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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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上海雑感

上海雑感
 何か感じた時すぐ書かないと忘れてしまう。慣れてしまうからだ。小さい頃、西洋の紙を手にすると、羊の尿の臭いがしたが、今はもう何も感じなくなった。はじめて血を見たときは気分が悪くなったが、久しく殺人の名勝地に住んだら、生首が架けられていようと奇異に感じなくなった。これは即ち慣れたからだ。こうしてみると、人間は――少なくとも私の様な人間は、自由人から奴隷に変わっても、必ずしもつらいと感じることは無いのかもしれぬ。いずれにせよ、すべて慣れてしまうからだ。
 中国は変化の多い所だが、どう変わったかを人に感じさせない。変化が多すぎるからすぐ忘れてしまう。こんな繁多な変化を覚えていようとしたら、実際超人的な記憶力がないとやってゆけない。
 しかし、1年間の所感は淡く漠然としているが、聊かは覚えていられる。どうしてか分らぬが、何はともあれ、人は皆、地下潜行、秘密活動するようになったようだ。
 これまで聞いたことは、革命家が弾圧されたら、地下に潜行、秘密活動してきたが、1933年になると、支配者も同じようなことをするようになった。
例えば、権勢家甲が権勢家乙の所へ来ると、一般人は政治の話と思うが、新聞にはそうではなく、名勝に遊びに行くとか、温泉に行くとかの話と記す:外国から外交官が来た時、彼は読者に対し、外交問題は何も無いとし、ただ某有名人が恙ないかと、表敬に来ただけという。しかし本当はそうでもないようだ。
 物書きがよく感じるのは、所謂文壇のことだ。金持ちが誘拐されて人質になるのは、上海ではもとからしょっちゅうあったが、近頃は作家もよく行方不明になる。一部の人は言う、それは政府当局に捕まったのだ、と。然し政府当局はそうではないという。だが実際はやはり政府の何とか機関に属す所のしわざのようだ。禁を犯した書籍の目録は無いが、郵送後、往々にしてその行方は知れぬ。例えばレーニンの著作なら何も奇とするに足りぬが、「国木田独歩集」も時にだめで、更にはAmicisの「愛の教育」もだ。だが、禁を犯した物を売る店はまだあり、まだあるとはいえ、いつ何時どこから飛んできたか分からぬ鉄槌で窓の大ガラスが割られ、2百元以上の大損を蒙ることになる。2枚やられた店もあり、今回は合計5百元だ。時にはビラをまかれることもあり、ビラにはいつも何とか団という連中の名前がある。
 穏健な刊行物に、ムッソリーニやヒットラーの伝記を載せ、持ちあげているが、そして中国を救うのはこういう英雄が必須だという。だが中国のムッソリーニやヒットラーは誰かという緊要な結論は、うやむやではっきりと言わない。これは秘密で、読者に対して自ら悟り、各人の責任で考えろというのだ。論敵に対しては、ソビエトロシアと断交時は、彼はルーブルをもらっていると言い、抗日の時は、彼は中国の秘密を日本に売っているという。しかし、書いたものでこの売国事件の人物を告発するときは、偽名を使い、それがもし効力を発揮したら、敵はこの為に殺されるから、その結果彼は不愉快な責任を負わされることの無いようにとようだ。
 革命家は弾圧されて地下に潜ったが、今は弾圧者と彼らの手下も地下に身をひそめた。これは軍刀の庇護の下にあるとはいえ、でたらめばかりで、実は全く自信がないからだ。そしてまた軍刀の力に対しても懐疑している。でたらめを言いながら将来の変化を考え、暗い所に潜り込み、情勢が一変したら、すぐ別の顔に変え、別の旗を掲げて新規参加する。そして軍刀を手にした偉人の外国銀行口座にある金も、彼らの自信を更に動揺させる。これは遠くない将来の計だ。遠い将来のためには、歴史に名を残そうと願う。中国はインドと異なり、歴史を重視する。だがそれほどは信用しない。どうも何か良い方法を使って、体面良く書かせようと考え、読者には当然信用してもらいたいと思う。
 我々は子供のころから、意外なことや大変変化の激しい出来事にさして驚かぬようにという教育を受けてきた。その教科書は「西遊記」ですべて妖怪変化に満ちている。例えば、牛魔王や孫悟空のようなの…がそれだ。作者の指示によれば、正邪の分離だが、要するに両方とも妖怪だから、我々人類にとっては、たいして留意する必要はない。しかしこれが本の中のことでなく、自らをその境地におかれてみると、これはすこぶる難儀なことになる。湯上り美人が蜘蛛の精か;寺の大門が猿の口となると、一体どうしたらよいか考える。早くから「西遊記」の教育を受けていればびっくりして気絶することは無いが、どうも疑わないわけにはゆかない。
 外交家は疑い深いというが、中国人は大体が大変疑い深いと思う。農村へ行って、道や名や作柄を訊くと、本当のことを言ってはくれぬ。相手を蜘蛛の精とは思わぬまでも、何かたたりか禍が起こらぬとも限らぬと心配する。こうした状況は正人君子たちを憤慨させ、彼らに「愚民」というあだ名を付けた。だが事実は彼らにたたりや禍を全くもたらさない訳じゃないようだ。この1年の経験から、私も農民より疑い深くなったせいか、正人君子のような人間を見ると、つい彼はひょっとして蜘蛛の精かと思ってしまう。しかし、これも慣れだろう。愚民の発生は愚民政策の結果で、秦の始皇帝が死んで2千余年経ったが、歴史をみるとあれから再びこの種の政策を繰り返したものはいない。しかし、その効き目は残り、久しく長く多くの人々をおどろかせている!
     (1933年) 12月5日
 
訳者雑感:本編は最近の香港の書店のオーナーや編集者が大陸で行方不明になった事件を彷彿させる。中国政府を批判した書物を発禁し、それを犯したものを拉致して、行方不明にさせるのだ。どこかの川で死体が発見される、溺死だ。
 中国人は大体疑い深い、というのは昨今の爆買する人の心情を示唆している。
自国製の粉ミルクは信用できない。便座も炊飯器も自国でも作っているのだが、外国人の検査を経たものでないと、偽物ではないかと疑い、難儀でも日本で大量に買って帰る。いつ何時、政府の法律改正で、これらの物を持ち込めなくなるかもしれないからだそうだ。

 この文章はもともと魯迅が日本語で書いたものであるが、それを後の中国人が中国人読者の為に中国語訳したものだ。魯迅は多くの日本語の文章をのこしており、内容も読み応えあり迫力は勝るが、80年前の日本語での日本人へのメッセージにはいろいろ遠慮配慮もあり、その行間を読むのも面白いので、彼の日本語を参考にしながら、蛇足ながら私訳を試みた。
 中国人はインド人と違って歴史を重んじる。袁世凱などが歴史に名を残そうとして皇帝になろうとした行為。中国に共和制はまだその時に非ず、という
アメリカ人顧問の言葉を利用して、欧米日の諸国の承認を得ようとしたが、日本は、見返りにというか、どさくさにまぎれて、21カ条の要求をつきつけ、それがもとで、彼は死んでしまい、「悪名」を歴史に残した。墳死せずにもしそのまま10年皇帝になっていたらどうなっただろう。勝てば官軍、敗れれば賊軍。
   2016/03/12記

 

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「北平箋譜」序

「北平箋譜」序
木に像を彫り、紙に刷って広く人に伝えるということは、実は中国で始まった。フランスのぺリオ氏が敦煌千仏洞で入手した仏像の本は、論者は五代時代の末に作られたという。宋代初めには彩色され、これはゲルマン人の最初の木刻者より3-4百年前になる。宋人の刻本は、現在見ることができる医書仏典には、挿絵の入ったのもあり:或いはそれで物を弁じ、証書とし、図史を具現した。明代には更に普及し、小説伝奇はページごとに挿絵をつけ、へたなのは砂に描くようだが、細い髪の毛も描き、亦画譜も出て、何回も刷られて、文彩も絢爛で木刻は目を見張るほど盛んとなった。清代は漢学を重んじ華美を排斥したので、この道は少し衰えた。が、光緒帝の初め、呉友如は点石斎(書館)の小説に挿絵を描き、西洋の方法を使って印刷し、全像の書はまたまた盛んになったが、版木に彫るのは愈々少なくなり、僅かに新年の年画と日用信箋だけに余命を保った。近年には絵の印刷と年画も西洋の方法と俗工に奪われ、鼠の嫁入りと静女の花摘なども渺として見ることが無くなった:信箋もしだいに旧型を失い、新しい意匠も出ず日ごと衰えるのみ。北京は夙に文人の多く集まる所で、詩文書画をたいへん珍重し、遺された範はまだ堕ちないで、今なお名箋は存している。しかし顧みればこれも時間の問題で、零落も将に始まらんとしている。吾仲間は好事で、それゆえ杞憂も多い。
そこで店を捜し、珍しくて良いものを選抜し、原版に就いて印し「北平箋譜」と名付けた。中には清光緒時の紙舗もあり、明季画譜を留めており、また前人の小品の良いものを木刻して制箋し、いささか目を喜ばせようとした:又画工の作った者もあり、風雅に乏しく、鑑賞に足りぬものもある。宣統末、林琴南氏が山水箋を出し、当時の文人が特に画箋を初めて作ったが未詳だ。中華民国成立に及び、江西省義寧の陳君師曾が北京に来て、初めて銅を彫るための墨合を作り、鎮紙に下絵を描き彫刻した:拓本ができると雅趣はいや増した。暫くして更にその技を箋紙に広げ、才華は蓬勃と起こり、箋筒も豊富になり、また刻匠にも顧みられ、奏刀の困難を省き、詩箋に新しい境地を開いた。蓋し、画師木匠は神志が暗に符合し、一致協力してついにそれまでの限界を超えて修正された。やや下って、斎白石、呉待秋、陳半丁、王夢白の諸君は皆画箋の名手で、刻匠もまた十分これにかなう者がでた。辛未の年以降、初めて数人が一つの題を分担して描き、聚めて、秩と成し、新しい物をつくり、神のごとき流れで、ことのほか嘉祥であった。意図するは文翰の術を更新すれば、箋素の道は随意に発展し:後の作者は必ずや別の道筋を開き、努めて新生を求め:その旧郷を臨睨するは、当に遠い暇日を俟つべし。そのため、これは短書(箋牘)で、知る人も少ないが、一時一地方、絵画彫刻の盛衰がこの中にある。中国木刻史の豊碑に非ずとも、いささかの小品芸術の旧い範たることを願い、また今後、覧古者の目にとまることを願う。
 一九三三年十月三十日 魯迅記

訳者雑感:魯迅は挿絵や木刻が大好きでこれらに大変な愛情を注いだ。
 序文はこの「箋譜」の格にふさわしいように、文語体で多くの引用をちりばめ、この短書を求めるような人たちの納得するような文章で、私などにはとても難しくて困った。時折理解できる個所は文語体らしく訳したが、他のところは意訳となってしまった。
 活版印刷は聖書を庶民に広めたグーテンブルグの発明とされているが、木刻での印刷は中国の方が数百年早いと…。羅針盤も火薬も早くに発明されたのだが、…。惜しいかな、それを産業や文化の近代化に応用するのが遅れた。
 21世紀の今日も、世界の工場として膨大な科学的生産技術と工程を取り入れているが、自前での創造的なものが比較的少なく、低コストだが粗雑なものや、模造品が多く出回っているのがとても残念だ。自国民が自国製のミルクや化粧品を信用せず、外国品を買い求める。それが実際はMade in Chinaなのだが、外国の会社の検査を通って外国に輸入されているのだから信用できる、と。
  2016/03/01記

 

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「解放されたドンキホーテ」後記

「解放されたドンキホーテ」後記
 現在誰か黄天覇(清代小説の侠客)の様な男が、頭に英雄の髷を結い、身に夜行着をつけ、ブリキの刀を差し、市や鎮の道を突進し、悪覇を退治し、不平をなくすと豪語したら、きっと嘲笑され、気狂いかマヌケと決めつけられるが、少し怖がられもしよう。だが、弱弱しくいつも殴られていたら、ただのおかしな気狂いかウスノロで、人は警戒心を解き、面白がって眺めるだろう。スペインの文豪セルバンテスの「ドンキホーテ」の主役は当時の男に、古代の遊侠を信じさせ、迷信を信じて悟ることなく、困窮して死んでしまい多くの読者の心をつかみ広く愛読された。
 但し我々は試みに問うてみる:16-17世紀のスペイン社会に不平はあったか?きっとこう答えるしかない:有った、と。ではキホーテの意志はそれを打破するためで、彼が間違っていたとは言えない:自分の力を知らないのも誤りとは言えぬ。誤ったのは彼のやり方で、いい加減な考え、誤った方法でやってしまった。侠客は自己の「功績」の為にそれを打破することはできぬ。正に慈善家が自己の陰徳を積むために、社会の困苦を救えないのと同じだ。更には「徒に無益なだけでなく:これを害してしまう」のだ。彼は徒弟をひどく扱う医師を征罰し、自分では「功績」を挙げたと思い、良いことをしたと思って去ったが、彼が去るやいなや、徒弟は更に苦しむのが良い例だ。
 だがキホーテを嘲笑する傍観者の嘲りは必ずしも当を得ているわけではない。彼等は彼を元々英雄でもないのに、英雄気取りで時務を識らないで、終には次つぎに襲ってくる困難に苦しんでいるのを嘲笑するのだ:この嘲笑により、自分たちは「英雄でもない男」の上に位置し、優越感を得て:社会の不満に対しては何の良い戦法も無く、果ては不平すら感じなくなるのだ。慈善者、人道主義者に対して彼等はとっくに同情や財を使って心の安寧を買っているのに過ぎぬと看破している。これは無論正しい。だが戦士でなければこの理由を盾に、自己の冷酷さを掩い、一銭も出さぬ吝嗇で、心の安寧を買おうとしておるので、彼は元手を出さずに商売をしているのだ。
 この劇本はキホーテを舞台に上げて、大変明確にキホーテ主義の欠陥と害毒を指摘した。第一幕で彼は謀略を使い、自分が打たれながら革命者を救ったのは精神的勝利で:実際も勝利し、ついに革命が起こり、専制者は牢に入れられる:しかしこの人道主義者はこのとき忽然また役人たちも被圧迫者と認め、蛇を放して森に返し、禍根を将来に残し、彼らが又害毒を流せるようにし、家を焼き物資略奪ができるようになり、革命の大変むごい犠牲となった。彼は人々の信仰の対象にはならなかったが――お伴のサンチェパンサも余り信用せず――しばしば奸人に利用されて世界を暗黒にすることに使われた。
 役人たちは傀儡で:専制魔王の化身は伯爵Murzioと侍医Babroだ。Babroはキホーテの幻想をかつて「牛羊式平等の幸福」と呼び、彼らが実現しようとしているのは「野獣の幸福」として次のように言う――
 『O! ドンキホーテ、お前は我々が野獣なのをしらぬ。粗暴な野獣、小鹿の頭を咬み、のどを切り、その熱い血を飲み、自分の爪牙の下に敷いたそれが足を痙攣させながら死んでゆくのを感じ――それは正しくとても甘い蜜だ。人間はしつこく付き纏う野獣だ。支配者は華奢な暮らしをして、人を脅迫して自分たちに祈りをささげさせ、怖れさせ、ぬかずかせ、卑屈にさせる。幸福とは数百万人の力がすべて君の手に集まっていると感じ、すべて無条件で君に渡され、彼等は奴隷の様で、君は皇帝だ。世界で最も幸福で気分の良いのはローマ皇帝で、少なくともハリオハバールと同じだ。だが我等の宮廷は大変小さくとても遠い。上帝と人の一切の法律を打ち壊し、自分の思うままの法律によって、他の連中のために新しい鎖を打ち出す!権力である!この字には一切合財が含まれる:神妙で人を沈酔させる字だ。生活はこの権力の程度で量る。権力のない者は死屍だ』(第2幕)
 この秘密は普段は口に出せぬが、Murzio恥じもおそれず「小鬼頭」となって、言いだした。彼は多分キホーテの「誠実さ」を認めたためだろう。キホーテは当時、牛羊は自分自身を守るべきだといったが、革命の際、忘れてしまって、「新しい正義も古い正義の同胞であり姉妹だ」と言った。革命者を過去の専制者と同じだ、と言った。
 『その通りだ。我々は専制の魔王で、我々が専政(独裁)するのだ。この剣を見ろ。――見たか?――これは貴族の剣と同じで、人を殺したら大変なものだ:但し、彼らの剣は奴隷制度の為に殺すのだが、我々の剣は自由の為に殺すのだ。お前の古い頭を改造するのはとても難しい。お前は良い奴だ:良い奴はいつも喜んで被圧迫者を助ける。今我々はこの短い期間は圧迫者となる。我々はお前と闘争する。我々が圧迫するのはこの世の中に、早く誰も圧迫できなくさせる為だから』(第6幕)
 これは大変明確な解剖だ。しかしキホーテはまだ覚悟ができておらず、墳を掘ることになる:彼は墳墓を掘り、自分ですべての責任を負う「準備」をする。但し、正にBalthazarの言うように:この種の決心は何の役に立つのか?
 そしてBalthazarはやはり始終キホーテを愛しており、彼に担保を与えようと願う:彼の確固とした朋友になろうとするが、これは彼が知識階級出身のせいだ。だが最終的には彼を変えることはできなかった。こうなっては、Drigoの嘲笑と憎悪を認めるしかない。つまらぬ話に耳を傾けないのは最も正当な事で、彼には正確な戦法があり、堅強な意志をもつ戦士だ。
 これは一般的傍観者の嘲笑の類とは異なる。
 だが、このキホーテは、総体として現実に存在する人間ではない。
 原本は1922年発行でまさに十月革命の6年後で、世界では反対者のいろいろなデマが飛びかい、中傷に懸命になっていた時で、精神を敬い、自由を愛し、人道を講じ、大半は党人の専横に不満で、革命は人間性の復興ができないだけでなく、逆に地獄に落ちると叫んでいた。この劇本はそうした論者たちへの総合的な答えだ。キホーテは十月革命を非難する多くの思想家・文学家たちを合成したものだ。その中に当然Merezhkovskyもいて、トロツキー派もおり:ロマン・ロランもいて、アインシュタインもいた。私はその中にはゴルキーもいたのではと疑っていて、当時彼は正に種々の人たちの為に奔走していて、彼らを出国させ、身の安全に協力し、そのために当局と衝突したと聞いた。
 但し、この種の弁解と予測を人々は必ずしも信用せず、彼等は一党専制の時はどうしても暴政を弁解する文と考え、たとえどんなに巧妙に書いて、人を感動させても、一種の血の痕跡を蔽い隠すに過ぎぬと思ったからだ。しかし、何人かのゴルキーに救われた人は、この予測が真実だという事を証明し、彼等は一旦出国するとゴルキーを痛罵し、まさに復活後のMurzio伯爵と同じだった。
 そして更にこの劇本が10年前に予測が真実だと証明したのは、今年のドイツだった。中国ですでに数冊のヒットラーの生涯と功績を叙述した本はあるが、国内情勢を紹介したものは少ない。今、何段かパリ「時事週報」の“Vu”の記事を下記する(素琴訳「大陸雑誌」10月号より)
 『 「どうか私が君はすでに見たことがあると言わないのを許してくれ給え。他の人に私の話したことを言わないで欲しい。… 我々は皆監視されている。… 本当にここはまるで地獄だ」我々にこう語った政治経歴のない人、彼は科学者で、…人類の運命に対して彼はいくつかの曖昧模糊とした概念に達し、それが即ち彼が罪を得た理由だ。… 』
 『「屈強の男は始めるやすぐそれを除去せよ」とミュンヘンで我々の指導者は命じた。…だが、他の国の社党の党人はその状況をさらに一歩推進させた。「その手法は古典的なものだ。我々は彼らを軍営に向かわせ、物を取って戻ってこさせ、そこで彼らを銃殺する。官話で言えば:逃亡する者は撃ち殺す」ということだ』
 『ドイツ公民の生命や財産は、危険な支配者に対して敵意があるとでもいうのか?…アインシュタインの財産は没収されたのか?それらのことはドイツの新聞すら承認していて、殆ど毎日空き地や城外の森で胸を数発の弾で穿たれた死屍があり、一体全体どうしたことか?まさかこれらも共産党の挑発の結果だというのではあるまい?この解釈はいずれも容易すぎるようではないか?…』
 しかし12年前、作者はとうにMurzioの口を借りて解釈を与えた。その他にもう一段、フランスの「世界」の記事を引用する。(博心訳、「中外書報新聞」第3号)――
 『多くの労働者政党の領袖はみな似たような厳酷な刑罰を受けた。ケルンで社会民主党員サルーマンが受けたのは想像を絶するものだ!最初サルーマンはたらいまわしで何時間も殴られた。その後相手は松明で彼の足を焼いた。同時に冷水をぶっかけ、失神すると刑を止め、醒めるとまた続けた。血の流れている顔に、彼等は何回も小便をひっかけた。最後に彼が死んだとみなして穴倉に放り込んだ。彼の友人は何とかして助け出し、こっそりとフランスへ運んで、今まだ病院にいる。この社会民主党右派サルーマンはドイツ語の雑誌「民声報」編集主任の取材に次のような声明を出した:「3月9日、私はファシズムをいかなる本を読むより、徹底的に理解できた。知識と言論でファシズムに勝つことができるなどと思っているなら、それは正しく痴人の夢物語だ。我々は今すでに英勇的な戦いをする社会主義時代に入ったのだ』
 これもこの本の極めて徹底した解釈で、正確で切実に実証された。ロマン・ロランとアインシュタインの転向で更によく理解され、且つ又作者の反革命の凶暴残酷の描写を顕示し、実際、誇大なしにまだ語りつくしていない。そうだ、反革命の野獣性を推測するのは、革命者にとって極めて困難だ。
 1925年と現在のドイツはやや違っていて、この戯劇は国民劇場で上演され、Gotzの訳も出た。暫くして日本語訳も出て、「社会文芸叢書」に収められ:東京でも上演された由。3年前、2つの訳に基づき、一幕を訳して「北斗」に載せた。靖華兄は私が訳したことを知り、大変美しい原本を送ってくれた。原文は読めぬが、比べたら独訳はずいぶん削られており、何句とか何行などの単位でなく、第4幕でキホーテが吟じる沢山の工夫をこらした詩は後かたもない。これは或いは上演の為に繰り返しになるのを嫌ったせいか。日訳も同じでこれは独訳からの為だ。それで訳文に懐疑を抱き、放り出し訳を止めてしまった。
 だが編集者はついに原文から直接訳した完全版を得て、第2幕から続けたので、とてもうれしくて「言葉にできぬ」ほどだ。残念ながら、第4幕まで載せたが、「北斗」の停刊で中断された。その後苦労して未刊の訳原稿を探したが、第1幕もすでに改訳されたのがあり、私の旧訳と大変違っていて、注解も詳細明確で、とても信頼できるものだ。だが箱の中にしまっておいてすでに1年経ったが、出版の機会がなかった。現在聯華書局が出版してくれることになり、中国に又1冊の良い本が増えたのは大変喜ばしい。
 原本はPiskarevの木刻の挿絵があり、これを複製した。劇中人物の場所と時代の表は独文に基づき増補した:但し、「ドンキホーテ伝」第1部は1604年に出版されており、時代は16世紀末だが、表には17世紀とあり、これは間違っているかもしれない。だが大して関係はないだろう。
    1933年10月28日、上海。魯迅
 (出版社注:この本はルナチャルスキー作で、魯迅の親友、瞿秋白の訳)
訳者雑感:「解放されたドンキホーテ」を読んでいないので何も言う資格は無い。魯迅が問題にしているのは、この時代に勢いを増してきたヒットラーへの警戒を高めねばならぬことと、ロマン・ロランやアシンシュタインの動きだろう。
 最近ヒットラー「わが闘争」が分厚い注釈つきとはいえ出版された由。時代背景が似てきているのかも知れない。彼の様な、ちょび髭を描かれた政治家が、揶揄されているのをよく見る。心配だ。
   2016/02/25記


 

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ゴルキー著「1月9日」翻訳の前書き

ゴルキー著「1月9日」翻訳の前書き
 ツルゲーネフ、チェホフといった作家が、中国読書界で大変称賛されていたころ、ゴルキーは余り注目されていなかった。偶に1-2篇の翻訳はあったが、彼の描いた人物が特別なため、どうも大きな意思を感じなかった。
 この原因は今たいへん明白だ:彼は「底層」の代表者で、プロレタリア階級作家だからだ。彼の作品に、中国の旧知識階級は共鳴できぬも正に当然の事。
 然るに、革命の導師は20余年前、すでに彼は新しいロシアの偉大な芸術家で、他の武器で同一の敵に対し、同じ目的で戦った仲間で、彼の武器は――芸術的な言語――で極めて大きな意義を持っていたことを知っていた。
 この先見性は今すでに事実で証明された。
 中国の労農者は圧迫搾取され、死から救出のいとまもなく、どうして教育のことなどを語れようか:文字もまたこんなに難しく、その中から今ゴルキーのような偉大な作家が現れるという事は、今すぐにはとても困難だ。だが、人間の光明に向かうということは同じである。無祖国(共産主義の意味)文学も、あちらとこちらでの差は無い。我々はまず先進的モデルを取り入れることができる。
 この小冊子は一短編だが、作者の偉大さと訳者の誠実さにより、正に模範的なモデルとなった。更にこれで、文人の書斎から脱け出して、大衆と相対するようになり、今後啓発されたものは、以前と異なる読者で、それは異なる結果を生みだすだろう。
 その結果は将来事実で証明されるだろう。
   1933年5月27日 魯迅記

訳者雑感:出版社注によると、革命の導師とはレーニンのことで、ゴルキーの「母親」を称賛しており、云々とある。レーニンはゴルキーを、毛沢東は魯迅をそれぞれ大変称賛しており、二人の名前は旧ソ連と新中国の各地で図書館や大きな道路に付けられ、人々の心に残った。二人は1936年に死んだ。ドイツや日本との大戦に巻き込まれる前に亡くなった。戦争中および戦後まで生きていたら、スターリンや毛沢東前後の中国の支配者たちにどのように立ち向かったのだろう。
 1957年の上海文芸座談会で「魯迅が生きていたならば」という設問に対し、
毛沢東は「(魯迅が生きていれば)牢獄に入れられ、そこで書き続けるか、或いは何も言わなくなっているかだな」(出席者の一人、黄宗英の言葉)という。
    2016/02/11記


 

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今春の二つの感想(訂正版)

今春の二つの感想
    11月22日北平輔仁大学での講演
 先週北平に来たのですが、青年諸君へのお土産を持参すべきだったですが、バタバタしていて、また何も帯同すべき物もありませんでした。
 最近は上海にいますが、上海は北平と違いまして、上海で感じることは北平ではきっと感じないでしょう。今日は何も準備してきておりませんから自由にお話ししましょう。
 昨年の東北の事変の詳細は私も余り知りません。思うに諸君は上海事変についてもそんなに詳しくないでしょう。同じ上海にいてもあちらとこちらでは知らぬことが多く、こちらでは命がけで逃げようとしておるが、あちらでは相変わらずマージャン好きはマージャンし、ダンス好きはダンスしている。
 戦いが始まった時、私は戦火の中にいて、多くの中国青年が捕まるのを自分の目で見た。捕まった者は、帰ってこなかった。生死も知らず、誰も問わず、そんな状態が久しく続き、中国で捕まった青年たちはどこへ行ったのだろう。東北の事が起こると、上海の多くの抗日団体は、団体ごとにバッジを作った。このバッジは、日本軍に見つかると死を免れぬ。しかし中国の青年の記憶は良くないので、抗日十人団のように団員全員がバッジを持ち、必ずしも抗日というのではないが、それを袋に入れておいた。捕まった時、死の証拠となった。更に学生軍がいて毎日訓練していたが、いつの間にか訓練しなくなったけれど、軍装の写真は残り、訓練者も家に写真を置いたまま忘れていた。日軍に探し出されたら、命を落とすのは必定だ。このような青年が殺されたので、皆は大変不満で、日軍はとても残酷だと思った。その実これは気性が全く違うためで、日人は大変まじめで、中国人は逆にふまじめなためだ。中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように単に芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、きっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必須だ。
 中国は実に不まじめで、何でもすべて同じだ。文字で見られるように、常々ある新しい主義、以前だと所謂民族主義の文字がたいへんにぎやかだったが、日本兵が来たらすぐ無くなってしまった。多分、芸術の為の芸術に変わったと思う。中国の政客も今日は財政を談じ、明日は写真を語り、明後日は交通を論じ、最後は忽然として念仏を始める。外国は違う。以前欧州に未来派芸術があった。未来派芸術とはよく分からぬものだ。が、見ても分からないのは必ずしも見る者の知識が浅いからではなく、実際、根本的に分からないのだ。文章はもともと二種あり:一つは分かるもの。もう一つは分からないもの。分からないと、自分を浅薄と恨むが、それは騙されているのだ。しかし、人は分かるか分からぬか無頓着で――未来派の如く分からぬものは分からぬ、のだが、作者は懸命になってそれを論じる。中国ではこういう例は見ることはできない。
 もう一つ感じるのは、我々は視野を広くせねばならぬことだ。だが余り広げすぎるのも良くない。
 私はその時日本兵がもう戦争をしないのを見て家に戻ったが、突然また緊張が始まった。後に聞いて分かったのは、それは中国の爆竹が引き起こしたとのことで、日本人の意識では、こんな時、中国人はきっと全力で国を救おうとするだろうと考え、中国人がはるか彼方の月を救おうとしているなど、思いもよらぬことだった。
 我々の視野は常々ごく身近なところにしか向けず、でなければ北極とか宇宙とか非常に遠い所へ向け、両者の間の圏については全く注意せぬ。例えば、食べ物の話をすると、最近の菜館は比較的清潔になったが、これは外国の影響で、以前はそうではなかった。某店のシュウマイは非常にうまい、バオズもうまいという。うまいのは確かにうまいが、皿はひどく汚れていて、食べに来た人は皿を見ることはできないくらいで、只バオズとシュウマイを食べることに専念する。食べ物の外側の圏に目をやると、とてもやりきれないからだ。
 中国でヒトとなるには、まさにこの様でなくてはならず、でないと生きてゆけぬ。個人主義を講じ、はるか遠い宇宙哲学とか霊魂の死滅か否かを講じることは構わない。だが、社会問題を講じ出すと問題が起こる。北平はまだましだが、上海で社会問題を講じると、問題なしでは済まされず、それに非常に効き目の強い薬ができて、数え切れぬほど多くの青年が捕まり、行方不明となる。
 文学でも同じで、私小説で苦痛窮乏とか、ある女を愛しているのだが、相手は自分を愛してくれないとかを書く。それはとても普通のことで、何の乱も起こらない。しかし中国社会の事に話が及び、圧迫・被圧迫の話をすると大変なことになる。だが、遠くパリ・ロンドン、更には遥か彼方の月や宇宙のことなら危険は無い。ただ注意せねばならぬは、ロシアの事は口にしないことだ。
 上海の件はもう1年経ち、皆はとうに忘れたようで、牌打ちは牌を、ダンスするものはダンスだ。忘れるのは忘れるしかなく、すべてを覚えていては脳がいっぱいになってしまう。もしこれらを覚えていたら、他のことを覚える暇もなくなる。しかし一つ大綱だけは覚えておくことができる。「少しまじめに」「視野を広くしなければいけないが、広げすぎてもいけない」これは本来平常なことだ。但し私がはっきりとこの句を知ったのは、大変多くの命が失われた後だ。歴史の多くの教訓は、みな大きな犠牲と引き換えにもたらされた。物を食べるとしようか。ある種の物は毒があり食べられぬ。今我々は良く慣れてきて問題は起きない。だがこれは必ず以前に多くの人が食べて死に、それで初めて知ったのだ。思うに初めてカニを食べた人をとても敬服する。勇士でなければ誰が食べようとするだろう?カニは人が食べる。クモもきっと食べた人がいただろう。だがうまくないから、後の人は食べなくなった。こういう人に我々は感謝すべきだ。
 私は一般の人が身辺や地球外の問題だけに注意してないで、社会の実際問題に少し注意するのが良いと思う。
      講演後、1932年11月号の「世界日報」に発表

訳者雑感:
 魯迅が指摘している看板をあげるともう成功したと考える。という点は日本との対比でその通りだと思う。以下に原文を引用するが、AIIBとかインドネシアでの高速鉄道など、看板をあげて、サインしたらもう成功だと考える節がとても気になる。「楽観的」というか、その後のことはあまり考えないのだ。

『中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように単に芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、きっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必須だ』
 辛亥革命でも黄興たちが「旗揚げ」して孫文が「孫大砲」をドカーンと打ち上げたら、それで成功したと思い、その後、袁世凱とか所謂皇帝になろうとするような「閥」の乱入を防げなかったのが敗因と思う。
 バッジで思い出すのは、毛沢東バッジだ。文化大革命のとき、これを付けていないとどうにもならず、皆は各地で競ってこれを作り、地域ごと、職場ごと、学校ごとに作りにつくって、1968年に3週間各地を訪問した私の手元にも何十個のバッジが残った。袋にいれて忘れていたのが最近出てきた。どうしよう。
捨てるしかないだろう。まさかこれを持っていて、中国の青年のように命を落とすことはないはずだが。
 それにしても、あれだけPM2.5で苦しんでいながら、春節のお月さまに爆竹をめったやたらと打ち鳴らしても、だれも制止しない。北京で放送局ビルが火事になったこともとっくに忘れたようだ。
   2016/02/10記
    


 

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英訳版「短編小説選集」自序

英訳版「短編小説選集」自序
 中国詩歌は、時に下層社会の苦しさを取り上げたのもある。但、絵画と小説は相反していて、大抵は彼らを十分幸せにかき、「知らずしらず、帝の則(のり)に順ずる」平和な花や鳥のようにかく。確かに、中国の労多き大衆は知識階級からすると、花や鳥と同類なのだ。
 私は都市の大家庭で育ち、幼少から古書と先生の教育を受けたから、労多き大衆は知識階級からすると、花や鳥と一緒だと思った。時に所謂上流社会の虚偽と腐敗を感じたが、私はまだ彼らの安楽を羨慕していた。だが、私の母の実家は農村で、私を多くの農民と近しく親しくさせてくれたが、だんだん彼等は一生圧迫を受け、沢山の苦しみを受け、花や鳥と同じではないと知った。だが、私は皆にそれを知ってもらう方法を持っていなかった。
 後に外国の小説を読み、とりわけロシア・ポーランドバルカン諸小国の物を読んで、初めて世界にこんなに多くの我々と同じ労の多い大衆と同じ運命の人たちがいることを知った。何人かの作家がまさにこの為に叫び声をあげ戦っていることを知った。そしてこれまで見てみた農村などの景況もずっと明確に私の眼前に再現した。偶然文章を書く機会を得て、所謂上流階級の堕落と、下層階級の不幸を、つぎつぎに短編小説の形で発表した。原案の意とするところは、その実これを読者に示し、いささかの問題を提起しようとしたに過ぎない。当時の文学家の所謂芸術のためなどでは全くなかった。
但、これ等の物がやっと一部の読者の注意を引くことになり、一部の批評家からは排斥されたが、今に至るも消滅せず、更には英文に訳され、新大陸の読者の目に触れることになり、これは私が以前、夢想すらしなかったことだ。
 だが私ももう長いこと短編小説を書いていない。今の人々は更に困苦が増え、私の意思は以前とは異なり、また新しい文学の潮流を見ても、この景況の中で新しいことを書くことができず、古いことを書くのも願わない。中国の古書に比喩あり、曰く:邯鄲の歩法は天下に有名で、ある人が学びに行ったが、うまく学べなかった。だが自分の元来の歩法も忘れてしまったので、這って戻るしかなかった。
 私はまさに這っている。しかし私はもう一度学んで立ち上がろうと思う。
  1932年3月22日 魯迅 上海にて記す。
 (出版社注:米国作家エドガースノーとの約束に応じて編送したもの)

訳者雑感:
 魯迅は狂人日記などで小説を立て続けに発表した後、ぷつりと書かなくなってしまった。この文章から推測できるのは、作家生活を始めたころに彼の眼前に再現したものが、彼に書くことを命じ、促したのは間違いないだろう。阿Q正伝の前段でもそのような趣旨を書いている。それがある時から、もう以前彼が目にしたもの「上流階級の腐敗と下層階級の困苦」だけでは書ききれなくなっていて、一方新しい時代の新しい困苦を書くこともできず、古いものを再び書くのも願わない。 これが、彼が小説を書けなくなった背景だろう。
 しかしもう一度学んで立ち上がろう、とは思っていたが…。
   2016/02/09記

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今春の二つの感想

今春の二つの感想
    11月22日北平輔仁大学での講演
 先週北平に来たのですが、何か青年諸君へのお土産を持参すべきだったですが、バタバタしていて、また同時に何も帯同すべきものもありませんでした。
 最近は上海にいますが、上海は北平と違いまして、上海で感じることは北平では必ずしも感じないでしょう。今日は何も準備してきておりませんから自由にお話ししましょう。
 昨年の東北の事変の詳細は私も少しも知りません。思うに諸君は上海事変についてもそんなに詳しくないでしょう。同じ上海にいても彼と此は知らず、こちらでは命がけで逃れようとしておる一方、あちらでは相変わらず牌打ちは牌を打ち、ダンスするものはダンスしている。
 戦いが始まった時、私は戦火の中にいて、多くの中国青年が捕まるのに自ら遭遇した。捕まったものは、帰ってこなかった。生死も知らず、誰も問わず、そんな状態が久しく続き、中国で捕まった青年たちはどこへ行ったか知らない。東北の事が起こると、上海の多くの抗日団体は、団体ごとにバッジを作った。子のバッジは、日本軍に見つかると死を免れぬ。しかし中国の青年の記憶は良くないので、抗日十人団のように団員全員がバッジを持ち、必ず抗日というのではないが、それを袋に入れておいた。捕まった時には死の証拠とされた。更に学生軍たちがいて毎日訓練していたが、いつの間にか訓練しなくなったが、軍装の写真は残り、訓練者も家に写真を置いたまま忘れていた。日軍に探し出されたら、命を落とすのは必定だ。このような青年が殺されたので、皆は大変不平で、日軍はとても残酷だと思った。その実これは気性が全く違うためで、日人は大変まじめで、中国人は逆にふまじめなためだ。中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように只芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、彼等はきっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必定だ。
 中国は実に不まじめで、何でもすべて同じだ。文字で見られるように、常々ある新しい主義は、以前所謂民族主義の文字がたいへんにぎやかだったが、日本兵が来たらすぐ無くなってしまった。多分、芸術の為の芸術に変わったと思う。中国の政客も今日は財政を談じ、明日は写真について語り、明後日は交通を論じ、最後は忽然念仏を始める。外国は違う。以前欧州に所謂未来派芸術があった。未来派芸術とはよく分からぬものだ。が、見ても分からないのは必ずしも見る者の知識が浅すぎるからではなく、実際、根本的に分からないのだ。文章は本来二種あり:一つは分かるもの。もう一つは分からないもの。分からないと、自分を浅薄と恨むが、それは騙されているのだ。しかし、人は分かるか分からぬかに構わないで――未来派の如く分からぬものは分からぬ、のだが、作者は懸命になってそれを論じる。中国ではこういう例は見ることができぬ。
 もう一つ感じるのは、我々の視野を広くせねばならぬことだが、余り広げすぎても良くない。
 私はその時日本兵が戦をしないのを見て家に戻ったが、突然また緊張し始めた。後に聞いて分かったのは、それは中国の爆竹が引き起こしたとのことで、日本人の意識では、この様な時中国人はきっと全力で中国を救おうとするだろうと考え、中国人がはるか遠くのお月さんを救おうとしているなど、思いもよらぬことだった。
 我々の視野は常々ごくごく身近なところにしか向けず、或いは北極とか天上とか非常に遠い所へ向けて、両者の間の圏については全く注意せぬ。例えば、食べ物だと、最近の菜館は比較的清潔になったが、これは外国の影響で、以前はそうではなかった。某店のシュウマイは非常にうまい、バオズもうまいとか、うまいのは確かにうまいが、皿はひどく汚れていて、食べに来た人は皿を見ることはできず、只バオズとシュウマイを食べることに専念する。食べ物の外側の圏に目をやると、とても難儀な目に会う。
 中国でヒトとなるには、まさにこの様でなくてはならず、でないと生きてゆけぬ。個人主義を講じるとなると、はるか遠い宇宙哲学とか霊魂の死滅か否かを講じることは構わない。だが、社会問題を講じだすと問題が起こる。北平はまだましだが、上海で社会問題を講じると、問題なしでは済まされず、それに霊験あらたかな薬がでてきて、しばしば数え切れぬほどの青年が捕まり、失踪となる。
 文学でも同じで、私小説で苦痛や窮乏とか、女性を愛しているのだが、相手は自分を愛してくれないとかを書く。それはとても妥当なことで、何の乱も起こらない。しかし中国社会の事に話が及び、圧迫や被圧迫の話をすると大変なことになる。だが、遠くのパリロンドン、更には遥か彼方の月や天空のことなら危険は無い。ただ注意せねばならぬは、ロシアの事を口にしないことだ。
 上海の件はもう1年経ち、皆はとうに忘れたようで、牌打ちは打ち、ダンスするものはダンスだ。忘れるのは忘れるしかなく、すべてを覚えていては脳がいっぱいになってしまうだろう。もしこれらを覚えていたら、他のことを覚える暇もなくなろう。しかし一つ大綱は覚えておくことができる。「少しまじめに」「視野を広くしなければだめだが、広げすぎぬこと」だ。これは本来平常なことだ。但し私が明確にこの句を知ったのは、大変多くの命が失われた後だ。多くの歴史の教訓は、みな大きな犠牲と引き換えにもたらされた。物を食べるとしようか。ある種の物は毒があり食べられぬ。今我々は良くなれており問題ない。だがこれは必ず以前に多くの人が食べて死に、それで初めて知ったのだ。思うに初めてカニを食べた人をとても敬服する。勇士でなければ誰が食べようとするだろう?カニは人が食べる。クモもきっと食べた人がいただろう。だがうまくないから、後の人は食べなくなった。こういう人に我々は感謝すべきだ。
 私は一般の人が身辺や地球外の問題だけに注意してないで、社会の実際問題に少し注意するのが良いと思う。
    1932年11月号の「世界日報」に発表

訳者雑感:
 魯迅が指摘している看板をあげるともう成功したように考える。とい点は日本との対比でその通りだろうと思う。以下に原文を引用するが、AIIBとかインドネシアでの高速鉄道など、看板をあげて、サインしたらもう成功だと考える節がとても気になる。「楽観的」というか、その後のことはあまり考えないのだ。

『中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように只芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、彼等はきっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必定だ』
 辛亥革命でも黄興たちが「旗揚げ」して孫文が「孫大砲」をドカーンと打ち上げたら、それで成功したと思い、その後、袁世凱とか所謂皇帝になろうとするような「閥」の乱入を防げなかったのが敗因と思う。
 バッジで思い出すのは、毛沢東バッジだ。文化大革命のとき、これを付けていないとどうにもならず、皆は各地で競ってこれを作り、地域ごと、職場ごと、学校ごとに作りにつくって、1968年に3週間各地を訪問した私の手元にも何十個のバッジが残った。袋にいれて忘れていたのが最近出てきた。どうしよう。
捨てるしかないだろう。まさかこれを持っていて、中国の青年のように命を落とすことはないはずだが。
   2016/02/07記
    


 

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手助け文学と太鼓持ち文学

手助け文学と太鼓持ち文学
  11月22日 北京大学第二院で講演
 4-5年こちらに来ていないので、このあたりの状況は余り分かりません:私の上海での状況も、諸君は知らないでしょう。それで、今日は太鼓持ち文学と手助け文学について話しましょう。
 これはどのように話したらよいでしょうか?五四運動後、新文学家は小説をずいぶん提唱しました:その理由は、当時新文学を提唱する人は、西洋文学で小説の地位がとても高く、詩歌を彷彿させ:従って小説を読まぬ人は人でない、というようになった。但し、我々中国の古い眼からみると、小説はひまつぶしで、酒余茶後の用をつとめてきた。というのも、お腹いっぱい食べ、お茶を飲み終えると、閑になって実に無聊となり、この時代ダンスクラブもなく、明末清初の頃、ある人たちのところには必ず太鼓持ちがいた。書が読め、碁が打て、何枚かの絵を描くことができる人、これを太鼓持ちと呼ぶ。即ち取り巻きだ!だから太鼓持ち文学は取り巻き文学ともいう。小説は取り巻きをしながらする職務だ。漢武帝の時、司馬相如だけはそれを喜ばず、常々病を装って出仕せず、どんな仮病か私は知らない。彼が皇帝に反対したのはルーブルの為というのは、あり得ない。なぜなら当時ルーブルは無かったから。そもそも亡国せんとする時は、皇帝はする事もなく、臣は女のことか酒にあけくれ、六朝の南朝の如く、建国の時はそうした人は法令を出し、勅令・詔、宣言を出し、電報も作り――所謂堂々とした大文官だ。主が初代から二代目になると閑になり、それで臣は太鼓持ちとなる。だから太鼓持ち文学は手助け文学である。
 中国文学は私の見るところ二つに大分類できる:(一)宮廷文学。これは主の家の中に入り込み、主の忙を助けるのでなければ、主の閑のお伴をするもの:これと相対的なのが(二)山林文学。唐詩はすなわちこの二種。現代語で言うなら「在朝」と「下野」だ。後の一種は暫時手伝うべき忙も閑もないが、身は山林に在れども「心は朝廷に存している」忙を手伝えぬなら、閑も手伝えぬから、心は甚だ悲しい。
 中国は隠者と官僚がとても近い関係にある。その時招聘されたいという希望が強く、招聘されたらすぐ君のもとに征く、といい:質屋を開き、果実飴を売るのは征されたとは言わない。かつて世界文学史を作ろうとした人が、中国文学は官僚文学だと称した由。見るところ、実際その通りだ。ある面では固より文字が難しく、一般人でも教育を受けた人も少なく、文章もかけぬ。ただ他の面からみても、中国文学と官僚は実に近い関係だ。
 現在大体のところはこんな感じである。ただやり方は実に巧妙でついには、それを見いだせなくなっている。今日、文学の最も巧妙なのは、所謂芸術の為の芸術派だ。この一派は五四運動時代は確かに革命的で、というのも当時「文は以て道を載せる」ということに対して進撃せよと説いたから。が、今はその反抗性すら無くなった。反抗性がないだけでなく、新文学の誕生を制圧した。社会に対して敢えて批評せず、反抗もできず、反抗したら芸術にもし分けないという。それゆえに、手伝いプラス手助けだ。芸術の為の芸術派は、俗事には何も問わないが、俗事に対して人生の為の芸術を主張する人には反対し、現代評論派の如く、彼等は人を罵ることに反対するが、人が彼らを罵ると、彼等も罵ろうとする。彼等は人を罵る人を罵り、ちょうど殺人者を殺すのと同じで、――彼等は殺し屋なのだ。
 こういう手助けと太鼓持ちの状況は長く久しい。私はなにも人に対して即刻中国の文物をすべて放擲せよと勧めたりはしない。そういうものも見ないと、他に見るものが無くなってしまうから:手助けも太鼓持ちもしない文学は大変少ないが、今、物を書いているのは殆ど太鼓持ちか手助けの人だ。文学は大変高尚だという人がいるが、私はメシの問題とは関係ないとは信じない。私もまた文学とメシの問題は関係あって構わないと思う。ただ、できるだけ手助けも太鼓持ちをしないですむなら良いと思う。
     1832年12月「映画と文学」創刊号に発表

訳者雑感:
 孟浩然の「洞庭湖を望み…」という詩は「八月湖水平、涵虚混太清。
で始まり、気蒸雲夢澤、波撼岳陽城。という句は大変すばらしいと思う。
 しかし後半には、天子に呼ばれて出仕できぬのは残念云々とあり、素晴らしい詩も、天子の手助けをできにのをかこっているので、日本人的にはなんだか惜しい気がしたが、中国人にはこういう気持ちを詩にすることが当たり前のことであると言われたことがある。このあたりが中国人と日本人の違いでもあろうが、菅原道真の大宰府での梅の詩でも似たようなことを書いており、平安貴族の時代は共通点が多かったであろう。
 源氏物語や枕草子なども天皇や中宮への「太鼓持ち」文学だと言われればそうかも知れないとも思う。良い紙をもらって、そこに物語や随想を書いて中宮たちに読んでもらおうとしたのだから。というか、その当時それを読める人は限られた宮廷内の人だけだったから。
 では、その後の水滸伝などの講談本や戯曲はどうか?これらも最初は宮廷の舞台で演じられたものが、だんだん庶民にも分かるように発展してきたのだろう。これは手助け文学が進化・変化してきたものだろう。
   2016/02/03記
 

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「静かなるドン」後記

「静かなるドン」後記
 本書の作者は最近の有名な作家だが、27年にKogan教授の書いた「偉大な十年の文学」には彼の名は無く、彼の自伝も手に入らない。巻頭の事略は独語訳編の「新しいロシアの新小説家三十人集」の付録からの訳である。
 この「静かなるドン」の前三部はドイツでは去年Halpern訳で出された。当時の書報に小伝より詳細な紹介があり:
 「ショーロホフはあの一群の民間から直接出てきて、彼らの本源を保持しているロシア詩人のひとりだ。約2年前この若いコサックの名前が初めてロシア文芸界に現れ、現在はすでに新ロシアで最も天才的作家のひとり。14歳になる前に実際にロシア革命闘争に参加し、何回も負傷し反革命軍により郷里を追われた。
 彼の小説「静かなるドン」は1913年に始まり、炎のような南方の色彩で、コサック人(あの英雄的で叛逆的な奴隷たち、Pugachov、Stenka、Rasin、Bulagin、等の後裔で、これらの人たちの歴史的なその偉大さを)の生活を描いてくれた。だが、彼の描いたものとその地域を支配する西洋人が、ドン川のコサック人の想像する不真実のロマン主義に対して、共通する処はない。
 「戦前の家長制度下のコサック人の生活は、小説に非常に鮮やかに描かれている。叙述の中枢は、若いコサック人グレゴリーと隣人の妻、アカシンアで、この二人は強い熱情で溶接され、共に幸福と滅亡を味わう。そして彼ら二人を取り巻くのは、ロシアの郷村の息吹であり、仕事をし、歌い、話し、休息する。
 「ある日この平和な郷村に突如、驚愕の叫び声、戦争が起こる。最も強い男たちは皆出てゆき、このコサック人の村落も流血が起こった。しかし戦争中も、沈鬱な憎しみと恨みが増大してゆき、これが即ち目前に迫りくる革命の予兆…」
 出版後暫くして、Weiskopfも正当な批評を与えた。
『ショーロホフの「静かなるドン」は、私の見るところ、ある種の予約の様で、――その青年のロシア文学がファ氏の「潰滅」、バン氏の「貧農組合」及びバ氏とイ氏の小説と伝奇など、あの傾耳諦聴する西方の定めた所の予約の完成だ:これは言うならば、一種の原始の力に満ち溢れた新文学の生長であり、この種の文学、その広大さはロシアの大原野のようで、その清新さと束縛からの自由はソ連の新青年のようだ。凡そロシアの青年作家たちの作品は、一種の予示と胚胎(新視点、一つの完全な反日常的で新方面からの問題観察と新描写)は、ショーロホフのこの小説にも十分に発展している。この小説はその構想の偉大さや生活の多様さ、生き生きとした描写で人を動かし、トルストイの「戦争と平和」を思い起こさせる。我々は緊張して続巻の出現を待ち望む』
 ドイツ語訳の続巻は今秋にやっと出たが、多分どうも更に読み続けることになろう。原作はまだ完了していないから。この訳はHelpernのドイツ語訳の第一巻の前半だから「戦争持続と共に、沈痛な憎しみと恨み」が発生したことは、ここではまだ見られない。だが風物の優れていること、人情も異なるが、書き方も明朗簡潔で、まったく旧文人の頭角をなぞるようなく、抑揚を抑えるような悪習もなく、Weiskopfの言う「原始の力に満ちた新文学」の概要の輝きはすでに伺い見ることができる。将来、全訳が出たら、わが国の新作家を啓発する処がきっと更に増大しよう。だが実現できるかどうかはこの古い国の読書界の魄力次第だろう。
    1930年9月16日

訳者雑感:
 1930年の時点で「静かなるドン」をロシア語原本からではなく、ドイツ語訳から重訳しているのはなぜだろう。ロシア語の原本が入手できにくかったからか。或いはロシア語から翻訳する力を持った人がいなかったのか?
 ロシアの小説や物語は、あのロシア語で口から発せられる響きが一番大切にされる、と習った。ドイツ語訳からの重訳しかできなかったのは残念だが、それすら魯迅の古い国の読書界が続けて出版できるかどうかは、その魄力次第だという。そのころの訳文と21世紀の訳文にはどれほどの違いがあるのだろう。
    2016/02/01記

 

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文芸の大衆化

文芸の大衆化
 文芸はもともと少数の優秀な人だけが観賞できるというものではない。少数の先天的低能者だけが観賞できないものだ。
 作品が高級になるほど、知音者は少ないというなら推論すると、誰も理解できぬものが世界の絶品となる。
 但し、読者もそれなりの情感を持たねばならない。まず識字で、次は一般的な大まかな知識と思想と情感で、たいていは相当な水準を持たねばならない。そうでないと文芸とは関係が発生しない。文芸が何か手立てを講じて、おもねったりしたら、すぐ大衆迎合で媚びる方向に流れる。迎合と媚びは大衆に有益とはならない。――何が「有益」かについては本題の範囲外ゆえ今は論じない。
 従って、現今の教育不平等社会ではいろいろ難易の異なる文芸を持ち、それで色んなレベルの読者の求めに応じるべきだ。だが大衆のことを想定した作家が多くいて、できるだけ分かりやすい作品を書き、皆がよくわかり、読みたくなるようにさせ、それで一部の陳腐なものを排除すべきだ。但し、ことばのレベルは劇本のような程度が良い。
 現在は大衆に文芸観賞のできるような時代の準備の期間だから、私はただそれくらいしかできないと思う。
 今すべてを大衆化しようとするなら、それは空談にすぎない。大多数の人は文字を識らない:現在通用している口語文も皆よくわかるものでもない:言語が不統一だから、方言を使うと多くの字は書けないし、別の字で代用すると、一部の所でしかわからず、閲読の範囲は却って狭くなる。
 要するに、多く作品を出し、また一定程度大衆化した文芸を書くことはもとより現今の急務である。もし大規模な手立てを講じるなら、政治方面の協力が必須で、一本の足では道を作れない。多くの人をひきつけるものを書く、というのも文人の聊か以て自ら慰めるにすぎない。
     1930年3月の「大衆文芸」に掲載

訳者雑感:日本でも文芸の大衆化は1900年初頭の大きな問題で、漱石なども江戸時代の芝居や落語の話し言葉を、文章化していった。1930年ころの中国でも大衆化という点で、魯迅も「劇本」のレベルを想定しているが、これは漱石などの言葉が彼の頭に残っていたのだろう。
   2016/01/28記

 

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