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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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而已集  1927年  黄花節の雑感

黄花節が近づいたから何か書かねばと思うが、この題については昔の科挙の試験における「空論」になってしまう。自分でも恥ずかしいが、黄花節の意味することは知っているが、黄花岡で死んだ戦士たちについては、名前も人数も知らない。
 これを書くため、材料を探したが、ただ「辞源」を引くほかない。そこには、
「黄花岡。地名、広東省城北門外の白雲山麓にあり、清宣統帝3329日、
革命党数十人が督署を襲撃したが成功せず、死亡しここに葬らる」、とさらりとした記述で私の知識と大差なく裨益なし。
 17年前の329日の状況を知ろうとしたが、目撃したり耳にしたことのある古老は探し当てられなかった。北京、南京或いは我故郷のような他地区の例から推測するに、当時多分何人かは痛惜し、数名は快哉し、若干名は何の意見もなく、何名かは酒後や茶のみ話のタネにしたことだろう。そして忘却された。久しく圧制を受けた人は、圧制を受けている時は只耐えしのぶのみで、幸いに解放されれば只楽しむのみで、悲壮劇は長くは記憶に留まらぬ。
 だが329日の事は特別で、その時は失敗したが10月には武昌起義があり、
翌年中華民国が出現した。それで彼ら失敗せし戦士たちは革命成功の先駆者となり、悲壮劇もまさに終らんとする時、団円劇の結末に添えたのだ。これは大変喜ばしいことで、黄花節の記念日にそれが見られると思っていた。
 これまで長い間北にいたので、自ら黄花節の記念に遭遇したことは無い。が、
(孫)中山先生の記念日には、学校で夕方演劇を見に来るものがたくさんいて、
長椅子がいくつか壊れるほどとてもにぎやかだった。それで黄花節もきっとにぎやかだろうと思った。
 (孫文逝去記念の)312日の晩、にぎやかな会場で革命家の偉大さをしみじみと感じた。恋が成就した後、片方が死んでしまったら残された者に悲哀を与えるだけである。だが革命が成功した後、革命家が死んだら生き残ったものが毎年にぎやかに大騒ぎする。ただ革命家だけが生死に関わらず皆を幸福にする。同じ愛なのに、結果はかくも違う。正に現在の青年たちが恋愛と革命の衝突に苦悶するのも怪しむに足りない。
 以上「革命の成功」は暫しの間だけのことで、実際は「革命いまだ成らず」なのだ。革命は止境が無いし、この世界に本当になんとかという「至善の極み」
があるとしたら、この世の中は瞬時に凝固してしまうだろう。だが中国は多くの戦士の精神と血肉に培われ、確かにかつてなかったような幸福な花と果実が
芽を出しつつある。だんだん成長する希望も出てきた。もし、そうでなければ
それを受け継いで培う人が少ないためで、賞翫してその花を折り、果実を摘んで食べてしまう人が多すぎるせいだ。
 といってもけっして、皆さんが毎日痛哭し、涙を流して先烈の「天にまします霊魂」を弔えと言うつもりは無い。一年に一回彼らを思い出すだけでいいのだ。しかし広東の今日から見ると、この記念日を少し改良した方が良いと思う。黄花節はとてもにぎやかだし、一日にぎやかに過ごすのももちろん結構だ。
騒いで疲れたら帰ってよく眠るが良い。だが翌日元気が戻ったら、自分のなすべき仕事を更に力を入れるべきだ。これは勿論辛くて苦しいことだが、銃弾が飛び交い命を落とすような所に行くことに比べたらずっと良い。
況やこれもあとに続くもののために幸福の花と果実を培うのであれば。
      324日夜
 
訳者雑感:
 文化大革命が終息する前、広州交易会の参加者は、週末に中国側の手配したバスに乗り、いろいろな革命記念の場所に案内された。広州は革命といっても
1949年の革命より1911年の辛亥革命前夜の方が当然ながら見るべきものが多い。それで訳者も黄花岡の烈士の碑に案内された。魯迅がこれを書いた時点では、「革命党数十名云々」とあるだけで、最近の案内版のように「孫文が指導したとか、百名以上の烈士が死んだが、72名の遺骨だけが確認された云々」
という記述は無い。歴史評価のよく変わる国だから、時代時代で記述も違ってくるのは、やむをえないことだ。
 魯迅の引用した「辞源」のさらりとした記述からは、その時に孫文を持ち出すことが憚られるような政治情勢だったのだろう。1911年に辛亥革命が成功するまで、中国各地で大小さまざまな「革命」が試みられ、何十人もの烈士が
処刑されたことであろう。「薬」の中の秋瑾、徐錫麟などは魯迅に深刻な負い目を感じさせたがゆえに、作品となって残された。
 この黄花岡の墓に葬られたのは百名以上といわれる革命党戦士の中から身元が判明した72名のみだ。それ以外の烈士は阿Qと同様、名も本籍も不明だから
埋葬されても名が刻まれることはなかったのだろう。といって無名戦士の墓というのは、「革命烈士」といっしょに埋葬されることはない。
 「革命」という漢語の持つ意味は、天命を革める。天から賦与された統治権をでたらめに使い、世の中を混乱させた天子の首を取って、自分がそれに代わるということと理解する。革命党に入るということは、その代わりになる者の
同志として、天子の任命を受けて各地を統べている役人の首を取り、彼らの富を分捕ることである。阿Qたちがやろうとしたことは、地方の役所に押し入って、役人のボスを締め上げ、その権力と財産を没収することだ。役所がむつかしいなら役所の手下として大きな邸宅で贅沢三昧している、役人の私宅を襲って彼らの首を取り、彼らの財産、女を奪うことだった。これは、革命党に入りたいと思う阿Qたちの「ホンネ」だった。実に分かりやすい動機である。
 このDNA40年前の文化大革命の混乱時にも各地で起こった。1949年の
新中国建国後といえども、戦前からの資産家は大変な財宝や文化財を持っていたのを、資本主義の道を歩む一握りの連中を打倒する「運動」という掛け声のもとに、「紅衛兵」と(偽)称して、彼らの家に押し入り、「抄家」(捜索押集)という名分で、証拠書類とともに財産を奪いかすめた。それゆえ文革は10年の大災難というが、革命党の起した大災難だと言う点では、1911年前後となんら変わりは無い。
1911年前後の「革命」「革命党」というのは、日本人の幕末明治維新の勤王佐幕両派の争いなどとは比較にならない。革命党を名乗るてあいは五万といた。
 しいて言えば、応仁の乱以降の戦国時代の、下剋上の世界での相手の首を取って、その財産、領地を自分のものにするということに近いと思う。主義も主張もない。民国革命とか共産革命とかいうのは、革命がなされた後に為政者が
つけたものだ。明治維新といい明治革命とは言わないのは、天命を革めるというと、自己矛盾を起すからだろう。その点、中国では前王朝の首が残ることは無かった。だが、辛亥革命は、最後の皇帝の首を取らなかった。それが後の
満州国に化けたのが、民国の致命傷となった。
ちなみに黄花とは菊を指す。烈士への花向け。
  2011/01/25訳 
 
 
 

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