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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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且介亭雑文二集序文

且介亭雑文二集
   序言
 昨日去年の文を編集し終えた。新聞に載せた短文以外を「且介亭雑文」とし:今日また今年の文を再編集したが、数編の「文学論談」の他は、短文は余りなく、全てこの中に収録し「二集」とした。
 年越しは本来何も深い意味は無いし、何の日でもよいのだが、来年の元旦は今年の除夜と何ら違うと言うことは無いが、人間はこれを時に一つの段落とし、少しばかりまとめるのも都合のいいものだ。もし今年も終わりだなどと思わなかったら、私の2年来の雑文もこの1冊にならなかったかもしれぬ。
 編集し終えてもなんら大した感想も無い。感じなければならぬことを感じ、書かねばならぬことを書いた。例えば「華を以て華を制す」の説は、一昨年の「自由談」に載せた時、傅公紅蓼氏の流れをくむ人達からすごく攻撃されたが、今年またある人が提起したが、却って波風は立たなかった。きっと「不幸にして、吾が言があたった」ので、皆は黙して無言だが、時すでに遅く、互いに大きな悲哀をこうむった。
 私はどちらかと言えば、邵洵美輩の「人言」で説くように:「意気は議論より多く、捏造は実証より多い」というのだろう。
 私は時として、言論界で勝利を得ようとは思わないが、私の言葉がフクロウの鳴き声のように、とても不吉でよくないことを言い、私の言葉があたると皆が不幸になる。今年は内心の冷静と外力の圧迫で、殆ど国事を談ぜず、たまたま数編で触れたが「何が風刺か」や「手助けから無駄口」などはひとつも禁じられなかった。他の作者の遭遇も多分そうだろうが、泰平な天下では、華北が自治という事になってはじめて、新聞記者が正当な世論の保護を要求する様になった。私の正当でない世論は、国土と同様、一日一日と淪落し亡びてしまうが、私は保護を求めようとは思わない。それにはその代価が余りにも大きいからだ。
 単にこれらの文字を通して、過ぎたことを存し、いささか今年の筆墨の記念としよう。
  1935年12月31日  魯迅  上海の且介亭(租界の住まい)にて記す。

訳者雑感:華北が自治となって、というのは日本が進駐して来て、華北一帯を自治政府と言う名の傀儡政権にしたことだろう。新聞記者はそれに抵抗すべく正当な世論の保護を求めた云々というのは、昨今の「特定秘密保護法」の成立によって日本の世論が「委縮」させられてしまう、との危惧からこれに反対するという構図とどういう関係になるだろう。
 私は今の政府がどこかの傀儡とは思っていないが、その国から重要な秘密情報を得るためには、こういう法律がなければ、入手できないという説明で国民は納得できないだろう。
 政府は普通の生活を何ら脅かすものではない、というが…。
    2014/02/01記

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附記

附記
 第一篇「中国に関する2-3の事」は日本の改造社の求めに応じたもので、元来日本語で同年3月の「改造」に「火、王道、監獄」と改題されて載った。中国の北方ではある雑誌がこの3篇を翻訳掲載したと記憶するが、南方では林語堂、邵洵美、章克標の3人が主編する雑誌「人言」に作者への攻撃の具として使われただけで、詳しくは「准風月談」の後記に書いたが、これ以上触れない。
 「草鞋脚」は現代中国作家の短編小説集で、H.Isaacs氏の求めに応じ、私と茅盾氏が選び、彼が更に選択英訳したもの。だがこれまでまだ出版されていないようだ。
 「曹聚仁氏への返信」は元々我々の私信だったのが、なぜか「社会月報」に載ってしまい、お陰で禍が大きくなり、私は「楊邨人氏の為に銅鑼や太鼓をたたくはめになり、誰が魯迅氏は狭量だというのか」ということになった。8月31日「大晩報」副刊「火炬」の文章が証となった――
   妥協      紹伯
――「社会月報」8月号を読んで。
 「中国人は妥協にたけた民族」――これは以前あまり信じていなかった。というのも私自身まだ若くて経験不足で、妥協を肯定しなかったし、他の人も私と同様協調を肯定しないと考えていたからだ。
 この考え後に徐々に変わった。それは私の親戚が故郷の2つの軍閥の政権争奪戦で犠牲となり、私は当時、某軍閥に好感を持てず、親戚の為に敵愾心を懐いたが、後にその両軍閥が上海に来てすぐ妥協し、頗る緊密な関係となり、私はそれをみて呆然としたのではなく、我々の親戚がもしたんたんと彼の「政友」の為に死んだとしたら、全く犬死にだと思った。
 後に広東のA君が両広戦争後、戦士たちの白骨が義の為に流した碧血がまだ腥い野にあるのに、両軍のボスの夫人連中が香港のマンションでしょっちゅう牌を並べて遊んでいた昵懇さは尋常では無かったと語った時、私はさらに深く悟った。
 今我々はよく分かって来、これは当然のことで、軍閥戦争がそうだというだけでなく、帝国主義の分捕り合戦も同じだ。人々は数千数万と大砲の灰となり、各国の資本家は一堂に会してシャンパンを手に、顔をほころばせて笑っているのだ。「軍閥主義」や「民主主義」など皆、人騙しの言葉だ。
 然るに、これはそうした軍閥資本家達が「無原則に戦」っていると指摘しているのではない。真理を追究する者の「原則を大事にする戦」はそうであってはならない!
 この数年、青年達は思想界のリーダー達の後に従って大変な努力をしてきたが、ある人達はその為に大切な命を犠牲にした。一個人の命は大切だが、一代の真理は更に大切で、命の犠牲によって真理が天下に明らかになれば、その死は価値がある。それなのに水をかき混ぜ濁らせて、訳のわからないようにさせてはいけない。
 後者の例は「社会月報」に求められる。この月刊は今、最も完備した「雑」誌といえる。
そして最も面白いのは「大衆語特集」と題した8月号だ。読者はこの期の目録を見てみれば、最初に開幕の銅鑼太鼓をたたくのは魯迅氏の(大衆語に関する意見)で、切り札は「赤区からの帰還記」の作者楊邨人氏だ。健忘な読者でも魯迅氏と楊邨人さんは「原則上」大きな確執があったことは覚えていると思う。魯迅氏は楊邨人さんを「嘆」じたことがあったが、彼はなんと楊邨人さんの為に、開幕の銅鑼太鼓を叩けるほどで、誰が魯迅氏は狭量だなどといったのか?
 苦しむのはただ読者だけで、魯迅氏の手紙を読むと「漢字と大衆は両立しない」ということが分かり「交通が盛んで、言語が混じり合う場所」の「大衆語」のひな型とその語彙と文法を貧乏で辺鄙な所へもたらすべきだということがわかる。我々は「先駆者の任務」は大衆に多くの言葉を与え「より明確な意見を発表」させ同時に「より正しい意味を理解する」ようにさせ:我々が今実行可能なのは「進歩的」な思想で「大衆語の中に入る作品」を書くことだ。但し、切り札の楊邨人さんの文書を読むと、大衆の中に入ってゆくのは、根本的には死路(行きどまり)で、そこは水害と敵の包囲攻撃で破産状態で、…「維持すらも困難で、建設などという空談はせぬが良い」やはり都会に「帰って来て」プチブルの文学旗揚げのほうが頼りになる。
 それで我々の得た知識は、前と後ろで違っていて、訳が分からなくなってしまう。
 これは中国民族が妥協にたけていることを示しているが、余りに妥協的で、思想闘争も原則がなくなってしまうと疑わせる。「戟門壩上の児戯」になってしまった。この陣容に照らしてみると、人々が死んだのは本当に何のためだったかわからなくなる。

 銅鑼を叩いた後、「切り札」までのあの「中間作家」の文章、とくに大衆語問題の幾つかの広範な論議に関して、もともと簡略に弊見を述べようと思っていたが、日を改めて再度談じるしかない。
 この件に就いて私は11月に「<戯>週刊編者への書簡」で幾つか回答した。
 「門外漢の文談」は「華圉」の筆名で「自由談」に投稿、毎日一節ずつ載った。但し、なぜか第一節の末尾は削られ、第十節の始めの2百余字削られ、今回補足し黒点を付した。
 「肉の味を知らずと水の味を知らぬ」は「太白」に寄稿、掲載時、後半部は無く、これは「中央宣伝部書報検査部」の功績と思う。当時「太白」のこの文を見て、私に「何が言いたいの?」と言う人がいた。今回、補足し何が言いたいかを分かってもらうため、黒点を付した。
 「中国人は自信力を失ったか」も「太白」で、凡そ神に求め、仏を拝すについて、不敬の個所はみな削除されたが、あの頃、我々の「上峰」はまさに神に求め仏を拝せと主張していた。今回補足し、少しは一時の風尚として残す為、黒点を付した。
 「隈取りの憶測」は「生生月刊」で、お上に奉じた後の諭告:発表不可だった。当初とてもおかしいと思い、原稿回収後、赤鉛筆で下線を引かれた所を見て、「第3種人」の爺さんたちを怒らせたのだということが分かった。今回、新しい作家たちに警戒してもらうために赤線の所を黒線に代えた。
 「<戯>週刊編者への回答」の末尾は紹伯氏の例の「妥協」への返信で、当時我々の沈という姓の「戦友」が見てすぐ呵々大笑し:「この爺じいは又不満たらたら」と言ったが「奴」と「不満」と「又」は大変滑稽だが、私自身は真面目である。
 だが<戯>週刊編者に「不満たらたら」なのは、他の人はきっと奇妙に思うだろう。だがそうではない。と言うのも編者の一人は田漢同志で、田漢同志は紹伯氏なのだ。
 「中国文壇の魑魅」は「現代中国」(China Today)で、誰が訳したか知らぬが、一巻5期に載り、後に英文から独文と仏文の「国際文芸」に転訳された。
 「病後雑談」は「文学」への投稿で全5段:4巻2号に載り、残るは第一段。後にある作家がこの一段をもとに、論じて曰く:魯迅は病気になるのに賛成している、と。彼は検査官が削除したことなど思い到らぬようだ。文芸上の暗殺政策も時に効力あるのが分かる。
 「病後雑談の余」も「文学」への投稿だが、なぜか検査官は古怪で、不許可とも許可ともいわず、手ずから削除もせず、ぶつぶつ言うのみ。発行人はやむなく私に自主削除を求め、それでもやはりダメで、ついに発行人が筆をとり、検査官が口を開き、もう一度すりなおして、やっと4巻3号に載った。題は「病後余談」とされ、小注の「憤懣をはらす」という句も不許可:変更された個所は本文の下に注をつけ、削られた5か所は黒点を付して、読者がこれらの禁忌をみて面白いと感じられるようにした。ただ「言行不一致」を不許可とされたのも訳の分からぬことで、今、明記せねばならぬは、これも「第3種人」に抵触した為ということ。
 「おきん」は「漫画生活」に投稿:不許可だけでなく、南京中央宣伝委員会に送られた由。まさに漫談にすぎず、深い意味は何もないのに、どうしてこんな大問題となるのか、自分でも分からない。後で原稿を返して貰ったら、第一頁に紫色の印があり、大きいのと小さいのがあって、文字は「抜きだせ」とあり、小は上海印で大は首都印だろうが、「抜きだせ」は疑義のないようで、さらに見て行くと沢山の赤線が引かれており、今回本文の傍らに黒線に改めた。
 線の個所を見ると何か所かは道理が分かる。例えば、「主人は外人」「爆弾」「巷の戦」の類で、当然それに触れぬが適切だ。しかしどうしても分からないのが、なぜか私が死んでも「同郷会を開けるとは限らぬ」の理由で、まさかお上の考えとして私が死んだら同郷会が開けるとでも思っているのだろうか?
 我々はこのような所に住み、このような時代に生きている。
   1935年12月30日 編集後記す。 

訳者雑感:本附記では、発表当時削除、改訂させられた個所を復元した所を黒点や下線で明示したとの説明が多いのに驚く。それらを編集しなおして「且介亭雑文」として公表できたのは不思議に思う。新聞や雑誌でなければ、検査を受けずにだせたのだろうか?
 NHKの朝のラジオで、中北さんが「原発問題」に触れる内容の放送をしようと原稿を出したら、NHKから削除を求められ、(都知事選挙中だからとか云々で?)結局彼は番組出演を辞退したという。80年前の上海と何ら変わりはないようだ。
「政府が右へというのを左とは言わない」というのが新会長のコメントにあったので、職員がそれに過剰反応したのだろうか?
 国民の視聴料で運営している公共放送が、南京中央宣伝部と同じことをするとは!
   2014/01/31記
 
 

 

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俗人は雅人をさけるべし


 雑誌を見ていて偶然思ったのだが――
 濁世では「雅な人」は少なく、「風流」も少ない。だが濁りきってしまうまでは、雅な人が一人もいなくなるわけではなく、「雅を損なう」人が多いので、その結果「雅さ」を保つのが難しくなるのだ。
 道学先生は身を以て「仁恕」を行うが、仁や恕でない人に出会うと、彼も仁恕でいられなくなる。朱子は大賢だが、役人の時、無実の罪を訴えることのできない官妓を板打ちせざるを得なかった。新月社の作家たちは他人を罵る人を最も嫌悪したが、罵る人に出会うと、彼らも我慢できなくなって相手を罵った。林語堂氏は「フェア―プレー」を大切にしていたが、杭州で菊を鑑賞している時「ソ連のタバコをくわえ、何とかスキーの訳本を手にした」青年に出会うやいなや「精彩を失って、愁眉を開けず、憂国のふり」をせざるを得なかった(詳しくは「論語」55期参照)様子で、面目丸つぶれだった。
 優良な人は時に他の人と比べることで、際立とうとし、例えば、上等と下等、善と悪、雅と俗、度量の大小などだ。比べる対象がいないと、その優良さを明確にできない。所謂「相反して、相成る」がそれだ。ただ、他の人と調子をあわせねばならず、少なくとも分をわきまえて、太鼓持ちはできなくとも、ケチをつけてはダメで、善良な人を責めてしまっては、彼らは善良を保てなくなってしまう。例えば、曹操は「小事にはこだわらないことを旨とした」が正平(曹操を非難した文学家)が毎日、門前で罵るので、怒らざるを得なくなってしまい、黄祖の所へ送って(彼の)「刀を借りて殺した」が、正平は正しく「自ら咎めをくった」のだ。
 所謂「雅人」も元々一日中雅と言う訳ではなく、たとえ珠の羅帳で寝、香ばしい米を食べても、睡眠と食事は本質的には俗人と同じであり:腹で銭儲けや地位固めの目論見をしていても、それをしてないとは言わせない。彼らが衆に抜きんでているのは、時にまた忽然と「雅」になれる点だ。その謎の秘密を暴いたら所謂「殺風景」になってしまい、俗人になり、他の雅人にも累を及ぼし、もう彼を雅人とはいえず、「俗を免れぬ」。もしそんな輩がいなければ、こんな事にはならず、従って、間違いはすべて俗人に帰せてしまう。
 例えば、2人の知県(役人)がいて、彼らは終日任務を遂行し、案件を審議するが、その一人が偶然梅を見に行けるとしたら、雅官と呼べるし、恭賀されるべきで、世の中にそれこそ雅人がいて、風流だといえる。恭賀したくないならそれもいい:眉をひそめるとなると俗である:冗談でからかうのは良いことをぶっ壊すものだ。しかし世間ではどうも狂夫と俗人が偏在していて:中国の何とかいう古い「ユーモア」の本に「軽薄子」という一首があり、知県老爺が公務の余に探梅の七絶を詠じ――
  紅帽は鼻歌、黒帽は笑い、風流な大守は梅花を看る。
  梅花は首を垂れて言う:小さな梅花は老爺を迎える。
 これはまったくふざけたもので、風流をぶち壊した。梅に替って話すのも不自然で、この時は何も発せずにしておくべきで、一度口を開けば「雅を損ない」「老爺」にまで累が及び、もう雅にはなり難い。俗に還る他なく、板叩きに会うか、少なくとも何らかの罪を得る。なぜか、俗ゆえに再び雅と相容れないからだ。
 用心深く謹慎な人が、たまたま仁人君子や雅人学者に会うときは、調子をあわせられないなら、遠くに避けるべきで、遠いほど良い。さもないと、彼らの口先とは程遠い顔と手段で痛い目に会うこと請け合いだ。運が悪いと、ルーブル説の例の手で、大損する。「ソ連のタバコをくわえ、何とかスキーの訳本を手に」程度なら大したことはないが、――危険である。
 皆は「賢者は世を避ける」ということを知っている。私は今の俗人は雅を避けるべきだと思う。これもある種の「明哲保身」である。     12月26日

訳者雑感:ここでいう俗人は魯迅で、雅なのは林語堂たちを指すのだろう。俗人が雅な人に出会って、不注意なことを言ったり、ソ連のタバコを口にして、何とかスキ―の訳本をもっていると、すぐ「ルーブルで買収された」という彼らの常套手段で痛い目に会う。
それで俗人は雅な人を避けるべきだというのか。避けて攻撃せよ、と。
            2014/01/27記

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阿金(おきん)

阿金(おきん)
 最近私はおきんに大変悩まされている。
 彼女は女中(お手伝いさん)で、上海では娘姨(にやんい)と呼び、外人はアマといい、彼女の主人は正に外人だ。彼女は沢山の女友だちがいて、日が暮れるとぞくぞくと彼女の部屋の窓の下に来て「おきん、おきん!」と大声で呼び、これが夜じゅう続く。彼女は又何人かの愛人がいるらしく:いつぞや裏門で彼女の言い分を宣言して:男を見つけなきゃ何のために上海にきたのさ?……。
 しかしそれは私と関係ないが、不運なことに彼女の主人の家の裏門は我が家の前門の斜め向えだから「おきん、おきん!」と呼ぶ声が聞こえてきて、時に文章も書けなくなり、ひどい時は原稿に「金」の字を書いてしまうほどだ。更にまずいことに、私が出這入りする時は、必ず彼女の所の物干し台の下を通らねばならず、彼女は梯子段を上り下りするのがいやで、竹竿や板とか他の物もしょっちゅう物干し台から下に放るので、通る時は良く注意しなければならぬし、まずおきんが物干し台にいるかどうかを見て、いたら少し遠回りせねばならぬ。これは私の肝が小さく、命が惜しいからだが:「彼女の主人が外人だと言うことを考え」(「 」内は下線つき)殴られて頭から出血しても問題にもならぬし、たとえ死んでも、同郷会を開いて「電報を打っても役に立たず、――といっても私はもう同郷会を開けるとは限らぬが」(「 」内は下線付き)
 夜半以後はまた別の世界だが、昼の気分を持てあましていてはダメである。ある夜、もう3時半で、ある作品を訳して起きていた。忽然、外で誰かが低い声で呼ぶのが聞こえた。はっきりとは聞き取れぬが、おきんではなく、勿論私を呼んでいるのではない。こんな遅くに一体誰が誰を呼ぶのか?と思った。それで立って窓を開けてみたら男がいて、おきんの部屋の窓を見上げている。彼は私に気付かなかった。私は我ながら馬鹿なことをしたなと後悔し、まさに窓を閉めようとした時、斜前の小窓が開いて、おきんの上半身が現れ、直ぐ私に気付き、男に何やら言って、手で私の方を指して、手を振った。男は大股で走り去った。私はとても不愉快になり、何か間違ったことをしたようで、翻訳も続けられなくなり、心で思った:「以後つまらぬ事に首を突っ込まぬようにし、泰山が崩れてきても顔色を変えず、爆弾がそばに落ちても身をさけるな!…」(「 」内は傍点付き)
 だがおきんの方は何の影響も無いようで、相変らずきゃあきゃあと笑いこけていた。しかしこれは夜近くなってやっと得た結論で、従って私は本当に夜の半分と昼の丸一日じくじくしていた。その時私はおきんは度量が大きいなと思ったが、同時に彼女が大きな声でペラペラしゃべって笑うのを嫌悪した。おきんが現れると周囲の空気が騒がしくなり、彼女はそんなにも力があったのだ。この騒ぎに対して、私の警告は何の効力も無く、彼女等は私の方を見向きもしなかった。ある時、近くの外人が外国語で何か言ったが、彼女等は相手にしなかった:ただ、その外人が走って来て足で各人を蹴ったので、彼女等は逃げ出して、騒ぎも終わった。この蹴りの効力は5-6夜位あった。
 その後は、例のようにワイワイ騒ぎ:しかもそれが拡大して行き、おきんと道の対面のタバコ屋の婆さんとの闘いが始まった。男も手助けに入った。彼女の声はもともと高かったが、今回はそれに輪をかけた大きさで、20間先まで聞こえるほどだった。暫くして大勢の見物が集った。論戦が終わり近くなって、当然「男を盗んだ」の類が出てきて、婆さんの声ははっきり聞こえなかったが、おきんの反論は:
 「お前の老Xなど、欲しがる男はいない!私のを欲しがる男はいるのさ!」
 これは多分その通りで、見物人はどうやら大半は彼女に味方し「誰も欲しがらない」古Xは負けた。この時外人の巡査が来て、後ろ手にして見ていたが、見物人を追い払った:おきんはつかつかと歩み寄り、外国語で話しだした。巡査は聞き終えて笑いながら言った:「お前もなかなかなもんだな!」と。
 彼は古Xを捕まえにはゆかず、悠然と後ろ手で去って行った。「こうして巷の戦は終わった」が「世の中のもめごとはけっしてこんなにあっさり解決されることはなく、古Xもきっと相当な力を保っていた。翌朝、おきんの家からそう遠くない外人の家のボーイが突然おきんの所に逃げ込んできた。後から3人のこわそうな大漢が追っかけてきた。ボーイのシャツはすでに破れ、多分かれは外におびき出されて、後の門を閉められて戻れないから、
愛人の所に逃げるしかなかった。愛人の脇の下は元来とても安全な所で、イプセンの劇でペール・ギュントは失敗後、愛人のスカートの中に隠れ、子守唄を聞いた大人物だ。だが、おきんはノルウエーの女性に比すべくも無く、無情で魅力も無かった。ただ直感が閃くのは早くて、男が走り込んでこようとした時、彼女はさっと裏門を閉めた。男はどうしようもなく、立っている他なかった。これはこわそうな大漢たちの予想外のことで、明らかにと
惑ったようだが:拳骨をふりあげ2人は彼の背中と胸に3発みまったが、あまりきつくはなかったようで、一人は顔を殴り、顔はたちまち赤くなった。この巷の戦は電撃的で、
早朝でもあり、見物人も少なく、勝敗の両者は各自に散って行き、世界はまた暫くは平和になった。
だが安心はできなかった。というのもかつて人がこう言うのを聞いた事があるから:所謂「平和」は2つの戦争の間の時間にすぎぬ、と。 数日後、おきんは姿を消し、彼女は主人に追い出されたと思った。後釜は、太って顔は福相で、品のいい女中で、20数日経ったが、とても静かだった。ただ2人の貧乏歌手に「チカドンドンチャーン」の「十八摸」の類(旧時流行した猥雑なメロディ)を歌わせたくらいで、それは彼女が「自分で貯めたお金」の余閑だから、少しばかりそのおこぼれを享受するのは誰も文句はつけない。心配なのは一群の男女を集めたので、その中におきんの愛人もいて、いつ何時また巷の戦が起きるかも知れない事だった。だが私もお陰で男声の上低音(バリトン)を聞き、とてものびのびとしていて、死んだ猫のような「毛毛雨」(1930年頃の流行歌)とは天地ほどの差があると思った。
 おきんの容貌はしごく平凡だった。所謂平凡とはたいへん月並みで、覚えにくく、1か月もしないのに、どんな顔だったか忘れてしまった。だがやはり嫌いで「おきん」という2字(漢字は阿金)を思いだすと気分が悪くなり:近くで騒ぎが起こっても、こんな深い仇や怨みにはならぬが、私が嫌なのは、わずか数日で私の30年来の信念と考えを揺るがした事である。
 私はこれまで、昭君が出塞して漢の安寧を保ったとか、木蘭が従軍して隋を守った等は信じなかったし:また妲己が殷を滅ぼしたとか、西施が呉を沼にしたとか、楊貴が唐を乱したなどの古い物語は信じたことはなかった。男権社会で女がそんな力を発揮できることはありえず、興亡の責めはすべて男が負うべきと考えて来た。ただ、これまでの男性作者は、大抵敗亡の大罪を女に押し付けてきたのであって、それは本当に何の値打も無いダメ男だった。だが思いがけずも今、おきんの容貌も並みでこれといって驚くような才も無い女中だが、1カ月もせぬうちに、私の面前で4分の1里四方をかきまわしたことからして、もし彼女が女王や皇后、皇太后だったら、その影響は推して知るべし:大変な大乱を引き起こすことができる。
 昔孔子は「五十にして天命を知」ったが。私といえばたかだか一人のおきんに人間世界のことどもにも疑惑を懐かせられ、聖人と凡人とは比較にならぬと雖も、おきんの威力たるや、私には手も及ばぬことが分かる。私は自分の文章が退歩したのをお金の騒ぎのせいに帰そうとは思わぬし、以上の話も怒りを転じるに近いが、近頃はおきんが一番嫌いで、彼女が私の道を塞いでいるのは確かだ。
 おきんが中国女性の標本とかんがえられぬように望む。   12月21日


訳者雑感:近年の高層マンション林立で、かつての風景はだいぶ変わったが、1970年代の上海の旧租界地は、2-3階建ての欧式住宅に数家族が混住していて、物干し台なども狭いために、竹竿を通りに就きだして、地面一杯を蔽うように干していた。
魯迅の指摘するように、中国史に登場する女性は国を救うとか乱すとか傾国の美女とか、いずれもロクでもない男が話を面白くするために書いたものだというのは面白い指摘だ。
2014・1・24記

 

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病後余談の余4

病後余談の余4
4.
 だが弁髪にはもう一度風波が起こった。即ち張勛(クン)の「復辟」でうっかりすると又弁髪をはやせ、ということになりかねなかった。私は彼の弁髪兵が北京の城外で防備を固め、弁髪の無い人間に対して、すごい剣幕で気炎を上げるのを見た。幸い数日で失敗し、いまでは、短髪や分髪、オールバックやカールもできるようになった、
 張勛の名はもう影も薄くなり「復辟」事件も徐々に忘れられ、私がかつて「風波」で触れたが、他の作品ではもう目にせぬようで、とっくに注意を引かなくなったことが分かる。
今では辮髪もごく稀で、周の鼎や商の彝(イ:銅器)と同列となり、外国への販売資格がとれるだろう。
 私は絵を見るのも好きで、とりわけ人物画が好きで、国画といえば方巾に長い着物、或いは短衣にさいづち髷の人などだが、見覚えのある弁髪は一本も見たことが無い:洋画でも顔がゆがんだ男や、足の太い女ばかりで、私の記憶にある弁髪は一本も目にしない。
今回何枚かのペン画と木版の阿Q像を見たが、これが初めて美術として目にした弁髪だが、全く精彩がなかった。それも無理の無いことで、今20歳前後の青年が生まれた時はすでに民国で、今30歳でも弁髪があったころは4-5才で、当然ながら弁髪の詳細は知らない。
 『では私が「憤懣を晴らす」のを人に伝えるのはきっと難しく、人に同じ憤激、感慨、歓喜、悠愁を感じてもらうのは難しいだろう』     12月17日

 一週間前、「病後雑談」で鉄氏の二人の娘の詩をとりあげた。杭世駿によれば、銭謙益編の「列朝詩集」にあるのだが、私はこの本が無いから「訂訛類編」から引くしかなかった。
今日「四部叢刊続編」の明遺民彭孫貽の「茗斎集」が出版され、後附の「明詩鈔」に鉄氏長女の詩がある。下に写し、範昌期の原作といわゆる鉄氏の娘の詩と異なる点を( )内に注して比較し易くした。これでみると、偽作者は一句を改めたに過ぎず、各句も1-2字を変えただけだ――

   教坊の献詩
 教坊脂粉(落籍)鉛華を洗い、  …(省略)

 ただ、兪正燮の「葵巳類稿」また茅大芳の「希薫集」によると「鉄公の妻女は死をもって殉ず」と言うが:併記して一説に云う「鉄は二子あり、女は無し」と。そうであるなら、
鉄絃の女児の有無すらすべて疑わしくなる。2人の近眼が扁額の字を論じて大弁論をするが、実は扁額など懸かっていなかったというのも元々有りうることだ。だが鉄の妻の殉死説も粉飾だと思う。「弇州史料」には奏文と上諭はともにあり、王世貞は明人で敢えて捏造しようとはしないから。
 鉄絃に女児がいないとしたら、或いはいたけれど実はすでに自殺していたら、この虚構の故事から社会心理の一斑をうかがい知ることができる。即ち:受難者の家族に女がいないというのは、いるという趣に如かず、自殺もまた教坊に落ちる趣に如かぬ:但し、鉄絃は畢竟忠臣であり、その娘を永久に教坊に淪落させて置くのは、心に不安を覚えるから、やはり尋常の女士と違って、献詩することで、士子と結ばれるのだ。これは書生が禍に巻き込まれ、獄に繋がれ、体罰を受け苦しむが、最後には状元に合格するというパターンと完全に一致する。    
 23日の夜 付記す。


訳者雑感:魯迅は子供の頃、絵入りの故事を読むのが好きだったが、特にその中の登場人物の絵をうまく書き写すのが好きだったようで、一冊の本にして、金持ちの子供が欲しがるので、それを売ってお金に換えたというくらいだ。その彼が阿Qの劇本に挿入する絵を何枚か見ることになったのが、久しぶりの「辮髪」だったが、現物を見たことの無い若い世代の画いたものは精彩に欠けていたのだろう。今の日本人は相撲取りのちょん髷くらいは見ているが、時代劇に出て来る信長や家康の格式と、小侍のとは違っていよう。阿Qのはどんな具合だったか?そもそも魯迅が彼を「阿Q」と名付けたのは英語のQ(kju)の発音はCueと同じで、玉突きの棒と弁髪という2つの意味を持つが、阿Qとは弁髪兄貴とか
弁髪野郎という意味を持たせたものだという説もある。又Qの字そのものが清国人の頭を後ろから見たときの姿に似ている。
     2014/01/21記

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病後雑談の余3

病後雑談の余3
3.
 清朝に対する新たな憤懣の発作は、光緒帝のころに始まったようだが、文学界では誰が「主謀者」か調べていない。太炎先生は文章で排満の驍将として有名だが、彼の「訄書」の未改定本は、まだ満州人が中国の主たることを認めており、「客帝」と称して,嬴秦(嬴は始皇帝の姓)を「客卿」(帝ではない:訳者注)と比している。だが要するに光緒末年になって、翻印された清朝に不利な古書が陸続と現れた:太炎先生も自ら「客帝」説を改訂し、再版された「訄書」には「刪(けずる)してこの篇を残す」とし:後に本書を「検論」と改名したが、その方法に依ったかどうか知らない。日本へ留学した学生たちの中にも、図書館で革命を鼓吹できる明末清初の文献を探し出す者がいた。当時印刷された大部の「漢声」は「湖北学生界」の増刊で、表紙には「文選」の句の4句を題とし:古い積念を葉らし、思古の幽情を発し、とあり第3句は思いだせぬが第4句は「大漢を振興する天声」だ。
古今を問わず、この種文献はどうも外国の図書館で写すことができるようだ。
 私は辺鄙な地方で成長したので、何が満漢か少しも知らなかったが、飯店の看板に「満漢酒席」と言う字を見ても何の疑問も起こらなかった。人が「本朝」の故事を語るのを聞くのはしょっちゅうのことだったが、『文字獄の事は一向に耳にしたことはなく』(『』内は傍点つき)、乾隆皇帝南巡の盛事も聞いたことが無かったが、一番よく聞いたのは(太平天国の)「長毛賊を打て」だった。我が家に年老いた女中がいて、彼女が長毛の事を話す時、当時彼女は十数歳だったが、彼女が私に話してくれた最も多い話で、彼女には邪正の別はなく、最も恐ろしいことは3つあり、一つは勿論「長毛」で、もう一つは「短毛」で最後は「花緑頭」(毛唐軍で頭に緑などの布を巻いていた:出版社注)だった。その後私も後の2つがお上の軍だと分かったが、愚民の経験では、長毛と区別ができなかった。私に長毛が憎むべき対象だと教えたのは数人の読書人で:私の家に数冊の県志があり、偶然めくっていたら、当時殉難した烈士烈女の名が1-2巻あり、同族の人も何人か殺され、後に「世襲の雲騎尉」に封ぜられたから、それで長毛の憎むべき事が判った。しかし本当に所謂「心事は波涛の如し」で、日が経つにつれ、自分も閲暦し、女中の話から、それらの烈士烈女を凶殺したのが長毛なのか「短毛」「花緑頭」なのか決められなくなった。私は「四十にして惑わず」といった聖人の幸福をとてもうらやましいと思う。
 私が最初に満漢の境に目覚めたのは、本ではなく弁髪だった。この弁髪は我々の古人のたくさんの頭を切り落として、やっと根付いたもので、私が知識を持ちだした頃、みんなはとっくに血の歴史を忘れてしまい、却って髪をすべて残すのを長毛と思うようになり、すべて剃るのは和尚のようで、少し残してこそ全うな人間だと考えるようになっていた。
そして更には弁髪に色々趣向を凝らした:道化役者はそれを結んでそこに紙の花をさした:
武劇の道化は弁髪を鉄棒に絡めて、ぶら下がってタバコをぷかぷか吸って技をひけらかし:
手品師は手を動かさずに、頭をくねらせ、ポンと手を打つと弁髪はひとりでに跳ね上がって頭上にとぐろを巻き、そこで関羽の大刀を振り回すのだ。更に実用的でもあり:ケンカの時は、それをしっかりつかめば、引っぱることもでき、縄は不要で、大勢を捕えるなら、弁髪の先をつかみさえすれば、一人で何人でもしょっ引ける。呉友如が描いた「申江勝景図」に裁判所の絵があり、巡査が犯人の弁髪をひっぱっている図があるが、これが
勝景とされていた。
 辺鄙な所にいたときはまだよかったが、上海に来ると、時に英語のPigtail-豚の尻尾といわれた。これは今ではもう耳にしなくなったが、その意味は頭に豚の尻尾を付けたということに過ぎぬが、現在の上海で中国人が互いに「豚野郎」と罵るよりはやや控えめだが、当時の青年は涵養が足りず、また「ユーモア」の意味を知らぬから、それを言われると大変こたえた。そして二百余年の歴史を擁す弁髪の姿もだんだん雅さを感じなくなり、すべて留めるでもなく、剃るでもなく、まわりを剃って一つかみだけ留め、それを編んで背中に垂らし、あたかも他人につかまれ、引っぱられる為の柄のようになった。それに対し、遂に嫌悪を懐いたのは、人情の常で『誰かから物品をもらって、何とかスキーの理論に迷った為ではない』(この2句はお上の命令で「怪しむに足りぬ」と改めた)
 ( 『 』内は傍点付き。 )
 私の弁髪は日本に置いてきた。半分は下宿の女中のかもじに、残りは散髪屋にやり、身は宣統初年に故郷に戻った。上海に着くと偽の弁髪をつけなければならなかった。その頃上海にその専門店があり、定価は一本洋銀で4元。一切値引きせず、その有名な名は大抵当時の留学生はみな知っていた。実に上手にできていて、余り注意しなければ、他の人にばれることはなかった。だが留学生帰りだと知ると、じろじろ眺められてボロが百出した。
夏には帽子をかぶれずグワイが悪かった:人ごみでもまれて落ちたり、曲がったりせぬようにするのも大変苦労した。一カ月余りつけたが、もし路上に落としたり、人に引っぱられたら、元来弁髪の無いのよりさらにひどいことになるのでは、と思った。いっそのこと止めよう、賢人も言うではないか:人間は真実でなければいけない、と。
 だがこの真実の代価は本当に安くなかった。外出時、路上で受けた待遇は以前と全く違った。私はそれまで、友人を訪ねた時は客として遇されると思っていたが、この時始めて路上でも、遇されることがあるのを知った。一番ましなのは、呆然と眺めているのだが、大抵は冷笑され、ひどく罵られる。小では、人の女を盗んだんだと言われ、当時は奸夫を捉えたら、まず弁髪を切ると言うのだが、今でも私にはその理由が分からない:大は『外国に内通している』と指弾する。現在の「漢奸」のことだ。思うに、もし鼻を失った人が街を歩いても必ずしもこんな苦労を受けるとは限らぬが、影を失くしたら多分この様な社会的責苦を負わされるだろう。(ゴーゴリの「鼻」とシャミッソーの「影の無い男」の事)
 帰国して1年目は杭州で教員をしたが、洋服を着たので洋鬼子(毛唐)とみなされ:2年目に故郷紹興に戻り、中学で学監をしたら、洋服もだめで、多くの人が私を知っているので、どんな服を着ても「外国に内通している」と言われ、私が弁髪の無い為の禍を受けたのは故郷が最初だった。特に注意せねばならぬのは、満州人の紹興知府の目で、彼が学校に来るごとに私の弁髪をじろじろ見ながら長く話し込むのが好きだった。
 学生たちの中に忽然弁髪を切る風潮が起こり、多くの者が切り落とそうとした。私はあわてて止めた。彼らは代表を選んで詰問に来た:畢竟、弁髪を残すが良いか、ない方が良いか?私の即答は:弁髪はないのが良いが、諸君は切らぬようにであった。学生たちはこれまで誰も私を「外国に内通」と言わなかったが、この時から「言行不一致」と見下した。
『「言行一致」は当然価値が高く、現在の所謂文学家にもこの点を自慢しているのがいるが、彼らは弁髪を切ると、価値は頭に集中するということを知らない。軒亭口は紹興中学の近くで、そこは秋瑾小姐(革命に失敗して処刑された)が義に就いたところで、いつもそこを通っていながら、忘れてしまっている』( 『』内は傍点付き )
 「亦快ならんや」――1911年の双十節後、紹興にも白旗が掛けられ、革命となったが、革命が私に与えた良いことは、最大で最も忘れ難いのは、この時から昂然と頭に何もつけず、悠然と街を歩いても何の罵りを浴びることは無くなったことだ。弁髪の無い旧友も何名か田舎から出てきて、会うや否や毛の無い頭をなぜ、心底から笑いだし:ははは遂にこの日がやってきた、と言いあった。
 『誰かが私に革命の功徳を頌し「憤懣をはらせ」と求めるなら、何はともあれ、弁髪を切ったことだ、と言いたい』

訳者雑感:習近平主席の南巡は、乾隆南巡とトウ小平南巡が念頭にあったのだろうか。
乾隆・トウ小平の南巡に習い、それに近づこうとしたものか。江沢民氏や胡錦濤氏が南巡したことはあまり聞かない。トウ小平氏の南巡から余り時間が経っていないためか、或いは師をまねるのを遠慮したためか。習氏は後ろ盾が無いといわれているから、それを求めて南巡という先例に習ったものだろうか? 
 魯迅はこの文章で、学生に早まって弁髪を切るなと諭している。秋瑾を尊敬して「薬」などの作品に彼女をモデルにしているが、ここでは秋瑾小姐と呼んでいるのはどうしてだろう。彼女は結婚2人の子をもうけたが、その後離婚して日本に留学し、革命運動に身を投じたが、時機に会わず、捕えられて処刑された。魯迅は尊敬をしながらも、機を誤ってつかまって頭を切られてはどうしようもないとして、学生たちに弁髪を切るのを断念させたのだ。秋瑾女士と言わずに小姐と呼ぶのは唐突にみえるが、意味する所があるのだろう。
      2014/01/18記

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なぜキャンプ・シュワブの沖なのか?

なぜキャンプ・シュワブの沖なのか?
 名護市の選挙がもうじき行われる。15日付の神奈川新聞が同じ基地を多く抱える自治体の新聞として名護市に取材に行った。賛成派の市民の下記のコメントが印象に残った。
1.基地と歓楽街とそこの住民の生活
 「1960年代ベトナム戦争の頃、100軒位のレストラン、バー、ビリヤードがあって、そこを『社交街』と呼んでいた。母が店をやっていて、…とても賑わっていた。今は数軒しかない…。また基地ができて活気がもどるのを望んでいる」という趣旨であった。
 社交街とは赤い灯青い灯のネオン街・歓楽街である。横須賀や横浜のそうした地域も今では過去に比べようも無いほどさびれている。横須賀は市内の人口が減り続け、空き家ばかりで困っているという。
2.元自衛隊幹部の話
 私の友人に防衛大学校を出て外国公館にも武官として勤務した人がいる。
 東日本大震災の時に、自衛隊が米軍とともに救援に大きな力を発揮して、感謝されたことなどの話しをしている中で、松島の航空基地が被害を受けた件などで、彼はこう話してくれた。戦前、軍が基地や司令部を置く場所の選定については、建立後何百年もの間、そうした被害に会っていない神社仏閣がある所では、移転してもらってそこに基地を作ったという。 そして今でもそうだが、基地から徒歩数分で緊急時に対応できるような「宿舎」を十分建設確保できることが大切で、その住居は殆ど無料に近い家賃で提供しているのだが、最近は騒音とか隣りづきあいなどが煩わしいとして、基地から離れた場所に引っ越したいという隊員が居て問題になっている、と。もうそんな貧しくないのだし、車もあるから郊外でも十分だというが、災害とか緊急時には車では対応できないのだ。
3.大連空港の状況
 大連に長くいて、いつも市内からも開発区からも30分でゆけるという好条件の空港に満足していた。だが欠点は、軍民共用の空港で、成田行きの便を待つ間、戦闘機が次々に離着陸の訓練を行い、着陸時は後部のパラシュートのような白い傘を広げて、短距離での着陸訓練するのをみていて、事故が起こったら大変だなとひやひやしていたことだ。
 というのも、空港の周囲は普天間と同じくらいの密度で、5-10階建てのアパートが林立していたからだ。それは主に滑走路の周辺に広がっていたのだが、空港ビルから市内へ向かう大通りの周辺には、空軍の司令部と広大な敷地に軍人用宿舎が何棟も続いていた。その上空に飛行機は飛ばないようになっていた。
 大連市はこの状態を何とか改善しようとして、市内から高速で1時間以上北に新しい空港を作るという計画を何年も前から打ち出しているが、一向に進まない。わけが判らなかった。
しかし、今回の普天間基地の名護市辺野古への移転がこんなに長引いたのと、まったく状況は違うが、その底辺に人間のさがが覗かれるようだ。それはこうではないかと思う。
4.墜落事故の危険と隣り合わせだが、生活の便利さを手放したくない軍
 大連の場合、もし空軍が今の空港から1時間以上も北の新空港に移動すれば、訓練機の時間が民用に供されるし、広大な敷地を持つ軍の司令部と宿舎を撤去してそこに新たな滑走路を作れば、問題は一気に解決しそうなものだと思う。だがそうはいかないようだ。
 軍の言い分は、上記自衛隊の友人の話の中にあるように、緊急時に徒歩でもすぐ駆けつけられるような宿舎とその近くに軍人と軍属の家族が生活してゆけるだけの環境がなければならない。それには「社交街」がすぐ近くにあることも含まれるだろう。それは市内から2-30分でないと、高速で1時間も離れては不便極まりないという。
5.普天間基地を別の島や長崎・鹿児島などの過疎の半島の先端に移せぬ理由
 東アジアの国際情勢の危さに対処するには、沖縄地区が一番ふさわしいというのは、これまでも誰もが認めるところだ。ところが、これをどこか人口過疎な島とか長崎鹿児島の半島の先端に移すということが現実的かどうか?という点からすると、上記の大連の例でみれば、そこに居住する何千人もの軍人とその軍属関係及び家族が便利に生活できる条件がなければ難しいということになる。基地ができれば、自然にそういう施設ができて、また多くの人がそこに集って来て、以前の様なにぎわいのある町が形成されるという説もあろうが、上述のように、現代の若い軍人は、何の娯楽もない基地のすぐ近くの軍の宿舎で、
たとえ無料でも住み続けるのは嫌だと感じるだろう。買い物や子供の学校、独身軍人向けの歓楽街もセットとしてなければ、だれも駐留したくないということになろう。

 以上だが、余談ながら、60年代のベトナム帰還兵の話を下記する。
 私の大学時代の話だが、邦楽部で尺八を吹いていた。京都のお寺で琴の人達と夏合宿で、秋の発表会に向けて練習をしていたら、背の高い20数歳のアメリカ人が稽古場にやって来て、琴と尺八を聞かせてくれという。部員の誰かがどこかで知り合って、案内したものだ。彼は気にいってくれ、それで私がプロの演奏をラジカセに録音して、彼に送る役となった。練習が終わって、夕食をするので、何名か付き合うことになった。夕食後彼が京都のそういう方面の場所を教えてくれないかと、訊ねてきた。当時20歳前だった私は、耳学問では聞いていたが、知らない、と答えた。彼は残念がった。その後、彼の言葉に「Air conditioned」という単語が含まれていて、最初意味が判らなかった。クーラーのことだと推測したが、当時の日本ではエアコンという言葉は普及しておらず、クーラーというのが一般的だったと思う。彼はクーラーのついた部屋でということのようだったが、当時日本でクーラーはまだ高嶺の花であった。自動車にも装備されていないし、普通の家にはクーラーはなかった。だが暑いベトナムの戦場から帰還してアメリカに戻る彼は日本の夏の暑さがこたえていたようで、エアコンがあるところを第一に探していた。
 酷熱の地獄のような戦場から、半年数カ月ぶりに娑婆にもどってきた兵士の休息には、夏の京都は同じくらいこたえただろう。2020年のオリンピックは前回同様10月に開かないと、8月では世界第一級のアスリートたちには過酷な暑さとなるだろう。
       2014/01/17記 

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日米安保と沖縄問題

日米安保と沖縄問題
 これはとても難しい問題で、戦後70年弱たち、ソ連が解体して冷戦が終わったと思ったら、今度は中国が台頭してきて、脅威となってきたことから、そう簡単に日米安保条約を止めるわけにはいきません。私としては占領が終了し、旧日本軍も武装解除できたのだから、米国民としては、余計なお金のかかる駐留軍の軍人をできるだけ早く引き上げて、
もっと別の有用な方面に使いたいというのが本音ではないかと思います。
 ひるがえってみると、米軍は誰のために日本に駐留しているのでしょうか?
1.日本とその周辺同盟国のためでしょうか?
2.それは日本とその周辺国が第3者から攻撃され、占領されたら米国にとって不利益と
 なるからでしょう。ということは米国のために駐留しているということになりますね。
 「情けは人の為ならず」駐留しているのは、人の為でなく、自分のためであるでしょう。
 日本の為に駐留しているのだから、基地とかその運営経費を負担せよというのは、
 彼らの理論ですが、日本としては戦争に負けたのだから、占領中と戦後しばらくは、
 やむを得ないとしても、これから先何十年もこのままでいいわけではないでしょうね。
 いつかは駐留軍のいない国にならなければいけないでしょうね。或いはNATO軍のように、日米カナダ豪州などの連合軍の形の方が望ましいかと思っています。
 今からそれを考えなければいけないと思います。
3.我が住まいの神奈川にもまだ沢山の米軍基地とか兵站・住居があります。
 本牧に住んでいた時は、隣に米軍の住宅があり、PXにも沢山の米兵が来ていました。
 私も米国大使館員からそこで買った免税タバコを貰ってサンキュウと言っていましたが。
 本牧からは撤退したが、沖縄についで多くの基地があり、多くの神奈川県民は一刻も
 早く、神奈川から撤退して欲しいと思っています。
 誰かが言ってましたように、横須賀に空母一隻残すだけで、あとは全て撤退して欲しい、
 というのが本音です。
4.米軍の大半が居なくなったら、日本は軍備を強化しなければなりません。これは独立
 国として、同じ敗戦国だったドイツやイタリアが持っているように、或いは危険な隣国
 がある限り、自前で抑止力を持たねばなりません。これまではそれを持つことを米国が
 怖れていたし、許してこなかったということだと思います。
5.原発は細川・小泉組が都知事選を絶好の機会として、誰もブレーキ役の居なくなった
 かつて愛弟子だった首相への挑戦状を突きつけるものでしょうね。
 米軍基地はすぐ無くせといっても国際情勢から無謀なことはわかりますが、原発は今、
 一機も稼働していなくても、ドイツの様にフランスの原電から輸入しなくても、何とか
 やっていけてる、もちろん高価な輸入燃料で体力消耗は大変ですが、もし再度の津波で
 どこかの原発が福島と同じ状況になったら(ならないという保証はどこにもない)それこそ、もうどうしようもないことになるから、その前に止めておくのが良いと思います。
     2014/01/15記

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「ユダヤ人とは」

「ユダヤ人とは」
 Kさんから送ってもらった英字紙エコノミスト記事への雑感

世界のユダヤ人は1300万人前後。彼らが今後通婚で融け合う方向に行くのか、イスラエルに帰還して、純潔を保持し続けて、周辺諸国との軋轢を増すのか?JIBsを支援するアメリカはJIBsと緊張関係とかうまくいっていない、中国・中東諸国・大陸欧州とも微妙な立場に自らを追い込んでいる。味方の敵は敵というのは困ったものである。

1.
 日本などでは父親が日本人なら日本人とみなす考えが強いのに対し、ユダヤでは母親がユダヤ人の子をユダヤ人とみなすというのは、最近DNA検査で世間を騒がせているタレントの父子の関係と類似した問題である。聖母マリアの子は父が誰であろうとユダヤ人だと言う訳だ。多くの民族が入り混じっていたパレスチナではそれが種の永続性を保つ一番確かな方法だったであろう。そのユダヤ人の母から生まれた人(神)がキリスト教を広めたのだから、そして英国首相のデズレーリらがキリスト教に改宗できたのだから、イスラエル以外に住む人達は、徐々に通婚によって混在してゆくと思われるが、どうだろうか
 6-7世紀に戦乱によって沢山の高句麗人や百済人が半島から渡来してきたが、一旦数か所の集落に集められた後、各地の邦人と通婚し徐々に日本化してきた。だが、この百年程の日韓併合後に渡来してきた韓国朝鮮人は、大都会の一角に集って生活し、あまり通婚せず、却ってゲットー化してきた。これは6世紀前後の人達がすぐれた文明・教養を持っていたために尊敬され、通婚が進んだことと比べて、植民地から労働者として移住させられたことなどと何らかの関係があるかもしれない。
 ディアスポラ以降のユダヤ人は記事にもあるように英仏などでは融け込んでいるのに対し、ホロコーストとソ連崩壊後の移住は、百年前の韓国朝鮮人のように、或いは、第二次大戦後の朝鮮戦争での戦乱を逃れてアメリカに渡った韓国人のように、都会の一角に集って暮らしてきて、いまだにアルファベットよりハングルが強い力を保持しているということに象徴されているのと似た点があると思われる。流暢な英語を話すのに、ハングルを捨てることはしないし、他の種族のようにアメリカ的な姓を名乗るのを潔しとしない。
2.
 ユダヤ人のみならず、多くのアラビア人ペルシャ人ソグド人などが中国に色々な事情で移住してきた。最初は交易の為だとはいうが、夫々の祖国で戦乱が起こり、そこに住めなくなって追われるように中国に移住してきた人達が多い。彼らは、最初同民族で居住区を形成していたが、長い年月を経て通婚が進み、顔立ちは殆ど区別がつかなくなってきている。但し宗教はやはりユダヤ教やゾロアスター、イスラムで、寺院を持ち、食事も異なるが、大抵は漢民族の言語である中国語で生活し、姓も安(ペルシャ・ソグド)馬や蒲(アラブイスラム)など漢字の姓を名乗っている人が多い。当人も私はイスラム教徒だとして、白い帽子を誇りにしている。しかし中国では、ユダヤ人の居住区として開封も有名である。
彼らは皇帝から漢字の姓を与えられ、石とか金とか欧州でのStein, Goldなどと共通点があるのも面白い。ちなみに満州族の愛新覚羅(あいしんぎょろ)は金という漢字姓を使っている。金さんは日本に来て、近藤さんや、今野さんとか今さんと名乗っている。朝鮮族との混同を避けるためだという。
 日韓併合で日本姓に強制的に変えさせたのが問題となっているが、1895年から統治してきた台湾では原住民の多くは日本姓にさせた(した)が中華系はそのままの方が多かったのはどういう背景だったろうか。
 日本人は自分の姓を漢字で表記するが、読みはあくまで和語が基本で、名前を漢音で発音する時は、例えば伊藤博文を「はくぶん」とかいうのは多少揶揄の気味があるとか歴史的な読みだと言う説がある。
韓国では今日自分の名前をハングルでは書けるが漢字でどう表記するか分からないという世代が増えているという。日本のような複雑な和訓読みが少なくて、大半が漢字の音からの一つの音だというのに、である。
3.
 話をユダヤ人に戻すと、記事の中でも触れられているが、今時限爆弾を抱えている1200万人のアメリカとイスラエルに居住するユダヤ人は、これからどうするのが一番良いのだろう。
アメリカに住むユダヤ人の多くが、他の民族と通婚して宗教的にも言語的にもユダヤの絆というか「しばり」からどんどん離散してゆけば、それが無宗教かキリスト教か何教かは別として、丁度中国に移住したユダヤ人やペルシャ人のようになるのが、一番可能性が高いだろう。
 さてそれでは、イスラエルに居住するユダヤ人はこれからどうすれば良いのであろうか?
 建国以来60年で人口は600万人になった。だがやはりこれといった産業の無い小国である。アメリカとアメリカに居住するユダヤ人の支援がなければ成り立って行かない国である。そのアメリカなどに住むユダヤ人が、ユダヤ人としてのアイデンテティを減衰してゆく過程で、どうなってゆくのだろうか?アメリカに住むユダヤ人の大半がユダヤに対する忠誠というか絆「しばり」を放擲しようとし始めたら、イスラエルは近隣の国と一緒になって通婚してゆくのが望ましいでのはないかと思うがどうだろう。

4.
 参考までに、中国の客家の通婚のことに触れると:
 中国にも中国のユダヤ人といわれる客家という人達が沢山いる。3千万の海外中国人の多くが、客家といわれるし、トウ小平、リーククアンユ―など有名な政治家を輩出している。
私が下宿していたシンガポールの張さん一家も客家で、9人の子供がいて、出版書店を稼業としていた。大陸から女中さんを呼び寄せたり、同族の人達の移住を支援していた。私が勤めるようになって、広東省出身の人から、なぜ客家の人の家に住んでいるのか、と聞かれた。多分学生の紹介してくれた友人がそうだったからだろう。当時200万人程のシンガポール華人の数パーセントに過ぎなかったが、8つの方言で放送されるラジオニュースにも客家語があって、これが北京語に一番近い響きを持っていたから、彼らが北方から戦乱を逃れて、揚子江の南の山間部に居住区を作り、平家の落人のように暮らしていて、明末から清初にかけての大混乱で、逃げるようにして南洋やアフリカまで移住・離散したのだ。
張さんの祖先はセーシェルに住んでいて、当時60歳くらいの張さんはシンガポールに留学にきて住みついたという。戦後、日本人と親しくなり、印刷用の紙を安定的に供給してもらって、教科書の印刷・出版を始めて経済的に成功したと語ってくれた。
 彼らは多くの南方から来た華人から差別されてきて、やはり法律や医学や出版などの方面で頭角を表すほか、生計を建てるすべが無かったのだ。9人の子供も成長してそれぞれ客家の人と結婚した。それは30年前の話で、最近は孫の世代となり多くの人が通婚し始めているとの由。それは高層マンションが林立し、それぞれが「集団で居住していた地区」から跳び出て、自由な交際が始まったことにあるだろう。日本でも西日本の墳墓の周辺に住んでいた人達が、都会に移住して、戸籍も移して自由に通婚し始めたことで、差別が減少してきているという。京都や奈良ではかつて、どこそこ地区の土地は買うなとか、交際するなとか、土地の人からよく言われたし、今でもそのあたりの土地は駅に近くても他より安いのが現実だが。
     2014/01/12記
 

 

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病後雑談の余2

病後雑談の余2
2.
 だが兪正燮の頌した清朝の功徳は、当然のことといわねばならない。彼は乾隆40年に生まれ、壮年から晩年に至る頃は文字の獄の血の跡はすでに消え失せ、満州人の残酷な炎はもう緩和し、愚民政策は早々に集大成され、剰じたのは「功徳」だけだった。当時の禁書は、彼は必ずしも見ていないと思う。今、ほかの事はいわず、単に雍正乾隆両朝の中国人の著作への手口を見れば、驚天動地、魂を揺さぶるに十分だ。(版木を)すべて焼却し、一部を選んで焼却、抉る・けずるのたぐいは今触れない。最も陰険なのは古書の内容を改ざんしたことだ。乾隆朝の編纂した「四庫全書」は多くの人が一代の盛業と頌すが、彼らは古書の格式をむちゃくちゃにしたのみならず、古人の文章も修正し:これを内廷に蔵しただけでなく、文風が比較的盛んな地域に頒布し、天下の士子に閲読させ、我々中国の作者の中に大変気骨のある人がいたことを永遠に感じさせなくしたことだ。(この2句はお上の命令で「永遠にその底細を見いだせなくさせた」に改めた)
 嘉慶道光以来、宋元版珍重の気風が徐々に盛んになり、乾隆帝の「聖慮」も悟りだされることなく、宋元本の影印本や校訂版の書が大量に出版され、これが当時の陰謀の馬脚を露わさせた。最初私を啓示したのは「琳琅秘室叢書」の2部の「茅亭客話」で、一つは宋の校訂本で、もう一つは四庫本だった。同じ本なのに、2冊の文章に常に違いがあり、且つまた必ず「華夷」に関した所だった。これはきっと四庫本が改ざんしたので:今宋の影本の「茅亭客話」も出されて鉄の証とするに十分だが、四庫本と対比しないと当時の陰謀を知るすべもない。「琳琅秘室叢書」は図書館で見たが、手元にはない。今買おうにも高すぎて実例を挙げられない。だが少し簡単な方法はある。
 最近続々出た「四部叢書続編」は新たな骨董書と言うべきだが、この中に満州の清朝が中国の著作を抹殺した案巻がある。例えば、宋洪邁の「客斎随筆」から「五筆」まで、宋刊本の影本と明活字本の影本で、張元済の跋では、その中の三条は清代の刻本にはない。
改ざんされたのはどんな内容の文章だったか?紙墨の浪費を惜しむから、ここでは一条だけ「客斎随筆」巻3の「北狄俘虜の苦」を摘録す。――
 『元魏が江陵を破り、全ての俘士民を奴隷とし、貴賤を問わず、蓋し北方の夷俗はみなこうなのだろう。靖康の後、金の捕虜になったものは、帝子王孫、官僚士族の家も尽く没して、奴婢となり、作務を供させられた。一人当たり月5斗の稗子を支給され、自ら舂いて米とし、一斗八升を得、それを干し飯とさせた:年に麻5把を支給し、それを紡いで衣服とさせた。この外には一銭一帛も得られず、男で紡ぐことができなければ、年中裸だった。虜はこれを哀れみ、炊事を担当させ、火をくべて暖をとることもさせたが、外に柴刈にでかけ、火辺に坐すと皮肉はすぐに脱落し、日ならずして死んでしまうのだ。唯、手に芸ある者、医者、刺繍工の類を喜び、普段は地上に車座にさせ、破れた蓆や蘆を下に敷かせ、客があると開宴し、音楽のうまいものに演奏させたが、酒が尽き、客が散じると、夫々元に戻り、旧に戻って車座で刺繍させ、その生死にまかせ、草芥の如くに扱った』
 清朝は只自分の残酷さを蔽うのにならず、金人に替って彼らの残酷さまでも掩飾した。
この一事からみても、兪正燮が金朝を仁君の列に入れるのは正しくないのが分かるし、彼らは宋朝の主と奴隷の区別を一掃し、一律に奴隷とし、自分が主になったに過ぎぬ事が分かる。但し、この校訂は清朝の書房の刻本を使ったもので、四庫本がこうなのかどうかは知らぬ。更に詮索しようとすれば、「四部叢刊続編」の旧抄本、宋の晁説之の「嵩山文集」の影印本がここにある。巻末の「負薪対」一篇と四庫本を対比すれば、一斑の実証が得られるゆえ、ここに数条摘録する。大抵は、削除してなければ、改訂されており、語意は全く異なり、まるで宋臣の晁説之がすでに、金人に戦慄してしまって、何も言えずに深く罪を得てはならぬと怖れているかのようである。(宋は金と戦争中であった:訳者注)
 旧抄本                  四庫本
 金賊は我が辺境の臣がだらしなく、      金人は我が辺境の地を騒がし、辺城の
  斥候も明ならず、遂に河北を突破し、     斥候は明ならず、遂に河北を長駆し、
  河東を占領せり。              河東に盤居す。
 孔子の春秋の大禁を犯し、          上下臣民の大恥なり。
   百騎を以て、虜の梟将をしりぞけ、     百騎を以て遼の梟将をしりぞけ、
  彼金賊は人の類に非ずといえども、       彼金人は強盛といえども、
  犬豚亦、瓦をふるえば、怖れるといい、    明確に威令を以て厳格に対応すれば、
  顧みてこれを恐れんや。          顧みてこれを恐れんや。
  (中略)

 この数条ですでに「賊」「虜」「犬羊」が忌避されているのが分かる:金人は淫掠というのも忌避:「夷狄」も忌避。但「中国」の2字も見られないのは、それが「夷狄」と対立するから、それが容易に種族思想を惹起するためか。
 ただ、この「嵩山文集」の抄本を作った人は、自分は改めず、読んだ人も改めず、旧文を残してくれたので、今日我々に晁氏の真面目を見せてくれ、今から言えば、大いに「憤懣をはら」させてくれる。
 清朝の考証学者は言った:「明人は古書を刻すのを好み、古書は亡んだ」と。彼らは妄りに校訂したためだ。この句をみて、私は思うのだが、清人は「四庫全書」を編纂して古書は亡んだ、と。彼らは旧式を妄りに変え、原文を改ざんしたから:今の人は古書に標点をつけ、古書は亡んだ。彼らは妄りに句点を付け、仏頭に糞を塗った:これは古書に対して、水火兵虫以外の三大厄である。

訳者雑感:清朝が自分と同じ民族といわれる女真の金が北宋を侵略したことを掩飾したというのは、興味深いことである。元が金を滅ぼし、南宋まで滅ぼした時の記述はどう変化したのだろうか。この点も魯迅が野史を読んで、紹介してくれていたらと思う。
 元が明に負けて、北に追い返された時の明の皇帝永楽帝は、万里長城を越えて蒙古に攻め込んだ最初の皇帝だと言われる。だが、もし明が衰退したときに、満州族ではなくて、モンゴル族がまた攻め込んできて、中国を支配したら、どうなっていただろうか?
金の悪口はそのまま残り、元のことを掩飾したに違いない。
 中国の古書は魯迅の指摘する様に、「水(洪水)火(焚書)兵(戦乱)虫(虫喰い)」の被害を受けて、多くの書物は散逸したが、仏僧によって日本に持ち出された物は大切に扱われ、4つの被害を蒙らずに残った。但し、中国の本体は、上記の天敵以外に、三大厄に会ったという。最初は水火・兵虫・につぐ三番目の厄かと思ったが、どうやら明人の刻本と、清人の「四庫全書」の編纂及び、今の人の「妄りにつけた句読点」を指すようだ。
 上海の有名な女優が戦前残した句読点はこうだ。「飲食男女人之性」と一切句点が無いのを「飲食男、女人之性也」とした。孟子の言葉だそうで、孟子の原文は「食色、性也」で、今の印刷本には点があるが、元々は無かっただろう。これの「現代文訳は飲食男女是人的本性」とあり英訳はEating and sex are human nature.だ。
女優の句点はEating and man are woman’s nature.となるようだ。
縦書きの積み木を重ねたような漢字文の面白さだ。
     2014/01/10記

 

 

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