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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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1903年 中国地質略論

1903年 中国地質略論
第一、緒言
 国情を調べるのは容易だ。国境を越え、市を探せばよい。一枚の自制の精密な地質図(及び地域文明と土質などの図を併せたの)が無いのは非文明国だ。それだけではすまない。殆どがきっと化石となり、後人は手をもみながら嘆息することになり、おくり名に曰く:絶滅種(Extract species)の祥となる。

 吾広く美しい愛すべき中国よ!誠に世界の天府、文明の開祖也。凡そ諸科学の発達したのは遥か昔、況や測量造図は末技とされた。なぜ地形を絵図にしたもので、分図は多いのだが、集成すると境界線は合わず:河流を俯瞰し、山岳は常に旁の形状である。デタラメで暗愚でぼやっとして何も考えない。これでは何を以て地質を論じ、何を以て地質の図を論ずることができようか。嗚呼、この小さな事が、吾を怖れさせ悲しませる。蓋し吾はインドの詳細図がかつてロンドンの書肆に展示されていたのを見た。況や、中国も孤児となって、人はこれを得て、魚肉のように扱う:だがこの孤児はまだぼやっとして知識に乏しく、その家の田宅に財貨がどれほどあるかも知らぬ。盗人がその部屋に来るや、持てる物を盗人に贈り、主人として、漠然と察知せず、残った羹を得て、冷めたものを炙り、大いに嘆じて曰く:「我に衣食があれば、我に衣食があれば」と。
そして独り兄弟の所へ行き、些細なことで争い、刃杖を手に仇をさがし、以て自ら相殺す。嗚呼、こんな状態では弱水が四周をとりまき、戸を鎖して孤立し、猶将に天行に淘汰され、日を以て退化し、猿鳥大蛤藻となり、非生物になる。況や、当に強種が鱗々と、吾四周にからみつき、箕のごとくに手を伸ばし、垂涎は雨となり、造図は説を列し、奔走して相議し、左手で刃を操つらないなら、右手で算を握り、吾は何を以て生きてゆくのか知らず。而して、何を以て風水家相の説を図とし、猶人心に深く刻み、つとめて冨源を杜絶し、自ら阿鼻(地獄)に就く。家相は大いに佳なのを知らず、公等は亦死す:風水破らず、公等亦滅ぶ。おくり名に曰く、愚の至り。どうしてうまくゆかぬなどと言うのか。また微笑を獲んとして、盗人を部屋に引き入れ、巨資はすでに虜となり、更にその家を焼くは吾漢族の大敵なり。凡そ迷信で国を弱め、自身の家を利し、群を害す者:歴代の民賊が経営養成したとはいうが、亦ただ地質学の発達をさせなかった故である。

地質学は地球の進化史だ:凡そ岩石の成因、地殻の構造は皆深く研究された。それを以て中国に貢じれば、すなわち色々のもの塵の球などを知ることができ、歴史を経て変化し、こういう相が造成されたものだ:無量の宝蔵を包含しておるから吾生を繕うに足るといえども、初めは大神秘、不可思議な物はなく、その間に存し、以て吾人の運命を制す。それ故にまず学者の中国地質に関する説を綴り、著して短い物を作り、吾民に報告する。本論にはいくつか空譚があふれるが、この法則を読めば、吾中国大陸の状況は略その概略を得るに似たり。

第二。
 外国人の地質調査
 中国は中国人の中国である。だが異民族の研究を容認するも可である。外国人の探検を容認するか:外国人の讃嘆を容認するは可だが、外国人の野心家は容認できない。しかし彼らは手足のタコも気にせず、吾内地に入り、オオカミやタカのようにぐるぐる見て回り、将に何をせんとするか?詩に曰く「子鐘鼓あり、たたくなかれ、打つなかれ。その死の後、他の人がそれを保つ」そうすれば、未来の聖主人は以て将に恵臨し、まず帳目を稽すも、それ何を怪しむや。左に(縦書きのためだから横書きでは下に)諸子を挙げればみな大変有名だ。
そのほか、幻のような旅人として変相して偵察するのはどれ程か知らない。山川を跋渉し、秘密を探索する。世界の学徒はみなかくの如し:しかし吾は之を知り、ぞっとして血が涌く。吾知らずば、なんと祥たることか?

 1871年リヒトホーヘンは(租界の)上海商業会議所の嘱託として、香港から広東、湖南(衡州、岳州)湖北(襄陽)四川(重慶、叙州、雅州、成都、昭化)に達し:陝西(鳳翔、西安、潼関)山西(平陽、太源)に入り、直隷(正定、保定、北京)に向かった。そして再び湖北(漢口、襄陽)に下り、山西(澤州、南陽、平陽、太源)を往来し、河南の懐慶を経て上海に至り、杭州に入って、寧波の舟山島に上陸し、全浙江をくまなく調べた。又長江を遡上し、蕪湖に至り、江西北部を調べ、折れて江蘇(鎮江、揚州、淮安)に行き、山東(沂州、泰安、済南、芝罘)に入った。碧眼を炯炯とさせ、うまい具合にいったと悦に入ったようだ。その志は止まることなく、三度山西(太原、大同)再度直隷(宣化、北京、三河、豊潤)に至り、開平炭鉱(開欒炭)を徘徊し、盛京(奉天、錦州)に入り、はじめて鳳凰城から栄口に出た。3年かけたその旅行距離は2万里以上。報告書を3冊作り、それで世界第一の石炭国の名が世界に広まった。
その趣旨に曰く:支那大陸は均しく石炭を埋蔵しているが、中でも山西が最も豊富である:しかし鉱業の盛衰はまず輸送が重要で、膠州(湾)を扼するなら、山西の鉱業を制するに足る。それ故、支那分割はまず膠州を得るのを第一とす。
嗚呼、今どうなっているか?文弱な地質学者というなかれ。眼光と足跡の間に、実に無限の堅く強い戦争のうまい軍隊を有している。蓋しリヒトホーヘン氏の遊歴以来、膠州はとっくに我が所有ではない。今ゲルマン民族は山西との間を往復するのは、皆リヒトホーヘンの化身で中国大陸を淪落する天の使いである。我が同胞よ、如何とするや。

 1880年、ハンガリーの伯爵Szechenyiは愛妻を失くし、旅に出てその苦しみをやわらげようとした。3人の地質学者を伴い、上海から長江を遡上、湖北(漢口、襄陽)に達し、陝西(西安)甘粛(静寧、安定、蘭州、涼州、甘州)を経て国境を出:また甘粛(安定、鞏昌)に入り、四川(成都、雅州)雲南(大理)を調査し、ミャンマーに出た。3年かけ、十万金を使い、紀行を3冊出した。蓋し、リヒトホーヘン氏探検の未詳の地を加える意があったようだ。
 
 4年後、ロシア人アグリエフが北部の満州、直隷(北京、保定、正定)、山西(太原)、甘粛(寧夏、蘭州、涼州、甘州)、蒙古などを回った。3年後、フランスのリヨン商業会議所の探検隊10人が南部の広西、河南(河内)、雲南、四川(雅州、松潘)などを探検した。精密調査は広西、四川が最も詳しい。この諸地域はロシア・フランスの植民地に接しているではないか?これを恐れずにいられようか!
 先年日本の理学博士神保、巨智部、鈴木の遼東行き、理学士西和田の熱河行き、学士平林、井上、斎藤の南部各地行き、いずれも地質調査を目的とした。和田、小川、細井、岩浦、山田の5人の専門家はまた緒処を勘探し、以前の探検者の誤謬を訂正したものを提出したのは去年の事。

第三 地質の分布
 昔、ドイツ哲学者Kantは星雲の説を唱え、フランス学者のLaplaceはこれに和した。地球は宇宙の大気中に析出した一部だとし、空間を旋回し、何億万劫を経たかは分からぬが、凝固して流(液)体となり:その後冷縮して外皮は遂に硬くなり、地殻となった。その中心についての議論は大変多い:内部融体説あり、非融体説もあり、内外固体の間に融体を挟む説もある。其々の学理によって文章で議論している。しかし地球の中心は奥深くて測ることはできず、どれくらいの幅かも弁ぜんとしてもとても難しい。ただ理想としての名で以て、地面の初めをFundamental formationとしている。その上の地層は当時の気候状態と内蔵された化石の種類により、四大代Eraに分け、細分して紀Periodとし、紀を更に分けて世Epocとしている。しかし、この緒地層もまた吾人の立足地を掘らなければ、即燦然と卒備できる。大部分はみな残缺錯綜し、各地に散在分布している。吾中国の場合は常にここに新しいものを発見し、あそこにも古いものを獲得する。蓋し、太古の気候、水陸が入り混じり、地層は一致し難い。なお人類史を論じる者は、専制立憲共和は政体の進化の公例とよく言う:だが専制は厳密に、一本の血刃で突如共和とするが、これを歴史の間にそうすることはできない。地層の例もまた同じである。今中国のことを言えば、即ち下記の如き地質年代(Geological Chronologyである。

(一)原始時代或いは太鼓時代 Archean Era
 地球が初めて生成し、気が凝固して水となり、当時の遺跡は原始地殻で初めて地質学者が目にできるものだ。それ故、吾らが見ることのできる地層はこれが極めて古いものだ。その岩石は片麻、雲母、緑泥が多いが、みな火力で変質したもの。標準的な石層を調べると略生物はいない。ただ、石類を分析すると:  (12)  Laurentian Period
(11)  Huronian Period
二紀である。後にEozone(初生生物の意)が発見された説がでたが、ドイツ人メイピヤオの研究結果、その誤謬が明らかになった:蓋しその頃、天は荒れ、地上の生物は枯れ、微生物の命も絶無だった。難解なのは岩石中に時に石灰、石墨に属すものが含まれていること。その石灰(石油?)は動物の遺骸、石墨(石炭?)は植物の残骸で、生物がいなければ、どうしてこれがあるのだろう?
しかしある人は言う、これらは必ずしも生物の力でできたのではない、と。今なお疑問である。吾中国でこれを探すと、両紀は均しく黄海沿岸でこれを見つけられる。どのように埋蔵されていたか分からぬが、太古時の地層に金銀銅プラチナ、カーバイド、ルビーなどが常にあり、それらは吾黄海沿岸地方にもあり、まさにこれだと分かる。

(二)古生代 Palaeozonic Era
 生物が初めて存在し、故に生物の名で6紀に分ける:
 (10) Cambrian Period
  (9)  Silurian Period
  (8)  Devonian Period
  (7)  Carboniferous Period  石炭紀
  (6)  Permian Period   二疂紀
 岩石は非常に多く、水成岩は砂、硅、粘板、石灰など:火成岩は花崗、角閃石、輝石など。石類は少ないものから多い物まで沢山あり、生物も単純なものから複雑なものまであるが、(10)紀になると、より鮮やかに見られる。(9)紀になると、藻類、三葉虫、サンゴ虫の族が日に日に盛んとなるが、水生物となって止む。
(8)紀に入ると魚、葦、鱗木、印木とだんだんと水生から陸生に向かう。しかし唯隠花植物だけで、高等植物はまだ見られない。(6)紀に降ると両棲動物と爬虫類が現れ、日ごとに変遷して高等化に進む。造化が自ら進化するのをダーウインがこれを剽窃し、19世紀の偉大な著者となった。

 埋蔵鉱物はこの代が最も豊富である。(10)紀のものは中国にも見られ、遼東半島から朝鮮北部まで土質は確かにやせて、石が多く平らでなく、農産物には適さないが、金銀銅錫などの産出は実に他の紀の緒岩石に勝る。土地の人は僅かに石の多い田を耕すだけで生計に余裕がある。(9)紀の岩石は、陝西から四川の山間に分布し、多く金を産す。(8)紀の岩石は雲南北境及び四川の東北にある。変質岩中によく玉類を含み、岩石鉱脈の間にまた少し銀鉄銅鉛を産し、全世界を探してもこの紀の岩石が最も多く、石類もまた均しく適用できる。その次の
(7)紀は石炭類が多く、故に石炭を以てその名とする。そして吾中国本部に実にくまなく分布し、これの無い所は無い。合計量は欧州をはるかにしのぐ。(第5に詳細付す):実にパンドラの万禍の箱の底の望みで、これを得れば、光明輝く前途は近いが、これを失えば又愁え苦しみ、ついには死をもって終わる也。吾国人よ、それうまく選択せよ!
 
(三) 中生代 Mesozoic Era
 この代を組成するのは岩石と粘板、角、硅、及び粘土などで、或いは岩塩、石炭、石膏の地層を含み、三紀に分け:
 (5) 三疂紀 Triassic Period
  (4) 侏羅紀  Jurassic Period
  (3) 白亜紀 Cretaceous Period
 前紀の生物はすでに消滅し、故に(5)紀の時、鱗印初諸木は衰えて久しく、松柏、蘇鉄、羊歯の諸科がそれに代わって植物界の主権を握った。(3)紀になって、無花果、白楊、柳、櫧(カシ)など被子植物が現れ、現在世界と殆ど差がなくなった。動物は前代に爬虫類が現れ、日増しに発達し、有袋類も生まれ、哺乳類の先導となった。(4)紀は怪獣類が現れ、陸上に跋扈し、歯を持つ大鳥が太空を飛び、蓋し生物誕生以来、このような奇怪なものが繁栄したのも珍しいこと。
且つ又菊石、べレムナイト類も大繁殖し、その遺骸が(3)紀の地層を造成し、即ち学校で使う白墨も、この微生物の余恵だ。(3)紀になると生物界に大変革が起き、旧動植物は衰えるか滅び、広葉樹と硬骨魚が興った。

 (5)紀の中国では、チベットで有用な鉱物の岩塩、石膏、銅鉄鉛など。(4)紀には、シベリア東方から中国本部まで、時に有用な鉱物もあるが、石炭は極めて少ない。(3)紀は有用鉱物も少なく、中国の最も西の方はそうだ。

(四) 新生代 Cenozoic Era
 新生代は地質時代の最後の地層で、その末葉。即ち、吾人の生息の歴史で、二紀に分けて曰く:
 (2) 第三紀 Tertiary Period
 (1)  第四紀 Quaternary Period
 岩石の表面は粗く、流紋、玄武、及び粘土、砂礫、泥炭など。生物は今と殆ど大差ないが、細かく見れば違う点は大変多く、象、獏、角獣、恐鳥などがある。その盛衰も順を追って進行し、洪積世に至って人類が生まれた。
 
 (2)紀は中国全土に分布し、鉱物は金属もあり、且つ石炭も産出するが、新しいもので、石炭紀の物には遠く及ばない。(1)紀は世界中に見られ、中国揚子江北部のLoess(黄色で層の無い灰質岩石)即ちこの時代に堆積した砂土で:黄河付近の黄土で、この時に生成されたロームの一種だ。

 第四 地質の生成
 地球誕生の前、吾中国も亦気体の一部に過ぎず、言うべきことも無い。故に地球の生成後に始まる。
(一)太古の中国 太古の地球は洪水があふれ、烈火も激しく、土地も出水は少なく、生物と言えば、その状況を瞑想するに、洪水と怒涛のみ。地殻は変形し、崑崙山脈が忽然と隆起し:蒙古の一部と今の山東は水から離れて陸となり、海から隆起したが、その他はただ巨大な波が際限なく、怒涛が天を払うのみ。
(二)古生代の中国  地殻と地心(中心)は苦闘久しく、その後地心の花崗岩の流体は火力に挟まれ、泉涌して海陸に流れ出し、地殻はこれに随って水面に隆起し、東宝アジア大陸を構成した。秦嶺以北は断層が諸方に分走し、台地となり、大葦鱗木印木などの巨大植物が繁殖した。以北は地層がつねに波状に屈折し、山脈の様な形となった。その後、風雨に剥蝕され、海浪の衝激で、秦嶺以北は徐々に海底になり、無量の植物が水石の圧迫を受け、地心の熱力で次々に枯れ死んだ。しかし地心の火力はなおそれまで無いほど衝突を続け、それで水中から再び隆起し、階段状の台地になり所謂シナ炭田が実にこの時に形成された。しかしその南部は海底に沈み、西北から横の圧力を受け、秦嶺以南の地層は遂に波状に隆起し、所謂シナ山系(南嶺)となった。

(三)中生代の中国 火山活動はここに至ってやや衰え、唯南方の一部は徐々に淪陥し、新しい地中海となり、これが今日の四川盆地(四川の赤盆砂地)で、それが南シナの炭田だ。ヒマラヤ山系が嶄然と頭角をあらわして後、南部中国ははじめて陸地となった。その後南京と漢江の北に、北京方面に分走する二つの断層だ生じ、陥落して中原となり、歴代の梟雄が鹿を逐う地となり、吾中国の旧史の骨子を造った。

(四)新生代の中国 人間は新生代の初め、水と火の威力が日ごとにやわらぎ、甘粛と蒙古地方は昔、内海だったが、だんだん干上がって涸れ、砂漠となった。しかし暴風が強烈で土砂は埃塵となり均しく風に随って飛ばされ、黄河流域に運ばれ黄土となった。揚子江北部も広大な砂漠となり、後に風に吹き払われ、雨に侵潤され、何回も堆積した。それが累積となって中国で大いに生成された。そのほかは今日の地形と大差ない。
 第五  世界第一の石炭国
 世界第一の石炭国! 石炭は国家経済の消長に密接な関係を持ち、盛衰生死を決す大問題だ。蒸気で力を生む世界は石炭を原動力とし、これを失えば機械は悉く止まり、鉄の軍艦も役に立たぬ。電力で力を生むと言うが、石炭も又一方の覇権を分掌でき、一国の生死を操ると断言できる。故に、英米の如く均しく枯れ死んだ植物の魂を以て、一世をほしいままにした:今日ようやく尽きようとし、あちらでもこちらでも全ての人は、胸に手をあて愁嘆し、驚き怖れながらこれを探す。列国かくの如し。我が国は如何? リヒトホーヘンは言う:
「世界第一の石炭国!……」
今日本の地質調査者の報告に依ると、石炭の大小の位置は左図(縦書きだったからで、今の横書きでは右の図となる:中国全図と日本海を含む旧満州と日本の2枚あるが、翻訳では描けないので割愛する)即ち:
 ●満州7所
  蕪河水
  賽馬集
  太子河沿岸(上流) 
  本渓湖       (以上 遼東)
  錦州府(大小凌河上流)
  寧遠県
  中後所    (以上遼西)
● 直隷省6所
石門塞(臨楡県)
開平
北京の西方(房山県付近)
保安州
蔚州   西寧州
● 山西省6所
東南部炭田  西南部炭田
五台県   大同寧民府間炭田
中略(音訳) 西印子(音訳)
● 四川省1所
雅州府
● 河南省2所
南召県  魯山県付近
● 江西省6所
豊城   新喩
萍郷   興安
楽平   饒州
● 福建省2所
邵武県  建寧府
● 安徽省1所
宣城
● 山東省7所
 沂州府  新泰県
 菜蕪県  章丘県
 臨楡県  通県
 博山県及び淄川県
● 甘粛省5所
 蘭州府  大通県
 古浪県  定羌県
 山丹州
 等43所である。この外に湖南東南部に有煙炭、無煙炭田がある由。ざっと計2万1千平方マイルといい、まだ根拠は示されてないが、吾中国炭田で未発見の物がどれ程あるか知らぬが、まさか湖南だけに留まるだろうか? 今、図(15ページ)の山西省の有煙無煙の大炭田だけでも約13,500平方マイル合計7百万歩(日本の面積単位で坪と同じ)、ほかの炭田を加えると、ごく少なめにみても1千万歩ある。平均の厚さを30尺とすると、1立方坪の重量は8MTで、総重量は凡そ1兆2千億トン。年1.2億トン掘っても1万年尽きない。更に湖南の伝説の炭田を加えると、566万歩、即ち6、800億トンある。吾はこれを以て自ら慰む。しかし、一つの奇妙な現象あり、即ち、吾前言と逆で、曰く:中国は石炭で滅ぶ、というのだ。列強の領土の中では、すでに無くなりつつあり、中国はその盛衰問題の解決の真っただ中にあり、列強の将来の工業の盛衰は、ほとんどシナ占領の得失かかっている。奮起して人に先んじられぬようにせねばならぬ。次から次へと割譲の話が出て、みな血眼になって分割させようとし、直接炭田を睨んでいる。我々はまた麻痺して無感覚の状態でいると、無量の巨大な資産を持ちながら、使い道を知らず、わずかな利益に満足し、自らを害している。それで山西の炭田は英国に奪われ、諸国は群がって要求して曰く:「採掘権を!採掘権を!!」と。嗚呼、10年もせぬうちにこの肥沃な中原はもはや吾曹操の故国ではなくなり、炭田を掘る旧主は、採炭の奴となり、宝蔵を放棄するどら息子となり、挙句は無知な男とおくり名される。炭田は人の欲望を起こさせるほど有るとはいえ、厳しく管理もせず使いもしない。誰の罪か。
(つづく)


 

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哀詩三首(范愛農を悼む)

哀詩三首(范愛農を悼む)
一、
風雨飄揺日   風雨飄揺とする日
余懐范愛農   余は範愛農を懐う
華頭萎寥落   白頭は萎え 髪も抜け
白眼看鶏虫   鶏や虫けらの如き輩を白眼で視た

世味秋荼苦   世間の味は秋荼(と)みたいに苦く
人間直道窮   この世に真直な道は窮まった
奈何三月前   いかんせん、別かれて三月で
竟爾失畸躬   突然畸人を失うとは

二、
 海草国門碧   水草は城門の堀に碧く
 多年老異郷   長い間異国にいたが
 狐狸方去穴   狐狸(清の役人)はやっと穴に去ったが
 桃偶已登場   桃偶(新政府の木偶)がもう登場し

 故里寒雲悪   故里は寒い黒雲に覆われ
 炎天凛夜長   炎天の日でも夜は凛と長く
 独沈清冽水   独り清冽な水に沈む
 能否滌愁腸?  愁腸を洗滌できたろか?

三、
 把酒論当世   酒を手に当世を論じ
 先生小酒人   先生は酒飲みを軽んじ
 大圜猶酩酊   天下はなお酩酊
 微酔自沈淪   微酔して自ら沈淪
 
 此別成終古   この別れが永別となり
 従茲絶緒言   茲より諸々の言葉も絶え
 故人雲散尽   故人は雲の散ずるように尽き
 我亦等軽塵   我は亦軽塵に等し!
 
 私は愛農の死後、何日も心がふさぎ、今なお釈然としない。昨日忽と三首を作り、これを書きとめ、急に鶏と虫を入れ、真に奇絶妙絶に感じ、一声霹靂したら、死にぞこないは狼狽した。今これを録し、大鑑定家に鑑定してもらおう。悪くなければ「民興」に載せる。天下はまだ必ずしも仰望もう久しくないとはいえ、然るに私も亦あにもう言わないで置くことができようか。
   二十三日 樹又言。

編者 周振甫氏の注釈:
 魯迅のこの三首は1912年に書かれた。当時辛亥革命は清王朝を倒し、民国を建てたが、魯迅はこの度の革命が失敗の運命にあることを深く認識していた。彼は当時の政局がやはり激しい風雨に揺さぶられ、清朝の支配者を追い出したとたん、傀儡がしゃしゃり出てきた。直な道は受け入れられず、正直な知識分子、范愛農のような人たちの生活は、荼を咬むように苦しく、天下は酩酊しており、社会に公正な是非は無かった。こうした辛亥革命後の中国の状況は、死に追い詰められた范愛農の時代背景を描くことにより、辛亥革命への強烈な批判となっているが、これは魯迅が深く人間の生活に入り込んで、本質をつかんで初めて得られる見方で、その結果、深く力強くなった。彼は後に「阿Q正伝」で辛亥革命を強く批判したが、この三首は民国が成立したその年に作られており、その当時魯迅はこういう見方をしていたということは、確かに非常に本質をついている。
 この三首は范愛農を死に追いやった典型としての環境を刻み描いているのみならず、范愛農の形象も描いている。「白頭」の句は范愛農が若いのに髪は白くなり、枯れて抜け落ち、彼が受けた打撃とともに、彼の生活の困窮と関係がある。彼の「白眼」で人を見るのは、(傀儡に)おもねっている連中を見下し、彼の性格をさらにはっきりさせている。詩には彼の死の理由を描き、世間はあの苦い荼のようににがく、彼の率直な性格はいたるところで壁にぶつかり、歩める道もなくなってしまった。彼は故郷にいて、寒い雲がたれこめ、明朗な日は無く、「炎天の昼も、寒い夜は長い」と彼が社会の冷酷さを感じざるを得ないことを描く。天地は酔っていると嘆じ、それを訴えるところも無く、歩める道も無い。唯「独り清冽な水に沈む」のだ。死んでも知覚があるとしても、やはり世間の哀愁を洗い流す術はないだろう。それゆえ言う、「愁腸は洗滌できたろうか?」と、更に嘆じる。
 許寿裳は「懐旧」でこの三首について説く:「1912年5月初、私は彼と海路北に来て、(魯迅先生は教育部に勤めていて、部が南京から北京へ遷ったのに伴って移動したことを指す:周氏注)北京に来た後、一緒に紹興会館に住み:私と先兄銘伯は嘉蔭堂で、彼は藤花館。……ある日、多分7月末だったか、大風雨ですごく暗い日に、彼は傘をさしてやってきて、我々に告げた:「愛農が死んだ。溺れて死んだというけれど、自殺じゃないかと思う」それから昨夜作った「哀詩」三首を我々に見せた。(次いで三首の原文を引用)先兄は読んで、大変良いと言った:私も特に「狐狸はやっと穴に去った」の二句が気に入った。というのも、その時彼はすでに袁世凱がひと芝居打とうとしているのを見抜いていたから」次いで言う:『彼はアモイで<旧事再提>の<范愛農>を書いた頃、こう書いた「夜、独りで会館にいると、とても物悲しくなり、この知らせは間違っていると思うが、また何となくこれは信用すべきだと感じた、何の根拠もないが』
 この三首の表現の手法は、注目に値する。作者は死に追い込まれた范愛農の境遇をしっかり刻んで「風雨飄と揺れる日」「天下はなお酩酊」で、総体としての状況を述べ、「桃偶(新政府の木偶)がもう登場」は政局について述べ、このように大環境から小環境に帰結して――「故里は寒い黒雲に覆われ」と描く。このような環境は范愛農に対して言えば、「秋荼(と)みたいに苦く」彼に
「この世に真直な道は窮まった」と痛感させ、歩むべき道が無い。それで作者は范愛農の当時の心境を「炎天の日でも夜は凛と長く」と書き、炎天は暑いが、夜は凛と冷たく感じ、炎天の夜は短いが、彼には長く感じられ、それで一層人の世の冷酷さを倍加させ、彼の心情の愁苦を描いた。これは正に汪中の「自序」に言う「秋荼(にがな)の甘み、或いはナズナの如し」と。秋荼は苦いがある人は甘いと言い、これは正にその人の置かれた処は、秋荼より何倍も苦いから、
秋荼も甘くなるのだ。こう書くのは根拠がないわけではない。1912年陰暦3月27日、范愛農は魯迅に手紙を書いている:
 『豫才(魯迅)様足下へ:
 私は子淵経由陳子英の手紙で、貴兄はもう南京より戻ったと知りました。南京の措置と杭紹魯衛は、(杭州と紹興はほぼ同じで、「魯衛」は、「論語」に基づけば、「魯衛の政は兄弟也」――周氏注)この様な世の中だと聞き、実際如何に生きてゆけるか?蓋し吾輩は生を受けて以来、いっこくで、波に従って流れに乗ることができず、唯死のみで、端なくも生きてゆけない。弟は旧暦正月21日、杭州に行き、自分でも迎合することが得手でないことを悟り、生を謀る機会を失くし、西湖に抛りだすこともできず、ゆえにこの小作文を留めるのみ』
 「哀范君」の詩に、「この様な世の中だと聞き、実際如何に生きてゆけるか?」
吾輩は生を受けて以来、いっこく者で、波に従って流れに乗ることができず、唯死のみで、端なくも生きてゆけない」凄苦な心境、旧社会の正直な人を死に追いやる罪悪を暴露している。
 詩中の「海草国門碧 水草は城門の堀に碧く」は李白の詩「海草三緑、国門に帰らず」を引用している。又暗に劉安の「隠士を招く」の「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋」を引き、草は緑になったことで、家に帰りたい想いを興し、それで「多年老異郷 長い間異国にいた」とつながっている。
この三首の「小酒人」は三種の解釈あり:一、小酒を飲むで「小」は酒を形容し、山東方言で少量の酒を飲むのを「小酒を飲む」という。二、小さい酒人で、「小」は「酒人」を形容し、これは酒乱になる人と異なり、少し飲んで、微酔後は飲まない。これは下文の「微酔」と相応している。三、「小」は動詞で、軽視する、酒徒を見下すこと。
 魯迅は「朝花夕拾・范愛農」で:「彼はまた今では酒を飲むのがすきになったといい、それで我々は酒を飲んだ。その後彼が町に来るたびに必ず私を訪ねてきて、とても親しくなった。我々は酔った後、愚にもつかぬ話をし、母も時たまそれを耳にして笑った」と書いており、彼はやはり酒に酔える口で、酔ったら馬鹿話をするのだから、少量しか飲めないなら酔うことはなく、「少量の酒」というのは正しくない。更に言えば、魯迅と范愛農は紹興人で山東方言は使わないだろう。「范愛農」に又言う、紹興は光復した時、彼は魯迅に向かって、「今日は我々は酒を飲まないことにしよう」と言い、彼は監学になってから「余り飲まなくなった」とあり、この事から彼の酒は愁いを解くためだったと分かる。
彼は任務をしっかり果たそうとし、酒の徒を軽視した。彼を小さな酒徒とするのは多分適切ではない。

訳者雑感:「小酒人」というのは周氏の注釈では3つの意味がある由。山東方言ではないとすると、少しの酒でほろよいになるか、酒飲みを見下すかだろうが、魯迅の作品「朝花夕拾・范愛農」の終わりごろに、手元に原詩がないから当時詩を作ったのを少し覚えていて、「把酒論天下、先生小酒人、大圜猶酩酊 微酔合沈淪」と数文字が違っているが、小酒人はそのままである。
 訳者として、この魯迅の作品の脈絡からみると、彼は少量の酒でほろよいになり、いい気持ちでいろいろ論じるのが好きだったようで、泥酔して船べりから用を足そうとして誤って浅い川に落っこちて、泳げるのに浮かんでこなかった、云々とあり、この詩の小酒人を、酒飲みを軽視するという意味で使うのは何か唐突な感じがする。
         2016/03/22記

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上海雑感

上海雑感
 何か感じた時すぐ書かないと忘れてしまう。慣れてしまうからだ。小さい頃、西洋の紙を手にすると、羊の尿の臭いがしたが、今はもう何も感じなくなった。はじめて血を見たときは気分が悪くなったが、久しく殺人の名勝地に住んだら、生首が架けられていようと奇異に感じなくなった。これは即ち慣れたからだ。こうしてみると、人間は――少なくとも私の様な人間は、自由人から奴隷に変わっても、必ずしもつらいと感じることは無いのかもしれぬ。いずれにせよ、すべて慣れてしまうからだ。
 中国は変化の多い所だが、どう変わったかを人に感じさせない。変化が多すぎるからすぐ忘れてしまう。こんな繁多な変化を覚えていようとしたら、実際超人的な記憶力がないとやってゆけない。
 しかし、1年間の所感は淡く漠然としているが、聊かは覚えていられる。どうしてか分らぬが、何はともあれ、人は皆、地下潜行、秘密活動するようになったようだ。
 これまで聞いたことは、革命家が弾圧されたら、地下に潜行、秘密活動してきたが、1933年になると、支配者も同じようなことをするようになった。
例えば、権勢家甲が権勢家乙の所へ来ると、一般人は政治の話と思うが、新聞にはそうではなく、名勝に遊びに行くとか、温泉に行くとかの話と記す:外国から外交官が来た時、彼は読者に対し、外交問題は何も無いとし、ただ某有名人が恙ないかと、表敬に来ただけという。しかし本当はそうでもないようだ。
 物書きがよく感じるのは、所謂文壇のことだ。金持ちが誘拐されて人質になるのは、上海ではもとからしょっちゅうあったが、近頃は作家もよく行方不明になる。一部の人は言う、それは政府当局に捕まったのだ、と。然し政府当局はそうではないという。だが実際はやはり政府の何とか機関に属す所のしわざのようだ。禁を犯した書籍の目録は無いが、郵送後、往々にしてその行方は知れぬ。例えばレーニンの著作なら何も奇とするに足りぬが、「国木田独歩集」も時にだめで、更にはAmicisの「愛の教育」もだ。だが、禁を犯した物を売る店はまだあり、まだあるとはいえ、いつ何時どこから飛んできたか分からぬ鉄槌で窓の大ガラスが割られ、2百元以上の大損を蒙ることになる。2枚やられた店もあり、今回は合計5百元だ。時にはビラをまかれることもあり、ビラにはいつも何とか団という連中の名前がある。
 穏健な刊行物に、ムッソリーニやヒットラーの伝記を載せ、持ちあげているが、そして中国を救うのはこういう英雄が必須だという。だが中国のムッソリーニやヒットラーは誰かという緊要な結論は、うやむやではっきりと言わない。これは秘密で、読者に対して自ら悟り、各人の責任で考えろというのだ。論敵に対しては、ソビエトロシアと断交時は、彼はルーブルをもらっていると言い、抗日の時は、彼は中国の秘密を日本に売っているという。しかし、書いたものでこの売国事件の人物を告発するときは、偽名を使い、それがもし効力を発揮したら、敵はこの為に殺されるから、その結果彼は不愉快な責任を負わされることの無いようにとようだ。
 革命家は弾圧されて地下に潜ったが、今は弾圧者と彼らの手下も地下に身をひそめた。これは軍刀の庇護の下にあるとはいえ、でたらめばかりで、実は全く自信がないからだ。そしてまた軍刀の力に対しても懐疑している。でたらめを言いながら将来の変化を考え、暗い所に潜り込み、情勢が一変したら、すぐ別の顔に変え、別の旗を掲げて新規参加する。そして軍刀を手にした偉人の外国銀行口座にある金も、彼らの自信を更に動揺させる。これは遠くない将来の計だ。遠い将来のためには、歴史に名を残そうと願う。中国はインドと異なり、歴史を重視する。だがそれほどは信用しない。どうも何か良い方法を使って、体面良く書かせようと考え、読者には当然信用してもらいたいと思う。
 我々は子供のころから、意外なことや大変変化の激しい出来事にさして驚かぬようにという教育を受けてきた。その教科書は「西遊記」ですべて妖怪変化に満ちている。例えば、牛魔王や孫悟空のようなの…がそれだ。作者の指示によれば、正邪の分離だが、要するに両方とも妖怪だから、我々人類にとっては、たいして留意する必要はない。しかしこれが本の中のことでなく、自らをその境地におかれてみると、これはすこぶる難儀なことになる。湯上り美人が蜘蛛の精か;寺の大門が猿の口となると、一体どうしたらよいか考える。早くから「西遊記」の教育を受けていればびっくりして気絶することは無いが、どうも疑わないわけにはゆかない。
 外交家は疑い深いというが、中国人は大体が大変疑い深いと思う。農村へ行って、道や名や作柄を訊くと、本当のことを言ってはくれぬ。相手を蜘蛛の精とは思わぬまでも、何かたたりか禍が起こらぬとも限らぬと心配する。こうした状況は正人君子たちを憤慨させ、彼らに「愚民」というあだ名を付けた。だが事実は彼らにたたりや禍を全くもたらさない訳じゃないようだ。この1年の経験から、私も農民より疑い深くなったせいか、正人君子のような人間を見ると、つい彼はひょっとして蜘蛛の精かと思ってしまう。しかし、これも慣れだろう。愚民の発生は愚民政策の結果で、秦の始皇帝が死んで2千余年経ったが、歴史をみるとあれから再びこの種の政策を繰り返したものはいない。しかし、その効き目は残り、久しく長く多くの人々をおどろかせている!
     (1933年) 12月5日
 
訳者雑感:本編は最近の香港の書店のオーナーや編集者が大陸で行方不明になった事件を彷彿させる。中国政府を批判した書物を発禁し、それを犯したものを拉致して、行方不明にさせるのだ。どこかの川で死体が発見される、溺死だ。
 中国人は大体疑い深い、というのは昨今の爆買する人の心情を示唆している。
自国製の粉ミルクは信用できない。便座も炊飯器も自国でも作っているのだが、外国人の検査を経たものでないと、偽物ではないかと疑い、難儀でも日本で大量に買って帰る。いつ何時、政府の法律改正で、これらの物を持ち込めなくなるかもしれないからだそうだ。

 この文章はもともと魯迅が日本語で書いたものであるが、それを後の中国人が中国人読者の為に中国語訳したものだ。魯迅は多くの日本語の文章をのこしており、内容も読み応えあり迫力は勝るが、80年前の日本語での日本人へのメッセージにはいろいろ遠慮配慮もあり、その行間を読むのも面白いので、彼の日本語を参考にしながら、蛇足ながら私訳を試みた。
 中国人はインド人と違って歴史を重んじる。袁世凱などが歴史に名を残そうとして皇帝になろうとした行為。中国に共和制はまだその時に非ず、という
アメリカ人顧問の言葉を利用して、欧米日の諸国の承認を得ようとしたが、日本は、見返りにというか、どさくさにまぎれて、21カ条の要求をつきつけ、それがもとで、彼は死んでしまい、「悪名」を歴史に残した。墳死せずにもしそのまま10年皇帝になっていたらどうなっただろう。勝てば官軍、敗れれば賊軍。
   2016/03/12記

 

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1903年 自題小像

1903年 自題小像

霊台無計神矢

風雨如磐暗故園

寄意寒星荃不察

我以我血薦軒轅。

わが心は神の矢を逃れる計なく

風雨は大岩のように故園を暗くする

わが意を冬の星に寄せるが察してもらえず

私は我が血を以て軒轅(黄帝)に献じん。

訳者雑感:1903年東京で辮髪を切った自分の写真に題した詩だという。
神の矢とはキューピッドの矢で、出版社注には、西洋の民主主義革命の強烈な刺激を受けて、それから逃れられなくなっているとの意味。一方祖国は清朝の反動封建専制政治で暗黒の世界をどうしようもない状態に陥っている。後の2句は屈原の故事を暗示しながら、漢族の始祖とされる黄帝に我が血を献じようと、21歳の魯迅が「青春の血の騒ぎ」を詩にしている。
     2016年3月8日記

 


 

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魯迅の詩

試験的に新しい訳を追加してみます。

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「北平箋譜」序

「北平箋譜」序
木に像を彫り、紙に刷って広く人に伝えるということは、実は中国で始まった。フランスのぺリオ氏が敦煌千仏洞で入手した仏像の本は、論者は五代時代の末に作られたという。宋代初めには彩色され、これはゲルマン人の最初の木刻者より3-4百年前になる。宋人の刻本は、現在見ることができる医書仏典には、挿絵の入ったのもあり:或いはそれで物を弁じ、証書とし、図史を具現した。明代には更に普及し、小説伝奇はページごとに挿絵をつけ、へたなのは砂に描くようだが、細い髪の毛も描き、亦画譜も出て、何回も刷られて、文彩も絢爛で木刻は目を見張るほど盛んとなった。清代は漢学を重んじ華美を排斥したので、この道は少し衰えた。が、光緒帝の初め、呉友如は点石斎(書館)の小説に挿絵を描き、西洋の方法を使って印刷し、全像の書はまたまた盛んになったが、版木に彫るのは愈々少なくなり、僅かに新年の年画と日用信箋だけに余命を保った。近年には絵の印刷と年画も西洋の方法と俗工に奪われ、鼠の嫁入りと静女の花摘なども渺として見ることが無くなった:信箋もしだいに旧型を失い、新しい意匠も出ず日ごと衰えるのみ。北京は夙に文人の多く集まる所で、詩文書画をたいへん珍重し、遺された範はまだ堕ちないで、今なお名箋は存している。しかし顧みればこれも時間の問題で、零落も将に始まらんとしている。吾仲間は好事で、それゆえ杞憂も多い。
そこで店を捜し、珍しくて良いものを選抜し、原版に就いて印し「北平箋譜」と名付けた。中には清光緒時の紙舗もあり、明季画譜を留めており、また前人の小品の良いものを木刻して制箋し、いささか目を喜ばせようとした:又画工の作った者もあり、風雅に乏しく、鑑賞に足りぬものもある。宣統末、林琴南氏が山水箋を出し、当時の文人が特に画箋を初めて作ったが未詳だ。中華民国成立に及び、江西省義寧の陳君師曾が北京に来て、初めて銅を彫るための墨合を作り、鎮紙に下絵を描き彫刻した:拓本ができると雅趣はいや増した。暫くして更にその技を箋紙に広げ、才華は蓬勃と起こり、箋筒も豊富になり、また刻匠にも顧みられ、奏刀の困難を省き、詩箋に新しい境地を開いた。蓋し、画師木匠は神志が暗に符合し、一致協力してついにそれまでの限界を超えて修正された。やや下って、斎白石、呉待秋、陳半丁、王夢白の諸君は皆画箋の名手で、刻匠もまた十分これにかなう者がでた。辛未の年以降、初めて数人が一つの題を分担して描き、聚めて、秩と成し、新しい物をつくり、神のごとき流れで、ことのほか嘉祥であった。意図するは文翰の術を更新すれば、箋素の道は随意に発展し:後の作者は必ずや別の道筋を開き、努めて新生を求め:その旧郷を臨睨するは、当に遠い暇日を俟つべし。そのため、これは短書(箋牘)で、知る人も少ないが、一時一地方、絵画彫刻の盛衰がこの中にある。中国木刻史の豊碑に非ずとも、いささかの小品芸術の旧い範たることを願い、また今後、覧古者の目にとまることを願う。
 一九三三年十月三十日 魯迅記

訳者雑感:魯迅は挿絵や木刻が大好きでこれらに大変な愛情を注いだ。
 序文はこの「箋譜」の格にふさわしいように、文語体で多くの引用をちりばめ、この短書を求めるような人たちの納得するような文章で、私などにはとても難しくて困った。時折理解できる個所は文語体らしく訳したが、他のところは意訳となってしまった。
 活版印刷は聖書を庶民に広めたグーテンブルグの発明とされているが、木刻での印刷は中国の方が数百年早いと…。羅針盤も火薬も早くに発明されたのだが、…。惜しいかな、それを産業や文化の近代化に応用するのが遅れた。
 21世紀の今日も、世界の工場として膨大な科学的生産技術と工程を取り入れているが、自前での創造的なものが比較的少なく、低コストだが粗雑なものや、模造品が多く出回っているのがとても残念だ。自国民が自国製のミルクや化粧品を信用せず、外国品を買い求める。それが実際はMade in Chinaなのだが、外国の会社の検査を通って外国に輸入されているのだから信用できる、と。
  2016/03/01記

 

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「解放されたドンキホーテ」後記

「解放されたドンキホーテ」後記
 現在誰か黄天覇(清代小説の侠客)の様な男が、頭に英雄の髷を結い、身に夜行着をつけ、ブリキの刀を差し、市や鎮の道を突進し、悪覇を退治し、不平をなくすと豪語したら、きっと嘲笑され、気狂いかマヌケと決めつけられるが、少し怖がられもしよう。だが、弱弱しくいつも殴られていたら、ただのおかしな気狂いかウスノロで、人は警戒心を解き、面白がって眺めるだろう。スペインの文豪セルバンテスの「ドンキホーテ」の主役は当時の男に、古代の遊侠を信じさせ、迷信を信じて悟ることなく、困窮して死んでしまい多くの読者の心をつかみ広く愛読された。
 但し我々は試みに問うてみる:16-17世紀のスペイン社会に不平はあったか?きっとこう答えるしかない:有った、と。ではキホーテの意志はそれを打破するためで、彼が間違っていたとは言えない:自分の力を知らないのも誤りとは言えぬ。誤ったのは彼のやり方で、いい加減な考え、誤った方法でやってしまった。侠客は自己の「功績」の為にそれを打破することはできぬ。正に慈善家が自己の陰徳を積むために、社会の困苦を救えないのと同じだ。更には「徒に無益なだけでなく:これを害してしまう」のだ。彼は徒弟をひどく扱う医師を征罰し、自分では「功績」を挙げたと思い、良いことをしたと思って去ったが、彼が去るやいなや、徒弟は更に苦しむのが良い例だ。
 だがキホーテを嘲笑する傍観者の嘲りは必ずしも当を得ているわけではない。彼等は彼を元々英雄でもないのに、英雄気取りで時務を識らないで、終には次つぎに襲ってくる困難に苦しんでいるのを嘲笑するのだ:この嘲笑により、自分たちは「英雄でもない男」の上に位置し、優越感を得て:社会の不満に対しては何の良い戦法も無く、果ては不平すら感じなくなるのだ。慈善者、人道主義者に対して彼等はとっくに同情や財を使って心の安寧を買っているのに過ぎぬと看破している。これは無論正しい。だが戦士でなければこの理由を盾に、自己の冷酷さを掩い、一銭も出さぬ吝嗇で、心の安寧を買おうとしておるので、彼は元手を出さずに商売をしているのだ。
 この劇本はキホーテを舞台に上げて、大変明確にキホーテ主義の欠陥と害毒を指摘した。第一幕で彼は謀略を使い、自分が打たれながら革命者を救ったのは精神的勝利で:実際も勝利し、ついに革命が起こり、専制者は牢に入れられる:しかしこの人道主義者はこのとき忽然また役人たちも被圧迫者と認め、蛇を放して森に返し、禍根を将来に残し、彼らが又害毒を流せるようにし、家を焼き物資略奪ができるようになり、革命の大変むごい犠牲となった。彼は人々の信仰の対象にはならなかったが――お伴のサンチェパンサも余り信用せず――しばしば奸人に利用されて世界を暗黒にすることに使われた。
 役人たちは傀儡で:専制魔王の化身は伯爵Murzioと侍医Babroだ。Babroはキホーテの幻想をかつて「牛羊式平等の幸福」と呼び、彼らが実現しようとしているのは「野獣の幸福」として次のように言う――
 『O! ドンキホーテ、お前は我々が野獣なのをしらぬ。粗暴な野獣、小鹿の頭を咬み、のどを切り、その熱い血を飲み、自分の爪牙の下に敷いたそれが足を痙攣させながら死んでゆくのを感じ――それは正しくとても甘い蜜だ。人間はしつこく付き纏う野獣だ。支配者は華奢な暮らしをして、人を脅迫して自分たちに祈りをささげさせ、怖れさせ、ぬかずかせ、卑屈にさせる。幸福とは数百万人の力がすべて君の手に集まっていると感じ、すべて無条件で君に渡され、彼等は奴隷の様で、君は皇帝だ。世界で最も幸福で気分の良いのはローマ皇帝で、少なくともハリオハバールと同じだ。だが我等の宮廷は大変小さくとても遠い。上帝と人の一切の法律を打ち壊し、自分の思うままの法律によって、他の連中のために新しい鎖を打ち出す!権力である!この字には一切合財が含まれる:神妙で人を沈酔させる字だ。生活はこの権力の程度で量る。権力のない者は死屍だ』(第2幕)
 この秘密は普段は口に出せぬが、Murzio恥じもおそれず「小鬼頭」となって、言いだした。彼は多分キホーテの「誠実さ」を認めたためだろう。キホーテは当時、牛羊は自分自身を守るべきだといったが、革命の際、忘れてしまって、「新しい正義も古い正義の同胞であり姉妹だ」と言った。革命者を過去の専制者と同じだ、と言った。
 『その通りだ。我々は専制の魔王で、我々が専政(独裁)するのだ。この剣を見ろ。――見たか?――これは貴族の剣と同じで、人を殺したら大変なものだ:但し、彼らの剣は奴隷制度の為に殺すのだが、我々の剣は自由の為に殺すのだ。お前の古い頭を改造するのはとても難しい。お前は良い奴だ:良い奴はいつも喜んで被圧迫者を助ける。今我々はこの短い期間は圧迫者となる。我々はお前と闘争する。我々が圧迫するのはこの世の中に、早く誰も圧迫できなくさせる為だから』(第6幕)
 これは大変明確な解剖だ。しかしキホーテはまだ覚悟ができておらず、墳を掘ることになる:彼は墳墓を掘り、自分ですべての責任を負う「準備」をする。但し、正にBalthazarの言うように:この種の決心は何の役に立つのか?
 そしてBalthazarはやはり始終キホーテを愛しており、彼に担保を与えようと願う:彼の確固とした朋友になろうとするが、これは彼が知識階級出身のせいだ。だが最終的には彼を変えることはできなかった。こうなっては、Drigoの嘲笑と憎悪を認めるしかない。つまらぬ話に耳を傾けないのは最も正当な事で、彼には正確な戦法があり、堅強な意志をもつ戦士だ。
 これは一般的傍観者の嘲笑の類とは異なる。
 だが、このキホーテは、総体として現実に存在する人間ではない。
 原本は1922年発行でまさに十月革命の6年後で、世界では反対者のいろいろなデマが飛びかい、中傷に懸命になっていた時で、精神を敬い、自由を愛し、人道を講じ、大半は党人の専横に不満で、革命は人間性の復興ができないだけでなく、逆に地獄に落ちると叫んでいた。この劇本はそうした論者たちへの総合的な答えだ。キホーテは十月革命を非難する多くの思想家・文学家たちを合成したものだ。その中に当然Merezhkovskyもいて、トロツキー派もおり:ロマン・ロランもいて、アインシュタインもいた。私はその中にはゴルキーもいたのではと疑っていて、当時彼は正に種々の人たちの為に奔走していて、彼らを出国させ、身の安全に協力し、そのために当局と衝突したと聞いた。
 但し、この種の弁解と予測を人々は必ずしも信用せず、彼等は一党専制の時はどうしても暴政を弁解する文と考え、たとえどんなに巧妙に書いて、人を感動させても、一種の血の痕跡を蔽い隠すに過ぎぬと思ったからだ。しかし、何人かのゴルキーに救われた人は、この予測が真実だという事を証明し、彼等は一旦出国するとゴルキーを痛罵し、まさに復活後のMurzio伯爵と同じだった。
 そして更にこの劇本が10年前に予測が真実だと証明したのは、今年のドイツだった。中国ですでに数冊のヒットラーの生涯と功績を叙述した本はあるが、国内情勢を紹介したものは少ない。今、何段かパリ「時事週報」の“Vu”の記事を下記する(素琴訳「大陸雑誌」10月号より)
 『 「どうか私が君はすでに見たことがあると言わないのを許してくれ給え。他の人に私の話したことを言わないで欲しい。… 我々は皆監視されている。… 本当にここはまるで地獄だ」我々にこう語った政治経歴のない人、彼は科学者で、…人類の運命に対して彼はいくつかの曖昧模糊とした概念に達し、それが即ち彼が罪を得た理由だ。… 』
 『「屈強の男は始めるやすぐそれを除去せよ」とミュンヘンで我々の指導者は命じた。…だが、他の国の社党の党人はその状況をさらに一歩推進させた。「その手法は古典的なものだ。我々は彼らを軍営に向かわせ、物を取って戻ってこさせ、そこで彼らを銃殺する。官話で言えば:逃亡する者は撃ち殺す」ということだ』
 『ドイツ公民の生命や財産は、危険な支配者に対して敵意があるとでもいうのか?…アインシュタインの財産は没収されたのか?それらのことはドイツの新聞すら承認していて、殆ど毎日空き地や城外の森で胸を数発の弾で穿たれた死屍があり、一体全体どうしたことか?まさかこれらも共産党の挑発の結果だというのではあるまい?この解釈はいずれも容易すぎるようではないか?…』
 しかし12年前、作者はとうにMurzioの口を借りて解釈を与えた。その他にもう一段、フランスの「世界」の記事を引用する。(博心訳、「中外書報新聞」第3号)――
 『多くの労働者政党の領袖はみな似たような厳酷な刑罰を受けた。ケルンで社会民主党員サルーマンが受けたのは想像を絶するものだ!最初サルーマンはたらいまわしで何時間も殴られた。その後相手は松明で彼の足を焼いた。同時に冷水をぶっかけ、失神すると刑を止め、醒めるとまた続けた。血の流れている顔に、彼等は何回も小便をひっかけた。最後に彼が死んだとみなして穴倉に放り込んだ。彼の友人は何とかして助け出し、こっそりとフランスへ運んで、今まだ病院にいる。この社会民主党右派サルーマンはドイツ語の雑誌「民声報」編集主任の取材に次のような声明を出した:「3月9日、私はファシズムをいかなる本を読むより、徹底的に理解できた。知識と言論でファシズムに勝つことができるなどと思っているなら、それは正しく痴人の夢物語だ。我々は今すでに英勇的な戦いをする社会主義時代に入ったのだ』
 これもこの本の極めて徹底した解釈で、正確で切実に実証された。ロマン・ロランとアインシュタインの転向で更によく理解され、且つ又作者の反革命の凶暴残酷の描写を顕示し、実際、誇大なしにまだ語りつくしていない。そうだ、反革命の野獣性を推測するのは、革命者にとって極めて困難だ。
 1925年と現在のドイツはやや違っていて、この戯劇は国民劇場で上演され、Gotzの訳も出た。暫くして日本語訳も出て、「社会文芸叢書」に収められ:東京でも上演された由。3年前、2つの訳に基づき、一幕を訳して「北斗」に載せた。靖華兄は私が訳したことを知り、大変美しい原本を送ってくれた。原文は読めぬが、比べたら独訳はずいぶん削られており、何句とか何行などの単位でなく、第4幕でキホーテが吟じる沢山の工夫をこらした詩は後かたもない。これは或いは上演の為に繰り返しになるのを嫌ったせいか。日訳も同じでこれは独訳からの為だ。それで訳文に懐疑を抱き、放り出し訳を止めてしまった。
 だが編集者はついに原文から直接訳した完全版を得て、第2幕から続けたので、とてもうれしくて「言葉にできぬ」ほどだ。残念ながら、第4幕まで載せたが、「北斗」の停刊で中断された。その後苦労して未刊の訳原稿を探したが、第1幕もすでに改訳されたのがあり、私の旧訳と大変違っていて、注解も詳細明確で、とても信頼できるものだ。だが箱の中にしまっておいてすでに1年経ったが、出版の機会がなかった。現在聯華書局が出版してくれることになり、中国に又1冊の良い本が増えたのは大変喜ばしい。
 原本はPiskarevの木刻の挿絵があり、これを複製した。劇中人物の場所と時代の表は独文に基づき増補した:但し、「ドンキホーテ伝」第1部は1604年に出版されており、時代は16世紀末だが、表には17世紀とあり、これは間違っているかもしれない。だが大して関係はないだろう。
    1933年10月28日、上海。魯迅
 (出版社注:この本はルナチャルスキー作で、魯迅の親友、瞿秋白の訳)
訳者雑感:「解放されたドンキホーテ」を読んでいないので何も言う資格は無い。魯迅が問題にしているのは、この時代に勢いを増してきたヒットラーへの警戒を高めねばならぬことと、ロマン・ロランやアシンシュタインの動きだろう。
 最近ヒットラー「わが闘争」が分厚い注釈つきとはいえ出版された由。時代背景が似てきているのかも知れない。彼の様な、ちょび髭を描かれた政治家が、揶揄されているのをよく見る。心配だ。
   2016/02/25記


 

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ゴルキー著「1月9日」翻訳の前書き

ゴルキー著「1月9日」翻訳の前書き
 ツルゲーネフ、チェホフといった作家が、中国読書界で大変称賛されていたころ、ゴルキーは余り注目されていなかった。偶に1-2篇の翻訳はあったが、彼の描いた人物が特別なため、どうも大きな意思を感じなかった。
 この原因は今たいへん明白だ:彼は「底層」の代表者で、プロレタリア階級作家だからだ。彼の作品に、中国の旧知識階級は共鳴できぬも正に当然の事。
 然るに、革命の導師は20余年前、すでに彼は新しいロシアの偉大な芸術家で、他の武器で同一の敵に対し、同じ目的で戦った仲間で、彼の武器は――芸術的な言語――で極めて大きな意義を持っていたことを知っていた。
 この先見性は今すでに事実で証明された。
 中国の労農者は圧迫搾取され、死から救出のいとまもなく、どうして教育のことなどを語れようか:文字もまたこんなに難しく、その中から今ゴルキーのような偉大な作家が現れるという事は、今すぐにはとても困難だ。だが、人間の光明に向かうということは同じである。無祖国(共産主義の意味)文学も、あちらとこちらでの差は無い。我々はまず先進的モデルを取り入れることができる。
 この小冊子は一短編だが、作者の偉大さと訳者の誠実さにより、正に模範的なモデルとなった。更にこれで、文人の書斎から脱け出して、大衆と相対するようになり、今後啓発されたものは、以前と異なる読者で、それは異なる結果を生みだすだろう。
 その結果は将来事実で証明されるだろう。
   1933年5月27日 魯迅記

訳者雑感:出版社注によると、革命の導師とはレーニンのことで、ゴルキーの「母親」を称賛しており、云々とある。レーニンはゴルキーを、毛沢東は魯迅をそれぞれ大変称賛しており、二人の名前は旧ソ連と新中国の各地で図書館や大きな道路に付けられ、人々の心に残った。二人は1936年に死んだ。ドイツや日本との大戦に巻き込まれる前に亡くなった。戦争中および戦後まで生きていたら、スターリンや毛沢東前後の中国の支配者たちにどのように立ち向かったのだろう。
 1957年の上海文芸座談会で「魯迅が生きていたならば」という設問に対し、
毛沢東は「(魯迅が生きていれば)牢獄に入れられ、そこで書き続けるか、或いは何も言わなくなっているかだな」(出席者の一人、黄宗英の言葉)という。
    2016/02/11記


 

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今春の二つの感想(訂正版)

今春の二つの感想
    11月22日北平輔仁大学での講演
 先週北平に来たのですが、青年諸君へのお土産を持参すべきだったですが、バタバタしていて、また何も帯同すべき物もありませんでした。
 最近は上海にいますが、上海は北平と違いまして、上海で感じることは北平ではきっと感じないでしょう。今日は何も準備してきておりませんから自由にお話ししましょう。
 昨年の東北の事変の詳細は私も余り知りません。思うに諸君は上海事変についてもそんなに詳しくないでしょう。同じ上海にいてもあちらとこちらでは知らぬことが多く、こちらでは命がけで逃げようとしておるが、あちらでは相変わらずマージャン好きはマージャンし、ダンス好きはダンスしている。
 戦いが始まった時、私は戦火の中にいて、多くの中国青年が捕まるのを自分の目で見た。捕まった者は、帰ってこなかった。生死も知らず、誰も問わず、そんな状態が久しく続き、中国で捕まった青年たちはどこへ行ったのだろう。東北の事が起こると、上海の多くの抗日団体は、団体ごとにバッジを作った。このバッジは、日本軍に見つかると死を免れぬ。しかし中国の青年の記憶は良くないので、抗日十人団のように団員全員がバッジを持ち、必ずしも抗日というのではないが、それを袋に入れておいた。捕まった時、死の証拠となった。更に学生軍がいて毎日訓練していたが、いつの間にか訓練しなくなったけれど、軍装の写真は残り、訓練者も家に写真を置いたまま忘れていた。日軍に探し出されたら、命を落とすのは必定だ。このような青年が殺されたので、皆は大変不満で、日軍はとても残酷だと思った。その実これは気性が全く違うためで、日人は大変まじめで、中国人は逆にふまじめなためだ。中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように単に芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、きっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必須だ。
 中国は実に不まじめで、何でもすべて同じだ。文字で見られるように、常々ある新しい主義、以前だと所謂民族主義の文字がたいへんにぎやかだったが、日本兵が来たらすぐ無くなってしまった。多分、芸術の為の芸術に変わったと思う。中国の政客も今日は財政を談じ、明日は写真を語り、明後日は交通を論じ、最後は忽然として念仏を始める。外国は違う。以前欧州に未来派芸術があった。未来派芸術とはよく分からぬものだ。が、見ても分からないのは必ずしも見る者の知識が浅いからではなく、実際、根本的に分からないのだ。文章はもともと二種あり:一つは分かるもの。もう一つは分からないもの。分からないと、自分を浅薄と恨むが、それは騙されているのだ。しかし、人は分かるか分からぬか無頓着で――未来派の如く分からぬものは分からぬ、のだが、作者は懸命になってそれを論じる。中国ではこういう例は見ることはできない。
 もう一つ感じるのは、我々は視野を広くせねばならぬことだ。だが余り広げすぎるのも良くない。
 私はその時日本兵がもう戦争をしないのを見て家に戻ったが、突然また緊張が始まった。後に聞いて分かったのは、それは中国の爆竹が引き起こしたとのことで、日本人の意識では、こんな時、中国人はきっと全力で国を救おうとするだろうと考え、中国人がはるか彼方の月を救おうとしているなど、思いもよらぬことだった。
 我々の視野は常々ごく身近なところにしか向けず、でなければ北極とか宇宙とか非常に遠い所へ向け、両者の間の圏については全く注意せぬ。例えば、食べ物の話をすると、最近の菜館は比較的清潔になったが、これは外国の影響で、以前はそうではなかった。某店のシュウマイは非常にうまい、バオズもうまいという。うまいのは確かにうまいが、皿はひどく汚れていて、食べに来た人は皿を見ることはできないくらいで、只バオズとシュウマイを食べることに専念する。食べ物の外側の圏に目をやると、とてもやりきれないからだ。
 中国でヒトとなるには、まさにこの様でなくてはならず、でないと生きてゆけぬ。個人主義を講じ、はるか遠い宇宙哲学とか霊魂の死滅か否かを講じることは構わない。だが、社会問題を講じ出すと問題が起こる。北平はまだましだが、上海で社会問題を講じると、問題なしでは済まされず、それに非常に効き目の強い薬ができて、数え切れぬほど多くの青年が捕まり、行方不明となる。
 文学でも同じで、私小説で苦痛窮乏とか、ある女を愛しているのだが、相手は自分を愛してくれないとかを書く。それはとても普通のことで、何の乱も起こらない。しかし中国社会の事に話が及び、圧迫・被圧迫の話をすると大変なことになる。だが、遠くパリ・ロンドン、更には遥か彼方の月や宇宙のことなら危険は無い。ただ注意せねばならぬは、ロシアの事は口にしないことだ。
 上海の件はもう1年経ち、皆はとうに忘れたようで、牌打ちは牌を、ダンスするものはダンスだ。忘れるのは忘れるしかなく、すべてを覚えていては脳がいっぱいになってしまう。もしこれらを覚えていたら、他のことを覚える暇もなくなる。しかし一つ大綱だけは覚えておくことができる。「少しまじめに」「視野を広くしなければいけないが、広げすぎてもいけない」これは本来平常なことだ。但し私がはっきりとこの句を知ったのは、大変多くの命が失われた後だ。歴史の多くの教訓は、みな大きな犠牲と引き換えにもたらされた。物を食べるとしようか。ある種の物は毒があり食べられぬ。今我々は良く慣れてきて問題は起きない。だがこれは必ず以前に多くの人が食べて死に、それで初めて知ったのだ。思うに初めてカニを食べた人をとても敬服する。勇士でなければ誰が食べようとするだろう?カニは人が食べる。クモもきっと食べた人がいただろう。だがうまくないから、後の人は食べなくなった。こういう人に我々は感謝すべきだ。
 私は一般の人が身辺や地球外の問題だけに注意してないで、社会の実際問題に少し注意するのが良いと思う。
      講演後、1932年11月号の「世界日報」に発表

訳者雑感:
 魯迅が指摘している看板をあげるともう成功したと考える。という点は日本との対比でその通りだと思う。以下に原文を引用するが、AIIBとかインドネシアでの高速鉄道など、看板をあげて、サインしたらもう成功だと考える節がとても気になる。「楽観的」というか、その後のことはあまり考えないのだ。

『中国の事は往往にして、看板をあげるともう成功したと考える。日本はそうではない。彼等は中国のように単に芝居をしているのではない。日人はバッジや訓練服を見ると、きっと本当に抗日してくる人間と思い、当然強敵と認識する。このような不まじめとまじめがぶつかると、まずいことになるのは必須だ』
 辛亥革命でも黄興たちが「旗揚げ」して孫文が「孫大砲」をドカーンと打ち上げたら、それで成功したと思い、その後、袁世凱とか所謂皇帝になろうとするような「閥」の乱入を防げなかったのが敗因と思う。
 バッジで思い出すのは、毛沢東バッジだ。文化大革命のとき、これを付けていないとどうにもならず、皆は各地で競ってこれを作り、地域ごと、職場ごと、学校ごとに作りにつくって、1968年に3週間各地を訪問した私の手元にも何十個のバッジが残った。袋にいれて忘れていたのが最近出てきた。どうしよう。
捨てるしかないだろう。まさかこれを持っていて、中国の青年のように命を落とすことはないはずだが。
 それにしても、あれだけPM2.5で苦しんでいながら、春節のお月さまに爆竹をめったやたらと打ち鳴らしても、だれも制止しない。北京で放送局ビルが火事になったこともとっくに忘れたようだ。
   2016/02/10記
    


 

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英訳版「短編小説選集」自序

英訳版「短編小説選集」自序
 中国詩歌は、時に下層社会の苦しさを取り上げたのもある。但、絵画と小説は相反していて、大抵は彼らを十分幸せにかき、「知らずしらず、帝の則(のり)に順ずる」平和な花や鳥のようにかく。確かに、中国の労多き大衆は知識階級からすると、花や鳥と同類なのだ。
 私は都市の大家庭で育ち、幼少から古書と先生の教育を受けたから、労多き大衆は知識階級からすると、花や鳥と一緒だと思った。時に所謂上流社会の虚偽と腐敗を感じたが、私はまだ彼らの安楽を羨慕していた。だが、私の母の実家は農村で、私を多くの農民と近しく親しくさせてくれたが、だんだん彼等は一生圧迫を受け、沢山の苦しみを受け、花や鳥と同じではないと知った。だが、私は皆にそれを知ってもらう方法を持っていなかった。
 後に外国の小説を読み、とりわけロシア・ポーランドバルカン諸小国の物を読んで、初めて世界にこんなに多くの我々と同じ労の多い大衆と同じ運命の人たちがいることを知った。何人かの作家がまさにこの為に叫び声をあげ戦っていることを知った。そしてこれまで見てみた農村などの景況もずっと明確に私の眼前に再現した。偶然文章を書く機会を得て、所謂上流階級の堕落と、下層階級の不幸を、つぎつぎに短編小説の形で発表した。原案の意とするところは、その実これを読者に示し、いささかの問題を提起しようとしたに過ぎない。当時の文学家の所謂芸術のためなどでは全くなかった。
但、これ等の物がやっと一部の読者の注意を引くことになり、一部の批評家からは排斥されたが、今に至るも消滅せず、更には英文に訳され、新大陸の読者の目に触れることになり、これは私が以前、夢想すらしなかったことだ。
 だが私ももう長いこと短編小説を書いていない。今の人々は更に困苦が増え、私の意思は以前とは異なり、また新しい文学の潮流を見ても、この景況の中で新しいことを書くことができず、古いことを書くのも願わない。中国の古書に比喩あり、曰く:邯鄲の歩法は天下に有名で、ある人が学びに行ったが、うまく学べなかった。だが自分の元来の歩法も忘れてしまったので、這って戻るしかなかった。
 私はまさに這っている。しかし私はもう一度学んで立ち上がろうと思う。
  1932年3月22日 魯迅 上海にて記す。
 (出版社注:米国作家エドガースノーとの約束に応じて編送したもの)

訳者雑感:
 魯迅は狂人日記などで小説を立て続けに発表した後、ぷつりと書かなくなってしまった。この文章から推測できるのは、作家生活を始めたころに彼の眼前に再現したものが、彼に書くことを命じ、促したのは間違いないだろう。阿Q正伝の前段でもそのような趣旨を書いている。それがある時から、もう以前彼が目にしたもの「上流階級の腐敗と下層階級の困苦」だけでは書ききれなくなっていて、一方新しい時代の新しい困苦を書くこともできず、古いものを再び書くのも願わない。 これが、彼が小説を書けなくなった背景だろう。
 しかしもう一度学んで立ち上がろう、とは思っていたが…。
   2016/02/09記

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