魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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5.古代は言文一致だったか?
ここで古代は言文一致だったかどうかを考えてみたい。
これについて、現在の学者たちは明確な結論は無いが、彼らの口ぶりからは、一致していたと考えているようだ:時代が古いほど、より一致していた、と。だが私には大疑問で、文字はより容易に書けるようになると、話し言葉と一致した字をより容易に書けるようになるものだが、中国ではそれは書くのが難しい象形文字だから、古人はこれまできっと余り重要でないことばを摘出してきたのだろう。
「詩経」があんなに読むのが難しいのは、正に話し言葉をそのまま書き写した証拠のようだが、商周の人達の確たる話し言葉は、今まだ研究されておらず、もっと煩雑だったかもしれない。周秦の古書に至っては、作者も彼の地元の方言を使っているが、文字は大方類似しており、たとえ話し言葉と近いとしても、使ったのは、周秦の話し言葉で、周秦の大衆語ではけっしてない。漢代は言うまでも無く「書経」の中の理解しにくい文字を今字に改めたのは司馬遷だということを肯定したとしても、特別な状況下で、些か俗語を採用したに過ぎず、陳渉の古い友人が、彼が王になったのを見て驚いて言った如く:「おおお!
渉が王になった、沈沈と」の中の「渉之為王」という4文字は太史公(司馬遷)が手を入れたものだと思う。
では、古書が採録した童謡、諺、民歌は当時の本当の俗語だと考えてよいか。私はそうとも言えないと思う。中国の文学家は人の文章を変えるのがとても好むという性癖がある。
最も顕著な例は、漢の民間の「淮南王の歌」で、同じ地方の同じ歌が「漢書」と「前漢記」で違っているのだ。
一つは――
一尺の布、尚縫うべし:
一斗の粟、尚舂(つ)くべし。
兄弟二人、相容れられぬ。
もう一つは――
一尺の布、暖かくてぬくぬく。
一斗の粟、お腹いっぱい。
兄弟二人相いれぬ。
比べてみると、後者の方が本来の面目のようだが、削除したのかもしれない:
只単に摘要を記したのだろう。後の宋人の語録、話本、元代の人の雑劇と伝奇の科白は皆
摘要で、ただそれが使った文字は比較的平易なもので、削除した文字は少なく、「話している様に明白だ」と感じさせる。
憶測だが、中国の言文はこれまでけっして不一致ではなかったが、大きな理由として、書くのが難しかったため省略するしかなかった為だと思う。従って、我々が古文を書くと言うことは、もう象形ではなくなった象形文字で、必ずしも諧声とはいえぬ諧声字で、紙の上に現代人はもう誰も話さなくて分かる人も少ない、古人の話し言葉の摘要を書いているのだ。
これは難しいことだと思いませんか。
訳者雑感:
魯迅は最後のところで、古代の人は言文不一致ではなかった、と憶測している。話したことをそのまま文字にしたが、「書くのが難しかったため省略」したと考えている。話し言葉で饒舌になった「せりふ」を「摘要」だけ書きとめておき、それを演じる時はまた饒舌な「せりふ」に戻して話したのだろう。
国会の答弁などの議事録は全文一字一句もらさず記すが、新聞には「摘要」だけが公表される。それを見ながら、テレビでの首相の答弁を聞くといろいろ余分なことを言っていると思う。漢字は特に昔の画数の多い字体は、話したこと全部を書くのが難しいから、省略されたケースが多かっただろう。映画の字幕などでも、発言者の言った通りすべてでなく、意味が正しく伝わる限り、省略される話し言葉も多い。
2013/10/03記
4.字を書くのは絵を描くこと
「周礼」と「説文解字」にはいずれも文字の造り方は6種あるとしているが、それには今は触れない。只「象形」と関連するものだけを取り上げる。
象形は「近くはこれを身体にとり、遠くは諸物をとる」すなわち、眼を描いて「目」となり、丸を描いて数本の光を放てば「日」となるのは大変明白で便利だ。だが時に壁にぶつかる。例えば、刀の歯を描こうとするとどうするか?刀の背を描かないで置いたとしても、歯は明らかにできない。こう言う時は他のアイデアを使って、刀の歯のところに一つの短い棒を付けて「この部分を指す」意味とし「刃」を造る。これにはすでに色々工夫をこらしたようで、況や、さらに象形しようにも形の無いものがあり、それで「象意」を持ち出すほかなく、これは「会意」ともいう。手を樹上にかざして「采」とし、心を屋根と飯皿の間に置いて「寍」(ねい)とし、食住が問題無いことを「安寍」という。だが「寧可」
という時の寧は、皿の下に一本の線を引かねばならぬ。これは「寍」の音だけを使っているにすぎないことを示すものだ。「会意」は「象形」より面倒で、少なくとも二つの絵を描かねばならぬ。例えば「寶」は屋根と玉と缶と貝の計4つの絵を描かねばならぬ:缶の字は杵(きね)と臼の合成とみれば、合計5つだ。一つの字を書くのにこんな手間がかかる。
しかしやはり上手くゆかぬものもある。些かの物は描けぬし、またある物は描けぬからである。例えば松と柏は葉が違うから、本来は分けられるのだが、字を書くとなると所詮は文字で、絵画のように精巧には描けぬから、結局やはり無理はできない。これを打開するには「諧声」で、意味と形象の関係を切り離すことになる。これはもはや「音を記す」のだから、ある人たちは、これが中国の文字の進歩だと言う。確かに進歩とも言えるが、その基礎はやはり絵を描くことにある。例「菜は、草に従属し、采の音」というが、草と手(爪)と樹木の3つの形を描き:「海は、水に従属し、毎の音」川と帽子をかぶった母とやはり3つ。要するに:字を書く時はどうしても絵を描かねばならぬわけだ。
だが古人はけっして愚かではなく、彼らは早くから形象を簡単にし、写実から離れた。篆字の円や屈折にはまだ絵画の余痕があるが、隷書や今の楷書になると形象とは天地の差がある。しかしその基礎は改変されておらず、天地の差はあるが、象形でない象形文字となって、書くのは比較的簡単になったが、覚えるのは非常に難しくなり、一字一字暗記せねばならない。それに幾つかの文字は今も簡単には書けず、「鸞」とか「鑿」などを子供に書かせるには、半年くらい練習しないと、半寸四方の升目の中に書くのは困難だ。
もう一つ「諧声」は古今の音の変遷により、幾つかは「音」と余り「諧」しなくなってしまった。今日、誰が「滑」を「骨」と読み、「海」を「毎」と読むだろうか?
古人が文字を伝えてくれたことは、本当に重大な遺産で感謝すべきものだが、象形ではなくなった象形文字、元の「諧声」から少しかけ離れた諧声文字のでてきた現在、これに対する感謝については些かためらわざるをえない。
訳者雑感:中国の漢字の読みは、大多数が一字一音である。もちろん例外は結構あるが、日本語の音訓の多さに比べたら天地の差である。
例えば数次の一は、Yiで四声は変化するが、Yaoと他の言葉と区別する時以外はYiでいい。
日本語だと「いち、ひと(つ)、ひー、はじめ、ついたち(一日)など一杯あり、これを子供のころから一つひとつ覚える。「日」などに至っては、中国語が「Ri」一個なのに対して、「ひ、じつ、にち、ついたちの日、日本のに、二十日のか」など数えだしたらきりが無いほどある。しかしこれらは振り仮名を付けなくとも中学生くらいだと正確に読めるようになる。
魯迅の指摘する様に、象形でなくなった象形文字を数千個覚えるのは大変なことだが、今は簡体字になって、かつての煩雑な文字よりは比較的容易になった。あとは、「諧声」の改革だと思う。滑稽の滑と骨とがHuaとGuの音だが、他のHuaの音の旁を充てるとか、
海のHaiと毎のMeiも同じで、環境の環の字がHuanなのに返還の還の字はHaiであるが、旁はいずれも不に簡略化しており、この伝でゆくと、さんずいの旁に不でHaiと読ませる方が、海と書いてHaiと読ませるルールより漢字を覚え始める人には便利かと思う。
ただ、フランスの詩にあるような「母なる海」という母の象形が無くなってしまうのを惜しむ人も多いと思うが。文字は記号だと割り切ってしまえば、氵の右に不でHai(うみ)
というのもあり得ぬことではない。
人が住む家の字を屋根の下に豕(ぶた)がいるのはおかしいとして、ウ冠の下に人を書いた新字ができたが、結局廃されてしまった。長い年月かけて、使い勝手を良くして行く事になるだろう。慶応大学の立て看板には广の中にKOと書いていたころもあった。
2013/10/01記
3.文字はどのようにしてできたか?
「易経」に依れば、書契の以前は、明らかに結縄であった:私の田舎でも、明日大事な用件があるときは忘れぬように:「腰帯びに結びを付けておけ!」と言った。では、古代の聖人も長い縄に一つの用件があるごとに、一つの結びをつけたのか?多分それではだめだったろう。数件なら覚えられるが、沢山になるとダメだ。或いはそれは正しく伏羲皇帝の「八卦」の流れで、三本の縄を一組みとし、結びのないのを「乾」とし、中間にそれぞれ結びをつけるのを「坤」としたのか?多分そうではなかろう。八組くらいならまだいいが、64組となるともう覚えきれないし、況や512組(8の三乗)まであるのだから。ペルーにはまだ「Quippus」という「結縄字」があるが、一本の横縄に沢山の垂直の縄をかけ、網目のようで網でもないように結ぶことで、割合多くの意味を表せるようだ。我々の上古の結縄も多分こうだったのだろう。だがそれは書契に取って代わられたし、書契の祖先でもないから、ここではこれ以上取り上げない。
夏禹の「岣嶁碑(こうろうひ:読解不能の治水を祈念した碑)は道士達の偽造で:今我々が実物として見ることができる最古の文字は、商の甲骨文字と鏡鼎(かなえ)文のみだ。
しかしこれらはすでに相当進歩しており、殆ど原始形態を見いだせぬ。只、銅器には時にちょっと写実的な図形を見ることができ、鹿や象のように、この図形から文字との関連の手がかりが見つけられる。従って、中国文字の基礎は「象形」である。
スペインのアルタミラ洞窟に描かれた野牛は有名な原始人の遺跡で、多くの芸術家は、これは正に「芸術の為の芸術」で原始人は楽しんで描いたというが、この解釈はモダ―ンすぎるのを免れぬ。というのも、原始人は19世紀の文芸家のように有閑ではなく、彼が一頭の牛を描いたのにはわけがあり、野牛に関して、野牛の狩猟についてとか、野牛をお守りとかまじないにするためだった。現在上海の壁にタバコや映画の広告ポスターがあり、それをポカーンと口をあけて見ている人がいるが、何を見ても驚く原始社会で、こんな奇跡が起こったら、みんなが大騒ぎしただろうことは想定できる。彼らはこれを見て、野牛も線でもって別の場所へ移す事が出来ると知り、また同時に「牛」という字を認識したようで、この作者の才能を敬服したが、まだ誰も彼に自伝を書いて銭儲けをしてはと要請しなかったから、姓氏も消えてしまった。但し、この世には倉頡は一人じゃなくて、ある人は刀の柄に絵を刻し、ある者は門扉に絵を描き、気持ちが通じ合い、口から口に伝わって文字は増えて行き、史官が採集して事を記して広まって行った。中国の文字の由来は多分こうした例から逃れられないだろう。
当然、後にまた不断の増補があったはずで、それは史官自身ができたし、新字を熟字の間に挟むと、これも又象形で、他の人も容易にその字の意味を推測できた。現在でも中国は相変わらず新字を作っている。ただむりやり新しい倉頡になろうとすると失敗する。呉の朱育、唐の武則天はいずれも古怪な字を造ったが、すべて徒労に終わった。今造字が最もうまいのは、中国の化学者で、沢山の元素と化合物の名はとても覚えるのが難しく、発音すらうまくゆかない。正直言って、私は見るたびに頭痛を起こす。万国共通のラテン名に遠く及ばぬと思うし、20数個のアルファベットを覚えられねば、率直に言わせてもらえば:そんなことでは、きっと化学を学んでも物には成るまい。
訳者雑感:野牛の牛はまさに牛の顔を正面から描いたものだし、ギリシャ語のアルファという文字「α」も牛の顔を横にして角が右に来ているのでよく分かる。この字を発明した人の名は消えてしまった、という段は、当時甲骨文字の発見とかに関連して、銭儲けをしようとした「文化人」を揶揄しているのだろう。
中国語通訳をするのに、一番難儀なのは化学の元素名とか化合物の名前だとは、化学品のビジネスをしていた先輩の口癖だった。H2Oを水というのや酸素とか炭素などはOとかCより分かりやすいかもしれないが、Mg2O3とかFe2O3くらいはまだなんとかなりそうだが、コバルトやモリブデンなどを難しい金偏の合成語で書かれると発音すら困ってしまう。ましてやそれらの化合物となるとお手上げだ。
化学記号に限らず、外国人の名前や地名などは、例えばすべて今世界で一番通用している英語表記をそのままローマ字で表し、発音は中国語訛りでも止むを得ないから、そうした方が、外国人との会話がどんどん増える今日、双方にとって相互理解が容易になると思うのだが、どうであろうか。
2013/09/26記
門外文談2
2.文字はどんな人が造ったか?
よく聞かされてきたのは、如何なるものも、古代の一聖賢が造ったという故事で、文字についても、当然ながらこんな質問がでる。だが、直ぐ出て来るのは、来源を忘れた答えで:文字は倉頡が造った。
これは一般的学者の主張で、当然彼の出典はある。私はこの倉頡の画像を見たことがあるが、4つの目を持った老行脚僧だ。このことから、字を造るには先ず容貌も奇でなければならぬことが分かるし、我々のようなただ2つの目しか持たない人間は、才能不足のみならず、容貌的にも失格である。
だが「易経」を作った人(誰かは知らぬが)は少し賢くて、彼は言った:上古は縄を結んで治め、後世の聖人は之を書契に易えた」と。彼は倉頡とは言わず「後世の聖人」と言い。創造とは言わず、ただとり替えたと言い、真に大変慎重で;多分彼は無意識のうちに、古代の人が独りで多くの字を造ったことはありえたと信じていないから、このような模糊とした言葉を使ったのだ。
では結縄を書契に代えたのはどんな人だったのか?文学家?確かに。今の所謂文学家の文字を弄することにかけては最もうまい人は、ペン一本でなんでもできる事実からすると、確かにまず彼を思い浮かべる:彼も確かに自分が食わせねばならぬ家族の為に、力を尽くしただろう。しかしそうではない。有史前の人々は、働いている時も歌を歌い、求愛のときも歌を歌ったが、それを起草したり、原稿を残したりしなかった。彼は詩稿を売るとか、全集を編むなど夢にも思わなかったし、当時の社会には、新聞社も書店も無く、文字の用途が無かった。学者の言う話しでは、文字にある工夫をこらしたのは、史官だったろうと思われる。
原始社会ではきっとその頃は巫(みこ)がいただけで、徐々に進化して、事情が複雑になってきて、幾つかの事、例えば祭祀、狩猟、戦争…などは、徐々に記録の必要が出てきて、巫は彼の本職である「降神」以外に、別に何らかの方法を講じて、事を記すしかなく、これが「史」の始まりとなった。まして彼は「天に昇って、諸侯に成功」を告げる、となると、彼は本職上、酋長と彼の治下の大事を記載した冊子を焼いて、上帝に見て貰わなければならず、その為に、同じように文章を作る必要あり――これは多分後に起こった事だが。また後には職掌がより明確に分かれ、それで事を記す專門の史官が現れた。文字は史官にとって必需の工具で、古人は「倉頡は黄帝の史官」という。第一句はまだ信じることはできないが、史と文学の関係の指摘はとても面白い。後の「文学家」がそれを使って、「ああ、わが愛よ。吾死なんとす!」などという佳句に至っては、すでに出来上がったものを享受したにすぎず、「何をかいわんや」である。
訳者雑感:中国古代の象形文字もエジプトのヒエログリフもともに神への祈りとか呪術などを「職掌」とする「巫」の中から、それを記録して天上の神に献上して願を叶えて貰えるように造りだされたものだろう。「史官」という「書記」が複雑な象形文字を如何にして正確にかつ短時間で記録せねばならぬかに心血を注いだ。それが「民衆語」となり「篆書」「隷書」となって、教育を受けた人々が代代その任に当たった。
その後、宋代などになって禅宗の僧侶たちがおびただしい量の経典を書写するにあたり、どんどん簡略文字で代替する様になってゆき、より簡単な文字になった。
新中国になってから大量に採用された「簡略文字」のルーツはやはり宗教にあるようだ。
それを採用しない日本や台湾(日本より更に難しい字画の漢字を使っているが)はいつ頃更に簡略文字を採用するのだろう。いずれにせよ、この地域で、統一した漢字を共通させることが求められていると思うのだが。
2013/09/24記
門外文談(戸外で文を談ず)
1.はじめに
今年の上海の暑さは60年ぶりの由。昼に働きに出て、晩に疲れて帰ると、家の中はまだ暑く、なお且つ蚊もいる。こんな時は戸外だけが天国だ。海に近いのでいつも風があり、団扇も要らない。顔見知りだが、普段はめったに会わない、隣近所の小部屋や裏2階に住む連中も、皆出てきて坐す。彼らは店員や書店の校正係とか腕の良い製図工だ。皆仕事で疲れきって愚痴をこぼしながらも、こういう時は閑があるから世間話もする。
世間話の範囲も結構広い。旱魃や、雨乞い(パンチェンラマを招いて:出版社注)女の口説き方、(見世物小屋の)干からびた三寸の小人、外米(輸入で大儲け)、女の脚の露出禁止令などなど。又古文も談じ、口語も大衆語も話題となる。私が何篇かの口語小説を書いたので、特に私の古文についての意見を聞きたがったので、やむなく特別沢山話した。そして2-3夜話してやっと次の話題に移っておしまいとなった。しかし数日後、幾人かが私にそれを書いてくれと言った。
彼らの中には私が古書を何冊か読んだことがあるから、私を信じてくれるし、私が洋書を読んだことがあるから、また古書も洋書もよんだからとして信じるといってくれるが:
但し何名かは逆にその為に私を信じない、私を蝙蝠だという。私が古書の話しをすると、彼は笑いながら、貴方は唐宋八大家じゃないから信じられないといい、大衆語の話しをすると、又笑いながら、貴方は勤労大衆じゃないのに、そんな大口を叩けますかと言った。
それも尤もなことだ。我々が旱魃の話しをしたとき、あるお偉方が、そこへ調査に行った話しになり、そこでは本来災害を蒙らずにすませることもできた。災害は農民がなまけて、田に水を汲み入れるのを怠ったせいだ、と言った。だが、ある新聞には、60歳の老人が、子供が水の汲み入れで疲れきって死んでしまったが、災害は元のままで、途方に暮れて、自殺したと報じている。お偉方と田舎の人の見方には、かくも大きな隔たりがある。
そうであれば、私の夜話も多分、門外の閑人の空話にすぎないだろう。
台風一過、天気もすこし涼爽になったが、私はついに私に書けと言う人の希望に応じて、書き始めたが、話したことよりだいぶ簡略にしたが、おおむねの所は変わらない、書きとめて仲間のひと達の御目にかけるとしよう。当時は記憶だけに頼り、古書をいい加減に引用したが、話すのは耳に吹く風で、少しくらいの間違いは構わないが、書くとなると、些か躊躇させられるが、私自身も手元に照会すべき原書もないので、今回は只読者が気がついたらすぐご指正していただきたい。
1934年8月16夜、脱稿し記す。(下に傍点が付されている:月を見ながら?)
訳者雑感:本文は12回に分かれており、60年ぶりの上海の猛暑の晩に、家の中にいることできぬくらいの暑さゆえ、めいめいが戸外にでて、海風の涼をとっている時の夜話である。
私自身も学生時代に大阪桃谷のアパート住まいで、当時家に冷房のあるのは殆どなく、夕凪の終わったころに、屋根の上の物干し台に三々五々集まって、世間話をしながら、部屋が何とか寝られるまでの温度になるのを待ったものだ。だが、そこでいろいろ先人達が話すのを聞きながら、大阪人の生きる知恵を習得したのだろう。今ではすっかり忘れてしまったが、魯迅が書いている様に、旱魃のときの「雨乞い」の儀式とか、どこそこの神社で「こっくりさん」の珍しい占いがあるとか、商売の街大阪の雰囲気と上海とはどこか似たところもあるような気がする。東京や北京とはお互いにどこか違う人達が住んでいた。
表題の「門外文談」はそうした暑い夏の夜の戸外での夜話で、内容は文字から始まる。
さあ、次回からどんな話しになるのだろう。
2013/09/22記
劉半農君を憶う
これは小峰が私に与えた題目だ。
この題は決して分にすぎるものではない。半農の死はむろん哀悼せねばならぬ。彼も私の古い友人だから。但しそれは十数年前の事で、今はもうそうは言えない。
彼とどの様にして知り合ったか、彼がどういうことで北京に来たかは、もう忘れた。彼が北京に来たのは多分「新青年」に投稿してからで、蔡孑民氏(元培)か陳独秀氏が招いたもので、北京に来てから「新青年」内の一個の戦士となった。彼は活発、勇敢で大きな戦を何度もやった。例えば、王敬軒に答える「なれあい論戦」、「她」や「牠」という字の創造(女性と獣の三人称)などだ。この二つのことは今から見ればちいさなことだが、十数年前は、単に新式の句読点提唱をしただけで、大群の人々が「両親を亡くしたごとく」にさびしがり、すごく憎んで「その肉を食らい、はぎ取った皮上で寝る」ほどの激しさで、従って、確かに「大きな戦い」だった。今20歳前後の青年は、30年前には、単に辮髪を切っただけで牢に入れられ、首を切られたということを知る人はとてもすくないだろう。が、それは事実だった。
しかし半農の活発さは、時に軽率に近く、勇敢さも無謀に失する所もあった。だが敵への攻撃を相談するときは良い仲間で、実行中に口と心が裏腹になったり、ひそかに背後から刃を突き付けることはなかった。もし事が上手くゆかなかったとしたら、それは計画が上手くなかったせいであった。
「新青年」を出した後には、編集会を開き、次回の内容を打ち合わせた。その時、最も私の注意を惹いたのは、陳独秀と胡適之だった。もし戦略を武器庫に比すと、独秀氏は外に大きな旗をたて、大きな字で:「中は武器で一杯故、注意せよ!」と書いた。だが門は開いており、中には数丁の銃と刀が数本なのが一目瞭然で、注意するまでもなかった。適之氏の門はピシッと閉めてあり、そこには小さな紙に:「中に武器は無い。疑うなかれ」と。これは本当の事だともいえるが、一部の人にとっては――少なくとも私みたいな人間には――時にはどうも首を傾げて考えざるを免れぬ。半農はその逆で、中に「武器庫」があるとは感じさせぬ人間だった。私は陳・胡は敬服したが、半農には親しみを感じた。
親しみというが、それは何度も閑談をしたに過ぎぬが、何度も話していると欠点も現れる。殆ど1年余りの間、彼は上海から来た才子が必ず帯びている「妾を側に、夜書を読む」という艶福な考えから抜けきれておらず、何度も罵られてやっとそれを棄てた。だが彼はいたるところでこんなデタラメを吐いていたので、一部の「学者」は眉をひそめていたようだ。ある時期「新青年」への投稿もすべて排斥された。大変勇敢に書いたが、古いのを見てみると、何号かには彼のが無い。その人達は彼の人格を浅いと見ていた。
確かに半農は浅かった。が、彼の浅さは一条の清渓の如く、澄明で底まで見え、たとえ大量の滓や腐草があっても、その大筋としての清さは掩いつぶされなかった。もしそこに泥水がつまっているなら、その深さは分からなくなるが:もし泥水ばかりの深淵なら、少しでも浅い方が良い。
だがこうした背後からの批判が、半農の心を大変傷つけ、彼がフランスへ留学したのも大半はこのせいだと思う。私はとても筆不精なので、その後我々の間は疎遠になった。彼が帰国した時、彼が外国で古書を書き写したことを知り、後に「何典」(清代の風刺小説)に標点を付けようとしていることを知り、私は古くからの友として、序文に真面目な事を書いた。が、その後で、半農はとても面白くないと思っていたことを知った。「口から出てしまったものは、もう取り戻せぬ」からどうすることもできなかった。他にも一度「語絲」
について、被我の心に、言うに言われぬ不快なことも起こった。5-6年前、上海の宴席で一度会ったが、もう何も話す事もなかった。
ここ数年、半農は段々高位に就き、私も徐々に彼を忘れた:だが報道で、彼が(外来語)「蜜斯」(Miss)の類を使うのを禁じるという記事をみて、反感を持った:私はこうしたことは、半農が言いだす必要もないことだと感じていた。去年から彼はしばしば諧謔詩を作り、デタラメの古文を弄すのを見、かつての交情を思い出し、長い溜息がでた。もし会っても、古くからの友人として「今日はいい天気だね…ハハハ」だけですませなかったら、きっと衝突したことだろう。
しかし半農の熱い心は、私を感動させた。私は前年、北平に出かけたことがあったが、後にある人から半農が私に会おうとしたが、誰かに脅されて果たせなかった、と聞いた。これが私を大変慙愧させた。なぜなら、私は北平に着いても実は半農を尋ねようと考えもしなかったからだ。
今彼は死んでしまった。彼への気持ちは生前と変わらない。10年前の半農を愛すが、ここ数年の彼は憎んだ。この憎しみは友人としてのもので、私は彼が常に10年前の半農であることを望んでおり、彼は戦士としてたとえ「浅」くとも、中国にとっては有益であったからだ。私は憤りの火で、彼の戦績を照らし、一群の陥沙鬼(砂に陥没させる悪魔)達が、彼の生前の栄光と死屍をいっしょくたにして、底なしの泥の淵に投げ込ませぬよう願う。
8月1日
訳者雑感:
これは結核で若くして死んだ素園君(翻訳家)への弔文とはだいぶニュアンスが異なる。しかし正直であり、率直である。「新青年」を一緒に盛り上げていた頃の半農を「浅」くとも、中国にとって有益な仕事をしたと評価している。しかし半農は北京大学教授や、北平女子文理学院の院長などまで務めているが、43歳で没した。
「新青年」の編集会議でのひとコマとして、陳独秀の「中はがらんどう」の武器庫と、胡適の「中に武器は無い。疑うなかれ」の対比は面白い。半農には「武器庫」は無かった。
2013/09/11記
韋素園墓記
韋君素園之墓
君は1902年6月18日生まれ、1932年8月1日卒す。
嗚呼、才宏く、志遠きも、短年に厄す。文苑は英を失し、明者を永遠に悼む。
弟叢蕪、友静農、霽野 表を立つ。魯迅書
韋素園君を憶う
記憶はあるのだが、だいぶ抜け落ちてしまった。我が記憶は庖丁でそがれた鱗のように、一部は残っているが、一部は水に落ちてしまい、かき混ぜると何枚かは浮き上がり、きらきらするが、中には血の筋も混じり、私自身も見る人の目を汚しはせぬかと危惧する。
今数名の友人が、韋素園君を記念しようとしており、私も何か言わねばならぬ。確かに私には義務がある。私の体の外の水をかきまわせば、何が浮かび上がるか見るしかない。
十余年前、私が北京大学で講師をしていた頃、ある日、教員控室で髪も髭もとても長い青年に会ったが、それが李霽野だった。素園君とは多分霽野の紹介で知り合ったのだが、その時のことは忘れた。今記憶にあるのは、彼がすでに客舎の小さな部屋で、出版を計画している時だった。
この部屋が未名社だった。
当時、私は2つの小叢書を編印していて、一つは「烏合叢書」で創作専門。もう一つが「未名叢刊」で翻訳專門。いずれも北新書局から出版していた。出版社と読者が翻訳を評価しないのは、当時も今と同じだから「未名叢刊」は特に冷遇されていた。たまたま素園たちが外国文学を紹介したいと考えていて、李小峰と相談し「未名叢刊」から出て、数人の同人が自分たちで発行しようとした。小峰は即了解した。そこでこの叢書は北新書局から離脱した。原稿は自分たちのものゆえ、別途印刷費を集めて始めた。この叢書の名から社名も「未名」とした。――だが「名無し」ではなく、「まだ名の無い」意味で、丁度子供を「未成年」というに似ている。
未名社の同人には実は何も大それた雄志とか大志がある訳ではないが、一歩ずつ着実にやって行く願望は一致していた。その骨幹が素園だった。
それで彼は小部屋の未名社で活動していたが、半ばは、病気で学校に行けなかったので、自然彼が砦を守る役になったからだ。
私の最初の記憶は、みすぼらしい砦で素園に会ったことだ。痩せて小柄だが、テキパキとしていて、真面目な青年で、窓前の数列の擦り切れた古い外国の本は、貧しいが文学に取り組んでいることを証明していた。しかし、私は同時に悪い印象も持った。笑顔が少ないから、彼とは上手くやって行けないのではと感じた。「笑顔が少ない」のは元々未名社の同人の特色で、素園はそれが特に顕著でひと目見て、そう感じさせた。だが後になって、それは私のかん違いだと分かった。彼とのつきあいは難しくなかった。彼が笑わないのは、多分年齢の差から来るので、私には特別な態度で接したのだろう。残念ながら私は青年になって、被我の差を忘れさせることはできないとの確証を得た。この辺について霽野たちはみな知っていた。
だが私が誤解だと分かって後、又も彼の致命傷を発見した:真剣になり過ぎるという:沈着冷静のようで実は激烈だった。真剣さは致命傷となるのか?少なくともその時から現在まで、そうだった。一旦真剣に取り組むと、すぐ激烈になり、発揚すると自己の生命を落とし、沈静にしていると、自分の心を咬み砕いてしまう。
ちいさな例だが、――我々には小さな例しかないが。
当時、段祺瑞総理と彼の取り巻き連中の弾圧で、私はアモイに逃れたが、北京で虎の威を借る狐たちは、まさになんでもかんでもやった。段派の女子師範大学校長林素園は軍隊を出動させ、学校を接収し、武力行使後、数人の教員を「共産党」と指定した。この名詞はこれまで一部の人が「何かやる」際に便宜を与え、その手法もある種の古くからの手口で、もともと珍しくも無かった。但、素園は却って激烈になったようで、その後、私宛の手紙に「素園」の2字を憎んで使わなくなって、「漱園」と改めた。同時に、社内にも衝突が起き、高長虹は上海から手紙を寄こして、素園が向培良の原稿を握りつぶしたから、私に何か言ってくれと書いてきた。私は何の反応もしなかった。そしたら、「狂飆」で罵り始め、先ず素園を罵り、その後私を罵った。素園は北京で培良の原稿を握りつぶし、上海の高長虹から反感を持たれ、アモイの私に判断を求めて来たのだが、私はとても滑稽に感じ、一つの団体、それも小さな文学団体なのに、状況が難しくなるたびに、内部で一部の人が引っかき回すのも珍しくも無いことだ。だが素園は大変真剣で、私に手紙で詳細に書いてきただけでなく、一文を雑誌に載せ、内実を弁明した。「天才」たちの法庭で、他の人がどうして明解に弁明できようか?――私は長い溜息を禁じえず、彼は只一個の文人で、病を抱えながら、こんなに真剣に内憂外患に応対していたら、どれだけ持ちこたえることができるだろうか?もちろんこれは小さなことだが、真剣かつ激烈な人にとっては、相当大きな問題だった。
暫くして、未名社は封鎖され、数名が逮捕された。素園はすでに喀血して入院していて、その中には入っていなかったようだ。その後、逮捕者が釈放され未名社も封鎖を解かれたが、また突然封鎖されたり解かれたりし、今なお一体どうしてなのか私は知らない。
私が広州に来たのは翌1927年の初秋で、その後も彼からの手紙は受け取ったが、西山病院(北京のサナトリウム)の枕に伏して書いたもので、医者から坐るのを禁じられていたためだ。彼の文章は益々明晰になり、思想も明確で、さらに大きく広がりをみせてきたが、私はそれが更に彼の病を心配させた。ある日突然本を受け取ったが、布で装丁した素園の翻訳「外套」だった。見たとたんぞくっとした:それは明らかに私への記念品(かたみ)で、彼は余命いくばくもないことを自覚しているのではないかと思った。
この本をもう一度読み返すのは忍びない。だが私にはどうすることもできなかった。
このことから、私は昔のことを思い出した。素園の親友も喀血し、ある日彼の目の前出吐いたので、彼は驚いてしまったが、やさしく心配した声で、「もうこれ以上吐いちゃいけないよ」と言った、と。その時、私はイプセンの「ブラント」を思い出していた。彼は死んだ者に、さあ立ちあがれと命じたが、そんな神通力も無く、自ら雪崩の下に埋もれてしまったのではなかったか?…。
私は空中にブラントと素園を見たが、何も語りかけることはできなかった。
1929年5月末、私は西山病院に行き、素園と話す事が出来たのを最も僥倖に想う。日光浴のため、真っ黒に日焼けし、精神も少しも衰えていなかった。我々数名の友と大変喜んだ。が、うれしさの中に時として悲哀を感じ、忽然彼の恋人のことを思い出し、彼の同意のもと、他の人と婚約した:ふと又彼が外国文学を中国に紹介するという志さえも達成できなくなったと思い到り:彼はここで静かに臥しているが、自分では全快を待っているのか、滅亡を待っているのか知らず:なぜ彼は精装本の「外套」を送って来たのか?…
壁にはもう一枚のドストエフスキーの大きな画像があった。私はかれを尊敬し、敬服するが、彼の残酷で冷酷な文章を憎む。彼は精神的な苦刑を配し、一人ひとり不幸な人を引っぱりだし、拷問して見せる。今彼は沈鬱な目で、素園と彼のベッドを凝視し、私に告げているかのようだ:これも作品に入れられる不幸な人だ、と。
むろんこれは小さな不幸にすぎぬが、素園にとっては大変大きな不幸だ。
1932年8月1日朝5時半、素園はとうとう北平同仁医院で病没し、一切の計画、一切の希望とともに尽きてしまった。私がとても残念なのは、禍を避けるため、彼の手紙を焼いてしまったことだ。「外套」一冊が唯一の形見で、永遠に私の身辺に置いておく。
素園歿後、瞬く間に2年が過ぎ、その間、文壇は誰も彼の事を口にしなかった。これも亦まれなこととは言えぬ。彼は天才でも豪傑でもなく、生きている時も、黙々と生きて来たに過ぎず、死後も当然黙々と消え去る他ない。だが我々にとっては記念に値する青年で、彼は黙々と未名社を支えてくれたのだ。
未名社は今ほとんど消滅したし、活動期間も長くはなかった。が、素園が始めてから、ゴーゴリ、ドストエフスキー、アンドレーエフを紹介し、Eedenや Ehrenburgの「煙袋」と Lavrenevの「41」を紹介した。「未名新集」も出し、その中に、叢蕪の「君山」静農の「地の子」と「建塔者」私の「朝華夕拾」を出したが、当時としてはいずれも読むに値する作品だったと言える。
事実としては、軽薄陰険な小人たちの注目は得られず、数年後にはすべて煙のように消え、火は滅したが、未名社の翻訳は文苑の中で今なお枯死してはいない。
確かに、素園は天才でも豪傑でもなく、むろん高楼の尖頂や名園の美花でもなく、楼下の一塊の石材、園中の一撮みの泥土だが、中国は彼の様な人が増えるのを最も欲している。彼は鑑賞する人の目に入らぬが、建築者と造園者は彼をほっておくことはない。
文人の不幸は、生前に攻撃されたり冷落することではなく、一瞑後、言行ふたつながら亡び、無頼の徒が妄りに友人であったと言いふらし、群がって来て、見せびらかすことで金を稼ぎ、死屍すらも彼らの売名獲利の具とされるのは、悲しく哀れむべきことである。
今私はこの数千字を以て、私が良く知っていた素園を記念するが、それで私利を得るようなことのないように願うのみで、他に話す事は何もない。
この先彼を記念することがあるかどうか分からない。もし今回で終わるなら、素園よ、
これでお別れだ!
1934年7月16之夜、魯迅記。
訳者雑感:
これを訳していた時、「風立ちぬ」の映画を見た。小説とはストーリーが違うが、主人公は恋人の喀血の報を受け、名古屋の飛行機製作所から東京の彼女の家に急ぐ。彼女は病気を治したいとの強い願望を持って軽井沢の結核療養所に入る。1930年代の青年男女が結核を患い、短い人生を終えた。けがれなき面影を残った人達に残しつつ。
魯迅は段祺瑞政府の弾圧下、北京を逃れ、アモイ・広州へ行き、そして上海に居を移す。この時期に書いた「朝華夕拾」の十篇も、彼の父親はじめ多くの亡くなった人への挽歌だ。
この「朝華夕拾」については、奥野信太郎の「芸文おりおり草」(平凡社・117頁)に、「魯迅の文章について」―「朝華夕拾」を中心として――として下記がよく的を射ている。
『魯迅の「「朝華夕拾」諸編は、回想記の形式を借りた自己表現でありながら、純抒情的按甘美の陶酔を強くおしのけていることは前述のとおりであるが、しかしそれにもかかわらず、きわめて善意にみちたものである。意地のわるさ、冷酷、揶揄、そういうものとは、およそ裏腹な精神によって一貫されている』
奥野は「朝華夕拾」は魯迅が1926―27年の彼にとってもっとも暗澹たる時代の作品であることを思うとき、…と書いているが、それを彼に書かせ発行したのは素園の真剣で激烈な熱情の慫慂だったのだろう。
魯迅の文章の多くは「批判」「否定」「罵倒」に満ちているが、この文章と「朝華夕拾」の十篇は奥野の言う通り、「きわめて善意にみちたものである」と思う。
2013/09/09記
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