忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

小品文雑談

小品文雑談
 「小品文」が流行してから書店の広告には、書簡、論文まで小品文に並べられ、これは商売の為で、依拠するには足りぬ。第一義として紙幅が少ない物というのが一般的意見だ。
 だが紙幅が少ないというだけが小品の特徴ではない。幾何の定理は数十字に過ぎないし、「老子」はわずか五千言だがいずれも小品とは言えない。これは仏教の小乗の如くで、まず内容を見、それから篇幅を講じる。小さな道理や道理のない長編でもなければ、小品と呼べる。骨力のある文章はきっと「短文」というに如かず。無論短いのは長いものに及ばないが、わずか数句では森羅万象を尽くす事も出来ぬが、それは「小」ではない。
 「史記」の「伯夷列伝」と「屈原賈誼列伝」は引用された騒賦を除けば、実は小品に過ぎぬが、「太史公」の作であり、よく目にするから誰もこれを選んで翻刻しない。晋から唐まで何人も作家がいるが:宋文は知らぬが「江湖派」の詩は確かに私の言う所の小品だ。今みんなが提唱するのは明清のもので、「性霊を抒写する」のが特色だ。当時、一部の人は確かに性霊を抒写でき、気風と環境、そして作者の出身と生活も、ただこの様な意味から抒写することができ、そういう文が書けた。性霊の抒写というが、その実、後にパターン化し、「性霊の賦」に過ぎず、例文通りに書かれるようになった。勿論危難を予感する人もいて、後に自ら危難にもあったから、小品文には時に感憤も挟まれ、文字の獄の時には全て廃棄、削除され、それで我々が目にするのは「天馬空を行く」のような超然とした性霊だけとなった。
 これは清朝の検査選定した「性霊」を経て今日に到り、うまい具合に明末の洒脱はあるが、清初の所謂「道理に反した」ものはなくなり、国が存する時の高士は、国が滅びても逸士を失うことは無かった。逸士も資格を持つべきで、まず「超然」であり「士」とは庸奴を超え、「逸」とは責任を超えるのだ:今、特に明清の小品を重んじるのは、実は大いに理由があるのは怪しむに足りない。
 だが「高士で逸士を兼ねる夢」はきっと長続きはしないだろう。この一年来大きな破綻をきたし、自ら少し高いと思い、紙面一杯に空言を弄し、でまかせを言う下流なものは、道化や低俗な役者と同じで、主意はただ、公子たちの舞踊の資となるだけで、舞女たちと商売を競っているだけの憐れな状況にある。すでに五四運動前後の鴛鴦蝴蝶派の数段下である。
 小品文盛行のため、今年もまた所謂「珍本」がよく出た。論者の中に心配する人もいる。私は無用とは思わない。原本の値段は高く、大抵買えないが、今や一元数角で現代の名人の祖師や昔の性霊を読むことができ、彼らがどのように手間暇かけ、今の性霊はどのようにして学び、難しい問題にこつこつ取り組み、たとえどんなに難しい問題でも、識見を持っていなくても、難しい問題に二度と騙されることの無いようにできるではないか?
 しかし「珍本」は「善本」ではなく、まさに無聊なので、誰も読まず、日ならずして消えて減少する:減少するから「珍」となる。たとえ古書店で大枚を払わねばならぬ「禁書」でも、全てが慷慨激昂し、人を奮起させる作品ではなく、清初、ただ単に作者が禁じられた為で、往々内容とは関係が無い。この種の本は読者に選択する目が必要で、識者も相応の指摘をすることを希望する。     12月2日

訳者雑感:「珍本」というのは日ならずして読む人が減って行き、本自体が少なくなるから「珍」であって、「善本」ではない、というのは面白い指摘だ。史記の列伝はどこでも目にすることができるから、珍本ではなく、善本だろう。僅か五千言しかない「老子」は小品ではない、というのも面白い。
     2014/07/18記
     

 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R