魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
軍人たちへの痛言
軍人の格として最も高尚なのは、敵を破り、国を保つ責任である。その為に臥薪嘗胆、戈を枕に旦(朝)を待つ。軍人の自戒や如何!馬革に屍を包み、将を斬り、旗を奪うは、軍人自ら期すことなり、また如何!
今吾紹興の軍人、自ら如何とするや?群れて閑遊する者あり、殴りあい喧嘩する者あり、娼館に宿し、歓を尋ねる者あり、賭博を捕え私に罰する者あり。身は軍・国・民の重い任務を帯びながら、無聊無頼の悪劇を演じるのは、その紀律が厳粛でなく、訓練不良のためか?そもそもガサツな根性ゆえ、教育訓戒は施しがたいせいか?そんな格の軍人を北伐に充てるのでは、中華民国の前途は危うい!
樹(魯迅の名)曰く:雑草を除かねば、よい苗は興らず、教練の責めを司るものは、何ゆえこの群を害す馬を除去し、誠実で純潔な兵士を求め、まっとうな義勇の軍隊を作らないのか。
且つ又、この北伐を宗旨とし、東関鎮に一社、闘鶏場に一社、第五中に一社を設け、各自費用を集め、各自兵を招く。
共に紹興にいるのに、勢力は散砂と同様、互いに連絡して気を一にできぬとは、これ誠に樹の理解できぬ所なり。
訳者雑感:
魯迅が本名の一字、樹を使って、1912年1月16日、紹興の「越鋒日報」の「自由言論」欄に載せたものという。前年に辛亥革命が起こって、紹興にも中華民国の軍隊ができたのだが、実情は魯迅の指摘する通り、清国時代の兵隊と何ら変わらぬ、というより更に劣化したようだ。「好漢は兵にならず」と言われる通り、品格の優れた人間は兵隊にはならず、軍隊には入らない。それを痛切に感じて、まっとうな義勇の軍隊を作らねば、と訴えている。しかしこれはまさしく蟷螂の斧だ。誰も彼の文章に耳を貸さない。
最近、習主席が軍人の着用する迷彩服を着て、全員が迷彩服の軍人たちの中で、いろいろ指図する映像が流されている。解説者のコメントは彼が作戦指揮センターのセンター長に就任したからとのこと。政治で党と国家のトップであり、首相の権限であった経済面でもその責任を取り上げた形だが、軍事面でも、共産党の軍隊である解放軍のトップでありながら、更に作戦指揮センター長も務めるというのは、それまでのそれに相当する任務を負っていた人間から、その権限を取り上げたような印象だ。余ほど部下を信じられなくなっているのだろうか。 2016/04/27記
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
P R