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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「労働問題」への前書き

昨夏北京にいた頃、張我権君(権→軍:出版社)に会った時、こんなことを言われたことを思い出した:「中国人はみな台湾を忘れてしまったようだ。
誰も提起すらしなくなった」と。彼は台湾の青年である。
 私はその時、グサッと痛みを受け苦しんだが、口から出たのは「いや、そんなことはない。本国がメチャクチャで、内憂外患にさらされ自らさえ顧みる暇も無いから、台湾のことにしばらく手が回らない……」
だが、今まさに困苦の中にいる台湾青年は、中国の事はしばしといえども放っておけない。中国の革命が成功することを望み、中国の改革を支援し、なんとか力を尽くして、中国の現在と未来に役に立ちたい。たとえ学生の身分でも。
 張秀哲君には広州で始めて会った。数回話して、彼が「労働問題」を中国語に訳したことを知り、私に簡単な前書きを頼んできた。私は前書きを書くのがへただし、そういうことをするのも賛成しない:まして、労働問題には疎いから、口を挟む資格も無い。ただ言えるのは張君が中日両国語に極めて精通していて、訳も信用が置けるという一点だ。
 ただ、私はできるなら何句かこの翻訳書の前に書きたいと思う。労働問題は詳しくないが、訳者が遊学中に民衆の為に力を尽くしたいという努力と誠意を感ずるためである。
 私は以上の言葉で、私個人の感激を表すのみ。だが、この努力と誠意はきっと読者も感じると信ずる。
これは事実どんな前書きより有力だ。
    19274.11 魯迅 広州中山大学にて
訳者雑感:日清戦争で日本に割譲されて30年後の台湾からの留学生に、北京や広州で魯迅は会っている。彼らが本国人が台湾のことを忘れてしまった、と嘆きつつ、一方で自分たちの祖国がメチャクチャになっているのを放って置けない。そんな努力と誠意に報いたのがこの前書きだ。
 日本が日清戦争までの2千年近い中国からの片貿易的な文化輸入から、膨大なものを取り込み、自分の血肉としてきた。1895年以降、清国及び中華民国の大量の青年が、日本から片貿易的に膨大な数の文物を取り入れ、日本語から大量に翻訳して本国に紹介した。それは一刻も早くメチャクチャの状態から立ちあがるための「努力と誠意」であった。この4文字はそのまま魯迅にもあてはまるものだ。仕事に倦むと藤野先生の写真を見ながら、次の執筆に向かう姿。
    2011/02/01

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革命時代の文学 


 48日 黄埔軍官学校にて(講演)
 今日の話は「革命時代の文学」です。
本校から何回もお招きを受けましたが、いつも何とか理由をつけ延ばしてきました。何故か?諸君が私を呼ぶのは多分私が小説を書く文学家だから、私の文学の話を聞きたいからだと思ったためです。しかし私は文学家じゃない。何も知らぬのです。最初正式に学んだのは鉱業で石炭採掘なら文学よりうまく話せます。勿論嗜好として文学書はよく見ていますが心得はありません。諸君の役に立つようなことは話せません。かてて加えて、ここ数年の北京での経験から、これまで知っている先人たちの文学論議全てに懐疑を持ちました。それは(3.18事件の)学生を銃殺した時です。文字の禁も非常に厳しくなり、文学、文学というが、実はもっとも役に立たぬもの、力の無い人間のいうことで:力のある人間は口を開かずに人を殺し、圧迫された人は何か口に出し、何か文字を書くが、すぐ殺され:殺されなくとも、一日中吶喊して苦しみを訴え、不満を訴えても、力のある人はやはり圧迫、虐待し、殺戮するのです。彼らに抵抗する手立ても無く、こんな文学は人間のために何の役に立つのかと思いました。
 自然界も同様、鷹が雀を捕える時、一声も出さぬは鷹。チュッチュと鳴くのは雀:猫が鼠を捕える時も、音を立てぬは猫。チュー チューと叫ぶのは鼠:結果、口を開く者が開かぬものに食われる。文学家はなにかうまいこと書いて何冊か作品を出し、その時は称賛され何年かは虚名を博すが、たとえば烈士の追悼会の後、烈士のことはとうに話題に上らず、みんなして誰の挽聯(死者を悼む対句)がうまいかということに話が向かう。これは実に安気なビジネスなのでしょう。
 この革命(震源地)の文学家はおそらく文学と革命は大いに関係があると言うでしょう。例えば革命を宣伝、鼓吹、扇動すれば革命を成就できるという。
だが私はそんなものは無力だと思う。良い文芸作品の多くは、これまで命令を受けたり、利害を考えたりせず、自発的に心から流れ出たもので、もし先にテーマを掲げて文章を書くなら、八股文と何の違いがあろうか。文学として無価値で人を感動させる云々など言うに及ばぬ。革命の為には「革命人」が要るが「革命文学」は急いても仕方のないことで、革命人が書いたものこそ革命文学だから、革命はむしろ文章に関わりがあると思うのです。革命時代の文学と平時の文学は違います。革命が来たら文学は色彩を変える。但し大革命は色彩を変えられるが、小革命はできません。大した革命でないときは文学の色彩まで変えられません。当地では「革命」というのはよく耳にしますが、江浙では革命と聞いただけでたいそう恐がるし、口にしたら大変危険です。「革命」は決して珍しくもないが、ただそれが現れて始めて社会は改革され、人類は進歩でき、アメ―バーから人類に、野蛮から文明になれたのも一刻として革命で無い時はありません。生物学者は、「人類と猿は大した差はなく、人と猿は遠い親戚」という。ただ人類がなぜ人になり、猿はいつまでも猿か?それは変化を肯んじなかったため――四本足歩行に執着したため。多分あるとき一匹の猿が立ち始め、二本足で歩こうとしたが、多くの猿が「我々の先祖はこれまで這って来た。お前が立ち上がるのを許さん!と咬み殺した。彼らは立ち始めるのを肯んじないだけでなく、話すのも肯んじなかった。守旧のためです。
 人類は違う。立ち上がり始め、話し始めた結果、勝った。だがまだ完了していない。従って革命は決して珍奇なものではない。凡そ今日まで滅亡せずに
きた民族は、日夜革命に努めている。往々にして小革命に過ぎないけれど。
 大革命は文学にどんな影響を与えるか。大きく次の3段階に分けられる。
 
1。大革命の前、全ての文学は大抵いろいろな社会状況の不満を訴え、苦痛を感じ苦しみを叫ぶ。世界文学の中でこの類のものは大変多い。だがこうした苦しみや不満を叫ぶ文学は革命に何の影響も無い。苦しみや不満を訴えるのは何の力も無い。圧迫者は何も構わない。鼠がいくら鳴いても、たとえどんな素晴らしい文学を書いても、猫は何の遠慮も無く食べてしまう。だから只苦痛不満を訴える文学しかないとき、その民族は希望が無い。只苦痛不満を叫ぶにとどまるから。訴訟を例にとれば、負けた方が冤罪の判決を受けると、相手側はもはや彼には再訴訟の力が無いと知り、これにて終了となる。だから苦痛や不満を訴える文学は冤罪だと叫ぶに等しい。圧迫者は却って安心する。ある民族は苦痛を叫ぶのも無用だとしてそれもしないで、沈黙の民となり、だんだん衰退する。エジプト、アラブ、ペルシャ、インドは声なき民だ!
 反抗心の旺盛な、力を蓄えた民族は、苦しみを叫んでも無用と悟り、覚悟を決めて哀しい音調から怒りの怒号に変わる。怒号の文学が出現すると、反抗はまもなく始まる:彼らはすでにとんでもなく憤慨しており、従って革命爆発時代が近づいた文学は、常に憤怒の声を帯びており、反抗に立ちあがり仇を討とうとする。ソビエトロシア革命が起こらんとする時、こうした文学が出た。だが例外もあり、ポーランドは早くから仇を討つ文学があったが、再興したのは欧州大戦によってだった。
 
2。大革命が来ると文学は無くなる。声すらでない。
全員が革命の潮流の疾風怒濤のなかで、叫びから行動に移り、革命に忙しく、
文学空談の閑無し。それにそうなると民生もたいへんで、ひたすらパンを求めるが、入手できないから文学を語る気にもなれない。守旧の人は革命潮流の打撃でボー然自失、所謂彼らの文学を再び歌うこともできない。
 文学は窮乏に苦しむ時にできるという人もいるが、必ずしもさにあらず。
窮乏に苦しむときに文学作品はできない:私が北京にいたとき窮乏し、いろいろなところにお金を借りに行かねばならず、一字たりとも書けなかった。
給料が出てやっと坐って文章を書けるようになった。大革命時代はとても忙しく、同時に大変窮乏するので、こちらの勢力と相手側とが闘争し、まず現在の社会状況を変換せねばならず、文章を書く時間もそんな気持ちもない:大革命時代の文学はしばらく低迷する。
 
3。大革命成功後は社会の状況は落ち着き、人々の生活に余裕が出ると文学が生まれる。この時の文学は二つあり:一つは革命称賛謳歌する物。進歩的文学家は社会の変革前進を願い、旧社会の破壊と新社会の建設に意義を見いだす。一面で旧制度の崩壊を喜び、もう一面で新建設を謳歌する。
 もう一つは旧社会の滅亡を悼む――挽歌で、革命後も残るもので、これを
「反革命文学」とみなす人もいるが、そんな大罪を着せる必要は無いと思う。
革命は進行中だが、社会に旧人間はまだ沢山いて、決してすぐに新人間には変われない。彼らの頭脳は旧思想、古い物が一杯で、環境が徐々に変わり影響が彼ら全体に及びだしたとき、旧時の心地よかったことを回想し、旧社会を懐かしみ、恋しがる。古いことを話し出し、こうした文学を作る。この種の文学はみな悲哀に満ち、彼らの気持ちの淋しさを表現する。一面では新しい建設の勝利を見、一面では旧制度の滅亡を目の当たりにするから挽歌を唄い出す。
只懐旧、挽歌は既に革命がなされたということを示す。もし革命が成らなければ、旧い人物は勢いを盛り返し、挽歌など唄わない。
 
 だが今の中国はこの二つとも、即ち旧制度への挽歌も新制度への謳歌も無い。中国の革命はいまだ成っておらず、正に交錯状態で革命に忙しいためである。しかし旧文学は依然として多く、新聞の文章は殆どすべて旧式だ。これは中国の革命が社会に対して大きな変革を与えていないし、守旧の人も大して影響を受けていないから、旧人も依然として世俗の外に悠然としていられるのだと思う。広東の新聞に載る文学は全て旧式で新しいのは大変少ない。これは広東の社会が革命の影響を受けていないことの証明:新しいものへの謳歌も、
古い物への挽歌も無く広東は十年前の広東のままだ。そればかりか、苦しみも叫ばず、不満も訴えていない:ただ組合のデモに参加するのを見るだけ:だがこれは政府の許可したもので圧迫への反抗じゃなく革命奉賛にすぎない。中国社会が変わっていないから懐旧の哀詞も斬新な行進曲も無い。ただソビエトロシアにはこの二種の文学が生まれた。彼らの旧文学者は国外逃亡し、滅亡せしものを悼み、旧きを挽歌する哀しいことばを書いた。新文学は今まさに前進せんとしているが、偉大な作品はまだ無いが、新作はたくさんあり、彼らはすでに怒号の時代を過ぎ、謳歌の時期に入ろうとしている。建設を賛美するのは、
革命が進行した後の影響で、今後どうなるか今は分からぬが、推測するに多分平民の文学だろう。平民の世界というのが革命の結果である。
 今の中国には勿論平民の文学は無いし、世界にもない。全ての文学、歌や詩は大抵、上等人に見せるもの:彼らはお腹がいっぱいになりソファーに横になって読むのだ。才子が佳人に会い、二人が愛し合い、才子でない男がひっかきまわし間違いが起こるが、ついにはめでたく団円で終る。こうしたものを読むのはなんと心地よいことか。あるいは、上等人がどれほどすばらしく、快楽か、下等人がどれほどおかしいかを説く。数年前「新青年」に数篇の小説が出た。罪人が寒冷地で暮らす描写を見て、大学教授はなにも面白くも無い、と言った。こんな下等人を見たくも無いからである。もし詩歌が好きな車夫を描いたら下流の詩歌になり:戯曲の中に犯罪人が出たら下流の戯曲になる。劇の配役もただ才子と佳人のみ。かつ才子は状元(科挙の再優秀合格者)で、佳人は一品夫人に封ぜられ、才子佳人の当人はたいそう喜び、観客もそれをみて喜ぶ。下等人は如何ともしがたい。只彼らと一緒に喜ぶしかない。今、平民
――労働者農民――を材料に小説や詩を書く人がいれば、これを平民文学と称すが、実はそれはまだない。平民はまだ口を開いていないからだ。これは他の人が平民の生活を見て平民の口吻に仮託して書いたものだ。眼前の文人は窮乏してはいるが、労働者農民より豊かで、それだから金を払って本も読み、文も書ける:ちょっと見た限りでは平民が話しているように見えるが、そうではない:これは本当の平民小説ではない。平民の歌う山歌や野の曲は、ある人たちが書いたものを、大衆のみんなが歌っているから平民の音だという。だが彼らは間接的に古い書物の影響を受けており、郷紳が三千畝(ム―)もの田畑を有すのを、とっても敬服しており、郷紳の考えを自分の考えとしてしまっており、
彼らの吟じ憧れているのは五言詩、七言詩だから、彼らの歌う山歌、野の曲も大半は五言か七言だ。これ即ち格律に従ってつくり、構造(しくみ)から意味を取ろうとする、とても陳腐なもので、真の平民文学とは言えない。
 現在、中国の小説と詩は外国に比べるほどのものは無い。如何ともしがたく、
只文学と称すのみ:革命時代の文学はおろか、平民文学などと口はばったいことは言えぬ。現在の文学家はみな読書人で、もし労働者農民が解放されず、労働者農民の考えが読書人と同じなら、労働者農民が本当の解放を得た後、はじめて真の平民文学ができる。一部の人は「中国にはすでに平民文学がある」というが、実際には無い。
 諸君は実際の戦闘者であり、革命の戦士ですから、当分は文学を敬服せぬ方がよろしい。文学を学ぶことは戦争には何の益もない。よくてせいぜい戦歌をつくるに過ぎない。もし上手く書ければ、戦いの合間に、休憩のときに読むのは良いだろう。少し格好よく言うなら、柳を植え成長したら枝が木陰をつくり、
農夫が昼まで耕作した後、木陰で昼飯を食べ休む。中国の今の社会情勢は実際の革命戦争あるのみで、一首の詩で(北洋軍閥の)孫伝芳を脅かすことはできぬが、一発の砲弾は孫を駆逐できる。もちろん文学は革命に対して偉大な力がある、と考える人もいるが、私個人としては懐疑的である。文学はどうしても余裕の産物で、民族の文化を表すというのが本当のところだ。
 人間は大概自分の今やっていることに不満で、これまで何篇かの文章を書くことができただけで、やっていていやになるが、鉄砲をにぎる諸君は文学の話を聞きたがる。私は当然、大砲の音を聞きたいし、大砲の音は文学のそれより、
気分が良いように感じるからかも知れない。
 以上、最後まで聞いてくれて諸君に感謝します!
 
訳者雑感:これを訳している時、エジプトの民衆がムバラク打倒に立ちあがった。魯迅がここで声なき民の筆頭に挙げているのがエジプトだ。かつて世界でも最も華やかな文明国だった国。魯迅が指摘するように今まさに30年のただ苦しみを叫び、不満を訴えていただけでは何の革命も起きない、と認識して怒号に代え、実力行動に移りつつある。だが小革命に過ぎぬ。大革命はこうした各地の小革命が積み重なって、ムバラク政権を打倒し、彼を国外に追い出し、新しい指導者が出現することだ。誰がムバラク後のエジプトを統治できるか?
パーレビ後のイランのような宗教的カリスマが出なければ、エルバラダイ氏には任が重いようだ。
 中国の戯曲は悲劇も多いが、観客が繰り返し観劇にくるのはやはり魯迅が述べているように、才子が佳人に出会い、大団円で幕が下り、その幕がまた上がり、主演者がお辞儀し、ヒロインや主要な役者をつぎつぎ招き入れて観客の拍手を受け、スタンディング オベーションで余韻が続くというのが通例だ。
 欧州のオペラも、中らずといえども遠からず。文学も戯曲も余裕の産物であり、パンにありつけない時はだれもそんな余裕はない。見るのもやはりお金を出して自分の大切な時間を費消するのだから、見たあとの余韻がいつまでも残る名作を見に行くのが一番安心である。 安気なビジネスが一番安全である。
しかし魯迅の作品に、そういう戯曲になりそうなものは無い。深刻な物が多い。
   2011/01/31
 

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中国人の顔について

人は見慣れぬものを見た時、大抵おかしな物と思う。始めて西洋人を見た時、顔はとても白いし、頭髪は黄色で目の色は淡く、鼻は高いと感じた。
なんの理由も無いが、要するに人間の顔はこんなんでは良くないと思った。
中国人の顔には何の異議もない:譬え美醜の差はあれ、みなまずまずである。
 どうも我古代人は自分たちの顔に安心できかったようだ。周の孟軻は目を見
て相手の心の正邪を判断し、漢代には「相人(人相)」24巻あり、後にこれ
らのことを扱うのが盛んになり、分派ができ、両派に分かれ:一つは顔から当
人の智愚賢不肖を見:もう一つは当人の過去現在未来の栄枯を見る。それで天
下はこれ以降すこぶる多事になり、多くの人が戦々兢々と自分の顔を研究する
ようになった。鏡の発明もこうした人たちと娘たちにとって大変功労があった。
 だが、前の一派は最近あまり研究する人がなくなり、北京上海で人騒がせな
トリックを使うのは、後の一派のみである。
 これまで西洋人の顔を注意して見てきた結果、彼らの皮膚が粗いのと産毛が白いのも良くないと思った。皮膚に赤い斑点があるのも白すぎるせいで、我々のような黄色に如かず。とりわけ赤鼻はよろしくない。時にはまったく溶けそうなローソクのようで、ポトンと落ちそうで、見るからに危ういし、黄色人の方が比較的安定して安全に見える。要するに顔はあんな風ではよろしくない。
 その後西洋人が描いた中国人を見て、彼らが我々の顔に対しとても不敬なのが分かった。それは「千一夜物語」や「アンデルセン童話」の挿し絵のようではっきりとは覚えてないが、頭に花飾りの赤い紐つきの帽子を被り、辮髪を空に飛揚させ、礼装用の白い底のとても厚い靴をはき、化粧も濃い。だがこれらはすべて満州人が我々に強制したものだが、両の目は歪っていて、口を開けば歯がこぼれるのは我々本来の顔である。その時思ったのだが、実際はこんなひどくは無い、外国人が我々を辛辣に見下して、極端に描写したのだと思った。
 しかしその後、中国の一部の人の顔に対してだんだん不満を感じだした。それは見たことの無いものや、美人を見るときに、また心酔するような話を聞くときに、下あごが、でれーっと下がり、口をあけるのだ。実にみっともない。
何か精神的なパーツが欠けたようだ。人体研究の学者に依れば上あごと下あごについている「咬筋」は大変な力を持っていて、子供の頃クルミを食べたい時、まず戸の隙間でカラを砕くが、歯の良い成人なら咬筋を収縮すればクルミは砕ける由。そんな怪力の筋も時にたいして重くも無い下あごを支えられずボーっと見とれているのだろうか。分からぬでもないが、みっともないと思う。
 日本の長谷川如是閑は風刺が上手い。去年彼の随筆集「猫、犬、人」を見た。
中国人の顔についての一篇に、大意は初めて中国人を見た時、日本人や西洋人に比べて何か欠けているように感じた。永らく見慣れて来るとそれはそれなりに十分で何も欠けてなどいない。逆に西洋人の顔に一点多いのを感じる。この多いのは何か。彼は耳触りの悪い言葉:獣性と呼んだ。中国人の顔にはこれが無い。人にこれを足すと次式になる。
       人 + 獣性 = 西洋人
 彼は中国人称賛に名を借りて、西洋人を貶め、日本人を風刺する目的を達成したが、言うまでも無くこの獣性が中国人の顔に見られぬのは、もともと無かったのか、最近になって消えたものか。もし後になって消えたのなら徐々にきれいに無くなって、人間性だけ残ったのか。やはり徐々に馴らされたものか。野牛が家牛に、野猪が豚に、狼が犬になった如く、野性が消え、牧人を満足させるのみで、本体には何の良い点もない。人は人に過ぎぬし、他の夾雑物が無いのが一番良い。だがやむをえないなら、獣性を帯びるに如かずと思う。もし次のような式になると実に面白くない。
     人 + 家畜性 = 某種の人
 中国人の顔に獣性の印しがあるかどうかは暫く置く。近頃中国人の理想とする古人と今の人の顔には二つの余分なものがある。広州に来ると私の前いたアモイより映画館がずっと多い。大半は国産の時代劇と現代劇で、映画は「芸術」だから芸術家は二つの余分なものを付け加えるのだ。
 時代劇も面白い。それは舞台で見るより面白い。少なくとも鉦や太鼓で耳をつんざくようなことが無いだけでも良い。「銀幕」にはいつの時代か不明な衣裳の人物がゆったりと動く。顔はまさしく古人とまったく同じだが、活発にみせるために旧戯曲のように、間の抜けた余分なものを付ける他ないのだ。
 現代劇の顔は清朝光緒年間の上海の呉友如の「画報」のと、非常に似ていると思う。「画報」のは大抵がヤクザのユスリか妓女のヤキモチで、みなずるそうな顔だ。この考えは今も変わらず、国産映画の人物は作者が善人英傑と考えていようが、眉宇の間には、いつも上海租界的なずるそうな相をしている。
これでは善人英傑にはなりえない。
 国産映画の多い理由は華僑が喜ぶため収益が増え、新作が来ると老人は子供を連れ、ほら見てごらん、祖国の人はこうなんだよ、という由。広州でも人気があり昼夜4回上映されるが、私が行くといつも満員。
 広州は上海と同じで、まさにかくして自分たちの趣味を広げている。
惜しいかな、開演と同時に電灯が消えるので、下あごを見ることができない。
     46
訳者雑感:
 長谷川如是閑は当時の日本人が西洋人に追い付き追い越せとばかりに獣性を顔に加えつつあるのを風刺したものであろう。日露戦争当時のイギリス人の描いたパンチに形相厳しい日本人とロシア人が朝鮮半島を挟んで睨みあい、それを獣性の乏しい清国人が傍観している図があった。
 満州人に強制された風俗を古来からのもののごとくにすっかりなじんでしまった漢族は、長谷川の指摘する通り獣性を召し上げられ、家畜化されつつあったと言えよう。
 魯迅の指摘する時代劇の登場人物と現代劇の人間に加えられた余分なものとは、何であろうか? 間の抜けた扮装といかにもずるそうか顔付きか?
「芸術家」の映画監督も中国の伝統に従って、従来の「形」に縛られているのだろう。それで魯迅は国産映画より、ワイズミューラーのターザンなど輸入映画をたくさん見に出かけている。同じものを何回も、面白いのは家族をも連れて行っている。そしてそのことを日記などに書いているのが面白い。
 2011/01/27

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而已集  1927年  黄花節の雑感

黄花節が近づいたから何か書かねばと思うが、この題については昔の科挙の試験における「空論」になってしまう。自分でも恥ずかしいが、黄花節の意味することは知っているが、黄花岡で死んだ戦士たちについては、名前も人数も知らない。
 これを書くため、材料を探したが、ただ「辞源」を引くほかない。そこには、
「黄花岡。地名、広東省城北門外の白雲山麓にあり、清宣統帝3329日、
革命党数十人が督署を襲撃したが成功せず、死亡しここに葬らる」、とさらりとした記述で私の知識と大差なく裨益なし。
 17年前の329日の状況を知ろうとしたが、目撃したり耳にしたことのある古老は探し当てられなかった。北京、南京或いは我故郷のような他地区の例から推測するに、当時多分何人かは痛惜し、数名は快哉し、若干名は何の意見もなく、何名かは酒後や茶のみ話のタネにしたことだろう。そして忘却された。久しく圧制を受けた人は、圧制を受けている時は只耐えしのぶのみで、幸いに解放されれば只楽しむのみで、悲壮劇は長くは記憶に留まらぬ。
 だが329日の事は特別で、その時は失敗したが10月には武昌起義があり、
翌年中華民国が出現した。それで彼ら失敗せし戦士たちは革命成功の先駆者となり、悲壮劇もまさに終らんとする時、団円劇の結末に添えたのだ。これは大変喜ばしいことで、黄花節の記念日にそれが見られると思っていた。
 これまで長い間北にいたので、自ら黄花節の記念に遭遇したことは無い。が、
(孫)中山先生の記念日には、学校で夕方演劇を見に来るものがたくさんいて、
長椅子がいくつか壊れるほどとてもにぎやかだった。それで黄花節もきっとにぎやかだろうと思った。
 (孫文逝去記念の)312日の晩、にぎやかな会場で革命家の偉大さをしみじみと感じた。恋が成就した後、片方が死んでしまったら残された者に悲哀を与えるだけである。だが革命が成功した後、革命家が死んだら生き残ったものが毎年にぎやかに大騒ぎする。ただ革命家だけが生死に関わらず皆を幸福にする。同じ愛なのに、結果はかくも違う。正に現在の青年たちが恋愛と革命の衝突に苦悶するのも怪しむに足りない。
 以上「革命の成功」は暫しの間だけのことで、実際は「革命いまだ成らず」なのだ。革命は止境が無いし、この世界に本当になんとかという「至善の極み」
があるとしたら、この世の中は瞬時に凝固してしまうだろう。だが中国は多くの戦士の精神と血肉に培われ、確かにかつてなかったような幸福な花と果実が
芽を出しつつある。だんだん成長する希望も出てきた。もし、そうでなければ
それを受け継いで培う人が少ないためで、賞翫してその花を折り、果実を摘んで食べてしまう人が多すぎるせいだ。
 といってもけっして、皆さんが毎日痛哭し、涙を流して先烈の「天にまします霊魂」を弔えと言うつもりは無い。一年に一回彼らを思い出すだけでいいのだ。しかし広東の今日から見ると、この記念日を少し改良した方が良いと思う。黄花節はとてもにぎやかだし、一日にぎやかに過ごすのももちろん結構だ。
騒いで疲れたら帰ってよく眠るが良い。だが翌日元気が戻ったら、自分のなすべき仕事を更に力を入れるべきだ。これは勿論辛くて苦しいことだが、銃弾が飛び交い命を落とすような所に行くことに比べたらずっと良い。
況やこれもあとに続くもののために幸福の花と果実を培うのであれば。
      324日夜
 
訳者雑感:
 文化大革命が終息する前、広州交易会の参加者は、週末に中国側の手配したバスに乗り、いろいろな革命記念の場所に案内された。広州は革命といっても
1949年の革命より1911年の辛亥革命前夜の方が当然ながら見るべきものが多い。それで訳者も黄花岡の烈士の碑に案内された。魯迅がこれを書いた時点では、「革命党数十名云々」とあるだけで、最近の案内版のように「孫文が指導したとか、百名以上の烈士が死んだが、72名の遺骨だけが確認された云々」
という記述は無い。歴史評価のよく変わる国だから、時代時代で記述も違ってくるのは、やむをえないことだ。
 魯迅の引用した「辞源」のさらりとした記述からは、その時に孫文を持ち出すことが憚られるような政治情勢だったのだろう。1911年に辛亥革命が成功するまで、中国各地で大小さまざまな「革命」が試みられ、何十人もの烈士が
処刑されたことであろう。「薬」の中の秋瑾、徐錫麟などは魯迅に深刻な負い目を感じさせたがゆえに、作品となって残された。
 この黄花岡の墓に葬られたのは百名以上といわれる革命党戦士の中から身元が判明した72名のみだ。それ以外の烈士は阿Qと同様、名も本籍も不明だから
埋葬されても名が刻まれることはなかったのだろう。といって無名戦士の墓というのは、「革命烈士」といっしょに埋葬されることはない。
 「革命」という漢語の持つ意味は、天命を革める。天から賦与された統治権をでたらめに使い、世の中を混乱させた天子の首を取って、自分がそれに代わるということと理解する。革命党に入るということは、その代わりになる者の
同志として、天子の任命を受けて各地を統べている役人の首を取り、彼らの富を分捕ることである。阿Qたちがやろうとしたことは、地方の役所に押し入って、役人のボスを締め上げ、その権力と財産を没収することだ。役所がむつかしいなら役所の手下として大きな邸宅で贅沢三昧している、役人の私宅を襲って彼らの首を取り、彼らの財産、女を奪うことだった。これは、革命党に入りたいと思う阿Qたちの「ホンネ」だった。実に分かりやすい動機である。
 このDNA40年前の文化大革命の混乱時にも各地で起こった。1949年の
新中国建国後といえども、戦前からの資産家は大変な財宝や文化財を持っていたのを、資本主義の道を歩む一握りの連中を打倒する「運動」という掛け声のもとに、「紅衛兵」と(偽)称して、彼らの家に押し入り、「抄家」(捜索押集)という名分で、証拠書類とともに財産を奪いかすめた。それゆえ文革は10年の大災難というが、革命党の起した大災難だと言う点では、1911年前後となんら変わりは無い。
1911年前後の「革命」「革命党」というのは、日本人の幕末明治維新の勤王佐幕両派の争いなどとは比較にならない。革命党を名乗るてあいは五万といた。
 しいて言えば、応仁の乱以降の戦国時代の、下剋上の世界での相手の首を取って、その財産、領地を自分のものにするということに近いと思う。主義も主張もない。民国革命とか共産革命とかいうのは、革命がなされた後に為政者が
つけたものだ。明治維新といい明治革命とは言わないのは、天命を革めるというと、自己矛盾を起すからだろう。その点、中国では前王朝の首が残ることは無かった。だが、辛亥革命は、最後の皇帝の首を取らなかった。それが後の
満州国に化けたのが、民国の致命傷となった。
ちなみに黄花とは菊を指す。烈士への花向け。
  2011/01/25訳 
 
 
 

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海上通信

 小峰兄:     
 数日前、貴信拝受。担当の仕事終了に忙殺され、返信おくれました。
今乗船しアモイを離れました。航海中だがどこの海か知りません。要するに、一面は大海原、片方に島嶼が見える。風波は無く、長江の船上と同じ。小さな揺れはあるが、海上では揺れとも言えぬ。陸の風波の方がよほど険悪です。
 同室の台湾人はアモイ語で話しかけるが分からない。私の訛りのある北京官話は彼には通じぬ。日本語は少し話すが、彼の言う事はよく分からぬ。それで筆談。彼は絹商人だとわかったが、私は絹について何も知らぬが、彼は絹以外なんの話も無い。それで彼は寝るしか無く、私は電灯を占有し手紙を書く。
 本来先月から材料を集め、冬休みに「唐宋伝奇集」の後記を書いて印刷しようとしたが、はからずも延引となった。「野草」もこのあと書くかどうか難しい。
多分もう書かないでしょう。
 人から勝手に知己といわれ、皮をなめて骨を論じるとか、「人の心にしみいる」とかもう言われたくないから。しかし印刷に回すとなると細かいところまで見直し、誤字を正さねばならない。結構手間がかかります。それで多分寄稿できないと思います。
 先月分の給与を待って、その後船待ちをしたので15日にやっと乗船できました。最後の1週間は実に苦労しましたが、新たな世故にも長けました。何かというと、以前は飯にありつくのに苦労しましたが、今回は飯はいらないというのもまた難儀なことが分かりました。辞職は病のためと言ったのです。というのもいかなる暴君もひとの病は止められぬと思った次第。もしもそれが人事不省の病でなければ、迷惑をかけるとは思いもよらなかった。ところが一部の青年はそれを信用しないで、送別会を開き演説や記念写真を取る、という。
度がすぎたようなので私も穏当でないと思い、いろいろ説明し、私のかぶっているのは「紙の偽の冠」だから、惜別しないで欲しい、記念などしないで欲しいと頼んだ。だがどうしたわけか学校改良運動が起こり、まずは校長に対して、
大学秘書長劉樹杞博士の罷免要求を提出した。
 3年前にも似たような事があり、その時は学生の完敗で、上海に大夏大学というのを作った。その時の校長がどう自衛したかは知らない:今回の私の辞職は劉博士とは無関係で、胡適派と魯迅派の排斥合戦の結果、去るのだという。このことはコロンスの日報「民鐘」に載ったのですが、すぐ反論しておきました。だが数名の同僚はとても緊張が高まり、会を開いて質問状を出した。校長の回答はしれっとしたもので:そんな事はない、というのみ。それである人たちは納得せず、別の流言を撒き散らして「排斥合戦説」の勢力を弱めようとしました。まさに「天下は紛々と乱れ、いつ定まるや」です。もし私がそのままアモイ大学で飯を得ていたら、こうしたことにはならなかったでしょうが、全く想定外でした。
 校長の林文慶博士は英国籍中国人で、口を開けば孔子、孔子で、以前孔子の教えの本を書いたそうですが、名前は忘れました。英文の自伝もあり商務印書館で出版予定とか。今現在「人種問題」を執筆中と。彼は私には実に丁重で、数回御馳走してくれ:餞別の宴も2回。しかし今「排斥説」は下火になったが、一昨日聞いた話は、彼は「私がアモイに来たのはひっかきまわすためで、授業をするためではないから、北京のポストも辞任していない」と宣伝している由。
 今回私は北京には行かないからこの「ポスト」説も下火になることでしょう。
次はどんな新説が出る事やら。 だがもう船上にいるから分かりません。私の予測では罪状は日増しに重くなるでしょう。中国ではこれまで「表ではあいそよく、裏では嘲笑する」手あいが多かったし、実にこれは「新時代」の青年だけの現象でもないのだから。当人の前では「我師」「先生」だが、背後では毒薬と暗闇から矢を射る、というのはもう両三度ならず教わりました。
 直近でも私の集美学校に対する罪状を聞きました。アモイ大学と集美学校は秘密の世界で、部外者にはよく分かりません。今、校長に対し騒ぎが起きています。以前校長の葉淵は(アモイ大学の)国学院の教師を招いて話をさせようとしました。6組に分け、11組、凡そ2人。第1回は私と林語堂。招聘方法も大変丁重で、前夜に秘書が打ち合わせに来る。この人と話したら、校長は、学生はひたすら読書に没頭すべし、との考えの由。私は世事にも関心を向けるべしと言い、校長の尊意と反するので、行かぬ方が良いと思うと言った。
だが彼は、それは妨げにならぬという。そう言ってもらって結構だと。それで翌日出かけたら、校長は実に冷静沈着で慇懃に食事を勧めてくれた。食べながら先に話をさせてくれればよいと思った。聞いてもし嫌なら食事に招かなくても済む。食事をしてしまってからでは、もし話にまずい点があると、罪状を重くするだけだから、どうすれば良いだろう。
午後講演し、私の話は例の通りで、聡明な人は物事をうまくこなせない。いろいろ考えた挙句、何もうまくやり遂げることはできない、という話。
その時校長は後にいて私には見えなかった。数日前、この葉淵校長も集美学校騒動はすべて私のせいだと言うのを聞いた。青年に向かってなぜ人はいろいろ考える必要は無いというのか、と。そのあたりを話した時、彼は後ろで頭を横に振っていた由。
 私の処世は、自分でも控えめすぎると思う。
 人が新聞を発行する時、自分からは寄稿しようとはせず、人が会を開く時は自ら演説には出向かない。どうしてもやれというなら、もちろんやぶさかではないが、私が話したいことを話すに任せてもらえねば一声も出せない死屍と同じだ。だがここで何か話せ、しかも校長の意に沿うべし、という。私はその当人でもないから、その人の考えをどうして知ることができようか。「先方の意を受け、志を承る」式の妙法も学んだことが無い。それだから、頭を横にされたのも当然だろう。
 去年から私(の運)は急に悪くなりました。或いは進歩かもしれません。いろんな人から攻撃され、刺されたりしたけど、傷は負わなかったようで、もう痛みもありません。更に罪状を着せられようとも何も苦しくない。数え切れないほどの古いのや新しい世故に長けた後に、これを獲得したのです。既に私は余り余計なことに関わりを持たぬようにし、控えめからもうこれ以上退避不可能な所から、進み出て彼らと衝突し、彼らを蔑視し、彼らの蔑視を蔑視するのです。
 この辺で閣筆。海上の月は皓々とし、波は大きな銀鱗を映し、キラキラ閃きながら揺れています:そして碧玉のごとき海水は、とてもおだやかです。こんな海が人を淹死させるとは信じられません。が、安心下さい:冗談です。私が身投げするなど御心配無用。これっぽっちもそんなつもりは無いのだから。
      魯迅 116日 海上。
(訳者注:これにて魯迅が言うところの坊さんには良いが一般人にはどうも、という坊さんの傘、「華蓋」集 含む続、続々 完)
 
訳者雑感:2003年の春節にアモイを尋ね、自動車の無いコロンス島や、鄭成功の遺跡、李鴻章の据えた世界一のクルップの大砲を見て回った。信徒たちの焼香する1メートル以上もある巨大線香の白煙の立ちこめる南普陀寺を参拝した後、その近くにアモイ大学があり、校門の脇の案内板に魯迅を記念した建物があったように記憶する。中に入る許可もないし、時間も無かったから入らなかった。
 しかし、今この文章を読むと、アモイのひとびとはこの大学と集美学校を創設したシンガポールのゴム王、陳嘉庚(タン、カーキー)に対して済まなく感じることだろう。
1921年に設立され、魯迅の赴任した26年の3年前にも学園騒動で上海に別の大学を作るようなはめになった由。
 陳氏は孫文を熱烈に支援したが、蒋介石には反対した。内戦で中国人同士が攻撃し合うのを、南洋にいてもっとも心を痛めたことであろう。魯迅の思惑も2年の予定で、2冊の本をこの学校の資金で出したいと考えていたくらいだから、長居はするつもりも無かった。だがそれにしても僅か4ヶ月で逃げ出すような形で終ってしまうとは、陳氏が選んだのか或いは人の推薦を承諾したのかは知らないが、当時 租界地であったアモイに作った「私立大学」に北京などから魯迅や林語堂の講義を聞こうと集まって来た「学生」の期待を裏切ることになってしまった。胡適派との排斥合戦、というのはコロンスの新聞が書いたものだが、校長などが流さない限り、そんな内部事情は外には出ないものだろう。後に蒋介石政府と行動を共にする胡適と、それに反対する魯迅を、蒋介石に反対する陳氏が排斥を許してしまったという構図になる。
ちなみに、胡適の適とは彼が自分で後から付けた名で、進化論の「適者生存」
Survival of the Fittestというスペンサーの考えから取ったもので、実存主義者の彼は、清末民国初めの混乱した社会で「Fittest」として生存競争に勝とうとしたのであろう。中国の文人、読書人の伝統として、政治に関与し続け、政治的な力と常に一緒にいなければならぬ、と考えたのだろうが、選んだ相手が
失脚すれば、自身も適者たることを失ってしまい、影響力も減衰してしまう。
郭沫若などもこの点があることは否めない。
 訳者は陳氏の創設したシンガポールの南洋大学に2年ほどお世話になった。
だが、それも今やシンガポール大学と一緒になり、陳氏の付けた南洋華人の名も、シンガポールから無くなってしまった。嗚呼。 
    2011/01/24
 
 
 
 
 

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アモイ通信3

 小峰兄:
 27日に送った原稿2篇は着きましたか。この種のものは本来書いても書かなくてもよいのだが、当地の青年たちが何か書けというし、他に何も書くことの無いのに苦しみ、何枚か書いて送った次第。当地にも何かアモイを批評するものを書けと言う人がいるが、今まで一行も書いてない。言葉も通じず、いろんな仔細を知らぬから、どこから書いてよいのかも分からぬ。例えば当地の新聞は先日来、連日のように「黄仲訓が公有地を占有」との見出しで書き立てたが、黄仲訓がどんな人物で、経緯も知らぬので、もし批評したら、本物の批評家が笑い転げるでしょう。他人が批評するのを妨げはしません。私が他人の批評を許さないというのは誣告です。私にそんな権力はありません。しかし私に編集させるなら、良くないと思ったら載せないし、実際、訳も分からぬ何とか運動の傀儡になる気はさらさらありません。
 数日前、(学生の)卓治君が目をギョロっとさせて、人が根拠も無く貴方を罵ったら、反駁して罵り返すべきだ、という。また多くの人が貴方の書いたものを読みたがっているから、黙っていてはだめだ。彼らが迷って仕舞う、貴方はもう自分ひとりのものではない、と。それを聞いて、ぶるっと震えが来ました。
以前、ある人が青年たちに、私のように古文を沢山読めと説教していた時と同じくらいに震えました。
嗚呼、一度紙製の冠をかぶると、公のものになり、援助する義務を負い、必ず反論してすぐ罵しり返さねばならぬ。もしそうであれば、一刻も早くそんなものは脱いでしまって、自由を取り戻すにしかず、です。
貴方はどう思いますか。
 今日もぞくっとする事件にあいました。アモイ大学の職務は病と称して、辞職しました。何もやれぬなら逃げるに如かず、です。しかし多くの学生が、せっかくアモイ大学改革のニュースを見てやってきたのに、半年もせぬ内に、今日はこの人、明日はあの人と去り、どうすれば良いのかと訴えてきます。これには私も実に困り果て、何も言えないのです。「思想界の権威者」或いは「思想界の先駆者」という、紙を糊でつけただけの冠が、あにはからんやかくも多くの人の子弟を誤らせたのか。数回の広告が、(私が載せたのではないが)彼らを他の学校から騙して来させたのに、結果として自分の方が逃げてしまう。
まことに申し訳ないことです。北京でもっと早く黒幕的な記事を書いて、学生たちを引きとめる人がいなかったことを悔やみます。
「面談の時はあいそがいいが、顔が見えない所では、攻撃する」式哲学は時に人の子弟を誤らせるようだ。
 細かい事情は多分御存じないでしょうが、私の最初の考えでは、確かにここに2年いて、授業以外に以前集めた「漢画象考」と「古小説鈎沈」を出そうと思っていた。この2冊の本は自分では出せないし、貴方に出してくれとも言えない。買う人は大変少ないし、当然コスト割れだから。資金のある学校しか出せない。だがここに来てこの状況からみて、「漢画象考」を出す望みも消え、自ら年限を1年に縮めた。もう去っても良いと思っていたのだが、林語堂の勤勉さと、故郷のために何かしようとする熱意のために口に出せなかった。その後
予算もあやふやになったが、語堂が頑張って校長が言うには、原稿を持ってくれば即印刷するとの由。さっそく持って行き、十分間程目の前に置いただけで持ち帰って来た。それ以後何の音沙汰も無い。結果は、ただ私の手元には原稿が確かにあり、ペテンでは無いと証明したに過ぎぬ。そのとき「古小説鈎沈」を出す望みも消えてなくなった。年限も半年に縮めた。語堂は校務と授業以外に闇討ち騙し討ちを防がねばならぬし、自分の関係無いことに心身ともに疲れ果て、まったく冤罪を着せられたようだ。
 一昨日の会議で、国学院の週刊(発行物)もほぼ廃刊になったのだが:校長の考えでは理科の主任のような人間を顧問にし、互いの気持ちを通じさせようとのことらしい。アモイの風習が理解できない。なぜ国学研究が理科主任の気分を害したのか。そして顧問と言う縄で彼を絡ませなければならぬのか。気持ちを通じ合わせる法は、研究したことも無いが:(同僚の)兼士も辞めたから私も辞めることにした。
 休暇まであと3週間あり、本来休んでも構わないが、ここでは教職員の給与について細かいことを言い、学校を10日ほど休むとその分を引こうとするので、休暇中の給料をもらおうとは思わぬから、今日までとし1カ月分引けばよいと思う。昨日もう試験も出題した。採点は翌月だが一銭も貰わない。見終わったら出発するから、もう刊行物は送らないでください。次の住所が決まったら連絡しますからそちらに送ってください。
 最後に例により天気について。例にといっても私のことだから批評家が私に天下の青年に対して、みな私の例のように、というのを強制しようとしていると非難すると面倒だから、決してそうではないと付言します。
 気温は確かに寒くなり、草木も前より黄葉したが、門前の秋葵のような黄色い花はまだ咲いていて、山里には石榴花もある。ハエは見かけなくなったが、蚊はときたま出る。夜も更けたのでお休み。 
    魯迅 1231
P.S. 又目が醒めた。拍子木の柝で五更と知る。学校の新業務が先月から増えて
夜回りも一人じゃない。聞いていて、夫々の鳴らし方が違う。はっきり2種あるのが分かる。
 ちょん ちょん ちょん ちょちょん!
 ちょん ちょん ちょちょん ちょん!
時を告げる柝の打ち方も流派があるのを知らなかった。
それをニュースとして併せ報告します。
 
訳者雑感:
 魯迅や林語堂たちのような著名な文人が、アモイ大学の改革のための「客寄せパンダ」の如く、1926年前後にたくさん集まって来た。魯迅の日記にも同年
98日に「顧頡剛(クーチエカン)より宋濂の「諸子弁」一冊贈らる」とある。
魯迅着任当時は、互いに行き来し合い、林たちを盛りたてて行こうとしたのであろう。だが、それはその後、本文に見られるようにもはや何もやることのないまでにあいそ尽かしをして、4か月で逃げ出すはめになる。
顧頡剛は「古史弁」を発表して、当時有名な歴史学者で、且つ胡適とも親交があった。次の「海上通信」に触れるように、胡適派と魯迅派の争いと外部からはとらえられているが、実際はどうだったろうか。中国の諺に「文人相軽んず」「文章は自分のが良い、女房は人のが良い」という。
 デユーイの実存哲学をベースとする胡適と魯迅の考えは折り合う事はなかったであろう。胡適は駐米大使も務め、新中国建国後は米国に亡命後、台湾に逃れた。
 1926年当時の混乱した中国にあって、多数派、実権に近かったのは胡適の方であったろう。学歴の高い「学者」たちにとって、厳しい批判をぶつけてくる
「学者でもない」辛辣な論客魯迅は煙たかったに違いない。それで所謂「学者」
たちに村八分のようにされて、追い出された形であろう。
 中国の文人たちの党派闘争の長い伝統は、いつもあいまいで尻切れトンボで
論戦を終結させてしまう日本の常識では考えられないほど熾烈で、その後魯迅と林語堂の間ですら、フェアプレーを巡って、「水に落ちた犬を打て」と主張する魯迅と林語堂は、激しい論戦を交えることとなる。生存競争そのものだ。
   2011/01/22

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「阿Q正伝」の成因 

「文学週報」251号に西諦先生の「吶喊」を語る、特に「阿Q正伝」についてが載った。それでちょっと思い出したので、一言書くことにする。
一つは文章を書いて寄稿するため、もう一つは、見たい人に読んでもらうため。
 まず西諦先生の原文引用から。
“本篇が衆目を引くのもいわれのないことではない。だが何点か検討すべきことがある。例えば最後の「大団円」の一幕は「晨報」で初めて見たときは納得できなかったし、今もそうである。作者は阿Qの終局を余りに急いだようだ。もう書き続けたくなくなり、かくも随意に「大団円」を与えてしまった。阿Qのような人間が、革命党になり、あのような大団円の結末を迎えるのは、作者自身書き始めた時に思いもよらなかったようだ。少なくとも人格的に分裂してしまったようだ。”
 
 阿Qは本当に革命党になろうとしたかどうか、本当にそうだとして、人格的に分裂したかどうかについては、暫く置いておく。
単にこの作品の成因を書くだけでも結構手間がかかる。常々言ってきたが、私の文は湧き出してくるのではなく、絞り出すのです。そういうと、謙遜だと誤解されますが、本当なのです。話したいことは何も無いし、何も書きたくないのだが、自虐的な気質からか、時に何回か吶喊し、人々に熱くなってにぎやかになってもらいたいと思うのです。例えば一匹の疲れ切った牛が、大して役に立たないのは明らかだが、廃物でも使わない手はないから、張さん家が一弓(五尺の意)の土地を耕させたいならそれをやるし、李さん家が一臼引けというのも結構;趙さん家が店の前に立たせて、背中に広告を架け、「当店には肥えた牛がおり、殺菌済み上等の滋養豊富な牛乳 販売中!」とやるもよし。どんなに痩せていて、且またオスで乳も出ないのを知りつつも、彼らの商売の為とならば、何でもやります。毒薬を売るのでなければ、何も言わない。だがもし、とても辛くて苦しい仕事はご免こうむるし、自分で草も食みたい。休息も取りたい。特定の家専用の家畜として、牛舎に閉じ込められるのはご免だ。時には他人の家で粉ひきをしたい。もし肉を売れとなると勿論嫌だ。その理由は自明で、説明するまでも無い。もし以上の三つに会ったら、逃げ出して、いっそ荒野で暮らすことを択ぶ。たとえその為に、突如真っ当に生きることから浅薄な生き方に変じ、戦士から畜生にされ、康有為の名で脅かされたり、梁啓超に比したりされても、一切気にしない。私は我が道を行く。
自分の居場所で横になり、二度とペテンには引っかからぬ。私は「世故」にかけては、実に驚くほど長けてきたからである。
 ここ数年「吶喊」をかくも大勢の人が読んでくれるようになったが、私も初めは思いもよらなかったし、夢想もしなかった。知人から何か書けと要請があったから書いたまでである。当時は忙しくも無いし、また多くの人は私が魯迅とは知らなかった。
ペンネームはこれだけではない。LS,神飛、唐俟、某生者、雪之、風声:それ以
前は:自樹、索士、令飛、迅行など。魯迅は迅行を承けたもので、当時の「新
青年」の編集者は、号のようなペンネームを好まぬから、そうしたわけ。
 今、誰かが私のことを、何とか言うつまらぬ団体のボスになろうとしている
と思っているようだが、哀れなことだ。何度も偵察したがまだわからない由。
 私はこれまで魯迅の名で人を訪問したことは無い。魯迅は周樹人だというの
は、他の人が見つけ出したものだ。こういうことをする人には4種類あり、
一は、小説研究目的で作者の履歴を知ろうとする者。二は単なる好奇心。三は
私が短評を書くので名前を暴いて、私に禍をもたらそうとするもの。四は自分
に何かメリットは無いかほじくり出そうとする者。
 当時(北京)西城区に住んでいたが、魯迅が私だと知っているのは、多分、
「新青年」、「新潮」社の人だけで:孫伏園もその一人。彼は今晨報館の副刊
を編集している。
誰の考えか知らぬが、突然週一回「気晴らし」欄を設けることになり、私に何
か書けと言ってきた。
 阿Qのイメージは確かに何年か温めていたようだが、一向に書こうとは思わ
なかった。が、そう言われて忽然思い出し、夜に少し書いてみた。それが第一
章序です。「気晴らし」にせねばならぬということで、不必要な滑稽話も加えた
が、全編がそうではない。筆名も下里巴人(という楚国の通俗歌曲)から巴人
としたが、決して高雅な意味はない。
 ところがこれが一悶着起こした。全く知らなかったのだが、今年「現代評論」の涵廬(高一涵)の「閑話」で初めて知ったのだが、大略は次の通り。
「阿Q正伝」が一段ごと発表された時、多くの人が次は自分が罵られるのではと心配しだした。そして友人が昨日の「阿Q正伝」のあの段はどうも自分を罵っているようだと私に語った。それで、「阿Q正伝」は某氏が書いているのだと憶測した。何故か?このくだりの彼のプライベートなことを知っているのは、某氏しかいない、…。それ以後、疑心暗鬼で「阿Q正伝」で罵られたのは彼の隠された私事だと思い、「阿Q正伝」を載せている新聞関係の寄稿者は、当人がその作者だという容疑を着せられた。彼は作者の姓名を知って初めて作者とは面識の無いのを知り、恍然となって、逢う人ごとに、あれは自分を罵っているのではないと説明して回った。(第489号)
 この「某氏」先生には、とてもすまない。私のせいで何日も嫌疑を受けた。
残念だが誰かが「巴人」の2字を見て四川人だと思い、四川人を疑った。「吶喊」
に入れた後も、私は実際には誰と誰を罵っているのかとよく訊かれた。それで読者にこんなにも下劣な読み方をされないようにできなかったものか、と私は悲憤慷慨し自分を恨みもした。
 第1章が載ってから苦しみが始まった。7日ごとに一篇書かねばならぬ。当時それほど忙しくなかったが、流民の状態で、夜は通路の部屋に寝る。この部屋には裏窓がひとつあるきりで、字を書くところも無い。どこで静かに坐って構想しようか考えた。伏園はまだ今のように太ってなかったが、もうすでにニコニコと笑みをたたえ原稿催促がうまかった。週一回その期限がくると「先生、
Q…は明日印刷に回さねば」それで書くしかない。心中、俗に言う「乞食は犬を恐れ、秀才は年試を怖れる」と思った。私は秀才でもないのに、週試を受けねばならぬとは、誰の為…」と思いながら又一章書く。しかしだんだん真剣になってきて:伏園も「気晴らし」ではないと感じ:第2章から「新文芸」欄に移した。
 かくして一週、一週、なんとかつないだが、どうも阿Qを革命党にせねばならぬという問題から逃げられなくなった。私の考えでは中国がもし、革命しなければ、阿Qもなれない。革命したなら、なれるのである。我が阿Qの運命は
ただこうなるよりほか無く、おそらく人格分裂にはならなかったであろう。
民国元年は遠くになり、茫々として追跡できないが、今後もし再び革命が起これば、阿Qに似た革命党がきっと出現すると思う。私もみなさんが言うようになって欲しいと願う者だ。ただ現在からみた以前の一時期のことを書くだけだが、私が見たものが現代の前身では無く、その後の状況、或いは二三十年後の
状況ではないかと恐れる。実はこれは決して革命党を侮辱したことにはならない。阿Qはすでに竹箸で辮髪を巻きあげたし、その15年後、長虹(最初魯迅に師事したが後に反旗を掲げて雑誌を発行して攻撃し始めた青年)は出版界に入り、中国の「セベリョフ」になったではないか。
「阿Q」は2か月程書いて、もう終わりにしたいと考えたが、記憶が定かではないが、伏園が反対し、或いは私が終わろうとすると彼が抗議に来たかだが
「大団円」は心の中に蔵しつつあり、阿Qはだんだん死路を歩み出していた。
最後の一章になって、もし伏園がいたら、多分圧力をかけて、もう数週間は生かしておけと要求しただろう。だが、「ときまさに時宜にかない」彼は帰省した。
代わりに何林霖が担当となり、阿Qには素より愛憎もなく、私が「大団円」で送りだしたら、彼はそれを載せた。伏園が帰京した時は阿Qが銃殺されて一カ月余。たとえ伏園がどんなに催促がうまくても、ニコニコ笑いながら「先生、阿Q…」とは言えなくなった。これにて一件落着。他のことができるようになった。何をしたか覚えてないが、多分もの書きだろう。
 実は「大団円」は“随意”に与えたわけじゃない。少なくとも書き始めた頃に、構想していたかとなると疑問だ。記憶ではどうやら「想定していなかった」
だがこれも仕方のないことで、誰がハナから他人の大団円を想定できようか?
Qだけでなく自分の将来の大団円すら、いったいどうなるのか知らない。最終的に、「学者」か「教授」「学匪」「ゴロツキ学者」「官僚」或いは「法廷書記」
「思想界の権威者」「思想界の先駆者」「世故に長けた老人」「芸術家」「戦士」
また客に会うのを面倒がらぬ特異な「アラジエフ」か、か、か、か、…。
 阿Qは勿論他にいろんな結果もあり得たが、それは私の知るところではない。
以前私は「書き過ぎ」な点があると思ったことがあったが、近来、そうは思わないようになった。中国で今起こっていることをもし、如実に描写したら、他国の人がみたら、或いは将来良くなった中国の人がみたら、みな「Grotesk」に感じるだろう。私は常々ひとつのことを仮想しては、我ながらとても奇怪に考えすぎだと思うほどだが、似たような事実に実際に遭遇してみて、往々にして事実の方が考えていたことより奇怪なことがある。次のような事実が起こるまで、浅見寡聞な私は万に一つも思いもよらなかったことである。
 一か月以上前、当地で強盗が銃殺された。二人の短衣を着た男がピストルで計7発撃った。撃ったが死んでないと思ったのか、死んでからも又撃ったのか知らぬが、こんなに沢山撃った。その当時私は学生たちに感慨をもらし、これは民国初年、初めて銃殺したときの状況だと言った。あれから十余年。進歩してなきゃならぬ。死者にこんな多くの苦痛を与えるべきじゃない。北京じゃこうじゃない。犯人が刑場に着く前に、刑吏は後頭を一撃し、命を断つ。当人は自分が死んだかどうか知らぬ内にだ。だから北京は首都で死刑も他の省よりずっとましだ、と言った。
 しかし、数日前1123日の北京の「世界日報」を見ると、私の話は正確でないことが判明した。その第6版の一段のニュースに「杜小栓子の首切り」と題して5節に分載。今その一節を引くと、
 ▲杜小栓子は鍘(サツ、大型の首切り、草を押し切る道具と同型)で首切り、
余人は銃殺。
 先ごろ、衛戌司令部は了毅軍各兵の請求により、“梟首刑”採用を決定し、
杜等が刑場到着前に、草刈り大刀が準備された。刀は長方形で手元は木製、
中の刀身は厚大で刃は鋭利。刃の下部は穴があり、横に木を嵌め、上下に動く。杜等4人が入場すると、介錯の兵が杜等を刑車に乗せ、彼らの顔を北向きにし、
準備完了の刑卓の前に立たせた。…… 杜は跪づかぬ。外右五区(地名)の
某巡官が杜に尋問:介添えが要るかと。杜は笑って答えず。そして自ら刀の前に駆けて行き、刀の上に横になった。仰面して受刑。まず執行兵が刀を挙げ、
杜の枕が適当なところに来ると、執行人は目をつぶって猛然一殺。杜の身首は
二つになった。血はどっと大量に噴き出た。周りで跪づいていた銃殺刑の宋振山等三人は偸み目で見、趙振はブルブル震えだした。後、某班長はピストルで宋等の後ろからまず宋振山を銃殺、そして李有三、趙振一人一撃。…
 先に被害者の程歩墀(チ)の二人の息子、忠智忠信は現場で見て大声で哭し、
各人が執行されると、大声で「父さん、母さん、仇は討ちました。我々はどうしたらいいの?」と叫んだ。それを聞いていた人々はとてもつらく可哀そうに感じた。その後、彼らは家族に連れられて帰った。
 もしも天才がいて、時代の心拍を感じ、1122日のこの情景を描いた小説を発表したら、読者の多くはきっと(宋代の小説で有名な)包龍図判官の時代のことと思うに違いない。11世紀の、今を去る九百年も昔のことだ。
(当時の死刑は大きなギロチンのような刀で、大衆の前で公開処刑された)
 こうなると、まったくどうすればよいだろうか…。
 「阿Q」の翻訳は2種しか見ていない。仏語のは8月号の「欧羅巴」に三分の一のみの抄訳。英語のはとても懇切なようだが、私は英語がよく分からないから何とも言えぬ。ただ、偶々見た限り、2か所は検討の余地あり。一は「三百大銭九十二串」は「三百大銭は九十二文を百と数える」の意に訳すべき。二は
「柿油党」は音訳した方がいい。元は「自由党」のことを言うのだが、田舎の人は分からぬので、なまって自分たちの分かる「柿の油の党」にしてしまったもの。    123日 アモイにて
 
訳者雑感:Groteskというのはドイツ語の綴りで、もとはきっとラテン語あたりからきたものだろう。手もとの英和辞典では、「ルネッサンス時代に主に地下の墓窟(Grotto)に多く見出された」怪奇、異様な文様、の意とある。
魯迅は革命党になろうとした阿Qが、単なる泥棒で、手中引き回しの上、広場にしつらえられた処刑場に刑車に乗せられてゆく情景を描いている。それを好奇心で見物に出かける庶民の中に、阿Qがいっとき心を寄せた女も登場させて。
しかし、処刑される当の阿Qは見物人からすると元気も無く、面白くも無いと評判が良くない。 そんな事実は、今から百年前の一部の中国人の間ですら、Groteskと感じたから、そんなことを「大団円」に書くなとの非難もあった。
「中国人のプライドを傷つけられた」と感じた若者もいたに違いない。
それで彼は「以前私は書き過ぎた点があると思ったことがあったが、近頃そうは思わない」として、辛亥革命後15年も経った1926年にアモイで見た何発も銃を撃つ強盗犯の死刑や、1123日付北京の「世界日報」の記事の断頭台での
中国式ギロチンの事実を見て、彼自身も驚愕し、Groteskに感じたに違いない。
 
 訳者は、文化大革命時代に中国を訪れた時、トラックの荷台に円錐の帽子を被せられ、首からは罪状を書いた紙をつりさげられた所謂「資本主義の道を歩む実権派」「反革命分子」たちが、後ろ手にしばられて、銅鑼や太鼓でどんどん
はやし立てられて「市中引き回し」の上、処刑(入獄)されるのを見た。
辛亥革命後60年経っても、魯迅の「書き過ぎ」と変わらぬ状態だった。
 2002年、訳者が大連に駐在していたころ、遼寧省の高官が銃殺されるシーンをテレビで見た。チャウシェスクが銃撃されたときの衝撃と同じだった。本物でなくテレビという映像を媒介したものでも それは「見せしめ」として大きな効果をもたらした。それは彼らの被害を受けた者に代わって仇打ちする意味と、こうして本当に死刑にしたのだから、ヒットラーのようにどこかで生存しているというデマを封じる為であった由。フセインも同様だったろう。
晒し首というのは百年ちょっと前まで、行われていたようだ。日本の武士たちも敵の首級を自分で見ないことには、安心できなかったように。
  2011/01/17
 

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 アモイ通信2 小峰兄:

小峰兄:
「語絲」101102号本日拝受。ここでは多くの郵便物が同時に届くのは、しょっちゅうです。大体週2回です。
2冊の「語絲」を見て、感慨ひとしおです。百号を超えたからでしょう。中国では、数人で始めた刊行物が百号まで続くのは並大抵じゃありません。
 ここからも「語絲」に投稿したいが一行も書けません。「野草」も一本の茎、半分の葉すら出ない。今は講義原稿を編集しています。何のため?お分かりでしょう。飯のためです。飯を食うのは何のため?この論法でいうなら、講義原稿のためです。飯を食うのは高尚なこととはいえませんが、そうとも思いません。だが、講義原稿を書いて飯を食い、飯を食って講義を書くのは無聊に近いことを免れません。学者たち教授たちは別の考えがあるのでしょうか。私ども平常人からすると、教えることと物を書くことは両立しません。或いは黙々と教えるか、或いは発狂して変死するが如くに物を書くか、一人の人間が方向のまったく違った二本の道は歩めません。
 ふとあることを思い出しました。やはり夏に「現代評論」に正人君子が書いたように:人を罵る小新聞の流行で、まっとうな文章は誰も読まなくなり、出版できなくなった、と。こういう学者たちの才能に敬服します。私に代わって調べて欲しいのですが、彼らはどれほどまっとうな原稿を「家に蔵している」か、目録を作って下さい。だけどもし講義用ノートや民法第八万七千六百五十条の類なら要りません。見たくもありません。
 今日また漱園兄の手紙がきて、北京は結氷の由。こちらは袷一枚で、寒い時は綿のチョッキを着ます。(戦国時代の楚の詩人)宋玉先生の「皇天平分四時…」
(中略:楚辞の一節)のようなしゃれた詩文をここで引用しようものなら、それはまったく「無病なのに呻吟する」如きものです。白露は百草に降りたか、
梧楸の葉は枝を離れたか否かも知りません。景象は多分晩夏の如しで、我住まいの門前に名も知らぬ植物が秋葵(アオイの一種)に似た黄色い花を咲かせている。ここに来た時にもう咲いており、いつ頃から咲きだしたのか知らないが、今も咲いています。蕾もあり何時になったら咲き止むのやら分かりません。
「古くより之あり、今なお盛ん」で、近頃はそれを見るのがこわい位です。
鶏頭の花もとても小さく、江蘇浙江のとは違います。紅と黄の花が長い間、
一本一本立っています。私は元来地獄に落ちるのは嫌いですが、目にするのが
只、剣山と剣の林ばかりで、見ていても単調だし、その苦痛に耐えないのです。
しかし今は天国に行くのも恐いです。四季常春で、一年中桃の花を眺めていたら、どれほど味気ないことでしょう。たとえその桃の花が車輪のように大きくても、ただ最初に行った時は暫く驚くだけで、毎日「桃之夭夭(詩経)」のようなのを作れはしないのです。
 しかし荷の葉はとうに枯れ、雑草は黄ばみだした。こうした現象は以前は所謂「厳霜」のせいと思っていました。時にはあの「凛とした秋」に対して怨みごとを言って責めたりしましたが、こちらでは霜も降りない、雪も無くおよそ
黄ばみ、萎えるのは「寿命が終わり、寝る」のであって、他でもありません。
嗚呼、不平不満の種になる材料も減ったから、言うべきこともありません。
 今や不平不満をぶちまける方途さえないという不満も言いつくしてしまいました。また次の機会に。これから講義ノートを作ります。
    魯迅  117
 
訳者雑感:
 常春のアモイに耐えかねて、不平不満すら訴えるすべもないと嘆く魯迅。
地獄に落ちるのも針のむしろは恐ろしくて怖いが、車輪のように大きな桃の花咲く天国も、やはり怖いと思い始めた。この間、雑文すらも書けなくなってしまったほど。魯迅の灰色の脳細胞は、大都会の刺激が無いと活動を停止するようだ。
 教えることと、狂ったように物を書くことは両立しないようで、漱石も大学教授の職を棄てて、(収入の面もなんらかの影響があったか)小説書き専門として朝日に入社した。魯迅も北京では文部省の役人を解任され、経済的にも困難となると同時に、軍閥政府からの弾圧もあり、北京を逃げ出す格好で、アモイ大学で教えて四百元前後の月給を得て文学(史)を教えていたが、アモイ大学の教授たちの追い出し作戦、村八分に会い、4か月でアモイを去った。
彼には漱石のような大新聞のスポンサーは付かなかった。このあと広東の大学でも教えることになるが、そこも間もなく辞し、上海で晩年の10年を過ごすことになる。晩年の子規の新聞「日本」とか漱石の「朝日」のような後ろ盾無しに。日本の作家たちは恵まれていたと思う。といっても魯迅は大新聞のお抱えになる気はさらさら無かったろうが。
   2011/01/12
 
 

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華蓋集続編の続編

 アモイ島にいた4カ月は、数篇の無聊な文字を書いただけだが、最も無聊なのを除くと6篇残ったので、「華蓋集続編の続編」と称してこの1年で書いた雑感はすべてこの華蓋集に入れた。   192718
 
 アモイ通信
H.M.兄(許広平のこと、害群之馬の頭文字Hai Ma:出版社注)
 ここに来て間もなく1カ月。三階建ての楼上の部屋で、なまけて過してどこにも余り手紙を書かなかった。建物は海辺にあり、日夜海風がヒューヒューと鳴ります。海浜には貝殻が多く、何回か拾ったがこれといったのはありません。
周りに人家も少なく、近くには店も一軒きりで缶詰と糕餅(オヤキのような物)
を売っているだけで、私より一回り年配の女性一人で切り盛りしている。
 風景は山あり水ありで、悪くはありません。着いた当初、同僚が語るには:
山の光と海の気は春秋と朝晩はすべて趣を異にする由。そして岩を指してこれは虎、あれは蝦蟇、それは何やら…と、名は忘れてしまったが余り似てもいない。自然美については、私はどうも敏感で無いうらみがあるようで、どんな良い日にどんな美しい景色を見ても大して感動せぬのです。ただ、ここ数日間は、鄭成功の遺跡は忘れられません。住まいから遠くないところに城壁があり、彼が築いたといいます。そう思うと、台湾を除きここアモイは満州人が入関後、我が中国で最後に滅んだ所です。実に悲しむべき、かつ喜ぶべきと感じます。台湾は、1683年、即ち所謂「聖祖仁皇帝」(康熙帝)22年に滅ぼされました。
この時あの「仁皇帝」たちは「十三経」と「二十一史」の(石)刻板を補修した。現在、一部の国民はこの経典をたいへん珍重しています:この宮廷版
「二十一史」も宝物になり、骨董愛好の蔵書家は大枚をはたいて買い求め、子孫に伝えんとしています。しかし鄭成功の城壁は、たいへん寂莫としています。
どうやら城壁の基礎のところの砂が盗まれて、対岸のコロンス島の誰かに売られ、礎石がぐらぐらになりそうです。ある朝早く、たくさんの小船を見かけましたが、喫水が深いし、帆を張ってコロンス島に向かっていましたから、多分あの砂売りの同胞たちでしょう。
 周りはたいへん静かで、近くでは北京や上海の新しい出版物は買えないので、
寂しく感じます。が、あの灰色の煙を吐く「現代評論」も見かけません。あれほど多くの正人君子文人学者が執筆しているのにどうして流行しないのか分かりません。
 ここ数日今年の雑感を編集しようと思っています。雑感を書き出してから、ことに陳源のことを書いてから、何人もの「中立」を自称する君子がこれ以上書くと、つまらぬことになるぞ、と忠告してくれます。忠告があったから云々ということではなく、ただ環境が変わってしまったため、近頃もう何の雑感も無いし、旧作を編集することまで忘れてしまいました。数日前の夜、梅蘭芳
‘演芸員’の歌声が突然聞こえて来ました。勿論蓄音器のだが、粗製の鈍い針先のように、私の鼓膜を刺すようで、気持ちが悪かった。それで私の雑感も多分、梅‘演芸員’を敬愛する正人君子たちの耳を刺し、気分を害しているのだろうから、私にもう書かないようにしようとしているのだろうと思い到った。
 しかし私の雑感は紙に印刷したものだから、空気を振動させないから、見たくなければ頁を開かなければすむことで、何も中立を装って私を騙す必要はない。私は私の書いたものが書棚に並べられて、見たい人に買ってもらいたいと願うが、正人君子に賞賛されたくはない。世の中に牡丹をめでる人は一番多いが、(朝鮮朝顔属の)ダツラとか無名の草花を好む人もいるし、(雑誌同人の)
朋基は覇王鞭(常緑植物の名)を急須に活けて盆栽としているくらいだ。旧稿を見ると大変乱雑なままなのが多いので、清書してくれますか。
 この時刻にまた風が吹き出し、殆ど毎日こうですが、北京のようですが、砂塵は少ないです。偶には散歩に出ます。墓地の叢を歩きます。これは(オランダ人の)Borelもアモイのことを書いた本に中国全土はひとつの大きな墓場だと記しています。墓碑の文字は多くは通じません。亡母 某とあるが子の名はなく、上に地名が横書きされたのや、「文字の書かれた紙を愛惜せよ」の4文字は誰に対してそうしろというのか分かりません。これらの通じない原因は、書を読んだせいでしょう。もし文字を知らない人に、この墓は誰の?と訊けば、親父だと答えるでしょうし、名前はと訊けば張二と答え、貴方はと訊けば、張三というでしょう。素直に書けばはっきりするのに、墓碑を書く人は辞を弄したがるので、よけい出鱈目になり、「金石例文集」を研究したのですが、元から清までかけても、結局何の成果も無かったのを知らないのです。
 私は以前と変わりありません。だが、静かすぎて何も書く気になれません。
   魯迅  923
 
訳者雑感:
 「居は気を移す」という。あれほど激した雑感を書いてきた魯迅も、北京という「震源地」から遠い「静かすぎる」アモイ島に移って一カ月。何も書く気になれません、という。アモイには4か月程いたきりで、広東に移り、そこも
そうそうに引き払って、次なる「震源地」上海に向かう。
 仙台から東京に移ったように、彼は出版の中枢、新聞社の沢山集積したところで、触角を四方に張り巡らせていないと、何も書く気にもなれないのであろう。北京にいる時でも、日本から「読売新聞」などを取り寄せた定期購読者であった。       2011/01/10

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上海通信


 小峰兄
 分かれた翌日、汽車でその夜に天津着。途中何事も無かったが、天津駅を出たら、制服の男が、多分税関吏だと思うが、突然私の行李をつかみ「中は何だ?」と、私は「日用品」と答えたら、彼は2度ほど揺すってそのまま去った。
幸い中には人参スープや搾菜湯とかガラス食器も無く被害なし。安心乞う。
(当時は軍閥の軍警察の検査が厳しかった)     
 天津から(南京の)浦口には特急寝台で喧騒はなかったが、満員だった。7年前家族全員を北京に連れて来て以来、この列車に乗るのは初めてだが、今は男女分乗の決まりで、隣の部屋はもとは一男三女の一家がいたのだが、男は追い出され、他所から女を連れてきた。浦口に近づくと一悶着あり、その一家のボーイへのチップが少ないとして、大柄なボーイが我々の処に来てあれこれ騒いだ。要は:金というのは必要なもので、働くのは金の為でなければ何の為か? しかるに自分はボーイとして小銭のチップを得ようとしているのは、良心がまだ心蔵の中にあり、(腋の下を指して)こっちの方に移ってきてないからだ。
自分も畑を売って鉄砲を買い、土匪を集めて頭目になりひと暴れして官に就き、金儲けもできる。だが良心がまだここに(胸骨を指し)あるから、ボーイに甘んじ、小銭を稼いで子供に勉強させ、将来は良い暮らしを……。だが、もし何も呉れないなら、人間としてなすべきでないこともやらねばならない。
 我われ6人は誰もそれに反駁しなかった。後に1元出して済ませた由。
 勇敢な文人学者が北京で発行している週刊誌に、孫伝芳大帥を罵倒しているが、その後塵を歩もうとは思わぬ。だが、下関(南京の地名)に着くと、
(孫伝芳の行った昔の遊びの)投壺の儀礼の邦であることを思い出し、滑稽の感を免れなかった。
 見た目には下関は7年前と変わってない。ただあの時は大風雨、今回は晴天。次の特急に間に合わず、夜汽車しかなく旅館で休憩。赤帽(当地では‘夫子’という)とボーイは昔通り実直だった。板のように平らの鴨の姿焼き、焼き豚、鶏からなども手ごろな値段でおいしかった。2両(重さ)の高粱酒も北京より上手かった。これは私が‘そう感じた’だけ:但し理由が無いわけではない。少し生の高粱の味がしたためで、飲んだ後目をつむると、体は雨後の田園にいるような気持ちになった。
 まさに田園に身を置いている時、ボーイが来て、誰かが話があるから外に出よと。出てみると数名の男が、34人の鉄砲を持った兵士とともに、総勢何人か数えてないが、とにかく大勢で、その中の一人が私の行李を開けろという。どれからにするかと訊くと、麻布のカバー付き皮箱を指す。縄を解き、鍵を開け、蓋をあけたら彼はしゃがんで服の中を探した。そして何も見つけられずがっかりして立ちあがり、手を振って一群の兵士は‘後ろ向け’となり、
去って行った。指揮官は立ち去る時、私に頭を下げとても丁寧だった。
私は現役の‘鉄砲階級’と接したのは民国以来はじめてだった。彼らは決してひどくはない:もし彼らが、‘無砲階級’を自称する連中が言うように、‘流言’を流すのが上手かったら、私はもう旅は続けられなかっただろう。(魯迅が後に増田渉に吐露したところでは、同行した許広平(後の夫人)の国民党員証がカバンの中にあって、もしそれが見つかったら、軍閥政府に殺されたかも知れない、とのこと:増田の解説)
 上海行きの夜汽車は11時発。客も大変少なく横になれば寝られそうだが、椅子が短すぎ、身を曲げねばならない。車内の茶はとてもうまい。ガラスに入れ、色香も良い。多分長年井戸水で飲んできたせいで、井の中の蛙だったのだろう。(泉の水を指すか)確かにうまい。それで二杯も飲んでしまった。窓外の夜の江南を眺めて一睡もしなかった。
 車中で英語をしゃべる学生がいた。はじめて‘ラジオ’や‘海底ケーブル’という話を聞いた。そしてひ弱そうな若旦那がいた。絹を着て、先の尖った靴を穿き、南瓜の種を口にし「日刊レジャー」の類のタブロイドを手にしたままで永遠に読み終わりそうにない。この手の人間が、江蘇、浙江地方には特に多い。おそらく投壺をする日々はまさに長久に続くと見られる。
 今上海の旅館に泊まっています:早く(アモイへ)出立したいと思う。数日旅をしたら旅行が楽しくなりました。このままずっと旅を続けたくなりました。以前欧州にある民族がいて、‘ジプシー’と呼ばれ、渡り歩くのが好きで、一か所に安住しない、と。彼らをとてもおかしな連中と思っていましたが、今やっと彼らの気持ちが分かったようで、自分の方がいかにいいかげんか分かりました。
 今、雨が降っていて、さして暑くありません。
   魯迅  830日 上海
 
訳者雑感:この汽車旅行記を訳しながら、戦前に撮影されたマレーネ・デートリッヒ主演の「上海特急」を思い出していた。
映画の冒頭は、北京か天津の市街地の狭いせまい通りの中央を石炭のばい煙を
吐きだしながら、特急列車の動輪がそろりそろりと動き出す、
 両側の商店街の漢字の右書きの看板と、牛が横切って蒸気機関車が立ち往生する雑踏の中、労働者や着物を着た商人たちがその前を横切る。それでも汽車はゆっくりゆっくりと南京―上海に向かう。
 ストーリーはもう記憶が薄れて思い出せないが、魯迅の経験した状況と同じように、軍閥間の争いとそれに国民党の内戦が続いており、やはり途中の駅で、
軍閥の兵士が乗り込んできて、全員の所持品検査、果ては反乱軍と軍閥間の争いの展開だったかと思う。そこに男女のラブロマンスが描かれる。
 魯迅も本人が他の所で書いているように、自分に不利になるようなことは、
一切書いてない。ディッケンズがフランスからドーバー海峡を渡って、列車で
ロンドンに戻る時に、列車が転覆し、そのとき同伴していた女性とのことが公になったら、彼の名声は地に落ちてしまう。なんとかその場を凌がねばならぬ、という話を読んだことがあるが、それはだいぶ時間が経ったあとのこと。
 魯迅も北京の軍閥に追われて、アモイに去ったのだが、その時点では後に夫人となる女性と同行していたとは、一切触れてない。もしこの上海特急が、
マレーネ・デートリッヒの映画のように、彼女が軍閥に国民党員として、人質に取られたら、彼はどんな方法で、彼女を救いだしたであろうか。
 魯迅は文章を書くのは、殆どは自己弁護のためだと、雑感に書いている。
彼女の救出の為なら、どんな犠牲を払ってでも、彼女を弁護し、自らも関係する手ヅルを頼って、奔走したに違いない。
 このころの時刻表は手元に無いので、どれくらいかかったかは分からないが、
少なくとも、北京―天津、天津―浦口下車、 長江を渡船し、南京―上海と
数日は要したであろう。それが今年4時間で結ばれることになった。
  2011/01/09
 

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