種の物を書けと言うが、どうして書くことができようか。何とか書いてみたが、こんなことしか書けぬ。
       3月5日灯下
 
訳者雑感:
 魯迅はなぜ十年以上も小説を書かなかったか。「故事新編」以外は大半は彼が住んだ所を舞台にした作品で、ここに触れたように、何人かのモデルを綜合して典型を描きだした。
それは「魯迅作品の登場人物」という本で暗示されてもいるほど明白である。彼は心象風景無しには小説のモデルを描けなかったし、実感が伴わなかったのだろう。
 そうした点からみれば、これを書いた1933年の十年前から、それが枯渇したとも言える。
また別に収入があったので、無理やり小説を書くと言う売文生活をしなくてすんだことも一因だろう。雑文だけでは母親や母と一緒にいる妻などの一族を養えなかったはずだ。数箇所の大学の講師を兼任していたが、教育部の然るべき役職に就いてもいた。(給与は大分遅延したが)その後北京から逃げ出さねばならぬ事情となり、アモイ、広州の大学でそれぞれ半年前後教えたが、すぐ辞めて上海の租界に逃れた。さて、それからどういうことをして暮らしたか。おいおい彼の残りの3年の文章とそれ以前に書いた物を編集したものを訳しながら、小説を書けなくなった彼のその後を探ってみよう。
ここまで書いてきて、半日後、当時の中国に日本の朝日新聞のような新聞社があり、
漱石を東大から招いたように、魯迅を北京大学から直接上海の新聞社に招いて小説を連載してくれと頼んだら、彼はどうしただろうか、と思った。うんうん唸りながら毎日原稿用紙とにらめっこしてでも書いただろうか?或いは正岡子規の新聞「日本」のような文章を
書いただろうか?

     2012/02/08訳

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青蔵鉄道でラサへ


4月30日朝、大連を立ち北京経由で青海省西寧に飛んだ。北京始発のT27寝台特急に乗るためである。2昼夜かけて北京からラサまで鉄道の旅を満喫しようと考えてもみたが、ラサについてからの高山病対策と、休暇の都合で、青海省から西蔵までの25時間、いわゆる青蔵鉄道部分だけで満足することとした。
 3年前に貫通した部分はゴルムドからラサまでの区間で、西寧からゴルムドまでは、以前に開通している。高さ4千メートルの高原、長さ960KMの鉄路を走る、世界で最も高くて長い高山鉄道だ。永久凍土の上に高架橋を架けて、動物の移動ができるようにしている。地球温暖化が進んで、永久凍土が溶けだしたらどうなるのであろうか。杞憂であればと願う。天に飛ぶ鳥無く、地に草木一本も無い白っぽい土漠の高原である。
 
 列車の出発まで4時間ほどあるので、ラマ教の塔尓寺に出かけた。青海省5百万人口の内、2百万が省都西寧に住み、その1%がチベット族という。金葺き屋根の寺には、チベット族の学僧が1年中、右腕を露出し、読経しているというが、私が訪ねたときは、お堂の前で体をゆすりながら、必ずしもお行儀が良いとはいえないような、くつろいだ格好で経を唱えていた。その音は、日本のある宗派のものと同じように聞こえた。
ヤク羊のバターから取り出した油の灯明が何百個と灯されている。その燃えるにおいが鼻を強く刺激した。日本人は菜種油の灯明に慣れているので、バター油のものは、すえたようなにおいに感じる。これも慣れれば、気にならなくなるであろう。
 予定より1時間遅れて19時に西寧を出たが、北京時間で全国が律されているため、21時ごろまで、暗くならない。時差は2時間以上あるようだ。同室になった50歳代の李夫妻は、石家庄から乗ったという。列車内は酸素が供給されているのだが、李さんは少し高山病にかかりかけていた。中国語で悪心といい、胸焼けとか吐き気を催すようだ。
 とうとう添乗の医者に診てもらうことになってしまった。血圧を測り、薬をのんで、鼻から酸素を吸入し、数時間したらやっと落ち着きを取り戻した。
 私も20年ほど前、ヨハネスブルグに滞在したとき、2日目から夜に何度も目覚めた苦い経験があるので、高山病にかからないように何事もゆっくりと動くようにつとめた。もちろんアルコールもご法度だ。
 終日、緑の殆どない白っぽい高原地帯を列車は進む。ラサまで残り4時間くらいという所までくると、線路に平行して河が流れている。やっと人の住んでいる気配が感じられるようになってきた。五色の旗をたなびかせた人家が車窓から点々と見えるようになった。
 農業用水も敷かれ、麦の一種、青稞という穀物を植える畑が現れてきた。これは、チベット族の主食、チャンバというパンの原料となる。かつては、ポタラ宮にある上納所に、チベット黒牛の肉を取り去った後の皮を俵のようにして皮袋とし、中にこの青稞を満杯に詰めて、一人一頭分納めねばならなかったそうだ。どれくらい入ったのだろうか、まさしく人頭税である。
 今は、そんな農奴制から解放され、ラサに近づくと、下壁は石灰で白く塗りこめられ、屋根の近くはポタラ宮と同じ趣向で、赤い植物繊維で普請され、豊かさを感じさせる家が増えてきた。
 18時半、ラサ河の鉄橋を越え、ラサ駅に到着。ポタラ宮をイメージさせる大きな駅舎を出ると、猛烈な砂吹雪に見舞われた。乗客たちは一斉に逆向きになって耐える。ラサ河の河原にまだ草が芽吹いていないので、突風が吹くごとに、砂嵐が駅舎の方に吹き付ける。町はラサ河の北、山を背にしてあり、山の風が南の河に吹き降ろしてくる。
 19時になっても、昼のように明るい町中を進む。ポタラ宮を過ぎて北京路に入ると、ガイドの人が、昨年暴動が起きたのはこの辺りですと教えてくれた。
120万M2という中国第2の広さをもつ西蔵の人口は260万人余。その内、40万前後がラサに住んでいるという。本来は殆どがチベット族であった。だが、このところ多くの漢族が移住してきている。どれぐらいだろうか。私の乗った車の運転手は数年前、吉林から観光に来て、住みやすさに惚れて、そのまま居ついてしまったという。空気もきれいで、家族も引き寄せた、と。ガイドの女性も親がラサに住み着いていて、彼女は甘粛省の大学を出て、大都会への誘惑もあったが、やはり両親の住むラサに戻ったという。ラサの公務員の給与は新卒で4,000元と高水準にある。内地の公務員は一般的には1,200元という。差額は種々の手当てだそうだ。
この北京路はラサ一番の繁華街で、レンガではなくて、その3倍くらい大きい石を積み上げた3階建ての建物が、通りの両側に櫛比する。元来の所有者はチベット族だが、1階はすべて商店街となっており、2-3階が住居である。
 商店街の間口は、基本的にはすべて約3メートルで、まるでかつての京都の町のように、間口の広さで納税させられてきたかのようだ。違うのは、京都のような、うなぎの寝床ではなく、奥行きは無く、10軒か15軒ほどの間隔で、バスの通れるほどの空洞の入り口がしつらえてあり、奥には役所や学校、ホテルや食品市場や公共の建物があり、3階建ての商店街は、そうした内庭の冬の風よけの役目も果たしているかのようだ。
この商店街に、どうしたわけか貴金属を売る店が何軒かある。西洋人観光客目当てとは思えない。彼らの多くはバックパッカーだ。内地から来た観光客が買うのかもしれない。でもそれならわざわざラサで買う必要もなかろう。
 昨年の暴動は、この商店街のすぐ近くにある若いチベット僧が学ぶ僧院である小昭寺から発火したそうだ。テレビで何度も放映された、店のシャッターが
足でけり破られ、はがされた光景が思い出される。なぜポタラ宮と大昭寺、小昭寺に挟まれた、この一角に貴金属店が店を構えているのであろうか。
私には理解しづらい。外人観光客や漢族の観光客が、ポタラ宮にお参りした記念に買うのも中にはあろう。しかし、多くはチベットの各地からポタラ宮にお参りに来たチベット族の人たちが、なけなしの金を使ってこの貴金属の宝飾品を買うのではなかろうか。チベット族のお金を漢族が吸い上げている図になるのであろう。
 夕刻、ガイドの人から解放され、外人らしくない格好で、小昭寺の門前町を歩いた。入り口のところに14名ほどの武装警官が並び、鉄のパイプにトゲ状の鉄の棒を溶接した、バリケードが3本ほど並べられていた。門前町の中にも、武装警官が3-4組、6-7名で隊を組んで、巡邏しながら不審者の動きを牽制している。昨年のようなことを繰りかえさせてはならないとの示威のようだ。
 
 朝8時宿舎を出て、ポタラ宮に向かった。通りの歩道と車道の端は、例のくるくる回るものを右手にした老婦たちが何十人と整列しながらポタラ宮を目指して歩く。ガイドの人に尋ねたら、仕事をしなくても良くなった人たちが、毎朝、毎夕、こうして家々から集まっては、ポタラ宮の周囲の転経を回しに来るのだそうだ。こうすることで、生きていくことのプレッシャーを弱め、物理的な健康増進にもつながる。それでチベットの老人はとても長寿で健康を保つことができるのだという。こんな冬の寒い高地で80歳以上まで生きる。
 ガイドに案内されて、ポタラ宮に登った。中年の婦人たちが、声を張り上げて労働歌を歌いながら、餅をつく様な動きで踊っている。歴代のラマを祭る、
沢山の塔を拝観した。その前にお賽銭が、多くは50銭札なのだが、たくさんたくさん散らばっている。それを一枚ずつ集めて、数えたあとで十元札や五元札を置いてゆく。ガイドさんが教えてくれた。あの人たちは、遠くからお参りに来ていて、ポタラ宮の仏さんに供えられた50銭札は、ありがたいご利益があるので、それを等価のお札に替えて、自分の村に持ち帰り、村のみんなに、お土産にするのだという。
 チベットでは、漢族のお墓参りをする「清明節」は無いという。紙のお金を
燃やして、あの世で使ってもらおうというようなことはしない。チベットでは人は死んだら、天葬されるという。漢族は絶対立ち入り禁止の地域があって、
そこに死体を運び込む。善人はみなこうして天に昇る。悪いことをした人間は、
天葬にはされず、土葬されるという。
 便意を催したので、手洗いの場所を教えてもらった。すると、ここのトイレは、標高も高いが、落差は世界一だという。おそるおそる下を眺めたら、数十メートルはありそうだ。ポタラ宮の中間あたりから、まっすぐに入り口の階段下あたりまでの落差があり、そこで麦畑に戻すべく、毎日処理されている。
 2時間の拝観を終えて、外に出ると、大勢のチベットの老女老人が、時計回りに、ポタラ宮の壁に取り付けられた転経を回して廻っている。その機械油も、灯明に使うバターと同じものだそうだ。石油とか菜種油とかここで入手できないものは使わない。
 鉄道ができるまでは、誰でもポタラ宮に入れたのが、私のような観光客が増えたために、1日の入場者は3千人に制限された。チベット族の人も、それまで自由に入れたのが、1日数百人に制限されたそうだ。外国人はこの4月にやっとラサに入れることになった。それで私の泊まった宿舎は、夕食を提供できる状態ではなく、外部の四川料理店に足を運ばねばならなかった。
 店は入ってすぐ左のカウンターに調理済みの料理が、鍋のなかで温められており、それを指で2-3個選んで、12元という大衆的な店だった。それにタンタン麺を頼み、併せて20元しない。とてもいい味であった。30歳代の店主も最近、四川から移って来たという。
  満州族の建てた清朝政府は、チベット族の人口が増えるのを恐れたため、跡継ぎの一人以外は、男はすべて出家させ、妻帯させずに生涯を独身ですごさせ、人口を抑制したという。それで、4百年前の人口も2百万人台だったそうだが、今日でも西蔵の全人口は260万人に過ぎない。自給自足の生活で、お金をためようとか、人より優越した暮らしをしようとか思わない。そこに鉄道が敷設され、今までは、ほんの少数の観光客しか訪れなかったラサの聖地が、私のような、鉄道に乗りたいという興味が中心の人間まで押し寄せてくるようになった。
 ポタラ宮の坂道を下りてきて、魚が沢山泳ぐ放生池のほとりで、息を整えながら、ガイドさんと話していたとき、急にチベット族の聖なる山「カイラス山」のことを思い出し、ラサからあの聖なる山までどれくらい日数がかかるのか、と聞いてみた。中国語的な発音で、「カイラス山」と何度言っても通じなかった。地図を取り出して、ここだよと指差したら、「ああ剛仁波斉」ね、という。発音は「ガンレンボーチ」。エベレストをチョモランマというがごとしである。
チベットでどういう意味かと聞いたら、神の山という。我々の前で、子供をあやしていたチベット族の中年の男性が、二人の会話を耳にして、私のノートに書いてくれた。できたら記念にチベット語でも書いてくれないかと頼んだが、
彼は、手を振って断るしぐさをし、私に日本人かと聞いてきた。漢語を話す日本人が珍しいようであった。
 彼が、子供の手を引いて立ち去ったあと、ガイドの女性が私にひとこと、「ここのチベット族の人は漢族に対して防備しながら生きているので、交際なども深入りは出来ない。漢族の人と、一定の線を越えて親しくしていると、どこかで指弾されるおそれがあるので、簡単な話はできるが、ノートに何かチベット語で書いたりしない」と教えてくれた。証拠になるようなものは残してはならないのだろう。
 そうだった。ポタラ宮に入るときの注意として、この中では、チベット仏教の話はしても好いが、政治がらみの話はせぬようにといわれたことを思い出していた。ラマ経というのはチベット仏教と言うのが正しい、と。
ラマというのは、日本語では和尚さんの偉い人、上人という意味で、チベット仏教をラマ教と呼ぶのは、蔑視の意味がある俗称だと教えられた。
 ただ高山鉄道に乗ってみたいということで、ラサまでやってきたが、自分がいかにチベットのこと、チベット仏教のことを知らないかを、思い知らされた。
人口も増えず、産業らしい産業も興さず、数百年間同じ日常を受け継いできた。
チベット仏教をひたすら信じて、あのくるくるまわるものを、かたときも離さず、天からお迎えがくるまで、歩きつづける。チベット文字のお経は読めなくても、くるくるまわしていれば、お経を読んだことになる。そこに救いがある。
救いは他者から与えられることはない。自分が信じ、歩み、回すだけである。
天に一番近いところに住み、薄い酸素に耐えられる体力が支えてくれるのだ。
  (完)  2009年

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山西文化の旅

1.五台山のご利益寺

 9月30日の朝7時半、香華最旺といわれる五爺故里に参詣した。早朝というのにバスが何台も連なり、駐車場は満杯であった。庶民の願い事をかなえてくれるというので中国全土からお参りにくるそうだ。そしてその願い事がかなったら、必ずお礼参りに来なければならない、とも云われている。そもそもは高い山の上にあったのだが、庶民がお参りに来易いようにと、民家の軒下まで下りてきてくれたそうだ。どこかで聞いた話を思い出した。そうだ、京都でも本来、山深いところにあった霊験新たかなお寺が、街中に別院というか小さな祠を建てて、お参りしやすくして、便宜をはかってくれている。
京都の下町の角々や、家々の軒の下にたくさんある地蔵菩薩の祠も、本来はとても一日では行けないような遠いところのお寺さんから、下町に下りてきてもらったものだそうだ。そういえば、太原からバスで4時間ほど田舎道を走っていたとき、道端に京都の地蔵尊を納めた祠よりすこし雑だが、大きめの祠を何箇所か見つけた。同乗の人に尋ねたら、土廟(トウミャオ)だと教えてくれた。
病気快癒とか大願成就とか願い事を、ご利益のあるお寺さんに願かけて、かなったならば、そこのちいさな祠に魂を入れてもらって、毎日お参りできるように家のそばに建ててもらう。そんな庶民の切ない願いをかなえてくれる五爺さんなのだ。ここではお礼の印に廟の正面で京劇のような地方劇を奉納していて、
この日も朝早くから、奉納されていた。心を形で表したのだろう。

2.平遥県衙の朱鎔基元首相

 10月2日平遥の古城めぐりをした。水が大切にされている伝統から、城壁の上に降った雨は、城内の方に落として、利用するようになっている。雨の多い地域では、排水というのは城外へ出すのだから、降水量不足に悩むここでは180度異なるわけだ。
30分ほど城壁の道を歩いて、かつての県庁である平遥県衙を参観した。すべての役所の仕事がついこの間までなされていたそうで、‘計画出産’の任務以外は、数百年まえからずっとこの役所で行われていたとはガイドの言。裁判所の役割もこなしており、宮刑もここで行われたとして、男根をそぎ落とされた男の下半身の実物大の写真が生々しかった。当時使用されていた刑具の実物や、フランス人が百年前に撮った写真が当時の状況を、如実に伝えてくれる。
裁判の模擬演劇を見たあと、少し歩いてゆくと、「平遥県衙」の大きな四文字が目の中に飛び込んできた。その揮毫した人の名がなんと朱鎔基とある。肩書きなしだ。
2002年4月に夫人同伴で訪れたと横の写真に説明があった。
一線から退いたあと、政治場面にはほとんど顔を出さないで、潔い人だと尊敬している。首相時代、日本に来ての話しぶりも非常に率直で好感がもてた。
ほとんど揮毫をしたことの無い彼が、この司法執行を厳粛に行ってきた県庁の役所に感じるものがあったのか。ただ四文字のみ筆にした。
しばらく考えていた。貪官汚吏を厳しく取り締まったこの役所の先輩たちに敬意を表したのだろう。

3.山西商人

 9月29日朝、太原を出発、五台山へ向かうバスの中で、ガイドの王さんが
一行にわかりやすく山西省の紹介をしてくれた。山西省を訪れる人は自然の美とか、リゾートなどの一般的な観光目的の人はほとんどいない。山西を6日かけて巡る人は、文化に興味を持っている人に違いないと、人の気持ちをうれしくくすぐる。確かに雲岡石窟や五台山などを見て回る人は、敬虔な仏教徒でもないかぎり、歴史文化を知る楽しみを求めてくるのであろう。
旅の終わりに、百年前まで大変栄えた山西商人の街に泊まった。昔の大商人の館を宿泊施設に変え、「客桟」と呼んでいる。私もそうしたところに泊まった。
道を隔てた客桟はユースホステルで、部屋には4つの2段ベッドがあり、手洗いは中庭を挟んだ別棟にあった。欧州人も含めたバックパッカーが中心だった。
一泊150-200元くらい。
 さて翌日、県庁などを参観した後、百年前に最盛期を誇った民間銀行というべき、自家手形を発行して流通させていた「票号」が、ずらっと軒を並べた、山西のウオール街を歩いた。その中で今は博物館となっている、「日昇昌」という処に入って、1823年から1931年の108年間で彗星の如く登場し、今や跡形も無く消え去った、中国最大の票号の生い立ちから、衰退までの解説をじっくり見学した。
 もともとは染物という製造業から身を起こしたのに、金融業で隆盛を誇ったのち、すべては配当とかボーナスで分配してしまって、後世に残るような産業に何ら投資しなかったのは、どうしてだろうとの疑問が沸いてきた。
渋沢栄一のいた日本と、彼のような人間が現れてこなかった山西、中国。
商業資本のみを尊いとし、手を汚す製造業をやや見下してきた伝統的なものが
背後に控えていそうだ。21世紀の今でもなお、物は人に作らせて、自らは上海の金融街で、金融か商業に徹する、そんなことでよいのだろうか。
         2008年10月

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