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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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鬚について

鬚について
 今年の夏、長安に行き、1カ月ほどいい加減に暮らして帰って来た。それを知った友人が尋ねてきて:あちらはどうでしたか?と聞くので、ちょっとためらいながら、長安のことを思い返し、ポプラが多かったこと、大きなザクロを見たこと、道中、黄河の水をたくさん飲んだことを思い出した。が、こんな事は話してもしょうが無いので、:なにもどうってことは無かった、と答えたら、友はつまらなさそうに去ったし、私もやはりつまらなく暮らしているが、自分としては、「好奇心から尋ねてくれた」友人たちに済まないと思った。
 今日、お茶を飲んで、本を見ていたら水滴が本に落ちたので、唇の上の鬚が伸びているのを知った。「康熙字典」には唇の上、下、頬、顎の鬚は大概特別の名がついているが、私はそんなのんびりした気分もない。私は鬚が伸びたので、いつも通りスープや飲み物にぬれぬようにせねばと、鏡とハサミで鬚を整えた。その目安は唇の上とその上縁をきれいに整えて、隷書の一の字のようにすることだ。
 私は鬚を切りながら忽然長安の事を思い出し、青年時代のことを思い出し長い間感慨にふけった。長安のことははっきりは覚えていないが、多分孔子廟に行った時、部屋の中に多くの印画が掛っていて、李二曲(清代の理学家)の像、歴代帝王の像もあり、その中の宋太祖か何とか宗で名は覚えていないが、要するに礼服を着て鬚をピンとはね挙げている。それで名士が毅然、決然と、「これらはみな日本人の偽造だ。これは日本式の鬚だ」と言った。
 確かに彼等の鬚はハネ上がっているが、彼等は宋太祖や何とか宗を偽造したと派限らぬが、中国皇帝の画像を偽造しようとしたら、鏡に向かって自分の鬚を手本にするから、その手法だと考える突飛さはまさに「意表の外に」出たと言える。清乾隆帝の時、黄易が漢の武梁祠の石刻画像を掘り出したが、男の鬚は多くがハネ上がっていた:現在見ることのできる北魏から唐にかけての仏像の信士の像で、凡そ鬚のあるものの多くはハネ上がっていて、元明の像に至ると、鬚はたいてい引力の影響で下に垂れている。日本人はなぜそんな面倒なことを厭わず、せっせとこれほど沢山の漢から唐の偽の骨董を造って、中国の斎・魯・燕・晋・秦・隴・巴・蜀の深山幽谷、廃墟荒野に埋めたのか?
 鬚を垂らし始めたのは蒙古式で蒙古人が持ち込んだのだと思うが、我が聡明な名士はこれを国粋としている。日本留学生は、日本を恨み、大元にあこがれ、「あの時もし天恵がなければ、この島国はとうに我々に滅亡されていたのに!」と言った。ということだと、垂らした鬚も国粋と認めるしかない。だが何で又黄帝の子孫だというのか?どうして台湾人が福建省で中国人を殴打したのを奴隷根性というのか?
 私はその時抗弁しようと思ったが、すぐ辞めようと考えた。ドイツ留学の愛国者X君は――名前を忘れたのでこうするが――私が中国の悪口を言うのは、日本女性を嫁にしたから、彼等の為に自国の悪い所を言いふらしていると言っているではないか?私は以前、いくつか中国の欠点を挙げたが、「家内」まで国籍を変えさせられ、とばっちりを受けた。況や、今は日本との関係が問題となっているのか?宋太祖や何とか宗の鬚が冤罪としても、洪水や地震と一体どんな関係があるのか?それで私はうなずいて、「ああ、おっしゃるとおりですね」と答えた。昔に比べたら私も随分世故に長けてきたものだ。結構結構。
 左端を整えてから考えた。陝西の人達は熱心に世話をしてくれたと思った。食事提供から、鉄道や船、ラバの車、自動車などの費用を払い、長安に講演に招いてくれたのだが、きっとまさか私が身に危険の及ぶようなこともない小さなことに対しても、自分の意見を率直に言わず、「ああ、そうですね」しか答えなかったから。彼等は一杯喰わされたも同然だ。
 再び、鏡に映る自分の顔に向い、右唇の角を見て鬚の右先端を切り、地上に放って、青年時代のことを思い出した。――
 かなり昔のことで、16-7年前だろう。
 私は日本から故郷に帰る時、唇の上に宋太祖か何とか宗のように鬚をピンとハネ挙げていた。小さな船に坐り、水夫と世間話をしていた。
 「先生、貴方の中国語はうまいね」と彼は言った。
 「私は中国人だよ。君と同郷だよ。なんで…」
 「先生は冗談ももうまいね」 
 私はその時、何とも情けないと感じ、それはX君の手紙より十倍以上だった。その時は家譜を所持しておらず、自分が中国人だと証明するのは不可能だった。所持していても、そこには名前があるだけで、画像は無いから、その名が私だとは証明不能だ。たとえ画像があったとしても、日本人は漢から唐までの石刻の偽造ができるから、木版の家譜など偽造などできぬ事があろうか?
 凡そ、本当のことを冗談にし、冗談を本当の事にし、冗談も冗談にするなら、それに対する方法は一つしかない。話しをせぬ事だ。
 それでそれから話しをしなくなった。
 だが、もし今なら多分「ああ、そうですね。今日はいい天気ですね。あのあたりの村は何と言いますか?」と言うだろう。私は随分世故に長けて来たのだ。
結構なことだ。
 今思うに、水夫が私の国籍を違えたのは、X君の高見とはきっと違うだろう。その原因は鬚で、私はその時から鬚でいろいろ苦労した。
 国は亡んでも、国粋者は減らない。国粋者が多いから、国は亡んだと看做されない。国粋者は国粋を保存するもので:国粋と私の鬚がそれに該当するのだ。
それがどんな「ロジック」からくるのか分からぬが、当時の実情からすると確かにそうなのである。
 「貴方はどうして日本人のまねをするのか。背も低く、鬚をそんな風にして…」国粋者兼愛国者が、えらそうな論議を展開した後、こういう結論に達した。
 残念ながら、その頃はまだ世故に長けておらず、憤慨し抗弁した。第一、私の背はもともとこうなんで、外国の器械で圧縮して本物の(日本人に)見せかけようなど考えたこともない。第二、私の鬚は確かに多くの日本人に似ているが、彼等の鬚のスタイルの変遷を研究したことは無いが、以前何枚もの古人の画像を見たが、上にハネ上がっていず、外か下に向かっていて、我々の国粋のものと変わらない。維新後、ハネ上げ始めたのはドイツ式を学んだのだ。ウイルヘルム皇帝の鬚は、目じりに向かってハネ上がり、鼻梁とまさに平行してるじゃないか?後にタバコで一辺を焦がしたので、両辺を切りそろえるしかなかったが。日本の明治維新の時はまだ彼は失火していなかったが、…。
 これに対する弁明は2分くらいかかったが、国粋化の怒りを解くことはできず、ドイツもやはり外国で、それに私の背も低かったのでやむを得なかった。それに国粋化は非常に沢山いて、意見も統一していたので、私も何回も弁明したが、効果は無かった。1回、2回、10回、10数回と、自分でも馬鹿らしく、面倒になり、もう終わりにした。また中国では鬚用のチックの入手が難しくなり、私もそれ以後は自然のままにした。
 そうしたら鬚の両端は明らかに引力のために地面と90度の直角となった。国粋家はもう何も言わなくなり、中国は救われたのだ。
 そしたら改革家からの反感を招いたが、無理もない。それで何回か説明したが、自分でも無聊で面倒になった。
 4-5年前か7-8年前、会館に一人でいるとき、鬚の不幸な境遇を悲しみ、どうしてこうなったかを考え、忽然、悟った。その禍根は両端の先にある。それで鏡を取り出し、ハサミで真っすぐに切りそろえた。上にも下にも曲がらず、隷書の一の字の形となった。
 「おおー、君の鬚はこうなったか」当初こう言う人もいた。
 「はい、私の鬚はこうです」 
彼は何も言わず、両端の先が無いから何も言う訳に行かず、私の鬚が「こうなった」後、中国の存亡の責任を負わずにすむようになった。要するに、これで泰平無事でこられたが、面倒なのはいつも切りそろえねばならぬ事だ。
       1924年10月30日

訳者雑感:
 魯迅は弁髪の話しをよく題材にして、辛亥革命の頃の弁髪を切るかどうかとか、長髪族(太平天国時代)の話しをよくしてきたが、鬚の話しはこれだけかもしれない。
 仙台の東北大学の史料館の魯迅の記念室に、2番目の下宿のあるじだった宮川氏が、学生服を着た6人の同宿生の学生達の写真に、8年後に立派な鬚を加えたものが展示されていた。主人は下宿生が8年後にはみな立派に社会で活躍しているから、きっとこういう鬚を蓄えているだろうとの発想であろう。この写真の鬚とその後の魯迅の定着した鬚と同じような隷書の一なのが面白い。
 この当時はみな立派な鬚を蓄えるのが男のスタイルだったのであろう。写真の裏面には各人の状況が記されているが、周君(魯迅)は「不明」とある。
(魯迅と東北大学、歴史のなかの留学生)より。
     2015/06/26記
    

 

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雷峰塔の倒壊について

雷峰塔の倒壊について
 杭州西湖畔の雷峰塔が倒壊した由。聞いただけで実際見てはいない。だが倒れる前の雷峰塔は見たことがある。かなり古びた姿を湖面の光と山の色に映し、山に落ちる太陽が辺りを照らし「雷峰夕照」という西湖十景の一つ、「雷峰夕照」は写真で見たことがあるが、さほどでもないと思った。
 全ての西湖名勝の中で、私が最初に知ったのはこの雷峰塔である。祖母が昔よく話してくれた。白蛇の女神がこの塔の下に埋められているの。許仙という人が2匹の蛇を助けたが、一匹は青蛇、もう一匹は白蛇で、白蛇は後に女となり、恩に報いて許仙の嫁となった。青蛇は小間使いとして仕えた。法海禅師という和尚は得道の禅師で、許仙の顔に妖気を見つけ――妖怪を女房にする男は顔に妖気が現れるが、非凡な人間しか見つけられぬのだが――彼を金山寺の法坐の後に蔵してしまった。白蛇の女は夫をさがしに行き、それで「金山は水浸しになった」と。祖母は話しだすととても面白く、「義妖伝」という「弾き語り」からの引用だろうが、私はその講釈本を見ていないから「許仙」「法海」がこのように書かれているかどうか知らない。要するに、白蛇の女は法海の計略で、小鉢の中に閉じ込められてしまった。小鉢は土中に埋められ、その上に鎮めの塔が建てられ、これが雷峰塔だ。この後で色んなことが起こり「白状元が塔を祀る」の類だが、今では皆忘れてしまった。
 その時私の唯一の希望はこの雷峰塔が倒れることだった。大人になって杭州に行きオンボロの塔を見て不愉快になった。その後本で知ったのだが、杭州の人はこの塔を保叔塔と呼んでおり、実は「保俶塔」と書くべきで、銭王の子が建てたものだ。ではその下には白蛇の女は無論いない。だが私の不愉快は治らず、やはり倒れるのを望んだ。
 今、塔はついに倒れたのだが、世間の人が喜ぶのはなぜだろうか?
 これは事実で証明できる。呉越の山間や海浜に出かけて民意を尋ねるが良い。農夫や年寄り、蚕婦や浮浪者も、脳の病の無い人以外、白蛇の女神を可哀そうにと思わない人がいるだろうか? 法海が出しゃばったことをして、と憎まないものがいるだろうか?
 和尚はひたすら経を読んでいればよいのだ。白蛇は自ら許仙を好きになり、許仙も自ら妖怪を娶ったが、それが他の人に何の関係があろうか?彼が経本を放って、横やりをいれたのは嫉妬に違いない――きっとそうだ。
 聞くところでは、後に玉皇大帝も法海が余計なことをし、人の命を苦しめたことを罰しようとしたそうだ。彼は逃げ回って、とうとう蟹の殻に逃げ込んで身を隠し二度と出てこられなくなり、今もそのままだという。玉皇大帝のしたことについては、口には出さないが、不満が沢山あるが、この件だけは大変満足している。「金山が水浸し」の件のため、確かに法海の責任を問うべきだ:彼は確かに良いことをした。だが私はこの話の出典を聞かなかったから、或いは「義妖伝」ではなく、民間の伝説かもしれない。
 秋が深まり、稲が熟すとき、呉越では蟹が多くとれ、赤く茹でた後、どれをとっても、甲羅を開くと中に黄身と膏状のものがあり:雌ならザクロのような鮮紅の卵がある。まずこれを食べると、円錐形の薄い膜があり、これを小刀でそっと注意して底のところから切り取り、ひっくり返して内を外にして壊さないようにすると、羅貫のような姿が現れる。頭と顔、体があって坐っている。我々の地方の子供達は「蟹和尚」と呼んでいたが、それが中に隠れた法海だ。
 当初、白蛇の女は塔の下に埋められていたが、法海禅師は蟹の殻に身を潜めた。今はただ、この老禅師が静坐しており、蟹が死滅する時がくるまで、そこから出てこられない。彼が塔を建てた時、いつかは倒れるだろうと思わなかったのだろうか?
 いい気味だ。ざまあみろ。
       1924年10月28日

訳者雑感:
 1978年秋、宝山製鉄所の建設プロジェクトに参加したころ、連日の交渉の労をねぎらってくれたのか、中国側が我々を「白蛇伝」の観劇に招待してくれた。
その印象を思い出しながら、これを翻訳していると、白装束の女性と青い服を着た小間使いとその仲間たちが、舞台狭しと立ち回り、法海たちと闘っている場面を思い出した。
 その後西湖にもでかけ、雷峰塔の物語も聞いたり、先年大連に駐在時、鎮江から揚州に出向いたとき、金山寺にも参った。距離にするとかなりあるが、例の大運河の南の起点と揚子江をよぎる重要な要である鎮江とは、この物語を作った当時の人からみれば、それほど遠いとは感じなかったかもしれない。
 金山寺の和尚は許仙を寺の法坐の後に蔵し、白蛇の女を小鉢に閉じ込めて、遠い杭州の西湖畔の山上に埋めて、そこに雷峰塔を建てたとか、中国の弾き語りの作者は、聞き手の反応を見ながら、徐々に話をより面白く作り換えてきたのだろう。人々はこの物語を聞いて、法海憎しとなり、白蛇びいきになり、早くあの塔が倒れれば良いと願う。そして一生の内に西湖畔に出かけ杭州に遊んでみたいと思いを募らす。この物語は今、映画のロケ地を訪れる人達の思いと同じことのようだ。
 江南で皆が秋に上海ガニを貪るように食べるのは、この法海憎しと関係あるかもしれない。ざまあみろ!と。
     2015年6月19日記  

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天才が現れる前

天才が現れる前
 1924年1月17日 北京師範大学付属中学校友会にて講演
 私の話が有益で面白いと感じてもらえるかどうか分かりません。私は実はあまり何も知らないのです。しかし何度も延ばしてきたので、今日ここに来てお話しすることになりました。
 今文芸界に対し、多くの人の要望の中で、天才が現れるのを待ち望む声が非常に盛んです。これは明らかに二つの事を反証しています。一つは中国には今一人も天才がいない事。二つ目は、皆が現在の芸術に飽き足らなくなっている事。果たして天才はいるでしょうか? いるかもしれませんが、私や他の人は見たこともありません。見聞に基づいて言えば、いないと言えるでしょう:天才だけでなく、天才を育てる民衆もいません。
 天才は密林や荒野で自生して成長するような怪物ではありません。天才を生み、成長させる民衆によって育てられるものだから、そういう民衆のいない所に天才はでてきません。ナポレオンがアルプスを越えた時、こう言いました。「私はアルプスより高い!」と。これはなんと偉大な英雄でしょう。だが彼の後ろには多くの兵士がいたことを忘れてはいけません:兵がいなかったら山の向こう側の敵に捕らえられるか、追い返され、彼の挙動と言葉はすべて英雄の境界から離れ、きちがいの類にされるでしょう。だから思うに、天才の出現を望む前に、天才を育てるような民衆をつくることが先です。例えば、喬木や美しい花を見たいなら、良い土が無いとなりません:土が無ければ花木もありません:土は花木より重要です。花木には土が無ければどうしようもなりません。正にナポレオンに良い兵士がいなければダメなのと同じです。
 然し今の社会の論調と趨勢は、一方で相も変わらず天才の出現を望みながら、その一方で彼を亡くそうとしていて、その準備に必要な土を掃きつくそうとしています。幾つかの例を挙げると;
その一は「古典の整理」で、新しい思潮が中国に来てから、どれほどの力を持ったでしょうか。それに対して、一群の老人と青年たちまでが、魂魄を失ったように、古典だ古典だと言い始め、彼等はこういいます:「中国には昔から良い物が沢山あったが、整理保存せずに、新しい物を求め、まさに祖宗の遺産を棄ててしまうようなことをしている」、祖宗を持ち出す言い方は極めて権威があるようにみえるが、私はどうも古くなった上着を洗ってたたむ前に、新しい上着を作ってはいけないという説と同じで、信じられない。現状について言えば、物事は各人が自分の考えで行うべきで、老先生が古典の整理をしたいなら、南の窓で死書を没頭して読むのを妨害しないし、青年には彼等の生きた学問と芸術など、各自のやりたいことをやり妨害しない。しかし古典整理の旗で号令をかけようとするなら、世界とは永遠に隔絶します。皆がこうでなければならぬと考えるのは荒唐無稽だ! 骨董屋と話しをすると、彼は自分の品物が一番だとはいうが、今の画家や農夫や職人たちが祖宗のことを軽んじていると罵ることはしない。彼は実際、多くの国学者たちより聡明です。
 その次は「創作崇拝」です。表面的には天才出現を望むのと歩調が似ていますが、実際は違います。その精神は外来思想や異域の情緒を排斥する意味を持ち、だから中国と世界の潮流を隔絶させるのです。多くの人はトルストイやツルゲーネフ、ドストエフスキーの名前はもう聞きあきたと言いますが、彼等の著作の何が中国語に翻訳されたか?眼光を一つの国にとらわれ、ピーターとかジョンと言う名を聞くとすぐ拒否反応を起こし、李三や張四(中国人の一般的な人物)でないと落ち着かない。それで創作家がということになるが、実際から言えば、良い作家は外国の作品の技術と精神からエスプリを吸いあげないと、文章は上手いが思想は往々翻訳作品に及ばず、ひどいものは、伝統思想に加えて、さらに中国人の旧習にあわせたりして、読者は彼に籠絡され、視野も徐々に狭くなり、ほとんど昔の世界に閉じこめられてしまいます。作者と読者双方の因果関係で、異流を排斥し、国粋を大事にしていて、どうやって天才を生みだす事ができましょうか? たとえ生み出せても成長して行けないでしょう。
 こういう気風の民衆は、灰と塵で泥土ではないから、きれいな花や喬木は育ちません!
 更に、意地悪な批評があります。皆は批評家の出現を望んできました。残念ながら、彼等の多くは不平家で、批評家らしくありません。作品が現れると、怨みをこめて墨を磨り、すぐさま高明な論調で「ああ、何と幼稚なことよ。中国には天才が必要だ!」と記す。その後は批評家でもなんでもない輩が叫びだす。彼等は人から聞いてきた話しを繰り返すのである。実はたとえ天才といえども、生まれた時は「オギャー」の産声で普通の子と同じで、決して美しい詩を吟じたりはしない。幼稚だからと頭から痛めつけ、委縮させてしまう。私もこの目で何人かの作者が彼等に罵られ、震えあがったのを見て来た。これらの作者の多くは無論天才ではないが、普通の人間として留めておきたいのです。
 意地悪な批評家は幼苗の上を馬で疾走する。とても気分がいいことだろう:が幼苗には災難だ――普通の苗と天才の苗にとって。幼児が老人に対するように、それは何の恥ずかしいことでもない:作品も同じで、初めは幼稚でも恥ずかしくは無い。痛めつけられねば成長し、成熟、老成する。ただ、老衰と腐敗は救いようが無い。幼稚な人も或いは老成した人も、幼稚な気持ちなら、幼稚なことを書けばよいし、自分が書きたいことを書いて、印刷した後、それで自分の事は終わったわけで、どんな旗を掲げて批判する人がいても放っておけばよいと思う。
 在席の諸君も十人中九人は、天才が現れるのを願っていると思うが、こんな状態では天才を生むことはおろか、天才を育てる泥土を作るのも困難だ。思うに、天才の大半は天賦で:ただこの天才を育てる泥土になることはできるようにみえる。泥土をつくる効果は天才を望むより身近なようです:それがなければ、たとえ千百の天才が出ても泥土が無い為、発育できず、緑豆のもやしのようになる。
 土を造るには、精神を広くし、新潮を取り入れ、旧套から離脱し、容量を大きくし、将来生まれる天才を受容できるようにすることです。また小さなことにくよくよせず、創作できる者は創作し、でなければ翻訳紹介鑑賞し、読み・目にとめ・消閑も構わない。文芸で消閑するというとおかしいかもしれぬが、痛めつけるより勝る。
 泥土と天才を比べるのは勿論比べ物になりませんが、辛抱強い人でないとなるのも大変です:しかし人のすることに過ぎませんから、空しく天賦の天才を待つよりも確かなのです。この点、泥土の偉大な所で、大きな希望もでてきます。且つまた報酬もあり、美しい花が土より咲きだし、見る人を喜ばせ、泥土もそれを鑑賞できるのです。喜びは花自身だけでなく、泥土も伸びやかな気持ちになるのです――泥土にも霊魂があるとすればですが。

訳者雑感:
 このころの中国の文芸界は胡適すらも「国の古典を整理しよう」とのスローガンで「主義を議論するより、問題研究をより多く手掛けよう」としたという。
良いものは中国の伝統文芸の中に沢山あり、西洋かぶれ的なものを排斥した。
 中国は外国からすぐれたものが来るたびに、これは元々古代中国にあったものだ云々として、受け付けなかった。そうした風潮を失くし、新潮を取り入れることのできる土壌を作らねばならぬ、と訴えているようだ。
     2015/06/14記

 

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ノラは家出後、どうなったか?

ノラは家出後、どうなったか?
 1923年12月26日 北京女子高等師範学校文芸会での講演

 今日お話しするのは「ノラは家出後、どうなったか?」です。
 イプセンは19世紀後半のノルウエーの作家です。作品は数十種の詩の他はすべて脚本です。この脚本は一時期、たいてい社会問題を取り上げていたので「社会劇」と言われ、その一篇が「ノラ」です。
 「ノラ」は一名Ein Puppenheimといい、中国では「傀儡の家」と訳しています。(以下「人形」とする)ただこのPuppeは操り人形だけでなく、子供が抱く玩具の人形でもあり、更に言えば、他の人の言うままになることを指します。ノラは当初幸せな家庭に満足していました。が、彼女はついに悟ったのです:自分は夫の人形で子供たちは彼女の人形だと。それで家を出ました。門の閉まる音と共に、幕が下ります。これは皆知っていることと思いますからこれ以上は省きます。
 ノラはどうしたら家出をせずにすんだか?イプセンは答えを出しています、即ち、Die Frau vom Meer「海の女人」で中国では「海上夫人」と訳した人もいた。この女性は結婚しているが、以前海の対岸に恋人がいて、突然彼がやって来て、彼女に一緒に行こうと言ったのです。彼女は夫に、彼を会わせようとしました。最後に夫は答えました「今、君を完全に自由にする。<家を出るかどうか>自分で選べる。また、自分でその責任を負うように」と。それで全てが変わりました。彼女は出て行かなかった。こう見て来ると。ノラはこの様な自由を得ていたら或いは安住できただろう。
しかしノラはついに家を出た。その後どうなったか?イプセンは答えを出していない:彼はもう死んでいる。たとえ死んでいなくても、答える責任は無い。イプセンが詩を書くのは社会の為に問題を提起することで、答える為ではない。ウグイスと同様、自分が歌いたいから歌うので、人に面白いとか有益だと感じさせる為ではないから。イプセンは世故にうとい人で、多くの婦女が彼を宴会に招き、代表者が「人形の家」に感謝する。女性の自覚を高め、解放してくれたこと、人身に新しい啓示に感謝します、との言葉に対して;「これを書いたのはそう言うつもりではなく、私は詩を書いただけです」と答えたのです。
 ノラは家出後、どうなったか?――他の人が答えを出しています。英国人が戯曲を書いて、新式の女子が家庭を出たら、もう次に歩むべき道を失くし、終には、堕落して妓院に行った、と。中国人も――私は彼を何と呼ぶべきか分からない――上海の作家としましょう――彼が見た「ノラ」は原訳と異なり、ノラは帰って来た、というのです。こういう本は残念ながら他の人は見たことはありません。イプセン本人が彼に与えたのでない限り。が、事実から推測するに、ノラには二つの道しかない:堕落しなければ戻るのです。小鳥ならカゴの中は自由が無く、カゴから出ると外には鷹や猫などがおり:麻痺してしまった羽は開けず、飛ぶことも忘れたら、実際歩む道はありません。もう一つは餓死です。餓死は生と隔絶しており、問題になりません。道ではないのです。
 人生の最大の苦痛は、夢から覚醒して進む道の無いことです。夢見ている人は幸福です;進むべき道を発見できなければ、夢から覚めさせない事です。唐の詩人李賀は一生困窮して暮らしたにも拘わらず、死に臨んで母親にこう言いました。「母さん、上帝が白玉の楼ができたから私に文章を書けとの仰せです」と。これは明らかに噓であり夢じゃないでしょうか?然るに、一人は若く、一人は老い、一人は死に、一人は生き残り、死者は喜んで死んでゆき、残った者は安心している。嘘を言い、夢を見ることはこう言う時には偉大さを発揮する。
だから思うのですが、道を探し出せなかったら夢を見るのが良いでしょう。
 ただし、決して将来の夢を見てはいけません。アルツイバージェフ小説の中で、こう言っています。将来の黄金世界を夢想する思想家に尋ねた。そう言う世界を造る為には、多くの人を呼び覚ませねばならない。彼は言う「君達は黄金世界を君達の子孫に約束するが、君達には何を約束するのか?」有るにはあります。即ち将来への希望です。が、代価は大きすぎ、この希望の為に人々の感覚を鍛えあげ、さらに大きな苦痛を感じさせ、霊魂を覚まさせて、彼の腐爛した屍を見させる。ただ、嘘を言い、夢を見る者だけがこう言う時に偉大さを発揮します。だから、道を探せない時に我々がすべきことは夢を見ることです:但し、将来の夢ではなく目前の夢を見るのです。
 しかしノラはすでに目覚め、それほど簡単に夢の境地に戻れません。それ故、家を出るしか無く:出た後は堕落するか或いは戻るのを免れません。そうでなければ、問われねばなりません:覚醒した心以外に何を持っているか?諸君と同じ様なえんじ色の毛糸のスカーフ一枚のみで、どんなに広くても2-3尺で、何の役にも立ちません。彼女は裕福なら鞄にある物を準備せねばいけません。はっきり言えば、お金です。
 夢はそれでいいのですが:そうでなければお金が必要なのです。
 お金というと聞こえが悪いし、高尚な君士たちに嘲笑されるが、私は思うのです、人々の議論するのは、昨日今日のことどころか、食前と食後にしても、往々にして差があるのです:凡そ、食べる為にはお金が必要なことを認めていながら、お金のことを賤しいと思う者は、彼の胃をおしてみて、中に魚肉が消化されていないなら、一日空腹で餓えてみてから、彼がどういうか聞いてみましょう。
 だからノラには金――優雅な言い方では経済――が一番緊要なのです。自由はもとより金では買えませんが、金の為に売ることはできます。人間が生きるには大きな欠陥があり、常に餓えるのです。この欠陥から逃れるため、人形にならない為の準備として、今の社会では経済が最も緊要なのです。第一に、家では男女均等の分配をすべきで:第二は社会で男女平等の力を獲得すべきです。残念ながら、この権利をいかにして獲得するか、まだ分かりませんが、ただやはり戦うことが必要だとは分かっています:多分参政権の要求より烈しい戦いが必要でしょう。
 経済権を要求するのは無論平凡なことですが、きっと高尚な参政権や広範な女子解放の類を要求するより大変でしょう。世の中の事は尽く小さな事をする方が、大きなことをするより大変です。もし、今のような冬に、我々は只一着の綿入れしか無いのですが、凍死しそうに苦しんでいる人を助けるか、或いは菩提樹の下に坐して瞑想して、全ての人類を救う方法を考えるか、どうするかと仮定します。全ての人類を救うのと、一人の苦しんでいる人を助けるのとでは、大きな差があります。でも選べと言われたら、すぐ菩提樹の下に坐るでしょう。そうすれば唯一の綿入れを脱いで、自分を凍死させずに済むからです。
だから家にいて参政権を要求しても大反対にはあいませんが、経済的な均等分配を言うと、目の前に敵が現れ、当然ながら熾烈な戦いになるのです。
 戦いは良くない事で、我々も人が皆戦士になれとは言えません。では平和な方法が大切になるのです。将来親権を使って、自分の子女を解放するのです。中国の親権は絶対的なものですから、財産も均等に分配し、彼等彼女等を平和的に衝突なしに平等な経済権を得られるようにし、その後勉強しても良いし、商売に使っても良い、自分の為に使ってもいいし、社会で仕事をして、使い終わってしまってもそれは当人の勝手で、自分で責任を負うのです。遠い夢かもしれませんが、黄金世界の夢よりずっと近いです。ただ、第一に記憶が大事で、記憶が悪いと子孫に有害になってしまう。人は忘却することができるから、自分が受けた苦痛から離脱でき、忘却できるから、往々にして前人のした間違いを繰り返してしまう。虐待された嫁は姑になって嫁を虐待する:学生を嫌悪する役人は、かつては役人を痛罵していた学生で:現在子女を圧迫するのは十年前の家庭革命者だった。これもきっと年齢と地位に関係がある。但し記憶が悪いのも大きな原因だ。救済方法は各人がノートブックを買って自分の現在の思想と挙動をすべて書いておいて、年齢と地位が変わった後、参考にするのだ。子供が公園に行きたいと言うのをうるさく思うなら、ノートをめくってみて、「自分も中央公園に行きたいな」というメモを見れば、平和な気持ちになる。
他もみんな同じだ。
 世の中には無頼的な精神が有り、その要義は靭性にあります。義和団の乱の後、天津に青皮が、所謂無頼漢ですが、大変跋扈したそうです。例えば、一つの行李(荷物)を運ぶのに2元要求し、小さいからと言っても2元、近くだといっても2元、じゃあもういい、といっても2元要求する。青皮は素より手本にするわけにはゆかぬが、その靭性は敬服に値します。経済権を要求するのも同じで、ある人はそんなことを要求するのは陳腐だとけなしても、すぐ経済権が欲しいと答える:そんな卑しいことをいうな、といっても経済権と答え:経済制度が間もなく変わるから心配するなと言われても、経済権と答えるのです。
 実は一人のノラが家出しても多分困ると感じることは無いかもしれません。彼女はとても特別で、挙動も新鮮で、他の人が同情してくれて生活を助けてくれるかもしれません。だが人の同情のおかげで生きるのは不自由です。それに百人のノラが家出したら、同情も減り、千・万のノラが家出したら嫌がられるだろうし、自分でしっかりした経済権を持つのが一番確かです。
 経済面で自由を得たら、人形じゃなくなるでしょうか?いえ、やはり人形で、人に操られることは減るが、自分が操る人形が増えます。現在の社会は女が男の人形にされるだけでなく、男と男、女と女の間でも或いは男が女の人形になることもあり、これは何人かの女性が経済権を得たら救われることではない。だが人は腹ペコでじっと理想世界の到来を待つことはできない。最低少しでも喘ぎを続け、正にひからびた轍の鮒が僅かな水でもなめる如く、この比較的手に入れやすい経済権を得るために他の手立てを考えねばならない。
 経済制度がほんとうに改革されたらこの話しは空論になることは間違いありません。
 これまでの話しはノラを一般の人としてあつかっていますんおで、彼女が大変特別な人で、自ら望んで犠牲になるようならそれは別の話しです。我々は人が犠牲になるように勧誘も阻止する権利も持ちません。況や、世の中には犠牲になることや苦しみを喜んで受け入れる人もいます。欧州に伝説があり、イエスが磔にされるときに、Ahasvar(靴職人でさすらいのユダヤ人と称される)の家の軒下で休息しようとしたが、Ahasvarは許さず、それで呪詛され、最後の審判がおりるまで彼は休息することができず、只歩き続け今なお歩いている。歩くのは苦しい、休息は楽だ。彼はなぜ安息せぬのでしょう。呪詛に背くとはいえ、多分歩いている方が休息より意に適っていると思うので、狂ったように歩くのでしょう。
 ただ、この犠牲が意に適うかどうかは自分だけに属することで、志士たちの所謂社会とは無関係です。群衆は――特に中国の――永遠に演劇の観客です。犠牲が演じられると、それが本当に慷慨すべきなら悲壮劇だし;とても滑稽にみえたら喜劇です。北京の羊の肉屋の前にはポカンと口を開けて何人かが羊皮を剥ぐのを面白そうに見ています。他人の犠牲は彼等にもたらす益もこの程度に過ぎないのです。況やその後数歩も歩くと彼等はこの愉快さも忘れるのです。
 こういう群衆には何の打つ手もありません。彼らには見るべき劇を無くすのが救済の方法で、まさしくいっときを震撼させるような救済は必要ではなく、深く靭性に富んだ戦いをするのに及びません。
 残念ですが、中国を改変するのはとても難しく、一脚の卓を運びだし、一台のストーブを改装するのさえ、ほとんど血をみずにはできません:血が流れても必ずしもそうなるとは限りません。大きな鞭で背中を叩かないと――中国は自分で動くのを肯んじません。この鞭はいつかは来ると思いますし、その良しあしは別問題ですが、きっとその日が来ると思います。だがどこからやってくるか私もはっきりとは分かりません。 
 今日の講演はこれで終わります。

訳者雑感:女性の経済権、即ち男性から経済的に自立し、自由を勝ち取る。これは女子師範学校での講演で、この動きが中国各地に広がり、纏足が廃止されてゆく。しかし、この過程で多くの血が流され、学生運動でも多くの犠牲者がでた。魯迅は群衆はそれを観劇しているとして批判しており、羊の皮を剥ぐのを面白がって眺めている群衆と、学生の多くが軍警によって銃殺され、壕に落とされておぼれ死ぬのを眺めているだけ、という中国人の「観客」でしか過ぎぬ「性情」を大きな鞭で背中をどやしつけないと、改めることは難しいとしている。いつかはその日が来ると思うが、それが外国軍とくに日本の侵略軍という大きな鞭だとは薄うす感じながら、それがいつ来るかはこの時点では分からない、と結んでいる。この10年後からその鞭の侵略が始まった。
   2015/06/09記
 

 


 

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シュリーマンの友人グラヴァーはドイツ人ではなかったか?

シュリーマンの友人グラヴァーはドイツ人ではなかったか?

 石井和子訳「シュリーマン旅行記 清国・日本」1991年初版本、新潮社制作、エス・ケイ・アイ社発行を見て、講談社からの文庫本と対比しながら考えたこと。
1.
108頁に『江戸に行きたいが、それにはポートマン氏の招待状がなければならなかった。強国の代理公使から招待状を手に入れることは日本でも、他の国と同様に一介の外国人にはたいへんむずかしかった。(中略)それでも敬愛する友人たち、横浜のグラヴァー商会の友人たちの親切なとりなしのおかげで、6月24日江戸の代理公使ポートマン氏を訪問するようにという、横浜のアメリカ合衆国総領事フィッシャー氏からの招待状が領事館員のバンクスを通じて届けられた』
とある点で、この時点では横浜のグラヴァー商会の友人たちとだけ記していて、グラヴァー氏本人か、そのパートナーか仲間の誰かは分からない。この時点ではシュリーマンは直接会っていない可能性が高い。

2.
153-154頁にアメリカの総領事ポートマン氏の話を引用して、『外国人は
 横浜に 約200人
 長崎に 約100人
 函館に   15人
 総計  約315人 である。
 (江戸に住んでいるのはポートマン氏のみで瞬間的にシュリーマンを含め2人だと記すが)
 外国人たちは、横浜の限られた居留地に住んでいる。彼らの家はガラス窓のある2階建てで、1回はベランダが、2階は廻廊(ギャラリー)がめぐらされている。どの家も花や木が植えられた美しい庭の真ん中に建っている。とりわけ私の若い友人のグラヴァー氏★の庭は、多くの棕梠、椿、針葉樹(松・杉・樅)
等があつめられていて、際立っている。また彼の家具調度を見れば、主人の才能と趣味のよさ、そして彼が雇った日本人大工の腕前のほどが見てとれる。大工はグラヴァー氏の設計図どおりに作り上げたのだろう。というのも、日本には同じような家具が存在しないからである』

 そして次ページの155頁全面を使って、翻訳者の注として
『★印の訳注――トーマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。幕末の日本において彼は、諸藩のために鉄砲、火薬、船舶等の輸入にあたり、また伊藤俊輔(のちの博文)井上聞多(中略)
らのイギリス留学の手助けをし(中略)と彼の略歴を記して、その後に出典として(ブライアン・バークガフニ「人間と文化」<三愛新書>による)』
と記して、その頁の上半分に 長崎・グラヴァー邸の庭。(「甦る幕末」より)の西洋人が5名ほど映った庭の写真を載せている。(建物は無いが遠方に長崎の対岸の山並みが見えるからこれは確かに長崎のもので、横浜の写真では無い:山口注)

3.162-163頁に
『ヨーロッパにおける絹、茶、木綿の暴落と、幕府が次から次へと持ち出す――大名たちの憎悪がつくりだす――障害のためで、交易はこの一年まったく不振で、採算のとれている商人はほとんどいない。実際利益をあげている商人は三人もいるかいないかだ。そのなかに若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで好取引をつづけ、にわかに莫大な富を築きつつある』
 と記している。

4.
 この頁のグラヴァーの説明はハノーヴァー、リンゲンの医師の息子で、イニシャルはMであると記しているが、前の154頁にはイニシャルは無く、155頁の訳者注で、トーマス・グラヴァー(1838-1911)は1859年に来日、長崎にグラヴァー商会を設立した。幕末の日本において彼は云々と続けて、その出典として、
(ブライアン・バークガフニ「人間と文化」<三愛新書>による)と記して、その頁の上半分に 長崎・グラヴァー邸の庭。(「甦る幕末」より)の西洋人が5名ほど映った庭の写真を載せている。(建物は無いが遠方に長崎の対岸の山並みが見えるのは上述の通りでこれが読者に誤解を与える可能性がある:山口注)
 トーマス・グラヴァーは1859年にジャーディンの上海支店に入り、59年9月19日(旧暦8月23日)に長崎に移り、2年後の61年にジャーディン商会の長崎代理人となった。その後長崎でグラヴァー商会を設立した。
 その一方でジャーディン社の上海にいたジャーディンの姉の子ウイリアム・ケヅイックは59年に横浜に来てジャーディン横浜支店を設立した。63年にケヅイックは長州五傑のイギリス留学支援をしたとされている。
 長州五傑をイギリスに送ったのは横浜にいたケヅイックと長崎か横浜にいたグラヴァーが長州とロンドン本社の間を連絡取りあって、協力したものと思われる。

5.そこで疑問が起こる。
 シュリーマンが横浜の限られた居留地に自分で設計図を作り、日本の大工に家具調度を作らせたグラヴァー氏は、トーマス・グラヴァ―だったかどうか?
 シュリーマンは最初はイニシャル無しでグラヴァーと書き、10ページほど後にハノーヴァー、リンゲンの医師に士息としてMというイニシャルを付けて紹介しているのは不思議だ。シュリーマン自身も北ドイツのノイブコーの牧師の子として生まれ育ったから、同じ北ドイツのハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息、と記述しているのは、記憶違いから来るとは考え難い。況や、彼は江戸に行く時に招待状を作ってもらったり、横浜の居留地の立派な家に招待されている相手の名前、出身地を混同するだろうか?

1865年6月3日に富士山を見るまで、彼は上海から種子島の東を抜けて、長崎には寄らぬ航路で来日しており、6月10日前後に将軍家茂の京都への行列を見、6月18-20日に横浜から八王子に出向き、6月24-29日は江戸に滞在し、7月4日に横浜から(蒸気船が無かったので)英国の小さな帆船エイボン号に乗って、2か月もかかって9月2日にサンフランシスコに着いている。日本滞在は6月3日から7月4日出発までの1か月で、長崎に行ったとも記してないから、横浜でその当時横浜にいたトーマス・グラヴァーに会ったのなら、シュリーマンはジャーディン商会かグラヴァー商会のことに触れるだろうが、横浜の居留地の立派な家具調度の家に招かれたシュリーマンはM・グラヴァーと記しているのは不思議である。他の人の名前にはミドルネームもいれたりしており、フランス語で書かれたこの旅行記に数回グラヴァーと書いておるが、最後の段階でMというイニシャルを付けて、出身地を記しているのも不思議だ。

 山口の推論:
シュリーマンが会ったグラヴァーはドイツ人ではなかったか?
ハノーヴァー、リンゲンにグラヴァーという有名な医師がいたかどうか?
ただ、シュリーマンはこの原稿を横浜からサンフランシスコへ向かう船で書いており、富士山の高さとかいろいろ記憶違いかメモの書きなおしの際に誤記したものかもしれないが。
      2015/03/09記
 

 

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シュリーマンはトーマス・グラバーとは会っていないのではないか。

シュリーマンはトーマス・グラバーとは会っていないのではないか。
「トーマス・グラバー伝」を読んで

 以前、シュリーマンの「清国・日本旅行記」の中に、シュリーマンが触れている横浜のグラヴァー商会の友人たちのおかげで江戸行きの旅行証を入手したことと「ハノーヴァーの若い友人のM・グラヴァー氏がいる。ハノーヴァー、リンゲンの有名な医師グラヴァー氏の子息だが、彼は抜きんでた商才のおかげで好取引をつづけ、にわかに莫大な富を築きつつある』と記しているので、どうしてこう言う表現になったか、疑問であった。
彼は1865年の6月3日から7月4日までの1か月の間、6月10日には将軍家茂の京都行きの行列を見ているし、18-20日は八王子へ出かけ、24-29日に江戸に出かけている。その外はほぼ横浜周辺にいて長崎には行っていない。
ただ、彼は横浜でグラヴァー氏の庭をみて『私の若い友人のグラヴァー氏★の庭は、多くの棕梠、椿、針葉樹(松・杉・樅)等があつめられていて、際立っている。また彼の家具調度を見れば、主人の才能と趣味のよさ、そして彼が雇った日本人大工の腕前のほどが見てとれる。大工はグラヴァー氏の設計図どおりに作り上げたのだろう。というのも、日本には同じような家具が存在しないからである』と記し、訳者は★印の注にトーマス・グラヴァーの紹介をしており、長崎の有名なグラヴァー邸のできる前の庭の写真を添付している。
さて、アレキサンダー・マッケイ著、平岡緑訳、中央公論社の「トーマス・グラバー伝」1997年版を読んで、幾つか気になった点を下記する。

1.23頁:「清国に在留していた英国人の中にグラバー一族の者が二名いた。
 広東にいた英帝国税関長ジョ―ジ・B・グラバーと、当時福州に繋留されていたジャーディン・マセソン商会の船長T・グラバーである。グラバー姓を名乗る二人のどちらかが、或いは両方がアバディーンのグラバー一家と何らかの形で親戚関係にあったと思われる。となるとトーマスの就職を決めた推薦状は、当時清国にいた一族の一員からか、それともおそらくジャーディン・マセソン商会に雇われていた人物からでたものではなかったろうか」とあり、日本に来る途中で、シュリーマンが彼等の内の関係者から日本にグラバーがいることを紹介されていた可能性はある。その紹介で横浜のグラヴァー商会の友人たちから江戸行きの旅行の手配を依頼したのであろう。この時点でグラバー本人に会っている可能性は(表現からの推定だが)低いといえる。
2.江戸行きの手配は24日以前にしてもらった訳だから、グラバーの立派な庭と家具調度のある家は、その手配の前で、八王子へ行った18-20日を除いた、
6月3日から7月4日の出発までの間に訪問したのだろう。その間に、トーマス・グラバーは横浜にいたかどうか、シュリーマンと会っていたかどうか?
3.101頁;ここで、英国公使の交代があり、「1865年春、グラバーの支援を得て、海外渡航を希望する二名の長州藩士が長崎入りした。(中略)
 そのころになると、日本では、ラザフォード・オールコックの後任のイギリス公使として、手ごわいサ―・ハリ―・パークスが近々着任することが周知のこととなった。パークスは、将軍、天皇、藩主たちからなる複雑で混乱した外交事情において、イギリスサイドの執るべき対処法を整理整頓する大任を帯びて任命されたのであった。(中略:上記の長州藩の二名はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていて、パークスに書状を渡して貰おうと、グラバーに依頼した。主趣は将軍が長州を排外的と決め付ける見解を是正しようとしたもの)
4.103頁:「1865年6月27日に、サ―・ハリ―・パークスが長崎に到着した。彼は日本での新たな環境に慣れるため、江戸に着任するのに先立って長崎に数日間滞在することにした。江戸に行くためには北東に向かってさらに1週間、船に揺られなければならなかった。彼はイギリス極東艦隊の旗艦、プリンセス・ローヤル号に乗艦して長崎にやってきた」彼はパークスが長崎に立ち寄ることを知っていたから、長崎にいたトーマス・グラバーがその直前に往復2週間かかる横浜行きをしたという可能性は極めて低い。シュリーマンの江戸行きの手配をしたのが、「グラヴァー商会の友人たち」で、彼ではないと推定されるから。

そして決定的なことは、6月27日の「入港当夜、長崎在住のイギリス人名士を船上に招いて歓待した」とあるからである。
 トーマス・グラバーは彼らとの最初の出会いを綴った文章に、将軍に力添えしなければならない、とパークスは述べ、グラバーは「日本の将来は南部地方の大名の手中にあるのです。日本の将来は彼等の双肩にかかっているのです」と進言している。「パークスは同意しなかった」とまで記している。
5.結論:シュリーマンは横浜でトーマス・グラバーに会ってはいないと推定される。横浜で家具調度品を整えさせることのできた、M.グラヴァーが存在していた可能性が高い。ドイツ人のシュリーマンがハノーヴァーのリンゲン出自の男と会話したのは果たして何語だったのだろう?ドイツ語か英語か?記憶間違いするだろうか?
   2015/04/09記

 

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シュリーマンの会った青年は誰だったか?

シュリーマンの会った青年は誰だったか?
1.
 6月6日釜澤さんと一緒に、横浜外国人墓地と開港資料館を訪ねた。
目的は、シュリーマンが1865年5月から7月初めの2カ月日本に滞在していた間に、横浜で会ったハノーヴァー・リンゲン出身の青年の名前とその来歴などを確認する為である。
 シュリーマンがフランス語で書いた「清国・日本旅行記」の講談社学術文庫日本語訳では横浜でグラヴァー商会の協力を得て、江戸への旅行手配をしてもらっており、紀行文の終わりの方に、M.グラヴァー氏はハノーヴァー・リンゲン出身の有名な医者の息子で、立派な調度品を日本の大工に作らせ云々と紹介している。長崎の有名なグラヴァーはトーマスだからなぜイニシャルがMなのか、どうもおかしいと感じた。
 釜澤さんの協力を得て、フランス語の原文を調べて貰った結果:
同書の126ページには「MM. W. Grauert et Cie de Yokohamaの親切なとりなしで米国総領事フィッシャー氏…」云々の記載があります。(MMはムッシューの複数形と思われます。W. Grauert兄弟商会といった感じでしょう。)
 
という事が判明したので、その確認をしに横浜外人墓地まで足を伸ばした。
2.
 2百円の募金を払って、順路通りに墓石に刻まれた名前を読みながら、日本語の説明板と併せ尋ねて歩いた。右手には入り口でもらった案内図と、斎藤多喜夫著「横浜外国人墓地に眠る人々」有隣堂2012年版を持って、コンパスと条規の刻まれたフリーメーソンの印の多いのに驚き、復十字の下にもう一本斜めの物があるロシア語の名の刻まれた墓の多いのも印象に残った。ドイツ人とみられる姓の多いことから、入国時の国籍は不明だが幕末明治維新の前後には大勢のゲルマン人が日本に来ていたことが分かる。
 案内図の17番に目指す「Grauert」グラウエルト一家の立派な墓群がある。
Wilhelm Grauert(1829-1870)、Herman Grauert (1837-1901)、
Heinrich Grauert(1846-1890)の3兄弟。斎藤氏の著書288頁に依ると、「まず長兄のヴィルヘルムが来日し、1862年7月1日、横浜にグラウエルト商会を設立した(参考263:同書の出典番号)。来日前は香港の商社で働いており、来日時の国籍はイギリスだった。香港版の商工名鑑(The Chronicle & Directoru for China,Japan,&the Philippones)1868年版の横浜の部にN・グラウエルトが現れるが、NはHの誤りだと思われる。翌年版からはHになる。
(中略)ヴィルヘルムは1870年に死去し、以後ヘルマンの個人経営となった」
 同書はその後、「ヘルマンが横浜天主堂の創建に尽力したという伝説が生まれた。横浜開港70年を記念して、有吉忠一市長が(ヘルマンの息子の)クレマンスにヘルマンを表彰する文書を手渡した。(中略)1962年には彫刻家の井上信道の制作したヘルマンの胸像が墓地に設置され… 伝記(Herman Ludwig Grauert 1837-1901)が編集され、伝説が歴史の領分に侵入してきた」
 同氏は続けて「結論から言うと、伝記には疑わしい部分が多い。例えば、横浜天主堂創建の主体であるパリ外国宣教会の記録にヘルマンの名はまったく現れない(参考265)そもそも天主堂が創建された1862年1月12日にはヘルマンはまだ横浜にいなかったと思われる。(中略)
 1865年に居留地参事会の議長に選出されたとも記されている。然しこの時期にはまだヘルマンが来日していた形跡はないので、これは兄のヴィルヘルムであろう。ただし議長に選出されたのはショイヤ―であって、グラウエルトは財務委員に就任している。(参考267)
 調べればわかることなのに、多くの人が事実と会わない伝説を信じてしまったのはなんとも不思議だ」と結んでいる。
 事実、墓碑の前の日本語版も誤りが多い。斎藤氏は「あとがき」に「既存の文献と本書とで食い違った記述がある場合には、本書の方が正しいか、あるいは少なくとも新しいと思ってください。と能力の範囲内でできるだけの事をしたという自負を述べている。
3.
 我々は義経伝説を始め、聖徳太子や弘法さんの伝説をより「ありがたがって」読めるように後世の人達が「時代を経るごとにふくらましてきた物語」として読んできた。その方が面白いしすっきりしたイメージとして頭に残る。実像と虚像は歴史的な人物が古くなればなるほどその距離が離れて行くのだろう。
 ディリュク・ファン・デア・ラーン氏が「横浜居留地と異文化交流」(山川出版)の81頁に「幕末・明治期の横浜のドイツ系商社」で6社の中にグラウエルト社を紹介し、「ヴィルヘルムとヘルマンのグラウエルト兄弟は開港以前1857年(安政4年)出島に来て翌年に横浜に移住したと言われるが、史料に食い違いがあり、真偽を確認する必要がある。(中略)
 弟ハインリッヒ1872(明治5年)から1890年に事故死するまで会社に勤めた。1876年ロベルト・ブライフスが入社し、1901年事業を引き継ぎ第一次大戦まで続けた。
二代目ヘルマン・クレメンス及び三代目オット・イスライブ・グラウエルトは2人とも横浜で医者として活躍した」と記している。
4.
 以上の事から、シュリーマンが1865年の2カ月の間に横浜で会ったのは長崎グラヴァー邸で有名なトーマス・Gloverではなく、ハノーヴァーの神学者の
グラウエルト一家のヴィルヘルムであったことが事実であろう。ヴィルヘルムの父親 Clemens August DR.PHIL. GRAUERTのDRは一般日本人は医者だと思ってしまうが、釜澤さんの説明では、PHILの博士の意味だそうだ。
 ただし、1865年時点で、The Chronicle & Directoru for China,Japanの横浜の部にGlover商会とあり、そこにED. Harrison とThos Smithの名がある。
この時点でGlover商会は長崎にThomas Glover がいて、横浜に支店を出していたのであろう。これは確認の必要があるが、彼らが会ってはいないだろう。
 いずれにせよ、横浜で医者を開業して外国人墓地の管理委員を長年にわたってつとめていた2代目3代目のグラウエルト家の子孫が横浜にいたら、彼等の伯父さんが1865年夏即ち150年前にシュリーマンにいろいろ協力していたことを伝えてあげたいものだ。シュリーマンは世界一周の旅で横浜を発ってサンフランシスコに向かったのは、南北戦争がその前に終わったという情報を得てから決めたのだろう。5という年はその後日清日露そして第二次大戦と戦争に因縁の深い年だ。今年2015年は起こらないで欲しい。いやもう今後戦争の歴史の年代を覚える必要の無い世界にしたいと思う。
   2015/05/07記

 

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墳 題記

墳 題記
 形式の異なる多様なものを集めて一冊としたのは、何の体裁がある訳でもない。偶然20年ほど前の数篇の文章を見つけたためだ。私が書いたの?と思った。読むと確かに私のだ。「河南」(東京留学時代の雑誌)に寄稿したもので、編集者はちょっと変わっていて、文章は長いのが良いといい、長いほど原稿料をはずんだ。だから「摩羅詩力説」など無理やりに集めたものだ。最近なら大概こうはしなかったろう。また好んで怪しげな文句や古文を書き、当時の「民報」の影響で:今回印刷の際に少し改めたが、その他は元のままにした。そのため生硬なものはもしそれが他の人のなら「割愛」してはどうかと勧めるだろうが、自分としてはそのままにしようと思い、「五十年生きてきて四十九年の非」を知るというが、年をとればより進歩するとは限らぬようだ。文中で取り上げた詩人は今では誰も提起せぬのも、私が旧稿を放っておけない小さな理由だ。彼等の名はかつてどれほど私を激昂させたか、民国成立後に彼等は忘れられたが、はからずも彼等は折に触れ私の目の前に現れるのだ。
 次に当然だがまだ読んでみたい人がいるからで、中でも一部の人は私の文章を憎んでおり、嫌がる人がいるというのは、何の反応もないより幸福なことで、世の中には気分を害する人が多いし、そういう人達は専ら気持ち良い世界を造ろうとしているが、そうは問屋がおろさない。彼等に少し憎らしいものを見せ、時には気分を悪くさせ、元々自分達の世界もそう気持ち良いものではない、ということを思い知らせてやるのだ。ハエはブーンと鳴いて飛ぶのを嫌がられているとは知らないが:私は知っている、私が飛べる限り飛んでやろうと思う。私自身の憎らしい所は自覚しており、私が酒を控え、魚の肝油を食べるのは、自分の延命を望んでいるからで、愛する人の為と言うより、むしろ私の敵――彼等の体面に配慮して敵としておこう――彼等にとって都合のよい世にいささかでも欠陥を残してやろうとするのだ。君子の徒は言う:君はなぜ平気で人を殺すような軍閥を罵らないのか?卑怯じゃないか!と。だが私はそんな殺されるのを誘うような罠にはかからない。木皮散人はうまいことを言っている:「何年もの間、家の軟い刀で首を切られても、死んだ感じはしない」と。私は「無銃階級」と自称するが、実は軟刀を手にした妖魔を倒そうとしているのだ。上述の君子の言葉は軟刀である。筆禍に会ったら君は彼等が君を烈士だと尊敬するとでも思うかい。否だ。そうなった時は涼しい顔をして知らんぷりだ。信じられぬなら彼らが3.18惨案で惨殺された青年をどう論じているか見れば分かる。
 この外、私にとっても小さな意味があり、即ちこれは生活の一部の痕跡と言える。過去は明らかに過ぎ去ったものだし、魂を追い戻す術もないが、そうかといって決別はできず、やはり糟粕でも集めて一つの小さな新墳を造り、埋めて心に残しておこうと思う。遠からぬうちに踏まれて平地になっても構わぬし、そんなこと気にする事もできない。
 多くの友が、私の為に探し集め、書き写し校正印刷に多くの貴重な時間を費やしてくれたことに大変感謝している。私のそれに対するお礼はこの本が印刷製本された時、友人たちの心からの愉快な笑顔を得られるのを望むのみ。贅沢な望みは無い。この本が暫くの間、露天の本屋の棚に積まれることを望み、広大な大地が小さな土のひと塊すら受け入れないことはないのと同じようにされることを望む。更に言えば、分に安んじないことだが、中国人の思想と趣味が今のところ、幸いに所謂正人君子たちに統一されてはおらず、例えば専ら皇帝の陵を仰ぎみるのが好きな人もいるが、或いは荒れた塚を見て、昔をしのぶのを好む人もいるように、何はともあれ、ちょっとめくって見てやろうかと言う人もいるだろう。そうしてくれれば私はとても満足する:その満足は蓋し、金持ちの娘を嫁にもらうより劣ることはない。
   1926年10月30日 大風の夜、魯迅アモイにて記す。

訳者雑感:この本を広げたら中から2010年8月18日の神田の内山書店の領収書が出てきた。魯迅作品を5冊買った時の物だ。この時から彼の作品の翻訳を始めたのだ。が、「墳」は彼が東京にいた1907年頃に東京で発行されていた雑誌「河南」に寄稿されたもので、古文が多く、難解でなかなか前に進まないので、次の「熱風」や「吶喊」から始め、これは2015年5月に再挑戦するものだ。
 魯迅のその後の口語文になじんできて、彼の論調にも慣れてきたので、今回は多少前進するかと思うが、一部難解なものは、彼も言うように<生硬なものはもしそれが他の人のなら「割愛」してはどうかと勧めるだろうが>を利用させてもらい、スキップさせてもらおう。
   2015/05/25記

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「奔流」編集校正後記

1928-29年 「奔流」編集校正後記
 創作は自ら彼自身を証明するが、翻訳も訳者は自らを説明している。今編集した後で、思いついたことを記す――
イワン・ツルゲーネフは早くから小説で世に知られているが、論文はとても少ない。この「ハムレットとドンキホーテ」は大変有名で、彼が人生をどう見ていたかが分かる。「ハムレット」はすでに中国語に訳されており、余計なことを言う必要もないが:「ドンキホーテ」は林紓が「魔侠伝」で文語訳を出しているのみだが、前半だけで、何節か削っている。この2年来、梅川君が「ドンキホーテ」の翻訳熱を高めたからまもなく読むに値する訳が出ることを願う。たとえその中の閑文は略さざるを得ぬとしても。
 「ドンキホーテ」は千頁近くあるが、内容は大変簡単で、彼は任侠小説が好きで、任侠狂いとなり、いろんなところに出かけて邪悪を除こうとして、釘にぶつかり、数々の笑い話を起こして死ぬ:死に臨んではじめて彼の本来の自分を取り戻した。だからツルゲーネフは何の煩悶することもなく、専ら理想に従って勇猛に前向きに物事に取り組むのを「ドンキホーテ式」とし、一生瞑想し、懐疑して何もしないのを「ハムレット式」として対照している。後にまたある人が、専ら理想に従って取り組む「ドンキホーテ式」と相対して、現実を見定めてから勇猛に進んで物事を成すのを「マルキシズム式」と称している。中国でも今、ある人は「ドンキホーテ」だと騒いでいるが、実はこの本を読んでいないから実態は違う。
 「大旱の喪失」はEssayで作者のバックグラウンドの詳細は、1902年に亡くなっていることしか知らぬ。Essayは訳しにくいがここでは一つの格式として紹介しようと思う。将来もしこの類の文章が得られたら、載せて行こうと思う。
 Vasco族は古来スペインとフランスの間のピレネー山脈の両側に住み世界で謎の人種とみられている。バロヤはこの民族の血をひき、1872年12月28日フランス国境に近いサンセバスチャン市に生まれた。元は医者で小説も書き2年後、彼の兄Ricardoとマドリッドに行き、パン屋を6年やった。今Ricardoは
有名な画家だ:彼は大変独創的な作家で、早くもVincente Blasco Ibanezと共に現代スペイン文壇の巨星と称されている。彼の著作は大体40ほどあり、多くは長編だ。ここでは小説4篇を日本の「海外文学新選」第13篇「ヴァスコ牧歌調」の永田寛定の訳から重訳した:原名は「Vidas Sombrias」で、内容はヴァスコ族の性情で、日本語訳の題名を使った。
 今年は「近視眼で扁額」を見るというと、批評家を自任している人は郁郁と楽しまぬようで、その反発を受ける。冤罪を蒙らぬ為に著者に替って少し弁明をするしかない:この物語は民族の伝説で作者はそれを取り上げて「狂言」として編集したようだ。一昨年の秋、「波艇」に載せようと準備していたが、もしこれが避評家に不評を買うことがあるとすれば、それは実際、大衆の目はたいへん明るく、共通の暗部の病気を見つけだせるからで、伝述者を咎めることはできない。
 ロシアの文芸に関する争いは、「ソビエトロシア文芸論戦」で紹介したが、ここで「ソビエトロシアの文芸政策」は実はあの部分の続編といえる。前の本を見れば、本編はよくわかる。序文には立場として3派に分かれるが、要約すると2派に過ぎぬ。即ち、階級文芸について、1派は文芸に偏重し、ワランスキー等は階級に偏重し「持ち場にて」の人々:ブハーリン達は当然ながら、労働階級作家支持を主張し、最も大事なのは創作だと考えている。発言者の中に、何人かは委員で、ボロンスキー、ブハーリン、ヤコブレフ、トロツキー、ルナチャルスキー等:又「鍛冶工廠」の1派もあり、プレトニヨフの如き:最も多いのは「持ち場にて」の人々でバルデン、レレビッチ、アベルバッハ、ロドフ、ベサメンスキー等で「ソビエトロシア文芸論戦」の訳中に、「文学と芸術」の後に皆署名がある。
 「持ち場にて」派の攻撃は殆どボロンスキーの「赤色新地」の編者に集中し:彼の「生活認識としての芸術」に対し、レレヴッチは「生活組織としての芸術」を書いて、ブハーリンの定義を引用し、芸術で以て「感情の普遍化」の方途とし、又、ボロンスキーの芸術論、すなわち超階級的と指摘している。これは評議会の論争に見られる。だが後に、蔵原惟人が「現代ロシアの批評文学」で言うように、彼ら2人の間の立場は少し近づいたようで、ボロンスキーは芸術の階級性の重要さを認識し、レレヴッチの攻撃も以前より緩和した。現在、トロツキー、ラデックは皆放逐され、ボロンスキーも略引退し、状況も大きく変わってきた。
 この記録で労働階級文学の大本営たるロシアの文学理論と実際情況が見られ、今日の中国にとっては多分無益では無かろう。その中の幾つかは空字があり、原訳本の通りで、他国の訳本もないので、敢えて妄りに補充しなかった。原書をお持ちの人がいれば、郵送いただければ幸いだし、間違っている個所を指正いただければ必ずすぐ補正します。
              1928年6月5日  魯迅


訳者雑感:これは全部で12段あり、本文は36頁、注が21頁で174項目ある。
 1928年6月号から29年12月まで発行された月刊誌で、魯迅と郁達夫が編集した。最初編集後記としていたが、校正も加えられたので名前を修正した由。
 魯迅たちは外国の文学・文芸を真剣に翻訳して中国に紹介しようとした。その情熱が伝わってくる文章である。
 彼は絵画や版画が好きで、画像は世界の共通語で理解の大きな助けになると指摘し、いいものを翻印している。
 手元に、1994年版の「1930年代 上海 魯迅」という本がある。町田市立国際版画美術館が発行したものだ。191頁に頁数以上の版画がある。1930年代にカラ―印刷のグラビアなどはあったかどうか知らぬ。あったとしてもとても高くて(白黒写真に色をつけた絵葉書のようなものはあっただろうが)庶民には手が届かなかったであろう。そうした時代でも版画や画像は白黒だけでも、異国の文物と人間の生きざまを理解するのに大いに与って力を発揮したことだろう。あと11段、どのように展開するのか。
   2015/05/14記
 


 

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範愛農を哭す

1912年 
範愛農を哭す
 酒を把(と)り、天下を論ず、
 君は酒にそれほど強くは無かった。
 高い天空を巡りて銘酊し、
 微(すこ)し酔って自ら沈渝(沈む)す。
 幽谷無窮の夜、新宮は春。
 古き朋は雲の如く散じ尽くし、
 余も亦軽き塵に等し。

自嘲
 運は華蓋に交わるに、何を求めんと欲す。
 未だ翻身せぬに、頭をぶつける。
 破帽で顔を遮り、賑やかな市を過ぎ、
   漏船に酒を載せて中流に浮ぶ。
 眉を横たえ、冷やかに対す千夫の指、
   首を俯(ふ)して甘んじてなる孺子の牛。
  小楼に身をひそめて、一統を成し、
  冬夏春秋、かまうものか。

訳者雑感:
「集外集」にこの詩を見つけて、(他にも日本人へ送った詩もあるが)
微力ながら、日本語にしてみた。
 最初は北京の魯迅から「今に北京に来いと連絡が来るんだ…、と紹興の勤めていた学校から追い出されて、強くもない酒でうさを紛らし、尿意を催し舟の後部かどこかで起ちあがって、蘆の生えている浅い川に落ちて死んでしまった、との便りを聞いての作だという。もう2首ある。
 2番目の自嘲は1968年の文化大革命のころ、中国のいたるところにこの標識が有ったので訳して見た。標識は2行だけで、
「眉を横たえ、冷やかに対す千夫の指、
首を俯(ふ)して甘んじてなる孺子の牛」
これが毛主席の座右の銘だとか、案内してくれた中国の青年が私に語ってくれた声が今も残る。魯迅がその当時、香港か日本のどこかでまだ文筆活動をしていたら、或いは上海にいたら、一体どうしただろうか?私の許可なくそれを標識にしないでくれと言っただろう。
    2015/05/08記

 
 

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