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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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後記

後記
 今回の編集も前回同様、書いた順とした。刊行物に発表した作品は、上半期は官検を経たので、何らかの削除を免れなかったが、私はそれをなまけて修正せずに、その部分に黒点を付けてすませた。前回の分を見れば官忌を犯したのはどういうところかすぐ分かる。
 全面禁止は2篇で:1つは「風刺とは何か」で、文学社の「文学百題」の為に書いたのだが、「缺」(欠如)の一字に変じ;もう一つは「助言から無駄話へ」
(「協賛から翼賛へ」とすべきか:訳者注)で、「文学論壇」に書いたが、今もって影も形も「缺」の字すらない。
 作者と検査官の関係で、間接的に検査官を知り、時に頗る敬服もさせられた。彼らの嗅覚はとても鋭敏で、私のあの「助言から無駄話へ」は元来、児童年とか婦女年、経典を読んで救国、敬老精神で俗を正すとか、中国本位の文化、第三種人文芸など、多くの政客豪商、文人学士たちが、もはや助言できる状態ではなく、無駄話に陥ったことを指摘したのだが、確かに発禁やむなしで、実に明白に、かつ徹底的に批判したのだからということが分かる。他の人もきっと私と同様、敬服していると思われるのは、文学家が検査官になっているとの噂があり、蘇汶氏をして1934年12月7日の「大晩報」に下記の公開状を書かしめた:
 『「火炬」編集者殿:
 今月4日号の貴刊「文学評論」特集に。聞問君名で「文学雑談」を載せ――<巷の噂では蘇汶氏は月70元の給与でXX会(原文のまま)に入会された由。文芸は時空には制御されぬが、「洋銀の制御を頗る受けることが良く分かった>
などの文章は憤慨に堪えない。汶(私)はこの数年来、どこにも入会せず、「現代雑誌」の編集と原稿を売って糊口してきた。それ以外、如何な組織から一銭も得ていない。所謂XX入会うんぬんは、X報のデマだと一笑にふすとはいえ、平素から公正で知られる貴誌すら、又もこうした根拠の無いものを信じて報じるとは、ひとこと文句を言わずにはおれない。汶(私)は貴誌を愛する故、特に申し上げるので、原文のまま次号に載せて真相を明らかにしてくだされば幸いです。    敬具。
    蘇汶(杜衡)拝。     12月5日 』
 作者が不当な金品を得ているというのは近頃の文壇のよくあることで、私もルーブルを貰っていると言われたのは4-5年前からだが、9.18(事変)以後、ルーブル説は取り消され、「親日」という新たな罪状に代わった。これまで「貴誌を愛護」する意図はなかったから、修正要求の手紙は書かなかった。しかしとうとう蘇汶氏の頭にふりかかって来たが、デマが多いのは「一利あれば一害あり」ということが分かる。私の経験では、検査官が「第三種人」を「愛護」しているのは本当の様だ。私が去年書いた文章の内、2篇ほど彼らの気に障ったようで、1篇は削られ(「病後雑談の余」)もう1篇は発禁された(「臉譜の憶測」)である。多分これに類したことはまだ他にもあるから「XX会(原文のまま)に入会」と推測されたのだろう。真に「憤慨に堪えぬ」で、辛辣な皮肉になれていない作家はそう感じるに違いない。
 しかし、デマ製造に対して少しも怪しまない社会は、本当の収賄にも何も怪しまない。収賄が制裁を受ける社会なら、妄りに収賄のデマを流した者を制裁しなければならぬ。従って、デマ製造で作家を中傷した新聞雑誌はただ清算するだけで、実際の効果は少ない。
 
 本集の内4篇は元は日本語で書いたものを今自分で訳したものだが、中国の読者に説明をせねばならぬ点は――
一。「生ける中国の姿」の序文は「支那通」を風刺した物で、且つ日本人は結論が好きだと書き、行間には彼らのいい加減さを嘲笑しているようだ。だがこの癖に長所もあり、結論を急ぐのは、実行を急ぐためで、我々は笑ってすますわけには行かない。
二。「現代中国の孔夫子」は雑誌「改造」6月号に載せたもので、この時は我々の「聖裔」(孔子の子孫)がちょうど東京で彼らの祖宗に礼拝し、大変喜んでいた。かつて亦光君の訳で「雑文」2号(7月)に載せたが、今回すこし改訂し、ここに転録した。
三。「中国小説史略」の日本語訳の序文に私は自分の喜びを書いたが、もう一つの理由を説明していなかった。10年前の事になるが、ついに私個人の仇を晴らす事が出来た。1926年、陳源すなわち、西瀅教授はかつて北京で私に対し公に人身攻撃をして、私のこの著作は塩谷温教授の「支那文学概論講話」の「小説」の部分を窃取したものだと言った:「閑話」の中で所謂「まるごと剽窃」と指摘していたのは私に対してだったが、今、塩谷教授の本も中国訳され、私のも日本訳され、両国の読者は二つとも見ることができ、誰が私の「剽窃」と言えるだろうか?嗚呼、「男盗女娼」とはこの世で大いに恥ずべきことで、私は十年間「剽窃」の汚名を着せられたが、今やっとそれを雪げたし、「ウソつき狗」の旗を、自称「聖人君子」の陳源教授にお返ししよう。彼がそれを洗い落とす事ができなければ、それを付けたまま墓まで持って言ってもらおう。
四。「ドストエフスキーの事」は三笠書房の依頼で書いた読者への紹介文だが、私はそこで、被抑圧者と抑圧者との関係は、奴隷ではなく敵対関係とし、決して友人にはなれぬから、互いの道徳は同じにはならぬと説明した。
 最後に鎌田誠一君を記念したい。彼は内山書店の店員で、絵画が好きで私の三回の独露木刻展はすべて彼が一人で設定してくれ:1.28の頃、彼が私と私の家族及び他の婦人子供たちを英国租界に逃してくれた。33年7月、故郷で病気のため亡くなった。彼の墓前に建てたのが、私の手になる碑銘だ。今でも当時、興味本位に私のことを殴られたとか殺されたとかというニュースを流した新聞と、(原稿料)80元のために何回も往復させながら、ついに払ってくれなかった本屋のことを思いだす都度、私は彼に対してほんとうに感謝と申し訳なさの気持ちで胸がいっぱいになる。
 2年来、時に進歩的な青年は好意的に私が最近余り書かなくなったのを惜しみ、失望していると言った。青年を失望させるしかないのは弁明のしようも無いが、多少の誤解もある。今日自分で調べたら:「新青年」に「随感録」を書いてから本集の最終篇まで18年経過し、雑感だけでも80万字ほどある。後の9年で書いたのは前の9年の倍以上あり:この3年の字数は前の6年と等しく「最近余り書かない」というのは正確ではない。更に進歩的な青年諸君は現在の言論弾圧に注意してないようなのが少し不思議に思う。作家の作品を論じようとするなら、周囲の状況も考えねばならぬと思う。
 もちろんこうした状況は極めて分かり難く、公開などしたら、作家は受難を怖れ、書店も閉鎖を免れようとするので、出版界と関係がある人はこうした内部情報も感じ取れよう。これまでに公開された事情を回想して見よう。多分読者も覚えているだろうが、中華民国23年(1934年)3月14日「大美晩報」に次の記事が載った――
『(国民党)中央本部、新文芸作品発禁。
 上海党支部は1,000元19日の党中央の電令を奉じ、各新書店に党員を派し、書籍を検査し、禁書が149種にのぼった。それに関連した書店は29軒で、そのうちかつて党支部が審査して発行を許可した、或いは内政部から著作権を取得して登録し、かつ各作家の以前の作品、例として丁玲の「暗黒の中で」などとても多く、上海出版業の恐慌を引き起こし、新書業組織の中国著作人出版人聯合会が集議し、2月25日代表を選び、党支部に請願の結果、党支部から中央へ送り、各書は再審査され、処分を軽減し、同日中央からの返答を受け、許可されたが、只、各書店は期間内に再度審査を受け、禁書は一律自動的に処分され、販売禁止となり、次に書店ごとの禁書を列記する。
書店名 書名 作家(翻訳も含め)別に合計150冊あり、魯迅の作品も12冊あるが、明細は省略する。(訳者)
 出版業界は書籍販売で収益を得ている人々で、売れれば内容は問わないし、(政府に対する)「反動」的精神はとても少ないから、この請願は好結果をもたらし、「商売困難に同情し」37種を解禁し、改訂削除して22種が許可されたが、その他は「発禁」「販売延期」となった。この中央から許可を得たものと改訂の書名は「出版ニュース」33期(4月1日付)に発表された――
 『中国国民党上海特別市執行委員会、批准執行字第1592号。
 (上述の内容が記載されているが 割愛する:訳者)
 
 然しまだ難しい問題が残っており:書店としては新しい本と雑誌を発行せねばならず、従って永遠に拘留と発禁、甚だしきは閉鎖の危険にさらされた。このリスクは当然書店主の損となるから、その補填が必要だ。ほどなくして風聞が飛び、はっきししないが――何月何日か知らぬが、党・官・店主と編集者が会議し、善後策を検討した。重点は新しい本と雑誌の出版で、どうすれば発禁されずにすむかだ。この時甲某という雑誌編集者が、原稿を官庁に送り、検査を受けて許可取得後に印刷する。文章内容は固より「反動」ではなく、店主の資本も保全され、真に公私ともに利がある。他の編集者も誰も反対せぬようでこの提案は通った。散会時、甲某の友人、乙某編集者も大変感動して、ある書天の代表に語った:「彼は個を犠牲にして、雑誌を保全した!」
 「彼」とは甲某氏で:乙某氏の意を推量するに、きっとこの献策で名誉は頗る傷ついたが、これも神経衰弱の憂慮に過ぎぬ。たとえ甲某氏の献策が無くても、本や雑誌の検査はどうしても実施されるだろうし、別の理由で始まるに過ぎず、況やこの献策は当時、人々にはおおっぴらにされず、新聞も報じようとはせず、皆は甲某氏を功臣と認め、それで虎の鬚をしごこうとはしなかった。せいぜいひそひそ話で、局外で知る人は大変少なく、名誉とも無関係だった。
 (後略:訳者)    
1935年12月31日夜半から一月一日朝に書き終える。


訳者雑感:
 35年前後の雑文集の後記はとても長い。注も含めた全264頁の18頁を占める。発禁処分の書名だけでも6頁半もある。この当時の出版業と官庁の検査を巡る駆け引きも紹介し、やはり印刷する前に認可を得て出版し、書店の損失を防ぐ…など、妥協案が示されているのも面白い。文字の国の民は漢字の印刷物無しでは文化的な暮らしができないと、不満が鬱積するようだ。
 今年になって、北京などの街角で新聞雑誌写真集などが、テント掛けの棚にどっさりと並べられて、庶民に好評を博していたのだが、これを一律撤去せよとのおふれが出た。これらのタブロイド版や雑誌は黄色(ピンク系)も何でも揃えていて、結構流行っていたのだが、これが反政府(中国語的には反動)的な文章が載っているという事で、これの販売をする棚を撤去すれば、一般書店だけでしか買えない事になる。大手書店は「反動的」な記事のある新聞雑誌を並べていると、本の撤去だけでなく、店を閉鎖されるリスクがあるから、勢いそうした物を売らなくなる。今やブログなどIT媒体での情報があふれているが、これは当局が疑わしき用語があればすぐ消去してしまうのだが、タブロイドには手が回りかねる。それで販売する露店の棚を撤去せよ、と相なった。この辺の当局の担当・責任者たちの思考経路は魯迅のころと不変のようだ。
     2014/09/01記

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新しい文字について

新しい文字について
 漢字ラテン化法が世に出て、漢字の簡体字と注音字母と競ってきているが、もう一つはローマ字ピンインがある。このローマ字ピンイン保護者のラテン化文字攻撃の理由は、方法がとても単純で多くの字が分別できぬ由。
 これは確かに欠点の一つだ。凡そ文字は容易に学べて書くことができれば、精密でなければならぬということはない。煩雑で難しい文字が精密であるとは限らぬが、精密であろうとするとどうしても比較的繁雑で難しくなるのは免れぬ。ローマ字ピンインは四声を明確にできるが、ラテン化文字はそれができぬから「東」と「董」の区別ができぬというが、漢字なら「東」と「蝀」は区別できるが、ローマ字ピンインではできない。一個か二個の字を分別できるか否かで、新しい文字の優劣を付けるのは適当ではない。文字は文脈で意味が明白になる。漢字といえども1字2字だけとり出したら、往々正確な意味をつかむことはできない。例えば「日者」の2字はこれだけだと「太陽」と解せ、「ここ数日」とか「吉凶を占う人」とも解せる:また「果然」はたいてい「ついに」の意味だが、動物の名前でもあり。「隆起する形容」にもなる:例えば「一」という字でも単独で使われると、123の1か、「四海一」(三国一)の一か判断できない。だが文中に入れればそれも難しさは無くなる。だからラテン化の1-2個の字を例に曖昧だというのは正当な指摘とはいえない。
ローマ字ピンインとラテン化を主張する両派の争いは実は精密さと粗雑さにあるのではなく、その由来、目的にある。ローマ字ピンインは古来の漢字を主とし、それをローマ字にして、この規則に従って書くようにとの主張で、ラテン化は今日の話し言葉(方言)を主にラテン化し、それを基準とするものだ。これで「詩韻」を比べてみると、後者はかなわないが、今日の人の話す言葉を書くには手軽で始めやすい。この点は精密でないという欠点を補って余りがあり、それにその後、実験しながら徐々に補正可能である。
 始めやすいのと実行が難しいのが、改革者の両大派だ。現状に不満なのは同じだが、現状打破の手段が大きく異なる:一つは革新、もう一つは復古だ。同じ革新でもその手法は異なり:一つは実行するのが難しいが、もう一つは始めやすい。この両者が争っている。実行困難な方法の見栄えの良い幌は完全さと精密さで、これで以て始めやすい物の進行を阻碍しているが、その中身は虚空に懸けた計画ゆえ、結果は成就しがたく;すなわち不可(ダメ)である。
 この不可というのが、まさしく実行困難な者の慰藉だった、というのもそれは改革の実は無いが、名があったからである。改革者の中には、改革を論じるのを極愛するが、真の改革が身に迫ってくると心配になる。只ただ難しい改革を叫ぶことで、容易な改革を阻止できるから、現状維持に注力する。一方で大いに改革を論じることが彼の完全な改革事業と考える。これは畳の上で泳法を学ぶのを主張し、それで泳げるようになるというのと同じだ。
 ラテン化は空談の弊害は無く、話す事が出来、書くこともできる。民衆と連携もあり、研究室や書斎の雅な玩びと異なり、巷間のものである:それに旧文字との関係は少ないが、人民との連携は密で、皆が自分の意見を話せれば、必要な知識も得られて、これ以外により容易な文字は無い。
 更に又ラテン化字でひとが創作できてこそ中国文学の新生があり、現代中国が新しい文学になれる。というのは彼らは「荘子」や「文選」の毒にあたることは無いからである。
     12月23日
訳者雑感:
 科挙の試験で南方出身者の合格者が北方より多いということの理由として、科挙の「詩作」や駢儷文などの韻を踏むのに、南方の方言の方が古来の漢字音の韻を踏襲しているものが多いから、北方出身者より有利だったとの説がある。
 確かに唐詩などの韻を比べてみると、古来の漢音というか呉音を多く残している日本語の韻の方が、現代北京語を中心にした韻よりもよく合致している例が多い。
 そして改革について、始めやすく実行し易いものを主張する人達に対して、精密(正しい)が実行しがたい改革を主張する人達は、それが身に迫ってくると心配になる、それで暗に現状維持を狙っている、という点について、今も普天間基地の移転について、多くの人が実現困難な案を打ち出して、実現できる計画を潰しにかかってきたのは、暗に現状維持を狙っているのだ、という説があるのを示唆しているようだ。基地は危険だが、完全になくなると困ると言う人達がいるのと似ている。
       2014/08/22記

 

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題未定稿九

題未定稿九
 これも前述の所謂「珍本叢書」の一つ、張岱の「琅嬛文集」についてだが、その巻3の書簡集に「又毅儒八弟に与ふ」という書簡の冒頭に:
『以前君が選した「明詩存」を見ると、一字でも鐘・譚(明の文学家)に似あわないのがあると、きっとそれを棄てて採用しなかった:だが今では幾社の諸君が王・李を盛んに称賛し、鐘・譚を痛罵するようになり、君の選び方も一変し、鐘・譚に似た字があると採用しなくなった。鐘・譚の詩集は元のままで、君の目も以前と同じのはずだが、その転じようは、まるで風に飛ばされる蓬(よもぎの枯れたもの)のように捷きこと光と音の如くで、
胸に定説なく、目に定見なく、口に定評なきこと、かくも極まれるや?蓋し、君が鐘・譚を好んでいたとき、鐘・譚にも良いところはあったが、悪い点もあり、玉にも石が混じるのは常で、それで以て連城とするわけには行かぬ:君が鐘・譚を嫌ったときでも、彼らに悪い点もあったが、良い点もあって、蓋し疵は玉を覆い隠す事はできず、それを瓦礫として棄てるわけにもゆかぬのである。君は、幾社の諸君の言を君の胸にのさばらせてはいけない。虚心坦懐、細かく論じて行けば、その美醜はおのずから見えて来るのだ。なぜ好き嫌いで決めてしまうのだ!… 』
 これは明らかに風に随って舵を転じる選者の姿を描いている。選本のあてにならぬ事を指摘証明している。張岱自身は撰文撰史は自分の意見を入れるべきでないとして「李硯翁に与ふ」の手紙に:『私の「石匱」(石の函)の一書は、四十余年間の文だが、心は明鏡止水の如く、自分の意見は決して述べず、故に絵を描くように、美と醜は自ら現れ、敢えて言及したのも、物ごとに則して形を表しただけだ。…』しかし心は畢竟鏡にあらず、虚にもなれず、故に「虚心坦懐」という詩を選ぶ極致も、「自分の意見を出さない」のを作史の極意とするのも、「静謐」を詩の極致とするのと同様、事実上かなわぬ事なのだ。数年前、文壇の所謂「第3種人」の杜衡の輩は超然を標榜したが、実は醜悪の一群となり、暫くして本性をさらけ出し、恥を知る者はみな之を称するを羞じたが、今はこれ以上触れない:たとえ本人は他意無いと自覚し、屹然と張岱の如く中立だと言っても、やはり片寄るのだ。彼は同じ書簡に東林を論ずとして:
 『…夫れ、東林は顧涇陽の講義以来、この名で我国に8-90年、禍をもたらし、その党の浮沈で、代々の興廃を占い、その党が盛んなれば則ち任官のための捷径とし、敗れれば則ち元祐の党碑(失敗した者の碑)とした。…蓋し東林の創始者には君子もいたが、そこに入党した者の中には小人もいて、擁戴者はみな小人で、呼び寄せられた者の中には、君子もおり、この間の筋道は明確で派閥も甚だ異なっている。東林の中で平凡なのは言うに及ばず、貪婪横暴な王図;奸険凶暴な李三才、馬賊首輔の項煜、それに書箋で王位に勧めた周鐘等、みな東林に紛れ込んでいるが、これ等を以て、君子と奏せよと言われても、私のひじを折られようとも、情実にとらわれたりしない。東林のもっとも醜い者は、時敏の闖賊に降参する際「我は東林の時敏なり」と、以て大いに用うを望むと言った事。魯王監国の時、小さな朝廷で科道の任孔当の輩は猶、曰く:「東林に非ずば、すすめて用うべからず」とした。であれば東林の2字は小さな魯国及び汝らを滅ぼした者である。この手でこういう輩を刃し、大釜の湯に入れて薪をがんがん焚くべし。…』
 これは誠に「詞は厳に義は正しく」というべし。挙げた群小もすべて確かにその通りで、特に時敏は3百年後にもこんな人間はいないわけではないが、まさに人の心を寒からしむ。
然し彼が東林を厳しく攻めるのは東林党にも小人がいた為で、古来、全員が君子の群は無く、凡そ党社というものは中立と称する者は必ず不満で、大体においては良い人が多いか悪いのが多いかであって、彼はこれを論じてはいない。或いは、更に言い方を換えるなら:東林は君子が多いが小人もおり、反東林の者も小人が多いが正しい士もいて、それで両方とも善悪があるのは同じだが、東林は世に君士と称する故に小人は憎むべきで、反東林は元々小人だが、正しい士もいるから、さすれば嘉すべしであり、君子には厳しく求め、小人には寛大で、自ら賢明でどんな小さなことも洞察すると思っていては、実際には却って小人のお先棒を担ぐことになってしまう。もし:東林には小人もいるが多くは君子であり、反東林には正士もいるが大抵は小人だとする。それなら重みはだいぶ違ってくる。
 謝国楨氏の「明清の際における党社運動考」は真面目に文献を調べ、大変勤勉に魏忠賢の2度の東林党人虐殺を終えたのを叙して云う:「当時、親戚朋友はすべて遠くへ逃れ、無恥の士大夫はとっくに魏党の旗に投降した。少し公平な言葉で言えば、諸君子を助けようとしたのは、只数名の本の虫と何人かの庶民だった』
 ここで言っているのは、魏忠賢が周順昌逮捕に派した役人を、蘇州の人達が撃退したことだ。庶民は詩や書は読まぬし、史法も知らぬが、美の中から醜をみつけたり、屎中に道を覓(もとめ)たりせぬが、大所から物を見る目があり、黒白を明らかにし、是非を弁じることができ、往々、清高でものごとをわきまえており、士大夫も及ばぬところである。先ほど届いた今日付の「大美晩報」に、「北平特約通信」が学生デモの記事を報じており、警察のホースで噴射され、棍棒や刀で攻撃され、一部は城外に閉めだされ、寒さと飢えに苦しんだが、「この時、燕冀高等師範大学付属中学と付近の住民が紛々と慰労隊を組織し、水と焼餅、饅頭などの食物を送り、学生たちはほぼ飢えをしのいだ…」中国の庶民は愚鈍などと誰が言ったのか、今日まで愚弄され欺かれ圧迫されてきても、まだこの様に物事をよく分かっている。張岱は又こうも言う:「忠臣義士は国破れ家滅ぶ時に多く現れ、丁度石を打つと火が出るように、一閃後すぐ滅すが、人主たる者、急いでこれを採らねば、火種は絶えてしまう」(「越絶詩小序」)彼が指摘した「人主」は明の太祖で、今の状況とはマッチしないが。
 石はあるし、火種は絶えない。ただ、私はもう一度九年前の主張を繰り返す:
もう二度と請願には行かないで欲しい!     
 12月18-19日夜

訳者雑感:学生と庶民たちの目がいかに大きなところから物事をみているか良く分かる。
中国の為政者の多くは、権力闘争の為に大所高所から物を見る目を失ってしまっている。
敵をやっつけねば自分がやられるという、権力闘争に明け暮れてきた長いDNAのせいだ。
今回の大トラ退治で「権力闘争」が終焉できるだろうか?
            2014/08/16記

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題未定稿八

題未定稿八
 今も流伝している古人の文集で、漢人の物でほぼ元の状態をたもっているのはもう無い。魏の稽康のは現存する集の中に他の人の贈答と論難が入っており、晋の阮籍の集にも伏義の来信があり、多分かなり昔の残本で、後人が重編したものだろう。「謝宣城集」は前半しか残っていないが、彼の同僚たちが賦咏した詩がある。こういう集が素晴らしいと思うのは、作者の文章を見ることができる一方で、彼と他の人との関係が分かり、彼の作品とこれに比して同咏した人の優劣とか、彼がなぜその文を書こうとしたのか………今こういう編集方法は、私の知るかぎり「独秀文存」で、彼と関係ある人の文を併せて載せている。
 骨の髄まで謹厳で、墨を金の如く惜しむ、あの立派な作家たちが、一生かけた作品を削りに削って只一字或いは三・四個にして、泰山の頂上に刻み「その人を伝えん」とするのは、まったく当人の自由で、幽霊や水中の化け物の如き「作家」は天兵天将の保佑(助け)があるのは明明白白なのだから、姓名も公開しても何ら問題無いのに、却って身を隠し、彼の「作品」と彼自身の本体に影響が及ぶのを心配し、書いては削除し、しまいには白紙一枚となり、結局何も無いというのも彼の勝手である。多少とも社会と関係のある文章は、集めて印刷すべきと思うが、その中には勿論がらくたも混じっていて、所謂「剪すべからずのイバラ」だが、それらがあってこそ深山幽谷といえる。今や古代と異なり、手書きや木刻の必要もなく、活字を組めばよいのだから。そうとはいえ、紙墨を粗末にするのはやはりその通りではあるが、楊邨人流のものもやはり印刷するのだと思えば、何であれ目をつぶって印刷できる。中国人がよく言うように「一利あれば一害あり」だが、「一害あれば必ず一利あり」でもある:ちょっと無恥な旗を掲げると、無恥の連中を引き出してしまう事になるのだが、遠慮している人に刺激を与えるのは一利といえる。
 遠慮するのを止めた人も少なくないが、所謂「自己愛惜者」も多い。「自己愛惜」するのは悪いことではなく、勿論無恥にはならないが、一部の人は往々、「体裁を整え」「掩飾」するのを「愛惜」と誤解している。作品集に「若い頃の作品」も入れるが、どうもちょっと修正を加えたりしがちで、それは子供の顔に白いヒゲをつけたようであり、また他人の作品も入れるが、特に選別して、気ままに罵ったり侮べつしたような文章は採らない。それらは価値が無いとしているが、実はそれらの文章も本文と同じように価値があり、たとえその力量が無恥な連中を引きだすまでには至らなくても、価値ある本文と関係があるのなら、それはその当時としての価値があったのだ。中国の史家は、早くからこの点に気づいていたから、歴史には大抵、循吏伝、忠臣伝、奸臣伝もあるのだ。さもないと全般を知ることはできない。
 更には、幽霊や水中の化け物のような者の技両に任せたら、すぐ消えてしまい、幽霊のような人達とその文章に反対することもできなくなってしまう。山林隠逸の作品は言うまでも無く、この作者がこの世にいて、戦闘性を持っていたら、彼は社会に敵対者がいる。ただ、こういう敵対者は自らそれを認めようとせず、しばしば駄々をこね:「冤罪だ!これは彼が私を仮想敵としたのだ!」と叫ぶ。だが注意して見ると、彼は確かに暗闇から矢を放ち、指摘されるとやっと公開の鉄砲に改めるが、これもまた「仮想敵」と誣告されたことへの報復だという。使う手口もこれまでの流伝に任せるような事はせず、事後にそれを消すだけでなく、時に臨んで身を隠す:そして編集者もそれを収録するのをよしとしない。その結果後には片方だけが残り、対比できず、当時の抗戦の作も的無しに放たれた矢のようで、空に向かって発狂しているようだ。かつて人が古人の文章を批評するのを見て、誰かが「舌鋒が露出しすぎ」とか「剣を抜いて弩を張る如し」というのがあったが、それはもう一方の文が消えた為で、もしあれば評論家の理解不足をいくらか減じることも可能だ。だから、今後は無価値と言われる他の人の分も広く採用し附録にすべきと思う。以前、例がないといえども、後の宝となればその効用は魑魅魍魎の形をした禹の鼎と同じだ。
 近来の雑誌の無聊さと、無恥と下流さはこの世界で余計なものだが、これも又現代中国の一群の「文学」で現在は今を知ることができるし、将来は過去を知ることができ、比較的大きな図書館は保存すべきだ。但し、C君が以前語ったところでは、これらだけでなく、真面目で切実な雑誌すら保存されるのは非常に少なく、大抵は外国の雑誌で一冊づつ集めて合本装丁される由:やはり「古を尊び、今を賤しみ、近きをないがしろにして遠きを図る」という古くからの病いだ。

訳者雑感:魯迅の雑文集には魯迅が反駁した相手の文章を載せている例が多い。きっと両方を読者に読んでもらって、判断をしてもらおうという発想からだろう。
 魯迅が例に引いている泰山の山頂近くの壁という壁には4-5字の大きな漢字が刻まれており、中には赤い塗料やいろいろ装飾してある。なんだか漢民族の文人はここにこうした短い物を彫ることで名を残すのが最大の望みでもあるようだ。
 そうすることで何時も天と話し合いができるかとでも思っているのであろうか?中には気のきいた物もあるが、大抵は「落書き」に近い。
    2014/08/06記

 

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題未定稿7

題未定稿7
 もう一つ読者を惑わすのは「摘句」だ。それは往々、衣装から引きちぎった刺繍の花で、摘者により、吹聴され附会された挙句、俗世を超越した素晴らしいものとし、読者は全体を見ていないから、彼によって目がくらみ、はっきり見えなくなる。最も顕著な例が上述の「悠然と南山をみる」で陶淵明の「酒を述す」や「山海経を読む」等の詩を忘れ、彼を単に漂漂然としたように捏造してしまうのは、この摘句が引き起こした結果だ。近着の「中学生」(高校生の意)12月号に朱光潜氏の『「曲終わりて人見えず、江上数峰青し」について』の文に、この両句を詩の美の極みとして推しているが、私はものを割裂してそれを美しいとする小さな疵を免れぬと感じた。彼が素晴らしいところというのは:
 『私はこの両句が好きだが、それは私に哲学的奥義を啓示してくれるからだ。「曲終わりて人見えず」が表現するのは消逝で、「江上数峰青し」の表現するのは永恒だ。愛する楽声と奏楽者は消逝したが、青山や巍然として旧の如く、永遠に我々の心情をそこに寄託させてくれる。人はつまるところ凄涼をおそれ、伴侶を求む。曲終わり、人去り、我々はすこし前まで遊んで目にし、懐いた世界が、忽然、脚底から崩れ去ってしまう。これは人生で最も耐えがたいことだが、目を転ずると、江上の青峰があり、またもう一つの親しむべき伴侶、別の足を托すに足る世界にめぐり会えたようで、且つまたそれは永遠にそこにあるのだ。「山窮み、水尽き、疑うらくは路なきかと、柳暗花明また一村」この風景に似る。それだけでなく、人と曲は本当に消え去ったのか:この纏綿とした悲しい音楽は山霊を驚動させなかったか?それは江上の青峰の美しさと厳粛さを伝えなかったか?この美しさと厳粛さを深く刻まなかったか?却って青山と湘霊の奏でる音はすでに今回の因縁をはっせいさせず、青山が永遠なら、瑟の声と瑟を鼓す人も永く存す』
 これは確かに彼が激賞する理由を説明している。だが尽くされてはいない。読者は色々異なっており、ある人は「江賦」「海賦」を愛読し、ある人は「小園」「枯樹」を欣賞する。後者は有無消滅の間を徘徊する文人で、人生に対して、その騒がしさを厭うが離れ去るのも怖れる。また生を求むに懶(ものう)く、喜んで死ぬわけでもなく、実に無愛想で寂絶もまた空しく。疲れて休もうとしても、休息もあまりに凄涼で、それだからある種の撫慰が無いとやりきれない。そこで「曲終わり、人見えず」のほかに、「只この山中にあり、雲深くして処を知らず」とか「笙歌は院落に帰し、灯火は楼台に下る」の類が往々、称道される。眼前に見えぬが、遠くにはあり、もしそうでなければ悲哀しきりで、これ正に道士の説く「帰命の礼に心を至す、玉皇大天尊!」也。
 疲れた人を慰撫する聖薬は、詩としては朱氏の言葉では「静謐」(せいひつ)という:
 『芸術の最高の境地は熱烈には無い。詩人の人となりについて言うと、彼の感じた喜びと苦しみはきっと常人の感じたのより熱烈である。詩人の詩人たる所以は、熱烈な喜びと熱烈な苦しみが、詩として表現された後、老酒(紹興酒)が長い年月寝かされて、苦味が取れ、醇朴になるのに比せられる。他の所でもこの話をしたが:「この道理が分かれば、古代ギリシャ人が何を持って平和な静謐を詩作の究極の境地としたかが分かる。詩神アポロを紺碧の頂に置いて、衆生の混乱を俯瞰させ、眉宇の間は常に甘い夢をみるが如く、一点も動じることの無い態度と分かる神色を保持できた。この所謂「静謐」(Serenity)は当然最高の理想で、一般の詩では得られないものだ。古ギリシャ――特に古ギリシャの造型美術――は常に我々にこのような「静謐」を味あわせてくれる。「静謐」は轄然と大悟するもので、帰依を得た気持ちである。それは眉を低くして黙想する観音様に比せられ、全ての憂愁と喜びを消し去ると言える。この様な境地は中国の詩には少ない。屈原阮籍李白杜甫はみな眼をいからした仁王の不平不満な様を免れない。陶淵明は全身が「静謐」であり、それが偉大の所以である』
 古ギリシャ人も平和な静謐を詩作の究極の境地と考えていたかもしれぬが、私はこの点について何の知識も無い。ただ、現存のギリシャ詩歌について言えば、ホーマーの史詩は雄大で活発であり、サッフォーの恋歌は分かりやすく熱烈で、いずれも静謐ではない。「静謐」を詩の究極の境地とするが、この境地が見られないのは多分、卵型を人体の最高の形としながらも、その形が人に現れないのと同じと思う。アポロが頂にいる時、彼が「神」のせいで古今を問わず、凡そ神像は常に高いところに置かれるものだ。この像は写真で見たが、目を開いていて、神気清爽で、けっして「常に甘い夢を見るが如く」ではなかった。
だが実物を見たら‘我々にこの様な「静謐」を感じさせるかどうか’なかなか断定しがたいが、本当にそう感じたとしても、多分それはいささか彼が「古」(いにしえ)のせいだと思う。
 私も雅俗の間を徘徊する者だが、こんな話をすると殺風景だが、自分では頗る「雅」だと思う」。骨董が好きな為かもしれぬ。十余年前、北京で田舎の金持ちと知りあいになり、どうした訳か、彼が忽然「雅」になりだし、鼎を買ったのだが、周代のとのふれこみで、本当に土中で変色し、まだら模様があり、古色古香がした。が、数日後、銅匠にその土花(土の斑点)と緑青をきれいに擦り落とさせ、客間に飾り、銅光を金ぴかにさせた。このように磨けば精光を発する古銅器はその後見たことは無い。これを聞いたすべての「雅士」は大笑いし、当時私もびっくりして失笑を禁じえなかった。だが次いで粛然となり、ある啓示を得たようだ。この啓示に「哲学的意味」は無く、これこそが本当の周の鼎だと思ったのだ。周代の鼎は現代の椀と同じで、我々の椀を年中洗わないという事は無いから、鼎はきっと当時は金ぴかできれいだったし、言葉を換えれば、それはけっして「静謐」ではなく、些か「熱烈」であった。こうした俗気はいまなおぬけきれず、私の古美術を見る目を変え、ギリシャ彫刻のように、これまではいつも「只ひとあじの醇朴さ」を残していると思ってきたが、その理由はかつて土中に埋まってい、長い風雨を経て、角と光沢を失ったからで、彫造当時はきっと斬新で真っ白にきらめいていたから、我々が今見るギリシャの美はその実、当時のギリシャ人の所謂美とは異なり、我々はそれは新しいものだと想像しなければならない。
 凡そ、文芸を論ずるには一つの「究極の境地」を虚構空想し、人を「絶境」に陥れ、美術では土中の埋蔵物に魅了させ、文学ではこだわりをもって「摘句」するが、この「摘句」はまた大いに人を困じさせるから、朱氏はまた銭起の二句を取り上げただけで、彼の全編を放り出し、またこの二句で作者の全人を概括し、この二句で屈原、阮籍、李伯、杜甫などを殺し、「怒った仁王の目で、不平不満な様を免れぬ」と考えた。だが彼ら四人は朱氏の美学の下敷きにされ、無実の罪の犠牲にされたのだ。
 我々は今、先ずは銭起の全編をみてみよう:
 『 省の試験は湘(水)の霊が瑟(琴の一種)を鼓す。
 雲和の瑟を善く鼓し、常に帝子(湘水の女神)の霊を聞く。
 馮夷(山の神)空しく自ら舞い、楚客は聞くに堪えず。
 苦調は金石を凄み、清音、杳冥に入る。
 蒼梧来たりて怨慕し、白芷、芳馨を動(どよも)す。
 流水湘浦に伝わり、悲風洞庭を過(よぎ)る。
 曲終わりて、人見えず、江上数峰青し』
 「醇朴」や「静謐」を証明しようとするなら、この全編は引用に適さぬ。中間の4聯は
「衰颯」にとても近い。だが上文無しでは末の2句は判然としない。ところがこの判然と
しない点が、引用者の絶妙さかもしれない。今題目を見ると「曲終わり」は「鼓瑟」に結
び付くのが分かり、「人見えず」は「霊」の字を点じ、「江上の数峰青し」は「湘」を成す。
 全編としては唐人のうまい試帖たるを失する無しと雖も、末の2句もそれほど神奇でもない。況や題名に明らかに「省の試験」としており、当然「憤憤と不平な様」はありえぬし、もし屈原が椒や蘭(楚の大夫や公子)と口論などせず、上京して功名を得んとしたら、きっと答案には不平不満など書かぬであろうし、合格を最優先したことだろう。
 そこで再びこの「湘霊、瑟(琴の一種)を鼓す」の作者の他の詩を見なければなるまい。だが私の手元には彼の詩集は無く「大歴詩略」(清代編集の唐の詩選)しかなく、これも迂な夫子の選本だが、中身は少なくないので、その中の一首をみると:
 「落第後、長安の客舎に題す。
  青雲の望みを遂げず、愁いつ黄鳥飛ぶを見る。 梨花、寒食の、客子未だ春衣ならず。
  世事随時変わり、交情我と違う。空しく余す主人の柳。相見て却って依依たり、」
 落第して旅館の壁に詩を題すのは些か憤憤を免れぬし、「湘霊、瑟(琴の一種)を鼓す」は、題からしても、省試ということもあり、あのように円転活脱するほかなかった。彼と屈原、阮籍、李白、杜甫の4人は時には仁王の怒る目を免れなかったが、全体として見れば彼は一丈六尺(仏身)にはなれなかった。
 世間に「事に則して事を論ず」という法があり、詩に則して詩を論ずるのが一番よいことと思う。私は文を論ずるなら全体をしっかり読むことが大切で、作者の全人を顧慮し、彼が処している社会状態を見てはじめて確かなことが言えると思う。さもなければ、夢みたいなものになってしまう。夢を見ることを反対するものではないが、ただそれを聞く人が、心の中でそれは夢を聞いているのだと分かっているべきだと主張するのであって、このことと、私が真面目な読者に向って、選本や標点本ばかりに頼って文学研究をしないように勧めているのと同じで、他意は無い。自分で目を光らせて多くの作品を読めば、歴来の偉大な作者で『渾身から「静謐」』な人は誰もいないのが分かる。陶潜は正に『渾身から「静謐」ではなかったから、彼は偉大であった』のである。今往々「静謐」と尊敬されるのは彼が選文家と摘句家に縮小され、凌遅(切り刻んで殺される刑)にされた所以である。
  
訳者雑感:魯迅の「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指」を摘句したのは誰だろう。毛沢東の発動した「文化大革命」で、この句が摘句されたのは、その当時としては純粋に受け止められていたが、それも「権力闘争」に使われただけというのは、実にこの句に対して許せぬことだと思う。
 今「虎もハエも叩く」大運動を展開中だが、「刑は大夫に上らず」という不文律を破って、大トラを捕まえた。いろいろな「句」が摘されているが、すべて最終的には「権力闘争」だった、という一言で終わりそうな気がしてならない。
 権力を一手に集中させ、No.2の首相の権力も取り上げないと心配でならないというのは、
文革中に目にしたことだ。彼の心底から笑った顔を見たことが無いのはなぜだろう。
     2014/08/02記

 

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「題未定」稿6

「題未定」稿6
6.T君が教えてくれたのだが:私の「集外集」出版後、施蟄存氏がある雑誌に、この本は出版に値しない、選びなおした方が良い、と評した由。その雑誌を見ていないが:施氏の「文選」推薦崇拝及び「晩明二十家小品」を自ら出した功業や「言行一致」を標榜する事から推測するに、確かにその様である。私はいま彼の言行を研究しているのではないので、余計なことではあるが。
 「集外集」が出版に値せぬとは、誰が言おうとそれは正しい。あにこれのみならんや、で将来四庫全書が再開したとき、多分私の全ての訳著は排除されるだろう:今でも天津図書館の目録に「吶喊」と「彷徨」の下に「銷」(しょう、溶かす)の字が注されておる。「銷」とは廃棄の謂いで:梁実秋教授がどこかの図書館主任のとき、私の多くの訳著を駆除しようとした由。だが一般情勢からみて、現在の出版界はそれほど勤厳ではないから私の「集外集」を出版しても紙墨の無駄だとは思わぬようだ。選本(抄本)に関しては、私は弊多く、利少ないと考えており、以前「選本」という文章を書いて自分の意見を説明し、後に「集外集」に入れた。
 勿論自由気ままにというなら、どの様に選本しても構わぬし、「文選」も「古文観止」も問題無い。だが、文学又は作家を研究しようとすると、所謂「人を知り、世を論ぜよ」で、そうなるとそれに適応できる選本はとても得難い。選本が示すのは往々、作者の特色というより、選者の眼光だ。眼光が鋭利で、見識が深いほど、選本は固より正確だが、残念ながら大抵の眼光は豆粒ほどで、作者の真相を抹殺するのが多い。これこそ「文人の受難」で、蔡邕を例にとると、選者はたいてい彼の碑文を選ぶだけで、読者に彼を儀典用の文章の名手と感じさせるだけだが、「蔡中郎集」の「述行賦」(「続古文苑」にもあり)の中の、
「工巧は台榭に究め、民、露処して湿に寝るに、嘉谷は禽獣に委ねるが、下は糠秕(ぬか・しいな)で一粒も無し」(王の贅沢と民の困窮を言う:出版社注)。(手元に本が無く、記憶違いがあれば後に訂正あること御容赦されたく)という文章を見なければならない。それで初めて彼が単なる老学究ではなく、血性を有する人であり、当時の状況も理解でき、彼が確かに死への途をとったことも分かる。また選者に録取されている「帰去来辞」と「桃花源記」のように、論客には「菊を東籬の下に採り、悠然と南山を見る」を称賛されている陶潜氏も、後人の心目には、長い間飄逸とされてきたが、全集ではとてもモダンであり、「絲として履となり、素足に附して周旋せんと願うも、行と止には節あり、空しく床前に委棄されるを悲しむ」という文章で、ついに身を揺変させ、「ああ我が愛する人」の靴に化さんと想うが、後に自ら「礼義に止まる」ために最後まで進攻できていないが、そうした想い乱れた自白は畢竟、大胆であった。詩についても論客の敬服する「悠然と南山を見る」ほかに、「精衛(山海経の神話の鳥)は微木をくわえ、滄海を填めんとし、形天(同左の怪物)は干戚を舞い、猛き志、固より常にあり」の類のように「仁王立ちの目で怒る」式の文章もあり、彼が終日飄飄然としていたわけではない。この「猛き志、固より常にあり」と「悠然と南山を見る」は同じ人で、どちらかを取捨しては、全人格ではなくなり、更に
抑揚をつけると、真実から離れてしまう。勇士は戦闘するが、休息も飲食もするし、勿論性交もする。だが最後の一点だけを取って画像にして妓院に懸けると性交大師と尊ばれることになり、それは当然根拠の無いことで、冤罪となってしまう。近頃の人が陶潜を称賛し、引用するのを見るたびに、往々古人のために惋惜するのを禁じえない。
 これも文学遺産継承問題で、愚かな人間の手にかかると、良い物も結局得られなくなってしまう。数日前の「時事新報」の「青光」に、林語堂氏の文が引用されており、原文は棄ててしまったが、大意は:老荘は上流で、人前でわめき散らす類は下流で、彼が今読もうとするのは中流だけで、上下を剽窃するものは最も見るに足りぬ、と。私の記憶が間違ってなければ、これは正に宋人の語録、明人の小品、下って「論語」(孔子のでなく)「人間世」「宇宙風」(林が主宰していた刊行物)という「中流」作品に死刑宣告をするのみならず、御当人の自信の無さをあからさまに表白するものだ。だがこれも腹の中には何も無いのに、高等な談話をするのに過ぎず、「中流」とはいえ、一概にはできず、たとえ剽窃でも、良いところをとるのと、無用の物や悪いのをとる、「中流」の下をとるなど、剽窃すらうまくできず、「老荘」は言うに及ばず、明清の文章も本当によく分かっているかどうか。
 古文に標点をつけるのは、受験生を困らせるだけでなく、往々著名な学者もしくじり、詞曲を妄りに点じ、駢儷文を変に分解してしまう美談はもう過去のこととなり、回顧するまでもない:今年たくさんの廉価版の珍本が出たが、すべて著名な人が標点をつけたが、世道に関心ある人は復古の炎を煽るものではと心配している。私はそんなに悲観しておらず、一元数角で数冊買って古(いにしえ)の中流の文が読めるし、現在の中流の標点も見ることができ:現在の中流は必ずしも古の中流の文章の結論をよく理解できているとは限らぬことがこれでよく分かるからだ。
 例えば、この種の例を挙げるのは大変危険で、古から今日まで、文人が命を落とすのは、往々彼の何とかいうイデオロギーの誤りのためでなく、個人的な私怨のせいが多いからだ。
だがやはり挙げねばなるまい。ここまで書いたら例示すべきで、所謂「箭は弦上にあり、発せざるべからず」だから。しかしいろいろ忖度した結果、「暫く其の名を隠す」と決し、難を免るべきで、これは中国人が上っ面の面子だけを大切にする欠点を利用するのだ。
 例えば私が買った「珍本」に、張岱の「琅嬛文集」の「特刷本定価四角」があり:「乙亥十月、蘆前冀野父」の跋によると、「峭僻(けわしい)途を康荘(ひろびろと)させた」物の由だが、標点に照らして読んでゆくと、決して康荘ではない。標点は五言・七言詩には最も容易につけられ、文学家でなくとも、数学家もできるが、楽府となるとあまり「康荘」ではなくなり、それゆえ巻三の「景清刺」に理解できない句がある:
 『…鉛の刀を佩び。膝髁に蔵す。太史は奏す。機に破らんと謀る。王と称さず前に向う。坐して御衣に対し、血唾を含む。…』
 琅琅と誦すべく、韻も押しているが、「不称王向前」の一句はいささか難解である。原序をみると:「清はことが成らなかったのを知り、勇躍して上に訽(たずねる)す。大いに怒りて曰く。我を王と謂うなくんば、即ち王は敢えて尓(なんじ)なるか。清曰く。今日の号。なお王と称すか。その歯を抉れと命じ。すぐまた訽す。さすれば血を含みて前に出。御衣を汚す。上ますます怒り。その皮膚を剥ぐ。…』(標点は悉く原本に遵ず)では、詩は「王と称さず、前に向って坐る」とすべきで「王と称さず」とは「なお王と称すか」也:
「前に向かって坐る」とは「さすれば血を含みて前に出」也。そして序文の「勇躍して上に訽す。大いに怒りて曰く」は「勇躍して訽す。上大いに怒りて曰く」としてこそ筋が通る。作文の基本に拠り、次に続く「上益々怒る」を見れば分かることである。
 たとえ明人の小品がいかに「本色」と「性霊」を有すといえども、それを妄りにもてあそぶのはよくないことで、自分を誤まつは小事だが、人を誤ってはいけない。例えば巻六の「琴操」「脊令操」序に次の句があり:
 『秦府の僚属。秦王の世民に勧む。周公の事を行え、と。兵を玄武門に伏す。建成元吉魏徴を射殺す。亡を傷んで作る』
 文章としてはよく通じるが、「唐書」を見ると、魏徴は実は射殺されてはいないようだ。彼は秦王世民が皇帝になって17年後に病死している。従って我々は「建成元吉を射殺し、魏徴その亡を傷んで作る」と標点を付けるほかない。これは明らかに張岱の「琴操」であって、どうして魏徴が書けるだろうか。それできっぱりと彼も射殺してしまう方が道理が無いわけではないが、「中流」文人はよく擬作するもので、韓愈などは周文王に替って「臣の罪、当に誅すべく、天王は聖明であらせられる」と書いているほどで、ここではやはり「魏徴、亡を傷んで作る」が穏当だろう。
 私はここで「文人相軽んず」の罪を犯した。その罪状に曰く:「毛を吹いて疵を求む」、だが私は思うに「功が罪を折半」してくれ、著名な人の中にも文も読めず、句読点すら付けられぬ者もおり、文章を選ぶとなると、これが良いあれが良い、と実にぞっとするほどで、真面目に勉強しようとする人は、一、選本に依拠してはだめで、二、標点を信じてはいけないという事だ。

訳者雑感:
 陶淵明の「悠然と南山を見る」の句が余りにも有名となり、彼がとてもモダンな面も持つ詩人であったことを知るには「選本」だけではだめであるという。同じように 魯迅の「眉を横たえ、冷やかに対す千夫の指」は文革中の中国の到るところで目にした。今これを持ち出す人は少なくなったが、あらがう文人としての魯迅と、他の作品で見ることのできる彼の全人を知るにはやはり「選本」だけではいけないだろう。
「眉を横たえ」の句は1960年代、殆どの中国人が知っていたが、毛語録と同様、文革が否定されて消えてしまったようだ。今では教科書からも消えてしまうようで、残念である。
「雨にも負けず」の詩や「銀河鉄道」などで知られる宮沢賢治にも宗教家として知られていない面がある。先日寄居の荒川辺に出かけた時、偶然見つけた彼の短歌「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川きしの片岩のいろ」を見つけた。盛岡高等農林学校の2年生の時、秩父方面に地質調査に訪ねたころの作品で、『 』に入れた句は、石碑にも「 」で
囲ってあったが、片岩を「粋なもやうの博多帯」とする感性の持ち主であると発見したことである。
 2014/07/26記

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小品文雑談

小品文雑談
 「小品文」が流行してから書店の広告には、書簡、論文まで小品文に並べられ、これは商売の為で、依拠するには足りぬ。第一義として紙幅が少ない物というのが一般的意見だ。
 だが紙幅が少ないというだけが小品の特徴ではない。幾何の定理は数十字に過ぎないし、「老子」はわずか五千言だがいずれも小品とは言えない。これは仏教の小乗の如くで、まず内容を見、それから篇幅を講じる。小さな道理や道理のない長編でもなければ、小品と呼べる。骨力のある文章はきっと「短文」というに如かず。無論短いのは長いものに及ばないが、わずか数句では森羅万象を尽くす事も出来ぬが、それは「小」ではない。
 「史記」の「伯夷列伝」と「屈原賈誼列伝」は引用された騒賦を除けば、実は小品に過ぎぬが、「太史公」の作であり、よく目にするから誰もこれを選んで翻刻しない。晋から唐まで何人も作家がいるが:宋文は知らぬが「江湖派」の詩は確かに私の言う所の小品だ。今みんなが提唱するのは明清のもので、「性霊を抒写する」のが特色だ。当時、一部の人は確かに性霊を抒写でき、気風と環境、そして作者の出身と生活も、ただこの様な意味から抒写することができ、そういう文が書けた。性霊の抒写というが、その実、後にパターン化し、「性霊の賦」に過ぎず、例文通りに書かれるようになった。勿論危難を予感する人もいて、後に自ら危難にもあったから、小品文には時に感憤も挟まれ、文字の獄の時には全て廃棄、削除され、それで我々が目にするのは「天馬空を行く」のような超然とした性霊だけとなった。
 これは清朝の検査選定した「性霊」を経て今日に到り、うまい具合に明末の洒脱はあるが、清初の所謂「道理に反した」ものはなくなり、国が存する時の高士は、国が滅びても逸士を失うことは無かった。逸士も資格を持つべきで、まず「超然」であり「士」とは庸奴を超え、「逸」とは責任を超えるのだ:今、特に明清の小品を重んじるのは、実は大いに理由があるのは怪しむに足りない。
 だが「高士で逸士を兼ねる夢」はきっと長続きはしないだろう。この一年来大きな破綻をきたし、自ら少し高いと思い、紙面一杯に空言を弄し、でまかせを言う下流なものは、道化や低俗な役者と同じで、主意はただ、公子たちの舞踊の資となるだけで、舞女たちと商売を競っているだけの憐れな状況にある。すでに五四運動前後の鴛鴦蝴蝶派の数段下である。
 小品文盛行のため、今年もまた所謂「珍本」がよく出た。論者の中に心配する人もいる。私は無用とは思わない。原本の値段は高く、大抵買えないが、今や一元数角で現代の名人の祖師や昔の性霊を読むことができ、彼らがどのように手間暇かけ、今の性霊はどのようにして学び、難しい問題にこつこつ取り組み、たとえどんなに難しい問題でも、識見を持っていなくても、難しい問題に二度と騙されることの無いようにできるではないか?
 しかし「珍本」は「善本」ではなく、まさに無聊なので、誰も読まず、日ならずして消えて減少する:減少するから「珍」となる。たとえ古書店で大枚を払わねばならぬ「禁書」でも、全てが慷慨激昂し、人を奮起させる作品ではなく、清初、ただ単に作者が禁じられた為で、往々内容とは関係が無い。この種の本は読者に選択する目が必要で、識者も相応の指摘をすることを希望する。     12月2日

訳者雑感:「珍本」というのは日ならずして読む人が減って行き、本自体が少なくなるから「珍」であって、「善本」ではない、というのは面白い指摘だ。史記の列伝はどこでも目にすることができるから、珍本ではなく、善本だろう。僅か五千言しかない「老子」は小品ではない、というのも面白い。
     2014/07/18記
     

 

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孔另境編「当代文人書簡抄」序

孔另境編「当代文人書簡抄」序
 日記や手紙はこれまでなにがしか読者むけであった。以前の朝章国故の美辞麗句や清詞に抑揚をつけ、如何にして請托するかを見ると、名人でも日記や手紙すら気ままに書くことができなかった。晋人が手紙を書くのもすでに「匆々と草書で書く暇が無い」と言わねばならなかったが、今日の人は日記を書くとなると、つい日々伝抄を防ぎ、出版に及ばぬことになる。ワイルドの自叙はいまだに一部未公開で、ロマンロランの日記は死後十年してやっと発表されたが、我が中国ではできないだろう。
 しかし、現在、文人の非文学作品を読むのは古人の目的とは違っていて、少し欧化した:昔は文壇の故実の考察にあり、最近は作者の生きざまの探索にある。後者の方が多いようだ。一個人の言行は、ある人達が知りたがり、また他の人が知るのを妨げないが、一部はそうではない。しかし人の感情は他の人に知られたくない事を知りたがろうとし、その為書簡にも出路ができる。これはけっして隙間から覗き見して、隠された私事を見つけるのではなく、実はその人の全体を知ろうとするためで、心に留めていない点でも、その人の――社会的一分子としての真実を見いだす事にある。
 これが「文学概論」上、著名な創作でも、作者は本来自分を掩えず、何を書いたとしても、その人はやはりその人で、藻飾をつけ、見栄で制服を着ているにすぎない。手紙は固より比較的自由なものだが、慣れて来ると慣性が出るのを免れず、他の人は今回彼が赤裸々に登場したように思うが、実は肉色でぴったりした小さめのシャツとズボンを穿いて、甚だしきは、平常けっして身につけないブラジャーもしているのだ。話はとしてはそうだが、礼服の時に比べると、今の方が真実に近い。だから作家の日記や書簡は往々、彼自身の簡潔な注釈も得られる。だが百%本当だと真に受けてはいけない。作者のある者は記帳すら、工夫をこらしており、ショーペンハウエルは梵語を使い、他人が分からぬようにしている。另境氏の編集は文人の全貌を示そうとしたものと思う。都合の良いことにショーペンハウエル氏の如く苦労して古風で難解なものにしたものは、中国にはまだ無い。ただ、私が序を書くのは、手紙を書く比では無く、どうもこうした序を書く拳経(形式?)を使うのを免れぬ:編者、読者諸氏のご賢察を賜りたく。
  1935年11月25日夜、魯迅、上海閘北の且介亭に記す。

訳者雑感:魯迅もその後結婚することになる自分の教え子の許広平との往復書簡集を公開しているが、これなどは出版に際して、本人も何がしかの修正を加えたものだろう。
ショーペンハウエルが梵語で書いたとか、石川啄木も家人に読まれても分からぬようにとローマ字で日記を書いたが、やはりこれも後に公にしておるから、ロマンロランの死後十年してから公開を許すとか、やはり文人は何か生きた証を後世の人に残しておきたいという強い願望があるのだろう。芭蕉も「奥の細道」を何回も手を入れて、兄や各地の友人に残してきたが、生前に出版することは肯んじなかった。これも尋ねた先の人達への影響に配慮したのかもしれない。       2014/07/16記

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ドストエフスキーのこと

ドストエフスキーのこと
――日本の三笠書房「ドストエフスキー全集」普及版のために
ドストエフスキーのことを2-3書かねばならぬことになった。何を書こうか?彼は大変偉大だが、私は彼の作品を細心に読んではいない。
回想すると、若い頃偉大な文学者の作品は読んだが、作者を敬服するが好きになれなかったのは二人いた。一人はダンテ。あの「神曲」の「煉獄」に私の愛する異端があり:
鬼魂が大変重い石を手で険しい岸壁の上に押し上げた。これは極めて力を要す作業だが、手を放せば即刻自分が押しつぶされる。なぜか知らぬが自分もとても疲れ果てたようになった。そこで私はそこに留まって天国に行けなくなってしまった。
 もう一人がドストエフスキーだ。彼が24歳の時に書いた「窮乏した人」を読み、彼が晩年の様に孤独寂莫なのに驚いた。後に彼は大変罪深い罪人となると同時に、残酷な拷問官になって現れた。小説中の男や女達を、万難を忍受する境遇に置き、彼らを試練し、表面的な潔白を剥ぎ取るだけでなく、内蔵されている罪悪を拷問でえぐり出し、更にはその罪悪の内にある潔白もえぐり出す。しかしそれをあっさり殺す事は肯んじず、できる限り長く生きさせようとする。ここでドストエフスキーは罪人と一緒に苦しみ、拷問官と共に喜んでいるようだ。これはけっして通常の人のできることではなく、要するに偉大なる故だ。だが私自身は常々、読まないで放り出そうとする。
 医学者は往々にして、病態を使ってドストエフスキーの作品を解釈してきた。Lombroso(イタリアの精神病学者)式説明は、現今の大多数の国できっととても便利なため、一般人の賛同を得られている。が、たとえ精神病者としても、ロシア専制時代の精神病者で、彼に似たような重圧を受けたら、受ければ受けるほど、彼のあの誇張を挟んだ真実を理解でき、ぞくっと身ぶるいせざるを得ないほどの熱情で、堪忍袋も破裂しそうになると、彼を愛するようになることだろう。
 しかし中国の読者として、私はドストエフスキー式の忍従をよく理解できない――暴虐に対する真正な忍従について、中国にはロシアのようなキリストはいない。中国に君臨するのは「礼」で、神ではない。百%の忍従は嫁ぐ前に死んだ許婚の夫に、堅苦にずっと頑なに80歳まで生きた所謂節婦の身に、ひょっとして偶然見つけ出す事が出来るかもしれないが、一般の人には無い。忍従の形式はあるが、ドストエフスキーのように掘り下げて行くと、私はやはり虚偽だと思う。圧迫者は被圧迫者の不徳の一つに対しては虚偽と言い、同類に対しては悪という:圧迫者のそれは却って道徳的だとする。
 だが、ドストエフスキー式の忍従は只単に説教や教戒で完結はしない。これは耐えられない忍従だからで、あまりに偉大な忍従の故だ。人々も罪業を帯び、まっしぐらにダンテの天獄に突き進み、ここでみんなで合唱し、もう一度天人の功徳を修練する。ただ、中庸の人だけは、もとより地獄に落ちる心配は無いが、きっと天国にも行けないだろう。
                  11月20日
訳者雑感:私もドストエフスキーの作品は途中で投げ出してしまったからコメントは無い。
 魯迅が指摘している点で『中国にはロシアのようなキリストはいない。中国に君臨するのは「礼」で、神ではない。百%の忍従は嫁ぐ前に死んだ許婚の夫に、堅苦にずっと頑なに80歳まで生きた所謂節婦の身に、ひょっとして偶然見つけ出す事が出来るかもしれないが、一般の人には無い。忍従の形式はあるが、ドストエフスキーのように掘り下げて行くと、私はやはり虚偽だと思う。圧迫者は被圧迫者の不徳の一つに対しては虚偽と言い、同類に対しては悪という:圧迫者のそれは却って道徳的だとする』がとても印象的だ。
 中国にキリスト教会が再建されつつあるが、韓国でのような急速な入信者の増加はみられない。「礼」という二千年以上の「ささえ」があり、「マルクシズム」ですら「礼」に裏打ちされた「しきたり」で排除されつつあるようだ。しかしこの「礼」は「礼教」という(妖怪)にまで巨大化し、自分の出世の為には手段を選ばず、「礼」も放り出して人を食ってそれを糧にしてきた歴史がある。八千万人以上となった「共産党と言う名の党に入党した人びと」に「礼」のある人はどれくらいいるのだろう。上層部まで昇りつめた人はきっと少ないに違いない。「礼」と「昇官」は相容れないものなのだろうか。
        2014/07/14記


 

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蕭紅作「生死の場」序

蕭紅作「生死の場」序
 もう4年前の事だが、2月に私は妻子と上海閘北の火の海にいて、中国人が逃げ出し、死亡して後を絶ったのをこの目で見た。後に数名の友人の助けでやっと平和な英租界に逃れたが、難民は道いっぱいにあふれてはいたが安全だった。閘北から4-5里だが、こんなにも違う世界――我々はどうやってハルビンのことを思い浮かべられようか。
 本編が我が卓上に届いたのは今年の春。私はすでに閘北に戻っていて、周囲は又賑やかさを取り戻した頃だ。だが5年前とそれ以前のハルビンを見た。これは無論略図に過ぎず、叙事と写景は人物描写に勝るが、北方人の生に対する強靭さ、死とのあらがいは、往々、紙背を透し:女性作家の細やかな観察と、軌を越えた筆致はまた多くの明麗さと新鮮さを増している。精神は健全で、文芸と功利を強く関係づける人を憎み、そんな人がこれを見てゆくのは、とても不幸で何の得る所も無い。
 文学者はかつて彼女の作品を出版しようとし、原稿を中央宣伝部の書報検査委員会に提出したが、半年放置後、不許可となった、人は常々、事後に聡明になるようで、回想するとこれは正に当然の事だ:生への強靭さと死へのあらがいは、きっと大いに「訓政」(孫文の軍政、訓政、憲政の3つの時期の一つ、政府が民衆に民権の使い方を訓練させる)の道に大きく背いたのだ。今年5月、ただ「略談皇帝」の一篇のため、この気焔万丈の委員会は忽然煙火が消滅し、「身を以て則となり」実地の大教訓となった。
 奴隷者(青年作家団の名)は血と汗で得た数文の金で、この本を出そうとしたのが、我々の上司が「身を以て則となった」半年後で、私に序を依頼してきた。然しこの数日、デマが飛び、閘北の賑やかな居民は又頭を抱え、ほうほうの体で逃げ出し、道は荷物と人でごった返し、路傍には黄白の外人が、この礼譲の邦の盛況を笑いながら見ていた。自分は安全地帯にいると思っている新聞社の新聞は、この逃亡者たちを「使用人連中」「愚民」などと称した。私は彼らの方が利口だと思った。少なくとも経験から偉そうなことを言う官報の文章は信用できぬと知っている。彼らはまだ記憶に新しいのだ。
 今1935年11月14日夜、私は灯下で再び「生死の場」を読み終えた。周囲は死んだ如く静かで、聞きなれた隣人の声も無い。食べ物売りの声も無いが偶々遠くに犬の声がする。思うに英仏租界はこんな状況ではなく、ハルビンも違うだろう:私とそこの居民は互いに違った心情を抱き、違った世界に住む。しかし私の心は今古井戸の水の如く、微波すらたえず、麻痺したように以上の文字を書いた。正に奴隷の心だ!――だが、もし読者の心を動かせるとしたら?それなら我々は決して奴才ではない。
 だが私のしずかに坐して牢騒とした話しを聞くより、次の「生死の場」に進む方が良い。
彼女は君たちに強靭さとあらがう力を与えてくれるから。
      魯迅

訳者雑感:魯迅が4年前というのは1932年の1.28の上海戦争(日本では事変)である。
出版社注では「略談皇帝」は「閑話皇帝」が正しく、この中で古今内外の君主制度を取り上げ、日本の天皇にも及んだため、にほんの上海領事が「天皇を侮辱し、国交を妨害する」との名目で抗議した。国民党政府は圧力に屈して、この機に便乗して進歩的世論を制圧した、との説明がある。
 この2-3年、日中間で、或いは日韓間で、相手側から「軍国主義の復活をたくらんでいる」とか小島の領有権をめぐっていろんな抗議を受けてばかりいる。それで日本の言論界の進歩的な世論が制圧されることが無いように願う。自虐的な報道をするな、とは右の政治家と一部の新聞がこれまでリベラルだといわれてきた複数の新聞を攻撃する材料を与えている。
 それにしても、自衛隊の記念集会をなぜソウルでするのだろうか?
アメリカやイギリスでやっているのだろうか?
   2014/07/12記

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