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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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糊塗は難し

糊塗は難し  子明
 篆書の話しを聞いて、私は鄭板橋の印章で「難得糊塗」(糊塗は難し)
があったことを思い出した。
4字の篆刻はみごとに彫られていて、名士の不平を頗る上手に表している。
刻印や、篆字を書くのはある風格を反映しており、正に「木版を弄する」に
似ている。だが「只単なる個人的事情」ではないことが分かる。(施氏の言)
「まちがった変種」と「魔物」を篆書したら「妖怪の誤り」を帯びるようだ。
(以上は施氏への風刺)
 然るに、風格と情緒、傾向の類は単にひとにより異なるだけでなく、
物事や時によっても異なる。
鄭板橋の「難得糊塗」は実は彼はまだ糊塗(馬鹿)になれていないのである。
現在、「仕を求めて獲れなくも、悲しむに足りず。隠を求めてその地を得られず、
こそこそ逃げるは天下の哀の至りなどというなかれ」という時代だが、
実に糊塗を求めて得られないのである。
 糊塗主義、唯是非観等は無いが――本来中国の高尚な道徳である。
彼は解脱、達観したといっているが、必ずしもそうではない。
実は固執し、何かを堅持し、例えば、道徳的な正統、文学的正宗の類だ。
これをついには言いだしてきて:道徳は孔孟の他に「仏教の因果応報設」
(老荘は別の帳面に載せる)そしてひとが仏教の影響を卑しめるのは、
「儒家の為に正統を争おう」とするからであり、元来、同善社(道経の組織)
のいう三教同源論はとうの昔から正統になっている。
では文学はというと、渋い字を使い、詩のなかの美句を用い、しなやかな作品で、
且つ新文学でということになる。
彼は「新文学と旧文学に分けることを否認」しているが、
大衆文学は「もとより賛成」だが、「それは文学の中では傍流」であるという。
正統と正宗、これははっきりしている。
 人生に倦怠(うんで怠惰になる)するのは糊塗ではない!
現実の生活はもうそんなに「窮乏」しておるのに、青年に対して「仏教の因果応報説」や、
「文選」「荘子」「論語」「孟子」の中で修養を求めるよう要請していたが、
後には修養もどこかにいってしまい、ただ語彙だけが残った。
「自然景観、個人の事情、宮殿建築…の類を、「文選」などの本から探し出すのは、
いっこうに構わない」という。(施氏の発言)
 かつて厳復は何とか言う古書――多分「荘子」から――「幺匿」(ヨートク)の2字を、
Unitの訳語としたが、古雅であり音も意味も相関はしている。
だが、後に通用したのは「単位」だった。
厳老先生のこの種の「語彙」は大変多いが、大抵は復活できないだろう。
現在、「漢以後の詞、秦以前の字、西方文化がもたらした字と詞を総合的に使って、
我々の輝かしい新文学を創れる」と考えている人がいる。
この輝きは、字と詞の中にあるだけで、それはきっと古い墓の中の貴婦人のようで、
全身に珠の光、宝物の気はあるだろう。
しかし人生は寄せ集めにあるのではなく、創造にあるのだ。
数千百万の活き活きした人が創造しているのだ。
恨むべくは、人生は騒擾忙乱により、「その地を得られず、こそこそ逃げ出す」
ようにさせ、字と詞の中に逃れ、以て「是非を免れんと願う」も得られず。
それで、篆書や篆刻をしようとするのだ!
      11月6日
 
訳者雑感:
 秦の時代に隷書が作られ、文字の統一が為された。
この文章でいう秦以前の文字は隷書の前の篆書をさすのだろう。
漢以後の詞(ことば)とは漢以後の竹や木、そして紙に記されたことばだろう。
それに西方文化がもたらした字と詞をうまく使って新しい文学を、という人がいた。
それは単なる寄せ集めに過ぎない。
字と詞の世界に逃れて、真剣に人生に立ち向わない。それが中国の高尚な道徳だった。
人生を糊塗して生きようとして来た。しかし実際は糊塗するのは難しい。
           2012/09/17訳
 
 
 
 
 
 
 
 

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忠厚に帰る

忠厚に帰る      羅憮
 租界では、憎い女に硫酸をかけるようなことはとっくに無くなった。
憎い弁護士に汚物をかけるということも2カ月ほどで終わった。
一番長いのは、憎い文人をデマで中傷することで、これは何年も続いているが、
只これからは増えることは無く、減って行くと思う。
 租界には元々閑人が多く、「遊び人」も暮らしてゆけるし、時に馬将も打てる。
お妾さんもおしゃべりして暇をつぶす。私も時々デマを専らにしている雑誌を見る。
だが見るのはデマそのものではなく、デマを書く作家の手口で、どんな奇抜な幻想を、
どのように風変わりに描写し、どの様に険悪な陥穽を築き、どの様に姿をくらますか?
そういうことの原形を見るのだ。
デマにも才能が必要で、うまく造れば、たとえそれが私へのデマでも、
彼の本領を愛するようになるかも知れぬ。
 しかし大抵はそんな才能は無く、デマ文学の作者はやはり「下手な笛吹きも数でこなす」
しかない。これは私一人の意見ではない。文壇のゴシップを種にした小説は流行しない。
何何外史というのも出てこなくなったのは、読者がもう拒絶しているのである。
手を変え、品を換えてみても、幾つかのパターンの繰り返しだから、記憶が悪くても、
何回もだと飽きてしまう。続けようとするなら才能が要る:さもなくば舞台から下り、
別の劇に替えるべきだ。
 例えば、以前演じた「殺子報」(淫悪な子殺しの旧劇)は、今回は「三娘教子」
(節義思想の宣伝劇)に換え、「御主人にはい、はい」と答えるようにすべし。
 文場は劇場と同じで、やはりもうすでに徐々に「民徳は厚きに帰す」となり、
ある人はすでに声明を出し、当事者を変え、以前「作家の秘史を載せたが、
文壇の佳人の話とはいえ、忠厚を傷つけてしまった。
以後、本誌はこの種のものは載せない… 以前の言の責めについて…責任は負えぬ」
(「微言」参照)「忠厚」のために、「佳人の話」を犠牲にするのは、惜しいが敬すべし。
更に敬すべきは、当事者の交替。彼の「責めを負わず」を敬すに非ず。彼の徹底を敬す。
昔「屠刀を放下、即成仏」した人は「官印を放下、即成仏」したためで、
そして、ついには「数珠を放下、即官になった」人が、この種の玩意を弄ぶのは、
世間から大きな信頼を得るにはほど遠く:人に何かをさせるのも困ったことだ。
 だがもっと困ったことは、忠厚文学はデマ文学に比べ読者へのインパクトが弱い。
だから、それより優れた才能のある作家でなければならず、すぐ探し出せないと、
その雑誌の人気は衰えてしまう。
やはりまずは、かつて「おふざけ役」の道化役者に、長いヒゲを着け、
老生(中年の役)の戯曲を唱わせるのが良いと思う。
それなら暫くは何とか特別の趣も出てこよう。
     11月4日
付記: 本篇は発表できなかった。翌年6月19日、記。
 
訳者雑感:
 本篇は発表できなかった。というのは何故だろう。
文場という中国語をそのまま訳さずに使ったのは、劇場と同じだという文脈から、
文で読者を楽しませる場、即ち雑誌世界だが、雑誌以外にもいろいろあろう。
1930年代の上海で、どれほどの種類の雑誌が発行されていたのだろうか?
2010年の中国各地、各都市の通りに棚をひろげて新聞雑誌を売る店が沢山ある。
毎週、何部ほど発行しているか知らぬが、おびただしい数の刊行物が並んでいる。
それだけ買う人もいるわけだ。デマ・ゴシップ・写真・漫画・エログロ何でもあり。
1930年代の方が規制も厳しかったろうが、低級なものも一杯あったろう。
そんな雑誌世界に「忠厚に帰る」と題して、改善を求めた本篇は発表する場が無かった。
まさしく発表の「文場」が無かったことになる。
    2012/09/15訳
 
 
 

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反芻

反芻    元良
 「荘子」と「文選」の議論については、一部の雑誌にはもう直接この問題を、
みんなで研究するように取り上げなくなり、別の話題に変えてしまった。
彼らは「文選」に反対した人たちも自分ではかつて古文を書いていたのであり、
古書を読んでいたと嘲笑している。
 これはほんとにすさまじいことになった。
つまり「子の矛で、子の盾を攻めよ」だ――すみません、また「古書」だ!
 牢獄に入れられたことのない人は、牢獄の真相を知ることはできない。
偉い人のお伴か、或いは本人が偉い人なら、電話してから視察に行くと、
獄吏がとても愛想よく接し、罪人も英語を自在に話すのを視察するだけ。
詳細に知りたいなら、かつて獄吏だった男か、釈放された罪人に聞く事だ。
無論彼はまだ悪習から抜け出せていないが、彼が牢獄には決して入られぬように、
と忠告する言葉は、偉い人が、模範監獄の教育や衛生状態は、
貧乏人の家よりよほど完備して立派だという言葉より、ずっと信用できる。
 しかし牢獄の臭いがしみつくと、それが悪いことと言えなくなるそうで、
獄吏や囚人は、すべて悪い人で、悪い人はそれを良いとは言わない。
良い人が、牢獄は良いところだと言ってこそ、本当に良いのである。
「文選」を読んだことのある人が、それを役に立たぬと言うのは、
それを読んだことも無いのに、役に立つという人の言葉より聞こえが良くない。
反「文選」に反対する諸々の君子は、勿論その多くは読んだことのある人だろうが、
読んだこと無い人もおり――例を挙げると――
 『「荘子」は4年前に読んだが、当時完全には理解できなかった、…
「文選」は全く読んでいない』
それなのに、その文章の結末に言うには
『浴槽の水が汚れたため、赤子まで棄てようとする、この考えに我々は賛同しかねる』
(「火炬」参照)
彼は水中の「赤子」を助けようとしているのだが、「浴槽の水」は見たことが無い、
のである。
 五四運動の頃、文語保護者は、口語文を書く人は文語文も書けるのだから、
古文を読まねばならぬ、と説いた。
今、古書擁護者は、古書に反対する人たちも、現実には古書を読んでおり、
文語文も書いているではないか、という。その主張のおかしさが分かる。
永遠に反芻し続けて、自分で吐き出すことができない。
きっと本当に「荘子」を完璧に読みこんだのだろう。  
11月4日
 
訳者雑感:
 古文・古書の世界を牢獄に譬えている。
魯迅は子供のころから成人して以降も、その古書の牢獄に入っていたから、
そこから出ることが如何に大切かを訴えている。
と言いながらもしばしば古書を引用する。
「以子之矛、攻子之盾」はこれを口語に換えると間が抜けて聞こえる。
古書の世界が牢獄との主張が分からないので、初め何を言いたいのか分からなかった。
模範的な監獄を見て来た偉い人は、古文をたいして読んでもいないのに、
古文は文雅でこれを読まねばダメだという。
 しかし古文の世界にはまり込んで、反芻しかしないで、不要な部分をはきだせない。
それが、中国が西洋の新しい学問を取り入れるのを遅らせた原因・背景である、
と主張している。
 井戸に落ちた赤子は助ける、というのは人として当然のことだ。
しかし、浴槽の水が汚れたため、その中にいる赤子まで棄てるのには賛同しない。
この引用は、「文選」を読んだことのないと言う人が、
古書を十分読んだ上で、古書反対を唱える人たちの主張に賛同しかねるという意。
井戸のきれいな水の中に誤って落ちた子は救うのは当然のことだが、
汚れた浴槽の水の中の赤子は生きていれば当然救いだすのだが、
死んでいれば施すすべは無い。
      2012/09/14訳
 
 
 
 

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野獣訓練法

野獣訓練法     余銘
 最近またとても有益な講演があった。
(ドイツの)HagenbeckサーカスのSawade団長が、中華学芸社の3階で、
題して「如何に動物を訓練するか」という講演だ。
不幸にも私は傍聴できず、新聞で一部の記録を読んだだけだが、
大変多くの警抜的な話しがあり――
「野獣は武力やげんこつで対応圧迫できると考えている人がいるが、間違いだ。
それはかつて蛮人が野獣に対して使った方法だ。今の訓練のやり方は違う」
「今使っているのは、愛の力で彼らの人間への信頼を獲得し、愛の力と暖かい心で、
彼らを感動させる……」
 こういう話はゲルマン人の口から出たとはいえ、我らの聖賢の古訓と合致する。
武力で対応するのはいわゆる「覇道」だ。
「力でもって人を服させても、心服に非ず」である。 
だから文明人は、「王道」を用いて以て「信頼」を得ねばならぬ。
「民の信が無ければ(国は)立たず」だ。
だが「信頼」(関係)ができたら、野獣は曲芸を演じねばならなくなる。
「調教師は彼らの信頼を得た後、訓練できる:
第一歩として、坐る位置や立つ位置を覚えさせ、ぴょんと跳びはね、立ち上がらせ…」
野獣を訓練するというのは民を牧す、に通じる。
我々の古代の人は、民を治める人物を「牧」と称した。
しかし「牧」すのは牛羊で、野獣より弱いから「信頼」だけに頼る必要は無い。
げんこつを使っても構わぬし、それも堂々とした「威信」である。
 「威信」で育成した動物は「ぴょんと跳び、立ち上がる」だけでは十分でなく、
結果として毛や角、血肉を献上せねばならぬ。
少なくとも毎日乳を搾られ、牛乳羊乳の類だ。
だがこれは古いやり方で、現代に当てはまるとは思わない。
 Sawadeの講演後、更に余興があり、「東方大楽」と「チエンズ(羽蹴り)」の映画が、
上映されたが、詳細は報じられず、内容は知る由もないが、報じてくれれば、
それも大変面白いものだったろうと思う。  10月27日
 
訳者雑感:
 日本では「信なくば立たず」「無信不立」と簡略化して三木、小泉氏などが、
首相になる際に、座右の銘として公表している。
多くの選挙民はこれを「当選する自信がなければ立候補しない」と解している。
しかし原典の<論語・顔淵>には「民無信不立」というのは、
宋代の邢晑(曰の下は内)疏:の解釈として
「治国不可失信、失信則国不立也」とあり、
「国を治めるに、(民の)信を失ってはならぬ、失えば、国は成り立たぬ」意。
野獣を訓練するにはまず信頼をというのが、ゲルマン人サーカス団長の言葉。
民を訓練するには、同じように愛の力と暖かい心で民を感動させねばならぬ、と。
小泉劇場では、それに感動した選挙民が雪崩を打って投票し、
沢山のチルドレンを誕生させたが、短命内閣が3人続いて、すっかり民信を失った。
国が立ちゆかなくなる訳だ。
もともと有りもしない「愛の力と暖かい心」をある様に見せかけたに過ぎぬのだ。
本来は冷たい心で、自我を通すことに専念し、戦犯を祭る神社に参拝するのが、
信念だった人間なのだから。
    2012/09/13訳
 
 
 
 
 

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中国文と中国人

中国文と中国人    余銘
 最近とても良い翻訳が出た:高本漢著「中国語と中国文」(張世禄訳)だ。
高氏はスエーデン人で本姓はKarlgren。ではなぜ高と「姓を」つけたか。
それは疑いもなく中国化したからだ。彼は確かに中国語学に多大な功績がある。
 彼は中国人についても深い研究をしていて、彼は文語を大変崇拝していて、
中国の文字も崇拝していて、中国人には不可欠なものと考えている。
 彼が言うには:「近来――高氏のこの本は1923年ロンドンで出版された――
数紙の新聞は口語を試用してみたが、あまり成功していない:
多分、その為に多くの購読者の怒りにふれたようで、そう思うのは、
彼らが文語を読めないと風刺しているというわけだ!」
「西洋諸国の多くの俳優は、舞台で随時たくさんの<ギャグ>入れるし、
作者の多くは、やたらに他の文章を引用する:
だがそうするのは下等な風味とみなされている。
それが中国では正反対で、巧妙で文雅でかつ絶妙な点を示すものとみなされている」
 中国文の「曖昧な点は、中国人はそのために、理解困難と感じないだけでなく、
却ってそれを会得しようと願っているほどだ」
 しかし高氏自身はこのことで却って侮辱を受けている:
「本書の著者は親しい中国人との談話で、彼への言葉は完全に理解できる:
だが、彼ら同士が話すのは、殆ど一言も分からない」
 これは当然それらの「親しい中国人」が彼は上流社会の言葉を理解できない、と
「諷示」しているのであり、外国人が中国に来て、ちょっと注意すれば分かるが:
普通の人の言葉は良く分かるが、上流社会の話しは訳が分からぬ、ということだ。
 そこで彼は言う:「中国の文字は美しくて愛らしい貴婦人のようであり、
西洋文字はよく役に立つがブスの下女のようだ」
 美しく愛らしいが役に立たぬ貴婦人の「絶技」は、正に「ギャグをいれる」
曖昧さの中にある。
これは西洋第一等の学者をしても、せいぜい普通の中国人程度で、
とても上流には這い上がることを望めなくさせた。
かくして我々は「精神的勝利」を得た。
これを保持する為、巧妙文雅で語彙も豊富に持たねばならない!
五四口語運動が「あまり成功しなかった」原因は大抵上流社会で、
彼らが、文語が分からぬと人から諷されるのを怖れたためだ。
「これも一理、あれも亦一理だ」――
我々はやはり曖昧なのがいいようだ。さもないと却って困難と感じてしまうから。
     10月25日
 
訳者雑感:出版社注では、本文は瞿秋白が上海で魯迅との会話の中から得たものを、
文章にし、それに魯迅が手を入れて公表したものという。
瞿秋白は当局から睨まれていて、その後逮捕され処刑されるのだが、魯迅は彼を大変
信頼しており、彼への支援を続けた。
他にも何篇か彼の作品を人に清書してもらい彼のペンネームで出している。
 
Karlgrenは中国語と中国文では著名な学者で魯迅の言う通り、第一等の学者である。
文字として文語文はなんの問題もなく読解できたろうし、口語はペラペラだったろう。
しかし、その彼にしてからが、中国人同士が話しだしたらチンプンカンプンとなる。
多くのネイティブに近い中国語を話す日本人も、京劇の文語のセリフは、字幕が無いと
十分理解することは難しいという。これは一般の中国人すらそうだという。
彼らにとっても京劇の素養もなく、文字資料で目を通したものでないと百パーセント
理解するのは困難だと聞いた。
ドナルド・キーンさんはどうだろうか?
   2012/09/12記
 
 
 
 
 

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外国にもある

 
外国にもある    符霊 
 凡そ中国にある物は外国にもある。
外国人は、中国は南京虫が多いと言う。だが西洋にもいる:
日本人は、中国人は文字を弄ぶのが好きだとけなすが、日本人にも同類がいる。
非抵抗はガンジーがおり:外国人殴打禁止をしたのはヒットラーがいる:
クインシ―はアヘンを吸い、ドストエフスキーは博打で身を滅ぼした。
スイフトは枷をはめられ(これはデフォーの誤記:出版社)、
反動にはマルクスがいる。(蒋介石政府は反政府行為を反動と決めつけた)
誘拐はリンドバーグ大佐の子がいる。(当時は誘拐が横行していた)
纏足とハイヒールの間に大差はない。
 ただ外国人は、我々中国人は公益を無視し、私利のみ追求し、金の亡者という。
これには弁解の余地は無い。
 民国以来どれほど多くの総統や高官が下野後、みなとても太り、詩を賦し、観劇し、
念仏を唱え、飽食しているのは、まさに批評家に証拠を与えているわけだ。
だが、思いがけず私は発見した:このような事は外国にもある! と。
 
 「17日ハバナ電――カナダに逃亡中のキューバ前総統マチャド氏は、…
彼のキューバに残した財産8百万ドルを、誰か回収してくれるなら、
援助を惜しまぬ、と。
又一方、キューバ政府は、マチャドと旧属僚38人に逮捕状を出し、
彼らの財産を差し押さえ、その額25百万ドルに達した…」
38人で25百万ドルとは、手段もたいしたことは無いが、ある程度稼いだのは確かだ。
 
『これは我々の「高官」たちの恥をそそぐに十分足るものだ。
だが私はやはり彼らが外国で土地を買い、外国の銀行に預金を持つことを望む。
そうすれば、我々が外国人と有利に交渉できるから』(『』内は全て傍点付き)
 もし仮に、世界中に南京虫のいる家が一軒だけだとして、他の人から指摘されたら、
実にいい気はしないが、捕まえるのも難儀なことだ。
ましてや、北京には一種の学説があり、南京虫は捕まえきれない、捕まえれば、
捕まえるほど多くなるというのだ。
すべて捕まえて見たところで、一体何の価値がなるのか、一種の消極的方法に過ぎぬ。
やはり何といっても、他の家にも南京虫がいてくれれば良いと思うのだ。
そしてそれを見つければなおさら良いと思うのだ。
発見するというのは、積極的なことだ。コロンブスとエジソンも発見や発明をした、
というだけにすぎない。
 そんなことに心身を疲れさすより、ダンスをしたりコーヒーを飲む方が良い。
それは外国にもあり、パリにはたくさんのダンスホールとカフェ―がある。
 『たとえ中国がすべて滅びたとしても、何も驚くにあたらない、
君聞かずや、Chaldaea(新バビロン王国)とMacedoniaのことを?
――外国にもあるのだ!    10月19日
 
訳者雑感:
 総統や高官が下野した後、云々は 歴代の韓国の大統領、台湾の陳水扁氏など
30年代の中国の状況は21世紀の東アジアでも相変わらずの状況だ。
今回の李氏の竹島上陸も下野後に逮捕されるのを防ぐため、反日愛国活動に貢献した、
ということで、減刑してもらうか、あわよくば不逮捕、不起訴に持ち込みたいというのが、
主たる動機だと言う説もあるほどだ。兄が逮捕されたのが引き金だとか。
 しかし民国時代は高官が身代金目的で誘拐されたり、暗殺されたりしたが、
優雅な暮らしを享受した高官もいたようだ。
 
纏足とハイヒールは元々の発想が同じで、西洋人は纏足を酷いことだとするが、
ハイヒールも50歩100歩だというのが魯迅の意見だが、それはどうか分からない。
 
この文章はかなり逆説的で、投げやり的な印象も持つが、南京虫が1軒だけにいたのなら
大変恥ずかしいことだが、世界中にいる云々の段は非常な風刺を感じる。
北京の学説だと、捕まえても、捕まえても減らない。より増えてしまうという。
 
最近の北京のトイレは臭いのと非衛生的との非難を受けて、衛生の基準を決め、
ハエは2匹までなら許容するがそれ以上のトイレを厳しく規制する云々という。
この辺の基準の置き方は、我々の感覚からするとだいぶ隔たりを感じる。
許容という概念が異なっている。1匹でもいたら非衛生だというのが日本の常識。
2匹までなら許容するというのは、どういう発想から来るのだろうか。
     2012/09/11訳

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八尾風の盆







                  八尾風の盆



八尾と城端へ



1.

9月1日朝、新幹線・ほくほく線で直江津から富山に向かった。

目指すは3時から始まる八尾(やつお)風の盆。

富山には黒部・立山をいろんな乗り物で巡る旅とか、城端にも来ている。

しかし9月1日から3日までの八尾の風の盆は、日程的な制約があり、

今まで念願を果たすことができなかった。

今回行くと決めてはみたが、八尾町には旅館は少なく、富山もすべて満室。

泊まる所がなければどうしようもない。

多くの観光客はバスで来て、数時間踊りを見た後、深夜に帰るそうだ。

この前の惨事もあり、深夜のツアーバスは乗りたくない。

いろいろ試した結果、富山から少し離れた高岡駅前のホテルを何とか予約できた。

2時過ぎの電車で富山から八尾に向かい、10分ほどで井田川の十三石橋を渡る。

そこから地図を片手に、11ある支部の踊りを歩きながら見ることにした。

 3時になると、八幡社から胡弓のむせぶような音と三味線にのせた越中おわらの、

これまた喉を絞るような声が聞こえてくる。快晴の炎天だが川風は涼しい。

 紺の法被に笠で顔を隠した男衆の列と、淡い橙色の着物に笠の女衆の間に、

小学生たちが着物に笠無しで、元気な顔を見せて大人の踊りをまねて進む。

 京都の祇園祭では、中高生も鉦や太鼓を鳴らすが、小学生はお稚児さんだけ。

女性はもっぱら裏方で、行列には参加しないが、八尾では町内全員参加で、

就学前の子供から小学生が踊りに参加し、踊らなくなった中年以上の衆が、

三味線胡弓に太鼓を鳴らし、喉に自信のある者が2-3名交代でおわらを唄い、

囃しとかけ合いをする。その間合いが息があって面白い。

それぞれの町内に会館があり、そこで練習し、当日の5時~7時まで夕食をとりながら、

休憩し、7時~深夜まで踊り続ける。なだらかな坂を下りながらの踊りは圧巻である。

 高知から来た2人の80才近い婦人の話しでは、阿波踊りも素晴らしいけど、

八尾のはまたなんとも言えない良さがあり、聞けばなんでも1万円余の交通費で、

明石大橋を渡るツアーバスに揺られて今日、富山に着き、5時間ほど踊りを見て、

深夜のバスで、高知に戻るという。元気なものだ。

ナデシコの応援に往復機中泊で駆けつけるサッカーファンと同じ。

それだけ魅力があるということ。

2.

井田川と山の間の斜面にできた坂の多い町は、昔ながらの町家を保ってきた。

街には農家は少なく、商店が多いが、シャッターは殆ど見かけない。

銀行や信用金庫も町家風で、近在の農家や住民がここまで来るのだろう。

イタリアの古い丘の上の街のような石畳を敷いている通りもある。

この豊かさはどこからくるのだろうか。不思議だ。

 帰宅後、調べてみたら、1500年代に聞名寺がここに移された頃から、

門前町として賑わうようになったとある。

産業としては蚕糸と和紙が有名で、その集散地として栄えたとのことだが、

今、そうした産業は衰退した。だがこの人たちが豊かな暮らしを保っているのは、

昔の蓄積があるにしても、近くの電子企業などで働いているからだろうか。

沿岸地帯の比較的大きな商店街が、郊外のショッピングセンターに客を奪われて、

何とか銀座といわれた街がシャッター通りに変じているのと大きな違いだ。

富山市までは電車で30分の距離があり、合併後もやはり近在の人たちが、

この町を支えているのであろう。

町の支援を得て街の家並みも町家風で、この15年位で建て替えられたという。

土地の人に聞いたら、そりゃ2x4で建てた方がよほど経済的だが、

風の盆のためにこうした街並みを保存しているのだと言う。

 歩いていて気になったのは、通りに面した間口が殆ど2間で、

たまにそれをふたつ合わせた4間の家があるくらいで、昔はこうした家で生活必需品や、

農具などを作りながら、町民の暮らしを支えて来たのだろう。

京都の下京区の一角の本願寺と島原の間のような雰囲気もある。

3.

この小さな町にも昔は「花街」があって、今も鏡町と称している。

そこのおわらの踊りは、芸妓踊りの名残もあり、艶と華やかさがある、という。

それでその会場である「おたや階段下」の広場に出向いた。

 そこには30段ほどの階段一杯に、ちょうど4月の花見の時のように、

名前を書いたビニールシートが両側に敷かれている。予約席だ。

その間の50センチほどの狭い所を下りてゆくと、石畳の広場がある。

今まだ6時になっていないのに大ぜいの人がもう坐り込んで待っている。

 私も暫くそこにいて、その雰囲気を味わっていたが、聞くと9時開演だそうだ。

皆それまで弁当を食べながら待つという。

 とてもそれまで待てないと思い、他の町内を回ることにした。

そうこうしているうちに、雲行きが怪しくなり、ぽつぽつと雨が降り出したので、

今日は一旦宿に戻り、明日、暗くなってから出直そうということにした。

 電車に乗り、暫くしたら雷が鳴り、バケツをひっくり返したような土砂降りとなった。

芭蕉の奥の細道の「名月や北国日和定めなき」を思い出した。

10分ほどしたら、電車が止まってしまった。大雨警報で電車は緊急停止。

1時間ほどしてやっと動き出した。車中泊を覚悟するほどであった。

風の盆は210日に田んぼを荒らす「大風」が吹かぬよう祈ることから始まった由。

近在の米の収穫がダメになれば、この町に与える影響は甚大である。

近在の農民の参拝客が、収穫の後の骨やすめにここに来た。

ここで生活必需品を買い求め、年に何回かお寺参りも兼ね、遊びに来た。

この山と川に挟まれた狭い斜面に寺が移され、門前町になって今日まで栄えたのも、

この斜面が大雨や大風による被害を受けにくい土地だったからと言えるかもしれない。

川の左岸から海側には扇状地が広がり、立山連峰から流れ出す大雨が氾濫しただろう。

しかしそこは農地が多かったから、エジプトがナイルの賜物と言われるように、

この八尾の周辺の農地を潤したのだろう。

今でこそ、コンクリート護岸で洪水を防ぐようにしているが、

江戸時代には一旦洪水が発生したら、それは低地に浸水させるほか術がなかったろう。

それで人々は、こうした山の斜面に間口2間の狭い家を建てて町立てをしたのだろう。

その町立ての許可を得て、町民がそのお祝として踊り始めたのが、

「風の盆」の由来とも言われている。

4.

翌日、暗くなるまでの間、城端(じょうはな)に出かけた。高岡から電車で40分。

地理的な関係は富山市と八尾の関係に似ている。

7年ほど前に訪れたことがある。私の遠い先祖がこの辺りから来た由縁だ。

山田川が町全体をヘアピン状に取り囲む高台に善徳寺という寺がある。

蓮如ゆかりの寺で、やはり門前町として栄えて来た。

八尾の町を歩いたとき、川と山に囲まれた狭い高台に町家がびっしり並ぶ雰囲気が、

この城端にとても似ているのを思い出して、それを確かめるため再訪したくなった。

炎天下、誰も歩いていない。

今回駅から善徳寺を目指してゆっくりと街を観察しながら歩いた。

城端も昔の街並みは、間口2間の家が殆どである。たまに4間のもあるが。

丁度そこから出て来た婦人に聞いてみた。

「この辺りは皆2間の家が多いですが、これは門前町として昔からですか」と。

「そうねえ、最近は引っ越す人のを買って4間にする家も出て来ましたが」との答え。

硝子戸4枚の家で、シャッターはほとんど無い。強盗はいないのだろう。

 善徳寺に着き、本堂に入る前の庫裏の塀に4メートルくらいの板看板が建てられ、

人名がびっしりと並んでいる。

本堂修繕のための奉納金を出した人たちの名である。

何十人かの地名を書いた人名の板札の後に、以上20万円とあり、

これが今後更に増えてゆくのだろう。

その次の立派な門は閉まっているが、中央に皇室の菊の御紋があり、

皇室関係の建物を拝受したものか、皇室との関係の深さを示すことで、

近在の信者たちから崇められているのであろう。

本堂を参拝した後、会館の方に向かうと、おびただしい数の名前が連なっている。

それらの名前を1枚ずつ見てゆくと、ほとんどが女性名であることに気がついた。

最後のところに、以上1,500円とある。

この会館に集まって来る信者たちのほとんどが、年配の女性であること、

そうした女性たちの貧者の一灯の集積がこの寺と門前町を支えていることが分かる。

旦那衆は大金を奉納するが、毎月の例会にはなかなか来られないだろう。

5.

 6時過ぎに八尾に向かい、諏訪町の風情ある坂を下って来る風の盆を堪能した。

7時から再開した風の盆を見ながら、8時過ぎに鏡町に向かい1時間待った。

階段はすでに占領されているので、その左の屋根越しのスペースを見つけた。

数組の男女がそれぞれおわらを舞いながら石畳に登場してくる。

11の支部すべてを見た訳ではないが、踊り手はすべて痩身で法被と着物が

よくにあっている。この町にはメタボの人はいないのかと思うほどだ。

メタボにならないようにこの日の為に節食し、踊りの稽古で体重管理をしているのだろう。

 両の手を斜にピンと伸ばし、左足を挙げて鶴のような格好の男。

両ひじを曲げ、白魚のような指を帯の前にあわせ、足を少し曲げる姿勢がなまめかしい。

これらは芸妓から厳しく仕込まれたしぐさだろうか。

 彼ら彼女らの踊りを眺めながら、その品の良さがどこからくるのか考えた。

踊りを見せてお金をとる訳ではない。210日の風の盆のために、自分たちの町の為に、

一年の間稽古を重ねてきたものを、この3日間、踊り続ける。

自分の為に踊るのだから、媚びたりする必要などさらさら無い。

大阪や京都の花街でみた芸妓や舞妓の踊りよりも品があるほどだ。

この山間ともいえるような坂の多い街の路上で踊る彼女等に気品を感じる。

けがれというものから遠いところにあるように感じる。

 これまでの女子サッカーが、男のより純に感じるのとどこか似ている。

男のサッカーは年収の多寡でその選手の価値が決められるから、ハンドをしたり、

審判の見えないところで汚い手を使うようなことも偶にみる。突き飛ばしすらする。

女子の方は、プロといいながら、低い年収に耐え、スーパーのレジで働いたりしながら

試合に臨む。自分の為にサッカ―をしているからだろう。

 そんなことを感じながら、ほれぼれするほどの風の盆を味わった。

深夜11時過ぎても踊り続け、踊り手と客は意気投合し夜の更けるのも忘れる。

来年も来てみたくなった。八尾の風の盆は天下一品だと思う。眼福、耳福である。

      2012/09/09 日夜浮かぶ記

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「滑稽」の一般解釈

「滑稽」の一般解釈   葦索
 世界文学の研究者によれば:フランス人は機智に富み、ロシア人は風刺、
英米人はユーモアに富む由。その通りで、これは社会情勢がしからしめたものだ。
林語堂大師の「ユーモア」振興以来、この言葉は通用し始めたが、
普及するとすぐ危機が待ち伏せていて、それはちょうど軍人が仏の子と自称し、
高官が突如念珠をかけるようになって、仏法が涅槃に入るのと同様。
もし、滑稽、軽薄、猥雑がみな「ユーモア」に入るのなら、
「新劇」が、「X世界」(大世界等の盛り場)に入るときっと「文明劇」となるだろう。
 この危険は中国人がこれまであまりユーモアを持ち合わせてこなかった為だ。
滑稽はあったが、それはユーモアとは大きく異なり、日本人はかつて「ユーモア」を
「有情の滑稽」と訳したくらいで、単なる「滑稽」とは別なものである。
では中国にはただ滑稽文しかないかといえば、そうでもない。
中国の滑稽文と思われるのはやはり狡滑、軽薄、猥雑な話しで、ほんとの滑稽とは、
別のものである。
「狸と猫が太子を換える」という劇の鍵は、従来は真面目な言論と事実だ、
と思っていたのは、大抵は滑稽なものが多く、人々は見慣れてきて、
だんだんそれを当たり前のことと思い、狡滑なのも滑稽とかんちがいしてしまった。
 中国で滑稽を探すなら、所謂滑稽物でなく、まじめな物から探すべきだ。
しかしそれは少しよく考えないといけない。
 そうした名文は拾いあげればきりがない。例えば新聞にまじめなテーマで、
「中日交渉漸く佳境に入る」とか「中国はどこへ」とかいうのは皆そうである。
噛めば噛むほどオリーブのように味が出て来る。
 新聞広告にもある。ある雑誌に自ら「世論の新権威」と自称するひとが、
「一般人が言おうとしても言えなかったことを発表し」その一方で別の雑誌に、
「誤解しており、お詫びする」というが、「双方とも社会的名声のある雑誌」ゆえ、
「互いに相手のミスを攻撃せぬ方が良い」云々という輩がいる。
「新権威」は「誤解が得意」で、「誤解」は「名声のある人」に偏している。
「一般人が言いたくても言えない話」は誤解であり遺憾である:
これを笑わずにすまそうとするなら、思索を停止せねばならぬ。
 新聞の寸評にもある。
例えば9月の「自由談」の「登竜術拾遺」に、資産家の婿になるのも「兜竜術」
のひとつだ、と書いた。暫くしたら反攻を招き、初めに:
「キツネが葡萄を食べられないのは、酸っぱいからだというのは、
資産家の娘を娶ることができないから、資産家の岳父を持つすべての男に対する、
嫉妬の結果、攻撃するのだ」という。
これを見て、どういうことかちょっと分からなかったが、考えた結果、
この作者は「資産家の妻」の味がどれほど甘いか知っている事を明確に表明している。
このような妙文の多くは、外面的に堂々とした公文にもよくある:
それは決してギャグ化してなくても、それ自体がもともとギャグなのだ。
(雑誌の)「論語」の1年で、私は「古香斎」欄を愛読したが、
四川の営山県長が長い服を禁じた令に言う如く:
「服は体を蔽えば足ると知るべし。前も後ろも長くして布を浪費する必要はない。
国勢が衰弱しており… 時局の艱難を思えば、後患はどれほどか考えても恐ろしい」
又、北平社会局が女性の雄犬を飼うのを禁じた文に言う:
「女が雄犬と共に入ると、単に健康を害すのみならず、更には無恥な醜聞を発生し易く、
これは我が礼儀の邦から鑑みて、習俗として許すべからざるものである。
謹んでここに特令し厳禁する…凡そ婦女が雄犬を連れ歩き、飼うものがあれば、
之を斬首して赦さぬよう取り締まれ!」
 これはどこの滑稽作家といえども、なんのネタも無しに書けるものではない。
 だが「古香斎」に収められた妙文は往々、奇詭に傾き、滑稽さは平常の文に如かず。
ただそれが平常な話しほど、滑稽さを増すということになると、
そういう点から言えば、私はやはり「甘い葡萄」の方を推薦する。
                   10月19日
 
訳者雑感:
 資産家の婿となって有名になったのは漢代の司馬相如と卓文君の物語が有名だ。
京劇のテーマにも皇帝の娘婿になって出世する話がある。
これは田舎から糟糠の妻が都に夫を探しに来て、夫だとすがるのを人違いだとする、
冷たい仕打ちを咎める筋書きだが。
 文筆で出世するには、資産家の婿になり、その力を借りて名を売る。
戦前の上海にはそんな手合いが結構いたのだろう。或いは親の七光とか。
魯迅は上海で生まれた子に対して、「いい加減な物しか書けないような作家にはなるな」
と戒めている。魯迅の息子というだけで、書いたものが売れるのだ。
今の日本にも誰それの子ということで本を出せば、買う人がいる。
書店はといえば、内容云々より、売れるかどうかが先に来る。
 滑稽な話である。
             2012/08/29訳
 
 
 

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突進 

突進   旅隼
 「推す」と「蹴る」ではただ一人か二人くらいしか殺傷できない。
沢山の人をとなると「突進」しかない。
 13日の新聞に、貴陽通信があり「9.18記念で各校の学生が集合デモをした。
教育長の譚星閣は驚きあわて、兵隊を街頭に派遣配置して、何台もの自動車を、
デモの列に突進させた。
 それで惨劇が起こり、学生2人死亡、40人余が負傷した。
内、正誼小学校の生徒が最も多く、年齢わずか十歳前後…。
 以前から、武将はたいていは文にも通じていて、「戈を枕に旦を待つ」時、
駢儷文の電報を打つということは知っていたが、
今回、文官といえども兵法に深く習熟している事がわかった。
(戦国時代の)田単(武将)は火牛作戦を使ったが、今自動車に代わった。
確かに20世紀である。
 「突進」はもっともすっきりした戦法で、自動車部隊を縦横から突っ込ませ、
直撃して敵を車輪の下で死傷させる。なんと直截なことよ:
「突進」は最も威武的な行為でもあり、エンジンを起動すれば猛スピードで、
相手は逃げようにも間に合わぬ。何とむごい英雄か。
各国の警備兵はホースの水攻めを好むが、
ツアーはかつてコザック騎馬隊を突進させ、常に快挙であった。
各租界では、外国兵が戦車を巡行させるのを目にする。
万一恭順な態度を示さぬと、これが突進してくる。
 自動車は突撃用としては利器ではないが、相手が小学生なら、
くたびれたロバは戦場では役に立たぬが、柔らかな牧草上を走るだけなら、
騎士も何ら叱咤せずとも、愉快に任に堪えるだろう。
人が見たら、なんという滑稽なことかと思うに違いない。
 十歳前後の子供が造反するなど、本来まったく滑稽としか思えない。
だが、我々中国には神童がよく現れ、一歳で絵を画き、二歳で詩を作り、
七歳で劇を書き、十歳で従軍し、十数歳で委員になるのもよくあることだ:
7-8才の女児も凌辱され、他の人には「芳紀まさに花開く」に見えるのだ。
 況や、「突撃」の時、対面にいるのが抵抗可能な相手なら、自動車もうまくゆかず、
突進者も英雄でもないから、敵は常に軟弱なのを選ばねばならないのである。
 ゴロツキが田舎から出て来た老人を欺き、西洋人が中国人を殴り、
教育庁長は小学生に突進する。すべては敵に勝つ豪傑だ。
「身をその突進に充てる」とは、かつては空言だったが、今や霊験あらたかで、
これは成人にだけでなく、子供にまで適用される。
「嬰児殺戮」は罪悪と看做されたのは過去のことで、乳児を空中に抛りあげ、
槍先で受けるのが、一種の見世物に過ぎないとされる日も遠くはなさそうだ。
    10月17日
 
訳者雑感:
 9.18記念日とは日本軍が旧満州を占領し、多くの中国人が満州の地を失った日だ。
それを奪回すべしとのスローガンでデモが行われた。
そのデモの中に十才前後の小学生もいて、教育長の命じた自動車部隊の突進により、
多くの死傷者が出た。というのがこの雑文を書かせた背景だ。
 ここ2週間、中国各地で尖閣諸島を返せとのデモが数十か所で起こっている。
中国で生産された日系自動車会社のパトカーが引っくり返され、日の丸も焼かれた。
2012年の今、中国政府はデモを管理しつつも暴発させぬよう慎重に抑制している。
反日デモはいつでも反政府デモに変じるからだ。
1933年の貴陽で、何を血迷ったのか、教育長が自動車部隊を小学生も参加している
デモ隊に突進させた。逃げ遅れた小学生の多くが死傷した。
教育長はデモ行進が自分たちに造反するのかと慌てふためいたのかも知れない。
私も1979年頃に上海で、大規模なデモに遭遇した。
トロリーが走っていた頃で、道一杯に広がったデモ隊が、そのトロリーの電線を切り、
上海の中心地の大通りを行進して、大声で叫んでいた。
デモは常に時の政府への不満を訴えるもので、うろたえた責任者はとんでもない弾圧に
向うことがある。それが惨劇を引き起こす。焼け焦げた死体が道に残る。
天安門事件の後、長安街の横断陸橋から吊り下げられた黒こげの死体が、
今なお目に焼き付いている。
    2012/08/26訳
 
 
 
 

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黄禍

黄禍  尤剛
 今日、所謂「黄禍」は、我々では「黄河の決壊」を指すが、
30年前はそうではなかった。
 当時は黄色人種が欧州を席巻するという意味に使われた。
何人かの英雄はこれを聞いて、ちょうど白人が以前「眠れる獅子」
と中国をおだてた時のように、何年間というもの得意になって、
欧州に行ってボスになろうと考えた者もいた。
 だが実は「黄禍」の由来は、我々が幻想したようなものではなく、
ドイツのウイルヘルム皇帝の発言に拠るものだ。
彼は一枚の絵を画かせた。それはローマ軍の装束を着けた戦士が、
東方からやって来た一人の男を防ごうとしているものだ。
その男は孔子でなくて、仏陀だったので、中国人はぬかよろこびだった。
 従って、我々は一面では「黄禍」の夢を見たが:
もう一方ではドイツ支配下の青島の現実を見た。
かわいそうな子が電柱を汚したので、白人の巡査に足をつかまれて、
中国人がアヒルにそうするように、逆さにされて連行された。
 現在、ヒットラーの非ゲルマン民族的思想を排斥する手法は、
ドイツの皇帝のやったことと同じである。
 ドイツ皇帝の「黄禍」については、我々はもはや夢想もせぬし、
「眠れる獅子」さえ持ち出さない。
「地大物博、人口が多い」というのも、もうあまり見かけない。
獅子ならどれ程大きく太っているか誇っても構わない。
だが、豚や羊では、肥大は良い兆しではない。
我々は今自ら何に似ていると感じているか知らない。
 もう何も考えぬようであるし、どんな「象徴」かも尋ねぬし、
今まさにHagenbeckの猛獣ショ―で、獅虎が牛を食うのを鑑賞し:
我々は、軍縮(会議)の「平和保障」に賛成するが、
ヒットラーの軍縮からの離脱にも敬服し:
他国が中国を戦場とするのを怖れるが、我々はまた反戦会議を、
憎んでもいる。(政府が上海での開催を拒否したことを指す)
我々はまだどうやら「眠れる獅子」のままのようだ。
「黄禍」は一転福とする事も可能で、目覚めた獅はサーカスもできる。
欧州大戦の時、我々は彼らに代わって懸命に働いた労働者がいたのに、
青島が占領されると、逆吊りにされる子供になってしまった。
 だが20世紀の舞台に、我々の役割が無いとしたら不合理である。
       10月17日
訳者雑感:
 「眠れる獅子」とは白人が19世紀の中国を指した言葉だと理解する。
アヘン戦争を始めたころのイギリスはこんな大国に戦争をしかけるなど、
おそるおそるだったろう。
日本も日清戦争の前までは清朝の力を怖れてもいたし、
明治天皇は、最後まで清国と戦争するのを避けようとしていたという。
 日清戦争の後では、「眠れる獅子」はこのまま眠り続けると見られ、
眠りから覚めても、弱くて戦う力さえない獅子のようにみなしていた。
 
 しかし魯迅の指摘するように、当初は白人もおっかなびっくりで、
今は眠っているが、起きだしたら大変凶暴になる怖れのある獅子だと、
認識していたから、眠れる獅子と呼んだのだろう。
 それをおだてだと思った中国人が、今度また黄禍と言い始めた。
黄色人が欧州を席巻するとの怖れを聞いて、得意になった者がいたという。
ドイツ人を始めとする欧州人の多くは、昔のフン族とかモンゴルのように、
アジア人のことを、禍をもたらす種族と考えていたようだ。
 
30年前の改革開放で世界の工場となり、米国はおろか、
欧州の多くの一般的工業製品を駆逐し、席巻したことが、
彼らの雇用機会を奪い、失業者をあふれさせた。
今日の欧州危機の引き金の一つになったことは間違いなかろう。
ドイツの高級自動車や一部の高級ブランド製品を除いて、
小さなものでは、百円ライターや文房具雑貨から始まり、
殆どの繊維製品、日用雑貨、太陽光発電機器など、
超のつく低価格の中国製品が欧州市場を席巻している。
 「黄禍」論を言いだしたドイツはその例外なのは興味深い。
ドイツ人は自国で生産した長持ちする製品を使い続けるのが好きで、
安ものの中国品を他の国のようには買わないからなのだろうか?
   2012/08/25訳
 

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