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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「解放されたドンキホーテ」後記

「解放されたドンキホーテ」後記
 現在誰か黄天覇(清代小説の侠客)の様な男が、頭に英雄の髷を結い、身に夜行着をつけ、ブリキの刀を差し、市や鎮の道を突進し、悪覇を退治し、不平をなくすと豪語したら、きっと嘲笑され、気狂いかマヌケと決めつけられるが、少し怖がられもしよう。だが、弱弱しくいつも殴られていたら、ただのおかしな気狂いかウスノロで、人は警戒心を解き、面白がって眺めるだろう。スペインの文豪セルバンテスの「ドンキホーテ」の主役は当時の男に、古代の遊侠を信じさせ、迷信を信じて悟ることなく、困窮して死んでしまい多くの読者の心をつかみ広く愛読された。
 但し我々は試みに問うてみる:16-17世紀のスペイン社会に不平はあったか?きっとこう答えるしかない:有った、と。ではキホーテの意志はそれを打破するためで、彼が間違っていたとは言えない:自分の力を知らないのも誤りとは言えぬ。誤ったのは彼のやり方で、いい加減な考え、誤った方法でやってしまった。侠客は自己の「功績」の為にそれを打破することはできぬ。正に慈善家が自己の陰徳を積むために、社会の困苦を救えないのと同じだ。更には「徒に無益なだけでなく:これを害してしまう」のだ。彼は徒弟をひどく扱う医師を征罰し、自分では「功績」を挙げたと思い、良いことをしたと思って去ったが、彼が去るやいなや、徒弟は更に苦しむのが良い例だ。
 だがキホーテを嘲笑する傍観者の嘲りは必ずしも当を得ているわけではない。彼等は彼を元々英雄でもないのに、英雄気取りで時務を識らないで、終には次つぎに襲ってくる困難に苦しんでいるのを嘲笑するのだ:この嘲笑により、自分たちは「英雄でもない男」の上に位置し、優越感を得て:社会の不満に対しては何の良い戦法も無く、果ては不平すら感じなくなるのだ。慈善者、人道主義者に対して彼等はとっくに同情や財を使って心の安寧を買っているのに過ぎぬと看破している。これは無論正しい。だが戦士でなければこの理由を盾に、自己の冷酷さを掩い、一銭も出さぬ吝嗇で、心の安寧を買おうとしておるので、彼は元手を出さずに商売をしているのだ。
 この劇本はキホーテを舞台に上げて、大変明確にキホーテ主義の欠陥と害毒を指摘した。第一幕で彼は謀略を使い、自分が打たれながら革命者を救ったのは精神的勝利で:実際も勝利し、ついに革命が起こり、専制者は牢に入れられる:しかしこの人道主義者はこのとき忽然また役人たちも被圧迫者と認め、蛇を放して森に返し、禍根を将来に残し、彼らが又害毒を流せるようにし、家を焼き物資略奪ができるようになり、革命の大変むごい犠牲となった。彼は人々の信仰の対象にはならなかったが――お伴のサンチェパンサも余り信用せず――しばしば奸人に利用されて世界を暗黒にすることに使われた。
 役人たちは傀儡で:専制魔王の化身は伯爵Murzioと侍医Babroだ。Babroはキホーテの幻想をかつて「牛羊式平等の幸福」と呼び、彼らが実現しようとしているのは「野獣の幸福」として次のように言う――
 『O! ドンキホーテ、お前は我々が野獣なのをしらぬ。粗暴な野獣、小鹿の頭を咬み、のどを切り、その熱い血を飲み、自分の爪牙の下に敷いたそれが足を痙攣させながら死んでゆくのを感じ――それは正しくとても甘い蜜だ。人間はしつこく付き纏う野獣だ。支配者は華奢な暮らしをして、人を脅迫して自分たちに祈りをささげさせ、怖れさせ、ぬかずかせ、卑屈にさせる。幸福とは数百万人の力がすべて君の手に集まっていると感じ、すべて無条件で君に渡され、彼等は奴隷の様で、君は皇帝だ。世界で最も幸福で気分の良いのはローマ皇帝で、少なくともハリオハバールと同じだ。だが我等の宮廷は大変小さくとても遠い。上帝と人の一切の法律を打ち壊し、自分の思うままの法律によって、他の連中のために新しい鎖を打ち出す!権力である!この字には一切合財が含まれる:神妙で人を沈酔させる字だ。生活はこの権力の程度で量る。権力のない者は死屍だ』(第2幕)
 この秘密は普段は口に出せぬが、Murzio恥じもおそれず「小鬼頭」となって、言いだした。彼は多分キホーテの「誠実さ」を認めたためだろう。キホーテは当時、牛羊は自分自身を守るべきだといったが、革命の際、忘れてしまって、「新しい正義も古い正義の同胞であり姉妹だ」と言った。革命者を過去の専制者と同じだ、と言った。
 『その通りだ。我々は専制の魔王で、我々が専政(独裁)するのだ。この剣を見ろ。――見たか?――これは貴族の剣と同じで、人を殺したら大変なものだ:但し、彼らの剣は奴隷制度の為に殺すのだが、我々の剣は自由の為に殺すのだ。お前の古い頭を改造するのはとても難しい。お前は良い奴だ:良い奴はいつも喜んで被圧迫者を助ける。今我々はこの短い期間は圧迫者となる。我々はお前と闘争する。我々が圧迫するのはこの世の中に、早く誰も圧迫できなくさせる為だから』(第6幕)
 これは大変明確な解剖だ。しかしキホーテはまだ覚悟ができておらず、墳を掘ることになる:彼は墳墓を掘り、自分ですべての責任を負う「準備」をする。但し、正にBalthazarの言うように:この種の決心は何の役に立つのか?
 そしてBalthazarはやはり始終キホーテを愛しており、彼に担保を与えようと願う:彼の確固とした朋友になろうとするが、これは彼が知識階級出身のせいだ。だが最終的には彼を変えることはできなかった。こうなっては、Drigoの嘲笑と憎悪を認めるしかない。つまらぬ話に耳を傾けないのは最も正当な事で、彼には正確な戦法があり、堅強な意志をもつ戦士だ。
 これは一般的傍観者の嘲笑の類とは異なる。
 だが、このキホーテは、総体として現実に存在する人間ではない。
 原本は1922年発行でまさに十月革命の6年後で、世界では反対者のいろいろなデマが飛びかい、中傷に懸命になっていた時で、精神を敬い、自由を愛し、人道を講じ、大半は党人の専横に不満で、革命は人間性の復興ができないだけでなく、逆に地獄に落ちると叫んでいた。この劇本はそうした論者たちへの総合的な答えだ。キホーテは十月革命を非難する多くの思想家・文学家たちを合成したものだ。その中に当然Merezhkovskyもいて、トロツキー派もおり:ロマン・ロランもいて、アインシュタインもいた。私はその中にはゴルキーもいたのではと疑っていて、当時彼は正に種々の人たちの為に奔走していて、彼らを出国させ、身の安全に協力し、そのために当局と衝突したと聞いた。
 但し、この種の弁解と予測を人々は必ずしも信用せず、彼等は一党専制の時はどうしても暴政を弁解する文と考え、たとえどんなに巧妙に書いて、人を感動させても、一種の血の痕跡を蔽い隠すに過ぎぬと思ったからだ。しかし、何人かのゴルキーに救われた人は、この予測が真実だという事を証明し、彼等は一旦出国するとゴルキーを痛罵し、まさに復活後のMurzio伯爵と同じだった。
 そして更にこの劇本が10年前に予測が真実だと証明したのは、今年のドイツだった。中国ですでに数冊のヒットラーの生涯と功績を叙述した本はあるが、国内情勢を紹介したものは少ない。今、何段かパリ「時事週報」の“Vu”の記事を下記する(素琴訳「大陸雑誌」10月号より)
 『 「どうか私が君はすでに見たことがあると言わないのを許してくれ給え。他の人に私の話したことを言わないで欲しい。… 我々は皆監視されている。… 本当にここはまるで地獄だ」我々にこう語った政治経歴のない人、彼は科学者で、…人類の運命に対して彼はいくつかの曖昧模糊とした概念に達し、それが即ち彼が罪を得た理由だ。… 』
 『「屈強の男は始めるやすぐそれを除去せよ」とミュンヘンで我々の指導者は命じた。…だが、他の国の社党の党人はその状況をさらに一歩推進させた。「その手法は古典的なものだ。我々は彼らを軍営に向かわせ、物を取って戻ってこさせ、そこで彼らを銃殺する。官話で言えば:逃亡する者は撃ち殺す」ということだ』
 『ドイツ公民の生命や財産は、危険な支配者に対して敵意があるとでもいうのか?…アインシュタインの財産は没収されたのか?それらのことはドイツの新聞すら承認していて、殆ど毎日空き地や城外の森で胸を数発の弾で穿たれた死屍があり、一体全体どうしたことか?まさかこれらも共産党の挑発の結果だというのではあるまい?この解釈はいずれも容易すぎるようではないか?…』
 しかし12年前、作者はとうにMurzioの口を借りて解釈を与えた。その他にもう一段、フランスの「世界」の記事を引用する。(博心訳、「中外書報新聞」第3号)――
 『多くの労働者政党の領袖はみな似たような厳酷な刑罰を受けた。ケルンで社会民主党員サルーマンが受けたのは想像を絶するものだ!最初サルーマンはたらいまわしで何時間も殴られた。その後相手は松明で彼の足を焼いた。同時に冷水をぶっかけ、失神すると刑を止め、醒めるとまた続けた。血の流れている顔に、彼等は何回も小便をひっかけた。最後に彼が死んだとみなして穴倉に放り込んだ。彼の友人は何とかして助け出し、こっそりとフランスへ運んで、今まだ病院にいる。この社会民主党右派サルーマンはドイツ語の雑誌「民声報」編集主任の取材に次のような声明を出した:「3月9日、私はファシズムをいかなる本を読むより、徹底的に理解できた。知識と言論でファシズムに勝つことができるなどと思っているなら、それは正しく痴人の夢物語だ。我々は今すでに英勇的な戦いをする社会主義時代に入ったのだ』
 これもこの本の極めて徹底した解釈で、正確で切実に実証された。ロマン・ロランとアインシュタインの転向で更によく理解され、且つ又作者の反革命の凶暴残酷の描写を顕示し、実際、誇大なしにまだ語りつくしていない。そうだ、反革命の野獣性を推測するのは、革命者にとって極めて困難だ。
 1925年と現在のドイツはやや違っていて、この戯劇は国民劇場で上演され、Gotzの訳も出た。暫くして日本語訳も出て、「社会文芸叢書」に収められ:東京でも上演された由。3年前、2つの訳に基づき、一幕を訳して「北斗」に載せた。靖華兄は私が訳したことを知り、大変美しい原本を送ってくれた。原文は読めぬが、比べたら独訳はずいぶん削られており、何句とか何行などの単位でなく、第4幕でキホーテが吟じる沢山の工夫をこらした詩は後かたもない。これは或いは上演の為に繰り返しになるのを嫌ったせいか。日訳も同じでこれは独訳からの為だ。それで訳文に懐疑を抱き、放り出し訳を止めてしまった。
 だが編集者はついに原文から直接訳した完全版を得て、第2幕から続けたので、とてもうれしくて「言葉にできぬ」ほどだ。残念ながら、第4幕まで載せたが、「北斗」の停刊で中断された。その後苦労して未刊の訳原稿を探したが、第1幕もすでに改訳されたのがあり、私の旧訳と大変違っていて、注解も詳細明確で、とても信頼できるものだ。だが箱の中にしまっておいてすでに1年経ったが、出版の機会がなかった。現在聯華書局が出版してくれることになり、中国に又1冊の良い本が増えたのは大変喜ばしい。
 原本はPiskarevの木刻の挿絵があり、これを複製した。劇中人物の場所と時代の表は独文に基づき増補した:但し、「ドンキホーテ伝」第1部は1604年に出版されており、時代は16世紀末だが、表には17世紀とあり、これは間違っているかもしれない。だが大して関係はないだろう。
    1933年10月28日、上海。魯迅
 (出版社注:この本はルナチャルスキー作で、魯迅の親友、瞿秋白の訳)
訳者雑感:「解放されたドンキホーテ」を読んでいないので何も言う資格は無い。魯迅が問題にしているのは、この時代に勢いを増してきたヒットラーへの警戒を高めねばならぬことと、ロマン・ロランやアシンシュタインの動きだろう。
 最近ヒットラー「わが闘争」が分厚い注釈つきとはいえ出版された由。時代背景が似てきているのかも知れない。彼の様な、ちょび髭を描かれた政治家が、揶揄されているのをよく見る。心配だ。
   2016/02/25記


 

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