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魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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中国史学入門 その3 民族史概要

中国史学入門 その3 民族史概要
一、中国民族史概要

 今日12月15日、顧老は顔色もよく、腰もしっかりし、精神煥発である。私の質問に興が湧き起こったように、中華民族の源流を語りだした。彼の思考は異常なほど明晰で、理路整然とし、論理はしっかりしていた。中華民族の歴史を語りだすと、愛情があふれてくるようで、高論が滔滔と絶えなかった。彼の北京語は少し蘇州なまりがあったが、おもむろに語りだした。
1. 二つの誤った観念を打破する
 人々は、中華民族のオリジンについて、二つの誤った観念を持っている。これを打破せねばならない。
 第一の誤りは、中華民族は三皇五帝以来ずっと統一されてきたという観念。それを封建帝王が代々受け継いできたというもの。実はそうではない。三皇五帝は多くの民族の悠久の遠い昔の別々の神で、後世の人がこれらの神を、つなぎ合わせて、多くの民族の共同の神とし、‘三皇’‘五帝’と称したのだ。古人は自分たちのことを、‘三皇’‘五帝’の子孫と称し、黄帝の子孫だという。本当は違う。この言い方は、覆されることの無いほど頑丈に定着してきたが、たとえ如何なる科学的な民族史であろうとも、これを研究実証する方法は無い。
 第二の誤りは、中華民族は広大な世界の中央にいて、その他の少数民族は、その周辺にいて、東方の民族は夷といい、西は戎、南は蛮、北は狄と呼んだ。実際はそうではない。ずっと古い時代には、夷人、狄人は中国の各地にいた。夷、狄、戎、蛮は、ある特定の地域にいたわけではない。
 今日、我々は‘北京人’山西の‘丁村人’広西の‘柳江人’がいたことを知っている。すべて新たに発見された50万年前から4,5万年前の古人である。これら古人は今日の中華民族とどんな関係があるのか、まだ分からない。はっきりした研究も無い。今日の中華人の歴史は、4千年にすぎない。人類の歴史は気の遠くなるほど長い。しかし、文字で記録された歴史は数千年にすぎない。考古では1万年前まで遡る。地質学は数百万年前まで遡る。人類史がいつから始まったのか、本当のところはよく分からない。現在、文字に書かれたもの、また文物の証左のある歴史は、とても短い。
2.中華民族の形成、成長と発展
(1) 商
  古い中華民族の歴史で、文字資料のあるのは、商代の甲骨文に始まるが、3-4千年に過ぎない。商の人は中華民族である。その東には鳥夷人がいた。鳥夷人は鳥をトーテムにしていた。鳳鳥氏、玄鳥氏、と爽鳩氏はみな鳥夷である。鳥夷人の居住地は広大であった。山東を中心に、最北は東北地方、南方は江蘇、西は河南まで。これらは全て考古的根拠がある。鳥族の文化は黒陶文化である。黒陶は山東、河南、東北、江蘇に多く発見される。黒陶の特徴は薄く、表面に鳥の頭があることだ。これらは近年発見された。
 商の西には羌人がいた。羌人は陝西、甘粛一帯にいた。
 商の人は河南、河北にいた。他の部族との比較で言えば、当時からすでに広大な地域にいた。商の南は越だが、甲骨文字に越の資料が無いのは、商と越の往来が少なかったためである。当時、商と南方、北方の関係は少なく、東と西との関係は多かった。
 商の北は夷である。夷人は沿海にいた。彼らの北には狄がいたが、関係は少なかった。商代の中華民族はこんなところだ。
(2) 周、秦
商の後は周。周は羌族で、羌族は二つに分かれる。姫姓と羌姓である。二つとも渭水流域と陝西一帯に起こった。姫姓と羌姓は婚姻関係を結び、羊家の男は羌となり、女は姜となった。二つとも羊をトーテムとしていた。
周人は後に南と東に拡がった。南に向かったのは太伯で、潅水沿いに東南に発展し、湖北、江西、江蘇に呉を建てた。言うまでも無く、太伯一人じゃなく、一回の移動で達した所から、何回も移動し、徐々に形成されてゆき、呉も周に統治された。そこには、もともと越人が住んでいた。
  それ以外に、周人は東南に進展し、山西に到り、更に東へ河南に到った。そこで周人は商の人と衝突し、争いとなった。その結果、商は滅び周の地域は広がった。周の武王の時代、河南、陝西、山西の三省に広がり、大変広大な地域を押さえた。武王の死後、彼の子や甥が叛乱した。その結果、周公の東征となった。叛乱平定を大儀とし、実際に大いに領域を広げ、河北、山東も併呑した。ここらは元来、鳥夷の居留地で、彼らは周辺に追いやられた。一部は留まったが、多くは南に逃れ、或いは西へ、そして北にも分散した。それで、周公の東征地域はいよいよ拡大し、鳥夷人の分散もより広まった。
 後の秦人は姓を嬴といい、鳥夷の一族で、周公が彼らを西に追い出したもの。後の越も鳥夷で、嬴姓である。犬戒が周を滅ぼし、東の鳥夷人で嬴姓の者が東から西に遷った。要するに、東と西の各族が混合したのだ。秦代になると、東の各族は西から来た秦人に支配された。
 狄、すなわち犬戒は犬をトーテムとした。商の時代に既にいた。周になると犬戒と接近し、狄は西北地域で勢力をのばし、領域は非常に大きくなった。西部の者は陝北に、北部の者は山西、河北に進出し、内蒙古は全て狄人で、戦国時代以降は匈奴となった。歴史上の匈奴は、狄人から起こった。
 春秋時代に狄人は、白狄と赤狄に分かれ、旗の色で分けた。赤狄は陝西、山西、河北一帯を占めた。白狄は河北の定県にいた。晋人が山西と河北の白狄と赤狄を滅ぼした。そこで狄は更に北に逃げた。戦国時代から秦、漢にかけ、狄人はすべて長城以北に去った。秦、晋、燕は長城を築いた。戦国時代、晋が滅ぶと、趙、秦、燕はすべて長城を築いたが、狄人の攻撃から守るためであった。
 秦漢以後、匈奴の勢力が拡大し、中原より広大な地域を支配し、蒙古と新疆を占有した。匈奴は騎馬射葥を善くし、戦に強かった。秦は蒙恬将軍を派して、防御に当たらせた。だが、結局肥沃な河套地域を奪われ、漢の武帝の時にやっと奪回できた。秦漢時代、北は長城で匈奴の馬を防ぎ、南は越の地を開拓した。西周時代、呉太伯は越に達していたが、この時代になって、南海郡と桂林郡(広東、広西)に至り、更に閩中郡(福建)と象郡(ベトナム)に到った。 ベトナムの越人は、古くは浙江の越人と同じ。浙江には瓯人がおり、東瓯人は温州に、西瓯人は広西にいた。
 南の越人は船で南に向かったが、これは大変便利だった。北の匈奴が馬を使ったように、はるか遠くまで達することができた。越人は背が低く、薄黒い肌で、そのため、ある人はマレー族と称した。体格がマレー人と同じだからというが、この種族は中原人かもしれない。更に南に向かって、東南アジアにまで及んだ。ちょうど匈奴がシベリアに達したように。従って、古代中華人は三つに分かれる。
1.中間地域には、中華先人がいて、東西の人たちが混合したもの。
2.北部地域は匈奴で、北に向かって発展した。
3.南部地区は越人。
 次のようにまとめることができる。アジア(訳者注;東アジア)は、はるか昔に、三つの部族が共同開発したものだ、といえよう。古代日本、古代朝鮮は鳥夷人の可能性がある。鳥夷人は、自ら先祖は鳥の卵から生まれたという。朝鮮には今も多くの根拠が残っている。
 商から周、そして秦になると、多くの民族を併合し始め、漢代以降になって、中華民族と呼ぶようになったが、その中には多くの少数民族を含んでいた。例えば、貴州の夜郎族、雲南の滇国はみな合併したものだ。夜郎国は漢の武帝以前は、独立していたが、武帝のとき、併合した。“夜郎自大”とは、漢の使者が来たとき、国王が、漢と夜郎国は、どちらが大きいか?と聞いたという典故から来ている。天の高さ、地の厚さを知らぬものを指し、自らを知らぬ尊大なものを“夜郎自大”というようになった。その実、かの地はそんなに大きくはない。
1. 周公は鳥夷を併合し、東に向かって海に到った。
2. 秦の始皇帝は南の越を併合し、福建、広東、広西に到った。
3. 漢の武帝は雲南、貴州に勢力を広げた。
 四川は戦国時代、秦が開発し、巴の重慶と蜀の成都からなり、始皇帝の中国統一を可能にしたのは、この四川開拓と大いに関係がある。米の豊富な巴蜀を取った後、三大地域を領有し、東方を攻め獲ることができた。東方の諸国は四川を攻められなかった。
 内地に少数民族はたくさんいた。蛮というが、非常に多くに分かれていた。蛮の開発の功は楚にある。楚、もとは東方人であり、鳥夷に大変近い。楚人は芊という姓を名乗った。羊をトーテムとし、河南東部にいたが、周公に一撃され、漢水流域から湖北一帯に遷り、荊山に到って、周公の力が及ばなくなって以後、大いに発展した。次いで南方の多くの少数民族を併合し、安徽、湖北、湖南、江西の諸地域を取った。楚は兵を雲南に進めたが、成功しなかった。しかし、南蛮の大部分は楚に同化させられた。
 戦国時、越は呉を滅ぼしたが、楚は越を滅ぼした。それで、楚は春秋戦国時代に、領域は最大で、周囲五千里を有した。次が秦。当時、多くの人は楚が全国統一を果たすと考えていた。しかし、楚は秦に滅ぼされた。
 春秋時代、斉、晋、秦、楚の四つの大国があった。斉は山東の大半(東北部)と河北の南部を占め、晋は山西の全部と河北の西部で、晋はもと山西の西部にいたが、北に発展し、雁門関以南一帯に達した。秦は最初、甘粛の東部―清水県にいた。後に、陝西中部に拡大し、更に陝北、陝南に広がり、甘粛の西部を加えた。戦国年間に秦は四川に拡張した。始皇帝時代に、福建と両広に到り、この時の版図は現在のものとほぼ同じになった。
 燕は大変興味深いものがあり、もとは小さかったが、戦国時代に大きくなった。遼寧と蒙古東部に到った。燕の昭王は東北に発展し、熱河、遼寧に到った。この拡大で主に、朝鮮を攻撃した。元来、遼寧、熱河、河北、東北の一角にいた朝鮮人は、そのため現在の朝鮮に遷った。
 朝鮮人は大河を灤(ラン)と呼んでいた。灤の字は変音して“遼”に、また“凌”に変じたが、これは韓語音で、“河”という意味である。朝鮮人は東遷したが、一部は東北に留まり、これが原名称の高麗である。唐の太宗は高麗を打ち、今の鞍山一帯を攻めた。従って、話を戦国時代に戻すと、燕はとても大きな版図を持っていた。
 戦国は七国が大きく、斉、楚、燕、趙、秦、韓、魏の七雄である。韓国と魏国は各国にはさまれ、拡大することができなかった。韓は河南の中部と西部、魏は山西、河南と河北の一部で、この二国は最小であった。
 趙は北に発展した。山西の北部と河北の西部にいて、邯鄲に都を置いた。

(3) 漢
12月16日。香山療養院は香山公園にあり、山の麓の平地にある。四周は山で、香山に囲まれていた。12月、有名な紅葉は大半凋落し、わずかに紅い楓の葉が、枝の先に残っていた。人々は、美しい葉を捜し、本に挟んだりしていた。
 私は山間の小道を顧老と散歩しながら、知識を求め語り合った。ひと時も無駄にせず、大学者にこれはどうですか、あれは何ですか、と教えを請うた。顧老の学識は、五台の車に乗せるほど豊富で、体中、経綸で満ちていた。三皇五帝から盤古の天地開闢伝説まで、中華古族のひとつひとつの歴史を語るにあたり、彼はすべて自らの手で捩りだしてきた。言葉は滔滔として途切れることは無かった。老いても、記憶力の確かなことは、驚くばかりである。人を倦ましめず、彼にとっては平凡なテーマについても、忍耐強く細かに話してくれ、聞くものを感動させた。
 部屋に戻り、正式に始まったとき、彼は襟を正し、ぴんと背筋を伸ばし、両目は知慧に満ちた温和な光を発した。私は忽然と覚った。“深く掘り下げ、浅く表す”とは何を意味するか、を。彼の体中にある史学の知識の底の深さよ。広さよ。そして語るときのあの浅くて、身近で分かりやすさよ!これこそ、彼のことを指すのだと思った。
 今日もひき続き中華民族古史で、彼は家宝を披露するが如くに語りだした。
 
 漢の武帝の時、河西回廊に到り、新疆と朝鮮半島の中部と北部に拡大した。さらに貴州(夜郎国)と雲南を併せた。武帝の領土は大変広く、中華民族は成長拡大し、凡そ漢の領域に住むものは、みな漢人と呼んだ。実際、人の血統は非常に乱れた。漢人は単一の血統ではなく、多民族の混血したものである。
 漢の武帝は匈奴を破り、単于(王)の呼韓咸は、投降した。漢の宣帝のとき、匈奴は来朝した。元帝のとき、王昭君を呼韓咸に嫁がせた。この頃に、匈奴は投降し、漢に来襲しなくなった。
 この時、匈奴は南北に分かれた。南の匈奴は漢に投降し、一部は後に山西に到った。北に向かったのは北匈奴で、後漢中ごろに大将竇憲に敗れた。彼らは西に進展し、中央アジアに至り、更に西へ欧州に到った。現在のフィンランドとハンガリーは北匈奴の子孫である。
 これ以後、匈奴はいなくなった。南匈奴は漢化し、北匈奴は欧州人となった。
 
 (4)三国、両晋、南北朝
 三国時代に、中国は三分したが、これにも良い面があり、更に発展した。
 曹操は烏桓を破った。烏桓は鮮卑人。鮮卑人は元来シベリア人で、鮮卑というのはシベリアの音が変化したもの。彼らは熱河一帯を占領していたが、烏桓を内地に追い払った。曹操は烏桓を破り、東北に拡大していった。
 劉備の西蜀は南に拡大し雲南に到って、雲南と四川を一つにした。
 東呉は海上に発展し、朱勝駕を船に乗せ、海盗を掃滅し、台湾に上陸した。これが、中国が台湾と関係を持った初めだ。三世紀には呉が台湾に人を派遣し、占領した。ただ、呉が滅びたあと、台湾は誰も構わなくなった。
 呉は広東も開発し、名づけて広州と交州(広東の西部)とした。秦と漢の時代に、既に広東に入っていたが、たいして開発はしていなかった。三国時代にやっと同化した。
 晋が三国を統一した。但し非常に短かった。すぐ五胡十六国の乱が起こった。五胡が中華を乱した。一つは南匈奴で、山西地方で、さわぎを起こした。もう一つは羯で、南匈奴から分裂し、やはり山西で騒ぎを起こした。(山西には匈奴が多かった。);次は鮮卑人で(元はシベリア人)熱河地帯を。更には氐人が四川で戦乱を起こした。また羌人も甘粛、青海で乱を起こした。
 五胡はみな中原を取ろうとした。この十六国は黄河の北にいた。黄河以南は東晋に属し、南京を都とした。北朝の後魏は最強で、鮮卑人であった。大同に都を置いたが、後に黄河以南に発展し、洛陽に遷都した。
 北魏の孝文帝は、自民族をすべて漢化するように命じた。衣服も漢のもの、言語も文字も漢語、漢字とし、魏は完全に漢化した。姓も改め、拓抜を元とした。それ以降,二字姓を名のらず、一字の姓とした。同時に鮮卑族の一首領の吐谷渾は、部族を率いて青海に到り、遊牧に従事したが漢文を用い、自らの名字を族名とした。彼らはもともと東北にいたのだが、西北にたどりついた。
 (5)隋、唐、五代
 隋は南北朝を統一した。煬帝は一つ良いことをした。運河を連結し、南北の文化交流が容易になった。中国は古来、すべての川が東西に流れており、運河が開通し、連係が始まると、南北間を運行する河道ができ、南北の経済が大いに流通し、蘇州、杭州、揚州が商業の中心となった。運河は木材、食糧、塩、絹を南北間にきわめて便利に早く運ぶようになった。
 唐には太宗のとき領土が大きく拡大した。新疆は漢代には開発されていたが、郡県は置かれなかった。三十六国のままであった。唐代に郡県が置かれ、統治が強化され、開拓が進んだ。唐代には東北に安東都護府が置かれ、朝鮮を
治めた。新疆には安西都護府が、越南には安南都護府が置かれ、以後、越南は
安西と呼ばれた。内蒙古に安北都護府が置かれ、唐の威勢は最強を極めた。全世界からあらゆる人たちがやってきた。アラブ、ペルシア、東南アジアの人はすべて来た。唐の領域は漢に比べてずいぶん大きくなった。
 唐代にチベットと関係が始まった。チベット、即ち蔵(ツアン)はもともと羌(チャン)の支族で、本の名を発羌(ファチャン)と云い、蔵人は‘発’の字を‘撥’(ホー)と発音した。‘大’の字を‘吐’(トウ)と発音した。それで
‘吐番’と称した。‘番’の字は‘撥’(ホー)と読む。唐の太宗は、文成公主を蔵王に嫁し、多くの工匠を随行させ、多くの種を持たせた。吐番が工業農業を興すのを助けた。音楽家も伴い、音楽を伝えたので、ポタラ宮は今にいたるも唐楽を演奏する。これで、唐と西蔵は甥と舅の関係となり、この後チベットと中国は親誼を結んだ。
 唐代には外国人が多くやってきた。彼らが中国にきて最初に上陸するのは広州で、それで広州は繁栄し始めた。こんなことから、広東語には唐音が最も多い。広東人は自らを唐人と称した。華僑は海外で集まって住み、そこを唐人街と称した。
 唐の時代に開発した領域は過去最大となった。
 五代になると、もうだめになった。後梁、後唐、後晋、後漢、後周を五代という。漢人の朱温が唐を簒奪、後梁を建て沙陀人(新疆)の李存勛がそれを滅ぼし、後唐を建て、沙陀人、石敬瑭が契丹(熱河にあった)の助けを借りて、後唐を転覆し、後晋を建て、沙陀人、劉知遠は契丹が後晋を滅ぼすのに乗じ、後漢を建て、漢人、郭威はそれを倒して後周を建てた。この間五十三年に過ぎない。しいて言うなら、五代は何も破壊しなかったが、まさにデタラメであった。ただ、この時代、文化面で少しの進歩があり、古書を木刻して印刷した。馮道、彼は三朝の元老で、これは良いことをしてくれた。
 (6)宋、遼、金
 宋の領域は狭くなった。統一王朝の中で最小である。秦と漢に比べても、唐に比べても一番小さい。宋は東北を放棄し、河北の北部、即ち燕雲三十六州も放棄、すべて契丹人(熱河を元居住地とした)に与えた。宋の太祖は南方、大渡河以南の土地を、版図から切り取り大理国に譲った。
 宋は遼を最も恐れた。遼は契丹人の国で、このころ既に東北を占有していた。宋は毎年、金銀絹などを遼に贈らねばならなかった。それで契丹はますます強大となり、宋に対して常に戦をしかけた。それで、楊家将(訳者注;京劇で有名な将軍で、李陵の碑に頭をぶつけて自害する敗将、京劇では負けた方が主役の場合が多い、そして悪役すらも主役となる)の物語も、山西一帯で起こった。遼は前後約百年。宋と遼は常に戦い、宋が負け続けた。遼は大国となり、全東北を占有した。
 金が起こってきた。金人は満人の祖先で、吉林等にいた。金人は遼の圧迫が余りに過酷なので、反抗に立ち上がり遼を滅ぼした。即ちこれで、満人が鮮卑人を破ったという訳だ。金は次いで宋に攻め込んだ。徴宗のとき、皇帝はただ書画と玩楽を好むのみであった。それで宋は滅んでしまった。北宋は、初め開封にいたが、高宗は圧迫されて、南宋を建て杭州を都とした。宋と金は淮河と秦嶺を境とし、後には宋は金の臣と称した。金は百年もたずに終わった。
(7) 元
 ほどなくして、蒙古が起こった。成吉思汗は外蒙古にいた。人間は北にゆくほど勇ましくなるし、馬も北にゆくほど駿馬になる。蒙古はもともと小部落だったが成吉思汗の東戦西征の結果、大国となった。
成吉思汗は中国を攻めず、西の西夏、即ち寧夏を攻めた。ここには当時チベット人と羌人がいたが、あっという間に西夏を滅ぼした。更に中央アジアに攻め込み、ロシア、モスクワを制した。それまではロシアは統一されていなかったが、蒙古が攻め込んで統一された。
成吉思汗は四つの汗国、即ち王国を建てた。東北に一つ、蒙古に二つ、中央アジアに一つである。これが北氷洋以南(含むシベリア)、長城以北、東は朝鮮を除く東北、西は東欧までの広大な領土を、すべて彼の統轄下に置いた。
成吉思汗の孫、フビライが中国を倒した。北京に建都し、元と称した。先の四大汗国は彼の管轄外であった。彼はただ中国と東南ア(インドネシアを除く)、
インドシナ半島と朝鮮もすべて彼の領土とした。元の版図は実に巨大であった。
 元代は蒙古人を首に、色目人が第二(すべての外国人、ペルシア人、アラブ人、イタリー人など)で、漢人は第三に属し、南方人(淮河以南人)は第四列にされた。元の種族圧迫は甚だしく、漢人の反抗もまた、最も激しかった。八十余年後、漢人朱元璋が立ち上がり、元を滅ぼした。
 マルコポーロが中国に来て、欧亜大陸がつながった。総じて云えば、元の良いところは、一つには戯曲が発展したこと。二つには欧亜が通じたことである。
 (8)明
 明の国名は、明教から来ている。明教とはペルシアのマニ教である。朱元璋は元を蒙古に追い返した後、明を建てた。朱元璋の子、明の成祖は万里長城を再建した。それまでの長城は土造だったが、宋以後、煉瓦を使い出し、成祖は全て煉瓦にした。
 明の領土は元より小さい。朝鮮も、内蒙古も入っていない。長城の外は明の領土ではなかった。チベットは明の時代、烏思蔵(ウスツアン)と称し、烏思蔵都指揮使司を置いた。チベットのラマ教は、元代に漢人に伝わった。
 明代は新たな領土を開拓しなかった。十八の省のみだった。雲南には土司を置いて治めたが、安南、ミャンマーは進貢しただけだった。
 明代の移民活動は大変活発で、内地各省から雲南に大量の人が移った。それで雲南語は今でもよく通じる。明のもう一つの大きな成果は、鄭和太監の西洋遠征ある。まず南洋に向かった。南洋の島国はすべて訪問した。インドネシアの多くの地方を尋ねた。これが華僑への道を開いた。その後、広東福建の人が南洋に渡ることが更に多くなった。
 (9)清
 清の版図は大変大きく、元以後では清が最大である。清の時代は新疆が入った。新疆は、宋の時に放棄され、清が改めて開拓したので新疆と呼ばれた。康熙帝のときに開拓され、乾隆帝が命名した。
 清代にはチベットを開拓した。明以後、チベットは政教合一を実行し、ラマが政治を執り、王はいなかった。清代になってラマの活仏が死ぬ前に、最後に手を上げて、その指さす方向、はるか遠方にこの時に生まれた子を探し出し、抽選でどの子を活仏の後継にすべきか決める。しかし抽選する人は清人で、それで清は宗教権を握った。清朝は直接統治はせず、ラサに弁務大臣を置いて、政事を行った。チベットには廟があるのみで,王はいなかった。
 蒙古に対しても同様に、宗主権を得た。蒙古には王がいた。清朝は蒙古にも弁務大臣を二箇所に置いた。蒙古の盟族は政事を行ったが、清朝は旗内のことには口出ししなかった。
 清は懐柔政策をとり、常に公主を蒙古の王に嫁した。そして都統を置き、軍事を執り、一つは綏遠にもう一つはチャハルに置いた。この両区は清代にはいずれも蒙古の範囲であった。
 清は新疆に伊梨大臣を置いた。
 清人は金人で、彼らは自ら後金と称した。山海関に入る前、ヌルハチの子、清太宗のとき、清と改名した。清人は清明の二字を連想し、清は明の上にあるとした。
 満州は地名ではなく、仏教の尊号、“曼珠”で、これが変じて満州となった。清の統治は非常に巧妙であった。所管する臣民は漢人が第一、満人が第二、次が回族、更に蒙古、チベットと続く。漢、満、回、蒙、蔵(チベット)の五族。
満以外の各族の統治はすべて懐柔政策をとった。
 満人は統治者として官には簡単になれたが、商、農、工には従事できなかった。官給の食糧に頼るほか無かった。大臣になれば、自分の好きな土地を囲って、地主になれた。満人は山海関内に大量に入ってきたが、就労しなくても食べて行けると考えていた。しかし、後になると、官に就いているものはまだしも、一般の旗人は、生計を立てられず、非常に苦しい生活を強いられ、婦女子は妓女になるものが頗る多かった。
 清朝は漢人には科挙を採用、彼らの利益を保護した。不満分子は文字の獄で
捕らえた。康熙、雍正、乾隆三代に起きた文字の獄はきわめて多かった。経済的には満人はあまり関わらなかったが、政治的には大いに圧迫を加えた。
 蒙古、チベットに対しては、できる限りラマ教を提唱し、一家に二人の男子がいれば、一人はラマにさせた。その結果、蒙古チベットの人口は年々少なくなっていった。蒙古は百十万人にまで減少した。チベットは二百万に過ぎなくなった。
 回教は唐時代に始まり、アラブ人と共に伝わった。唐以前は仏教を信じていただけだった。回紇族は南北朝時代に増えたが、彼らは後のウイグルである。彼らはイスラム教を信じていたので、回教と名づけられた。アラブ人は最も早い時期に新疆に到来した。
突厥。唐代には突厥が強大な勢力を持ち、蒙古地帯を占有した。その後非常に早く変転し、東西に分かれた。一部はモンゴルに同化し、一部はウイグルに同化した。土耳其は、元は突厥で、外国人はかつて、新疆を土耳其斯坦(トルキスタン)と呼んでいた。新疆人の背の高さなど、西方人に似ているのは、突厥人の子孫の故である。彼らは西にはトルコを建てた。
匈奴は何族に属するか。論争がある。蒙古族という人もおり、突厥だという人もいる。蒙古族自体は一小部族にすぎない。彼らは成吉思汗以後、発展し、多くの民族を受け入れてきただけにすぎない。

顧老は歴史を語りだすと、話すにつれて興が増し、内容も濃くなってくる。先生は本を携えているわけではなく、要綱を見ながら話すのでもなかった。しかるに彼の話は、より広く、深く、細かく、かつ前後呼応して条理があり、大変ロジカルであった。私は平生、人の話を聞く機会が多いが、こんなに博識で、専門的で学問的な話を聞くのは始めてであった。大学者というのは、かくも厳密、精緻で、記憶もかくも明晰なものなのであろう。

3.各民族神話の祖先
 12月19日。香山は北京の西山のとても幽美で秀麗な丘陵である。ここにかつて、乾隆帝の行宮が置かれたことがある。山を巡って、青翠の松柏が地を覆っている。十二月、厳冬の季節、松林の碧緑に紅の楓の葉が映じて、この上ない美景を楽しませてくれる。
 我が療養仲間は。翠の松、楓の葉の間を抜けて、峰まで上ってゆく。私は知識にかつえ、顧老のお伴をして漫歩する。また仏教大師の趙朴初老詩人と、大画家呉作人のお供し、林の小径での話しを傾聴する。療養室に戻るとすぐノートにかかる。それで、日記風のノートが貴重な宝の蔵となる。顧老の史学の講談が最も多く、最も系統だっており、もっとも珍重かつ貴重な宝庫である。顧老の勉学精神は、青松の堅強な如く、彼の学術成果は極めて豊かで大きい。日記には、この日のことを、こう記している。
(1) 盤古
 盤古は南方諸民族の神話中の神で、斧で天地を開闢したと伝える。苗人の神話が、漢人に受け継がれたものだ。彼は一部族の祖先ではなく、すべての苗族と瑶族たちの祖先である。苗族の居住地には盤古の廟があり、祭日には必ず彼を祭る。各部族、各支族で、それぞれ毎年盤古を祭る。
 苗族と瑶族の人たちは、後漢以後南に向かった。彼らは元は湖南にいたが、
楚によって追い出された。苗族は現在も湖南の西部に住んでいる。およそ田植えのできるところは、すべて楚と其の後にやってきた漢に占有されてしまった。
(2) 三皇五帝の各種の説
盤古に次いで、三皇がいる。戦国時代の三皇は、天皇(テンコウ)、地皇、泰皇だった。これは秦代の説である。そのころ、人々は、地位は無く、三皇は神であった。漢になって変わった。三皇は天皇、地皇、人皇となった。
秦の始皇帝のとき、彼は自分の称号を皆に論議させた。皆は言う。古人曰く、三皇の中で、泰皇を最も貴んだ、と。秦王はそこで皇帝と称したいと云った。皇帝とは三皇五帝をつづめたものだ。それで尊称が決まり、始皇帝となった。
「楚辞」に、東皇、西皇を用いており、これは上帝の意である。道家の説では、天、地の上に道(どう)がある。道、即ち太一(たいいつ)である。秦皇を至尊とする。道家は、天地の先は混沌であると考えていた。この説は、盤古の天地開闢と天地の先、天地の上という説と統一化されてきている。
 漢代になると、天、地、人の三才となった。才とは材で、根本の意。すべてのことは一切、この三才に源を発しているとする。人は、天と地の間にある。この時、即ち漢代になってはじめて人がでてきた。これは人の力が非常に大きくなったことを示している。天と地を変えるほどの力を持つようになった。後に、天皇は、十二の頭、地皇は十一の頭、人皇は九つの頭を持つという説も現れた。これは二つの意味があり、一つは、天皇は十二個の頭を持ち、地皇は十一個の、人皇は九個のという説。もう一つは、少し理性的なもので、天皇は十二代続き、地皇は十一代、人皇は九代というもの。
つらつら思うに、歴史上、実際には三皇などというものはいない。三皇の説は、人が理性の上で、考え出したものに過ぎない。三皇の説は、清朝に至っても、何の変化も無かった。
五帝については、古代の三冊の書に、三種の説がある。
第一 <五帝徳>は<大戴礼>中の一篇。その説では:黄帝、顓項、帝告(栄の上冠をつける)堯、舜。これは司馬遷の<史記>に採用された。
第二 <易伝>では;庖羲(漁狩を代表)、神農、黄帝(社会制度を)堯、舜で、この説は少しく理性を加えた形。
第三 <月令>、<小戴礼>(<礼記>)の一篇で:太昊、炎帝、黄帝、小昊、顓項である。
 以上の説には、すべて黄帝がおり、第一と二には堯と舜がいる。
 <尚書>の<堯典>に、堯と舜に触れ、<帝典>とも称されている。後人は孔子の編纂した古史書を<尚書>といっている。これは古代の史官の記録だと。
孔子は黄帝を信ぜず、ただ堯舜以下の歴史について記した、と。かくして、孔子の後、三皇はくつがえされ、歴史は堯舜以降となった。近代になって康有為はそれも否定した。孔子は、堯舜の昔に託して制度改革をせんとしたが、実際には堯舜はいなかった、と。ここまで話すと、五行説との関連が出てくる。
五行相克説は戦国時代に始まった。漢になると五行説に発展した。
また、五行相生説というのは、下図の通りだ。

 上図が五行相生説。宇宙の万物を木火土金水に帰せしめた。



五行相克説は次の通り。 

 五行相克説はいくらかの科学性はあるようだ。科学の根源でもあるが、迷信の始まりでもある。占いはここに源を発す。漢以後、五行説をとったので迷信がはびこった。なんでもかでも五行にこじつけた。
 五行相生説以後、漢の<小戴礼>の<月令>に、皇帝以下、民百姓の月々にしなければならないことが書かれている。すべて事は五行の順序に従え、と。
 例えば、太昊(木、種)は春で、東にあり、炎帝(火)は夏で南に、黄帝(土)は土王が事を行う。季ごとに十八日、この間に一切のことを為せ、と。土は四季に分かれた。少昊(金)は秋で西に、顓項(王偏)は(水)、冬で北に、といった具合だ。黄帝は中央にいて、四時いつも居て、最高の位にいる。
 前漢時代、この説はたいへん盛んだった。およそ、死刑執行するのは秋と決められた。少昊のためで、金は秋に使われたから。当時、春生、夏長、秋殺、冬蔵と言った。
 前漢末に劉歆が出て、五行相生説をつかって、上述の五帝説と結び付けようとした。彼の説は;
 一.太昊伏羲氏  木
 ニ.炎帝神農氏  火
 三.黄帝軒轅氏  土
 四.少昊金天氏  金
 五.顓項高陽氏  水
以上が第一の五行。
 六.帝誉(中は告)高辛氏 木
 七.帝堯陶唐氏 火
 八.帝舜有虞氏 土
以上が第ニの五行。
 これすなわち、劉歆の説。彼はどうしたわけか、五帝を八帝にしてしまった。後漢の光武帝劉秀は、みずから上帝より赤伏符を受けたといった。これは火である。従って、漢は火徳である、云々と。曹丕は帝と称した後、年号を黄龍とし、みずからを土徳とした。この劉歆の説はのちのちまで伝わり、清朝にまで続いた。
 今日整理してみると、こうなるのであろう。
 伏羲氏;ある社会時代を示し、太昊は天神で人々が天神を拝むという寓意。
 神農氏;また別の社会時代。
 軒轅氏;これも別の時代で、車が作られ始めた。
 これらは文字史料の残っていない歴史で、根拠はなく、人々の推測による。
戦国時代になると、韓非子が出、彼は巣氏、燧氏の説もあると唱え始めた。これもみな推測で、社会を人格化したものだ。<尚書>の中の伝説には推測がある。
 中国人が火を使い始めて、4-50万年になる。はるか昔、たくさんの部落があり、それらを統一した皇帝はいなかった。
(3) 夏、商、周の伝説と歴史
現在の中国史では、夏、商、周の史料しかみることはできない。夏は周の文字史料にわずかに見られるが、夏の時代の器物の証拠は発見されていない。文字史料では商以前に、夏が存在したことは間違いない。夏以前のことは、何も言えない。
 夏の時代、王を后と称していた。夏の王に相という者がいた。また名を皋というものもいた。<左伝>にいう。‘崤に二陵あり、その南陵は夏后皋の墓也’と。崤は山名で函谷関の西、陝西東部にあり。
 周はみずからを夏と称した。周と夏は一族の可能性がある。夏は西から来た。周も西から来た。南陽は夏人の居留地である。<史記>にある。夏は河南の西にあり、と。
 中華の二字は夏からきている。夏と華は同音であった。人は中間地帯にいたので、中華と称した。夏と周はともに西からやってきて、大国を建てた。夏は4百年。周は8百年続いた。非常に長い。長期間にわたって、西からやってきた民族が、中原の地にいた。それで中華というのだ。
 禹は夏の人たちが崇拝した神であろう。<尚書>に<禹貢>編がある。これは戦国時代の人が書いたもので、この一篇に地理を述べ、天下を九つの州に分けている。
 冀州;山西、河北。 兗州;河北、山東。 青州;山東東部。
 徐州;山東南部、江蘇北部。揚州;江蘇南部、浙江、江西。
 荊州;湖南、河南南部。豫州;河南。梁州;四川、陝西南部。
 雍州;陝西、甘粛。
以上の地域は戦国の七雄の版図である。
 <禹貢>は皇帝に進貢するために作られた。各地ごとに分けられ、各地区、
それぞれの経済地理状況、水陸交通路線についても、触れている。これは史書中でも、大変価値の高い一篇だ。これは古代から中国が統一されていたことを、信じさせるに足る。
 周時代、文字上に禹が登場する。中国の歴史にはまず神話があり、更に伝説と続き、そして歴史となる。従って、禹については二つの言い方ができる。
 一つは存在したという説。もう一つは存在しなかった、と。或いは、もともとその人は存在したが、伝説として神になった、と。或いは云う。もともとは神であったが、後に人間になった、と。
 要するに、黄帝、堯、舜は、歴史科学上で考えれば、全く存在しない。禹はいたかもしれない。いなかったかもしれない。黄帝、堯、舜、禹は将来甲骨文字の中から、証拠が発見される可能性はある。
 孟子は言う。舜は東夷の人、と。堯は舜に譲り、舜は禹に譲った、という伝説は、どのようにしてできたのであろうか。元来、古代氏族社会では、男が婿入りした。一代上の婿が酋長となり、彼はその次の婿に譲った。これは上古の民の譲位の残余を保留したためである。母系社会はもともと、母性が統治したが、後に女子の夫が統治するようになり、彼は娘の夫に譲るようになった。このようにして、堯が舜に、舜が禹にという伝説が生まれた。
旧社会のころ、8年の歳月をかけて三皇五帝の研究をして、ようやく成果を得た。私が商務印書館の教科書を編集していたころ、‘所謂‘という二字を使って、三皇五帝について述べた。戴季陶氏は国民党の要人で、これを見るや、これは中国民族の自信を喪失させるものだ、といった。それで、商務印書館に160万元の罰金を科した。後に人に頼んで、事情を説明して、おしまいにしてもらった。それは民国13年(1920年代)の事。私はすぐ燕京大学に移り、立て続けに、数編の文章を発表し、三皇五帝の考証を詳細に行い、結論を明らかにした。

 顧先生は、<三皇考>という専門的な本を著し、この点についての自らの研究成果を発表している。今彼の口述を聞き、このノートを手にし、私の心に記憶がはっきりと蘇る。これは実に偉大な学問だと感ずる。どれだけ多くの古書にあたり、どれだけ多くの古史資料を研究すれば、こんなに肝のすわった、認識に裏打ちされた発表を世に問えるのであろう。人をして驚嘆せざるべからざるものがある。


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