魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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「これを記録として残す」
暁角
2.
「申報」8月9日号に当地の人、盛阿大に養女有り、名を杏珍16歳、6日に突然失踪し、盛は部屋の衣服を点検し、杏珍の文箱から恋文を発見、それには:
「光陰矢のごとし、あれから6ヶ月半、ここで悶々と過ごしているが、考えてみれば無窮の快楽が目の前にあり、時日を数えればまもなく我々の時が到来するから、万事秘密が肝要で、何か良い物があって機会があれば持ってきてください。お金は大事にしてください。まもなく我々にはお金が必要になるから、くれぐれも無駄遣いしないで、体も大切にしてください。私は今ベッドで君を思い、朝はバルコニーで君の開門を待ち、君の姿を見ると元気になります。どうぞ余り思い悩まず、また会いましょう。健康で、本も読んでくださいね」
盛はこれを警察に渡し、ほどなく誘拐者を捕えた。
この種の事件は教訓とするには足りない。が、その手紙は申し分の無い語録体の情書で、「宇宙風」に載せたら佳作とされようが、惜しいかな林語堂博士は米国へ講演に赴かれ、もう中国の文学風習を顧みることはなくなってしまった。
今ここに録すは、以て他日「中国語録体文学史」を作る時に採択されるのに備えしもの。その作者は「申報」によれば、フランス租界の蒲石路479号にある協盛果物店員で無錫の項三宝なり。
訳者雑感:この時代の中国は身代金目当ての誘拐事件が多発した。私が天津でテニスを通じて親しくなった梁さんの長兄も誘拐され、多額の身代金を払ったが、遺体となって帰って来た、と「天津の十大買弁」という本にある。
魯迅がここで揶揄しながら記録に残そうとしているのも、林語堂たちへの強烈な批判である。アメリカに去ってしまった相手にさえ、こうして罵ることを辞さない、林も辟易したに違いない。彼は戦時を逃れ米国で中国関係の文章を書いて発表している。それが米国人には中国理解の良書として受け入れられたようだ。
2015/01/01記
「これを記録として残す」
暁角
1.上海の「大公報」の「大公園地」に「非庵漫話」の8月25日付に「太学生受験」と題して云う:
「今回、太学生の受験で、国文の題は文科では:「士は第一に人物識見で、その後に文芸」で、理科は「南粤王に擬して、漢文帝への復書」並びに漢文帝より南粤王趙佗に遣した書の原文も題の後に付すであった。この試験問題は現在の異動に対して、目の前の情景に感慨を催すに違いない。だが太学生はこの2つの策論式命題に対して、多くの人が頭をなでずにはいられなかった。ある太学生は、答案用紙に大書し:「漢文帝の三文字は故事の常識のようだが、漢高祖の何代目か知らぬ。南粤王趙他については素より知らず、何も書けぬ。且つ帰って勉強して来年また会いましょう」と。某試験官はこの学生が佗を他と誤記しているのを取り上げ、批判して云う:「漢高文帝爸、趙佗は他ではない:今年は不合格だが来年また来なさい」またある受験生は「士は第一に人物識見で、その後に文芸」の題の後に答案を書かず、只「もし美人を見れば甘んじて拝し、凡そそれを聞けば頭を回らすを失せず」の聯を書いて筆を放り出して去った。某試験官はこれを批して云う:「鼓鼙(小鼓)を聞いて将師を思う、臣は試験に臨んで、美を愛する興を動もし、幸いなるかなこの受験生は崖に懸かり馬を勅す、さもなくば竹打ち40回で場外に追放すべし」
わずか300余字だが、学生は旧学問の空疎さと試験官の態度の浮薄さを表し、
読む人に「歇後の鄭五は宰相となり、天下の事を知る」者也、とは誠に古の人の及ぶべからざるもの也。
だが国文も亦難しい所あり:漢に趙他が無ければ、中華民国も亦あに「太学生」がいるだろうか。
訳者雑感:
太学と言う言葉は旧時の最高学府と辞書にあるが、太学生は無い。そこで学んだ者を指すのか?いずれにせよ、20世紀の試験問題で、漢代の故事に関して答案を書けという試験官の空疎さと、受験生の対応、それを大公報という新聞に載せるという「やくたいもない」ことを日中戦争が始まろうとしている時に、新聞ネタにするというのは、中国が如何に広大で、日本軍が攻めてきている事に無関心な層がどれほどいたかが分かろうと言う物だ。
今の反日、日本の侵略に備えよというか、攻められる前に攻めよ云々と声高に呼びかけているのは、古くから異民族に攻め入られても我関せずとしてきた、民族への警鐘を鳴らすのだろう。一般の人はそれも気にしないのだが。
2014/12/31記
「これも生活」…
これも病中のこと。
ある種の事は、健康な人も病人も何も気にならず、きっと遭遇することも無く、とても細かなことだ。大病からはじめて癒えた時の経験で:私には疲れ切ってしまう怖さと、休息の気持ちよさは二つの良い例だ。以前はく自負していたのだが所謂、疲労を感じたことはなかった。机の前の丸椅子で物を書いたり、注意して読書するのは仕事で:傍らの藤椅子にもたれて世間話をしたり、気ままに新聞を読むのは休息で:両者に大きな違いは無いと感じ、それを自負していた。今はじめてそれが違うのが分かった。従って、違いは余り無いから大して疲れないというのは、精魂こめて仕事をしてこなかったというわけだ。
親類の子は高校卒業後、やむなく靴下工場へ養成生として働きに出るしかなく、気分としてはとても悪く、仕事もきつくて殆ど年中休み無しだった。理想が高く、さぼるのがいやで一年頑張った。が、ある日突然、へたと倒れくずれ兄に「全身、もうまったく力がでない」と言った。
それ以来立ちあがることもできず、家に送られ横に寝かされた、食欲も無く、体を動かしたり、話す気力も失せた。耶蘇教の医者に診てもらったら、これと言った病はないが、非常に疲れている、との診断だった。何の治療法も無い。当然ながら続いてきたのは静かな死だ。私もかつて2日ほどそんな情況になったが、原因は違って、彼は仕事に疲れたのだが、私は病気疲れだ。私も確かに何の欲望も無くなり、一切が自分と関係無いようで、全ての挙動が余分なものに感じた。死を思ったことはないが、生をも感じなかった:所謂「欲望の無い状態」で死の第一歩だ。私を愛してくれた人の中に、これを密かに悲しんで涙を流してくれた:だが私は転機を迎え、少しスープを飲みたくなり、周囲の物を眺め、壁、ハエの類で、その後やや疲れを感じ休みたくなった。
気分のままに横になって、四肢を伸ばし、大きく欠伸をした。全身を適当に横にして、一切の力を緩めた。これはとても気持ちが良かった。これまで言葉にしたことのないほどだ。強壮で福のある人がこれまで享受してきたことの無い物だと感じた。
一昨年も病後に「病後雑談」5章を「文学」に寄稿したと記憶しているが、後の4章は発表できず、出せたのは最初の1章だけだった。文章の最初ははっきりと「一」とあるが、「二」「三」は無く、注意すればおかしな感じだが、読者に求めたり、批評家に理解を望むことはできない。ある人はそれで私を断じて:
「魯迅の病気になるのを賛成している」と言った。今も多分こういう災難を免れぬが、私はやはりここで:「私の文章はこれで終わりではない」と声明を出しておきたい。
転機から4-5日後の夜、目が覚めて、(妻の)広平を起こした。「水を一杯頼む。電灯を付けて見させてくれ」と言った。
「どうしたの」彼女の声は焦っていた。多分私がうわごとを言っていると心配していたのだろう。
「生きていたいから。きっとこれも生活だ。いろいろ見てみたいんだ」
「おおー…」彼女は起きて茶を飲ませてくれた。すこし歩いて又すぐ横になり、電灯はつけてくれなかった。
彼女が私の言葉を理解できないのが分かった。
街灯の光が窓から射すので部屋はほの明るく、私はぐるっと見回した。なじみのある壁、壁の稜線、見慣れた本の山、まだ装丁してない画集、更けゆく夜,無窮の彼方、無数の人々、全てが私に関係がある。私は存在し、生活しており,生きてゆこうとしている自分を切実に感じ始めた。動こうと思ったが、暫くしてすぐ又眠った。
翌朝早く、日光の下で見たら、なじみの壁、見慣れた本の山…など、平時はいつも目にするが、実は一種の休息だった。だが私たちはこれまでこういう物を軽視してきて、たとえそれが生活の断片としても、お茶を飲んだり、かゆいのを掻いたりすることより下にみて、なんとも感じなかった。私たちが気にとめるのは特別な精華で、枝葉ではない。名士の伝記を書くのも大抵その特長を誇張し、李白が如何にして詩を作ったか、どれほど気がふれていたか、ナポレオンは如何に戦い、どれほど睡眠をとらなかったかなどで、彼らが大して気もふれなかったとか、どれくらい眠ったかではない。だが終生もっぱら気がふれて、眠らずにいたら生きては行けない。時に気がふれ、眠らないのは、時々は気もふれず、眠ったからだろう。しかし人はそうした平凡なことはすべて生活のおりだとして見向きもしない。
それで目にした人や物は盲人が象を模すごとく、足を模せば柱の様だと思う。中国の古人は常にその「全き」を欲し、婦人用の「烏鶏白鳳丸」を作るのにも鶏一匹丸ごと毛も血もすべて丸薬に入れる。そのやり方は実に滑稽だが、主趣は間違ってはいない。
枝葉を取り除く人が、花果を得ることはけっして無い。
私に電灯をつけてくれぬので、広平にとても不満で、顔を見て不満をぶつけ:自分で動けるようになると彼女の読んでいる雑誌を見たら、果たせるかな、私の病中にも全てこれ精華の雑誌がたくさん出ていた。ある雑誌は後ろに「美容妙法」「古木発光」或いは「尼姑の秘密」などあったが、巻頭はやはり激昂慷慨の文章だった。文を書くのにもすでに「一番中心的な主題」があり:義和団の頃ドイツの将軍Walderseeと一時枕を共にした(清末の妓女)賽金花さえ、すでに九天護国娘娘(女神)になっていた。
尤も驚いたのは、以前「御香縹緲録」(西太后の故事)で、清朝宮廷を面白く書いていた「申報」の「春秋」も時の経過と共に変化してきて、終には「点滴」の中に入れられ、西瓜を食べる時に、我々の土地は西瓜のように瓜分されたのを思い出させたという記事だ。無論これはいついかなる時でも、何が起ころうとも国を愛さずにはいられない、ということでそれは議論の余地は無い。だが、もしそれをこう考えながら、西瓜を食べろと言われたら、きっと飲みこめないに違いない。懸命に飲みこもうとしてもうまく消化できず、腹の中でごろごろするだろう。これも病後の神経衰弱のせいとも言えぬ。西瓜を例に国恥を語りながら、その後でおいしそうに西瓜を食べ、血肉の栄養にできる人は多分何かが麻痺しているのだろう。彼に何を言っても意味は無い。
私は義勇軍に参加したことが無いので、確かなことは言えぬが、自ら問うに:戦士が西瓜を食べる時、食べながら他の事を考えるか?そうとも限るまい。只喉が渇いたから食べたくなり、うまいなら他に聞こえのよい立派な道理も考えないだろう。西瓜を食べて元気になって戦うと、喉が渇いて舌がひりひりした頃とは違ってくる。だから西瓜を食べて抗戦するのは確かに関係があるが、それと上海をどの様に設定すべきかの戦略とは関係ない。こんな風に終日泣きっ面をして飲食していた日には、暫くしたら胃を壊し、敵と戦う事もできない。
然し人は往々、珍しくへんてこなことを喜び、西瓜さえ普通に食おうと言わない。だが実は、戦士の日常生活はすべて歌ったり泣いたりするものではないが、歌ったり泣いたりすべきことと関連が無いわけではなく、それこそが実際の戦士である。 8月23日
訳者雑感:
魯迅が死の2-3か月前に大病し、癒えた時の感想だ。所謂「欲望の無い状態」で死の第一歩だ。というのが彼の言葉だが、ある時目覚めてスープを飲みたいと所望する。そして見慣れた壁や本を目にして、生きて行こうとする。激しい性格の魯迅が死を前にし、そこから蘇生したときの文章だ。それでも文章を書こうとし、死ぬまでそれを続けようとしたわけだ。
2014/12/29記
半夏小集
1.
A: 皆さん見てください!Bさんが乱暴にも私の上着を剥いでしまったんだ!
B: それはね、Aさんはやはりそれを着ない方がいいからで、剥ぎ取ったのはもっと格好よくみせるようにするためなのさ:でなきゃ、剥ぎ取ったりするもんか。
A: けど私はやはり着ていた方がいいと思うんだ…。
C: 現在、東北四省(旧満州)を失っても君は人ごと見たいに何も気にせず、自分の上着のことで騒いでいるだけ、利己主義の豚だ!
C夫人: 彼はBさんが合作の良い相手だということを何も知らないの。
トンマねえ!
2.
筆と舌で異民族の奴隷にされている苦しみをみんなに訴えるのは何ら間違ってはいない。だが注意せねばならぬのは、みんなにこんな風な結論を抱かせてしまうことだ:「それならやはり我々みたいに、同じ民族の奴隷になっている方がましだ」と。
3.
「聯合戦線」説が世に出ると、以前敵に投降した「革命作家」連中が「聯合」の先覚者だといって現れて来る。投降や敵に通じて密かに人を害したことが、今になると全て「前進的」で正しい事になる。
4.
これは明滅亡後のこと。
凡そ、生き残った者の中で心服していた者もいたが、多くは圧服されていた。
だが、生き残って一番自由に暮らしていたのは漢奸で:清く高潔に生きて尊敬されたのは、漢奸を痛罵した逸民だ。後に彼が林の中で生を終えると、子が科挙の受験(して役人になる)のは構わなかったし、尚かつ銘々良い父親を持っていた。黙々と(清に)抗戦した烈士たちで、遺児を残せたものは非常に少ない。
私は今の文芸家がいにしえの逸民のような気持ちを持たぬことを望む。
5.
A: Bさん、貴方は信頼できる良い人だと思って、革命関係のいろんな事も貴方に隠すようなことはしなかった。それなのになぜ敵に密告したのですか?
B: なんでそんなことを聞くの? 密告などと! 私がしゃべったのは彼らが聞いてきたからです。
A; 知らないってどうして言わなかったの?
B: なんですって! これまで私は嘘をついたことはなく、そんな信頼できない人間じゃない!
6.
A: あらBさん、3年ぶりね! きっと私に失望したでしょう…。
B: いいえ別に。なぜ?
A: あの当時貴方に言ったでしょ。西湖に行って2万行の長詩を作るって。でも今まで1字も書けていません。ははは。
B: おお!何も失望などしていません。
A: ずいぶん「世故」に長けられましたね。皆貴方の記憶が良くて「人に厳格」だったと言っていたのに、随分寛大になられたのですね。貴方も嘘をつくのがお上手になられて。
B: 嘘じゃありません。
A: じゃあ、本当に私に失望していないの?
B: 失望するとかしないとか何もありません。もともと貴方を信じていないから。
7.
荘子は「(地)上では烏や鳶に食われ、(地)下ではケラや蟻に食われる」から、死後の体は自由に処置したら良い。どのみち結果は同じだと考えていた。
私はそんなおおらかにはなれない。私の血肉を動物に食わせるなら、ライオンや虎、鷹、隼に与えてほしい。毛の抜けた狗などに食われたくない。
ライオンや虎、鷹、隼の餌となれば、彼等は天空や岩頭、大砂漠やジャングルの茂みで堂々と壮観である。捕えられて動物園に放たれたり、死んで剥製になっても人をうっとりさせ、卑しい心を消してくれる。
が、毛の抜けた狗を太らせても、やたらにワンワン吠えるだけで実に厭らしい!8.
フランスのGiraudはSainte Beuveの遺稿を編集し、その一部を「我が毒」と名づけた(Mes Poisons):私は日本語訳で次の一節を見た:
「誰かを軽蔑してそれを公言するのは、十分な軽蔑とはいえない。惟、沈黙するのが最高の軽蔑だ。――が、そんなことを言うのも余分だ」
誠に「毒の無いのは丈夫と言えぬ」筆墨で表すのは小さな毒に過ぎぬ。最高の軽蔑は無言でかつ目玉すら動かさぬ事だ。
9.
欠点の多い人物のモデルとして小説に書かれると、その人は忌々しいと思う。
だがそれは大したことではないことを知らないからだ。この世には小説に書かれない人も多いのだから。もしそんなのが書かれて、真に迫っていたら、その小説はだいなしになってしまう。
画家は蛇やワニ、亀、果物の皮、屑籠、ゴミの山を描くが、毛虫.かささき、
鼻水、糞など描かないのと同じ道理だ。
私が小説書きだと知ると、避ける人がいる。私はいつもこう言ってその人に勧めるのだが、残念ながら私の毒はまだそんな域に達していない。
訳者雑感:
8の軽蔑について、にこにこと手を差し出して近ずく某首相に対し、目玉すら動かさず、あさっての方に顔をむけた某主席は、それほど軽蔑してるんだぞ、との意思表示だろう。これ以上の軽蔑を表す方法は無い。しかしそれはテレビカメラの無い時代で誰も報道せぬ時代ならすんだことだが、今や全世界にその映像が流れ、多くの諸外国のメディアはその大人げないしぐさを批判している。
外交の場であれをしては損だろう。
2014/12/22記
「ソ連版画集」序
――前半は「ソ連版画展覧会記」で、「付記」を削除。再度下文を加えた:
右の一篇は今年2月ソ連版画展覧会が上海で開催された時、「申報」に載せた物。この展覧会は中国に多くの有益な点をもたらした:このため、幻想から写実主義の実地に踏み入った人が多くいると思う。良友図書公司は画集にしようとの趣旨で、非常にうれしいと思ったから、趙家壁さんが私に選択と序文を依頼されたので、何も考えず承諾した:私のやりたいことだったし、やるべきだと思っていたから。
絵画の選択、とりわけ版画は前からの約束を果たす事だったが、病気になり、1か月余何もできなかった。序を書く段になっても紙一枚を持つ力さえ無かった。
印刷を中断し、私の文を待ったが、どうしようもなく、以前の物を取り出して、前面に付けて責めを塞いだ。だが私がそこで言っている事も些か参考になると自信はあったので、読者にはあいにくこんな時に病気になって新たな物が書けぬのを赦してほしい。
この1カ月、毎日熱が出たが、そんな時も版画の事を考えていた。これらの作者は、一人として洒脱・飄逸・怜悧・精巧さは無いと思う。彼等一人ひとりは広大な黒土の化身のように、時に全く不器用さで以て、十月革命以後、山を開いた大師は飢えを忍び、寒さと戦い、拡大鏡と刀を持って、不撓不屈の精神でこの部門の芸術を開拓した。今回復製されたとはいえ、大半はなお存在し見ることができる。どれをとっても堅実で無く懇切でなく、又巧妙に格好よくやろうとする意図は感じられない。
この画集が世に出、単にソ連の芸術の成果を見ることができるだけでなく、
中国の読者に良い影響を与えることができるのを希望する。
1936年6月23日 魯迅述、許広平 記
訳者雑感:版画に対する魯迅の愛情は、病気で紙一枚も持つ力が無い時でもそれまでに見た黒土の化身たちの「不器用」だが堅実で懇切な版画を思い浮かべていた。それで印刷を中断していては読者に申し訳ないと、妻に筆記させて、画集を世に出そうとした。きっと広告の段階で、魯迅の序が付くという触れ込みがあり、魯迅の序が無いと売れ行きに影響がでるのを心配したのであろう。
いつの世も、信頼され尊敬される大家の序があるかないかで、読者の購読のきっかけに大きな影響があるのはやむを得ないことだが、魯迅はこの画集を中国の読者に届けるために、病をおして序を口述したのだろう。
2014/12/19記
我々の現在の文学運動について
――病中の訪問者に答えて、O.V筆録
「左翼作家連盟」のこの5-6年来の指導と戦いは無産階級革命文学の動きです。この文学と動きは、更に発展している:現在ではより具体的より実際的な戦いで民族革命戦争における大衆文学に発展した。民族革命戦争は無産階級革命文学の一つの発展で、無産階級革命文学は現在、本当に広範な内容を持ちました。この文学は今現在存在し、またこの基礎の上に再度実際の戦闘生活に培養され、爛漫な花を咲かせ始めています。このため、新しいスローガンを提出は、革命文学運動は停止できぬとか「この道は通れない」とか言えなくなりました。
従って暦来のファシズム反対を停止することなく、全ての反動に反対する血の闘争を止めないで、この闘争をより深化させ拡大して、実際的に微調整しながら、闘争の具体化で抗日反漢奸闘争とし、全ての闘争を糾合して抗日反漢奸闘争という総合的な流れにするのです。革命文学は決してその階級的指導者の責任を放棄せず、その責任をより重大にし全民族を階級と党派に分けず、一致して外国に立ち向かう。この民族の立場が真の階級的立場です。トロツキーの中国の孫弟子たちは混乱していて、この点を理解できていない。そして我々の若干の戦友もこれと相反する「甘い夢」を見ており、思うにこれもとても頭が混乱しており、愚の骨頂です。
だが民族革命戦争の大衆文学は正に無産革命文学のスローガンと同様、大抵は総合的なスローガンでしょう。この総合的なスローガンの下、随時応変する具体的なスローガンを提出するのは、例えば「国防文学」「救亡文学」「抗日文学」…等、私は無害だと思う。無害だけでなく有益で必要です。
だが、スローガンを掲げ、空論を弄ぶのは皆容易です。しかし、批評に応用し、創作で実現するのは問題あり。批評と創作はいずれも実際の仕事です。過去の経験で言えば、我々の批評は標準がとても狭く、見方も浅薄で:我々の創作も常に題を出して八股文を作るのに近い弱点あり。従って、私は現在この点に注意すべきで:民族革命戦争の大衆文学は決して只、義勇軍戦争に絞ってはならず、学生の請願デモなどの作品に絞ってはいけないと思います。勿論それらは最も良い物だが、そんなに狭めては良くない。それはとても広範で、現在の中国のさまざまな生活と闘争意識を描く全ての文学を包括するような広さです。現在の中国の最大の問題は、人々が共有している問題で、民族生存の問題です。全ての生活(食う事から寝ることまで)この問題に関係している:例えば、食う事と恋愛は無関係でも良いが、目下の中国人の食う事と恋愛は、全て日本侵略者と何らかの関係あり、これは満州と華北の状況を見れば明らかです。中国に唯一の出路は全国一致で、抗日民族革命戦争するしかありません。この点が分かれば作家は生活を観察し、材料を処理し、糸を緒にするように:作者に自由に、労働者・農民・学生・強盗・娼妓・貧民・金持ちなど何でも描きだせば、全て民族革命戦争の大衆文学と成りうる。作品の後ろに意図的に民族革命戦争の尻尾をつけて旗印とする要は無い:作品が必要なのは作品の後にスローガンをことさらにつけた尻尾ではなく、それは全ての作品の中の真実の生活であり、生き生きとした戦いで、躍動する時代の動向・思想と熱情などです。
6月10日
訳者雑感:中国の作品は魯迅の指摘するように、ある目的・スローガンを説明するために描かれた物が多かったのだろう。それは読者に評価されなかった。それ故、彼はそんな尻尾や旗印をつけないで、真実の生活を生き生きと描くことこそ、読者の心を動かすのだ、と病床から訴えている。彼の口述をO.V氏が筆録したものだが、戦後の文革前の文学闘争の論調に似ているのは不思議だ。魯迅が直接筆を執ったものではなく、O.V氏が文章にしたのを彼は読みなおしただろうが、彼の文体とは明らかに違いが出ている。
2014/12/18記
トロツキー派の手紙への返答
1.来信
魯迅様:
1927年の革命失敗後、中国共産党は撤退方針で再起の準備をせず、軍事投機へ転向した。彼等は都市での工作を放棄し、党員には革命退潮後、各所で暴動を命じ、農民を基盤として赤軍を作り、天下を平らげようと考えた。7-8年来数十万の勇敢な青年がこの政策で犠牲になった。現在民族運動を高揚させ要としている時、都市の民衆は革命の指導者を失い、次の革命を推進することを期すことができない手の届かない物にしてしまった。
今赤軍の天下を平らげる運動は失敗した。中国共産党は盲目的にモスコーの官僚の命令のままに、所謂「新政策」に転向した。彼等は過去の行為に反し、階級的立場を放棄し、面目を変えて宣言し、代表を派して官僚・政客・軍閥及び民衆の首切り人と手を組むように交渉するよう求めた。自分の旗幟を隠し、民衆の認識を混乱させ、民衆に対して官僚・政客・首切り人も全て民族革命者として、皆が抗日できると思わせ、その結果必然的に革命民衆を殺し屋の所に送り、再度屠殺されてしまった。スターリン党のこういう無恥背信行為を中国革命者は皆恥ずかしいと思っている。
今上海の一般の自由な資産階級とプチブルの上層分子は皆このスターリンの「新政策」を歓迎している。これは何の不思議も無い。モスコーの伝統的威信は、中国赤軍の流血の史蹟で、現存の実力と――これより更に利用価値のある物があるでしょうか?しかしスターリン党の「新政策」が歓迎されればされる程、中国革命はさらに大変深刻な被害を受けるのです。
我々のこの団体は1930年以来、多くの困難な環境の下で、我々の揺るがぬ主張で戦ってきました。大革命失敗後、我々はスターリン派の盲動的政策に反対し「革命的民主闘争」を提案しました。革命は失敗したが、何としても次には初めからやり直すしかない。不断に革命幹部を団結させ、革命理論を研究し、失敗の教訓を受け入れ、革命的労働者を教育し、今の反革命の苦難の時期に、次の革命の為にしっかりした基礎を固めるのを期しています。数年来のいろんな事件は、我々の政治路線と工作方法が正しいことを証明しました。我々はスターリン党の機会主義に反対し、盲動主義的政策と官僚党制に反対し、現在我々は又堅固にこの裏切りの「新政策」に打撃を与えています。しかし正にこの為に我々は今、色々の投機分子と党官僚たちの嫉視を受けています。これは幸いというべきか、或いは不幸でしょうか?
先生の学識ある文章と品格に対し、私は十余年来敬慕してまいりました。いろんな思想を持つ人が、皆個人主義の穴に沈溺している時、先生だけはご自身の見解を基に奮闘し続けられています。我々の政治的見解に先生の批評を頂戴できましたら心から光栄に思います。今、直近の刊行物を数冊お届けしますので、ご高覧下されば幸いです。ご返事をいただけるようでしたら、Xの所へ預けていただければ、3日以内に受け取りに参ります。末筆ながらご健勝を祈ります。 陳XX 6月3日
2.返信
書状と恵送いただいた「闘争」「火花」等の刊行物すべて拝受。
手紙の意味をまとめると大概次の2点で、1つはスターリン氏たちの官僚を罵り、もう1つは毛沢東氏たちの「各派は聯合一致して抗日を」という主張は革命を身売りする物だということでしょう。
これは私を大変「混乱」させた。スターリン氏たちのソビエトロシア社会主義共和国連邦が世界の如何なる方面でも成功を収めている事は、とりもなおさず、トロツキー氏の放逐、漂白、追放そして「やむを得ず」敵の金を使わざるを得ない状況というみじめなことを説明しているのではないでしょうか。現在の流浪は革命前のシベリアの時と趣が異なり、当時は一片のパンを送ってくれる人すら無いのを怖れていたが:心境もまた違っていて、それは今ソ連がうまく行っているからです。事実は雄弁に勝り、図らずも現在この様な情け容赦無い諷刺となっています。次に君たちの「理論」は確かに毛沢東氏たちより高尚なようですが、それだけでなく、片方はずっと天にいて、もう一方は地に居ます。高尚なのは敬服しますが、その高尚もいかんせん、日本侵略者の歓迎する所となっています。それでこの高尚もやはり天から下りて来るしか無く、地上の最も汚れた所に落ちるのです。なぜなら君たちの高尚な理論は日本の歓迎する所で、私が見るに、君たちの発行した大変まとまった刊行物は、君たちが汗を出して作ったものだが、大衆の前で、誰かが君たちを攻撃する為にデマを飛ばし、日本人が金を出して君たちに新聞を発行させていると言ったら、君たちはそれをきっぱりと否定できるだろうか?これは決して以前、君たちの誰かが、私がルーブルをもらっていると罵ったせいで、現在この手法を使って報復しようとしているのではありません。違います。私はそんな下劣ではありません。私は君たちが日本人から金をもらって毛沢東氏たちの一致抗日をというのを攻撃しているとは信じていないからです。君たちはそんなことはできません。君たちに一つ忠告します。君たちの高尚な理論は、中国の大衆に歓迎されません。君たちの所為は中国人の現在の道徳に反しています。君たちに申し上げたいのはこれだけです。
最後に少し不愉快に感じたのは、君たちが忽然手紙と本を送って来たのは、何か訳があるのではないかと言う点です。それは私の何人かの「戦友」が私のことをなんだかんだと指弾したためでしょう。しかし私はたとえうまく出来なくとも、君たちとは大変かけ離れていると自覚しています。それは切実に地に足をつけて、現在の中国人の生存の為に、血を流し奮闘している人を同志とするのを光栄に思っているのです。君の了承を得たいのは、3日の期限が過ぎてもそこに取りに来るとは限らぬと思い、この手紙を公開して返答とすることです。
御安泰を祈ります。 魯迅 6月9日
(これは先生の口述をO.V.<馮雪峰>が筆記した)
訳者雑感:
中国の政治がらみの攻撃は、相手が外国のその筋から「金」をもらっているというパターンが多い。魯迅を攻撃する連中は魯迅がルーブルをもらっているといい、毛沢東派を攻撃する連中は日本から金をもらっているという。
今回の香港のセントラル地区などの占拠は、アメリカから「金」をもらってやっていると攻撃する。3ヶ月弱、大勢の学生たちが占拠できたのは一体どういう形でその費用(バリケード始めもろもろの機材と食料など)を調達できたのか?香港市民の民主選挙を求める熱意が、多くの市民から貧者の一灯で、あれだけの組織的な動きができたと考えたいが、アメリカやイギリスが後押ししているという印象を米英両国政府もそのように声明しており、それに北京政府が強く反発しているのも事実だ。英字紙などの表現は「北京政府はひそかに、別の手段を用いて占拠を撤退させた」と報じている。占拠を撤退できたのは何らかの「金」にからまる「実態」を暴露するぞとかの「脅し」で活動家達を攻撃したのだろうか。
2014/12/15記
「海上述林」下巻序言
この巻に収めたのは文学作品で:詩・戯曲・小説だ。全て翻訳である。
編集の底本としたのは「クリム・サムチンの一生」(ゴルキー作:注)の残稿以外、大抵は印本である。只「唾罵の閑も無い」は訳者自ら校正した印本を基に、誤字を数字改めた。ゴルキーの初期の創作も原稿と対比し、数か所注釈を付したが、残念ながら保存しようとしていた「第13篇、レールモントフの小説について」の原稿は遺失しており、印本には疑わしき所があるが、質す術も無く、小引(前書き)すら、多分初稿そのままとは限らぬ。
訳者が翻訳に撰んだ底本はどうも何の原則も無いようだ。見たところ:一つは入手可能なもの、二つは発表可能かどうか、を基に訳し始めた。そして時には挿絵に引かれて、LekhterevとBartoの絵のように、いずれも訳者が大変愛したものだ。最後の小説の前の小引を見ればわかる。故にここでは体裁は上巻と異なるのを顧みず、凡そ原本の全ての絵画は挿入し――これは当然これで以て読者の興趣を高めようとの思いからだが、いささか「剣を空壟(塚)に懸ける」(訳者は政府に処刑されて遺体は不明:出版社注では文選から引用)の意味もある。辞句に関しては上巻と悉く同じで、ここでは繰り返さない。
1936年4月末 編者
訳者雑感:上巻に続いて下巻にも魯迅は瞿秋白に対する愛情がにじみ出ている序言である。彼は政府に処刑されたまま遺体もどこにあるか不明である。彼が愛した挿絵を全て挿入して、遺体の無い空の塚に剣を懸けたという故事にちなんで、彼への追悼とした。
2014/12/10記
私の最初の師
どの本で読んだか忘れたが、大意は道学先生(堅物)むろん名士だが、彼は排仏してきたが、自分の子に「和尚」と名付けた。誰かがその訳を尋ねたところ、彼の答:「これ正しく軽んじ賤しんだものだ!」その人は返事に窮し、その場から去った。
だがこの道学先生の話は詭弁だ。子の名前を「和尚」としたのは迷信じみている。中国には妖怪魔鬼がたくさんおり、将来の見込みのある人を殺すのが好きで、とりわけ子供を殺すのが好きだ:それで下賤にしておけば、鬼が手を出さぬので安心というわけだ。和尚は和尚の側から見れば成仏できるのだが――そうとも限らぬが――固より非常に超越しており、読書人から見れば、彼らは家も妻も無く、官にも就かず、下賤の類である。読書人が思っている鬼怪についての考えは、読書人と同じのはずだから、邪魔することはない。これは子供に、阿猫とか阿狗(ポチ・タマの類)と名付けるのと全く同じで:容易に養育できるという意味だ。
もう一つ鬼を避ける方法があり、それは和尚を師とすることで、寺院へ喜捨するのだが、寺に住みこませるわけではない。私は周家の長男に生まれ「物は稀を以て貴し」とし、父は私に見込みがあると思い、無事に養育できないのを案じ、一歳になる前に長慶寺に連れて行き、和尚を拝して師とした。師と拝するとなると、供物の礼とか何とかという鬼に布施をしたのかどうか私は全く知らない。ただ私はそれで「長庚」という法名を得て、後に偶々それを筆名にし、又小説「酒楼にて」で、自分の姪を嚇かす無頼の名とし:また百家衣、すなわち「つぎはぎ衣服」で、いろんな破れた布をつなぎ合わせねばならぬが、私のはオリーブ形の各種の色の小さな絹の切れはしで縫い合わせたものだが、それは大事な喜慶をするとき以外、着せてもらえなかった:そして又「牛縄」というひもに沢山の小物を懸け、例えば暦本・鏡・銀の篩の類を懸けると邪を避けることができるという。
こうした装飾は、本当に力があるようで:私は今なお死んでいない。
しかし今、法名はまだあるが、あの2つの力のある法宝はつとに失ってしまった。数年前北平(北京)に帰った時、母が私の嬰児のころの銀の篩を返してくれたが、それがあのころの唯一の記念品だ。よく見ると、元来その篩の直径は一寸余りで、中央に太極圏があり、上に本が一冊、下に絵巻物が一巻あり、左右に沢山の尺・ハサミ・算盤・天秤の類が綴られている。それで忽然大いに悟ったのだが、中国の邪鬼は折れた釘や鉄の切れ端を怖がり、ごまかしのきかぬものを怖れるようだ。探究心と好奇心から去年上海の貴金属店でとうとう二つ手に入れたが、私のとほとんど同じだが、小物の数が少し増減あり。とても奇妙なことに、半世紀余りたっても邪鬼はやはりこのような性情で、邪を避けるにはやはりこんな法宝なのだ。だが私は又、この法宝は成人には使えないし、却ってとても危険だと思った。
だがこれが半世紀前の最初の師を思い出させた。今なお彼の法名を知らないが、皆は彼を「龍師父」と呼び、痩せて背が高く、細面でほう骨が高く、目は細くて、和尚は本来鬚を蓄えるべきではないが、彼は泥鰌髭を2本たらしていた。ひとあたりは柔らかで、私にもとてもやさしく、お経ひとつも唱えさせられることもなく、仏教の戒律も教えなかった: 彼自身は袈裟を着た大和尚で、ビル帽をかぶり、お施餓鬼を唱え、「祭祀されない孤魂よ、甘露味を受けよ」と唱える時は荘厳この上なかったが、平常は念仏を唱えず、住持故にひたすら寺の瑣事をこなしていた。その実――無論私の見た感じだが――彼は剃髪した俗人にすぎなかった。
このため、私には又師母もいて、すなわち彼の奥さんだ。理屈上和尚は妻帯できぬが、彼にはいた。我が家の主屋の中央には位牌があり、金字で絶対尊敬し従わねばならぬ五つの位牌:「天地君親師」である。私は徒弟で彼は師。決して抗議してはならず、その当時は抗議などしようとも考えなかったが、些かおかしく感じた。だが私は私の師母はとても好きで、記憶では会ったころ彼女は40歳くらいで太っていて、黒い更紗の上着とズボンで家の中庭で涼んでいた。彼女の子供たちが来て、私と一緒に遊んだ。時に果物やおやつを食べさせてくれ――もちろんこれも私が彼女を好きな大きな理由だが:高潔な陳源教授の言葉を使えば、所謂「お乳を飲ませてくれるから母親」で、人格的には何も言うに足りない。
しかし私の師母は恋愛物語ではいささか尋常ではない。「恋愛」これは現代の術語で、そのころの私たちの片田舎では「相好む」といった。「詩経」に云う:「相好むべし、相憎むこと勿れ」が起源というから大変古いもので、文王武王周公の時代からそう遠くない頃からあったが、後には余り立派な言葉でもなくなったようだ。この件はこれでさておき、要するに龍師父は若い頃ハンサムで有能な和尚で、交際も広くいろんな人と知り合いだったそうだ。ある日、田舎で奉納劇があり、彼は役者と知りあいなので、舞台に上がって彼等の為に銅鑼を敲き、てかてかの頭と新調の袖広の長衣は実にカッコ良かったそうだ。田舎の人は大抵些か頑固で、和尚は経をよんで念仏を唱えるべきだと考え、舞台下の人々は罵り始めた。師父は弱みを見せず、逆に彼等を罵り返した。そこで戦争が起こり、サトウキビの切れ端が雨あられのように飛んで来、何人かの勇士が攻勢に出てきた。「衆寡敵せず」で彼は逃げるしか無く、彼が逃げれば相手は追いかけてきた。それで最後はある家に逃げ込んだ。この家には若い寡婦一人しかいなかった。その後の話しは私もよく知らないが、要するに、彼女が後に私の師母となったわけだ。
「宇宙風」が世に出てからこれまで目にする機会が無かったが、数日前やっと「春季特大号」を読んだ。中に銖堂氏の「勝敗を以て英雄を論ぜず」というのがあり、とても面白かった。彼は中国人が「勝敗を以て英雄を論ぜず」というのは「理想は嵩高と言うほかないが」「しかし衆人を組織する為には実際はそうはできない。強きをくじき、弱きを扶けるのは、永遠に強くなることを願わぬことになる。敗れた英雄を崇拝するのは、勝った英雄を認めぬ事だ」「最近の人には流行語があり、中国民族には同化力に富み、だから遼・金・元・清は皆中国を征服しえなかった、というのだ。実はそれはある種の惰性に過ぎず、新しい制度を簡単には受け入れなかっただけだ」我々は如何にしてこの「惰性」を悔い改めたかは暫時これを談じない。我々の為に良い方法を考えてくれる人は大変多い。私が言いたいのは、あの寡婦が私の師母となった所以は、その病弊もすなわち「勝敗を以て英雄を論ぜず」にあるからだということ。田舎には岳飛や文天祥はいないから、ハンサムな和尚が雨あられのようなサトウキビの切れ端の飛んでくる舞台から逃れてくれば、正真正銘の敗れた英雄だ。彼女は祖伝の「惰性」を発揮するのを免れず、崇拝し始め、追ってには我々の祖先が遼・金・元・清の大軍に対したように「勝った英雄を認めなかった」、歴史上この結果は銖堂氏の言うように:「中国の社会は威を樹立しなければ、服従させるのは難しい」から、当然の結果として「揚州十日」と「嘉定三屠」が必要であった(清軍の大屠殺)。が当時の田舎の人は「威を樹立」などしないで散会してゆき、無論家に身を潜めているなど思いもしなかった。
この結果、私に三人の師兄と二人の師弟ができた。大師兄は貧乏人の子で、寺に喜捨されたが、売られ:そのほかの4人は師父の子で大和尚の子は小坊主となっていたが、当時は何の奇異感もなかった。大師兄は独身で:2番目は妻がいたが、私には内緒でこの点彼の修業の工夫は我が師父、すなわち彼の父に遠く及ばなかった。それに年齢も私とかけ離れていたので余り交際しなかった。
3番目は私より10歳くらい上で、我々は仲良くなり、私は常々彼の事を案じていた。今も覚えているが、ある日彼が大戒を受けることとなった。彼は熱心に経を読んでいなかったし、何とかいう大乗経理にも深く通じていなかったと思われたが、てかてかの頭のくぼみにモグサを2列置かれ、同時に火をつけられたら、きっと痛くて泣き叫ぶと思い、この時、善男信女が大勢参列しておるからとても体面を失うことになり、弟弟子である私の体面も悪くなる。どうしようかと考えるたびに焦って来て、まるで受戒するのは自分の様に感じた。しかし我が師父の修業の技はじつに素晴らしく、戒律も説かず、教理も言わず、只当日の朝一番に我が三師兄を呼び、大声で命じた:「懸命に耐えよ。泣くな、叫ぶな、さもないとお前の頭は爆裂して死んでしまうぞ!」この一種の大喝は実に如何なる経「妙法蓮花経」や「大乗起信論」より力があり、誰も好き好んで死ぬ者はいない。それで儀式は大変厳かに進み、両目は平素よりぱっちり開き、2列のモグサが頭上で燃え尽きるまで一声も発しなかった。私はほっと溜息を吐き。真に「重荷を下ろしたように感じ」善男信女たちも銘々「合掌賛嘆し、喜んで布施を行い、頂礼して散会」した。
出家者は大戒を受け、沙弥から和尚になるのは丁度在家者が冠礼で童子から成人になるのと同じだ。成人は「妻帯」を願うが、和尚も無論女人を思わないわけにはゆかぬ。和尚はただ、釈迦牟尼や弥勒菩薩の事だけ念じていると思っていたのは、和尚を師と拝する前か、和尚と親しくなる前の世俗的な間違った考えだ。寺にも確かに修業に専念して、女人もいず、ナマグサも喰わぬ和尚もおり、私の大師兄はその一人だが、彼等は狷介で冷酷、人を見下しいつも鬱鬱として楽しまず、彼等の扇子や書に手を触れると不機嫌になり、人を寄せ付けない。だから私のよく知っている和尚は皆女人を有し、或いは女人を思うと口にし、ナマグサを食べるか食べたいと口にする和尚だ。
その頃、三師兄が女人を思っている事をなにもいぶからなかったし、彼の理想がどんな女人か知っていた。ひとは彼が思っていたのは尼姑だと思うだろうが、そうではない。和尚と尼姑が「相好む」のは一層不都合である。彼が思うのは金持ちのお嬢さんか若奥さんで:この「相好む」或いは「単好む」――今の言葉で言えば「片思い」――もそれを媒介するのは「結い」である。我々の地方の金持ちは葬儀があると7日毎に法要を行い、ある7日目に「解結」の儀式を行う。それは死者が生前、他の人に対して犯した罪を免れぬから、冤結が存する故、死後に彼に替ってそれを解く散じる必要がある。やり方はこの日、読経とお祓いが終わった夕方、霊前に並べた九盤もの供物、食物や花だが、そのうちの一盤は麻紐か白頭縄に十数文の銭を通し、両端を結んで蝶のようにし、八結式の類やらなにか複雑で、それを解くのが頗る難しい結びである。一群の和尚が卓の回りに円座して、お経を唱えながら解いてゆく。解いた後銭は和尚に帰し、死者の一切の冤結も完全に消える。この道理はちょっと古怪だが、皆がこうするので誰も奇としない。多分一種の「惰性」だろう。だがこの結びを解くのは世俗人の推測するように、一つ一つ解いてゆくのではなく、精緻に結ば
れていると思えばそこから愛が生じる。
或いは故意に堅く結んであれば、それは大変解き難く、これによって怨みを生じ、ひそかに全てを僧衣の広い袖に入れてしまい、死者の冤結が留まるのに任せ、地獄に行って苦しむことになる。こういう宝結を寺に持ち帰り、大切にしまいこみ、時に鑑賞する。丁度我々が女流作家の作品を偏愛するのを免れぬのと同じだ。鑑賞する時は当然作家を思い浮かべるのを免れず、結んだのは誰か、男にはできない。奴婢もできない。こんな本領があるのは言うまでも無くお嬢さんか若奥さんだ。和尚は文学界の人のような清高さは無いから物に託して人を思うのを免れず、所謂「時にはるか想いをはせ」始める。心理状態はとなるとどうだろうか。私は和尚を師と拝したが、畢竟は在家で細かいところは分からない。只、三師兄が以前止むを得ず私に幾つかくれたが、実に精緻に結んであり、しっかり結んだ後、ハサミの柄の類で打ち固めてあり、和尚もそれを解く術が無い。解結は死者の為に行うのだが、和尚には難しくて解けない。私はお嬢さんか若奥さんがどういうつもりなのか分からない。この疑問は20年後、少し医学を学んで始めて和尚を苦しませようとの異性虐待(サディズム)の病態と分かった。深閨の怨恨は無線電波のように仏寺の和尚の身に報じられ、道学先生にはこんな事は思いもよらぬ事だろう。
後に三師兄も女房を持ったが、お嬢さんか尼姑か或いは「貧しい家の娘」か知らない。彼は秘密を守り、修業も父親には遠く及ばなかった。私も大人になっていたが、どこかで和尚は清い規則を守らなければならないという古老の話を聞いたことがあったでの、これで彼をひやかして困らせてやろうとしたのだが、彼は少しも困らず、すぐ「金剛のように目を怒らせ」大喝して曰く:「和尚に女房がいなかったら、小菩薩はどこからくるのだ?」と私に言った。
これは正に所謂「獅子吼」でそれで真理を悟り、私は返す言葉を失った。確かに寺の中には丈余の大仏と数尺又は数寸の小菩薩があるのを見ていたが、彼等はどうしてこういう大きいのや小さいのがあるのか考えても見なかった。この一喝を経て、はじめて和尚に女房が必要なのか、そして小菩薩の来源を本当に悟った。それでもう疑問を持たなくなった。しかしその後三師兄を訪ねるのは難しくなった。この出家は三つの家があり:一つは寺、一つは父母の家、一つは彼自身と女房の家だ。
我が師父は40年ほど前に世を去り:師兄たちも大半は一寺の住持となり:我々の友情は続いていたが、ここ久しくは消息が無くなった。が、思うに、彼等はきっとそれぞれに多くの小菩薩を持つようになり、その中の何人かは更にその小菩薩を持っている事だろう。
4月1日
訳者雑感:最近「背守」という本を目にしたので、中をめくっていたら、魯迅の幼児の頃に着たというのと同じものが日本にもたくさん有ったことが分かった。LIXILのBookletで展覧会と併せて出版されたもので、中に「百徳」という項目があり、「子育ちの良い家や長寿の年寄りから端切れをもらい集め、百枚を丹念に綴って子供に着せると丈夫に育つという風習があった」との説明付きで、丈40-50CMくらいの着物の写真がたくさん載っている。金沢の真成寺には子育ての祈願が無事成就すると、お礼参りに子供の着物などが奉納され、今も300点が保存され貴重な資料として、国の重要有形文化財に指定されている、とある。日本のこうした風習は魯迅の故郷辺りから伝播してきたものだろう。「百家衣」という名はまさしく百軒の家から端切れをもらい集めて綴るもので、日本でそれを「百徳」というのは面白い変化だ。それが戦時中に千人針に変化したものだろうか?もう二度と千人針を縫うようなことが起こらぬように。集団的自衛権の次ぎは千人針ということは御免蒙る。だが14日の選挙で3分の2を超すとそんな事態も心配しなければならぬ。
百家衣と関連する日本の百徳の写真を添付します。
http://www1.lixil.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_002767.html
2014/12/09記
「海上述林」上巻序言
この巻は殆どすべて文学に関する論説である:只「現実」の五篇は雑誌「文学的遺産」に基づいて撰述されたもので、又二篇以外はすべて翻訳である。
本集編輯時、底本にしたのは大抵は原稿だが:「セラフィモヴィッチの<鉄の 流れに>の序は排印本から採った。「十五年来の書籍版画と単行版画」一篇はすでに摘訳されており、又他の人が略改訂したようで、訳者の本意に会うかどうか分からないが、芸術に関してはこの一篇だけ故、淘汰しなかった。
「冷淡」の底本も排印本で、本来「ゴルキ―論文拾補」に入れるべきだが、残念ながら発見されたのが大変遅くなり、すでに排印されており、巻末に附すしかなかった。
文辞について明らかな筆の誤りや若干の脱字は改めたが:断続的な訳で人や地名の音訳は前後不同或いは当時参考書籍がなかったため、注釈に未詳の個所もあるが、今は均しく訂正せず、そのままとした。
文稿の探し出しと校正事務など、多くの友人の協力を得ました。ここに謝意を表します。
1936年3月下旬 編者
訳者雑感:この編者は魯迅本人で、「海上述林」は魯迅の年下の友人の瞿秋白の原稿を元に彼が1935年6月に国民党当局に殺害された後、36年5月に出版されたと出版社注にある。魯迅も彼のために汗を流して彼の論説をまとめて出版したのだ。魯迅が彼を如何に大切に思っていたかが良く分かる。出版後半年もせずに魯迅も亡くなったのだが、魯迅は彼の翻訳した文学理論などを評価していたから、それを自分の死ぬ前にまとめておきたいとの強い願望があったのだろう。自分の作品を書きながら、病をおして原稿に目を通した彼の姿が目に浮かぶようだ。
漱石も彼を慕ってくる年下の友人たちの作品を丁寧に読み、返事を書いている。その熱意と病気を患って早くこの世を去るというのは、なぜだろう。
2014/11/26記
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