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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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声なき中国

声なき中国 1927年2月16日香港青年会の講演
 私のつまらぬ講演に、こんな大雨の中、大勢の諸君が来てくれたことに対して心から感謝します。
 これから話すのは「声なき中国」です。
 今、浙江、陝西で戦争中で、彼の地の人々は泣いているか笑っているか、我々は知りません。香港は大変平和のようで、当地の中国人は気持ちよく暮らしているかどうか、よその人はわかりません。
 自分の意見を発表し、感情を皆さんに知ってもらうには文章を使い、文章で気持ちを伝達するのですが、一般的中国人はまだそれができません。それもそのはずで、それは文字のせいです。我々の祖先が残してくれたおそろしい遺産のせいです。長い時間をかけて勉強しても、使うのが難しい。難しいから多くの人は放り出し、自分の姓が張なのか章なのかもはっきりせず、或いは全く書けず、Changと声に出すだけ。話すことはできても、何人かに聞こえるだけで、遠くの人には聞こえないから、結果として無声に等しい。その一方、難しいから一部の人に宝のごとく、手品のように、之乎者也(なりけりあらんや)などと、聞いても少数にしか分からぬことを言い――実はほんとに分かっているかどうか、あやしいものだが。大多数はちんぷんかんぷん。結果は無声に等しい。
 文明人と野蛮人の違いは、一つに文明人は文字を持ち、自分の考え感情を皆に伝え、将来に残すことができること。中国は文字を持っているが、今人々と関係が無くなり、分かり難い古文を使い、話す中身も陳腐な古い考えで、互いに理解できず、正に大きな皿にまいたばらばらの砂のようだ。
 文章を骨董のように扱い、人が理解できぬ方が、できるより良いと考えるのは、あるいは趣のあることかもしれません。が、結果はどうか? 我々はすでに自分の言いたいことも言えなくなってしまった。損害と侮辱を受けても言うべきことも言えなくなっています。最近の話をすると、日清戦争、義和団事件、民国元年の革命という大事件を例にとっても、今日まで一冊としてまともなものが書かれただろうか?民国以来誰も声を出していない。国外では逆に中国のことを説いているが、すべて中国人の声ではない。よその人の声だ。
この言いたいことを言えないという問題は、明代でもこんなにひどくはなかっ
た:彼らは結構言いたいことを言えた。満州人が異民族として侵入してきてか
ら、歴史、とりわけ宋末の(異民族への抵抗に関する)ことに触れると殺され、
時事を語っても殺された。それで乾隆年間には人々はものをあまり書かなくな
った。所謂読書人は身をひそめて(儒教の)経文を読み、古書を校訂し、古い
文章、当時の問題とは関係ないものを書いた。新しい意見を出すのもダメで、
韓愈を学ぶのでなければ、蘇軾を学んだ。韓愈蘇軾は自分の文章でその当時の
自分の言いたいことを書くことができた。我々は唐宋の時代の人間ではないの
に、どうして我々と関係のない時代の文章を書くのだろう。仮にそれらしきも
のを書けたとしても、それは唐宋時代の声であり、韓愈蘇軾の声で、我々現代
の声ではない。しかるに今まで中国人はこのような古いやりかたを続けてきて
いる。人間はいるが声はない。とても寂漠としている。
――人間は声なしでいられるか?声がないなら死んだといえよう。もう少し
遠慮して言えば、オシになったということ。
 長い間声のなかった中国を立ち直らせるのは容易なことではない。死んでし
まった人に対して「生き返れ!」と命じるようなものだ。私は宗教は分からぬ
が、まさに宗教上の所謂「奇跡」の出現を願望するのと同じだ。
 最初この仕事に挑戦したのは「五四運動」の1年前。胡適之氏の提唱した
「文学革命」。「革命」の2字はここでは恐がられているかどうか知りませんが、
ある地方では聞いただけでも恐がられているが、これと文学がくっついた場合
は、フランス革命の「革命」のような恐さはなく、革新にすぎないから、1字
換えれば穏やかだから「文学革新」と呼びましょう。中国の文字はこのような
文章のあやは大変多い。この趣旨もまったく恐ろしいものではなく、我々はも
う古代の死んだ人の言葉を学ぶような不要の神経を使うことなく、現代の生き
ている人の言葉を使おう。文章を骨董品みたいにしないで、分かりやすい口語
文で書こうというに過ぎぬ。しかし単なる文学革新だけでは不十分で、考えが
陳腐なのは古文でも口語文でも書けるからです。それで後には思想の革新を提
唱する人が出た。思想革新の結果、社会革新運動が起こった。これが起こると、
当然ながら、一方で反動も起こり、戦闘が醸成され…。
 ただ、中国では文学革新が提起されたばかりなのに、すぐ反動が起こった。
しかし口語文は大きな障害を受けずに徐々に広まっていった。どうしてか?
当時銭玄同氏が漢字廃止を提唱し、ローマ字化を唱えた。これは元来文字革新
に過ぎぬが、当然ながら改革を喜ばぬ人たちは大騒ぎを起こした。そこで比較
的穏やかな文学革命の方はひとまず置いておいて、全力をあげて銭玄同をたた
いた。口語はこの機に乗じ急に多くの敵を減らせ、阻止するものもなく普及に
向かった。
 中国人の性情は調和と折衷を好む。例えば、部屋がとても暗いから窓を作ろ
うと提案すると、多くの人が反対する。そこで屋根を壊そうというと、調和し
てきて、窓にしようという。より過激な主張が無いと、穏やかな改革にも肯ん
じない。当時口語文がうまくいったのは漢字廃止、ローマ字化議論のおかげだ。
 実は文語と口語の優劣の議論は元々過去の遺物で、中国はさっさと解決する
のを肯んじず、今でも意味のない議論をしている。ある人は言う:古文でなら
各省の人はみな分かるが、口語では各地で違うから通じない、と。これは教育
が普及し交通が発達すればすぐに良くなるのを知らないためで、当時の人は皆
口語が分かりやすいことを知っていた。古文は各省の人が理解できるなどどう
して言えようか。一省の中でも分かる人はほんのわずかだ。
 ある人は言う:もしすべて口語にしたら、古文を読めなくなり、中国文化の
滅亡だ、と。現代の人は古書を読む必要もないし、古書に本当に良いものが
あるなら、口語訳すればいいから心配ない。彼らの一部はさらに言う:外国人
が中国の本を訳していることから、それが良いものという証で、なぜ我々は
それを読まぬのか?それはエジプトの古書も外国に訳され、アフリカ黒人の
神話も訳されているが、彼らは別の目的があり、たとえ訳されたからと言って
何の光栄なことがあろうか。
 近頃また別の説が出:思想の革新が緊要で文字改革はその次:簡明な文語で
新しい思想を表現して、反対する人を減らすのが得策だ、と。それも道理が
あるようにみえるが、私は長い爪すら切らない人は、決して辮髪を切るような
ことはしない、と知っている。
 古代の言葉を使うから、話す方も聞く方も互いに理解できず、大皿にまき散
らした砂の如く、互いの痛痒も感じない。我々は生きてゆこうとしているので、
まず青年たちが孔子孟子や韓愈柳宗元たちの言葉を使わないようにすべきです。
時代が違えば、情勢も異なり、昔の孔子時代の香港はこんな風ではなかったし、
孔子の口調で「香港論」は書きようもないが、「吁嗟(ああ)盛んなるかな香港」
と言ってみても笑い話に過ぎません。
 我々は現代の自分の言葉で話し、生きた口語で自分の考えと感情をそのまま
話す。ただし、これも先輩のそしりや笑いを受ける。口語は下品で価値なし。
また若い人の作品は幼稚だと識者に笑われる。だが我々中国に文語文を書ける
人はどれほどいるか。大多数は口語を話せるのみ。まさこんなに大勢の中国人
のすべてが下品で価値なしだろうか?幼稚はなにも恥じることは無い。子供が
老人に対して恥じることのないのと同じで、幼稚は成長し成熟する。衰老腐敗
せねば良い。もし成熟してから始めろというなら、村の婦人でもそんなことは
しない。子供が歩き始めてすぐ転ぶが、決してベッドに寝かせたまま、歩ける
ようになってから地面に下ろすようなことはしない。
 青年はまずこの中国を声のある国に変えることができる。大胆に話し、勇敢
に進み、一切の利害を忘れ、古人を推しどけて、自分の真心の言葉で話す。
――真、ということは容易なことではない。態度一つとっても真になるのは、
容易なことではない。講演する時の私の態度は真の態度とは言えぬ。私が友人
や子供と話すときの態度とは違う。――ただ、比較的真に近い。真に近い声で
話せる。真の声が出せてはじめて中国の人と世界の人を感動させられる。真の
声が出せてはじめて世界の人と、この世界で暮らせる。
 我々は今、声のない民族がどれほどいるか考えてみよう。エジプト人の声は
聞こえるか。安南人のは、朝鮮の声は?インドはタゴール以外に他の声は
ありますか?
 今から我々には二つの道しかない。一つは古文を抱いて死滅。もうひとつは
古文を捨てて生き残ることです。
  ( 香港での日時未詳。27年3月23日の漢口の新聞に転載されたもの)

訳者雑感:
 魯迅は声なき民族、過去は偉大な文明を持っていたがその後異民族に支配
され、めちゃくちゃにされたという例にエジプトをしばしば引用する。
 シャンポリオンがロゼッタストーンを解読するまで、ヒエログリフは当の
エジプト人すら読めもしなくなっていた。
 楕円形のカルトューシュに書かれているのがクレオパトラだということすら
誰も分からなかった。漢字はヒエログリフほどではないが、識字率の低い中国
では、自分の姓すら書けぬ人がほとんどであった。阿Qも偉そうなことを言っ
ていたが、自分に下された死刑判決への署名を求められて、いかんともできず、
筆で丸を描いたのみ。しかも丸くは書けなかったことを悔やんでいた。
 魯迅が「声なき中国」で聞いたことのなかったエジプト人が、チュニジアに端
を発したブログの発する声で、ムバラク政権を倒すまでになった。中国は今、
膨大な量のブログが発せられておるから、「声ある中国」に変じつつある。
しかしその声はまだまだ厳格な管理の下に置かれ、真の言葉は封じられている。
      2011/04/22訳







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