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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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声なき中国

声なき中国 1927年2月16日香港青年会の講演
 私のつまらぬ講演に、こんな大雨の中、大勢の諸君が来てくれたことに対して心から感謝します。
 これから話すのは「声なき中国」です。
 今、浙江、陝西で戦争中で、彼の地の人々は泣いているか笑っているか、我々は知りません。香港は大変平和のようで、当地の中国人は気持ちよく暮らしているかどうか、よその人はわかりません。
 自分の意見を発表し、感情を皆さんに知ってもらうには文章を使い、文章で気持ちを伝達するのですが、一般的中国人はまだそれができません。それもそのはずで、それは文字のせいです。我々の祖先が残してくれたおそろしい遺産のせいです。長い時間をかけて勉強しても、使うのが難しい。難しいから多くの人は放り出し、自分の姓が張なのか章なのかもはっきりせず、或いは全く書けず、Changと声に出すだけ。話すことはできても、何人かに聞こえるだけで、遠くの人には聞こえないから、結果として無声に等しい。その一方、難しいから一部の人に宝のごとく、手品のように、之乎者也(なりけりあらんや)などと、聞いても少数にしか分からぬことを言い――実はほんとに分かっているかどうか、あやしいものだが。大多数はちんぷんかんぷん。結果は無声に等しい。
 文明人と野蛮人の違いは、一つに文明人は文字を持ち、自分の考え感情を皆に伝え、将来に残すことができること。中国は文字を持っているが、今人々と関係が無くなり、分かり難い古文を使い、話す中身も陳腐な古い考えで、互いに理解できず、正に大きな皿にまいたばらばらの砂のようだ。
 文章を骨董のように扱い、人が理解できぬ方が、できるより良いと考えるのは、あるいは趣のあることかもしれません。が、結果はどうか? 我々はすでに自分の言いたいことも言えなくなってしまった。損害と侮辱を受けても言うべきことも言えなくなっています。最近の話をすると、日清戦争、義和団事件、民国元年の革命という大事件を例にとっても、今日まで一冊としてまともなものが書かれただろうか?民国以来誰も声を出していない。国外では逆に中国のことを説いているが、すべて中国人の声ではない。よその人の声だ。
この言いたいことを言えないという問題は、明代でもこんなにひどくはなかっ
た:彼らは結構言いたいことを言えた。満州人が異民族として侵入してきてか
ら、歴史、とりわけ宋末の(異民族への抵抗に関する)ことに触れると殺され、
時事を語っても殺された。それで乾隆年間には人々はものをあまり書かなくな
った。所謂読書人は身をひそめて(儒教の)経文を読み、古書を校訂し、古い
文章、当時の問題とは関係ないものを書いた。新しい意見を出すのもダメで、
韓愈を学ぶのでなければ、蘇軾を学んだ。韓愈蘇軾は自分の文章でその当時の
自分の言いたいことを書くことができた。我々は唐宋の時代の人間ではないの
に、どうして我々と関係のない時代の文章を書くのだろう。仮にそれらしきも
のを書けたとしても、それは唐宋時代の声であり、韓愈蘇軾の声で、我々現代
の声ではない。しかるに今まで中国人はこのような古いやりかたを続けてきて
いる。人間はいるが声はない。とても寂漠としている。
――人間は声なしでいられるか?声がないなら死んだといえよう。もう少し
遠慮して言えば、オシになったということ。
 長い間声のなかった中国を立ち直らせるのは容易なことではない。死んでし
まった人に対して「生き返れ!」と命じるようなものだ。私は宗教は分からぬ
が、まさに宗教上の所謂「奇跡」の出現を願望するのと同じだ。
 最初この仕事に挑戦したのは「五四運動」の1年前。胡適之氏の提唱した
「文学革命」。「革命」の2字はここでは恐がられているかどうか知りませんが、
ある地方では聞いただけでも恐がられているが、これと文学がくっついた場合
は、フランス革命の「革命」のような恐さはなく、革新にすぎないから、1字
換えれば穏やかだから「文学革新」と呼びましょう。中国の文字はこのような
文章のあやは大変多い。この趣旨もまったく恐ろしいものではなく、我々はも
う古代の死んだ人の言葉を学ぶような不要の神経を使うことなく、現代の生き
ている人の言葉を使おう。文章を骨董品みたいにしないで、分かりやすい口語
文で書こうというに過ぎぬ。しかし単なる文学革新だけでは不十分で、考えが
陳腐なのは古文でも口語文でも書けるからです。それで後には思想の革新を提
唱する人が出た。思想革新の結果、社会革新運動が起こった。これが起こると、
当然ながら、一方で反動も起こり、戦闘が醸成され…。
 ただ、中国では文学革新が提起されたばかりなのに、すぐ反動が起こった。
しかし口語文は大きな障害を受けずに徐々に広まっていった。どうしてか?
当時銭玄同氏が漢字廃止を提唱し、ローマ字化を唱えた。これは元来文字革新
に過ぎぬが、当然ながら改革を喜ばぬ人たちは大騒ぎを起こした。そこで比較
的穏やかな文学革命の方はひとまず置いておいて、全力をあげて銭玄同をたた
いた。口語はこの機に乗じ急に多くの敵を減らせ、阻止するものもなく普及に
向かった。
 中国人の性情は調和と折衷を好む。例えば、部屋がとても暗いから窓を作ろ
うと提案すると、多くの人が反対する。そこで屋根を壊そうというと、調和し
てきて、窓にしようという。より過激な主張が無いと、穏やかな改革にも肯ん
じない。当時口語文がうまくいったのは漢字廃止、ローマ字化議論のおかげだ。
 実は文語と口語の優劣の議論は元々過去の遺物で、中国はさっさと解決する
のを肯んじず、今でも意味のない議論をしている。ある人は言う:古文でなら
各省の人はみな分かるが、口語では各地で違うから通じない、と。これは教育
が普及し交通が発達すればすぐに良くなるのを知らないためで、当時の人は皆
口語が分かりやすいことを知っていた。古文は各省の人が理解できるなどどう
して言えようか。一省の中でも分かる人はほんのわずかだ。
 ある人は言う:もしすべて口語にしたら、古文を読めなくなり、中国文化の
滅亡だ、と。現代の人は古書を読む必要もないし、古書に本当に良いものが
あるなら、口語訳すればいいから心配ない。彼らの一部はさらに言う:外国人
が中国の本を訳していることから、それが良いものという証で、なぜ我々は
それを読まぬのか?それはエジプトの古書も外国に訳され、アフリカ黒人の
神話も訳されているが、彼らは別の目的があり、たとえ訳されたからと言って
何の光栄なことがあろうか。
 近頃また別の説が出:思想の革新が緊要で文字改革はその次:簡明な文語で
新しい思想を表現して、反対する人を減らすのが得策だ、と。それも道理が
あるようにみえるが、私は長い爪すら切らない人は、決して辮髪を切るような
ことはしない、と知っている。
 古代の言葉を使うから、話す方も聞く方も互いに理解できず、大皿にまき散
らした砂の如く、互いの痛痒も感じない。我々は生きてゆこうとしているので、
まず青年たちが孔子孟子や韓愈柳宗元たちの言葉を使わないようにすべきです。
時代が違えば、情勢も異なり、昔の孔子時代の香港はこんな風ではなかったし、
孔子の口調で「香港論」は書きようもないが、「吁嗟(ああ)盛んなるかな香港」
と言ってみても笑い話に過ぎません。
 我々は現代の自分の言葉で話し、生きた口語で自分の考えと感情をそのまま
話す。ただし、これも先輩のそしりや笑いを受ける。口語は下品で価値なし。
また若い人の作品は幼稚だと識者に笑われる。だが我々中国に文語文を書ける
人はどれほどいるか。大多数は口語を話せるのみ。まさこんなに大勢の中国人
のすべてが下品で価値なしだろうか?幼稚はなにも恥じることは無い。子供が
老人に対して恥じることのないのと同じで、幼稚は成長し成熟する。衰老腐敗
せねば良い。もし成熟してから始めろというなら、村の婦人でもそんなことは
しない。子供が歩き始めてすぐ転ぶが、決してベッドに寝かせたまま、歩ける
ようになってから地面に下ろすようなことはしない。
 青年はまずこの中国を声のある国に変えることができる。大胆に話し、勇敢
に進み、一切の利害を忘れ、古人を推しどけて、自分の真心の言葉で話す。
――真、ということは容易なことではない。態度一つとっても真になるのは、
容易なことではない。講演する時の私の態度は真の態度とは言えぬ。私が友人
や子供と話すときの態度とは違う。――ただ、比較的真に近い。真に近い声で
話せる。真の声が出せてはじめて中国の人と世界の人を感動させられる。真の
声が出せてはじめて世界の人と、この世界で暮らせる。
 我々は今、声のない民族がどれほどいるか考えてみよう。エジプト人の声は
聞こえるか。安南人のは、朝鮮の声は?インドはタゴール以外に他の声は
ありますか?
 今から我々には二つの道しかない。一つは古文を抱いて死滅。もうひとつは
古文を捨てて生き残ることです。
  ( 香港での日時未詳。27年3月23日の漢口の新聞に転載されたもの)

訳者雑感:
 魯迅は声なき民族、過去は偉大な文明を持っていたがその後異民族に支配
され、めちゃくちゃにされたという例にエジプトをしばしば引用する。
 シャンポリオンがロゼッタストーンを解読するまで、ヒエログリフは当の
エジプト人すら読めもしなくなっていた。
 楕円形のカルトューシュに書かれているのがクレオパトラだということすら
誰も分からなかった。漢字はヒエログリフほどではないが、識字率の低い中国
では、自分の姓すら書けぬ人がほとんどであった。阿Qも偉そうなことを言っ
ていたが、自分に下された死刑判決への署名を求められて、いかんともできず、
筆で丸を描いたのみ。しかも丸くは書けなかったことを悔やんでいた。
 魯迅が「声なき中国」で聞いたことのなかったエジプト人が、チュニジアに端
を発したブログの発する声で、ムバラク政権を倒すまでになった。中国は今、
膨大な量のブログが発せられておるから、「声ある中国」に変じつつある。
しかしその声はまだまだ厳格な管理の下に置かれ、真の言葉は封じられている。
      2011/04/22訳







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『三閑集』 序言

 4冊目の雑感集「而已集」から4年過ぎた。昨春、友人がその後の雑感集を出せとの催促。ここ数年の出版界は創作と翻訳、或いは大きなテーマの論文は減ったとは言えぬが、短い評論、気の向くままの所謂「雑感」は確かに少なくなった。その原因は私もわからぬ。ただ大まかに言えば、「雑感」の2字を志の高い作者が嫌悪し、避けたのは当たらずとも遠からず。人は私をけなし「雑感家」と呼ぶ。高等な文人から軽蔑のまなこで見られるのはその証。また思うに、有名な作家は必ずしも変名しないではないが、こうした文を書くときは、私怨をはらそうとするにすぎず、再び出すと、その名を汚すのを恐れ、または別の深慮から暴露すると却って論戦の妨げになるから、大抵はそれが消えるに任せたからだろう。
 しかし私にとって「雑感」は「不治の病」で自分も大変苦しむのだが、やはり編集はしたい。刊行されたものを翻閲し、切り取って本にするのも手間のかかることで、半年以上うっちゃったまま手をつけられなかった。(32年)1月28日夜、上海で(日中間の)戦争(ドンパチ)が始まり、ますます激しくなり、ついには身ひとつで逃げ出し、本と新聞は戦火にさらしたまま、焼けて無くなるに任せてもやむなし。この「火の洗礼」の霊魂により、「現状不満」の「雑感家」という悪名を洗い落とそうとした。ところが3月末、旧居に戻ると、本も新聞も何の被害もなく、すぐさま翻閲して編集着手の運びとなった:あたかも大病から癒えた者のごとく、平時よりさらに痩せこけた顔を鏡に映し、シワの増えた皮膚をなでさするようであった。
 まず28-29年の分を編集。編数はとても少ないが、5-6回の北京上海での講演のように、もともと記録のない物以外は、別に散失してはいないようだ。思い出せば、この2年は本当に少ししか書いていないし、どこにも投稿していない時期だった。27年に血に脅かされ、目はトローン、口はポカンと開けたまま広東を去り、奥歯に物の挟まったような文章で、肝の小さいせいで直言をはばかった話はすべて「而已集」に入れた。
 上海に来たら、文豪たちの十字砲火にさらされ、創造社、太陽社、「正人君子」の新月社の面々にさんざんに言われ、文派を立てはしなかったが、今日作家や教授に出世した多くの人の文章にも、当時は必ず暗に私をけなす文句が入れられた。以て自身の高名さを示さんとしたものだ。
当初は「有閑」即ち「有銭(金持ち)」とか「封建の残滓」或いは「没落者」くらいの悪口だったが、後には青年を殺せと主張するカツアゲ主義者と断定された。その頃広東から避難してきて、私の家に居候していた廖君がぷりぷりしながらこぼすには「友達は私を見下して、あんな奴と一緒に住んでいるなら絶交だ」と言われた由。
当時私は「あんな奴」になっていた。自ら編集した「語絲」も実際には何の権利もなく、煙たがられたのみならず、(詳細は巻末『私と「語絲」の始終』に)
他の所では、私の文章はこれまで「絞り」出してきたのだが、目下はまさに「しめ殺され」ていては、投稿してもなんになろうか。従ってごく少ししか書かなかった。
 今、当時のものから、不出来なものも、今なお取り柄のあるものすべてをこの集に入れた。相手側の文は「魯迅論」と「中国文芸論戦」には何がしかはあるが、それらは儀礼的な表向きの文章で、全体を窺い見ることはできない。私は別途「雑感」的な作品を捜し集めて一冊にし「包囲集」と名付けたいと思う。
 私のこの集と対比すると読者の興趣を増大できるのみならず、別の面が明確になる。即ち陰の部分の戦法の多様さが分かる。こうしたやり方は当面は無くならないであろう。去年「左翼作家はみなルーブルに買収されている」という説は、常套手段だ。文芸に関係する青年に問うてみて、型通りのやり方をまねることはないが、知っておくにこしたことはない。
 実際、考えてみるに、小説の中でも短評にも、青年を殺せ、殺せ殺せと主張などしたこともないし、そんな考えを持ったこともない。私はこれまで進化論を信じてきていて、将来は必ず過去より良い、青年はきっと老人より勝り、青年を大変重視してきた。青年が私に十回切りつけてきても、一矢しか返さなかった。しかしそれは後になって、間違っていたと分かった。それは唯物史観的理論や革命文芸作品が私を蠱惑(こわく)したからではない。
 広東で同じ青年が二派に分かれ、或いは投書密告し、或いは役人の手助けをして逮捕させた事実を目の当たりにした。私の考えはこのために木っ端みじんに砕け、後にはしばしば懐疑の目で青年を見るようになり、もう無条件で畏敬しなくなった。しかしその後も初めて参戦する青年たちのために、何回か吶喊したが、たいした助けにはならなかった。
 本集には2年間に書いたもの全てと、本の序引のみだが、いくつかは参考になると思ったものを数編選んだ。雑誌や新聞を調べている時、27年に書いたもので「而已集」に入れてないものを少し発見し、多分「夜記」は元々別途一冊にしようと思っていたし、講演と通信は浅薄或いはあまり緊要でないので当時入れなかった。
 だが今、前の部分に入れて「而已集」の補遺とした。私には別の考えがあり、
ただ講演と通信から引用したものを見れば、当時の香港の状況が良く分かると思った。講演には2回行った。一回目は「古い調べはもう終わった」だが、今
その原稿が探し出せない。2回目は「声なき中国」で、粗雑浅薄平凡もここまで来、「邪説」と怪しまれ、紙上掲載を禁じられた。このような香港は今やそのような香港、それがいまやほとんど中国全土がそうなった。
 ひとつ創造社に感謝したいことがある。それは彼らが私に何種類もの科学的文芸論を読ませるように絞りあげてくれたことだ。先輩の文学史家たちの学説の大きな山がやはりまとわりついてもやもやしていた疑問が分かるようになった。且つまたそのためにブレハーノフの「芸術論」を翻訳し、私を救い正してくれ――私と私のせいで他の人たちにも影響が及んでいる――ただただ進化論のみを偏向的に信じてきたことを正してくれた。
 ただ、「中国小説史略」を編集した時に集めた材料を「小説旧聞抄」としてまとめ、青年が検索する便に供しようと思ったが、成仿吾は無産階級をもじって、
「有閑」だとけなし、なおかつ「有閑」を三回繰り返して非難したことは、今なお全く忘れ去ってはいない。無産階級はこんな言辞を弄して無実の罪で人を陥れるようなことはしない。彼らはペンで相手を攻撃する手段は持っていないと思う。それで、本集を「三閑集」とし、以て仿吾に仇を返す。
      1932.4.24夜、編集終了後併記。

訳者雑感:青年は必ず老人より勝っているという「進化論」をただただ偏向的に信じてきた魯迅は、彼がそれを鼓吹して影響を及ぼしてきた青年たちに対してもすまなく感じていたことだろう。青年たちが二派に分かれて役人の手先になって相手を密告し、殺人幇助をしている事実を目撃した。
 この序言で、彼は明確に進化論を偏向的に信じてきたことから、足を洗ったように見受ける。進化論は、人類は常に進化し、進化し続けるという希望を与え、将来はきっと今より良い、という考えかたは偏向的であったと告白している。現実の事態は前より一層悪くなっている。進化して良くなることも多いが、
より醜い争いが起こり、青年どうしの殺し合いが頻発し、老人よりも頑迷でひどい青年がいっぱいいることが分かった。さあそれではどうすればよいのだろうか。
 30年の改革開放で、確かに多くの中国人の生活は、進化したと言って良い。
木の皮、草の根をかじって生き延びてきたことに比べれば、大変なことだし、
餓死者は以前のように発生しない。しかし毒入り餃子、メラミン粉ミルクによる乳児の死亡など、金の亡者の行為は、退化としか言えない。断じて進化ではない。人間の根元として、草の根をかじって生き延びたころの人の方が、裕福になって、人を騙して、まがい物を売って金もうけを企てたり、果ては毒と承知でそれを粉ミルクに入れるような人間より純であったのは確かだ。
      2011/04/19訳
 
 

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中国史学入門 その4 経書と子書

二.経書と子書と戦国古書
1.最古の中国文字
 中国の最古の文字は、殷墟の甲骨文字だ。更に古いものがあるかどうか。将来の出土に待つ。今日、甲骨文字から判断すると、元来は当時の占卜に使われただけだとみられる。上古には、およそ、記すのは竹になされた。竹は久遠に留まることができない。それで甲骨に記されたものが長く残った。甲骨文字は今日まで保存された。発見されただけでも約二十余万字ある。元来
商王は大変迷信深く、ことを為すに、すべて占卜に依った。‘卜’の字は、占いをするときに、骨を焼いたときに現れる裂紋である。商王の占いたいことを骨に記したので、史料として残った。尚且つ、商王の世系図も見つかった。
ただ、人名は記されていない。
2.経書漫談
 周代になると五経ができた。最古の史書で五経とは;
一.<尚書>
二.<易経>
三.<詩経>
四.<礼経>後に<儀礼><周礼><礼記>の三つに分かれた。
五.<春秋>これも<左氏伝><公羊伝><穀梁伝>の三つになった。
それに、<孝経><論語><孟子><尓雅>の十三経。五経は十三経となった。
 当時、貴族の教育は、礼学、射御(弓馬)、書数であった。最も重要なのは、礼、楽であった。礼と云う字は、もとは人に玉を贈るということで、礼と楽はセットになっていた。人々は王に会うとき、諸侯に会うとき、大夫に会うとき、友人に会うとき、すべて必ず礼を行い、詩歌をうたった。それで当時の人はみな歌がうまかった。楽師は、知識が豊富というだけではプロとは言えず、礼に用いる詩を歌うのに長けていなければならなかった。その次は弓と馬で、戦に役立った。史書は教育ではさほど重視されなかった。史をつくるのは、専門の人間がいたから。数は、物事の管理に必要ということで大事にされた。それゆえ、古代教育では上述の六つのうち、一に礼、二に戦、三に管理の三つが重視された。
 (1)<詩経>
 <詩経>には、風、雅、頌がある。頌は祖先を祭るのに用いられた。風は交わりのとき。雅は高貴な客のとき。風は、多くは叙情的である。詩は楽と不可分である。古代の楽器は、鐘(金)、鼓(革)、琴(糸)、瑟(糸)、簫(竹)
磬(石)、柷(木、打楽器)、笙、匏、敔(音は于、土)。
瑟は今ではもうないが、27弦の琴である。
 (2)<尚書>
 <尚書>は王と貴族が語った物語である。尚とは上古の史である。漢以前には書と呼び、文字で書かれたものの意。漢代の人は、これは古くから伝わったもので、それゆえ<尚書>と云う。<詩>は三百篇のみだが、<尚書>は案件の数だけあり、大変多くて数え切れないほどだ。春秋、戦国から漢代まで、古い時代の書簡をすべて書き留めており、後には腐ってしまったほどだ。彼らは書き写すたびに、こう写したり、ああ書き改めたりしてしまった。あるものは、もはや本来の姿を失ってしまった。最初に<尚書>を書き写した人は、虞や夏のことを知らなかった。戦国時代、<墨子>と<左伝>ができると、虞や夏のことが多く現れてきた。漢の人が使った孔子や墨子の引用した<尚書>は、既に本来の<尚書>ではなかった。本来の<尚書>は、多くは失われてしまった。漢代の人が言う孔子が<詩経>と<尚書>を編んだ、というのは事実と異なる。現在の<尚書>は漢代の人が選編したものである。<尚書>は中国の最古の史書である。
 尚書は五つに大区分される。
第一は典; 君王のことを記したもの
第二は謨; 臣が君に対して奉った言論 
第三は訓; 一般政治の議論
第四は浩; 一種の通知文
第五は誓; 師に誓う詞
 古代の史事はこれに基づいている。<尚書>は,ことばを多く記し、事を少なく記す。後世の人が、夏、商、周のことを知ることができるのは、<尚書>のおかげである。惜しいかな<尚書>は今日二十八篇残るのみ。
 漢以後、魏に王粛が出、漢代の<尚書>から失われたものを編集した。あるものは根拠があるが、一部は彼の造作である。王粛は二十五篇を足した。彼は漢の<尚書>の特別な部分の文章を切り分けて、五篇を造り、全部で五十八篇として、今日に伝わってきた。王粛が造ったデタラメには、<尚書>は元来百篇あったが、秦の焚書の後、五十八篇だけ残ったという。
 宋の学者が二十五篇は原作ではないとし、疑義を唱えた。以後、討論が八百年続き、乾隆帝時代になって、二十五篇は偽造との結論が出た。ただその中に、本当の史料もあるにはある、ということだ。
 (3)<礼経>
○ <儀礼>;<礼経>は即ち<儀礼>であり、これを以下に分ける。
1. 冠;成年となり、戴冠時に自分の字(あざな)を加えること。
2. 婚
3. 相まみえること
4. 燕;即ち讌 
5. 観 6.射 7.郷;低位の官 8.喪 9.喪服;戴孝(孝行)。
○ <周礼>;<周礼>は六官に分かれ、六篇で六つの大官のことを記す。
1. 天官家宰;宮内官吏の責任
2. 地官司徒;人民の土地の管理
3. 春宮宗伯;礼節を管掌
4. 夏官司馬;軍事を管掌
5. 秋官司冠;司法を管掌
6. 冬宮司空;工程を管掌
 <周礼>は周公が作ったとされる。彼が礼を制定し楽を作った、と。実はそうではない。ここの部分は戦国の人が作ったのだ。このころまもなく大統一がなされようとしていた。斉の人は天下統一後、いかにして全国を統治しようかと考え、天子の下に六つの官を置けばよいと考えた。六つの大官の下にそれぞれ六十の小官を設け、合計三百六十官である。
○ <礼記>; <礼記>は儒家の散文で、合計四十九篇。一部は儒家の言論で、一部は古代の礼節だが、中には儒家の想像した古代の礼節がある。現在の<大学><中庸>は、元をただせば、<礼記>の中の二篇である。
 (4)<春秋経>
 <春秋経>は孔子の作と伝わる。元は独立した一部だったが、今は三伝の中に入れる。<春秋>は魯国の編年史で一年ごとに記された。一年を四節に分け、十二ヶ月に分けた。それゆえ、古代史の中で非常に順序立った史書となった。本書は、周王、諸侯、卿、大夫についてのみ記す。卿は大夫の最高層の者。過去の古史書に人民はいない。<春秋>は東周の平王の後のことを記すが、実は孔子が書いたものではなく、彼の学生が魯国の編年史の一部を簡単に抄録したもので、ある部分は削られている。
 <春秋>は大きなことのみ記し、きわめて簡単で<春秋>を見ただけでは何もわからない。ゆえに<左伝>が補充している。
○ <左伝>;<左伝>は戦国時代に書かれた春秋時期の史料である。
 古代の史官はもの事を記すとき、二つに分けた。大きな事と細かな事。
<左伝>は史官の細かな部分に基づき、晋国、楚国、斉国、魯国、衛国の五カ国の史料を記し、五カ国の史事を統一し、編年史とした。<左伝>は左丘明の作と伝わるが、彼がいつの時代の人間かしらない。孔子の学生というが、
そうではない。彼は孔子の死後80年の人だから。<左伝>の作者と、本のできた年代は、学会でも定説はない。諸説あるが、私は清代の経文文学家の説に道理があると思う。
 <尚書>の史料は少ない。<左伝>のは多少豊富といえる。<左伝>には夏と商の篇は無い。<左伝>を作ったとき、前述の五国の春秋前期の史料は既に大部分失せていた。
古史書で今に伝わる中で、<左伝>はその価値第一といえる。
○ <公羊伝>;<公羊伝>は戦国時代、経学家公羊氏の口述による。漢代に成文化された。この経書は史料がない。ただ<春秋>の大意を解釈しおるのみ。孔子の本来の意、とするところを説明している。
○ <穀梁伝>;<穀梁伝>は看板倒れで、漢代中葉に作られたが価値はない。
 (5)<考経>;<考経>は漢朝の最重要な書である。当時は読書人たるものは、読書せんとするなら、必ず<考経>を読まねばならなかった。この経は漢代読書人の必読の書で、漢代は考を特に重んじた。初めて封建社会に入り、人はすべて継承すべき産業を持っていた。父は子に仕事を教え、子は父の仕事を継承するということから、考が提唱された。この書の篇数は最小で十八章のみ。王、臣、大夫のそれぞれの考を説く。
(6)<論語>
 <論語>は孔子の語った言葉である。一部は弟子のものもある。孔子のころ、本を著すことはなかった。戦国期にはじめて著書という気風が起こった。
<論語>は孔子の話を聞いた弟子の孫弟子が記したもの。その中には曽子、即ち曽参がいる。“子”というのは先生の意。また有子、即有若もいる。この二人は孔子の弟子である。書中に彼らの呼称があり、これは明らかに<論語>が孔子の再伝の弟子の著だということを示す。これは一部戦国時代に書かれた物だ。
このころ、孔子の話は既に輾転として数十年経っており、孔子のオリジナルの話ではなく、あるものは彼のもともとの意でもなくなっていた。しかしながら、この書はやはりなんと言っても孔子の話、孔子の意図したものが最も多く記されている本である。
 <論語>は計二十篇。前十篇は彼の再伝の弟子の記したもの。後十篇は更に後代の者が記したもの。戦国中期に記され、価値は更に落ちる。前十篇と後十篇を比べると、後十篇はその故に前十篇の後ろにあるのだといえる。前十篇は孔子を“夫子”と呼んでおり、この“夫子”は老先生の意だったが、後には“あの先生”を意味するようになり、“夫子”が“子”と同程度の尊称になってしまった。このころにはもう戦国中期になっており、後十篇に“夫子”という呼称の新しい用法が現れた。それで後十篇の作られた年代がわかるのだ。
 この本は価値があり、孔子を表現し春秋時代の人の思想を表している。
<左伝>は<論語>と一緒に閲読すると良い。
 (7)<孟子>
 <孟子>全七篇は弟子の記したもの。その思想は<左伝>と同じ。<孟子>は彼の言動を記したもので、戦国時代の孟子の思想を代表する。
 孔子と孟子は一様ではない。孔子は覇を尊ぶ。即、大諸侯を尊んだ。孟子は王を尊ぶ。孟子の時代には諸侯が少なくなってしまい、人々は大統一を望んでいたからである。孔子は古代の王を尊んだにすぎない。
 漢代になると、帝王が現れてきたので、人々は侵犯できなくなった。孟子とこの時代の思想もまた異なる。孟子曰く;“君の臣を視るや、草芥の如く、されば臣の君を視るや寇仇の如し。”また曰く;“民を尊び、社稷これに次、君を軽し、とす。”こうした言葉は、孔子の思想と言論にはなく、漢代以後の思想と言論にもない。これはなぜかといえば、孟子の時代には、本当の帝王がいなかったからである。彼の言うところの王は、彼の希求するものに過ぎず、想像の中の王に過ぎない。
 孔子と孟子は百年の隔たりがある。
 (8)<尓雅>
 <尓雅>は分類詞典で、草木魚などの類を古書中の字と詞で解釈している。
<尓雅>には下記の3つあり。
1. 釈詁;現代語の古字
2. 釈言;現代語の相互解釈
3. 釈訓;形容詞の解釈
 従って、<尓雅>は訓詁学である。<尓雅>は前漢の人の著で、その中で言う今話とは漢代の話である。
 (9)<易経>  (訳者注;八卦の棒の記号は省略。易の書物参照)
 <易経>は八卦を講じている。八卦とは乾、乾は父であり天である。
坤、は母で地である。震、は長子で雷。坎、は次子で水。
艮、は少子で山。巽、は長女で風。离、は中女で火。兌、は少女で金。八卦は一家八人を包含する。八卦は五行とは異なり、八卦は八に分け、五行は五に分ける。八卦は掛けて六十四卦となる。六十四卦は一卦ごとに六爻あり、合計三百八十四爻ある。この卦爻のうちから、何をしてよいか、何をしてはいけないかを占う。即占い文である。占い文の中には、“利渉大川”というような文句があり、河を渡ってよいとの意。また“利用行師”というのは、戦をしてよいとの意。などなど。
占卜は二種に分かれ、一つは卜で、亀の甲にキリで穴をあけ、火に焼いてそこに現れた裂痕をみるもの。二つ目は、草を並べて広げてみて、何が見えるかで占う。今日でも銭を並べて、占うのを金銭課という。 
 古人はことを行うにはすべて、占卜で決めた。<易経>は春秋時代に既にあり、秦漢時代に<易経>を儒学の中にいれ、哲学思想を<易経>の中にいれたことで、この経書は哲学化した。例えば“無往不復”、“否(卦の一名)極 泰(これも卦の名)来”などは<易経>から来ている。又“一陰一陽之謂道“なども然り。(訳者注;往かざれば、復さず。否極まれば泰が来る。など禅問答的哲学か)
 (10)経書雑論
 経書は四官が記したもので、
卜官;<周易>を記し、宗教史、哲学史を記した。
史官;<春秋><左伝><尚書>を記した。
楽官;詩を記し、楽譜も記した。
礼官;礼と制度史を記した。礼官は、今はいない。従って、経書は中国古代史を代表できるといえる。
 五経の中で、<尚書>が最も難解。<考経><論語>は分かりやすい。五経は戦国以前の書で、戦国以前は、ただ五経しかなく、非常に貴重なものであった。五経のことばは、周朝のものだ。<論語>に“子所雅言、詩書執礼、皆雅言也。”とあるが、雅とは即ち夏であり、雅言とは夏時代のことばであり、周代の貴族のことばである。“礼は庶人に下らず”それは一般の人のことではなく、当時は多分、一般の人は聞いても分からなかったであろう。当時の雅と俗は大きく異なり、当時の文字とことばも異なったのである。
 経は“天が不変なら、道もまた不変”で、道も不変なことが経であり、実際経書は古代の史料である。
 漢代から清代にまで到る、経書に対する迷信は必ず打破しなければならない。もし五経に照らして物事を行えば、封建統治を維持擁護することになる。
1. 諸子百家について
 中国の当代にもう一人、老史学家、翁独健先生がいるが、彼は顧老の学生である。彼の夫人は、民族学院の歴史学教授である。彼が私に語るに、“顧老は私の老師である”と。1980年に彼らが、私が1965年の冬に顧老から口述された中国の歴史を整理しようとしていると聞いて、初稿を見た後、真剣な面持ちで、指摘した。“顧老先生は、本当に長い間、中国の歴史研究に携わってきて、特に古代史の研究と教学で、中国の歴史科学研究に、突出した貢献をされたと指摘した。彼の論文と発表した専門書の中で、独創的な理論と観点をとてもたくさん提示した。彼の系統的学術著作の中には、彼の独創的な見解がある。たとえ異なる見方があり、甚だしくは間違っていたとしても、留保すべき価値がある、と。
 今、既に1992年で、翁先生こと燕京大学の解放前の教務長、解放後の北京市教育長で、高徳で名望のある教育家、史学家だった先生も物故された。彼の顧老に対する学術的評価を思い出すと、顧老が系統立てて口述してくれた中国の歴史の一篇一章を読むたびに、顧老の亡き魂に対して、限りない追悼の念と、懐かしさがこみ上げてくる。
 今ノートを広げると、顧老の生前の諄々とした声が聞こえる。彼は諸子百家について、こう語りだした。

 戦国諸子の著述は、戦国時代の記録である。秦の統一後、各民族の民族意識を取り除くために、正式の記録は焼かれてしまった。それ故、戦国史を研究するために、子書の材料は大変貴重である。すべての子書は、戦国思想史であり、戦国史でもある。司馬遷の<史記>の戦国史について書かれた部分には、たくさんの誤りがある。それは彼が戦国の史料を掌握していなかったからだ。以前の人は、ただ孔子と儒家を信じ、子書を排除し、一般の人は子書を読まず、戦国史の研究もしなかった。
 孔子以前は誰も門戸を開いて、弟子を取ることをしなかった。誰も貴族の書を、平民に公開しなかった。五経を一般人に普及させたのは、孔子が第一人者である。孔子の最大の功績である。そうであるから、後世、ひとは、五経は孔子が編んだといってきた。
 孔子は政治については何ら主張しない。ただ、周の制度を維持擁護しようとしたに過ぎない。孔子の主張は分に安んじ、君は君たれ、臣は臣たれ、父は父たれ、子は子たれという名分を改変しようとは思わなかった。孔子は時代が変わろうとするのを見つけられず、古人の修養を説くことは多いが、天下の大事を語ることは、非常に少ない。
 この時期、奴隷制が封建制に変わった。人々は封建制に向かうのが良いと思い、将来の社会がどうなるかについて、いろいろな考えを抱き、諸子がいろいろ主張するようになった。
 孔子の後、春秋末、戦国初めにかけて、第一の大思想家は墨子である。
(1) 墨子
 墨子には明確な主張がある。十大主張である。
第一は尚賢。即ち賢人を尊ぶこと。凡そ官に就くものはすべて賢人で、元来の階級を打破するものだと考えた。天子は天下で最も賢い大賢人で、諸侯は一国の大賢人、だと。彼の主張は世襲を打破すること。父が子に伝えるのではなく、賢者が賢者に伝えること。これは大変革で、周の制度をひっくり返そうとすることである。
第二は尚同。即ち組織を作ろうとすること。一郷は卿長の命令を聞き、一国は君の、天下の人は天子の命を聞く。全国は各層ごとに上と同じになる。だが各国は君主に対し、進貢の必要はない。非常に寛容で緩やかな結びつきだ。
第三は兼愛。彼は諸侯が相愛し、かつ各国の人を兼愛することが大事だと考え、そうすれば互いに戦争なんてしなくなる、と考えた。
第四は非攻。彼は征伐によって領土を兼併しようとする戦争は不義だとし、これに反対した。
第五は明鬼。孔子は鬼神を信じなかった。存していても論じなかった。之は鬼神が存在しているとは思っているが、信じないというだけである。墨子は違う。“明鬼”即ち鬼神が実際に存在することを証明しようとした。だから彼は鬼神を信じていた。
第六は天志。墨子は天神を信じ、天は最高の神と考え、天は意志を有すると考えた。
第七は非命。運命を信じるな、と。ただ自ら良い人間になろうと心がければ、一切はおのずと良くなってくると。
第八は非楽。音楽は無用、と。音楽を聴くのは、耕作や紡織の妨げで浪費と。
第九は節約。貴族が浪費ばかりしていると感じ、無用な浪費を無くせば財富は倍増すると。
第十は節葬。当時の厚葬は大変費用がかさみ、浪費の極みだと、節葬を主張。
要するに、墨子は周の制度を大きく改変しようとした。当時の人々はみな昔を尊んだので、墨子は古人に託して、古来かくの如し、と説いた。墨子は山東人か河南人かはっきりしない。墨家の勢力は当時大変大きかった。読書人といえば、儒にあらざれば、墨なりで、儒に属さねば、即ち墨家だった。
墨家には組織があり、孔子には組織が無かった。墨家の組織のリーダーは鉅子といった。“大老””先生“の意。鉅子は代々相伝で、賢人が賢人に伝えるというものであった。
 墨子は“非攻”とはいえ、善く戦った。墨子の書には戦争の書が多い。彼は戦でもって戦を消滅しようとした。墨家は“名学”を研究した。即ち論理学で、
これで話す方式を打ち出し<墨経>と名づけ、墨家はみなこれを読んだ。墨子は政治、軍事、科学など全て孔子より進んでいた。しかし彼は人から罵られること、甚だしかった。孟子は墨子の”兼愛“を罵るに、父無し子、即ち犬畜生と蔑んだ。
 漢代、人々は墨子を大変恐れた。墨家には組織があったから。それで墨家を消滅せんとした。それ以来、誰も墨子の本を読む者はいなくなった。漢末に、道教が起こり、墨子の書を<道蔵>に収めた。即ち墨子の書と道教の書が一緒にされた。幸い、かくして墨子の書の大部分が残った。
 清乾隆帝は、戦国諸子を研究しようとして、<道蔵>から<墨子>を探し出し、それで墨子を知った。かつて、<孟子>を読んだ人は、墨子は悪の極みと考えていた。
 (2)<楊子>
 楊子、名は朱。彼の史事はもうすでに、つまびらかではない。楊子はただ自己中心で、天下の大事に無関心であった。孟子は彼を評して、“一毛といえども、天下を利するなら、これをなさぬ”と。孟子は楊子を”がりがり亡者“”君ももたず“獣だと考えた。楊子には考えがあり、”全生保真“を唱え、外部のものに煩わされず、超然としていることを最善とした。彼の時代は戦乱の時代で、人生に対して、消極的であった。楊子の書は伝わっていない。その後、荘子が出てきた。荘子の書は文学性が強く、後世まで伝わった。戦国から今日まで、人々は大変好んでこれを読んだ。荘子の中心思想は、楊子の思想を発展させたものである。
(3) 荘子
 荘子は荘周、宋の人。今の河南人。彼は園林を管理する下級官吏であった。荘子はたいそう聡明で、文章がうまかったが、説くところの道理は分かりにくかった。<荘子>の第一篇は<逍遥遊>で、大鵬はたいへん大きい鳥だが、小鳥となんら変わるところはないのに、またなんで大鵬になどなるのか?
 第二篇は<斉物論>で、この世の万物は、皆同じとみなす。大も小もなく、強も弱もない。それ故、なにも大きい小さい、良い悪いなど、あらそうのはやめよう。大所高所からみれば全て同じである。天上から見れば、人の背が高い低いなど見分けられない、と説く。
 第三篇は<養生主>で“我が生は涯があり、知には涯がない。涯あるものでもって、涯のないものを求むのは、殆かな。”即ち、知識は無限で、有限の命で無限の知識を追求するのは、あやういことである。彼は、比較することに反対し、知識に反対、争いに反対した。人間一人の生命はほんとに短いのだから、知識は必要ないし、争いも不要、人にまさろうとする必要もない。と説く。
 彼の主張は極端に退廃している。
 (4)<老子>
 老子、名は老聘、陳の人。今の河南人。
 <荘子>の後、<老子>の書が出た。ある人は、老子は孔子の前という。多分、<老子>という書は、<荘子>が出た後、<荘子>を五千字に簡略化してしまったのだろう。<老子>の中には、“長短相形”という語句があり、物事を比較して言う、と説いており、また“高下相傾”といい、高は下をもって基礎とする、とも説いており、いずれも比較して言っている。
 しかし、その主導思想は、墨家のように、或いは孔子のように、憂いわずらうなと説く。“孔突不黔、墨席不温”即ち孔子の家の煙突は黒くならないし、墨子の座席は暖かくならない、と。彼らの暮らしはとても苦しく、あちこち走り回り、人のためばかりで、自分のためには何もしない、と。
 孟子は墨子を評して、“摩頂放踵(頭のてっぺんから踵まですり減らして)天下を利す。”墨子は全く人のためばかりで、楊子はといえば自己のためばかりに過ぎる、と。孟子の言う極めて利己的というのは、老子、荘子を含んでいる。
 老子は政治を語り、原始社会に戻るべきと主張した。いわゆる“小国寡民”で国は小さく、人口は少ないほうがいい、と。この状況は氏族社会である。
<老子>には、“民をして又自ら縄を結い、これを用い。その食をうましとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国は相望みて、鶏犬の鳴き声が相聞こえるが、民は老いて死ぬまで、相往来せず。”と。それ故、思うに,老子は楊子、荘子以降の人であろう。
 道家は、楊子が始め、荘子、老子になって興隆した。道家の思想は当時たいへん多くの人が信じた。
 <老子>は説く。“賢を尊ばない、民を争わせない”と、墨子に反対した。
老子の宇宙観は“無為にして治まる”“無為にして為さざるなし。”である。
 <老子>の主張は、“ある物は混成の状態にあり、先に天地が生じ、寂兮寥兮、
独立して、改めず、あまねく行きて、殆うからず。もって天下の母たる。吾、その名を知らず、これを名づけて道という。“老子のこの段の意味は、”道とは
天地に先んじて生まれ、道は物であり、精神ではない。道は万物の母であり、即ち道は物質だ。“という意。
 儒家、墨家は外を見、道家は内を見る。
 戦国のころ、それぞれの家(か)は古代史に対して、それぞれが異なった説を唱えた。各家はみな根拠を持って説いたのではなく、想像から導いていた。
儒家、墨家、道家の古代史に対する異なった見方は、古史を変え、改変させた。
<礼記、曲礼>に言う。
“剿説するなかれ、雷同するなかれ、必ず古昔に則り、先王を称せ。” 剿説するなかれ、とは別人の説を踏襲するな。雷同するなかれ、とは別人と同じことを言うな、である。必ず古昔 云々は、いにしえを以って法則とせよで、先王を称せは、先王をたたえよ、の意。
要するに、すべて独自の考えで、古代の事を説き、先王のことを賞賛せよと。
それ故、古代史のことについては、各家の主張は異なり、甚だしきは、各家内部でも違っていた。
(5)<韓非子>
<韓非子、顕学>篇に、こういう段がある。“孔子、墨子ともに堯舜をいうが、取捨は異なる。みな自分のほうが真の堯、舜という。堯舜は生き返らないゆえ、誰が儒墨のいずれが真か、確かめられようか!”と。
顧老はこの段を解釈して;儒家は堯舜のことを講じ、道家は更に古い時代の神農、伏羲、黄帝を講じた。こんなことは何ら根拠がないのに、これでもって堯舜を圧倒し、儒家、墨家を圧倒した。
三家はきまって、昔の方が良かった。一代ごとに悪くなったと考え、古に厚く、今に薄く、古ければ古いほど良かった、と考えた。戦国は西周に如かず、西周は夏商に如かず、夏商は堯舜に如かず、堯舜は黄帝に如かず、黄帝は神農に如かず、神農は伏羲に如かず、と。この思想はずっと受け継がれた。諸子の子書に、戦国史が保存された。
(6)法家
法家の代表人物は、李悝(魏)、呉起(楚)、商鞅(秦)、韓非子(韓)、李斯
(秦)で、彼らは皆、変法を主張した。儒墨道の三家は、すべて古道を提唱したが、時代に合致していない。変法を行って、時代に適応せねばならない、と。
法家の主張はまず法を定め、しかる後に王を立てる、ということで、今後のために法を定めよ、という。これは儒墨道の三家の、先王を法とする(先王の古法に照らして、ことを為せ)と対立した。
 法家の主導思想は、打倒貴族!で、貴族は功もないのに、禄をはんでいる。法家は人民を直接、国君に隷属させようとし、貴族に属させないようにした。それ故、一つの新時代を創出せんとするものであった。
 李斯は、秦の宰相のとき、最も顕著にこれを推進した。始皇帝の時代、ある者が言った。周が八百年続いたのは、周家が大いに宗族を封じたからである。
今、あなたが天子となっているが、子や甥たちはみな匹夫に過ぎず、誰も官に封じられていない。一朝、事あれば、田常式の政変が発生するだろう。田常とは、斉の人で、かつて謀反を起こして斉の政権を奪った男。
 李斯は、この説に断固反対した。彼は反駁する。この説は、よく本を読んで、理解していないためだ。彼らは誤って、古法を今法に充てているからだ、と。
それ故、彼は始皇帝に一切の古書を焼却するよう勧め、今後、天下に古書を読むことを禁ずとの命を下すよう進言した。始皇帝は彼の勧めを聞き入れ、天下の古書をすべて集めた。項羽が咸陽に攻め込んだ後、全ての古書を焼き尽くしてしまった。以後、残ったのは民間に遺留した少量の古書のみとなった。
 儒家は一族の長は、一国の君にもなれるとした。曰く;親は親たれ!それを宗法とした。墨家はこれに反対した。親は親たれ、に賛成しなかった。宗法社会は周代に始まった。法家は更に改革を加えた。
 戦国のころ、法家はこぞって、各国は富国強兵策を執るようにと強調した。政治を語り、経済を語り、軍事を語って、生産に重点を置くように、と。商鞅は秦のための変法として、まず初めに農業を発展させ、それから戦争を始めよ、と勧めた。元来、士農工商に分かれていた身分を、彼は、士(読書人)は不要とし、商人も要らないと。彼はただ農事と戦事、この二つがあれば良いとし、
農業のために水利事業を行った。楚と漢が争ったとき、鴻溝を界とした。これは、その当時に作られた人工の河だ。西門豹が鄴令として、多くの水利事業を行った。今日に残る、都江堰は秦の李冰が作ったもの。
法家の人たちは非常によくやった。本の虫でも、空談家でもなかった。
(7)<管子>
法家は斉ではいささか異なる。斉は工商業国だった。製塩と鉄器製造、製糸に適していた。当時各国の衣装はみな斉からきた。斉は女工が多く、紡織がたいへん盛んだった。
斉の法家も書を書き<管子>と言う。管子は春秋の人で、大政治家だった。管子の主張は<管子>の中にすべてある。彼は斉の法家で、秦や楚の法家とは異なる。秦は工商業を不要とした。斉は工商に依存した。それ故、<管子>は、
工、農、商、兵を重んじた。このころの斉は文化も非常に高かった。
 (8)陰陽家
 陰陽家の代表人物は鄒衍である。斉の人。迷信家で陰陽家はみな迷信を信じている。
 <周礼>に、天官,地官など五行思想があり、<管子>にも多い。斉の読書人はこれを信じていた。<月令>は陰陽家の思想だ。陰陽家の思想は五行で
政治を決めることだ。しかし陰陽家は戦国時代から儒家と混合した。漢には陰陽家と儒家の二者は分けられなくなった。陰陽家は儒家の右派で、法家も儒家と一緒になり、儒家の左派を構成した。漢代の董仲舒は陰陽家の儒家代表である。この時の左派は荀子で、名を荀卿といい、戦国末の人。漢代になると、儒家、経学家はみな混然とし、陰陽家の思想が主となった。しかるに,皇帝の方は法家の思想に則っていた。が、皇帝は依然として陰陽家的思想の儒家であった。陰陽家は言う。天子、即ち皇帝は天に代わってことを行う。これは漢代皇帝の愚民政策である。
 漢代の儒家、董仲舒、劉向などは皆、無価値な連中である。 墨家は漢の皇帝が撲滅した。彼らは組織を持っていたから。墨家は漢代になると、学説も通用しなくなり、組織も解体した
 道家は漢初、大流行した。文帝,景帝のころ、当時“無為にして治”を提唱した。貴族はみな<老子>を読んだ。人民をして安らかに暮らすようにし、生活は安定した。
 六十年後、漢武帝のとき、また匈奴を攻めた。多くの銭を使った。武帝末年には神を信じ、長生の薬を求め、巡視に出かけ、祭祀を盛んに行うなど、多くの銭を使った。それで後には、多くの捐金、税金を取り立てた。商人たちは困ったことになり、疲弊してしまった。
 秦漢二代は重農主義で、商人は車に乗れず、絹製品も着られなかった。戦国時代、儒墨法道は、諸子の中で最重要な位置を占めた。
 (9)名家
 名家(ロジック家)は墨家から分離したもので、詭弁に偏っていた。例えば“白馬非馬”また、天下の中央は燕の北、楚の南にあるなど、全て詭弁の辞。
 ただ名家にも一言あり;“一尺の棰、日に其の半を取る、万世竭ず(尽きない)”
これは道理がある。
 (10)雑家
 雑家の思想は道家に近い。秦代に<呂氏春秋>がある。呂不韋は秦の宰相となり、政治の大権は全て呂氏の手中にあった。彼は多くの食客を養った。彼らに戦国時代の各家の学説を合同して、<呂氏春秋>を編集させた。後人はここから、戦国時代の史事を知ることとなる。漢代には淮南王劉安が<淮南子>を編んだ。この書は漢初の各家の説を混合したもの。この二部は百科全書のようであった。
 (11)諸子雑論
 秦漢の時期は、各家の学説が混合しようとし、多くは儒家に混入したが、墨家のみは、入らなかった。漢以後、儒家は経書を読むだけで、子書を読まなかった。だが、老子と荘子は読んだ。
 隋唐には、科挙の制ができたが、まだ固定化していなかった。宋以後、科挙が推進され、固定化し、三年に一考と大いに普及した。これ以降、儒人は老子、荘子も読まなくなった。
 清の中葉、乾隆のとき、儒人はただ経書だけでは物足りないと感じ、経書と子書が併せ読まれた。子書はそれで、校訂され、注釈が加えられた。
 清の華沅は当時、陝西総督で、子書を校訂する人を集めた。これは<四庫全書>の編纂後で<四庫全書>はまだ子書を余り注意していなかった。王孫念という者が、彼は高郵人だが、もっぱら子書を読み、細部に亘って考訂した。清末には、兪樾、孫治譲が出、子書を校訂した。孫治譲は<墨子>のために、注釈を作った。<墨子閑話>という。現在<管子>はまだ整理されていない。
 清の人たちの子書の校訂と注釈は、経書を読むのにたいそう役立った。経書と子書を比較研究するのに、大変便利である。これ以降、経書の権威を打倒することに繋がった。今、甲骨文の研究は、更に深く比較研究ができるようになり、清代より一段と進んだ。
 例えば、王道と覇道について。以前の人たちは、古い時代の王道は平和で、覇道は殺気に満ちていた、という。この言い方は、宋から始まった。今ではこれが間違っていることを知っている。王道は決して平和的ではない。これは甲骨文から見出すことができる。
 経書は、奴隷社会の事情に触れていない。現在、青銅器から、いにしえの王は非常に残忍であったことが分かる。歴史博物館に現存する<孟鼎>に、周の王が、盂(臣の一人)に奴隷を与えたとの記載がある。“人(隔の右=奴隷)は、馭から庶人まで六百五十九夫”とあり、また別には“千五十夫”、とある。
<小盂鼎>にまた次の記載あり“周王は盂に命じて、鬼方(西北の一国家)を征伐し、一回で(獣の左=酋長)二人を捕らえ、”馘“(戦争中に殺して、その耳を割った人数)は74,812人で、”俘人“は13,081人、と。二回目は”(獣の左)一人、馘237人、俘・・・・人。馘は国の音。馘すなわち、殺して、耳を割ったのを数えて、王に報じていた。これは何と残忍なことか。当然、こうした事柄は、経書には一切ない。今、金文の中で知ることができる。
 又、次の例も挙げられる。
 <孟子>は“書”<尚書>(当時の)を引用していう。“有(悠の上)不惟臣、
東征、綏厥士女(安撫男女)筐厥玄黄(黒くて黄色の絹織物)紹我周王見休
(好)惟臣附于大邑周(周に服従)“。
 孟子の解釈は、“その君子〔貴族〕実玄黄于筐以迎其君子;其小人筐食壷漿以迎其小人、救民于水火之中、取其残而已矣(去其残暴)。”(“綏”)作安義解)
 現在、次のように翻訳す。“ある国が周王に服従しなかった。周王は派兵して
東征させた。其の国に到って、彼ら男女をすべて奴隷にした。彼らの絹製品を奪って、籠にいれ、周王に献じ、彼を喜ばせた。この国は周に服属した。“

 この段の訳文は、顧老が自ら一字一句翻訳して、手書きしてくれた。顧老の手書きについては、私は当然、一字一字照らし合わせて書き写し、誤りのないようにした。顧老の口述の全てを謹んで抄録したが、錯誤や疎漏を恐れた。
顧老の言葉は、できる限り元のままにしようと努めた。全てを尽くして、私の記録が、簡疎のためや、整理不注意のために、元の面目を失うことのないように心がけた。顧先生と読者に責任を負わねばならない。

 以上の例は甲骨文の研究以後、初めて知ることができるようになった。これは王道が決してそんな慈悲慈愛に満ちたものではないと知れる。
 <孟子>は“ことごとく<書>を信ずるのは、<書>の無いに如かず、吾は
<武成>から二三片取るのみ。仁人は天下に無数で、至仁以って不仁の至りを征伐し、而して何と其の血の流杵や!“。<逸周書、世俘>(即<武成>で<尚書>の一篇)”武王は遂に、四方を征し、凡そ(敦の下に心)国九十有九国、
馘磨億(十万)有七万七百七十有九(17万人を殺した)俘人三億万有二百三十(30万人を俘虜とした)。“このような凶残をした王に対し、孔孟のようにいにしえの王はみな慈愛にみちていたなぞと、褒めておられようか!
 諸子はたくさんの書を記したが、今日まで残ったものは少ない。この他にも、恵施、宋(金+開の中)、慎到、申不害等。今ではもう彼らの書は見られない。
多くは別の書に引用された一二句があるのみ。
 ある書は。秦の時代に焼き尽くされず、<漢書、芸文志>に彼らの著作目録が残っている。しかし、書そのものは、後に後漢末の董卓に焼かれてしまった。
それで、上述の書は、今日まで伝わることができなくなった。
 上古の書を大がかりに焼いたのは三回。1回目は秦で政治目的、2回目は項羽、3回目は董卓。後にも、各朝各代に大小の戦乱で、みな書を焼いた。
4. 経書、子書以外の戦国古書
 経書、子書以外の戦国古書には、古代史研究にたいへん価値あるものがまだ他にある。
 (1)<竹書紀年>
 <竹書紀年>は本来すでに失われ、司馬遷すら見ていないが、梁襄王の墳に埋葬されていた。この墳に多くの書が埋葬されていて、車数台分の筒があった。
西晋の司馬炎のとき、河南の汲県の墓荒らしに発見された。政府はこれを知るや、ただちに墓の中のすべての筒を収集し、人を選んで考証させた。当時、書はたいへん多かった。後に五胡十六国の乱で多くが散逸したが、書は無くなったわけではなく、唐代まで存在した。唐代の読書人はこれを読んで喜んだ。そして引用した。宋になり、南に遷ってから又失われた。明になってまた収集されたが、自分の文章も付け加えた。それで、書中のあるものは真実のものではなく、名も<今本竹書紀年>とされた。其の中には本物も偽物もある。清の咸豊年間に朱右曾が、新たに編集し、民国初年に王国維が再度編集し、<古本竹書紀年>と名づけた。ただし、この書も甚だ不完全。それにしても、古史研究には大いに役立っている。この書の依拠するところは三つ。一つは伝説。西周以前のことは、実際はすべて伝説で、歴史的文字資料がないためである。この部分は、余り価値は無い。二つ目は春秋時代の部分。しかし、<春秋>と言う書があるため、価値はさほどでもない。三つ目は戦国部分。当時の紀年を記しているので、価値は大きく、<春秋>と同じである。この書は、なお司馬遷の<史記>の戦国時代の史事の誤りを糾正できる。
 (2)<穆天子伝>
 穆天子とは周穆王を指す。これは西周の歴史小説だ。およそ、歴史小説と言うものは、書中の人と事はすべて真実である。しかし、いささかの部分は嘘で、
一般に70%は真実といえる。この書も梁襄王の墳墓に埋葬されていたのが、発見された。
 <左伝>に云う。“昔穆王はその心の欲するままに、あまねく天下に行き、
必ず車轍や馬跡を残した。“これは穆王が八頭立ての馬車で天下を経巡った、といっている。西周の天下は、陝西、河南、山東、河北の一部にすぎず、主に渭水流域で、疆域はひろくなかった。戦国になって、各国の疆域は拡大した。
<穆天子伝>という小説で、穆王は西北に向かって去り、シベリア、中央アジアに到るまで三万余里と。実は本当かどうか疑問である。しかし戦国時代の人の地理の知識が大変豊富で、広かったことを示している。それは遠くシベリアや中央アジアまで記すことができたことで分かる。
 西王母の伝説は、歴史小説に見られる。穆王と西王母が会って、賦や詩を交わし、その後、酒を飲み、恋人の如き関係になる。西王母は一つの国家かもしれない。名前に母と言う字があるので、後の人が女性だといいだした。唐の詩人が詩にいう。“八駿馬で三万里も行き、穆王は何事がおこって戻らなくなったのか。”この詩は西王母が発したことばを代替している。
 <穆天子伝>という古代の小説は今もあり、内容はすべて本当のものだ。中には戦国時代の古い字が大変多い。西晋になると、人々はこれらの字を読めなくなっていた。
 漢の人は、古書の整理に功績がある。しかし、<竹書紀年>と<穆天子伝>の二冊は、整理はおろか、見ることすらできなかった。西晋になって発見された戦国古書であるから。
 漢の人が見て、今日まで伝わっている戦国古書は次の6冊。
 (3)<国語>
<国語>は左丘明の作。八カ国に分け、夫々の史事を記している。周、魯、斉、
晋、鄭(河南)楚、呉、越の八カ国。編年体ではなく、大きな事象のみ記すが、
年代はない。ただ、事がらと人間の話だけである。各国の王の参謀のために、
説いた話である。中にはいくつかの史事もある。主たる目的が、事を記すにあらず、いかにして彼の話を信じさせるかにあるので、史実の材料は多くない。
 (5)<逸周書>
<逸周書>は周の正史ではないという意。戦国の人が西周に代わって書いた史。
 書の内容は、文王、武王が商を討った話。多くが想像の産物で、根拠があるのは、ほんの少しのみ。戦国の人が記したものゆえ、読むべきものがいくらかはある。この書は現在整理中。(校訂者注;これは沈延国の<逸周書集釈>で、
1965年時点のこと)
 (6)<世本>
<世本>は古代史を系統的に記す。遠い昔より戦国時代まで。代々の史官が記したもの。各国の都、世系(王、諸侯、大夫)と器物の製作を含む。この書は失われたので、今復活させようとしているが、容易なことではない。残っているものが極めて少ないから。唐の司馬貞の<史記索隠>はみなこの書に依拠している。このことから、唐代以降に<世本>は散逸したとみられる。現在あるのは<世本八種>一冊のみ。
 <史記>が主に依拠しているのは<国語><戦国策>で、特に<世本><春秋><左伝><尚書>である。そのころ<左伝>は一般の人は見ることができなかった。一屋の筒は十八万字あり、漢代の人は知識が少なかった。たとえ銭があっても、書を写すのは大変だったし、書を見るというのは容易でなかった。
一般の人には書は大変少なく、皇室にしか多くの書はなかった。
 (7)<山海経>
<山海経>は戦国時代に巫術を行ったひとが記した。中国地理の最古の書で、中国で最初の地理書である。<山経>と<海経>の二部に分かれる。
一.<山経>は<南山経><西山経><北山経><東山経><中山経>の五経に分かれる。
 <中山経>は湖南、湖北、四川のこと。これは楚の巫人が記した。山名、産物、鬼について記しており、人は鬼をみたら、どんな良いこと、或いは悪いことがあるか、どんな草木が病に効くかなどを記す。
 <東山経>の東は山東と南の広東、福建を指す。この部分は最もいい加減だ。
 <中山経><北山経><西山経>に記された山は比較的くわしい。
 二.<海経>は二つに分かれ、八部ある。
  甲.海内;海内は南、西、北、東の四部。
  乙.海外;海外も南,西、北、東の四部。
 当時台地は四角で、東南西北はすべて海で、山経は中にあり、海内は山の外にあり、海外は海内のさらに外にあった。<海経>は海のことを記しているが、
主に各国の事を述べている。<鏡花縁>は<海経>の各国を抄録しており、1.
貫胸国;その国の人の胸腔には洞がありと。2無腸国 3.大人国 4小人国 5.長股国 6.一臂国 7.女児国など、計百余国あり、そのうち、いくつかは本当にあった。戦国のころ、すでに海外との交通があり、アジアの若干の国に行ったし、外国にも行けた。そしてこの中で、インドについて“天毒”と記している。“天毒‘は天笠と読む。このほか、朝鮮や倭のことにも触れている.倭とは日本のこと。日本は古い国である。<海経>はたいへん荒唐なものだが、少なからざる部分は読むに耐える。
    この書で最も価値があるのは、古代神話を保存していることだ。儒家の書は、
全く神話がない。例えば、“精衛”と言う神話は、この書にある。炎帝の女児、
名は精衛,東海に到り、そこで死ぬ。彼女は海を恨み、木石を銜え、東海を填  
めんとす。永遠に填めんとす。
 又、“誇父逐日”の神話。誇父という人が、太陽を追い、追いつけず、鄭国に到って渇えて死んでしまう。彼は大地に倒れてしまうが、身は樹林となった話。
 又、羿が日を射る。羿は神で、当時十個の太陽があり、炎熱地獄であった。羿は九個の太陽を射落とし、一つだけが残った。(校訂者注;この故事は今本の
<山海経>にはない。<荘子、秋水>、成玄英の<山海経>疏引に見える)
 更に、禹が洪水を治す話。大禹が、たくさんの怪物を殺してやっと洪水を治めた、と。<中国古代神話>に<山海経>の中の神話を専門に編集している。
 <山海経>にはたくさんの古代伝説の神話がある。儒家は神話の中の人物を、歴史人物に改造した。もし<山海経>がなければ、儒家のウソを見つけることは,容易ではない。例えば、夔は神話では一本足だ。黄帝が彼を殺し、その皮で鼓を作ったら、とてもよく響き、五百里先まで聞こえた、と。これは神話だ。
儒家はこれを変えた。孔子は言う。舜は夔(き)を臣とし、音楽を司らせたら、大変うまく行った。舜は大そう喜び、夔のような人が一人おれば足りる、といった、と。これは<山海経>では夔は野獣で、殺して鼓にしたら、とてもよく響いたということが分かる。
 それゆえ、<山海経>の価値は、古い神話を保存しており、儒家が如何にして神話を歴史に改造したかを反証できることにある。過去。人々は<山海経>をデタラメとみなし、ほとんど失われかけた。

  12月23日。この日、外は寒風吹きすさび、私は暖かい顧老の部屋で、
精神集中して、老先生の中国上古史の話を聞き漏らすまいと、一生懸命であった。先生は微笑み、眼光おだやかで、少し呉音のまじった普通語で、智恵のことばを語った。古史、古事、古人の話、史書、古経、更には物語、神話、寓話、そして古文字、古詩まで傍証博引され、人をして賛嘆やまざる程の独自の考証をされた。これは私にとって、史壇の堂屋に導いてくれる大変な幸運であった。聞くのは私一人だから、特別の責任感をもって、一字一句記録した。

 (8)<楚辞>
 <楚辞>は戦国時代の文学書だ。まず<離騒>は明らかに屈原の作品だ。しかし、その他のものは、作者はわからない。例えば<九歌>は楚のひとが、神を祭るときに歌った歌だ。このことから宗教信仰がわかる。
 第一の歌は<東皇太一>。”東‘は東から出た。“太一”は最高の意。これは、
楚の上帝は太陽神だという意。
 第二は<雲中君>、即ち雲の神。
 第三は<湘君>、湘水の神。湘夫人は湘君の夫人。後になって、人はこの二人を舜の妃と間違え、一人を娥皇、もう一人を女英と名づけた。舜は南方に行って、帰ってこなかった。それで二人の夫人は南方に彼を尋ね、亡くなってしまった。洞庭湖のなかの君山に舜の二人の妃の墓がある。後に南方の人は、娥皇と女英を間違って、湘君、湘夫人としてしまった。
 戦国時代の物語がある。宋玉の<高唐賦>。高唐とは陽台のある場所。楚の懐王は陽台で夢を見た。夢に巫山の神女が現れ、雲が雨となった。神女が言う。
“私はしばらく行雲となり、暮には行雨となりましょう。”と。
 <九歌>には更に:
 <大司命>は寿夭を司る神。大司命とは正司命のこと。
 <少司命>は副司命で、嗣子と児童の命運を司る神。
 <河伯>は楚の人が黄河を祭る神。楚国の人は当初、もともとは魏の地域(
河南北部、河北南部)にいて、周公の東征で南に追われた。ただ、その後も、彼らは黄河を祭った。楚の人は夏人、即ち中華の直系の可能性が高い。
 <山鬼>楚の山神。
 <国殤> 楚の神。
 祭祀のときは、巫者が祀った。男の巫が女神を祭り、女の巫が男神を祭った。
当時の巫女は妓女と同じで、祭りに行き、神に向かって之と交わった。当時、人は神と交合できると考えていた。当時の神は性欲があり、人間と同じように
食べ、謡ったりした。今日の神とは異なる。
 <天問>は屈原が楚王廟で壁画を見、それがすべて古史であったので、それを天に問うた。それで、その中にたくさんの神話が保存された。例えば、洪水を治めた鯀は、上帝に殺され、黄龍に変じて水中に入っていった。それで後に、
大禹が龍とともに治水を計画したという物語ができた。インドでは龍は悪者で、
毒龍と呼んだ。中国の龍は,大海にも、大陸にも、長空にもどこでも活動できたので、人々はもっとも崇拝した。更にもう一つの神話がある。王亥は湯王の祖先で、商の酋長であった。彼は放牧しながら、河北の“有易国”に来た。その国君は、初めの頃は、もてなしてくれたが、あとで殺されてしまった。王亥の子、名、上甲微は、父の仇討ちでその国君を殺した。司馬遷は、商がかつて河北にまで到ったことを意に介さなかったので、<史記>にはこのことに触れていない。現在、甲骨文の記述から王亥は、商の大祖だとわかる。商の人は、かつて三百頭の牛を屠って、彼を祭った、とある。この人物が大変な男だとわかる。楚の人は元来、黄河地方にいたので、その人物,そのことを知っているわけだ。<天問>には更に、夏、商、周の物語もある。
 <楚辞>と<山海経>は同等の価値があり、二つとも神話を記している。実際、古人は神話を信じた。古史の一部は神話から来ている。
 戦国時代から今日に伝わった八部の書で、経とされずに今に伝わったものは、
以上の通りである。
 
目次 三の中国史書以降は、勉強のために訳しましたが、既に出版されているので割愛します。          2009年春 大連にて 山口 善一 






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中国史学入門 その3 民族史概要

中国史学入門 その3 民族史概要
一、中国民族史概要

 今日12月15日、顧老は顔色もよく、腰もしっかりし、精神煥発である。私の質問に興が湧き起こったように、中華民族の源流を語りだした。彼の思考は異常なほど明晰で、理路整然とし、論理はしっかりしていた。中華民族の歴史を語りだすと、愛情があふれてくるようで、高論が滔滔と絶えなかった。彼の北京語は少し蘇州なまりがあったが、おもむろに語りだした。
1. 二つの誤った観念を打破する
 人々は、中華民族のオリジンについて、二つの誤った観念を持っている。これを打破せねばならない。
 第一の誤りは、中華民族は三皇五帝以来ずっと統一されてきたという観念。それを封建帝王が代々受け継いできたというもの。実はそうではない。三皇五帝は多くの民族の悠久の遠い昔の別々の神で、後世の人がこれらの神を、つなぎ合わせて、多くの民族の共同の神とし、‘三皇’‘五帝’と称したのだ。古人は自分たちのことを、‘三皇’‘五帝’の子孫と称し、黄帝の子孫だという。本当は違う。この言い方は、覆されることの無いほど頑丈に定着してきたが、たとえ如何なる科学的な民族史であろうとも、これを研究実証する方法は無い。
 第二の誤りは、中華民族は広大な世界の中央にいて、その他の少数民族は、その周辺にいて、東方の民族は夷といい、西は戎、南は蛮、北は狄と呼んだ。実際はそうではない。ずっと古い時代には、夷人、狄人は中国の各地にいた。夷、狄、戎、蛮は、ある特定の地域にいたわけではない。
 今日、我々は‘北京人’山西の‘丁村人’広西の‘柳江人’がいたことを知っている。すべて新たに発見された50万年前から4,5万年前の古人である。これら古人は今日の中華民族とどんな関係があるのか、まだ分からない。はっきりした研究も無い。今日の中華人の歴史は、4千年にすぎない。人類の歴史は気の遠くなるほど長い。しかし、文字で記録された歴史は数千年にすぎない。考古では1万年前まで遡る。地質学は数百万年前まで遡る。人類史がいつから始まったのか、本当のところはよく分からない。現在、文字に書かれたもの、また文物の証左のある歴史は、とても短い。
2.中華民族の形成、成長と発展
(1) 商
  古い中華民族の歴史で、文字資料のあるのは、商代の甲骨文に始まるが、3-4千年に過ぎない。商の人は中華民族である。その東には鳥夷人がいた。鳥夷人は鳥をトーテムにしていた。鳳鳥氏、玄鳥氏、と爽鳩氏はみな鳥夷である。鳥夷人の居住地は広大であった。山東を中心に、最北は東北地方、南方は江蘇、西は河南まで。これらは全て考古的根拠がある。鳥族の文化は黒陶文化である。黒陶は山東、河南、東北、江蘇に多く発見される。黒陶の特徴は薄く、表面に鳥の頭があることだ。これらは近年発見された。
 商の西には羌人がいた。羌人は陝西、甘粛一帯にいた。
 商の人は河南、河北にいた。他の部族との比較で言えば、当時からすでに広大な地域にいた。商の南は越だが、甲骨文字に越の資料が無いのは、商と越の往来が少なかったためである。当時、商と南方、北方の関係は少なく、東と西との関係は多かった。
 商の北は夷である。夷人は沿海にいた。彼らの北には狄がいたが、関係は少なかった。商代の中華民族はこんなところだ。
(2) 周、秦
商の後は周。周は羌族で、羌族は二つに分かれる。姫姓と羌姓である。二つとも渭水流域と陝西一帯に起こった。姫姓と羌姓は婚姻関係を結び、羊家の男は羌となり、女は姜となった。二つとも羊をトーテムとしていた。
周人は後に南と東に拡がった。南に向かったのは太伯で、潅水沿いに東南に発展し、湖北、江西、江蘇に呉を建てた。言うまでも無く、太伯一人じゃなく、一回の移動で達した所から、何回も移動し、徐々に形成されてゆき、呉も周に統治された。そこには、もともと越人が住んでいた。
  それ以外に、周人は東南に進展し、山西に到り、更に東へ河南に到った。そこで周人は商の人と衝突し、争いとなった。その結果、商は滅び周の地域は広がった。周の武王の時代、河南、陝西、山西の三省に広がり、大変広大な地域を押さえた。武王の死後、彼の子や甥が叛乱した。その結果、周公の東征となった。叛乱平定を大儀とし、実際に大いに領域を広げ、河北、山東も併呑した。ここらは元来、鳥夷の居留地で、彼らは周辺に追いやられた。一部は留まったが、多くは南に逃れ、或いは西へ、そして北にも分散した。それで、周公の東征地域はいよいよ拡大し、鳥夷人の分散もより広まった。
 後の秦人は姓を嬴といい、鳥夷の一族で、周公が彼らを西に追い出したもの。後の越も鳥夷で、嬴姓である。犬戒が周を滅ぼし、東の鳥夷人で嬴姓の者が東から西に遷った。要するに、東と西の各族が混合したのだ。秦代になると、東の各族は西から来た秦人に支配された。
 狄、すなわち犬戒は犬をトーテムとした。商の時代に既にいた。周になると犬戒と接近し、狄は西北地域で勢力をのばし、領域は非常に大きくなった。西部の者は陝北に、北部の者は山西、河北に進出し、内蒙古は全て狄人で、戦国時代以降は匈奴となった。歴史上の匈奴は、狄人から起こった。
 春秋時代に狄人は、白狄と赤狄に分かれ、旗の色で分けた。赤狄は陝西、山西、河北一帯を占めた。白狄は河北の定県にいた。晋人が山西と河北の白狄と赤狄を滅ぼした。そこで狄は更に北に逃げた。戦国時代から秦、漢にかけ、狄人はすべて長城以北に去った。秦、晋、燕は長城を築いた。戦国時代、晋が滅ぶと、趙、秦、燕はすべて長城を築いたが、狄人の攻撃から守るためであった。
 秦漢以後、匈奴の勢力が拡大し、中原より広大な地域を支配し、蒙古と新疆を占有した。匈奴は騎馬射葥を善くし、戦に強かった。秦は蒙恬将軍を派して、防御に当たらせた。だが、結局肥沃な河套地域を奪われ、漢の武帝の時にやっと奪回できた。秦漢時代、北は長城で匈奴の馬を防ぎ、南は越の地を開拓した。西周時代、呉太伯は越に達していたが、この時代になって、南海郡と桂林郡(広東、広西)に至り、更に閩中郡(福建)と象郡(ベトナム)に到った。 ベトナムの越人は、古くは浙江の越人と同じ。浙江には瓯人がおり、東瓯人は温州に、西瓯人は広西にいた。
 南の越人は船で南に向かったが、これは大変便利だった。北の匈奴が馬を使ったように、はるか遠くまで達することができた。越人は背が低く、薄黒い肌で、そのため、ある人はマレー族と称した。体格がマレー人と同じだからというが、この種族は中原人かもしれない。更に南に向かって、東南アジアにまで及んだ。ちょうど匈奴がシベリアに達したように。従って、古代中華人は三つに分かれる。
1.中間地域には、中華先人がいて、東西の人たちが混合したもの。
2.北部地域は匈奴で、北に向かって発展した。
3.南部地区は越人。
 次のようにまとめることができる。アジア(訳者注;東アジア)は、はるか昔に、三つの部族が共同開発したものだ、といえよう。古代日本、古代朝鮮は鳥夷人の可能性がある。鳥夷人は、自ら先祖は鳥の卵から生まれたという。朝鮮には今も多くの根拠が残っている。
 商から周、そして秦になると、多くの民族を併合し始め、漢代以降になって、中華民族と呼ぶようになったが、その中には多くの少数民族を含んでいた。例えば、貴州の夜郎族、雲南の滇国はみな合併したものだ。夜郎国は漢の武帝以前は、独立していたが、武帝のとき、併合した。“夜郎自大”とは、漢の使者が来たとき、国王が、漢と夜郎国は、どちらが大きいか?と聞いたという典故から来ている。天の高さ、地の厚さを知らぬものを指し、自らを知らぬ尊大なものを“夜郎自大”というようになった。その実、かの地はそんなに大きくはない。
1. 周公は鳥夷を併合し、東に向かって海に到った。
2. 秦の始皇帝は南の越を併合し、福建、広東、広西に到った。
3. 漢の武帝は雲南、貴州に勢力を広げた。
 四川は戦国時代、秦が開発し、巴の重慶と蜀の成都からなり、始皇帝の中国統一を可能にしたのは、この四川開拓と大いに関係がある。米の豊富な巴蜀を取った後、三大地域を領有し、東方を攻め獲ることができた。東方の諸国は四川を攻められなかった。
 内地に少数民族はたくさんいた。蛮というが、非常に多くに分かれていた。蛮の開発の功は楚にある。楚、もとは東方人であり、鳥夷に大変近い。楚人は芊という姓を名乗った。羊をトーテムとし、河南東部にいたが、周公に一撃され、漢水流域から湖北一帯に遷り、荊山に到って、周公の力が及ばなくなって以後、大いに発展した。次いで南方の多くの少数民族を併合し、安徽、湖北、湖南、江西の諸地域を取った。楚は兵を雲南に進めたが、成功しなかった。しかし、南蛮の大部分は楚に同化させられた。
 戦国時、越は呉を滅ぼしたが、楚は越を滅ぼした。それで、楚は春秋戦国時代に、領域は最大で、周囲五千里を有した。次が秦。当時、多くの人は楚が全国統一を果たすと考えていた。しかし、楚は秦に滅ぼされた。
 春秋時代、斉、晋、秦、楚の四つの大国があった。斉は山東の大半(東北部)と河北の南部を占め、晋は山西の全部と河北の西部で、晋はもと山西の西部にいたが、北に発展し、雁門関以南一帯に達した。秦は最初、甘粛の東部―清水県にいた。後に、陝西中部に拡大し、更に陝北、陝南に広がり、甘粛の西部を加えた。戦国年間に秦は四川に拡張した。始皇帝時代に、福建と両広に到り、この時の版図は現在のものとほぼ同じになった。
 燕は大変興味深いものがあり、もとは小さかったが、戦国時代に大きくなった。遼寧と蒙古東部に到った。燕の昭王は東北に発展し、熱河、遼寧に到った。この拡大で主に、朝鮮を攻撃した。元来、遼寧、熱河、河北、東北の一角にいた朝鮮人は、そのため現在の朝鮮に遷った。
 朝鮮人は大河を灤(ラン)と呼んでいた。灤の字は変音して“遼”に、また“凌”に変じたが、これは韓語音で、“河”という意味である。朝鮮人は東遷したが、一部は東北に留まり、これが原名称の高麗である。唐の太宗は高麗を打ち、今の鞍山一帯を攻めた。従って、話を戦国時代に戻すと、燕はとても大きな版図を持っていた。
 戦国は七国が大きく、斉、楚、燕、趙、秦、韓、魏の七雄である。韓国と魏国は各国にはさまれ、拡大することができなかった。韓は河南の中部と西部、魏は山西、河南と河北の一部で、この二国は最小であった。
 趙は北に発展した。山西の北部と河北の西部にいて、邯鄲に都を置いた。

(3) 漢
12月16日。香山療養院は香山公園にあり、山の麓の平地にある。四周は山で、香山に囲まれていた。12月、有名な紅葉は大半凋落し、わずかに紅い楓の葉が、枝の先に残っていた。人々は、美しい葉を捜し、本に挟んだりしていた。
 私は山間の小道を顧老と散歩しながら、知識を求め語り合った。ひと時も無駄にせず、大学者にこれはどうですか、あれは何ですか、と教えを請うた。顧老の学識は、五台の車に乗せるほど豊富で、体中、経綸で満ちていた。三皇五帝から盤古の天地開闢伝説まで、中華古族のひとつひとつの歴史を語るにあたり、彼はすべて自らの手で捩りだしてきた。言葉は滔滔として途切れることは無かった。老いても、記憶力の確かなことは、驚くばかりである。人を倦ましめず、彼にとっては平凡なテーマについても、忍耐強く細かに話してくれ、聞くものを感動させた。
 部屋に戻り、正式に始まったとき、彼は襟を正し、ぴんと背筋を伸ばし、両目は知慧に満ちた温和な光を発した。私は忽然と覚った。“深く掘り下げ、浅く表す”とは何を意味するか、を。彼の体中にある史学の知識の底の深さよ。広さよ。そして語るときのあの浅くて、身近で分かりやすさよ!これこそ、彼のことを指すのだと思った。
 今日もひき続き中華民族古史で、彼は家宝を披露するが如くに語りだした。
 
 漢の武帝の時、河西回廊に到り、新疆と朝鮮半島の中部と北部に拡大した。さらに貴州(夜郎国)と雲南を併せた。武帝の領土は大変広く、中華民族は成長拡大し、凡そ漢の領域に住むものは、みな漢人と呼んだ。実際、人の血統は非常に乱れた。漢人は単一の血統ではなく、多民族の混血したものである。
 漢の武帝は匈奴を破り、単于(王)の呼韓咸は、投降した。漢の宣帝のとき、匈奴は来朝した。元帝のとき、王昭君を呼韓咸に嫁がせた。この頃に、匈奴は投降し、漢に来襲しなくなった。
 この時、匈奴は南北に分かれた。南の匈奴は漢に投降し、一部は後に山西に到った。北に向かったのは北匈奴で、後漢中ごろに大将竇憲に敗れた。彼らは西に進展し、中央アジアに至り、更に西へ欧州に到った。現在のフィンランドとハンガリーは北匈奴の子孫である。
 これ以後、匈奴はいなくなった。南匈奴は漢化し、北匈奴は欧州人となった。
 
 (4)三国、両晋、南北朝
 三国時代に、中国は三分したが、これにも良い面があり、更に発展した。
 曹操は烏桓を破った。烏桓は鮮卑人。鮮卑人は元来シベリア人で、鮮卑というのはシベリアの音が変化したもの。彼らは熱河一帯を占領していたが、烏桓を内地に追い払った。曹操は烏桓を破り、東北に拡大していった。
 劉備の西蜀は南に拡大し雲南に到って、雲南と四川を一つにした。
 東呉は海上に発展し、朱勝駕を船に乗せ、海盗を掃滅し、台湾に上陸した。これが、中国が台湾と関係を持った初めだ。三世紀には呉が台湾に人を派遣し、占領した。ただ、呉が滅びたあと、台湾は誰も構わなくなった。
 呉は広東も開発し、名づけて広州と交州(広東の西部)とした。秦と漢の時代に、既に広東に入っていたが、たいして開発はしていなかった。三国時代にやっと同化した。
 晋が三国を統一した。但し非常に短かった。すぐ五胡十六国の乱が起こった。五胡が中華を乱した。一つは南匈奴で、山西地方で、さわぎを起こした。もう一つは羯で、南匈奴から分裂し、やはり山西で騒ぎを起こした。(山西には匈奴が多かった。);次は鮮卑人で(元はシベリア人)熱河地帯を。更には氐人が四川で戦乱を起こした。また羌人も甘粛、青海で乱を起こした。
 五胡はみな中原を取ろうとした。この十六国は黄河の北にいた。黄河以南は東晋に属し、南京を都とした。北朝の後魏は最強で、鮮卑人であった。大同に都を置いたが、後に黄河以南に発展し、洛陽に遷都した。
 北魏の孝文帝は、自民族をすべて漢化するように命じた。衣服も漢のもの、言語も文字も漢語、漢字とし、魏は完全に漢化した。姓も改め、拓抜を元とした。それ以降,二字姓を名のらず、一字の姓とした。同時に鮮卑族の一首領の吐谷渾は、部族を率いて青海に到り、遊牧に従事したが漢文を用い、自らの名字を族名とした。彼らはもともと東北にいたのだが、西北にたどりついた。
 (5)隋、唐、五代
 隋は南北朝を統一した。煬帝は一つ良いことをした。運河を連結し、南北の文化交流が容易になった。中国は古来、すべての川が東西に流れており、運河が開通し、連係が始まると、南北間を運行する河道ができ、南北の経済が大いに流通し、蘇州、杭州、揚州が商業の中心となった。運河は木材、食糧、塩、絹を南北間にきわめて便利に早く運ぶようになった。
 唐には太宗のとき領土が大きく拡大した。新疆は漢代には開発されていたが、郡県は置かれなかった。三十六国のままであった。唐代に郡県が置かれ、統治が強化され、開拓が進んだ。唐代には東北に安東都護府が置かれ、朝鮮を
治めた。新疆には安西都護府が、越南には安南都護府が置かれ、以後、越南は
安西と呼ばれた。内蒙古に安北都護府が置かれ、唐の威勢は最強を極めた。全世界からあらゆる人たちがやってきた。アラブ、ペルシア、東南アジアの人はすべて来た。唐の領域は漢に比べてずいぶん大きくなった。
 唐代にチベットと関係が始まった。チベット、即ち蔵(ツアン)はもともと羌(チャン)の支族で、本の名を発羌(ファチャン)と云い、蔵人は‘発’の字を‘撥’(ホー)と発音した。‘大’の字を‘吐’(トウ)と発音した。それで
‘吐番’と称した。‘番’の字は‘撥’(ホー)と読む。唐の太宗は、文成公主を蔵王に嫁し、多くの工匠を随行させ、多くの種を持たせた。吐番が工業農業を興すのを助けた。音楽家も伴い、音楽を伝えたので、ポタラ宮は今にいたるも唐楽を演奏する。これで、唐と西蔵は甥と舅の関係となり、この後チベットと中国は親誼を結んだ。
 唐代には外国人が多くやってきた。彼らが中国にきて最初に上陸するのは広州で、それで広州は繁栄し始めた。こんなことから、広東語には唐音が最も多い。広東人は自らを唐人と称した。華僑は海外で集まって住み、そこを唐人街と称した。
 唐の時代に開発した領域は過去最大となった。
 五代になると、もうだめになった。後梁、後唐、後晋、後漢、後周を五代という。漢人の朱温が唐を簒奪、後梁を建て沙陀人(新疆)の李存勛がそれを滅ぼし、後唐を建て、沙陀人、石敬瑭が契丹(熱河にあった)の助けを借りて、後唐を転覆し、後晋を建て、沙陀人、劉知遠は契丹が後晋を滅ぼすのに乗じ、後漢を建て、漢人、郭威はそれを倒して後周を建てた。この間五十三年に過ぎない。しいて言うなら、五代は何も破壊しなかったが、まさにデタラメであった。ただ、この時代、文化面で少しの進歩があり、古書を木刻して印刷した。馮道、彼は三朝の元老で、これは良いことをしてくれた。
 (6)宋、遼、金
 宋の領域は狭くなった。統一王朝の中で最小である。秦と漢に比べても、唐に比べても一番小さい。宋は東北を放棄し、河北の北部、即ち燕雲三十六州も放棄、すべて契丹人(熱河を元居住地とした)に与えた。宋の太祖は南方、大渡河以南の土地を、版図から切り取り大理国に譲った。
 宋は遼を最も恐れた。遼は契丹人の国で、このころ既に東北を占有していた。宋は毎年、金銀絹などを遼に贈らねばならなかった。それで契丹はますます強大となり、宋に対して常に戦をしかけた。それで、楊家将(訳者注;京劇で有名な将軍で、李陵の碑に頭をぶつけて自害する敗将、京劇では負けた方が主役の場合が多い、そして悪役すらも主役となる)の物語も、山西一帯で起こった。遼は前後約百年。宋と遼は常に戦い、宋が負け続けた。遼は大国となり、全東北を占有した。
 金が起こってきた。金人は満人の祖先で、吉林等にいた。金人は遼の圧迫が余りに過酷なので、反抗に立ち上がり遼を滅ぼした。即ちこれで、満人が鮮卑人を破ったという訳だ。金は次いで宋に攻め込んだ。徴宗のとき、皇帝はただ書画と玩楽を好むのみであった。それで宋は滅んでしまった。北宋は、初め開封にいたが、高宗は圧迫されて、南宋を建て杭州を都とした。宋と金は淮河と秦嶺を境とし、後には宋は金の臣と称した。金は百年もたずに終わった。
(7) 元
 ほどなくして、蒙古が起こった。成吉思汗は外蒙古にいた。人間は北にゆくほど勇ましくなるし、馬も北にゆくほど駿馬になる。蒙古はもともと小部落だったが成吉思汗の東戦西征の結果、大国となった。
成吉思汗は中国を攻めず、西の西夏、即ち寧夏を攻めた。ここには当時チベット人と羌人がいたが、あっという間に西夏を滅ぼした。更に中央アジアに攻め込み、ロシア、モスクワを制した。それまではロシアは統一されていなかったが、蒙古が攻め込んで統一された。
成吉思汗は四つの汗国、即ち王国を建てた。東北に一つ、蒙古に二つ、中央アジアに一つである。これが北氷洋以南(含むシベリア)、長城以北、東は朝鮮を除く東北、西は東欧までの広大な領土を、すべて彼の統轄下に置いた。
成吉思汗の孫、フビライが中国を倒した。北京に建都し、元と称した。先の四大汗国は彼の管轄外であった。彼はただ中国と東南ア(インドネシアを除く)、
インドシナ半島と朝鮮もすべて彼の領土とした。元の版図は実に巨大であった。
 元代は蒙古人を首に、色目人が第二(すべての外国人、ペルシア人、アラブ人、イタリー人など)で、漢人は第三に属し、南方人(淮河以南人)は第四列にされた。元の種族圧迫は甚だしく、漢人の反抗もまた、最も激しかった。八十余年後、漢人朱元璋が立ち上がり、元を滅ぼした。
 マルコポーロが中国に来て、欧亜大陸がつながった。総じて云えば、元の良いところは、一つには戯曲が発展したこと。二つには欧亜が通じたことである。
 (8)明
 明の国名は、明教から来ている。明教とはペルシアのマニ教である。朱元璋は元を蒙古に追い返した後、明を建てた。朱元璋の子、明の成祖は万里長城を再建した。それまでの長城は土造だったが、宋以後、煉瓦を使い出し、成祖は全て煉瓦にした。
 明の領土は元より小さい。朝鮮も、内蒙古も入っていない。長城の外は明の領土ではなかった。チベットは明の時代、烏思蔵(ウスツアン)と称し、烏思蔵都指揮使司を置いた。チベットのラマ教は、元代に漢人に伝わった。
 明代は新たな領土を開拓しなかった。十八の省のみだった。雲南には土司を置いて治めたが、安南、ミャンマーは進貢しただけだった。
 明代の移民活動は大変活発で、内地各省から雲南に大量の人が移った。それで雲南語は今でもよく通じる。明のもう一つの大きな成果は、鄭和太監の西洋遠征ある。まず南洋に向かった。南洋の島国はすべて訪問した。インドネシアの多くの地方を尋ねた。これが華僑への道を開いた。その後、広東福建の人が南洋に渡ることが更に多くなった。
 (9)清
 清の版図は大変大きく、元以後では清が最大である。清の時代は新疆が入った。新疆は、宋の時に放棄され、清が改めて開拓したので新疆と呼ばれた。康熙帝のときに開拓され、乾隆帝が命名した。
 清代にはチベットを開拓した。明以後、チベットは政教合一を実行し、ラマが政治を執り、王はいなかった。清代になってラマの活仏が死ぬ前に、最後に手を上げて、その指さす方向、はるか遠方にこの時に生まれた子を探し出し、抽選でどの子を活仏の後継にすべきか決める。しかし抽選する人は清人で、それで清は宗教権を握った。清朝は直接統治はせず、ラサに弁務大臣を置いて、政事を行った。チベットには廟があるのみで,王はいなかった。
 蒙古に対しても同様に、宗主権を得た。蒙古には王がいた。清朝は蒙古にも弁務大臣を二箇所に置いた。蒙古の盟族は政事を行ったが、清朝は旗内のことには口出ししなかった。
 清は懐柔政策をとり、常に公主を蒙古の王に嫁した。そして都統を置き、軍事を執り、一つは綏遠にもう一つはチャハルに置いた。この両区は清代にはいずれも蒙古の範囲であった。
 清は新疆に伊梨大臣を置いた。
 清人は金人で、彼らは自ら後金と称した。山海関に入る前、ヌルハチの子、清太宗のとき、清と改名した。清人は清明の二字を連想し、清は明の上にあるとした。
 満州は地名ではなく、仏教の尊号、“曼珠”で、これが変じて満州となった。清の統治は非常に巧妙であった。所管する臣民は漢人が第一、満人が第二、次が回族、更に蒙古、チベットと続く。漢、満、回、蒙、蔵(チベット)の五族。
満以外の各族の統治はすべて懐柔政策をとった。
 満人は統治者として官には簡単になれたが、商、農、工には従事できなかった。官給の食糧に頼るほか無かった。大臣になれば、自分の好きな土地を囲って、地主になれた。満人は山海関内に大量に入ってきたが、就労しなくても食べて行けると考えていた。しかし、後になると、官に就いているものはまだしも、一般の旗人は、生計を立てられず、非常に苦しい生活を強いられ、婦女子は妓女になるものが頗る多かった。
 清朝は漢人には科挙を採用、彼らの利益を保護した。不満分子は文字の獄で
捕らえた。康熙、雍正、乾隆三代に起きた文字の獄はきわめて多かった。経済的には満人はあまり関わらなかったが、政治的には大いに圧迫を加えた。
 蒙古、チベットに対しては、できる限りラマ教を提唱し、一家に二人の男子がいれば、一人はラマにさせた。その結果、蒙古チベットの人口は年々少なくなっていった。蒙古は百十万人にまで減少した。チベットは二百万に過ぎなくなった。
 回教は唐時代に始まり、アラブ人と共に伝わった。唐以前は仏教を信じていただけだった。回紇族は南北朝時代に増えたが、彼らは後のウイグルである。彼らはイスラム教を信じていたので、回教と名づけられた。アラブ人は最も早い時期に新疆に到来した。
突厥。唐代には突厥が強大な勢力を持ち、蒙古地帯を占有した。その後非常に早く変転し、東西に分かれた。一部はモンゴルに同化し、一部はウイグルに同化した。土耳其は、元は突厥で、外国人はかつて、新疆を土耳其斯坦(トルキスタン)と呼んでいた。新疆人の背の高さなど、西方人に似ているのは、突厥人の子孫の故である。彼らは西にはトルコを建てた。
匈奴は何族に属するか。論争がある。蒙古族という人もおり、突厥だという人もいる。蒙古族自体は一小部族にすぎない。彼らは成吉思汗以後、発展し、多くの民族を受け入れてきただけにすぎない。

顧老は歴史を語りだすと、話すにつれて興が増し、内容も濃くなってくる。先生は本を携えているわけではなく、要綱を見ながら話すのでもなかった。しかるに彼の話は、より広く、深く、細かく、かつ前後呼応して条理があり、大変ロジカルであった。私は平生、人の話を聞く機会が多いが、こんなに博識で、専門的で学問的な話を聞くのは始めてであった。大学者というのは、かくも厳密、精緻で、記憶もかくも明晰なものなのであろう。

3.各民族神話の祖先
 12月19日。香山は北京の西山のとても幽美で秀麗な丘陵である。ここにかつて、乾隆帝の行宮が置かれたことがある。山を巡って、青翠の松柏が地を覆っている。十二月、厳冬の季節、松林の碧緑に紅の楓の葉が映じて、この上ない美景を楽しませてくれる。
 我が療養仲間は。翠の松、楓の葉の間を抜けて、峰まで上ってゆく。私は知識にかつえ、顧老のお伴をして漫歩する。また仏教大師の趙朴初老詩人と、大画家呉作人のお供し、林の小径での話しを傾聴する。療養室に戻るとすぐノートにかかる。それで、日記風のノートが貴重な宝の蔵となる。顧老の史学の講談が最も多く、最も系統だっており、もっとも珍重かつ貴重な宝庫である。顧老の勉学精神は、青松の堅強な如く、彼の学術成果は極めて豊かで大きい。日記には、この日のことを、こう記している。
(1) 盤古
 盤古は南方諸民族の神話中の神で、斧で天地を開闢したと伝える。苗人の神話が、漢人に受け継がれたものだ。彼は一部族の祖先ではなく、すべての苗族と瑶族たちの祖先である。苗族の居住地には盤古の廟があり、祭日には必ず彼を祭る。各部族、各支族で、それぞれ毎年盤古を祭る。
 苗族と瑶族の人たちは、後漢以後南に向かった。彼らは元は湖南にいたが、
楚によって追い出された。苗族は現在も湖南の西部に住んでいる。およそ田植えのできるところは、すべて楚と其の後にやってきた漢に占有されてしまった。
(2) 三皇五帝の各種の説
盤古に次いで、三皇がいる。戦国時代の三皇は、天皇(テンコウ)、地皇、泰皇だった。これは秦代の説である。そのころ、人々は、地位は無く、三皇は神であった。漢になって変わった。三皇は天皇、地皇、人皇となった。
秦の始皇帝のとき、彼は自分の称号を皆に論議させた。皆は言う。古人曰く、三皇の中で、泰皇を最も貴んだ、と。秦王はそこで皇帝と称したいと云った。皇帝とは三皇五帝をつづめたものだ。それで尊称が決まり、始皇帝となった。
「楚辞」に、東皇、西皇を用いており、これは上帝の意である。道家の説では、天、地の上に道(どう)がある。道、即ち太一(たいいつ)である。秦皇を至尊とする。道家は、天地の先は混沌であると考えていた。この説は、盤古の天地開闢と天地の先、天地の上という説と統一化されてきている。
 漢代になると、天、地、人の三才となった。才とは材で、根本の意。すべてのことは一切、この三才に源を発しているとする。人は、天と地の間にある。この時、即ち漢代になってはじめて人がでてきた。これは人の力が非常に大きくなったことを示している。天と地を変えるほどの力を持つようになった。後に、天皇は、十二の頭、地皇は十一の頭、人皇は九つの頭を持つという説も現れた。これは二つの意味があり、一つは、天皇は十二個の頭を持ち、地皇は十一個の、人皇は九個のという説。もう一つは、少し理性的なもので、天皇は十二代続き、地皇は十一代、人皇は九代というもの。
つらつら思うに、歴史上、実際には三皇などというものはいない。三皇の説は、人が理性の上で、考え出したものに過ぎない。三皇の説は、清朝に至っても、何の変化も無かった。
五帝については、古代の三冊の書に、三種の説がある。
第一 <五帝徳>は<大戴礼>中の一篇。その説では:黄帝、顓項、帝告(栄の上冠をつける)堯、舜。これは司馬遷の<史記>に採用された。
第二 <易伝>では;庖羲(漁狩を代表)、神農、黄帝(社会制度を)堯、舜で、この説は少しく理性を加えた形。
第三 <月令>、<小戴礼>(<礼記>)の一篇で:太昊、炎帝、黄帝、小昊、顓項である。
 以上の説には、すべて黄帝がおり、第一と二には堯と舜がいる。
 <尚書>の<堯典>に、堯と舜に触れ、<帝典>とも称されている。後人は孔子の編纂した古史書を<尚書>といっている。これは古代の史官の記録だと。
孔子は黄帝を信ぜず、ただ堯舜以下の歴史について記した、と。かくして、孔子の後、三皇はくつがえされ、歴史は堯舜以降となった。近代になって康有為はそれも否定した。孔子は、堯舜の昔に託して制度改革をせんとしたが、実際には堯舜はいなかった、と。ここまで話すと、五行説との関連が出てくる。
五行相克説は戦国時代に始まった。漢になると五行説に発展した。
また、五行相生説というのは、下図の通りだ。

 上図が五行相生説。宇宙の万物を木火土金水に帰せしめた。



五行相克説は次の通り。 

 五行相克説はいくらかの科学性はあるようだ。科学の根源でもあるが、迷信の始まりでもある。占いはここに源を発す。漢以後、五行説をとったので迷信がはびこった。なんでもかでも五行にこじつけた。
 五行相生説以後、漢の<小戴礼>の<月令>に、皇帝以下、民百姓の月々にしなければならないことが書かれている。すべて事は五行の順序に従え、と。
 例えば、太昊(木、種)は春で、東にあり、炎帝(火)は夏で南に、黄帝(土)は土王が事を行う。季ごとに十八日、この間に一切のことを為せ、と。土は四季に分かれた。少昊(金)は秋で西に、顓項(王偏)は(水)、冬で北に、といった具合だ。黄帝は中央にいて、四時いつも居て、最高の位にいる。
 前漢時代、この説はたいへん盛んだった。およそ、死刑執行するのは秋と決められた。少昊のためで、金は秋に使われたから。当時、春生、夏長、秋殺、冬蔵と言った。
 前漢末に劉歆が出て、五行相生説をつかって、上述の五帝説と結び付けようとした。彼の説は;
 一.太昊伏羲氏  木
 ニ.炎帝神農氏  火
 三.黄帝軒轅氏  土
 四.少昊金天氏  金
 五.顓項高陽氏  水
以上が第一の五行。
 六.帝誉(中は告)高辛氏 木
 七.帝堯陶唐氏 火
 八.帝舜有虞氏 土
以上が第ニの五行。
 これすなわち、劉歆の説。彼はどうしたわけか、五帝を八帝にしてしまった。後漢の光武帝劉秀は、みずから上帝より赤伏符を受けたといった。これは火である。従って、漢は火徳である、云々と。曹丕は帝と称した後、年号を黄龍とし、みずからを土徳とした。この劉歆の説はのちのちまで伝わり、清朝にまで続いた。
 今日整理してみると、こうなるのであろう。
 伏羲氏;ある社会時代を示し、太昊は天神で人々が天神を拝むという寓意。
 神農氏;また別の社会時代。
 軒轅氏;これも別の時代で、車が作られ始めた。
 これらは文字史料の残っていない歴史で、根拠はなく、人々の推測による。
戦国時代になると、韓非子が出、彼は巣氏、燧氏の説もあると唱え始めた。これもみな推測で、社会を人格化したものだ。<尚書>の中の伝説には推測がある。
 中国人が火を使い始めて、4-50万年になる。はるか昔、たくさんの部落があり、それらを統一した皇帝はいなかった。
(3) 夏、商、周の伝説と歴史
現在の中国史では、夏、商、周の史料しかみることはできない。夏は周の文字史料にわずかに見られるが、夏の時代の器物の証拠は発見されていない。文字史料では商以前に、夏が存在したことは間違いない。夏以前のことは、何も言えない。
 夏の時代、王を后と称していた。夏の王に相という者がいた。また名を皋というものもいた。<左伝>にいう。‘崤に二陵あり、その南陵は夏后皋の墓也’と。崤は山名で函谷関の西、陝西東部にあり。
 周はみずからを夏と称した。周と夏は一族の可能性がある。夏は西から来た。周も西から来た。南陽は夏人の居留地である。<史記>にある。夏は河南の西にあり、と。
 中華の二字は夏からきている。夏と華は同音であった。人は中間地帯にいたので、中華と称した。夏と周はともに西からやってきて、大国を建てた。夏は4百年。周は8百年続いた。非常に長い。長期間にわたって、西からやってきた民族が、中原の地にいた。それで中華というのだ。
 禹は夏の人たちが崇拝した神であろう。<尚書>に<禹貢>編がある。これは戦国時代の人が書いたもので、この一篇に地理を述べ、天下を九つの州に分けている。
 冀州;山西、河北。 兗州;河北、山東。 青州;山東東部。
 徐州;山東南部、江蘇北部。揚州;江蘇南部、浙江、江西。
 荊州;湖南、河南南部。豫州;河南。梁州;四川、陝西南部。
 雍州;陝西、甘粛。
以上の地域は戦国の七雄の版図である。
 <禹貢>は皇帝に進貢するために作られた。各地ごとに分けられ、各地区、
それぞれの経済地理状況、水陸交通路線についても、触れている。これは史書中でも、大変価値の高い一篇だ。これは古代から中国が統一されていたことを、信じさせるに足る。
 周時代、文字上に禹が登場する。中国の歴史にはまず神話があり、更に伝説と続き、そして歴史となる。従って、禹については二つの言い方ができる。
 一つは存在したという説。もう一つは存在しなかった、と。或いは、もともとその人は存在したが、伝説として神になった、と。或いは云う。もともとは神であったが、後に人間になった、と。
 要するに、黄帝、堯、舜は、歴史科学上で考えれば、全く存在しない。禹はいたかもしれない。いなかったかもしれない。黄帝、堯、舜、禹は将来甲骨文字の中から、証拠が発見される可能性はある。
 孟子は言う。舜は東夷の人、と。堯は舜に譲り、舜は禹に譲った、という伝説は、どのようにしてできたのであろうか。元来、古代氏族社会では、男が婿入りした。一代上の婿が酋長となり、彼はその次の婿に譲った。これは上古の民の譲位の残余を保留したためである。母系社会はもともと、母性が統治したが、後に女子の夫が統治するようになり、彼は娘の夫に譲るようになった。このようにして、堯が舜に、舜が禹にという伝説が生まれた。
旧社会のころ、8年の歳月をかけて三皇五帝の研究をして、ようやく成果を得た。私が商務印書館の教科書を編集していたころ、‘所謂‘という二字を使って、三皇五帝について述べた。戴季陶氏は国民党の要人で、これを見るや、これは中国民族の自信を喪失させるものだ、といった。それで、商務印書館に160万元の罰金を科した。後に人に頼んで、事情を説明して、おしまいにしてもらった。それは民国13年(1920年代)の事。私はすぐ燕京大学に移り、立て続けに、数編の文章を発表し、三皇五帝の考証を詳細に行い、結論を明らかにした。

 顧先生は、<三皇考>という専門的な本を著し、この点についての自らの研究成果を発表している。今彼の口述を聞き、このノートを手にし、私の心に記憶がはっきりと蘇る。これは実に偉大な学問だと感ずる。どれだけ多くの古書にあたり、どれだけ多くの古史資料を研究すれば、こんなに肝のすわった、認識に裏打ちされた発表を世に問えるのであろう。人をして驚嘆せざるべからざるものがある。


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中国史学入門 その2 序言

序言
 この本は顧先生の談話記録である。顧先生とはどんな人か。中国の史学界、学術界では有名だが、青年読者にはなじみが薄いかもしれない。友が、この序のために、略歴紹介用に、史学家の白寿彜氏の<顧先生追悼>と<顧先生の主な学術年表>を呉れた。後者は“顧先生追悼学術報告会準備委員会”が1981年に作ったもの。
 この両編を主軸に、先生の人となりと業績を以下にまとめた。
先生は我国の著名な史学家で、蘇州の人、1893年生まれ。1980年北京で逝去。享年87歳。4歳で<四書>7歳で<五経>を読み、10歳で毎日一篇の文章を書き、経義、史論、策論を書いた。11歳<綱鑑易知録>を読んだ。20年北京大学卒。同校の助教に。その後、広州中山大学、北京燕京大学、北京大学、及び雲南大学、斉魯大学、中央大学等の歴史学教授を歴任。私は、数名の歴史学の専門家から“顧先生は私の恩師“”私は顧先生の授業を受けた“という話を聞いた。彼は我国史学界の人材育成に重要な貢献をした教育家と言えよう。
 史学家白寿彜氏は‘顧先生は史学家として、古代史研究に卓越な業績を残し、歴史地理学と辺境地理学に、新たな発展をもたらした。民俗学と通俗読本の熱心な普及者であった。又、顧先生の史学に対する見解は、数十年来、史学界に大きな影響を与えた。“と言う。そして“先生は中国近代史学史上、たいへん素晴らしい業績をあげた歴史家で、学術面で貴重な遺産を残し、国内外で大変な名声を勝ち得た“と云う。
 以上が我国史学界の彼に対する公論である。以下に彼の非常に多い著作に一部を記す。
23年 <詩経の厄運と幸運> <銭玄同と古史書を論ず>
24年 <孟姜女の故事の転変>   
25年 <詩経に収録されたのは全て楽歌> <妙峰山香会調査>
26年 <古史弁 第一冊自序> <秦漢統一の由来と戦国時代人の世界に対する想像>   <春秋時の孔子と漢代の孔子>
29年 <周易卦爻辞中の故事>  
30年 <中国上古史研究講義><五徳終始の語る政治と歴史>共に編著
31年 <堯典 著作時代考>
32年 <呂氏春秋 より老子の書かれた年代を推測する>
33年 <漢代学術史略>(後に<春秋方士と儒生>と改名)
35年 <戦国、秦、漢、時代の人々の偽造と儀弁> <王粛の五帝説及び、其の鄭玄の感生説と六天説の除去工作><三皇考>
39年 <中華民族史はひとつである>
 40年 <燕国はかつて分水流域に遷居考>
 61-66年 <周公東征史事考証>を著述。
 62年 彼自身の<尚書・大誥 >現代訳>摘要発表。 
 78年 旧作<荘子と楚辞の中の崑崙と蓬莱両神話系統の融合>
     <周公制礼の伝説と「周官」の出現>を整理。
 79年 <“聖”“賢”の観念と文字の演変> 旧作<古籍より我国の西部民族― 羌族を探索する>と<巴蜀と中原の関係>の整理。
     <尚書 校釈訳論>を発表開始。
 80年 旧作< 禹貢の中の崑崙> < 禹とその後継者の世界観>の整理。 
     <顧頡剛古史論文集>第一集、<孟姜女の故事研究集>の編集改訂。

 さる老史家が語る。“顧先生は<古史弁>で一家を成された。”所謂<古史弁>は先生が仲間と古史を研究討論した論述を編集したもので、前後8冊。彼はこの考証弁論を1920年から始めた。例えば、彼の著<古史弁>第3冊は<周易>と<詩経>を論じたもので、第5冊は経学の今古文問題を論じ、第7冊は神話と伝説時代の古史を論じたものである。
 先生は古史を考弁する活動展開の中で、独特の見解を見出すに到った。例えば、時代が後になればなるほど、伝説中の古代史の期間が長くなっていった、と考えた。周の人々の心の中には、最古の人は禹であった。春秋時代、孔子の時には、最古の人は堯であり舜であった。その後、戦国時代になると、もっとも古いひとは、更に古い黄帝や神農となった。時代が秦になると、黄帝より古い三皇となった。漢代以降、人々はもっと古いのは、盤古だと言い始めた。
 顧老は古史の記載に対する見方について、古史独特の伝統的な言い回しがあると考え、これを必ず打破せねばと決心した。例えば、古代神話中の人物の‘人間化’の極みに、“古代は黄金時代であった”とする信仰的な考えがあると直感した。実際、春秋戦国以後の古代観念は、春秋以前の人々はそれを持っていなかった。所謂“王”とは“尊い”という意味しかなく、善いと言う意味は無かった。戦国時代の政治家は、古代の王に託して、其の当時の王を圧服せんとし、“王道”と“聖功”(功績)を合体させようとした。そこで、古代の王の道徳功績を誇張して持ち上げた。彼は、五帝や三皇の黄金時代は、戦国以後の学者が造りだしたもので、時の君王に範を垂れようとしたのだと考えた。
 古史を考弁するとき、顧老は1922年以来、なぜあれほど熱心に<尚書>を研究したのか。我国の封建史学体系が、主に戦国時代から前漢の儒家たちによって完成されたためだと痛感したからである。儒家たちの手で、堯、舜、禹、湯、文、武、周公という一連の古史が確定されたのだ。この時期の儒家たちは、主に<尚書>によって古史体系を造りだした。この封建史学体系を毀とうとするなら、<尚書>の経学的地位を壊さねばならない。
その本来の面目を覆っている迷霧を払わねばならない、と考えた。それで、顧先生は実に一生の大半を<尚書>の整理と研究に投じられた。先生は<尚書>関係の膨大な資料を探し集め、多岐に亘る探索を進め、数十冊の厚い筆記録を作った。そして十分な論証で以って、儒家が<尚書>を使って編成した古史の系統を揺るがせた。(白寿彜著<顧頡剛先生追悼>より引用)
 顧老は我国近代史壇の大御所である。学術上の貢献も大きく、広く影響を与えた。政治面ではどうだったかについても、触れねばならない。
 私に抗大二期の同級生がおり、抗日戦争以前からの古い党員で、王念基という。彼に依れば、顧頡剛は“12.9”運動の前後、我々の秘密党員と往来があった。この党員は常日頃、わが党の抗日救国の宣伝文を書き、顧頡剛の主幹する“通俗読物編刊社”が発行する小冊子と、顧老が編集する<大衆知識>に発表していた。顧先生は燕京大学歴史系主任の立場で、彼が社長を務める“編刊社”で、わが党の活動を援護していた。そしてわが党員を保護していた。こうした事実は、自らその経験を経てきた老党員が、解放後、何回も回想文に記述している。抗日戦前の老党員の名は、郭敬という。彼は未発表の追悼文の追記に次のように述べている。
 “双十二変後、編刊社は中国共産党の内戦停止、一致抗日の呼びかけを擁護した。”“私と社内の数名の党員と民先隊員は、顧先生の名義で招請された。編刊社の力を充実させ、党と団員の活動を援護し、党員と民先隊員が白色テロの下で、編刊社を利用して、秘密裏に活動できる場を提供した。顧先生は当初彼らが共産党員とは知らず、ずっと後になって初めて知ったそうだ。
 “顧社長は博識で、著名な史学家で、抗日救国と大衆への宣伝教育事業に熱心に取り組んでいた。普段は社内にいないが、社は彼の指導と支持なしには存在できなかった。人や物事に接するときの物腰は、たいそう柔らかく、親切で、社内の青年たちを門弟と見、仕事のやり方は、身をもって範を垂れた。社の存続と発展のため、南京政府関係当局とも、何らかの接触をせねばならなかったが、国民党蒋介石に投降して、反共的行為を行うのは反対で、中国共産党が主張する抗日民族統一戦線の政策に同調的であった。彼は大変慎重で、南京政府の文教主管に編刊社出版の見本を送るとき、<団結して侮りに対し、一致して抗戦を>というような進歩思想の宣伝小冊子は、送らないように指示した。そんなことをしたら、すぐ迫害、発禁になることを知っていたからだ。
 “通俗読物編刊社”の前身は、顧先生が創立した“三戸書社”である。九一八、一二・九から、抗日戦争まで、顧先生の努力で各種の小冊子を、五、六百冊出した。<傀儡皇帝龍廷に坐す><義勇軍女大将 瑞芳><漢奸を打つ>など。38年には西安に移り、<八路軍平型関に戦う>と八路軍<陽明 を焼く>などの小冊子を出した。(郭敬同志追悼文)これら小冊子は5千万冊ほど出て、広範な読者を得、大きな影響を与えた。
 九一八で日本帝国主義が我東三省を侵略後、顧老は燕京大学教職員学生抗日会に参加した。彼は“三戸社”を主催、“三戸”とは、楚は三戸といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚也、の意。通俗読本の形で日本帝国主義侵略への反対宣伝を行った。これらは、九一八事件や、一二・九運動中、抗日戦前夜の政治局面と進歩活動における顧老の立場を証明している。社会的地位のある学者にとって、当時の歴史的条件下では、大変難しく、貴重なことであった。
 顧先生は25年の大革命時、五三十運動時、<京報>に<救国特刊>を書いた。<上海の乱はどのようにして起こったか>と<傷心の歌>を書いた。
 19年、顧先生は五四運動の影響を受け、新潮社に参加し、<旧家庭についての感想>を、顧誠吾の名で<新潮>に発表した。中国近代史上、いくつかの大きな人民革命運動があった。19年の五四運動、25年の五三十運動、31年の九一八後の人民抗日救国運動、35年の一ニ・九抗日救亡運動、37年の抗日戦争など、全て大きな人民革命闘争である。顧老は上述の革命の潮流の中、重要な歴史の節目、重大な人民闘争の中で、重要な進歩的活動を行った。書斎に埋もれていただけではなかった。
 解放後、中国共産党の指導者を擁護し、自覚的にマルクス主義を受け入れ、社会主義制度を愛した。中国科学院歴史研究所研究員、中国史学会理事、中国民間文芸研究会副主席を歴任し、全国政治協商会議第2、第3回の委員と、第4、第5回の全国人民代表大会の代表となり、民主促進会の中央委員に選任された。54年に<資治通鑑>の総合校訂をし、55-57年に<史記>の校訂評点をした。71年に彼と数名の史学家は、中央の命を受け<二十四史>の校訂評点を主幹した。
 私は66年の春以降、彼に会う機会は無かった。その後、さる史学家に彼のことを尋ねたことがある。‘文化大革命中、顧先生は無事平穏に過ごされましたでしょうね。毛主席や周総理の命を受けて、<二十四史>の校訂を任されていたのですから’、と。答えは何と!‘とんでもない、顧先生は文革中、とても過酷な批判を受け、それは大変な目にあわれたのです。残忍な仕打ちで、残酷な目にあいました。’私は卒然とせざるを得なかった。この‘粉砕・破壊’の大災厄は、我々のような‘党内走資派’を追い落とそうとしたのみならず、顧老のような大学者も許すことは無かったのだった。
 幸い、顧老は、殺されはしなかった。71年、改めて<二十四史>の校訂を主幹した。80年、死の直前まで87歳の高齢を押して、数冊の学術著作を整理編集された。私は元来、顧老を存じ上げなかった。30年代に彼の輝かしい名声は聞こえていたが、65年の冬から66年春に、私は顧老先生など老専門家、老党員と、北京香山療養院で一緒だった。其の間、この得がたい機会を捉え、毎日彼に教えを請うた。老先生は話し出すと、興に乗り、以後予約をしてくれるまでになり、毎日午前、彼の病室で対面講義となった。連続二十余回の講義であった。話は全て古史であり、史書と史学であった。一部は私の問いへの答であったが、大部分は老先生が一つのテーマを決めて話された。私は熱心な学生となり、彼の一言一句も漏らさず書き留めた。私の筆記のために、特にゆっくりと話してくれ、滔滔と高論するというより、おもむろに語りかける形であった。ノートはだんだん厚くなり、綱目もつけ、条理をたて、立派に完成された体系となった。
 最後に先生は語った。‘あなた、これを編集出版してはどうかね’と。その時の私の本意は、ただ少し史学の知識を学ぼうとしただけであって、私はまだ現役で、自分の職場があった。又、その能力もないし、編集する時間も無かった。それでその時は‘はい’と答えられなかった。
 16年たち、ある党員が‘これを整理編集すれば素晴らしいよ’と勧めてくれた。それで私は始めることにした。私の唯一の願いは、この本が、若い史学研究者たちに、又歴史を教える若い人たちに、刻苦勉励して、歴史を独学しようとする人たちに、少しでも役に立てたらと思う。
 そうなれば、顧老先生の願いにいくぶんかでも、応えられるかもしれない。彼は当時私にこれを編集出版してくれないかと、望んでいたから。私はついに私の力を尽くして、この使命を達成した。惜しいかな、顧老先生はもうこの世にはいない。この本に目を通していただくことは、かなわなくなってしまった!
                   何啓君
                   1982年6月9日、北京にて

      前言
 この本の出版以後、日本語訳が出され、香港でも刊行された。英訳もされたと聞いた。惜しいことに、大きな部分が欠けていた。原因は編者の漏れである。これは不幸なことであった。
 92年7月、古いノートを整理していた時、忽然と褐色の冊子を見つけた。65年に顧先生が私に講述された95頁の中華古史が記されていた。これは重大な発見で驚いた。めくってみると、これは前に出した藍のノートより重要である。<入門>と書いてある。これを増補してこそ、前の本に真価を与えるものだ。なぜこんなことが起こったのか。‘文革’と関係がある。私は65年に聞いたものを、80年になって藍のノートの整理を始めた。その時、十数年前に講義録を二冊のノートに記していたことを、すっかり忘れていた。文革の前に書いたもので、文革後に藍のノートしか発見できなかったのだ。それから又十数年たって、褐色のノートを発見したのである。この発見は偶然、新しい宝を見つけたようなものだ。読者には新しいニュースだ。編者にとっては新たなる貢献。私は大変喜び、幸運に感謝した。
 この二冊は全て、往年、尋常ならざる日々に、尋常ならざる記録を残したものである。この二冊を合本してこそ、真の完璧といえる。褐色ノートには、中華民族の縁起と成長が主に書かれている。ここには、古族、古事、古人、古文字、古書、古神話、古故事、古器物、古文学、古詩、古代の物語など興味の尽きない事柄が詰まっている。
 この中には、顧先生が生涯、心血を注いだきらめく結晶があり、老先生の中華民族の遠い昔の先人への、深い探索を物語っている。顧先生の深淵かつ精緻な面を示している。この高名な史壇の巨人の、古史に対する情熱と通暁、及びその旗色鮮明、かつ独特の見解を提示している。これは歴史唯物主義の史学研究の成果である。その談論は、遺辞造句であっても、精緻な推敲を経ている。例えば、中華、上古の各族の分離合体についても、非科学的な言辞を弄したりはしていない。
 整理人として、原ノートを整理するにあたり、十分注意して、類型化したりせず、また格式を踏み外さないように努めた。顧老の本来の言葉、元の意味、原色、原味を失わぬようにした。言葉を写すのは、本人の口から出た言葉と同じにはなり得ない。数十年前の言葉を、読者が見て分かるようにするには、一字の誤りも一句の間違いも無いというわけには行かない。
 編集の過程で、中華民族の悠久な歴史と文化に対し、自慢と光栄に感ずるところがあるとすれば、読者の同感も得られるものと信じる。又、史学研究家と一般の学者も‘他山の石以って玉を磨くべし‘と感じるかもしれない。この本が皆さんの研究に役立てばと切に思う。
                何啓君
                1992年8月秦皇島の海浜にて







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予言に擬して 

1929年に起こる瑣事を書いてみる。
 市民甲某が各県に大学を設置し、同時に監獄2か所を併設するよう提案したが却下さる。(大学生のデモでの逮捕者が大勢でたことからか)
 市民乙某が共産主義者の財産を共有とし、女性の眷属を共有の妻とし、一罰百戒とするよう提案。半年間批准されず。乙は怒って反革命したが、親友に告発され租界に逃れた。(共産主義というのは、財産を共有するという考えから
出たわけだから、女性の家族を共有財産にせよと、本気で言うものも出たのか)
 大勢の名士学者および文芸家が外国から帰国。外国のすべての政治風俗学術
文芸について本国より造詣が深いことで学位を受けた。ただしその中でも最も
秀でた者も学校には入っていない。(外国の著名大学で学位を取ったという学者も実は入学すらしてもいないことを皮肉るものか)
 科学文芸軍事経済の連合戦線成立。(20年前の四つの現代化の先駆けか)
 正月元旦、上海に多くの新しい雑誌が出版される。規模の最も大きなものは
――文芸又復興。文芸真正老復興。宇宙。其大無外。至高無上。太太陽。光明之極。白熱以上。新新生命。新新新生命。同情。正義。義旗。刹那。飛獅。地震。阿呀。真真全日。…等々。
 同日、米国の富豪たちが連名で北京の石炭ガラ拾いの老婦等に年賀電報を出し、「同志」と呼びかけたが、受取人該当なく翌日返送。
 正月三日。哲学と小説が同時に滅亡。
「一我主義」提唱者がほとんど禁固されるところで、取り調べ結果、新たな異端でもないとして詮議の要なしとして放免さる。
 市民丙が「党を以て国を治めるべし」と言い。即批評家たちから「すでに久しい前からそうであるのに、何を今さら、大局をつかんでない馬鹿なうすのろ」
と痛罵さる。(21世紀の今日、まさに一党専制体制で以て国を治めている)
 青年男女41,926人失踪とのデマ。
 蒙古が赤いロシアに近づき、五族から出ることが公に決まり、在華白系ロシア人が補欠となり、「五族共和」を保ち、各界は提灯祝賀す。
「小説月報」が「世界文学に入った2周年記念」号出版。年間購読者に優待券一枚送り、定価も85%にした。
「古今史疑大全」出版さる。名士学者の書信封書の往来で批評頌辞(褒め言葉)
合計2,500通。編者の自伝が250余ページ。広告が「芸術界」に載り、切手代を計算に入れなくても、大変な金額となる。(論敵への揶揄か)
 米国で「玉堂春」の映画上映。バビット教授評して、決してルソーの及ぶところではない由。
 中国のファウストが同情から郭沫若を訪ねたが、郭のあまりの貧しさに失望して去る。(中国のファウストを自称した、かつての弟子への罵詈)
 与党の数名が下野し:在野の大勢が坑に下った。
 誘拐公司の株が3.5倍に上がった。(当時は身代金誘拐事件が頻発した、私の
知人の兄も戦前、天津で誘拐され身代金を払ったが、死体で帰ってきた)
 女子の世界で乳房が大きいと切られるおそれあり、元のように胸をきつく締めつけだしたので、良家の多くは洋銀50元の罰金を払わされ、国庫は潤沢。
 (当時ノーブラが提唱されたが、乳房を切られる事件が多発した)
 ある博士「経済学精義」を講じるに、ただ2句のみ。曰く:「銅銭は十銭に換え、十銭は大洋銀に換えろ」と。全世界敬服。(馬寅初が唱えたもの、彼は後に
毛沢東に人口抑制を勧めたが、却下され、12億に激増という結果となった)
 ある革命文学家がひと言でマルクスの学説を覆す。「何がマルクスか牛クスだ」全世界敬服。ユダヤ人は大いに恥ず。(マルクスの頭文字が馬なのを牛でもじって罵る。マルクスもウシクスもへったくれもあるかの意か)
 新詩「(葬式の)泣き女の嘆き」が流行。
 茶店、風呂屋、駄菓子屋などがみな「現代評論」の寄託販売開始。(今なら
  さしずめ、漫画喫茶、サウナやマックに寄託。場違いの感を皮肉るか)
 アカは完全に消滅。アナーキズムは498年後に実施予定。
(本文に日付なく、出版社注には28年1月発表)

訳者雑感:
 ここで魯迅は具体的な人名を推定できる予言をしている。人民文学出版の注に依れば、経済学者とは後の「人口問題」で有名な馬寅初(1882―1982百年)、
「古今史疑大全」は彼がアモイ、広州で争った顧頡剛の「古史弁」の由。
 私は彼の「中国史学入門」を精読して翻訳した。本ブログの2010年8月ころ
その一部に触れているが、彼の中国古代史を「疑って」見直すことと、魯迅の「世故」には共通するものを感じる。その一方で蘇州の名士として北京大学卒の学者、胡適との親交などは、紹興の没落家族(かつては名家)から日本留学、それも仙台医学学校中退で、所謂有名大学の学位とかとは縁のない魯迅。魯迅の(必要なことしか記さぬという)「日記」の1926年9月8日に、(アモイに着任後すぐのころ)顧頡剛より宋濂(れん)の「諸子弁」一冊贈らる。とある。アモイ大学に同じころに招かれていたので、先に来ていた顧が本を持って歓迎の挨拶に来たようだ。それが数カ月もせぬうちに、魯迅の言葉によれば、名士学者らに仲間外れにされてアモイを去ることになるほど険悪になってしまった。
 「文人相軽んず」というのも中国の伝統ある「世故」であり、蘇州と紹興と
いうのも呉越の古都であり、二千年以上の仇が20世紀にまで脈々と伝わっているかのようだ。
 ウマがあわない、とかそりがあわぬ、ということもあろう。しかし二人とも
古代を疑い、現在を疑うという点は共通しているように見受ける。
私は顧氏の自伝「古史弁自序」の毛筆手書き原稿の影印本を2回ほどペンで書き写した。中国語と習字の勉強に大いに役に立ったと思っている。孟姜女の
物語の中国各地への伝播、変化など大変興味深いものがある。
 2011/04/14訳




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いわゆる「内閣文書」について

「内閣文書」とは清朝の内閣に三百余年積み上げられ、孔子廟に十余年置かれたが、誰も一声も挙げなかった品物。歴史博物館が残余の文書を紙屋に売却、
紙屋が羅振玉に転売、羅振玉が日本人に再転売したもの。それであたかも国宝でも喪失したかのような大騒ぎ。国の命脈もこれと道を同じくするかのようであった。数年前、何人かの議論を読んだが、覚えているのは、金梁が「東方雑誌」に、そして羅振玉と王国維が随時感慨を発表したことだ。最近でた「北京半月談」の「文書の売却」は蒋彝(い)潜氏の書いたもの。
 彼らの議論はあまり正確とはいえない。金梁はもともと駐防旗人で早くから、
排漢を主張していたし、民国以後は遺老となり、凡そ民国のすることは、当然ながら全て憎むべきことと考えていた。羅振玉も遺老でかつては、国門を見ることはもうしないと誓いを立てていたが、後にはしばしば北京天津間を往来し、今の人は古いものを大事にしないと痛責し、いこじになって骨董を外人に売り、彼の書いた跋を見ただけで、その「宣伝臭」が鼻につき「何を言わんとするか」がすぐわかる。唯一王国維は既に入水(自殺)し遺老生活を終えており、まじめな人だが:彼の嘆息はいつも羅振玉と同じ鼻孔から出ているが、出てきた気に真贋の違いはある。彼のまじめさは、サンドイッチのハムのように、つねに広告のサンドイッチのパンに挟まれてしまった。蒋氏は例外で、遺老ではないがただ少し感傷的だから羅振玉等に騙されたのだ。考えてみれば、彼は日本人に売ろうとしたら、これは宝物ではないと言いますでしょうか。
 では果たして、価値がないものか?価値のないものなら、私も買おうとし、君も買おうとするだろうか?誰しもが疑問を持つことと思う。
 答えは:はいそうです。でも違いますだ。これはまさしく没落名家の紙くずで、価値があるとも言えるし、ないともいえる。紙くずだから無用だが:没落名家のものゆえ、価値あるものも混じっているかもしれぬ。ましてやここで所謂価値の有無はそれぞれの人の見かたで違うし、わが住まいの近くのゴミ箱の中は、住人が捨てた無用のものだが、朝いつも竹かごを背負った人が何人もそこからひとつひとつ、一個ずつ何かを拾ってゆく。まだ有用なのだ。いわんや現在皇帝はまだ尊ばれてもおり、仮に「大内裏」に何日か置いておくとか、
或いは「宮」の字をつければ、すぐまた別の目で見てもらえるのだ。これはそう言っても信じてもらえないかもしれないが、民国になった今としてもそうだ。
「内閣文書」なるものは「朝廷の典故」に詳しい遺老に依れば、彼が「朝廷」時に、内閣に積まれた乱紙で、多くの人は燃やして捨てようと主張したが、彼の努力の結果、保存されてきたもの。ただ彼の朝廷が退位し民国元年に私が北京に来た時には、それらは八千個の麻袋に入れられ、孔子廟の「敬一亭」に置かれた。確か亭の半分ほどを占めていた。その時、孔子廟に歴史博物館準備所が設けられ、所長は胡玉縉氏だった。「準備所」とはいえ、そこにはなんら
「歴史博物」の意味はなかった。
 私は教育部にいたため、麻袋と少し関わりができ、この目でそれらの昇沈と
隠顕を見た。腹の立つことやおかしなこともあったが、大抵は小さなことだった:後になって外部の議論によりいろんなことが起こり、何がしかを記して、私が目にしたことを叙したくなった。が、肝が小さいので、数名の権勢家に関連するため、筆をとれなかった。これも私の「世故」で、中国では民族や国家、
社会や団体…を罵るのはなんら問題ないが、個人名や姓を出してはダメだ。広州のある雑誌に、私はただ狆を打つだけで、軍閥を罵らない、という記事がのった。彼らは私が狆を罵っただけで、北京から逃げ出さねばならぬ羽目になったことをご存じないようだ。軍閥ならどんなに罵っても、誰が構うものか。軍閥は雑誌など見ない。狆に臭いを嗅がせ、狆の候補者に吠えさせる。あれ、又話があらぬ方向に行ってしまったから、ここらでやめにする。
 今、南方に寓居しおり、多分何か言っても構わぬし。これらのことは将来多分、他の人が言うとはかぎらぬ。ただし、関係者の面子もあり、本名は伏せ、ローマ字の頭文字で書く。欧化ではなく、「悪を隠し、善を掲げるのでもない。
只、害を身から防ぐため」これも我が「世故」で自分が南方にいて彼らが北方で或いは所在を知らぬから見くびっているとは思わないで欲しい。彼らは突然君の前に勢力を以て現れることあり、神出鬼没だから。そうなったら自分ながら何が何だかわけもわからないほど狼狽してしまうだろう。それゆえ穏当にしていなければならぬし、何も言わないのが最善。だが今「折衷」して、言わぬのでなく、言いつくさずにローマ字にする。それでも妥当でないというなら、
天命を待つほかない。上帝よ、わが魂を安んじられよ!
 これらの麻袋は敬一亭に置かれたとはいうものの、歴史博物館準備所の胡玉縉所長は日夜、用務員の放火を心配した。なぜか?この話をすると長くなる。
所謂「国学」の関係者は大抵知っていることだが、胡さんは南菁書院の優等生で、旧学を深く研究しているだけでなく、前朝の掌故についても博識で、清朝の武英殿に一式の銅活字があったのだが、後に宦官たちが彼も盗み俺も盗む、
盗むも「亦たのしからずや」となり、王爺たちが検査に来た時、放火したことを知っていた。もちろん武英殿も無くなったから、銅活字がどれだけ無くなったかなど問題にもならない。不幸にも敬一亭の麻袋も、しばしば減っているようで、用務員は国学者でもないから、中の宝物を地面に放り出して、麻袋だけを持ち出して銭にした。胡さんはこのことから、武英殿の失火の故事に思い至り、麻袋がたくさん無くなった後、敬一亭も例の如く焼かれてしまうのではと
大変心配し:教育部と、どこかへ移すか整理、廃棄の方法を相談に行った。
 本件の主管は社会教育司で司長は夏曾佑氏。「国学」関連の人はご存じの人。
彼の別の論文を見るまでもなく、彼の編集した「中国歴史教科書」さえみれば、彼が中国人をどのように見ていたか明解だ。彼は中国の一切のことは万に一も
「弁」じられぬ:即ちこの文書も、自然に放置すれば腐り、カビがはえ、虫が食い、盗まれるわ、放火されておしまいになる:もし手を加えてなにか「弁」ぜんとすると、世論沸騰し、手がつけられなくなる。その結果「弁」ぜんとした人は、衆矢の的となりデマ讒言誹謗などを受け、どんなに説明してもおさまりがつかなくなる。だから彼の主張は「これは絶対動かしてはならぬ」だった。
 この二人の掌故の達人の「弁じよう」と「弁ぜぬ」の老先生は、これによってそれぞれの気持ちを知り、話は続けながら、ハハハと笑って引き延ばしてしまった。それで麻袋は安穏に十余年、命長らえた。
 今回F先生が教育大臣となった。彼は蔵書と「考古」の名人。彼はきっと麻袋には価値ある宋版本――「海内孤本」があるという噂を聞いたのだろう。この種の噂はしょっちゅうある。私も以前から、妃のだれそれの刺繍の靴があるとか、何とか王の頭蓋骨もあるなどと聞いたことがある。ある日、彼は私とG主事に麻袋を見てくるよう命じた。即日20個の西花庁に運んで、我ら二人は塵と埃にまみれた宝物を見た。大半は賀表(祝賀文)、黄綾の封で、価値があるともいえるが、多すぎて何の珍奇さもない。奏文、小刑名の案件が多く、半分は満州文字、半分漢字で、特別なのは数件だけだが、とにかく多すぎていやになった。殿試の答案は一本もなく:他に何箱かあったが、もともと教育部にあり、
すべて二三甲の答案で、優秀なものは清朝のころに盗まれており、状元のものなどいうまでもない。宋版本はあるにはあったが、半ば破れ、腐り、何枚かは
破られていた。清朝の黄榜(ぼう)や実録の稿もあった。朝鮮の賀正表も一枚あったと記憶する。
 我々はその後また2日見たが、麻袋の数ははっきり覚えていない。奇怪なのはこの時欧米教育の考察で誉れ高いY次長、ほら吹きで有名なC参与が突然
考古家になった。彼らのF大臣はいずれも「読みて忘れぬ」ほどとなり、塵と埃の中で、故紙の周りから離れなかった。凡そ我々が検査した卓上のものは、彼らがかならず手にとって、ちょっと見せてごらん、とあいなった。返されたものは往往、元より減っていて、天にいます上帝よ、それは本当なのです。
 きっと数葉の宋版がそうさせたのだろう。F大臣も大挙して整理に乗り出してきて、部員数十人を別途派遣した。幸い私はその選に入らなかった。その時歴史博物館準備所は、午門に越していて、所長もとうにYT氏に代わっていた:
麻袋は午門の上で整理された。YTは旗人で北京語がとても流暢だったが、文書の方面は従来あまり語らなかったが、奇怪なことに彼もついに忽然考古家に変じた。この方面に大変興味を持つようになった。後に、宋版の「司馬法」何とかを珍蔵するまでになり、惜しいことに角が欠けていたので古い紙で補修した。
 当時の整理方法はもうあまり覚えていないが、要は「保存」と「放棄」に分け、「有用」と「無用」に二分した。それで数十人の部員が毎日塵埃と故紙の中に出没し、ようやく完了。何日間出没したか覚えていない。「保存」の分はその後大部分を北京大学に分けた。その他は博物館に残した。不要なものは当時、
午門の楼上に放置のまま。
 ではこれら不要のものは本来失火防止のために破棄すべきなのだが、それがそうならなかった。教科書編集をした「高等官僚」の指示で、そんないい加減に扱ってはならぬ。数十名の部員を派遣して処理すべし、となり、もし後になって禍が出たら、彼らに責任をとらせ、大臣には累が及ばないようにする。只
畢竟、一つの部であり、外部でいろいろ言いだすと、指摘したのは某部となり、某部の誰それではない、とかなんとかで、やかましくなった。只「部」ということになれば、大臣も無関係ではいられなくなるわけだ。
 そこで弁じだすとなると、各部から人を出させて、立会の下で再検査となる。
こうした公事は迅速で2週間もせずに各部から2-4名出してきた。その多くは最近外国から帰国した留学生で、斬新な洋服を着ていた。それが大勢であれこれ埃と廃紙の間に入り込んだ。しかし奇怪なことに何名もの斬新な留学生も又
忽然考古家に変じ、破れてぼろぼろになっていた紙や絹切れを洋服のポケットにねじ込んだ。――これは伝聞であって私が見たわけではないが。
 この種の儀式が済めば、万一後患が生じても、各部は連帯責任を負わねばならず、局外で無責任なことは言えぬこととなった。それから午門楼上の空気は
もう以前のような緊張はなくなり、山のような故紙だけが寂として地面にうち捨てられ、時に1-2名の用務員が長い棒でがさごそかき回して、黄綾の表籤
や彼らの欲しいものを拾っていった。
 それでこうした不要なものは失火防止のために破棄しても良いはずだが、答えはNo.で、F大臣は「高級官僚学」に詳しいから、万が一にも焼いてはならぬと知っていて、一度焼いてしまうと、すぐ宝物に変じてしまい、正に人が死ぬと、訃報にはすべて第一等の人物になるのと同じだ。いわんや彼の主義は本来、
火事を避けることではないから、これ以上なにも構わなくなり、続いて彼も
「下野」してしまった。
 これらの故紙はそれ以後誰も触れなくなり、歴史博物館が自ら売却した後、またぞろ神秘な風波が巻き起こった。
 私の話はもう煮詰まった感がする。どうやらこの残った故紙には何も宝物はないようだ。それでは外部でびっくり仰天するような唐画や蜀石経、宋版などは一体どこから出てきたのか?きっとそんな質問が出てくると思う。
 それはこういうことだと思う。残った故紙にも多分何がしかの物があったにちがいないが、蜀刻とか宋版があったとはいえない。それは皆で注意して捜索したのであるから。今価値ある品が次々出てくるのは、一つには先に権勢家が盗み出したもので、本来は人に見せられないものだが、今になって公表の機会を得たもの。二つには多くの贋の骨董が8千個の麻袋という看板をかけて、市に出回ったもの。
 又、蒋氏は国立図書館は「五六年来ずっと今まで、勝ったり負けたりの戦争のたびに持ち去られたり、壊されたものが多い」と考えているようだが、そうとも限らぬ。元年から十五年までの戦争で、図書館は被害に遭ってはいない。
袁世凱が帝を称した時、何日か皇室から攘奪されそうになったが、幸い難を免れた。その厄運は良書は権勢家に類似の書とすり替えられ、長い年月の間にすべてが取り換えられていたことによるが、もうここではこれ以上それに触れないでおこうと思う。
 中国の公共のものの保全は実に容易なことではない。当局者が門外漢ならなおざりにされるし、専門家なら全て偸みとられる。このことは単に書や骨董に留まらない。    1927.12.24.

翻訳雑感:教育部の役人として自ら関わった清朝の「内閣文書」をめぐる中国の権勢家とその周辺の取り巻きたちの行動が手に取るように分かる面白い話だ。
日本でも本来一つの巻物であった三十六歌仙の絵巻が、一つずつに切られて、
行方知れずになっていたり、正倉院の宝物の一部が、戦国前後の将軍に持ち去られていたりするから、これは世界共通のことではあるが、さすが歴史と伝統の厚さが違うと感心させられるのは、魯迅が最後のところでこれ以上触れないでおくという、全ての書が贋物にすり替えられていた、ということ。それが本物と見分けがつかぬほど巧みに模造されていたことだ。中国語の「造」という漢字はまさしく贋物をつくる意味で、中国に暮らしている時、曹操の墓が発見されたとか、いろいろな事件が報じられたが、私の知人は「あれらは大半が造で、それによってその場所を観光地として売り出すためさ」という。
 北京の瑠璃廠にはそうした「造」されたものと「本物」が入り混じっており、
上記の故紙ではないが、戦前、多くの日本人が本物と信じて高い金を払っていったと笑い物にされている話を何回も聞いたことだ。
 2011/04/13訳
 




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文芸と革命

文芸を擁護したい人は、革命地方で常に「文芸は革命の先駆者」というのを好むようだ。
 これは疑わしいと思う。外国ではそうかもしれぬが:中国の特別の国情からいえば、例外というべきだ。そうした国情を下記して同志に訊きたい。
1.革命軍。 まず先に軍があってはじめて革命ができる。すでに革命がなされた所は全て軍が先に来る:これが先駆者。将軍たちは少し遅れるかもしれぬが当然彼らも先駆者なのはいうまでもない。(その前に青年が潜入し宣伝し、或いは労働者が地下活動で支援したりするが、それらの人たちは大抵すでに死んでしまい、調べようもないので、ここでは論じないでおく。)
2.人民代表。 将軍たちが到ると、人民代表は駅に集まり歓迎し、国旗を手にスローガンを叫び「革命の気は大変濃厚になった」という。これが第二の先駆。
3.文学家。 そこで革命文学とか民衆文学、同情文学、飛翔文学、などが登場する。偉大で光明に満ちた期刊誌も出てきて、革命を指導する:これが――残念ながらそれでも構わぬ――第三の先駆。
 外国では革命軍が起こる前、迫害されて国外脱出したルソー、辺境に流されたコロレンコ…がいた。
 しいて楽観的に見たいというのならそれもいいかもしれぬ。というのも我々がいつも耳にするのは、所謂文学家が国を出るという記事を新聞で見るし、宣伝広告も目にする。詩や散文で見たりするから。まだ行動に移る前でも、「将来
学成り、帰国したら、大変素晴らしいことをしてくれるであろう」という予感を与えてくれるから。希望は誰しもが持ちたいものだ。
     12月24日夜0時1分5秒 (どういう意図で秒まで書いたのか?)

訳者雑感:
 魯迅は別のところで、革命軍の兵士として「起義」に参加して亡くなった無名の人たちの尊い命を弔う文章を書いたのちに、むやみやたらに行動を起こして犬死することのないように、との言葉を書いている。これは彼の文章を読むであろう文芸擁護者、文芸に携わる者へのメッセージであろう。
 しかし、また同時に文芸の役割は大変重要で、犠牲になった人たちの名は
忘れられても、文字で記録されたものは残る。文芸の役割はその意味で、第三の先駆にしか過ぎないが、それが無ければ、第一、第二の先駆の行動を誰もしることができないだろう。従軍記者、日露戦争などでの外国人記者などの文章や絵がなければ、「坂の上の雲」も書けなかったであろう。
2011/04/08訳

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文学と汗

上海の文学教授が、文学は永久不変の人間性を描かねば、永続しないという。
英国のシェークスピアやその他の一二名の人の作品に描かれた永久不変の人間性は、今日まで伝わっているが、他の作品のそうでないものは全て消滅した由。
 これは誠に、「貴方の話を聞く前は、まだ分かっていたつもりだったが、貴方の話を聞けば聞くほど分からなくなる」というものだ。英国の過去の文章で、伝わらなかったものはきっと多くあると思うが、永久不変の人間性を描かなかったために、消滅してしまったとは思えない。
 今、そうしたことがあったということが分かったとしても、それらが既に消滅したというのは解せないことだ。今現在、教授はどのようにしてそれを見たのか?そして突如それらの作品が永久不変の人間性を描いていないと断定できたのか?
 伝わってきたものが良い作品なら、消滅したのが悪い作品であれば:勝てば官軍、負ければ賊軍。中国式の歴史論には違いないが、これは中国人の文学論にも通じるものなのか?
 そして人間性は永久不変なりや否や?
 類人猿、類猿人、原人、古人、今人、未来人…、生物が本当に進化するなら、人間性も永久不変ではありえない。類猿人はさておき、原人の性格すら我々には推測もつかない。我々の性格も未来の人が理解できるとは限らぬ。永久不変の人間性を描こうとするのは、実に難しい。
 汗を例にとると、これは昔からあり、今もあるし将来も暫くはきっとあるから、比較的には「永久不変の人間性」と考えてよいと思う。だが、「風にも耐えぬ」娘の流す汗は香り高い汗で、「牛の如くむくつけき」労働者のは、臭い汗。
もし長く世間に残る文学を書こうとしたら、世間に長く留まる文学家でいたいなら、香り高い汗が良いか、臭い汗が良いか?この問題を解かないことには、将来の文学史上の位置は実に「岌岌(きゅうきゅう)として殆(あやうき)かな」となる。
 英国の小説はそもそも奥方や令嬢たちのために書かれたもので、香り高い汗が多いのは当然で、19世紀後半にロシア文学の影響で臭い汗がいくらか出てきたそうだ。どちらの命が長いか、今はまだ分からない。
 中国では道士が道を論じるのを聞き、批評家が文学の批評を聞くと、毛穴が痙攣をおこし、汗も出てこなくなる。しかしこれも多分中国の「永久不変の人間性」なのだろう。     
 27.12.23.

訳者雑感:永久不変という4字のついた人間性なるものはあり得ない、というのが本論の趣旨か。古典といわれる作品は、読む者に感動と喜びを与え続けてきたゆえに、古典なのであろう。
 先日の「ゆとり教育」からの変革で、中学の教科書に漱石鴎外の作品が復活することになった、と報じられていた。
 もちろん戦後の作品にも我々を感動させるものが多くあるが、まだ長い年月を経て、鑑賞に値するかいなかのリトマス試験を受けていない。それとの比較で、百年前の明治の作家たちが懸命になって書いた作品は、何回読んでも、都度新たな感動を呼び起してくれる。人間性をしっかり描いているからと思う。
それが永久不変とは決して思わないが、彼らの作品に描かれた主人公たちの人間性は、我々の心に何かを訴え続けている限り、消滅したりはしないだろう。
 だが、それらの作品が教科書からも消え、図書館からも消えて次世代の人々が手にすることが難しくなったら、消滅してしまうことだろう。
      2011/04/07訳

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ルソーと彼の説がお口に召すか

 「民約論」を書いたルソーは、死ぬ前から叱責と迫害を受けていたが、今なお非難ごうごうである。「民約」とは何の関係もない中華民国でも同様だ。
商務印書館の「エミール」の中文訳で「… 本書の第五編の女子教育で彼の主張は徹底していないだけでなく、女性の人格も認めていない。第四編までの
人間尊重と矛盾している。…従って今日からみると、彼の人間に対する正当な主張は半分だけに対してだと言える…」
 だが復旦大学の「復旦旬刊」創刊号の梁実秋教授の意見は「いささか異なる」
実は「いささか」などというものではなく、「ルソーの教育論」は正しい所は一つもなく、女子教育を論じた部分だけは精確で正しい」という。それは、「男女の性質と体格差に基づいているから」とする。近代生物学と心理学の研究結果、世の中に差異のない人間はいないことが証明されたから、という。
 人を見てどういう教育すべきかを考えるべきであるから、と梁氏は言う:

『私は“人”という字は根本的に字典から永久に削除すべしと思う。又は政府が永久に禁止すべきだ。“人”という字の意味はたいへん曖昧だから。真に聡明な人も人といい、牛のごとく愚鈍な人も人という。風にも倒れそうな女性を人といい、粗大で強い男も人という。人間の中の三流九等、一人として人でないものは無い。近代デモクラシーの思想や平等観念の起源は人間の差異を認めぬことから起こった。人格とは抽象名詞で一人の人間の心身両面の特徴の総和である。人の心身両面の特徴に差異があるから、人格も又差異がある。いわゆる
人格を侮辱するというのは、一人の特有な人格を認めぬということ。ルソーは女子には女子の人格を認めたから、彼は女子の人格を正しく尊重した。女子特有の特性を抹殺することこそ女子の人格を侮辱するものだ。』
 そして次のごとき結論を得る。
 『…正当な女子教育は女子を完全な女子にするべきだ』

 それならば、いわゆる正当な教育者は「風にも倒れそうな」者は完全に「風にも倒れそうな」者にさせ、「牛のごとく愚鈍な」者も完全に「牛のごとく愚鈍な」者にしてこそ、各人(この字はまだ字典から永久削除されていないし、政府が永久禁止するまで暫く使う)の人格を侮辱することから免れる。ルソーの
「エミール」前四編の主張はそうではない。その中に「一つとして是とするところは無い」というのは疑いないことだ。
 ただ、このいわゆる「一つとして是とするものはない」というのも「特に聡明な人」に対して言われることで、「牛のごとく愚鈍な人」に対しては「正当」な教育だ。それはこの議論を見れば彼を徐々に完全な「牛のごとく愚鈍」に近づけさせるからだ。これも彼の人格を尊重することだ。
 しかるにこの議論は完結しない。なぜか?一つにはたとえ「自然の不平等」を知っていても、真の「自然」と「徐々に蓄積された人為的で自然に似た」ものを区別するのは容易ではないからだ。二つ目は、凡そ学説なるものは往々にして「自分の口に合うものはこれを容れ、且つまたそれを宣伝するから」だ。
 上海の一隅で、2年前アーノルドが大いに論じられ、今年はバビットが論じられたが、多分それらも口に合ったがためだろう。
 多くの問題は「口」から生じ口の差が正に「人」の字と同じで、――実は
この2字も政府に「永久禁止令」を出してもらうべきだが、米国のUpton SinChairの文章を引いて、別の人の人格を尊重するとしよう―。
『ルソーを批評するものは誰であれ、まず解決せねばならぬ一つの問題に直面する。彼になぜ論争を挑むのか?彼の到達点たるあの自由平等協調のために、道を切り開けるか?ルソーの世界に発した新思想と新感情の激流を恐れるか?
父となる労をとった個人主義運動全体に対して懐疑を持ち、我々に対して、子女は父母に服従し、奴隷は主人に、妻は夫に、臣民は教皇または皇帝に服従し、大学生は疑問を一切抱かずに教授の講義に敬服するという善良な古代に戻るのが、君の目的なのか?
 「アイ―夫人曰く:“最後の一句はバビット教授への一矢の如し”」
 「奇怪なり」彼女の夫はいう。「この人もこの姓なり…」
 「それはきっと上帝の審判だろう」 』

 原文の趣旨と合致するかどうか分からぬ。日本語からの重訳だから。書名は「Mammonart」カリフォルニアのパサデナで作者が自費出版したもので、口に合いそうな人は一読ください。Mammonはギリシャ神話の財神、artはご存じの芸術、「財神芸術」と訳せる。日本語では「拝金芸術」でそれも可。この字は作者の造語で政府はまだそれを公布していないし、字典にも載っていないだろうから、ここに注釈を加えておく。 
(27年)12.21.

訳者雑感:
 この文章を読むと、臣は臣たれ、君は君たれ、という儒教の教えを思いださずにはおれない。また私たちの小学時代の道徳の教科書で昔の先生が、女の子は女らしく、男の子は男らしく振舞わねばならない。そのようにしつけるのが
学校での教育だ云々。そして中学時代には女子は家庭科で裁縫を学び、男子はその時間に木工とか金工という職業技能教育を受けたりした。
 ルソーに対する評価というのは、彼のその後の個人的な生き方にもかかわってくるが、かまびすしいものがある。    2011/04/06訳

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