魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
ゴルキー著「1月9日」翻訳の前書き
ツルゲーネフ、チェホフといった作家が、中国読書界で大変称賛されていたころ、ゴルキーは余り注目されていなかった。偶に1-2篇の翻訳はあったが、彼の描いた人物が特別なため、どうも大きな意思を感じなかった。
この原因は今たいへん明白だ:彼は「底層」の代表者で、プロレタリア階級作家だからだ。彼の作品に、中国の旧知識階級は共鳴できぬも正に当然の事。
然るに、革命の導師は20余年前、すでに彼は新しいロシアの偉大な芸術家で、他の武器で同一の敵に対し、同じ目的で戦った仲間で、彼の武器は――芸術的な言語――で極めて大きな意義を持っていたことを知っていた。
この先見性は今すでに事実で証明された。
中国の労農者は圧迫搾取され、死から救出のいとまもなく、どうして教育のことなどを語れようか:文字もまたこんなに難しく、その中から今ゴルキーのような偉大な作家が現れるという事は、今すぐにはとても困難だ。だが、人間の光明に向かうということは同じである。無祖国(共産主義の意味)文学も、あちらとこちらでの差は無い。我々はまず先進的モデルを取り入れることができる。
この小冊子は一短編だが、作者の偉大さと訳者の誠実さにより、正に模範的なモデルとなった。更にこれで、文人の書斎から脱け出して、大衆と相対するようになり、今後啓発されたものは、以前と異なる読者で、それは異なる結果を生みだすだろう。
その結果は将来事実で証明されるだろう。
1933年5月27日 魯迅記
訳者雑感:出版社注によると、革命の導師とはレーニンのことで、ゴルキーの「母親」を称賛しており、云々とある。レーニンはゴルキーを、毛沢東は魯迅をそれぞれ大変称賛しており、二人の名前は旧ソ連と新中国の各地で図書館や大きな道路に付けられ、人々の心に残った。二人は1936年に死んだ。ドイツや日本との大戦に巻き込まれる前に亡くなった。戦争中および戦後まで生きていたら、スターリンや毛沢東前後の中国の支配者たちにどのように立ち向かったのだろう。
1957年の上海文芸座談会で「魯迅が生きていたならば」という設問に対し、
毛沢東は「(魯迅が生きていれば)牢獄に入れられ、そこで書き続けるか、或いは何も言わなくなっているかだな」(出席者の一人、黄宗英の言葉)という。
2016/02/11記
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