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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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文を作る

           朔尓

 沈括(北宋の人)の「夢渓筆談」に云う:「往年の士人、多く対偶を文にするのを尚とび、穆修・張景(いずれも北宋の人)輩が初めて平文を為し、当時之を‘古文’と謂う。

穆・張はかつて同じ朝を造り、旦を東華門外に待ち、文辞を論じ始めると、奔馬が犬を踏み殺したのを目にし、二人はそれぞれその事を記し、巧拙を比べた。穆修曰く:‘馬逸走し、黄犬蹄に踏まれて斃すあり‘張景曰く:‘犬奔馬の下に死すあり’。時、文体に新しい変化あり、二人の語はみな拙でこなれてないとされたが、当時すでに之を巧みと謂い、今に伝わる」

 駢文後は、唐虞三代は不駢で、「平文」を「古文」と称したのはこの意味である。ここから推すと、もし古人の言文が真に不分であるならば、「白話文」を「古文」と称すとしても、不可とすべきところは無いようだが、林語堂氏のいうところの「白話的文言」の意味するところとは違う。両人の大作は単に拙でこなれてないのみならず、先ず主旨が同じでなく、穆説では馬が犬を踏み殺しただが、張説は犬が馬に踏み殺されたで、結局馬に重きを置くか、それとも犬か?明らかに穏当なのは、やはり沈括の何の作為も無い「奔馬あり、犬を踏み殺した」だ。

 古い物を倒すには力が要るし、大きな力が必要で、「やろう」、大いに「やろう」とすると、単に「こなれてない」だけでなく、時にはまったく「それぞれが吐き出さない」で、早くから古人が円熟させて「やって来た」古い物より悪くなる。

字数も論旨も制限ある「花辺文学」の類は、特にこのこなれていないという欠点を生じる。

 やり過ぎはダメだが、やらないのはもっとダメだ。太い丸太と4本の小枝で長椅子を作るのは、粗雑さを免れず、やはりカンナをかけねばダメだ。しかし全体に、装飾彫を施して、中を空洞にしてしまうと、坐れなくなり、長椅子にはならない。

ゴリキー曰く:民衆語は半製品、それを加工したのが文学。これは大変正しいと思う。

             720

 

訳者雑感:言文一致、これが究極の口語の文章化、文字表現である。

出版社注によると、胡適は古代の中国人は「言文不分」(言と文が分かれていない)で、彼が1928年に出版した「白話文学史」に:「我々が古代文学を研究して分かったのは、戦国の時には、中国の文体はもう語体(話し言葉)と一致できなくなっていることだ」彼の意味するところは、戦国以前の文体と語体とは合一だった、と。

 これに対して魯迅は異なる考えを持ち、「且介亭雑文・門外文談」で言う:

「私の憶測だが、中国の言文は昔から今まで一致であったことはなく、大きな理由は、文字が書きにくいから、省略するほかなかったためだ。当時の口語の摘要が古人の文で:古代の口語の摘要が後の人の古文である」

 要するに、胡適は戦国以前の古代人は言文一致とするに対し、魯迅は古代から現在まで、口語の摘要が文語だとする。

 その通りだと思う。民衆の口からでる言葉は半製品でそれを加工して摘要を文字にするのが文学である。

芝居や落語など、口から発せられる言葉は、民衆の口から出ている言葉を、演劇や落語の作者が、加工して文字にしたものをもう一度役者の口から声に出させている文学だろう。

      2013/06/03

 

 

 

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