魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
「花辺文学」を論ず(付録)
林黙
近頃ある種の文章を花辺(ぎざぎざ)で囲んだものが幾つかの新聞副刊に登場した。
これは毎日1段で、ゆったり閑適、緻密で整っていて、外形は「雑感」のようだが、また「格言」のようでもあるが、内容は痛くも痒くも無く、何の落とし所も無い。小品か語録の類だ。今日は「偶感」明日は「聞く所では」で、作者は当然好文章だと思っているだろう。反復しながらもすべて理屈にあっており、八股文の要領を十分に発揮しているためだ。
だが、読者からすれば、痛くも痒くも無いとはいえ、往々にして毒汁がしみ出し、妖言がまき散らされているように思われる。例えば、ガンジーが刺されたら、「偶感」を書いて、「マハトマ」を頌揚し、暴徒の乱行を繰り返し罵り、聖賢の為に神に誓って災いを祓い、次いで読者に向け「一切を見定め」「勇気をもって平和を勝ち取る」ため、不抵抗の説教の類を宣伝する。この種の文章は、名前が無いから「花辺体」或いは「花辺文学」と呼ぼう。
この花辺文学の来源は、大抵は出口の見えなくなった後の小品文の変種である。この種小品文の擁護者は、これはきっと流行るという。(「人間世」:「小品文について」参照)
彼らのやり方を見てみよう。6月28日付の「申報」「自由論」に次のような一文あり、題名は「逆さ吊り」。大意は西洋人が鶏鴨の逆さ吊りを禁じたことに対して、華人は大変不満で、西洋人が華人を虐待し、鶏鴨より下にみている、と。
それに対して、この花辺文学家は論議を始めて曰く:「それは実は西洋人を誤解している。
彼らは我々を蔑視しているのは確かだが、決して動物の下には置いていない」
なぜ「決して」なのか?それは「人間はグループを組織し、反抗でき、…実力を備え、能力もあり、鶏鴨とはまったく異なる所以」だから租界で華人に過酷な待遇を禁じる規則は無い。華人の虐待を禁じないのは、当然華人を鶏鴨より上にみているのだ、と。
もし不満ならなぜ反抗しないのか?
こうした不満の士は、花辺文学家が古典から得た証明では「イヌになっても構わぬ」輩で、意気地なしと断定された。
この意思は極めて明白で、第一、西洋人は決して華人を鶏鴨の下には置いていないから、自ら鶏鴨に如かずと嘆く人は、西洋人を誤解している。
第二、西洋人のこの種の優待を受けているから、もう不平をもらすべきではない。
第三、彼は正面から、人間は反抗できると認め、反抗させようとしているが、実は西洋人に華人を尊重させる観点から、この虐待は不可欠で、且又もう一歩進めよ、と説いている。
第四、もしまだ不満なら「古典」を引用し、華人が将来の見込みが無いと証明している。
上海の洋行(外国貿易会社)には西洋人のビジネスを助ける華人がいて、通称「買弁」と呼ばれ、彼らは同胞と商売する時、輸入品が国産品よりどれほど優れているかを誇る以外に、外国人がいかに礼節と信用を大切にするかを説き、中国人は豚野郎で、淘汰されるべきと言い、更には、西洋人を称して曰く:「我々の主人」と。
私は、この「逆さ吊り」の傑作は、彼のくちぶりから、大抵この種の人間が彼らの主人の為に書いたものだと思う。第一、この連中は常々、西洋人をよく理解していることを自ら誇っており、西洋人は彼に対してとても親切だから:第二、彼らは往々、西洋人が中国を統治するのに賛成で(即、彼らの主人の)華人虐待に賛成しているのは、中国人は豚野郎だから:第三、彼らは中国人が西洋人をとても恨むのに対して、最もそれに反対する。
不満を持つものは、彼らからすると一番危険な思想だと考える。
この手合い、又はそうなりたいと思う連中の筆から生まれて来たのが、この「花辺文学」の傑作だ。だが惜しいかな、この種文人も文章も、西洋人に代わってどのように弁護説得しても、中国人の不満は無くならない。西洋人は中国(人)を鶏鴨の下に置いたことがないが、事実上まだ鶏鴨の上に置いたことは無いようだ。香港の巡査は中国犯人を2階から逆さ吊りで落としたのはもうだいぶ以前のことだが:最近の上海では去年、高という女中、
そして今年の蔡洋其などで、彼らが味わったのは、けっして鶏鴨の上という事は無かった。死傷のむごさは、それを越えるとも、及ばぬことのないむごさだった。これらの事実を、我々華人は、はっきり目にしており、それに背を向けて忘却することはできない。花辺文学家の口先と筆は、どうしていい加減にそれをごまかすことができようか?
不満を持つ華人は、果たして本当に花辺文学家の「古典」で証明したように、一律見込みが無いのだろうか?そうではない。我々の古典には、9年前の5.30運動があり、2年前の1.28運動あり、今艱難辛苦しながら東北義勇軍を支援しているではないか?こうしたことは華人の不満の気持が集って、勇敢に戦い反抗しているのではないと誰が言えようか?
「花辺体」の文章が今広まっている所以は皆ここにある。今は広まっており、一部の人は擁護しているが、もう暫くしたら、これを唾棄する人が出て来るだろう。
今は「大衆語」の文学を建設する時で、「花辺文学」は形式も内容も大衆の眼中には広まらない日が来ると思う。
この文章は何か所かに投稿したが、すべて拒絶された。この文章がまたしても、私仇を晴らす目的だとの嫌疑を受けたのか?だがそんな「意図」は無い。事実に基づいて事を論じ、言わねばならぬと思ったのである。文中に過激な箇所があるかもしれぬが、私が全く間違っていると言われるなら、私はそれを承服できない。もし先輩や友人に迷惑をおかけしたなら、御容赦願います。
筆者附して記す。
7月3日「大晩報」「火炬」
訳者雑感:本文を(付録)として載せた意図は実はよく分からない。ただ、「花辺文学」の「序言」に「逆さ吊り」の事に触れ、(出版社注に依ると)この付録の作者はもとは左翼作家聯盟のメンバーの廖沫沙(筆名:林黙)氏が「暗闇から矢を放って」魯迅を「買弁」として、西洋人を弁護しているということに反駁するためだと思う。
華人と中国人という言葉が出て来る。シンガポールに住んでいる中国系の人は自分を称して華人という。華僑ではない、と。そしてまたもう中国人でもないという。
英国植民地時代の香港にいる中国系の人は英国のパスポートを持っていても華人であった。香港人と自称していたが、英国人ではなかった。魯迅の住んでいた上海租界の中国系住民は中国人ではなく、華人であったから、魯迅も華人と書いたのだと思う。上海の周辺から租界に仕事に来てまた戻る人は正真正銘の中国人だ。
租界のバンドの公園に「イヌと中国人 入いるべからず」という掲示板があった。外国人とそのお伴(使用人)の華人は許されていたのだそうだ。
それにしても、日本人がかつて魚を吊り下げて町を歩くのと同じように、生きた鶏を頭から吊り下げて上海の街を歩くのは禁ずるというのは、西洋人の「動物愛護」の観点からというのは、どうもすんなりこない。ドイツの家庭では豚を丸ごと一匹さばいて、ハムやフランクフルトにしている。街中を生きた豚が檻に入れられて輸送されるのと、華人が手でぶら下げて移動するのと、五十歩百歩の気がするが。
日本のウナギ屋が西洋人の目の前で生きたウナギをさばいたらどんな反応だろうか?
鯛の活造りとか、海老のおどりとか、かつてすしネタは活魚からが基本だったが。
2013/05/01記
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