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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「此の生或いは彼の生」

                                                 白道

「此の生或いは彼の生」

今この5つの漢字を書いて、読者に:どんな意味?と問う。

「申報」の汪懋(ぼう)祖氏の文章では「……の例のように‘この学生かあの学生’と言おうとすると、文語で「此の生或いは彼の生」と書くだけでよく、その省力さはどんなものだ……」と、それですぐ思いつくのは、これは即ち‘この学生かあの学生’と言う意味となる。

そうでないと、その答えは多分いろいろ遅疑を生む可能性がある。この5字は少なくとももう2つの解釈が可能で:

1.この秀才とあの秀才(生員:科挙の合格者で秀才という)

2.この世とあの世。

文語を口語に比すと、確かに時には字数が少ないが、意味が曖昧模糊となる。文語を読むと、往々我々の知性を増幅できるだけでなく、我々の既有の知識によって、注解補足せねばならない。精緻な口語に直して初めて理解できる。もし初めから口語を使えば、字数は増えても、読者にとっては「その省力さはどんなものだ」といえる。

私は文語主張の挙げた文語を例に、文語が用を果たさぬことを証明した。

     623

訳者雑感:

「狂人日記」で初めての口語小説を書いた魯迅は、口語を攻撃して、文語を大切にしようと主張する文学家を徹底的に批判した。

その一方で彼の作品の至るところで「古文・古典」からの引用が見られるが。

今回やり玉に挙げられたのは、汪懋祖氏の「中小学校で文語運動を」という文章で、その趣旨は「文語の学習は尋常の言葉より難しいが、…うまく応用すれば省力化でき、読者も作者も印刷工も経済的で、もし耳だけで目を使わぬなら、文語は使えないが、目を使うなら文語は良い。(後略):出版社注」ということだ。

 漢字は象形文字から出発しているので、目から判読するのにとても適していて、速読できる点は、ローマ字等より優れているが、その意味を正確に理解するまでに長時間かかることが難点である。

 日本語でも「赤とんぼ」の歌の「おわれてみたのはいつの日か」という歌詞を漢字で見るまで、負われてという意味でなく、追われてと思った人が沢山いる。これは多くの歌詞が文語で作られたためだろう。文語の75調で作られたものは、日本人の耳になじみ易く、覚えるのに適していて、口語の歌詞はしばらくするとすぐ忘れてしまうのも事実だ。

御経とか歌詞とか詩歌は文語調が残るのかもしれぬ。それで魯迅の脳内には彼が子供のころに覚えた文語の古典が一杯残っていて、それが紡ぎだされてくるのだろう。

習ったことのない古文が出て来ることはないだろう。      2013/05/06

 

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