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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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中国史学入門 その4 経書と子書

二.経書と子書と戦国古書
1.最古の中国文字
 中国の最古の文字は、殷墟の甲骨文字だ。更に古いものがあるかどうか。将来の出土に待つ。今日、甲骨文字から判断すると、元来は当時の占卜に使われただけだとみられる。上古には、およそ、記すのは竹になされた。竹は久遠に留まることができない。それで甲骨に記されたものが長く残った。甲骨文字は今日まで保存された。発見されただけでも約二十余万字ある。元来
商王は大変迷信深く、ことを為すに、すべて占卜に依った。‘卜’の字は、占いをするときに、骨を焼いたときに現れる裂紋である。商王の占いたいことを骨に記したので、史料として残った。尚且つ、商王の世系図も見つかった。
ただ、人名は記されていない。
2.経書漫談
 周代になると五経ができた。最古の史書で五経とは;
一.<尚書>
二.<易経>
三.<詩経>
四.<礼経>後に<儀礼><周礼><礼記>の三つに分かれた。
五.<春秋>これも<左氏伝><公羊伝><穀梁伝>の三つになった。
それに、<孝経><論語><孟子><尓雅>の十三経。五経は十三経となった。
 当時、貴族の教育は、礼学、射御(弓馬)、書数であった。最も重要なのは、礼、楽であった。礼と云う字は、もとは人に玉を贈るということで、礼と楽はセットになっていた。人々は王に会うとき、諸侯に会うとき、大夫に会うとき、友人に会うとき、すべて必ず礼を行い、詩歌をうたった。それで当時の人はみな歌がうまかった。楽師は、知識が豊富というだけではプロとは言えず、礼に用いる詩を歌うのに長けていなければならなかった。その次は弓と馬で、戦に役立った。史書は教育ではさほど重視されなかった。史をつくるのは、専門の人間がいたから。数は、物事の管理に必要ということで大事にされた。それゆえ、古代教育では上述の六つのうち、一に礼、二に戦、三に管理の三つが重視された。
 (1)<詩経>
 <詩経>には、風、雅、頌がある。頌は祖先を祭るのに用いられた。風は交わりのとき。雅は高貴な客のとき。風は、多くは叙情的である。詩は楽と不可分である。古代の楽器は、鐘(金)、鼓(革)、琴(糸)、瑟(糸)、簫(竹)
磬(石)、柷(木、打楽器)、笙、匏、敔(音は于、土)。
瑟は今ではもうないが、27弦の琴である。
 (2)<尚書>
 <尚書>は王と貴族が語った物語である。尚とは上古の史である。漢以前には書と呼び、文字で書かれたものの意。漢代の人は、これは古くから伝わったもので、それゆえ<尚書>と云う。<詩>は三百篇のみだが、<尚書>は案件の数だけあり、大変多くて数え切れないほどだ。春秋、戦国から漢代まで、古い時代の書簡をすべて書き留めており、後には腐ってしまったほどだ。彼らは書き写すたびに、こう写したり、ああ書き改めたりしてしまった。あるものは、もはや本来の姿を失ってしまった。最初に<尚書>を書き写した人は、虞や夏のことを知らなかった。戦国時代、<墨子>と<左伝>ができると、虞や夏のことが多く現れてきた。漢の人が使った孔子や墨子の引用した<尚書>は、既に本来の<尚書>ではなかった。本来の<尚書>は、多くは失われてしまった。漢代の人が言う孔子が<詩経>と<尚書>を編んだ、というのは事実と異なる。現在の<尚書>は漢代の人が選編したものである。<尚書>は中国の最古の史書である。
 尚書は五つに大区分される。
第一は典; 君王のことを記したもの
第二は謨; 臣が君に対して奉った言論 
第三は訓; 一般政治の議論
第四は浩; 一種の通知文
第五は誓; 師に誓う詞
 古代の史事はこれに基づいている。<尚書>は,ことばを多く記し、事を少なく記す。後世の人が、夏、商、周のことを知ることができるのは、<尚書>のおかげである。惜しいかな<尚書>は今日二十八篇残るのみ。
 漢以後、魏に王粛が出、漢代の<尚書>から失われたものを編集した。あるものは根拠があるが、一部は彼の造作である。王粛は二十五篇を足した。彼は漢の<尚書>の特別な部分の文章を切り分けて、五篇を造り、全部で五十八篇として、今日に伝わってきた。王粛が造ったデタラメには、<尚書>は元来百篇あったが、秦の焚書の後、五十八篇だけ残ったという。
 宋の学者が二十五篇は原作ではないとし、疑義を唱えた。以後、討論が八百年続き、乾隆帝時代になって、二十五篇は偽造との結論が出た。ただその中に、本当の史料もあるにはある、ということだ。
 (3)<礼経>
○ <儀礼>;<礼経>は即ち<儀礼>であり、これを以下に分ける。
1. 冠;成年となり、戴冠時に自分の字(あざな)を加えること。
2. 婚
3. 相まみえること
4. 燕;即ち讌 
5. 観 6.射 7.郷;低位の官 8.喪 9.喪服;戴孝(孝行)。
○ <周礼>;<周礼>は六官に分かれ、六篇で六つの大官のことを記す。
1. 天官家宰;宮内官吏の責任
2. 地官司徒;人民の土地の管理
3. 春宮宗伯;礼節を管掌
4. 夏官司馬;軍事を管掌
5. 秋官司冠;司法を管掌
6. 冬宮司空;工程を管掌
 <周礼>は周公が作ったとされる。彼が礼を制定し楽を作った、と。実はそうではない。ここの部分は戦国の人が作ったのだ。このころまもなく大統一がなされようとしていた。斉の人は天下統一後、いかにして全国を統治しようかと考え、天子の下に六つの官を置けばよいと考えた。六つの大官の下にそれぞれ六十の小官を設け、合計三百六十官である。
○ <礼記>; <礼記>は儒家の散文で、合計四十九篇。一部は儒家の言論で、一部は古代の礼節だが、中には儒家の想像した古代の礼節がある。現在の<大学><中庸>は、元をただせば、<礼記>の中の二篇である。
 (4)<春秋経>
 <春秋経>は孔子の作と伝わる。元は独立した一部だったが、今は三伝の中に入れる。<春秋>は魯国の編年史で一年ごとに記された。一年を四節に分け、十二ヶ月に分けた。それゆえ、古代史の中で非常に順序立った史書となった。本書は、周王、諸侯、卿、大夫についてのみ記す。卿は大夫の最高層の者。過去の古史書に人民はいない。<春秋>は東周の平王の後のことを記すが、実は孔子が書いたものではなく、彼の学生が魯国の編年史の一部を簡単に抄録したもので、ある部分は削られている。
 <春秋>は大きなことのみ記し、きわめて簡単で<春秋>を見ただけでは何もわからない。ゆえに<左伝>が補充している。
○ <左伝>;<左伝>は戦国時代に書かれた春秋時期の史料である。
 古代の史官はもの事を記すとき、二つに分けた。大きな事と細かな事。
<左伝>は史官の細かな部分に基づき、晋国、楚国、斉国、魯国、衛国の五カ国の史料を記し、五カ国の史事を統一し、編年史とした。<左伝>は左丘明の作と伝わるが、彼がいつの時代の人間かしらない。孔子の学生というが、
そうではない。彼は孔子の死後80年の人だから。<左伝>の作者と、本のできた年代は、学会でも定説はない。諸説あるが、私は清代の経文文学家の説に道理があると思う。
 <尚書>の史料は少ない。<左伝>のは多少豊富といえる。<左伝>には夏と商の篇は無い。<左伝>を作ったとき、前述の五国の春秋前期の史料は既に大部分失せていた。
古史書で今に伝わる中で、<左伝>はその価値第一といえる。
○ <公羊伝>;<公羊伝>は戦国時代、経学家公羊氏の口述による。漢代に成文化された。この経書は史料がない。ただ<春秋>の大意を解釈しおるのみ。孔子の本来の意、とするところを説明している。
○ <穀梁伝>;<穀梁伝>は看板倒れで、漢代中葉に作られたが価値はない。
 (5)<考経>;<考経>は漢朝の最重要な書である。当時は読書人たるものは、読書せんとするなら、必ず<考経>を読まねばならなかった。この経は漢代読書人の必読の書で、漢代は考を特に重んじた。初めて封建社会に入り、人はすべて継承すべき産業を持っていた。父は子に仕事を教え、子は父の仕事を継承するということから、考が提唱された。この書の篇数は最小で十八章のみ。王、臣、大夫のそれぞれの考を説く。
(6)<論語>
 <論語>は孔子の語った言葉である。一部は弟子のものもある。孔子のころ、本を著すことはなかった。戦国期にはじめて著書という気風が起こった。
<論語>は孔子の話を聞いた弟子の孫弟子が記したもの。その中には曽子、即ち曽参がいる。“子”というのは先生の意。また有子、即有若もいる。この二人は孔子の弟子である。書中に彼らの呼称があり、これは明らかに<論語>が孔子の再伝の弟子の著だということを示す。これは一部戦国時代に書かれた物だ。
このころ、孔子の話は既に輾転として数十年経っており、孔子のオリジナルの話ではなく、あるものは彼のもともとの意でもなくなっていた。しかしながら、この書はやはりなんと言っても孔子の話、孔子の意図したものが最も多く記されている本である。
 <論語>は計二十篇。前十篇は彼の再伝の弟子の記したもの。後十篇は更に後代の者が記したもの。戦国中期に記され、価値は更に落ちる。前十篇と後十篇を比べると、後十篇はその故に前十篇の後ろにあるのだといえる。前十篇は孔子を“夫子”と呼んでおり、この“夫子”は老先生の意だったが、後には“あの先生”を意味するようになり、“夫子”が“子”と同程度の尊称になってしまった。このころにはもう戦国中期になっており、後十篇に“夫子”という呼称の新しい用法が現れた。それで後十篇の作られた年代がわかるのだ。
 この本は価値があり、孔子を表現し春秋時代の人の思想を表している。
<左伝>は<論語>と一緒に閲読すると良い。
 (7)<孟子>
 <孟子>全七篇は弟子の記したもの。その思想は<左伝>と同じ。<孟子>は彼の言動を記したもので、戦国時代の孟子の思想を代表する。
 孔子と孟子は一様ではない。孔子は覇を尊ぶ。即、大諸侯を尊んだ。孟子は王を尊ぶ。孟子の時代には諸侯が少なくなってしまい、人々は大統一を望んでいたからである。孔子は古代の王を尊んだにすぎない。
 漢代になると、帝王が現れてきたので、人々は侵犯できなくなった。孟子とこの時代の思想もまた異なる。孟子曰く;“君の臣を視るや、草芥の如く、されば臣の君を視るや寇仇の如し。”また曰く;“民を尊び、社稷これに次、君を軽し、とす。”こうした言葉は、孔子の思想と言論にはなく、漢代以後の思想と言論にもない。これはなぜかといえば、孟子の時代には、本当の帝王がいなかったからである。彼の言うところの王は、彼の希求するものに過ぎず、想像の中の王に過ぎない。
 孔子と孟子は百年の隔たりがある。
 (8)<尓雅>
 <尓雅>は分類詞典で、草木魚などの類を古書中の字と詞で解釈している。
<尓雅>には下記の3つあり。
1. 釈詁;現代語の古字
2. 釈言;現代語の相互解釈
3. 釈訓;形容詞の解釈
 従って、<尓雅>は訓詁学である。<尓雅>は前漢の人の著で、その中で言う今話とは漢代の話である。
 (9)<易経>  (訳者注;八卦の棒の記号は省略。易の書物参照)
 <易経>は八卦を講じている。八卦とは乾、乾は父であり天である。
坤、は母で地である。震、は長子で雷。坎、は次子で水。
艮、は少子で山。巽、は長女で風。离、は中女で火。兌、は少女で金。八卦は一家八人を包含する。八卦は五行とは異なり、八卦は八に分け、五行は五に分ける。八卦は掛けて六十四卦となる。六十四卦は一卦ごとに六爻あり、合計三百八十四爻ある。この卦爻のうちから、何をしてよいか、何をしてはいけないかを占う。即占い文である。占い文の中には、“利渉大川”というような文句があり、河を渡ってよいとの意。また“利用行師”というのは、戦をしてよいとの意。などなど。
占卜は二種に分かれ、一つは卜で、亀の甲にキリで穴をあけ、火に焼いてそこに現れた裂痕をみるもの。二つ目は、草を並べて広げてみて、何が見えるかで占う。今日でも銭を並べて、占うのを金銭課という。 
 古人はことを行うにはすべて、占卜で決めた。<易経>は春秋時代に既にあり、秦漢時代に<易経>を儒学の中にいれ、哲学思想を<易経>の中にいれたことで、この経書は哲学化した。例えば“無往不復”、“否(卦の一名)極 泰(これも卦の名)来”などは<易経>から来ている。又“一陰一陽之謂道“なども然り。(訳者注;往かざれば、復さず。否極まれば泰が来る。など禅問答的哲学か)
 (10)経書雑論
 経書は四官が記したもので、
卜官;<周易>を記し、宗教史、哲学史を記した。
史官;<春秋><左伝><尚書>を記した。
楽官;詩を記し、楽譜も記した。
礼官;礼と制度史を記した。礼官は、今はいない。従って、経書は中国古代史を代表できるといえる。
 五経の中で、<尚書>が最も難解。<考経><論語>は分かりやすい。五経は戦国以前の書で、戦国以前は、ただ五経しかなく、非常に貴重なものであった。五経のことばは、周朝のものだ。<論語>に“子所雅言、詩書執礼、皆雅言也。”とあるが、雅とは即ち夏であり、雅言とは夏時代のことばであり、周代の貴族のことばである。“礼は庶人に下らず”それは一般の人のことではなく、当時は多分、一般の人は聞いても分からなかったであろう。当時の雅と俗は大きく異なり、当時の文字とことばも異なったのである。
 経は“天が不変なら、道もまた不変”で、道も不変なことが経であり、実際経書は古代の史料である。
 漢代から清代にまで到る、経書に対する迷信は必ず打破しなければならない。もし五経に照らして物事を行えば、封建統治を維持擁護することになる。
1. 諸子百家について
 中国の当代にもう一人、老史学家、翁独健先生がいるが、彼は顧老の学生である。彼の夫人は、民族学院の歴史学教授である。彼が私に語るに、“顧老は私の老師である”と。1980年に彼らが、私が1965年の冬に顧老から口述された中国の歴史を整理しようとしていると聞いて、初稿を見た後、真剣な面持ちで、指摘した。“顧老先生は、本当に長い間、中国の歴史研究に携わってきて、特に古代史の研究と教学で、中国の歴史科学研究に、突出した貢献をされたと指摘した。彼の論文と発表した専門書の中で、独創的な理論と観点をとてもたくさん提示した。彼の系統的学術著作の中には、彼の独創的な見解がある。たとえ異なる見方があり、甚だしくは間違っていたとしても、留保すべき価値がある、と。
 今、既に1992年で、翁先生こと燕京大学の解放前の教務長、解放後の北京市教育長で、高徳で名望のある教育家、史学家だった先生も物故された。彼の顧老に対する学術的評価を思い出すと、顧老が系統立てて口述してくれた中国の歴史の一篇一章を読むたびに、顧老の亡き魂に対して、限りない追悼の念と、懐かしさがこみ上げてくる。
 今ノートを広げると、顧老の生前の諄々とした声が聞こえる。彼は諸子百家について、こう語りだした。

 戦国諸子の著述は、戦国時代の記録である。秦の統一後、各民族の民族意識を取り除くために、正式の記録は焼かれてしまった。それ故、戦国史を研究するために、子書の材料は大変貴重である。すべての子書は、戦国思想史であり、戦国史でもある。司馬遷の<史記>の戦国史について書かれた部分には、たくさんの誤りがある。それは彼が戦国の史料を掌握していなかったからだ。以前の人は、ただ孔子と儒家を信じ、子書を排除し、一般の人は子書を読まず、戦国史の研究もしなかった。
 孔子以前は誰も門戸を開いて、弟子を取ることをしなかった。誰も貴族の書を、平民に公開しなかった。五経を一般人に普及させたのは、孔子が第一人者である。孔子の最大の功績である。そうであるから、後世、ひとは、五経は孔子が編んだといってきた。
 孔子は政治については何ら主張しない。ただ、周の制度を維持擁護しようとしたに過ぎない。孔子の主張は分に安んじ、君は君たれ、臣は臣たれ、父は父たれ、子は子たれという名分を改変しようとは思わなかった。孔子は時代が変わろうとするのを見つけられず、古人の修養を説くことは多いが、天下の大事を語ることは、非常に少ない。
 この時期、奴隷制が封建制に変わった。人々は封建制に向かうのが良いと思い、将来の社会がどうなるかについて、いろいろな考えを抱き、諸子がいろいろ主張するようになった。
 孔子の後、春秋末、戦国初めにかけて、第一の大思想家は墨子である。
(1) 墨子
 墨子には明確な主張がある。十大主張である。
第一は尚賢。即ち賢人を尊ぶこと。凡そ官に就くものはすべて賢人で、元来の階級を打破するものだと考えた。天子は天下で最も賢い大賢人で、諸侯は一国の大賢人、だと。彼の主張は世襲を打破すること。父が子に伝えるのではなく、賢者が賢者に伝えること。これは大変革で、周の制度をひっくり返そうとすることである。
第二は尚同。即ち組織を作ろうとすること。一郷は卿長の命令を聞き、一国は君の、天下の人は天子の命を聞く。全国は各層ごとに上と同じになる。だが各国は君主に対し、進貢の必要はない。非常に寛容で緩やかな結びつきだ。
第三は兼愛。彼は諸侯が相愛し、かつ各国の人を兼愛することが大事だと考え、そうすれば互いに戦争なんてしなくなる、と考えた。
第四は非攻。彼は征伐によって領土を兼併しようとする戦争は不義だとし、これに反対した。
第五は明鬼。孔子は鬼神を信じなかった。存していても論じなかった。之は鬼神が存在しているとは思っているが、信じないというだけである。墨子は違う。“明鬼”即ち鬼神が実際に存在することを証明しようとした。だから彼は鬼神を信じていた。
第六は天志。墨子は天神を信じ、天は最高の神と考え、天は意志を有すると考えた。
第七は非命。運命を信じるな、と。ただ自ら良い人間になろうと心がければ、一切はおのずと良くなってくると。
第八は非楽。音楽は無用、と。音楽を聴くのは、耕作や紡織の妨げで浪費と。
第九は節約。貴族が浪費ばかりしていると感じ、無用な浪費を無くせば財富は倍増すると。
第十は節葬。当時の厚葬は大変費用がかさみ、浪費の極みだと、節葬を主張。
要するに、墨子は周の制度を大きく改変しようとした。当時の人々はみな昔を尊んだので、墨子は古人に託して、古来かくの如し、と説いた。墨子は山東人か河南人かはっきりしない。墨家の勢力は当時大変大きかった。読書人といえば、儒にあらざれば、墨なりで、儒に属さねば、即ち墨家だった。
墨家には組織があり、孔子には組織が無かった。墨家の組織のリーダーは鉅子といった。“大老””先生“の意。鉅子は代々相伝で、賢人が賢人に伝えるというものであった。
 墨子は“非攻”とはいえ、善く戦った。墨子の書には戦争の書が多い。彼は戦でもって戦を消滅しようとした。墨家は“名学”を研究した。即ち論理学で、
これで話す方式を打ち出し<墨経>と名づけ、墨家はみなこれを読んだ。墨子は政治、軍事、科学など全て孔子より進んでいた。しかし彼は人から罵られること、甚だしかった。孟子は墨子の”兼愛“を罵るに、父無し子、即ち犬畜生と蔑んだ。
 漢代、人々は墨子を大変恐れた。墨家には組織があったから。それで墨家を消滅せんとした。それ以来、誰も墨子の本を読む者はいなくなった。漢末に、道教が起こり、墨子の書を<道蔵>に収めた。即ち墨子の書と道教の書が一緒にされた。幸い、かくして墨子の書の大部分が残った。
 清乾隆帝は、戦国諸子を研究しようとして、<道蔵>から<墨子>を探し出し、それで墨子を知った。かつて、<孟子>を読んだ人は、墨子は悪の極みと考えていた。
 (2)<楊子>
 楊子、名は朱。彼の史事はもうすでに、つまびらかではない。楊子はただ自己中心で、天下の大事に無関心であった。孟子は彼を評して、“一毛といえども、天下を利するなら、これをなさぬ”と。孟子は楊子を”がりがり亡者“”君ももたず“獣だと考えた。楊子には考えがあり、”全生保真“を唱え、外部のものに煩わされず、超然としていることを最善とした。彼の時代は戦乱の時代で、人生に対して、消極的であった。楊子の書は伝わっていない。その後、荘子が出てきた。荘子の書は文学性が強く、後世まで伝わった。戦国から今日まで、人々は大変好んでこれを読んだ。荘子の中心思想は、楊子の思想を発展させたものである。
(3) 荘子
 荘子は荘周、宋の人。今の河南人。彼は園林を管理する下級官吏であった。荘子はたいそう聡明で、文章がうまかったが、説くところの道理は分かりにくかった。<荘子>の第一篇は<逍遥遊>で、大鵬はたいへん大きい鳥だが、小鳥となんら変わるところはないのに、またなんで大鵬になどなるのか?
 第二篇は<斉物論>で、この世の万物は、皆同じとみなす。大も小もなく、強も弱もない。それ故、なにも大きい小さい、良い悪いなど、あらそうのはやめよう。大所高所からみれば全て同じである。天上から見れば、人の背が高い低いなど見分けられない、と説く。
 第三篇は<養生主>で“我が生は涯があり、知には涯がない。涯あるものでもって、涯のないものを求むのは、殆かな。”即ち、知識は無限で、有限の命で無限の知識を追求するのは、あやういことである。彼は、比較することに反対し、知識に反対、争いに反対した。人間一人の生命はほんとに短いのだから、知識は必要ないし、争いも不要、人にまさろうとする必要もない。と説く。
 彼の主張は極端に退廃している。
 (4)<老子>
 老子、名は老聘、陳の人。今の河南人。
 <荘子>の後、<老子>の書が出た。ある人は、老子は孔子の前という。多分、<老子>という書は、<荘子>が出た後、<荘子>を五千字に簡略化してしまったのだろう。<老子>の中には、“長短相形”という語句があり、物事を比較して言う、と説いており、また“高下相傾”といい、高は下をもって基礎とする、とも説いており、いずれも比較して言っている。
 しかし、その主導思想は、墨家のように、或いは孔子のように、憂いわずらうなと説く。“孔突不黔、墨席不温”即ち孔子の家の煙突は黒くならないし、墨子の座席は暖かくならない、と。彼らの暮らしはとても苦しく、あちこち走り回り、人のためばかりで、自分のためには何もしない、と。
 孟子は墨子を評して、“摩頂放踵(頭のてっぺんから踵まですり減らして)天下を利す。”墨子は全く人のためばかりで、楊子はといえば自己のためばかりに過ぎる、と。孟子の言う極めて利己的というのは、老子、荘子を含んでいる。
 老子は政治を語り、原始社会に戻るべきと主張した。いわゆる“小国寡民”で国は小さく、人口は少ないほうがいい、と。この状況は氏族社会である。
<老子>には、“民をして又自ら縄を結い、これを用い。その食をうましとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国は相望みて、鶏犬の鳴き声が相聞こえるが、民は老いて死ぬまで、相往来せず。”と。それ故、思うに,老子は楊子、荘子以降の人であろう。
 道家は、楊子が始め、荘子、老子になって興隆した。道家の思想は当時たいへん多くの人が信じた。
 <老子>は説く。“賢を尊ばない、民を争わせない”と、墨子に反対した。
老子の宇宙観は“無為にして治まる”“無為にして為さざるなし。”である。
 <老子>の主張は、“ある物は混成の状態にあり、先に天地が生じ、寂兮寥兮、
独立して、改めず、あまねく行きて、殆うからず。もって天下の母たる。吾、その名を知らず、これを名づけて道という。“老子のこの段の意味は、”道とは
天地に先んじて生まれ、道は物であり、精神ではない。道は万物の母であり、即ち道は物質だ。“という意。
 儒家、墨家は外を見、道家は内を見る。
 戦国のころ、それぞれの家(か)は古代史に対して、それぞれが異なった説を唱えた。各家はみな根拠を持って説いたのではなく、想像から導いていた。
儒家、墨家、道家の古代史に対する異なった見方は、古史を変え、改変させた。
<礼記、曲礼>に言う。
“剿説するなかれ、雷同するなかれ、必ず古昔に則り、先王を称せ。” 剿説するなかれ、とは別人の説を踏襲するな。雷同するなかれ、とは別人と同じことを言うな、である。必ず古昔 云々は、いにしえを以って法則とせよで、先王を称せは、先王をたたえよ、の意。
要するに、すべて独自の考えで、古代の事を説き、先王のことを賞賛せよと。
それ故、古代史のことについては、各家の主張は異なり、甚だしきは、各家内部でも違っていた。
(5)<韓非子>
<韓非子、顕学>篇に、こういう段がある。“孔子、墨子ともに堯舜をいうが、取捨は異なる。みな自分のほうが真の堯、舜という。堯舜は生き返らないゆえ、誰が儒墨のいずれが真か、確かめられようか!”と。
顧老はこの段を解釈して;儒家は堯舜のことを講じ、道家は更に古い時代の神農、伏羲、黄帝を講じた。こんなことは何ら根拠がないのに、これでもって堯舜を圧倒し、儒家、墨家を圧倒した。
三家はきまって、昔の方が良かった。一代ごとに悪くなったと考え、古に厚く、今に薄く、古ければ古いほど良かった、と考えた。戦国は西周に如かず、西周は夏商に如かず、夏商は堯舜に如かず、堯舜は黄帝に如かず、黄帝は神農に如かず、神農は伏羲に如かず、と。この思想はずっと受け継がれた。諸子の子書に、戦国史が保存された。
(6)法家
法家の代表人物は、李悝(魏)、呉起(楚)、商鞅(秦)、韓非子(韓)、李斯
(秦)で、彼らは皆、変法を主張した。儒墨道の三家は、すべて古道を提唱したが、時代に合致していない。変法を行って、時代に適応せねばならない、と。
法家の主張はまず法を定め、しかる後に王を立てる、ということで、今後のために法を定めよ、という。これは儒墨道の三家の、先王を法とする(先王の古法に照らして、ことを為せ)と対立した。
 法家の主導思想は、打倒貴族!で、貴族は功もないのに、禄をはんでいる。法家は人民を直接、国君に隷属させようとし、貴族に属させないようにした。それ故、一つの新時代を創出せんとするものであった。
 李斯は、秦の宰相のとき、最も顕著にこれを推進した。始皇帝の時代、ある者が言った。周が八百年続いたのは、周家が大いに宗族を封じたからである。
今、あなたが天子となっているが、子や甥たちはみな匹夫に過ぎず、誰も官に封じられていない。一朝、事あれば、田常式の政変が発生するだろう。田常とは、斉の人で、かつて謀反を起こして斉の政権を奪った男。
 李斯は、この説に断固反対した。彼は反駁する。この説は、よく本を読んで、理解していないためだ。彼らは誤って、古法を今法に充てているからだ、と。
それ故、彼は始皇帝に一切の古書を焼却するよう勧め、今後、天下に古書を読むことを禁ずとの命を下すよう進言した。始皇帝は彼の勧めを聞き入れ、天下の古書をすべて集めた。項羽が咸陽に攻め込んだ後、全ての古書を焼き尽くしてしまった。以後、残ったのは民間に遺留した少量の古書のみとなった。
 儒家は一族の長は、一国の君にもなれるとした。曰く;親は親たれ!それを宗法とした。墨家はこれに反対した。親は親たれ、に賛成しなかった。宗法社会は周代に始まった。法家は更に改革を加えた。
 戦国のころ、法家はこぞって、各国は富国強兵策を執るようにと強調した。政治を語り、経済を語り、軍事を語って、生産に重点を置くように、と。商鞅は秦のための変法として、まず初めに農業を発展させ、それから戦争を始めよ、と勧めた。元来、士農工商に分かれていた身分を、彼は、士(読書人)は不要とし、商人も要らないと。彼はただ農事と戦事、この二つがあれば良いとし、
農業のために水利事業を行った。楚と漢が争ったとき、鴻溝を界とした。これは、その当時に作られた人工の河だ。西門豹が鄴令として、多くの水利事業を行った。今日に残る、都江堰は秦の李冰が作ったもの。
法家の人たちは非常によくやった。本の虫でも、空談家でもなかった。
(7)<管子>
法家は斉ではいささか異なる。斉は工商業国だった。製塩と鉄器製造、製糸に適していた。当時各国の衣装はみな斉からきた。斉は女工が多く、紡織がたいへん盛んだった。
斉の法家も書を書き<管子>と言う。管子は春秋の人で、大政治家だった。管子の主張は<管子>の中にすべてある。彼は斉の法家で、秦や楚の法家とは異なる。秦は工商業を不要とした。斉は工商に依存した。それ故、<管子>は、
工、農、商、兵を重んじた。このころの斉は文化も非常に高かった。
 (8)陰陽家
 陰陽家の代表人物は鄒衍である。斉の人。迷信家で陰陽家はみな迷信を信じている。
 <周礼>に、天官,地官など五行思想があり、<管子>にも多い。斉の読書人はこれを信じていた。<月令>は陰陽家の思想だ。陰陽家の思想は五行で
政治を決めることだ。しかし陰陽家は戦国時代から儒家と混合した。漢には陰陽家と儒家の二者は分けられなくなった。陰陽家は儒家の右派で、法家も儒家と一緒になり、儒家の左派を構成した。漢代の董仲舒は陰陽家の儒家代表である。この時の左派は荀子で、名を荀卿といい、戦国末の人。漢代になると、儒家、経学家はみな混然とし、陰陽家の思想が主となった。しかるに,皇帝の方は法家の思想に則っていた。が、皇帝は依然として陰陽家的思想の儒家であった。陰陽家は言う。天子、即ち皇帝は天に代わってことを行う。これは漢代皇帝の愚民政策である。
 漢代の儒家、董仲舒、劉向などは皆、無価値な連中である。 墨家は漢の皇帝が撲滅した。彼らは組織を持っていたから。墨家は漢代になると、学説も通用しなくなり、組織も解体した
 道家は漢初、大流行した。文帝,景帝のころ、当時“無為にして治”を提唱した。貴族はみな<老子>を読んだ。人民をして安らかに暮らすようにし、生活は安定した。
 六十年後、漢武帝のとき、また匈奴を攻めた。多くの銭を使った。武帝末年には神を信じ、長生の薬を求め、巡視に出かけ、祭祀を盛んに行うなど、多くの銭を使った。それで後には、多くの捐金、税金を取り立てた。商人たちは困ったことになり、疲弊してしまった。
 秦漢二代は重農主義で、商人は車に乗れず、絹製品も着られなかった。戦国時代、儒墨法道は、諸子の中で最重要な位置を占めた。
 (9)名家
 名家(ロジック家)は墨家から分離したもので、詭弁に偏っていた。例えば“白馬非馬”また、天下の中央は燕の北、楚の南にあるなど、全て詭弁の辞。
 ただ名家にも一言あり;“一尺の棰、日に其の半を取る、万世竭ず(尽きない)”
これは道理がある。
 (10)雑家
 雑家の思想は道家に近い。秦代に<呂氏春秋>がある。呂不韋は秦の宰相となり、政治の大権は全て呂氏の手中にあった。彼は多くの食客を養った。彼らに戦国時代の各家の学説を合同して、<呂氏春秋>を編集させた。後人はここから、戦国時代の史事を知ることとなる。漢代には淮南王劉安が<淮南子>を編んだ。この書は漢初の各家の説を混合したもの。この二部は百科全書のようであった。
 (11)諸子雑論
 秦漢の時期は、各家の学説が混合しようとし、多くは儒家に混入したが、墨家のみは、入らなかった。漢以後、儒家は経書を読むだけで、子書を読まなかった。だが、老子と荘子は読んだ。
 隋唐には、科挙の制ができたが、まだ固定化していなかった。宋以後、科挙が推進され、固定化し、三年に一考と大いに普及した。これ以降、儒人は老子、荘子も読まなくなった。
 清の中葉、乾隆のとき、儒人はただ経書だけでは物足りないと感じ、経書と子書が併せ読まれた。子書はそれで、校訂され、注釈が加えられた。
 清の華沅は当時、陝西総督で、子書を校訂する人を集めた。これは<四庫全書>の編纂後で<四庫全書>はまだ子書を余り注意していなかった。王孫念という者が、彼は高郵人だが、もっぱら子書を読み、細部に亘って考訂した。清末には、兪樾、孫治譲が出、子書を校訂した。孫治譲は<墨子>のために、注釈を作った。<墨子閑話>という。現在<管子>はまだ整理されていない。
 清の人たちの子書の校訂と注釈は、経書を読むのにたいそう役立った。経書と子書を比較研究するのに、大変便利である。これ以降、経書の権威を打倒することに繋がった。今、甲骨文の研究は、更に深く比較研究ができるようになり、清代より一段と進んだ。
 例えば、王道と覇道について。以前の人たちは、古い時代の王道は平和で、覇道は殺気に満ちていた、という。この言い方は、宋から始まった。今ではこれが間違っていることを知っている。王道は決して平和的ではない。これは甲骨文から見出すことができる。
 経書は、奴隷社会の事情に触れていない。現在、青銅器から、いにしえの王は非常に残忍であったことが分かる。歴史博物館に現存する<孟鼎>に、周の王が、盂(臣の一人)に奴隷を与えたとの記載がある。“人(隔の右=奴隷)は、馭から庶人まで六百五十九夫”とあり、また別には“千五十夫”、とある。
<小盂鼎>にまた次の記載あり“周王は盂に命じて、鬼方(西北の一国家)を征伐し、一回で(獣の左=酋長)二人を捕らえ、”馘“(戦争中に殺して、その耳を割った人数)は74,812人で、”俘人“は13,081人、と。二回目は”(獣の左)一人、馘237人、俘・・・・人。馘は国の音。馘すなわち、殺して、耳を割ったのを数えて、王に報じていた。これは何と残忍なことか。当然、こうした事柄は、経書には一切ない。今、金文の中で知ることができる。
 又、次の例も挙げられる。
 <孟子>は“書”<尚書>(当時の)を引用していう。“有(悠の上)不惟臣、
東征、綏厥士女(安撫男女)筐厥玄黄(黒くて黄色の絹織物)紹我周王見休
(好)惟臣附于大邑周(周に服従)“。
 孟子の解釈は、“その君子〔貴族〕実玄黄于筐以迎其君子;其小人筐食壷漿以迎其小人、救民于水火之中、取其残而已矣(去其残暴)。”(“綏”)作安義解)
 現在、次のように翻訳す。“ある国が周王に服従しなかった。周王は派兵して
東征させた。其の国に到って、彼ら男女をすべて奴隷にした。彼らの絹製品を奪って、籠にいれ、周王に献じ、彼を喜ばせた。この国は周に服属した。“

 この段の訳文は、顧老が自ら一字一句翻訳して、手書きしてくれた。顧老の手書きについては、私は当然、一字一字照らし合わせて書き写し、誤りのないようにした。顧老の口述の全てを謹んで抄録したが、錯誤や疎漏を恐れた。
顧老の言葉は、できる限り元のままにしようと努めた。全てを尽くして、私の記録が、簡疎のためや、整理不注意のために、元の面目を失うことのないように心がけた。顧先生と読者に責任を負わねばならない。

 以上の例は甲骨文の研究以後、初めて知ることができるようになった。これは王道が決してそんな慈悲慈愛に満ちたものではないと知れる。
 <孟子>は“ことごとく<書>を信ずるのは、<書>の無いに如かず、吾は
<武成>から二三片取るのみ。仁人は天下に無数で、至仁以って不仁の至りを征伐し、而して何と其の血の流杵や!“。<逸周書、世俘>(即<武成>で<尚書>の一篇)”武王は遂に、四方を征し、凡そ(敦の下に心)国九十有九国、
馘磨億(十万)有七万七百七十有九(17万人を殺した)俘人三億万有二百三十(30万人を俘虜とした)。“このような凶残をした王に対し、孔孟のようにいにしえの王はみな慈愛にみちていたなぞと、褒めておられようか!
 諸子はたくさんの書を記したが、今日まで残ったものは少ない。この他にも、恵施、宋(金+開の中)、慎到、申不害等。今ではもう彼らの書は見られない。
多くは別の書に引用された一二句があるのみ。
 ある書は。秦の時代に焼き尽くされず、<漢書、芸文志>に彼らの著作目録が残っている。しかし、書そのものは、後に後漢末の董卓に焼かれてしまった。
それで、上述の書は、今日まで伝わることができなくなった。
 上古の書を大がかりに焼いたのは三回。1回目は秦で政治目的、2回目は項羽、3回目は董卓。後にも、各朝各代に大小の戦乱で、みな書を焼いた。
4. 経書、子書以外の戦国古書
 経書、子書以外の戦国古書には、古代史研究にたいへん価値あるものがまだ他にある。
 (1)<竹書紀年>
 <竹書紀年>は本来すでに失われ、司馬遷すら見ていないが、梁襄王の墳に埋葬されていた。この墳に多くの書が埋葬されていて、車数台分の筒があった。
西晋の司馬炎のとき、河南の汲県の墓荒らしに発見された。政府はこれを知るや、ただちに墓の中のすべての筒を収集し、人を選んで考証させた。当時、書はたいへん多かった。後に五胡十六国の乱で多くが散逸したが、書は無くなったわけではなく、唐代まで存在した。唐代の読書人はこれを読んで喜んだ。そして引用した。宋になり、南に遷ってから又失われた。明になってまた収集されたが、自分の文章も付け加えた。それで、書中のあるものは真実のものではなく、名も<今本竹書紀年>とされた。其の中には本物も偽物もある。清の咸豊年間に朱右曾が、新たに編集し、民国初年に王国維が再度編集し、<古本竹書紀年>と名づけた。ただし、この書も甚だ不完全。それにしても、古史研究には大いに役立っている。この書の依拠するところは三つ。一つは伝説。西周以前のことは、実際はすべて伝説で、歴史的文字資料がないためである。この部分は、余り価値は無い。二つ目は春秋時代の部分。しかし、<春秋>と言う書があるため、価値はさほどでもない。三つ目は戦国部分。当時の紀年を記しているので、価値は大きく、<春秋>と同じである。この書は、なお司馬遷の<史記>の戦国時代の史事の誤りを糾正できる。
 (2)<穆天子伝>
 穆天子とは周穆王を指す。これは西周の歴史小説だ。およそ、歴史小説と言うものは、書中の人と事はすべて真実である。しかし、いささかの部分は嘘で、
一般に70%は真実といえる。この書も梁襄王の墳墓に埋葬されていたのが、発見された。
 <左伝>に云う。“昔穆王はその心の欲するままに、あまねく天下に行き、
必ず車轍や馬跡を残した。“これは穆王が八頭立ての馬車で天下を経巡った、といっている。西周の天下は、陝西、河南、山東、河北の一部にすぎず、主に渭水流域で、疆域はひろくなかった。戦国になって、各国の疆域は拡大した。
<穆天子伝>という小説で、穆王は西北に向かって去り、シベリア、中央アジアに到るまで三万余里と。実は本当かどうか疑問である。しかし戦国時代の人の地理の知識が大変豊富で、広かったことを示している。それは遠くシベリアや中央アジアまで記すことができたことで分かる。
 西王母の伝説は、歴史小説に見られる。穆王と西王母が会って、賦や詩を交わし、その後、酒を飲み、恋人の如き関係になる。西王母は一つの国家かもしれない。名前に母と言う字があるので、後の人が女性だといいだした。唐の詩人が詩にいう。“八駿馬で三万里も行き、穆王は何事がおこって戻らなくなったのか。”この詩は西王母が発したことばを代替している。
 <穆天子伝>という古代の小説は今もあり、内容はすべて本当のものだ。中には戦国時代の古い字が大変多い。西晋になると、人々はこれらの字を読めなくなっていた。
 漢の人は、古書の整理に功績がある。しかし、<竹書紀年>と<穆天子伝>の二冊は、整理はおろか、見ることすらできなかった。西晋になって発見された戦国古書であるから。
 漢の人が見て、今日まで伝わっている戦国古書は次の6冊。
 (3)<国語>
<国語>は左丘明の作。八カ国に分け、夫々の史事を記している。周、魯、斉、
晋、鄭(河南)楚、呉、越の八カ国。編年体ではなく、大きな事象のみ記すが、
年代はない。ただ、事がらと人間の話だけである。各国の王の参謀のために、
説いた話である。中にはいくつかの史事もある。主たる目的が、事を記すにあらず、いかにして彼の話を信じさせるかにあるので、史実の材料は多くない。
 (5)<逸周書>
<逸周書>は周の正史ではないという意。戦国の人が西周に代わって書いた史。
 書の内容は、文王、武王が商を討った話。多くが想像の産物で、根拠があるのは、ほんの少しのみ。戦国の人が記したものゆえ、読むべきものがいくらかはある。この書は現在整理中。(校訂者注;これは沈延国の<逸周書集釈>で、
1965年時点のこと)
 (6)<世本>
<世本>は古代史を系統的に記す。遠い昔より戦国時代まで。代々の史官が記したもの。各国の都、世系(王、諸侯、大夫)と器物の製作を含む。この書は失われたので、今復活させようとしているが、容易なことではない。残っているものが極めて少ないから。唐の司馬貞の<史記索隠>はみなこの書に依拠している。このことから、唐代以降に<世本>は散逸したとみられる。現在あるのは<世本八種>一冊のみ。
 <史記>が主に依拠しているのは<国語><戦国策>で、特に<世本><春秋><左伝><尚書>である。そのころ<左伝>は一般の人は見ることができなかった。一屋の筒は十八万字あり、漢代の人は知識が少なかった。たとえ銭があっても、書を写すのは大変だったし、書を見るというのは容易でなかった。
一般の人には書は大変少なく、皇室にしか多くの書はなかった。
 (7)<山海経>
<山海経>は戦国時代に巫術を行ったひとが記した。中国地理の最古の書で、中国で最初の地理書である。<山経>と<海経>の二部に分かれる。
一.<山経>は<南山経><西山経><北山経><東山経><中山経>の五経に分かれる。
 <中山経>は湖南、湖北、四川のこと。これは楚の巫人が記した。山名、産物、鬼について記しており、人は鬼をみたら、どんな良いこと、或いは悪いことがあるか、どんな草木が病に効くかなどを記す。
 <東山経>の東は山東と南の広東、福建を指す。この部分は最もいい加減だ。
 <中山経><北山経><西山経>に記された山は比較的くわしい。
 二.<海経>は二つに分かれ、八部ある。
  甲.海内;海内は南、西、北、東の四部。
  乙.海外;海外も南,西、北、東の四部。
 当時台地は四角で、東南西北はすべて海で、山経は中にあり、海内は山の外にあり、海外は海内のさらに外にあった。<海経>は海のことを記しているが、
主に各国の事を述べている。<鏡花縁>は<海経>の各国を抄録しており、1.
貫胸国;その国の人の胸腔には洞がありと。2無腸国 3.大人国 4小人国 5.長股国 6.一臂国 7.女児国など、計百余国あり、そのうち、いくつかは本当にあった。戦国のころ、すでに海外との交通があり、アジアの若干の国に行ったし、外国にも行けた。そしてこの中で、インドについて“天毒”と記している。“天毒‘は天笠と読む。このほか、朝鮮や倭のことにも触れている.倭とは日本のこと。日本は古い国である。<海経>はたいへん荒唐なものだが、少なからざる部分は読むに耐える。
    この書で最も価値があるのは、古代神話を保存していることだ。儒家の書は、
全く神話がない。例えば、“精衛”と言う神話は、この書にある。炎帝の女児、
名は精衛,東海に到り、そこで死ぬ。彼女は海を恨み、木石を銜え、東海を填  
めんとす。永遠に填めんとす。
 又、“誇父逐日”の神話。誇父という人が、太陽を追い、追いつけず、鄭国に到って渇えて死んでしまう。彼は大地に倒れてしまうが、身は樹林となった話。
 又、羿が日を射る。羿は神で、当時十個の太陽があり、炎熱地獄であった。羿は九個の太陽を射落とし、一つだけが残った。(校訂者注;この故事は今本の
<山海経>にはない。<荘子、秋水>、成玄英の<山海経>疏引に見える)
 更に、禹が洪水を治す話。大禹が、たくさんの怪物を殺してやっと洪水を治めた、と。<中国古代神話>に<山海経>の中の神話を専門に編集している。
 <山海経>にはたくさんの古代伝説の神話がある。儒家は神話の中の人物を、歴史人物に改造した。もし<山海経>がなければ、儒家のウソを見つけることは,容易ではない。例えば、夔は神話では一本足だ。黄帝が彼を殺し、その皮で鼓を作ったら、とてもよく響き、五百里先まで聞こえた、と。これは神話だ。
儒家はこれを変えた。孔子は言う。舜は夔(き)を臣とし、音楽を司らせたら、大変うまく行った。舜は大そう喜び、夔のような人が一人おれば足りる、といった、と。これは<山海経>では夔は野獣で、殺して鼓にしたら、とてもよく響いたということが分かる。
 それゆえ、<山海経>の価値は、古い神話を保存しており、儒家が如何にして神話を歴史に改造したかを反証できることにある。過去。人々は<山海経>をデタラメとみなし、ほとんど失われかけた。

  12月23日。この日、外は寒風吹きすさび、私は暖かい顧老の部屋で、
精神集中して、老先生の中国上古史の話を聞き漏らすまいと、一生懸命であった。先生は微笑み、眼光おだやかで、少し呉音のまじった普通語で、智恵のことばを語った。古史、古事、古人の話、史書、古経、更には物語、神話、寓話、そして古文字、古詩まで傍証博引され、人をして賛嘆やまざる程の独自の考証をされた。これは私にとって、史壇の堂屋に導いてくれる大変な幸運であった。聞くのは私一人だから、特別の責任感をもって、一字一句記録した。

 (8)<楚辞>
 <楚辞>は戦国時代の文学書だ。まず<離騒>は明らかに屈原の作品だ。しかし、その他のものは、作者はわからない。例えば<九歌>は楚のひとが、神を祭るときに歌った歌だ。このことから宗教信仰がわかる。
 第一の歌は<東皇太一>。”東‘は東から出た。“太一”は最高の意。これは、
楚の上帝は太陽神だという意。
 第二は<雲中君>、即ち雲の神。
 第三は<湘君>、湘水の神。湘夫人は湘君の夫人。後になって、人はこの二人を舜の妃と間違え、一人を娥皇、もう一人を女英と名づけた。舜は南方に行って、帰ってこなかった。それで二人の夫人は南方に彼を尋ね、亡くなってしまった。洞庭湖のなかの君山に舜の二人の妃の墓がある。後に南方の人は、娥皇と女英を間違って、湘君、湘夫人としてしまった。
 戦国時代の物語がある。宋玉の<高唐賦>。高唐とは陽台のある場所。楚の懐王は陽台で夢を見た。夢に巫山の神女が現れ、雲が雨となった。神女が言う。
“私はしばらく行雲となり、暮には行雨となりましょう。”と。
 <九歌>には更に:
 <大司命>は寿夭を司る神。大司命とは正司命のこと。
 <少司命>は副司命で、嗣子と児童の命運を司る神。
 <河伯>は楚の人が黄河を祭る神。楚国の人は当初、もともとは魏の地域(
河南北部、河北南部)にいて、周公の東征で南に追われた。ただ、その後も、彼らは黄河を祭った。楚の人は夏人、即ち中華の直系の可能性が高い。
 <山鬼>楚の山神。
 <国殤> 楚の神。
 祭祀のときは、巫者が祀った。男の巫が女神を祭り、女の巫が男神を祭った。
当時の巫女は妓女と同じで、祭りに行き、神に向かって之と交わった。当時、人は神と交合できると考えていた。当時の神は性欲があり、人間と同じように
食べ、謡ったりした。今日の神とは異なる。
 <天問>は屈原が楚王廟で壁画を見、それがすべて古史であったので、それを天に問うた。それで、その中にたくさんの神話が保存された。例えば、洪水を治めた鯀は、上帝に殺され、黄龍に変じて水中に入っていった。それで後に、
大禹が龍とともに治水を計画したという物語ができた。インドでは龍は悪者で、
毒龍と呼んだ。中国の龍は,大海にも、大陸にも、長空にもどこでも活動できたので、人々はもっとも崇拝した。更にもう一つの神話がある。王亥は湯王の祖先で、商の酋長であった。彼は放牧しながら、河北の“有易国”に来た。その国君は、初めの頃は、もてなしてくれたが、あとで殺されてしまった。王亥の子、名、上甲微は、父の仇討ちでその国君を殺した。司馬遷は、商がかつて河北にまで到ったことを意に介さなかったので、<史記>にはこのことに触れていない。現在、甲骨文の記述から王亥は、商の大祖だとわかる。商の人は、かつて三百頭の牛を屠って、彼を祭った、とある。この人物が大変な男だとわかる。楚の人は元来、黄河地方にいたので、その人物,そのことを知っているわけだ。<天問>には更に、夏、商、周の物語もある。
 <楚辞>と<山海経>は同等の価値があり、二つとも神話を記している。実際、古人は神話を信じた。古史の一部は神話から来ている。
 戦国時代から今日に伝わった八部の書で、経とされずに今に伝わったものは、
以上の通りである。
 
目次 三の中国史書以降は、勉強のために訳しましたが、既に出版されているので割愛します。          2009年春 大連にて 山口 善一 






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