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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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読書瑣記

        焉於

ゴルキーはバルザックの小説の会話のうまさに驚嘆し、会話を読むと、話し手が目の前にいる様に感じさせる。(8月「文学」<吾文学修養>)

 中国には、まだそんなすぐれた手段を持つ小説家はいないが、「水滸」と「紅楼夢」の一部には会話から人物が浮かび上がるような所がある。その実、これは何も奇特な事ではなく、上海の横丁に部屋借りすれば、時に体験できる。隣の住人と顔を会わせたことはなくとも、薄壁一枚隔てただけだから、その人の眷族や客の話し、特に大声のは、略みな聞こえ、永らくすると、そこにどんな人が居て、どんな人々なのか分かるようになる。

余分な点を省いて、各人の特色ある話しを拾い出せば、人々は会話から夫々、話しをしている人を想像できると思う。だが私はこれで中国のバルザックになれると言っているわけではない。

作者が会話で人物を表現する時、きっと彼自身の心中に、その人の様子が浮かんできて、そこで読者に伝え、読者の心にこの人物の様子が形成されるが、読者の想像した人物が、作者の想定した人物と必ずしも一致しないし、バルザックのちょび髭の痩せた老人は、ゴルキーの頭の中に移った時、粗雑で荒っぽいあご髭の男になっているかもしれぬ。

だがその性格、言動はきっと似ていて、大差なく、フランス語をロシア語に翻訳したものと同じになる。さもないと、文学は普遍性を失ってしまう。

 文学は普遍性があるとはいえ、読者の体験の違いで変化し、読者が似た体験がなければ、それは効力を失う。例えば「紅楼夢」を読む時、文字から林黛玉という人物を想像するが、梅(蘭芳)博士の「黛玉葬花」(京劇で、当時劇場に写真をかけていた:出版社注)の写真の先入観を排除すべきで、もう一人別の人を想像し、そうなると、多分髪を切った、インド更紗を着て、すらりとした、寂莫のモダ―ン・ガールになるかも知れぬし:或いは違った姿になるやもしれず、私には断定できない。試しに340年前に出版された「紅楼夢図咏」などの画像と比べてみると、明らかに違い、そこに描かれているのは、当時の読者の心目中の林黛玉である。

 文学は普遍性があるが、限界もあり:比較的永遠なものもある。が、読者の社会体験によって変化が生じる。北極のエスキモーやアフリカ中央部の黒人には、「林黛玉スタイル」は理解できぬと思う。また健全で合理的な良い社会にいる人も理解できないだろうし、彼らにとっては多分、我々が始皇帝の焚書や黄巣の殺人の話しを聞くことより更に大きな隔たりを感じることだろう。一旦変化があれば、永遠ではなく、文学だけが仙骨があるというのは、夢見る人の戯言だ。       86

 

訳者雑感:

 文学は普遍性があるが、時代の変化に随って変わってゆくし、それを受け止める読者の場所・社会によっても大きく変わるということを言いたいのだろう。

 確かに中国人は歴史的人物や物語の登場人物を大好きな「京劇」の役者の隈取りとか、女性ならその化粧した顔と衣装で「パターン化」してしまって、なぜかそれが永久に不変なもののように考えている。そうではない。たかが340年前の「紅楼夢図咏」の絵図と、梅博士の写真とは大いに違う、と魯迅は言う。今見ている者が永久不変だと思い込んでしまっている人々への警鐘か。

 アフリカ中央部の黒人には「林黛玉スタイル」は理解できないだろうと言う点について、アフリカ中央部のキリスト教徒の思い描く聖母マリアは自分たちと同じ黒い肌のマリアだ。

そして又欧洲の教会に置かれている聖母マリアは白い肌だが、エルサレムのマリアは白でも黒でもなかったはずだ。場所により、読者の体験により、イメージが変化するのは当然のことだろう。

     2013/06/05

 

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文を作る

           朔尓

 沈括(北宋の人)の「夢渓筆談」に云う:「往年の士人、多く対偶を文にするのを尚とび、穆修・張景(いずれも北宋の人)輩が初めて平文を為し、当時之を‘古文’と謂う。

穆・張はかつて同じ朝を造り、旦を東華門外に待ち、文辞を論じ始めると、奔馬が犬を踏み殺したのを目にし、二人はそれぞれその事を記し、巧拙を比べた。穆修曰く:‘馬逸走し、黄犬蹄に踏まれて斃すあり‘張景曰く:‘犬奔馬の下に死すあり’。時、文体に新しい変化あり、二人の語はみな拙でこなれてないとされたが、当時すでに之を巧みと謂い、今に伝わる」

 駢文後は、唐虞三代は不駢で、「平文」を「古文」と称したのはこの意味である。ここから推すと、もし古人の言文が真に不分であるならば、「白話文」を「古文」と称すとしても、不可とすべきところは無いようだが、林語堂氏のいうところの「白話的文言」の意味するところとは違う。両人の大作は単に拙でこなれてないのみならず、先ず主旨が同じでなく、穆説では馬が犬を踏み殺しただが、張説は犬が馬に踏み殺されたで、結局馬に重きを置くか、それとも犬か?明らかに穏当なのは、やはり沈括の何の作為も無い「奔馬あり、犬を踏み殺した」だ。

 古い物を倒すには力が要るし、大きな力が必要で、「やろう」、大いに「やろう」とすると、単に「こなれてない」だけでなく、時にはまったく「それぞれが吐き出さない」で、早くから古人が円熟させて「やって来た」古い物より悪くなる。

字数も論旨も制限ある「花辺文学」の類は、特にこのこなれていないという欠点を生じる。

 やり過ぎはダメだが、やらないのはもっとダメだ。太い丸太と4本の小枝で長椅子を作るのは、粗雑さを免れず、やはりカンナをかけねばダメだ。しかし全体に、装飾彫を施して、中を空洞にしてしまうと、坐れなくなり、長椅子にはならない。

ゴリキー曰く:民衆語は半製品、それを加工したのが文学。これは大変正しいと思う。

             720

 

訳者雑感:言文一致、これが究極の口語の文章化、文字表現である。

出版社注によると、胡適は古代の中国人は「言文不分」(言と文が分かれていない)で、彼が1928年に出版した「白話文学史」に:「我々が古代文学を研究して分かったのは、戦国の時には、中国の文体はもう語体(話し言葉)と一致できなくなっていることだ」彼の意味するところは、戦国以前の文体と語体とは合一だった、と。

 これに対して魯迅は異なる考えを持ち、「且介亭雑文・門外文談」で言う:

「私の憶測だが、中国の言文は昔から今まで一致であったことはなく、大きな理由は、文字が書きにくいから、省略するほかなかったためだ。当時の口語の摘要が古人の文で:古代の口語の摘要が後の人の古文である」

 要するに、胡適は戦国以前の古代人は言文一致とするに対し、魯迅は古代から現在まで、口語の摘要が文語だとする。

 その通りだと思う。民衆の口からでる言葉は半製品でそれを加工して摘要を文字にするのが文学である。

芝居や落語など、口から発せられる言葉は、民衆の口から出ている言葉を、演劇や落語の作者が、加工して文字にしたものをもう一度役者の口から声に出させている文学だろう。

      2013/06/03

 

 

 

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冗談は冗談に過ぎない(下)

                    康伯度

口語討伐のもう一つの新軍は、林語堂氏だ。彼が討伐せんとするのは、口語の「却って分かり難い」点ではなく、口語の粗雑な点で、劉氏のように「質朴に返して真に帰す」ようにしようとの考えも全く無く、意を達するのは、只「語録式」(口語的な文語)しかないとの考えだ。

林氏が口語を使って武装して登場したころ、文語と口語の闘争はすでに終わっていて、劉氏のようにではなく、自らも混戦を通って来たため、この為、懐旧の思いと、末流になったことを慨嘆する気持ちを免れぬ。彼は閃くやいなや、宋明の語録を「ユーモア」の旗の下に置き、元々は大変自然であった。

この「ユーモア」は「論語」45期に「一枚のメモ的な書き方」で、彼は木工師に桐油と石灰を混ぜたパテを要求しようとして、語録体のメモを書いたが、他の人が、彼は「口語に反対している」と批判するのを心配して、口語と文選体と桐城派の三種で書いたが、全ておかしなことになり、結果は、「ボーイ」を使って、木工師にパテを求めることになった。

「論語」は流行した雑誌だから、ここでは面倒な引用は省く。要するに:おかしくないのは語録式の一枚のみで、他の3種は全て要を得ない。だが、この4つの異なる役割は、実はみな林氏一人が演じたもので、一人は主役(シテ)即ち「語録式」で他の3人は道化で、鬼の面を付けた怪相を演じ、主役とはまさに非凡に融合した。

 だがこれは「ユーモア」ではなく「おふざけ」で、市井の壁に描かれたカメで、背中に彼の嫌いな人物の名を書くやり方と同じだ。しかしそれを目にした人は往々、是非を問わず、書かれた者を嘲笑うだけだ。

 「ユーモア」或いは「おふざけ」は結果を出そうとするもので、もしそれを読む人の心がその意味を知らなければ、単なる「おふざけ」になってしまう。

 事実は文章に如かずということもあり、例えばこの語録式メモは中国でも、この種は断絶していない。閑が有れば上海の露地に行けば、時々露店で目にする。一人の文人が、男女の労働者のために代筆しているが、彼の文章は林氏のメモのように簡単には理解できぬが、明らかに「語録式」だ。これが今新たに提起された語録式の末流だが、誰も彼の鼻を白く塗りにゆかない。(道化役の意)

 これは具体的な「ユーモア」だ。

 だが、「ユーモア」を賞識するのは、実に難しい。かつて生理学的に、中国で尻を叩く事の合理性を証明したが:尻が排泄と坐る為だけなら、これほど大きくならなくても良い。

足底ももっと小さくても十分体を支えられるではないか?我々はもうかなり以前から人肉を食わなくなっており、肉もこんなに多くなくて良い。では、専ら叩くために供されるのか?ある時、人にそう言ったら、大抵の人は「ユーモア」と思った。だがもし本当に叩かれた人、或いは自分がそれに遭遇したら、きっとその反応は、そうではないと思う。

 しかたない。国民の皆が意に適わぬときは、きっと最後は「中国にはユーモアが無い」ということになってしまうのだろう。

       718

 

訳者雑感:出版社の注によると、この当時提唱されていた「白話文(口語文)」は、民衆の生活から離脱していて、読んでもよく分からないものだったという。古文の方がよほど分かりやすいという状況にあった。

そういう状況で、林氏などが「語録体」という文語を提唱して、「ユーモア」を取り入れようといろいろなものを発表した。しかし、国民がそのユーモアを味わえるような状況にはない。即ち、国民みなが意に適わぬ生活を余儀なくされているから、それを楽しめるような段階に至っていないから、単なる「冗談」「おふざけ」にしかすぎなくなっていた。

最後の尻の肉の役割についての「ユーモア」は、余裕のある時の読みものとしては面白いものだが、現実にしごかれて尻を叩かれた人、それが1934年の中国の現実であってみれば、その反応はおのずと違うだろう。

2013/06/02

 

 

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<付録>   文公直から康伯度への書簡

伯度様:

今日貴方が「自由談」に寄稿した大作拝読。西方人の侵略のお先棒を担ぐ急先鋒(漢奸)はなお多く、貴方も欧式文化の流行は、その「必要」があるからだとのお考えと知りました。私もこれにどう話を進めたらよいか分かりません。中国人は役に立たないとはいえ、話す事はできます。どうしても中国語を無くそうとして、田舎者にもミスターと言わせるようなことは、中国文化上「必要」とは言えません。華人の話しかたに照らして言えば:

張甲は「今日は雨だ」と言い、李乙は:「ああ、涼しい」と言う。もし論理的な主張を大事にするなら、「今日は雨が降る」と張甲が言った。「涼しくなった、――そうです」と李乙は言った。となるが、これが中華民国全族に「必要」かどうか? 一般的に言って、翻訳の大家の欧化文は中国と西方の文化の交流を阻害してしまい、原文を読める人までも、翻訳を分からなくさせています。そして貴方の言われる「必要」が加わって、これからは、中国で読める西方の書物もなくなってしまう。陳子展氏の提唱する「大衆語」は、疑う余地のない真理です。中国人は中国語を話すべきというのは絶対正しいです。

だが貴方はどうしても欧化文法が必要という!なるほどお名前からして「康伯度」(コンプラドール)で真に「買弁心理」を十二分に表している。劉半農氏は言う:「翻訳は外国語の読めぬ人が読めるようにするため」:これは確かに動かぬ定理だ。それなのに、貴方はその半農を凄まじく罵る。中国人全てにとって、欧化文法を「必要」なものにしなければならない、と考えておられる!

今とても暑いですから、休んで下さい!帝国主義が華人を絶滅させる毒瓦斯は数えきれないほどあります。貴方は買弁になろうとするなら、ご自由にどうぞ。ただ、全民族を売らないでください。私は転倒式の欧化文の分からぬ愚人です!貴方の盛意ある提起をみて、貴方は殆ど我邦の人ではないのではと疑います。今特に、なぜこうした文化の毒瓦斯をまかれるのか、をお尋ねしなければならないという責任を痛感します。帝国主義者の指図を受けているのですか?要するに、449百万人(陳氏を除く)の中国人は貴方の主張を学ぼうとはしません!注意下されば幸いです。

    文公直  725日     87日「申報」「自由談」

 

康伯度、文公直に答える

公直様:中国の文法を少し欧化しようというのが私の主張で、決して「必ず中国語を取り消そう」と言うのではなく、また「帝国主義者の指図を受けて」もいないのに、貴方が私を即「漢奸」の類の重罪を着せ、自分は「449百万人(陳氏を除き)の中国人」を代表して、私の首を切ろうとしている。私の主張にも間違いが有るかもしれませんが、即死罪を判定するのは、時流に乗っているかもしれぬが、やり過ぎのようにみえます。況や、449百万人(陳氏を除き)の中国人」の意見は必ずしも貴方と同じとは限らないと思うし、貴方も同意を求めていないから、代表を詐称しています。

 中国文法の欧化は決して外国語に改めると言うのではないのですが、こうした粗浅なことをこれ以上貴方と談じようと思いません。私は暑いのは平気です。だが無聊なためです。

しかしやはりもう一度言うと:私が中国文法には些か欧化の必要ありと主張します。この主張は事実から来るのです。中国人は「話す事は問題なくできる」その通りだが、前進しなければ、すべて昔のままではいけません。目の前の例を挙げると、貴方の数百字の手紙の中に、「…に対して」を2回使用しているが、これは古文とは無関係で、後に直訳の欧化文法から始まったもので「欧化」という2字すら欧化された言葉です:更に「取消」と言う言葉を使っているが、これは純粋な「日本語」です:「瓦斯」はドイツ語そのものを日本人が音訳したもので、すべて適切に使われており、且つ「必要」です。例えば「毒瓦斯」を中国固有の「毒気」と書くと、不明確で、瓦斯弾の物とは限らない。従って「毒瓦斯」と書くことが確かに「必要」である。

 貴方は自身の姿を鏡で見ないで、無意識のうちにご自身も欧化文法を使っていることを証明しており、鬼子(日本人を含む外人)の名詞を使っているが、貴方は決して「西洋人侵略者の手先の急先鋒(漢奸)」ではないから、このことから、私もその一味では無いことを証明したいと思う。さもなければ、貴方は口汚く罵ってみても、それは真っ先に自分の口を汚すことになります。

 思うに、事を弁ずるに、威嚇と誣陥(根拠なしに陥れる)は無用で、筆を執る人は、直ぐ疳癪を起こして、私の命をとろうとするのは、さらにおかしなことです。貴方はやたらにわめき騒ぐことは止めて、静かに自分の手紙を見なおして、ご自身の事を考えてみてはいかがですか。

 返信まで、 暑さに御留意ください。

     弟康伯度、 脱帽してお辞儀。

           87日「申報」「自由談」

 

訳者雑感:以前にも書いたことがあるが、元や清という異民族に支配された時に、支配階級の話す「モンゴル語や満州語」の語法に引きずられて、多くの「新型語法」が生まれた。

モンゴル語はさておいて、満州語は日本語に近い語法で、SOVになるので、彼らの話す漢語は「我+飯+吃(食う)」となり、我と飯の間に何かを入れないと通じにくいので把握の把という字を入れるようになった。我把飯吃了でそれまでの我吃飯了と逆になった。

 そうした話し言葉では外国語法を取り入れながらも、書き言葉としての漢語は昔のままの状態が「最も簡潔で要領を得ている」として保存されて来た。我々の先輩たちが、話し言葉は通じなくても、「筆談」で意思が通じたのはこのためだ。

 魯迅は中国で最初の口語小説を書いたが、それから20年近く経っても、やはり多くの国粋主義者たちは、中国語の欧化を排斥してきた。特に文章にするとき、会話文の『』の後に、Obama saidとかsaid Obama.という形式を例にとり、孔子曰く:を『』の後に置くのは反対だというのが、劉氏の意見であった。

「今日は雨が降る」と張甲が言った。というのは、確かに中国語的ではない。だが、欧化した語法と新しい語彙を沢山採り入れなければ、前進しない。進歩が無い。この辺の争いが伝統を守ろうとする人達と魯迅達との戦いであった。

 イギリス人の友人と話していて、日本語と英語の共通なところは、大陸から沢山の語彙を各時代ごとに沢山輸入してきた結果、一つのこと、ものに沢山の外来系の名詞が付けられ、覚えきれないほどだという点だった。

例えば牛肉の牛はOx,Cow…などに加え、食べる対象としてはBeef…などのフランス語。

フランス語以外にもドイツ語、スペイン語、ラテン語などたくさん受け入れており、イギリスの子供にとって、それらのニュアンスの違いを学ぶのが大変だという。

日本語も牛(ぎゅう)といい、うし、とか牛舎、牛肉というが、ビーフもとりいれて立派に日本語として通じる。韓国語も入れているし、イタリアとかスペイン・ポルトガル語由来の言葉も多い。

 文化は辺土に存す。

大陸から風で吹き寄せられた多くの言葉と文化が、日英両国に存すようだ。
2013.5.31

 

 

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冗談は冗談でしかありえない

冗談は冗談でしかありえない

                 康伯度(コンプラドールの漢字訳)

劉半農氏が忽然病死され、学術界は又一人の人材を失った。惜しいことだ。しかし私は音韻学に詳しくないので、毀誉のいずれも発言する資格は無い。だがこれで別の事を思い出したのだが、現在の口語文が、「良い物は残し、それ以外は棄てる」される前に、彼は早くから当時の口語文、特に欧化した口語文に対しての、偉大な「真正面からの痛撃」者だった。

 彼はかつて手間を極力省きながらも、有力な妙文を書いた:

 『今一つ簡単な例を挙げると:

  子曰く:「学びて時に之を習う、亦悦しからずや?」

  これはとても古臭くてよくない!

 「学びて時に之を習う」子曰く、「亦悦しからずや?」

  これはいい!

 「学びて時に之を習う。亦悦しからずや?」子曰く。

  これは更によい。なぜ良いか?欧化しているからだ。

 だが「子曰く」は「曰く子」までは欧化しきれていない』

 この一段は「中国文法通論」にあるが、それは真面目な本で:

作者は「新青年」の同人で、五四時代「文学革命」の戦士だったが、今又古人になった。

中国の古くからの慣習では、死は常々その人の価値を上げるから私は新たに提起しようと思い、且つまた彼もついに「論語」社の同人になり、時に「ユーモア」を免れなかったが:

元々「ユーモア」を持ってはいたが、それらの「ユーモア」は、常々、「おふざけ」という暗渠に落ち込んでいたのも免れなかった。

 実例は上記の通りだが、その論法は頑迷な人や、市井の無頼が、青年が洋服を着て、外国語を勉強するのを見て、冷笑して:「惜しいかな、鼻は低いし、顔も白くない」というようなことをいうのと、何ら変わらない。

 勿論劉氏が反対するのは「極端な欧化」だ。だが「極端」の範囲とは何か?彼が挙げた前の3つの語法は古文には無いが、話し言葉にはありうるし、人と話す時は、みな通じる。

ただ、「子曰く」を「曰く子」とするのは、けっして通じない。しかるに、彼は欧化文反対の文から実例を探せないので、やむなく、「子曰く」を「曰く子」などというような欧化はできないと言ったのだ!それでは、これは「的もないのに矢を射た」ことではないか?

 欧化文法が中国の口語に入って来た大きな理由は、何ももの好きのためではなく、必要だったからである。国粋学者は外国人の気風を毛嫌いするが、租界に住んで、「Joffre路」Medhurst路」などという怪しげな地名を書き:評論家も好き好んでするわけではないが、精密に表現しようとすると、固有の口語だけでは不十分だから、外国の句法を使うしかない。分かり難いものは、お茶漬けのように一気に飲みくだせないのは本当だが、その欠点を補うは精密さだ。胡適氏が「新青年」に書いた「イプセン主義」は、近頃の文芸論文に比べると、確かに分かりやすいが、我々は却って粗で浅く、おおざっぱという感じを受けないだろうか?

 欧化された口語を話す人を嘲笑うなら、嘲笑うだけでなく、もう一度外国の精密な論著の紹介を試み、勝手気ままな改変や削除をしなければ、きっともっと素晴らしい規範を作ってくれるだろう。

 冗談で敵に対応するのもひとつの戦法だが、相手に致命傷を与えるようにしなければ、冗談は単なる冗談で終わってしまう。   718

 

訳者雑感:魯迅のペンネームは論敵の林黙が魯迅の文章を「買弁」の書いたものだと批難したことを逆手にとって、Compradorコンプラドールの漢音訳である。

国粋主義的な文人が、外国の語法や文法を採り入れるのに大反対している状況に対して、文章の精密さを求めるためには、外国(欧化)の語法を採り入れねばならないと主張する。

中国の近代化の過程で、おびただしい数の外国の言葉・概念が輸入された。それを従来の文語文に直して通じさせようとするのは、「粗で浅く、おおざっぱ」になってしまう。

精密に・厳格に伝えようとしたら、やはり勝手気ままに、昔からある文語に引きなおすのではなく、精密に外国語の「意味・ニュアンス」をとらえて、厳密に訳語を作りださねばならない。

欧化を推進し日本語訳経由でおびただしい数の日本語漢字語句を採り入れて来た。共通の言葉が沢山あって、中国語学習者には便利ではあるが、手紙とか怪我などは全く意味が異なる点を注意せねばならない。電視とか電脳などは日本が輸入しても良いではないかと思う。テレビは良いとしてもコンピューターとかパソコンより字数を減らせる。

作愛など英語からの直訳語は、SVOの語法の中国語の発想の方が、日本語より近いものがあり、V+Oの外来語は登山・読書と同じ感覚で、日本も輸入したら良いと思う。

2013/05/28

 

 

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詩人周恩来 10)

10)蓬仙兄の郷里に返るを送りて、感あり。

これは1916年作で、「敬業」第4号に掲載された。孤雁は寥(ひろき)天に入る、という句があり、これが林さんの本の題名とされた。これも、<訳詩>のみ。

 

 相逢う萍水(みずくさ)も亦前世の縁か、

 笈を負い、天津の門に来しも、あに偶然ならん。

 虱(しらみ)をひねり、熱談し、四座を驚かす、

 蟹を手に、酒を注いで、当年のことを語り、

 危険なときも、平安な時も、平然と嘗胆し、

 争って道義を担い、肩を休めんとはせず、

 帰農して、功が満ちる日を待ち、

 他年、預卜し(予測して占い)良い人の隣に家買う金を蓄えん。

 

 東風は異客を催し、

 南浦に別離の歌うたう。

 目を転じれば、ひとは千里を行き、

 消魂は一柯(斧)の夢、

 星離れ、恨みを成し、

 雲散じ、この愁い奈何せん。

 欣喜の前塵は影となり、

 縁(ゆかり)のことば多し。

 

 同輩は競い疾走するに、

 君独り、先鞭を着く。

 事を転嫁する儂(われ)の拙さを憐れみ、

 急流には、尓(なんじ)の賢に譲る。

 群飛ぶ鴉は、夕暮れに樹木を恋し、

 孤雁は寥(ひろき)天に入る。

 惟交遊の旧(ふる)きことあればこそ、

 岐(わかれ)に臨み、意(こころ)惆然(ちょうぜん)。

 

     2013/05/26

訳者雑感:

 周恩来が京都に9日いた時に作った詩は、きっと彼を船に乗せて琵琶湖に下る時に見送ってくれた京都の友に贈ったことだろう。これは留別の詩。そして彼が天津の検察庁の看守所から、渡仏する李さんに贈った詩、そしてこれは「寥(ひろき)天」に飛び立つ孤雁に贈った詩。送別の詩。彼は中国伝統詩の精神を受け継ぎ、安西に使いする元二とか、黄鶴楼を去る孟浩然への詩とかの気持ちを表す「やさしさ」に満ちていると思う。

(完)

 

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詩人周恩来 9)

9) 生別死離(生き別れと死別)

 1922年作、1923年に天津の<新民意報・覚郵副刊>に掲載された。

 注によると、21117日、「覚悟社」同志の黄愛が長沙の紡績工場のスト指導で、反動派に殺害されたことに対して、周恩来は友人宛に手紙を書いて、「壮烈にして悲痛」と彼へのはなむけの詩を送った。これも長いので、<訳詩>のみとする。

 

  壮烈な死、

  姑息な生。

  生をむさぼり、死を怖れるは、

  死を重んじ、生を軽んじるに如かず!

 

  生別死離は、

  最も堪えがたきこと。

  別れれば、腸を牽かれ、はらわたを引き裂かれる思いだが;

  死しても、毫(ごう)も軽重を感じないなら、

  人を感動させる永別に如かず!

 

  耕運せずして、

   どうして収穫があろうか?

  革命のタネを植えずして、

   共産の花開くを待つとは!

  赤色の旗の飛揚を夢想しつつ、

   鮮血でそを染めようともしない、

   天下いずこに、そんなうまい話がありえよう?

  坐って談じるは、

   立ちあがって行動するに如かず!

  生を貪る人も、

   別離を悲しみ傷み、

   死生に随うが、

   只彼らは、この人を感動させる永別を理解できない。

永別が人を感動させることを。

 

  人に希望を託すのはやめよう!

  生か死かの路は、

   各人の目の前にある、

  光明に向って飛ぶのは、

   すべて君次第!

  その黒い鉄の鋤をふりあげ、

   あのまだ耕運されていない土地を拓くのだ:

  タネをこの世に散じ、

   鮮血を地上に滴(したた)らそう。

 

  別れは人の常、

   さらには永別もある!

  生死の奥義を極め、

   生の為に力をつくし、

   死の為にさらに力をつくせば、

   それで永別になるとても、何を悲しまん?

 

     2013/05/25

 

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詩人周恩来7-8

7)次皞如夫子傷時事原韻   191611月原載<敬業>第5

 茫茫大陸起風雲、

 挙国昏沈豈足云、

 最足傷心秋又到、

 虫声即即不堪聞。(即の左に口:鳴き声)

<訳>

 皞如夫子の時事を傷む詩の原韻に和して、

 茫々とした大陸に、風雲巻き起き、

 国中が混沌だと、あに言うに足らんや、

 最も心痛むは、秋の又到りしこと、

 虫の鳴く音も聞くに堪えない。

 

 本文の注に依れば、これは皞如さんの「時事を傷む」という詩の韻に和したもの。

張皞如さんの詩の大意は、張勲の復辟に憤って作ったもので、太平の希望が雲煙と消え、国を誤った者どものことを何と言ってよいか。毎日新聞を読むことが恐ろしい、と。

虫の声というのは、チーチーと張勲への抵抗を言うだけで…。

行間には、チ―チ―と鳴くだけでは何もならない、行動に移さなければ…、と。

                                   2013/05/23

 

8)李愚如を送別し、併せ述弟へ示す。

(これは長い詩というか、手紙のようなもので、天津河北女子師範の学生活動家の

 李錫志の渡仏を天津地方検察庁看守所から、民国968日に作ったもので、

 述弟は周恩来の級友:長いので漢字の原詩は省略し、訳詩のみとする)

 

 三カ月会わなかった間に、

すごく進歩したね、

 だいぶ前に、念強君が来て、

   君がイギリスへ行く予定だと言った。

    私は、また口だけだと思っていた。

 その後、丹文が又来て言った。

   君がフランスへ行こうとしている、と。

    私はまた口だけだと思っていた。

 まさか、その数日後、

   君が僕に別れを告げに来て、

   僕に直接そう言った;

     君は行けるんだね、

     君は本当に行くんだね。

 

 述弟が手紙で知らせてくれた、

   君から彼への手紙で、

    「……私は人間なのだから、

    働いて自分で食べて行ける、

    何があろうとも、

    異郷で飢え死になぞしない!

  分かってね!

   幸福は自分でつかむもの:

 

  切り株のそばで(兎を)待っていても、

  一日の……を得ることはできないわ」

 

  君は別れの時にも、私に言った:

   「……四等車の切符を買って、

    三等船室に乗り、……

    …働きながら勉強するの、

   一年勉強して、

   労働と勉強で自力で生きて、

   …応用理化学を研究するの:

   私の志は、

    私たち女性の生計独立をひらき、

     精神的独立の自由な道を開くこと:

    私たち女性の人権天賦をまもるの。……」

 

 君の精神

  君の決心、

  君の勇敢、

 勃々たる向上心を思う。

  すべては君の奮闘と決意にかかっている。

  国を出て、

   東海から南海、紅海、地中海へと進む。

   次から次へと逆巻き奔騰する荒波が、

   君をかの自由のふるさと、フランスの海岸に送り届ける、

  そこに着いたら、

     工具をにぎり、

     君は労働の汗を出し:

     輝かしい成績を挙げる。

   君は才智を磨き、

   君の天真爛漫さを保て。

 他日帰国したら、

 自由のタネを植え、

 独立の歌をうたえ。

  女権を争い、

  平等を求め、

   社会的実験を推し進め、

  古い倫理をくつがえすのだ、

  世界は君のその心頭の一念にかかっている。

 

  南京を過ぎると、

   述弟に会えるさ:

  下関駅で家族のことを思い、

   黄浦江畔で、

  しばしの別れはつらいけれど、

  同じ世界にいるのだから、

   離れ離れなどと嘆くことは無い。

  ましてや、情念は綿々とし、

 「ハスは切れても糸で繋がっている」

  二ヶ月後に、

 新大陸に述弟の足跡が見られるだろうし、

  大西洋の荒波も、

  君たちの書翰を断つことはできぬ:

  二つの無線電信塔は、

  東西の両岸に高々と聳え、

  天空をかけて気を通じることができる。

 

  三ヶ月後、

   マルセーユの海岸で、

    パリの郊外で、

     私も或いは君に会えるかもしれぬ。

   道中気をつけて!

 

  君は本当に行くんだ。

  行けるようになったんだ。

  三ヶ月君に会えなかったが、

   こんなに早く進歩したんだね。

  ―――

    九、六、八、午後、恩来作

    於天津地方検察庁看守所。

 

(追信)

 愚如:

  君の去るのを見送ることができない。詩を書いて君を送ろう!

  今日午後四時から始めて、六時半にやっとできた。

  この詩は私の詩集の中では「上の中」だと思う。どうだろう?

  南京に着いたら、述庵に見せてほしい!

  船がまだ着いてないなら、君の「天賦」で、僕の詩に和してみないか?

   さらば、お別れだ!

   三ヶ月後、或いは君に会えるかもしれない、そう願う。

   天安(人名)も君に一首送るよ!

         周恩来、九、六、八、

 

注では、192011月に周恩来は陶念強とともに渡仏し、「勤工便学」を始めた。

   2013/05/24

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詩人周恩来 5-6

(5)春日偶成

 これは1914年、周恩来が16才の時、天津の南開学校時代の作品で、ここにも桜が出て来るが、当時日本も租界を有し、多くの日本人が住んでいたから、彼らが植えたものか。

 極目青郊外、

 煙霾布正濃。

 中原方逐鹿、

 博浪踵相踪。

 

 桜花紅陌上、

 柳葉緑池辺。

 燕子声声里、

 想思又一年。

 

<訳>

 目を極めれば、青い郊外の彼方に、

 (戦火の)黒煙あがるが見える。

 中原(中国の中心)、まさに鹿を逐う、

 博浪(ロクでもない輩)が踵を接して次々と。

 

 桜花の紅が路傍に咲き、

 柳葉の緑は池の辺に映える。

 燕のさえずりを聞きながら、

 又想い思うこの一年。

訳者雑感:

 これも1914年に発行された雑誌に残っていたものの由。

多感な16才の周恩来が天津で目にし、耳にしたのは、孫文が亡命し、袁世凱が正式大総統になったのが13年の10月。国民党は翌11月に解散された。15年には日本の21カ条へと続く情勢だった。

 今PM2.5で問題にされている漢字は霾(バイ)で呼吸を困難にするほどの煤煙だ。

彼が天津を拠点とする袁世凱たちが、孫文や軍閥を相手に、辛亥革命後の中華民国を自分のものにしようと、自分が皇帝になろうとしていた時代だ。

 博浪とは時流に乗って、天下を取ろうとする者の謂いか。

 

そんな物騒な世情だが、彼は桜と柳を路傍と池の辺に見、燕がまたやって来たと……。

                                         2013/05/16
1919年の周恩来

6)無題       19179月作

 

 大江歌罷掉頭東、

 邃密郡科済世窮;

 面壁十年図破壁、

 難酬蹈海亦英雄。

 

<訳>

 大江の歌罷(おわりて)、頭を東にふりむけ、

 科学を究めて、窮せる世を救済せんとし;

 面壁十年、壁を破らんとせしも、

 酬われ難くして、海に投ずるも亦英雄なり。

 

上の写真は1919年天津に戻り、五四運動のころの周恩来

林さんの解説によると、周恩来は19179月渡日。この詩は投身自殺した陳天華の大義に感じての由。

                            2013/05/22

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水性

                         公汗

連日の猛暑が20日近く、上海の新聞に連日のように川で水浴中に溺死の記事が載る。これは水郷ではめったにないことだ。

 水郷は川が多く、水に対する知識も多く、泳げる人も多い。泳げぬ者は軽々に川に入らぬ。この水泳の要領は、俗語に「水性を知る」という。

「水性を知る」を(論敵が魯迅に与えた呼称である:訳者)「買弁」の口語で詳解すると、

1.火が人を焼死させること、水もまた人を溺死させることを知るが、水は柔和に見えるから、近づきやすく、その罠にはまりやすい。

2.水が人を溺死させるが、人を水に浮かばせることもできるから、今その操縦法を講じて、水が人を浮かび上がらせる面を利用する。

3.それで、その操縦法を学び、習熟すれば「水性を知る」ことは完全になる。

 しかし都会の人は、浮かべないだけでなく、水が人を溺死させることをすっかり忘れたようだ。平時に何の準備もせず、水に入る時にも、予め水深を測りもせず、暑くてたまらぬ時、服を脱いで跳び込み、不幸にして深い所だと即死ぬのは当然だ。しかも助けようとする人は、都会では田舎より少ないように感じる。

 都会人を助けるのは難しいことで、救助する人は固より「水性を知る」べきだが、助けられる人もそれなりに水性を知っていなければならぬからだ。力を抜いて、救助者に自分の下あごを託し、浅い所へ引っぱって行ってもらうこと。性急に救助者の体に這い上がろうとすると、救助者がそれほど上手くないと、自分も沈んでしまうしかない。

 従って、川に入る時、先に水泳を学ぶ時間を作るのが大切で、何も公園のプールに行く必要はなく、岸の近くでやればよい。但し玄人の指導を受けること。そして色々な事情で、水泳を学べぬ人は、竹竿で水深を測り、浅い所だけにする:一番安全なのは水を掬って、川辺で浴びること。一番重要なことは、泳げない人は溺死する危険があることをしっかり認識し、覚えて置くこと。

 今さらこんな常識を宣伝せよと主張するのは、発狂したようだし、或いは「花辺」の為に(銀貨の為:出版社)のようにみえるが、事実は断然そうではないことを証明している。多くの事は進歩的評論家に気を使って、こうしたことに目をつぶり、大言壮語ばかりしていてはダメである。      717

 

訳者雑感:魯迅は身辺に起こったことを新聞の記事から丹念に拾っている。

上海に来た人々が、魯迅の故郷のような「水郷」からではなく、川の少ない内陸から来て、泳げぬ人が猛暑の7月に川で水浴中に溺死が多発したことについて、「常識」としての水の性質を説明・宣伝している。発狂した訳でもなく、これで「銀貨」を貰う為でもない。大言壮語の論文より、身近な人命に係ることを取り上げたのだろう。

      2013/05/22

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