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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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反芻

反芻    元良
 「荘子」と「文選」の議論については、一部の雑誌にはもう直接この問題を、
みんなで研究するように取り上げなくなり、別の話題に変えてしまった。
彼らは「文選」に反対した人たちも自分ではかつて古文を書いていたのであり、
古書を読んでいたと嘲笑している。
 これはほんとにすさまじいことになった。
つまり「子の矛で、子の盾を攻めよ」だ――すみません、また「古書」だ!
 牢獄に入れられたことのない人は、牢獄の真相を知ることはできない。
偉い人のお伴か、或いは本人が偉い人なら、電話してから視察に行くと、
獄吏がとても愛想よく接し、罪人も英語を自在に話すのを視察するだけ。
詳細に知りたいなら、かつて獄吏だった男か、釈放された罪人に聞く事だ。
無論彼はまだ悪習から抜け出せていないが、彼が牢獄には決して入られぬように、
と忠告する言葉は、偉い人が、模範監獄の教育や衛生状態は、
貧乏人の家よりよほど完備して立派だという言葉より、ずっと信用できる。
 しかし牢獄の臭いがしみつくと、それが悪いことと言えなくなるそうで、
獄吏や囚人は、すべて悪い人で、悪い人はそれを良いとは言わない。
良い人が、牢獄は良いところだと言ってこそ、本当に良いのである。
「文選」を読んだことのある人が、それを役に立たぬと言うのは、
それを読んだことも無いのに、役に立つという人の言葉より聞こえが良くない。
反「文選」に反対する諸々の君子は、勿論その多くは読んだことのある人だろうが、
読んだこと無い人もおり――例を挙げると――
 『「荘子」は4年前に読んだが、当時完全には理解できなかった、…
「文選」は全く読んでいない』
それなのに、その文章の結末に言うには
『浴槽の水が汚れたため、赤子まで棄てようとする、この考えに我々は賛同しかねる』
(「火炬」参照)
彼は水中の「赤子」を助けようとしているのだが、「浴槽の水」は見たことが無い、
のである。
 五四運動の頃、文語保護者は、口語文を書く人は文語文も書けるのだから、
古文を読まねばならぬ、と説いた。
今、古書擁護者は、古書に反対する人たちも、現実には古書を読んでおり、
文語文も書いているではないか、という。その主張のおかしさが分かる。
永遠に反芻し続けて、自分で吐き出すことができない。
きっと本当に「荘子」を完璧に読みこんだのだろう。  
11月4日
 
訳者雑感:
 古文・古書の世界を牢獄に譬えている。
魯迅は子供のころから成人して以降も、その古書の牢獄に入っていたから、
そこから出ることが如何に大切かを訴えている。
と言いながらもしばしば古書を引用する。
「以子之矛、攻子之盾」はこれを口語に換えると間が抜けて聞こえる。
古書の世界が牢獄との主張が分からないので、初め何を言いたいのか分からなかった。
模範的な監獄を見て来た偉い人は、古文をたいして読んでもいないのに、
古文は文雅でこれを読まねばダメだという。
 しかし古文の世界にはまり込んで、反芻しかしないで、不要な部分をはきだせない。
それが、中国が西洋の新しい学問を取り入れるのを遅らせた原因・背景である、
と主張している。
 井戸に落ちた赤子は助ける、というのは人として当然のことだ。
しかし、浴槽の水が汚れたため、その中にいる赤子まで棄てるのには賛同しない。
この引用は、「文選」を読んだことのないと言う人が、
古書を十分読んだ上で、古書反対を唱える人たちの主張に賛同しかねるという意。
井戸のきれいな水の中に誤って落ちた子は救うのは当然のことだが、
汚れた浴槽の水の中の赤子は生きていれば当然救いだすのだが、
死んでいれば施すすべは無い。
      2012/09/14訳
 
 
 
 

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